岩田温の備忘録

政治学者岩田温の備忘録です。

自民党総裁の任期延長は時代に相応しい制度改革だ

 自民党の幹事長に二階俊博氏が就任して以来、一体、どのような動きがあるのだろうと、興味深く観察してきた。だから、二階氏本人が安倍政権、政治の在り方について、率直に思いを綴った『月刊 Hanada』の記事を大変興味深く読んだ。
 
 「ポスト安倍は安倍しかいない」というタイトルから明らかなように、二階氏は自民党の総裁任期の延長を目指して動くつもりのようだ。こうした動きは、時代に相応しい制度改革として、歓迎したい。

 私は、かねてより、一国の総理大臣の地位が総裁の任期という「政党の論理」に自動的に従わざるを得ないことに反対だった。国民からは支持され、余人を以て代えがたい総理とみなされている総理が、「総裁の任期」という「政党の論理」で総理の座を降ろされ、国民が参加するセ総選挙を経ることなく総理大臣が選ばれることへの違和感があった。これは、要するに中選挙区時代の仕組みとしては相応しいものであっても、小選挙区時代の仕組みとしては相応しくないと考えていたからだ。

 小選挙区制の選挙は、次の総理大臣が誰になるのかを国民が選ぶところに醍醐味がある。だから、どうしても個々の候補者よりも政党の代表、政党名が優先されることになってしまうという欠点を持つ。だが、いずれの選挙制度にも瑕疵はある。小選挙区制の選挙の最大の醍醐味を台無しにしてしまうのが、政党の代表任期の問題ではないだろうか。小選挙区制の総選挙において国民から選ばれたわけではなく、政党の論理で選ばれた総理は、総理としてふさわしいのか、国民からは不信の目で見られがちになるのは致し方ないだろう。出来るだけ、総選挙で総理候補として戦った与党の党首が総理大臣になるのが小選挙区制度の下では相応しい。
 もちろん、議院内閣制なのだから、政党の論理がすべて否定されるわけではない。途中で総理に相応しくないとされれば、政党の論理で総裁を交代し、新たな総裁を選出することがあっていい。その際、新総裁が国民に受け入れられるか、否かは、わからない。だが、明らかに国民、党員から支持されている総理が「総裁の任期」という杓子定規な「政党の論理」のみで総理を辞さなくてはならないという仕組みには、納得がいかない。
 果たして、自民党が総裁に関する規定を変更するのか、二階幹事長の動向に注目が集まる。


 

自民党の一強状態は決して最良の状態ではない

 多くの国民が選挙の際、自民党に投票するのは、「自民党に何かを期待している」という意味での積極的投票ではない。「自民党以外に投票すべき政党がないから、自民党に投票する」という消極的投票が多い。その証拠に、東京都知事選挙では自民党が擁立した候補が敗れた。何が何でも自民党を支持したいという層はそれほど厚くない。
 だが、政党支持率をみても自民党が一強状態が続いている。いったい、これはどういうことなのか。
 簡単に言えば、野党がだらしない、ということに尽きるのだが、この自民党の一強状態が決して日本にとって最善、最良の状態ではないと警鐘を鳴らす好著が出版された。池田信夫氏の『「強すぎる自民党」の病理』(PHP新書)だ。
 池田氏の主張は明快だ。
 現在の日本政治の状況を「老人の老人による老人のための政治」であると喝破する。私自身も老人による若者虐めに等しい現状を嘆く一人なのだが、こうした事実を指摘すると、逆に老人虐待をするのか、といういわれなき批判を受ける。
 だが、現実は若者にとって過酷だ。詳細は本書に譲るが、政府サービスや社会保障と負担の差ひとつとってみても、若者は絶望的な気分に陥るはずだ。今の60歳以上では受益が負担より生涯で5000万円多いのに対して、今年生まれる赤ちゃんは負担が受益より5000万円多い。要するに現在の社会保障制度を維持し続ければ、今の60歳以上の老人に対して、今年生まれる赤ちゃんの生涯所得は1億円も少なくなるのだ。
 生まれた年代が違うだけで、一億円も格差が生まれるのは、異常な事態ではないのだろうか。
 しかし、この現状を正そうとする現実的な政治勢力は存在しない。
 その原因の一つは自民党が「日本型ポピュリズム」を具現化した政党に他ならないからだ。「バラマキ」を前提とした政治で、官僚を交えたボトムアップで合意形成を図り、責任の所在がはっきりしないシステムだ。増税のようなリスクを伴う決断を先送りにし、全会一致をよしとするシステムだ。
 こうした日本型システムの覇者が田中角栄だった。彼は、左派の目的であった労働者を豊かにするという目的を自らの目的とし、積極果敢に目的を実現し、さらに、福祉社会政策まで導入してしまった。だが、高度経済成長の時期にはうまくいった田中型システムも時間の経過とともに、天下りの温床、バラマキ政策となってしまった。
 こうした政策を本来であれば、野党が正さねばならなかったはずだ。しかし、、社会党は自民党と地下の部分で繋がっており、表面的に突拍子もない安全保障政策を掲げて自己満足するだけで、具体的には何もしなかった。
 小沢一郎の挑戦、小泉純一郎の官邸主導。民主党の政権交代・・・。それでも、日本の政治は変わったとはいえない。むしろ混迷を極めたの観がある。
 本書の中で最も面白かったのは、筆者が小沢一郎へとインタビューした際の逸話だ。
著者は問う。
「今でもグランドキャニオンの柵のような考え方は同じか?」
「まったく同じだ」
さらに小沢は言った。
「55年体制では自民党と社会党は地下茎でつながっていて、国会が止まったりするのは芝居。すべて実質的に全会一致だった。そうでなければ自社の連立政権なんかできるはずがない」

「そこまでわかっていたのなら、どうして自社連立に裏をかかれたのか?」

「あそこまで節操がないとは思わなかった。私も若かった」

筆者はこの誤算が「決定的な失敗だった」というが、同感だ。

また、小沢はこのとき次のように語ったという。

「オヤジ(田中角栄)も金丸さんも『足して二で割る』名人だったが、今はそれではやっていけない」

「昔は利益の分配をするのが政治の役割だったが、今は負担の分配をしなければならない。平等に引き算したら全員が文句を収拾がつかなくなるので優先順位をつけて切るしかない」

 見識ある主張だと言ってよい。
 だが、自社の連立を「あそこまで節操がない」と非難していた小沢だが、周知のように、今や共産党とまで手を握るほどまでの零落ぶりだ。

筆者の提言が興味深い。

「いっそ二〇年前の原点に戻って、徹底的な財政再建の鬼として霞が関を敵に回して『西南戦争』を挑んだほうがいいのではないか。最後は西郷のように散るとしても」

現在の問題を分析するために戦後史を振り返る本書の試みは面白い。

「国民はボケてます」?鳥越俊太郎氏にだけは云われたくない!

 私はスポーツに興味がないから、オリンピックは見ていない。しかし、ニュースの記事で読んで素晴らしいとおもう出来事があった。
 体操男子個人総合で金メダルを獲得した内村航平選手に、記者が審判が随分と好意的だったのでは、という意地悪な質問をした際に、銀メダルを獲得したウクライナのオレグ・ベルニャエフ選手が「採点はフェアで神聖なもの。今のは無駄な質問だ」と一蹴した一件だ。負けた直後に勝者を褒めたたえるという行為は、素晴らしいことだが、なかなか出来ることではない。このベルニャエフ選手は敗れはしたが、人間の品性の気高さを世界に示すことになった。実に清々しい思いがした。

 ところで、こういう清々しい立派な若者に比べて、自らの非を認めようとせず、あまつさえ、国民を罵る老人が日本に存在していたことは、日本国民の一人として恥辱の極みであった。

 東京都知事選挙に落選した鳥越俊太郎氏が「ハフィントン・ポスト」で、敗因について語っているのだが、ベルニャエフ選手の爪の垢を煎じて飲ませたいとしか思えない、支離滅裂、出鱈目な対応だった。

幾つか驚いた言葉を引用してみたい。


ペンの力って今、ダメじゃん。全然ダメじゃん。力ないじゃん。だって安倍政権の跋扈を許しているのはペンとテレビでしょ。メディアが肝心のところを国民にちゃんと訴えないから、こうなるんでしょ。僕はペンの力なんか全然信用していません。だから、選挙の中で訴えるという一つの手がある。そう思っている。

 これは、本来であれば、自己否定以外の何ものでもないだろう。ペンとテレビで報道し続けてきた鳥越氏は、自分自身を「ダメじゃん」といっていることに気が付いていないのだろうか。
 私はこの鳥越氏の見解には全く反対だ。ペンの力もテレビの力も存在している。だから、非力な私も本、雑誌、ブログに文章を書くのだ。この文章が日本の誰かに読まれ、もしかしたら、何か好ましい影響を与えてくれるかもしれない。そういう思いがなければ文章など書けはしない。テレビの出演も同じことだ。私は鳥越氏ほどテレビに出演しているわけではないが、声がかかれば、出来るだけ日程を調整して出演するようにしている。それは、メディアを通じて、何らかの意見を発信したいと思うからであり、発信した以上、受け止めてくれる人がいるであろうと信じているからだ。
 仮にペンを信用せず、メディアがダメというならば、鳥越氏は文章も書かず、テレビに出演しなければいいだけの話なのだ。自分のメッセージが通じないとして自らの非力を反省するならともかく、ペンやメディアを否定して、自分だけは正しいと居直るような姿勢は傲慢であり、敢えて言えば、間違っている。


ネットは出ていないね。ニコ生とかは「出なきゃいけないメディア」と考えるかどうか。それは判断の分かれるところ。僕はニコ生は基本的にメディアとして認めていない、悪いけど。あんな文字がどんどん画面に出てくるようなところに出たくないですよ。あんなのおかしいじゃないですか。

ネットにそんなに信頼を置いていない。しょせん裏社会だと思っている。


 率直に言えば、おかしいのはニコ生ではなくて、鳥越俊太郎氏の感性である。文字がどんどん画面に出るというが、嫌なら、文字がでないようにしてみればいいではないか。メディアはテレビと新聞だけで、それ以外のネットは「裏社会」だと言ってのける無神経さには恐れ入る。多くの国民は、テレビ、新聞だけでなく、ネットからも情報を得ようとしている。確かにネットの情報は玉石混交といってよい。だが、テレビや新聞が「玉」ばかりかといえば、そうでもあるまい。その証拠に、どう考えても「玉」とは思えない「石」の象徴のような鳥越俊太郎氏がテレビに出演しているではないか。
 日がな一日テレビで鳥越俊太郎氏やそのお仲間の話を聞く人より、ネットで情報を検討してみようとという人の方が、よほど常識的な人だと、私は思う。



僕は何も知らない。スケジュールまでは管理してないんで。おそらく民進党の選挙のプロがいて、その人が街宣の場所を考えていたんだと思いますよ。「ハイ、鳥越さんこれが明日のスケジュール」って渡されるだけ。「どこへ行きたい」とか、そんなのはないの。

 政治家は官僚の言いなりだ、云々と威勢のいい批判を繰り返してきた人が、自分の日程一つ決められなかったというのだから、話にならない。全部他人任せで、自分は知らない。このインタビューを読んでいると鳥越氏は自分自身を悲劇の主人公だと思っているような節があるかもしれないが、冗談ではない。三文喜劇の道化、それが鳥越俊太郎氏に他ならない。知らぬ存ぜぬの「バカ殿」といった役回りだろうか。



今の国民ははっきり言うと、ボケてますよ。私に言わせると。

 誰もが思ったはずだ。あなたにだけはいわれたくないと。「昭和15年の生まれです。終戦の時二十歳でした」などとどう考えてみてもおかしな発言をしたとき、この老人は「ボケて」るのだろうか、と思ったひとが多かったはずだ。多くの人は、たしなみとして「ボケて」るとはいわなかった。「健康状態に・・・」と言葉を濁した。自分の年齢すらまともに認識できない鳥越俊太郎氏に、国民が「ボケてます」などといわれる筋合いはない。逆に言ってやろう。
「今の鳥越さんははっきり言うと、ボケてますよ。私に言わせると」



最初「厚化粧」と発言した。たしなめられて、次の街頭演説ですぐに撤回し、謝りました。そのぐらいで票は減りませんよ。


小池百合子氏のことを「厚化粧」と罵声を浴びせた石原慎太郎氏に便乗した鳥越氏の言い訳だ。「そのぐらいで票は減りませんよ」とは、どこまで、女性や有権者を馬鹿にすれば気が済むのだろうか。


今回の都知事選を通じて明らかになったことがある。戦後日本において、「リベラル」「リベラル」と大騒ぎする人たちは、「反知性主義」の虜に他ならなかったということだ。
日本のリベラルが脱皮するためには、鳥越俊太郎的なるもの、すなわち、反知性主義から脱却しなくてはならない。

なお、小池都政に関しては、「小池百合子はマルクスを読むべし!」という一文を書きました。勿論、マルクスの著作とは『共産党宣言』や『資本論』ではありません。今回のような首長と議会との対立についての鋭い論考があります。『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』です。去りゆく鳥越氏はさておき、今後の小池都政の行く末が気にかかるところです。



 

  • ライブドアブログ