メルマガの原稿(『立憲主義とは何か?』)が遅れていて、焦っているのだが、こういうときにこそ、他のことに興味関心が湧いてしまう。我ながら、悪い癖だ・・・(読者のみなさん、ごめんなさい!)。でも、たまたま目にして、驚いてしまったのだから、正直に書いておく。

ツイッターでたまたま目にしたのだが、本日の『南日本新聞』の記事に驚いた。

鹿児島の伊藤祐一郎知事が次のように発言したという。

「女の子にサイン、コサイン、タンジェントを教えて何になるのか」

「サイン、コサイン、タンジェントを社会で使ったことがあるか女性に問うと、10分の9は使ったことがないと答える」

これほど露骨な女性蔑視はないだろう。
 
私の知人に女性で優秀な数学の研究者がいるが、仮に、日本社会が女性は数学を学ぶ必要がないという愚かな偏見を教育の世界に持ち込んでいたのならば、彼女は研究者になれなかったであろうし、彼女がなした研究業績は存在しなかったことになっただろう。日本だけでなく、世界にとって、損な話だし、何よりもその女性が研究者として輝くことが出来なかったという時点で、残酷な話だ。

何を学ぶのかを性別で区別するというのは、極めて愚かな発想だ。

「古来より、それが日本の伝統だ!」と息巻く人もいるのかもしれないが、そんなことを言っていたら、「商人の子に学問は要らない」という愚かな偏見にも与さなければならなくなる。馬鹿げた因習や偏見に囚われることが保守思想なのではない。

そもそもこの知事は学問の意味を分かっていない。女性であろうが、男性であろうが、実社会において「サイン、コサイン、タンジェント」を使っている人は多くない。

別にこれは数学の分野に限られた話ではない。

スピノザの汎神論、江戸時代の寛政の改革、ミラノ勅令、化学記号、ベートーベンの音楽等々、別に何も知らなくても実社会で生きていく上で全く困らないだろう。

実際、この知事とて、知事としてサイン、コサイン、タンジェントを必要としたことなどないだろう。


当然の話だが、スピノザの汎神論を「社会で使ったことがある」などという人は、研究者を除いて、まず存在しないだろう。

だが、学問とはそういうものなのだ。そのほとんどが、実社会でそのまま役立つものではないのだ。

「だから、意味がない」、と考えるのは人それぞれだから、別に結構だが、少なくとも私はそう思わない。何故なら、人は生きるだけではなく、「善く生きる」ことを目標とすべきだ、と思うからだ。

殆どの読書経験も、ハウツー本や観光案内の類の本を除けば、人生にとって直接は役に立たない。

私はドストエフスキーの『悪霊』『カラマーゾフの兄弟』が好きだが、別に実生活に役立ってはいない。しかし、この読書経験が、私という人間の形成に何らかの形で寄与していることは否定できない。恐らく、こうした読書経験がなければ、今の私は存在しない。優れた絵画を見て感動したり、美しい音楽に心を動かされたりする経験も同じだ。

人は実社会で役に立つためだけに生きているわけではない。自分の可能性を探すために、若い頃に、幅広い分野を学んでおくことは有益だ。ここに男女の区別は存在しない。

思うことを素直に言わせてもらうなら、「女性に数学は要らない」などといっている知事こそが要らないのだ。