2012年の暮れも押し迫り、大晦日になってしまいました。
超超氷河期の就職難と言われる昨今。
昨年、娘は就活と大学院進学の両方に挑戦して、
大わらわの中、ロンドンの大学院に進学。
英国の大学院修士課程は1年の為、今年もまた就活…に加えて論文。
あちらでは心理的にも辛い事も多かったようです。
そのうえ昨年は、大きな心の支えだった愛犬も亡くしました。
それと並行して、父の看病。
家族の人生における大変重要な時期に、心の支えとなるべく奔走している事は、
四六時中の心配りが必要で、仕事での時間的物理的な拘束とは全く違います。
とても頭と心を使う創作活動に向かう気力は残っていませんでした。
そんなこんなで、活動をずっとお休みさせて頂いていました。
とりあえず娘の論文と就活が落ち着きそうな、今年の9月末まで待って下さい。
そう、桜沢女史にお願いしておいたのです。
女史は読者を待たせるのは心苦しいと申されつつ、なんとか待って下さいました。
ところが9月末になっても、娘の就職は決まらず、
そのうえ父の容体も急変してしまいました。
循環器科、呼吸器科、膠原病科。3科の専門医がチームで診ている難病。
命の危険は抱えているけれど、毎月数日間は専門病院への入院が必要な為、
病院間の決まりで老人病院には入れず、病院近くに住む以外に選択肢はありません。
それで、父と同居すべく近くにマンションを購入して、二世帯で暮らす事にしました。
ところが、いざ同居をしてみると、父や娘の心の支えになれない事に気がつきます。
頭がしっかりしていて、身体が動かない父には、心と身体への看病が必要です。
手厚く心を込めて向かってあげたいのに、自分の忙しさも手伝ってどっちつかず。
結局二人に物足りない思いをさせるばかりで、私自身もどうして良いか分からず…。
状況だけでなく、心理的にも辛い状態に突入してしまいました。
そんな時、ふと読み返して、心の支えになったのが創作の世界でした。
いつかはまた戻ってあの小説世界に浸れる。だから今は頑張ろう。
あの世界に癒しの要素を発見したのもその時です。
丁度その折り、
桜沢女史から、「物書きの信条として、こんなに読者を待たせるは忍びない。
サイトを閉じるのでなければ、直ぐに牙月の作品も載せるように」言われました。
今は無理でも、創作に戻りたい気持ちはあるのだから、
事情を察して待って下さいという私の願いは、どうしても女史には届きません。
帰るところを失ってしまったら心が潰れてしまう。でもこんな状況では書けない。
「今は無理なんです! でも、落ちついたら必ず書きます。」
そう言って、桜沢女史とのスカイプをプッツリ切ってしまいました。
仕事ならいざ知らず、素人として自発的に作品を発表しているだけなのだから、
個人事情の優先も許されると思う私は、女史とは違って無責任…なのでしょう。
その後、ようやく娘は11月末の母の命日に内定を頂きました。
大学院で勉強した事を生かして、
地球観測衛星を使って環境を守る仕事に就く事になるようです。
就職先から大学院に行かせて頂き、博士号取得の打診も受けました。
一方の父は、9月末に容体が急変してから3ヶ月の間に、
父が病院以外の場所に居たのは、10日もありませんでした。
退院すると、救急で病院に戻る事を繰り返し、
3科の先生がチームで診て下さった甲斐も無く、多臓器不全に陥り、
肺にはもう薬もきかず、中村勘三郎さんと同じARDSとなり…。
22日に亡くなり、昨日が葬儀でした。
旦那は相変わらず海外を飛び回っいるので
マンション購入やら病院の事やら、看病やら、就活生の支えまで…。
この2年は、自分自身のために何かをした記憶を探すのに苦労します。
とはいえ、誰かの役に立つべく奔走した事は無駄ではなかった筈…。
そして今、ぽっかりと穴が空きました。
2月2日は納骨式。それを目処にして、
気の張りと悲しみも薄らぐだろう頃、創作に戻れたらと思っています。
彼を描きたくて、慌ただしい中でも小説講座に5日程通いました。
少しは良いものが書けるようになっていたら、いいなぁ。
これからは、合作ではなくてスピンオフ小説を
それぞれの手で発表しようという話もしています。
同じ世界ですから、このサイトの中(リンクを繋げて)で
発表しようと思っています。
その節は、また宜しくお願い致します。
…と言う事で、年始のご挨拶を失礼させて頂きます。
皆様におかれましては、良いお年をお迎え下さい。
超超氷河期の就職難と言われる昨今。
昨年、娘は就活と大学院進学の両方に挑戦して、
大わらわの中、ロンドンの大学院に進学。
英国の大学院修士課程は1年の為、今年もまた就活…に加えて論文。
あちらでは心理的にも辛い事も多かったようです。
そのうえ昨年は、大きな心の支えだった愛犬も亡くしました。
それと並行して、父の看病。
家族の人生における大変重要な時期に、心の支えとなるべく奔走している事は、
四六時中の心配りが必要で、仕事での時間的物理的な拘束とは全く違います。
とても頭と心を使う創作活動に向かう気力は残っていませんでした。
そんなこんなで、活動をずっとお休みさせて頂いていました。
とりあえず娘の論文と就活が落ち着きそうな、今年の9月末まで待って下さい。
そう、桜沢女史にお願いしておいたのです。
女史は読者を待たせるのは心苦しいと申されつつ、なんとか待って下さいました。
ところが9月末になっても、娘の就職は決まらず、
そのうえ父の容体も急変してしまいました。
循環器科、呼吸器科、膠原病科。3科の専門医がチームで診ている難病。
命の危険は抱えているけれど、毎月数日間は専門病院への入院が必要な為、
病院間の決まりで老人病院には入れず、病院近くに住む以外に選択肢はありません。
それで、父と同居すべく近くにマンションを購入して、二世帯で暮らす事にしました。
ところが、いざ同居をしてみると、父や娘の心の支えになれない事に気がつきます。
頭がしっかりしていて、身体が動かない父には、心と身体への看病が必要です。
手厚く心を込めて向かってあげたいのに、自分の忙しさも手伝ってどっちつかず。
結局二人に物足りない思いをさせるばかりで、私自身もどうして良いか分からず…。
状況だけでなく、心理的にも辛い状態に突入してしまいました。
そんな時、ふと読み返して、心の支えになったのが創作の世界でした。
いつかはまた戻ってあの小説世界に浸れる。だから今は頑張ろう。
あの世界に癒しの要素を発見したのもその時です。
丁度その折り、
桜沢女史から、「物書きの信条として、こんなに読者を待たせるは忍びない。
サイトを閉じるのでなければ、直ぐに牙月の作品も載せるように」言われました。
今は無理でも、創作に戻りたい気持ちはあるのだから、
事情を察して待って下さいという私の願いは、どうしても女史には届きません。
帰るところを失ってしまったら心が潰れてしまう。でもこんな状況では書けない。
「今は無理なんです! でも、落ちついたら必ず書きます。」
そう言って、桜沢女史とのスカイプをプッツリ切ってしまいました。
仕事ならいざ知らず、素人として自発的に作品を発表しているだけなのだから、
個人事情の優先も許されると思う私は、女史とは違って無責任…なのでしょう。
その後、ようやく娘は11月末の母の命日に内定を頂きました。
大学院で勉強した事を生かして、
地球観測衛星を使って環境を守る仕事に就く事になるようです。
就職先から大学院に行かせて頂き、博士号取得の打診も受けました。
一方の父は、9月末に容体が急変してから3ヶ月の間に、
父が病院以外の場所に居たのは、10日もありませんでした。
退院すると、救急で病院に戻る事を繰り返し、
3科の先生がチームで診て下さった甲斐も無く、多臓器不全に陥り、
肺にはもう薬もきかず、中村勘三郎さんと同じARDSとなり…。
22日に亡くなり、昨日が葬儀でした。
旦那は相変わらず海外を飛び回っいるので
マンション購入やら病院の事やら、看病やら、就活生の支えまで…。
この2年は、自分自身のために何かをした記憶を探すのに苦労します。
とはいえ、誰かの役に立つべく奔走した事は無駄ではなかった筈…。
そして今、ぽっかりと穴が空きました。
2月2日は納骨式。それを目処にして、
気の張りと悲しみも薄らぐだろう頃、創作に戻れたらと思っています。
彼を描きたくて、慌ただしい中でも小説講座に5日程通いました。
少しは良いものが書けるようになっていたら、いいなぁ。
これからは、合作ではなくてスピンオフ小説を
それぞれの手で発表しようという話もしています。
同じ世界ですから、このサイトの中(リンクを繋げて)で
発表しようと思っています。
その節は、また宜しくお願い致します。
…と言う事で、年始のご挨拶を失礼させて頂きます。
皆様におかれましては、良いお年をお迎え下さい。