Moony Geekazoid

つれづれにプライベートや思考を書き流しています



January 2015

フランスのヴェイス社のショコラ・ショーを買ってみました。前回の記事で飲んだショコラ・ショーは、フランスのヴァローナ社のチョコレートのもの。このチョコレートを使ったショコラ・ショーは有名だけど、お店では一杯1000円もしてました。

ヴァローナ社は1922年創業ですが、今回買ったのは、これに並び称される1882年創業のヴェイス社のもの。19世紀以降、チョコレートの製造技術が格段にアップしたので、味はオスカルが飲んでいた頃とは違うけど、創業年が古いので、少しでも味が近いのを期待しました。約20杯分で、2000円ちょっと。一杯100円程度。

粉末のココアは、コクや風味の元であるカカオバターを取り除かれてしまいますが、ショコラ・ショーにはコクがあります。安価なショコラ・ショー(ホット・チョコレート)は植物油脂などを入れてるものもあるそうですが、このショコラ・ショーはカカオマスと砂糖とバニラのみ。カカオ含有量が高いから、コクがあって大人の味なのです。

甲乙つけがたいくらい美味でした。かつては王侯貴族の飲み物だったショコラ・ショーを飲むと、贅沢な癒しの時間を味わえる気がします。

chocolat_chaud



小粒状のチョコレート。砕いたりする手間も省けて溶けやすい。
(写真はクリックで大きくなります。)

ISISに拘束された方々の無事を祈っています。
家人はイスラム諸国との仕事も多く、週一で海外に行くので、
他人事のような気がしません。

最近、セカオワのLimited Edition版CD買いました。紅白歌合戦でヤラれてしまったもんで…(^^;).。そういう人多いらしいですね。私は中二病的な歌詞や、ヴォーカルの声や、ピアノや大太鼓の使い方が大好きです。彼らは、日本を代表する世界的アーティストになりそうな…

「イスラム国」に拘束された後藤健二さん解放を祈る声が、
世界に広がりつつある。
“I am Kenji”というカードを掲げた人々の写真が、
次々とインターネット上にUPされている。
“Je suis Charlie”“Je suis Ahmed”と同じ流れだ。
シリア人もイラク人もそのプラカードを掲げている。

自ら「自己責任」と言って現地に出かけた後藤さんではあるが、
彼が平和のために行った様々な活動は、尊い。
私のように平和を口にするだけで、実動しない人間から見ると
申し訳なくなるくらいに、尊い。

反面、殺害された湯川さんのブログ内容を読むと、
彼が自分の楽しみのために刺激を求めて現地に赴いたのが分かる。
彼が最初に拘束された時、日本政府が沈黙を続け、
池上彰さんはTV番組で、後藤さんの救出には触れても
湯川さんの名前は一切口にせず…
彼の父親でさえも顔を公表しなかった理由が分かった気がする。

よく「人一人の命は地球より重い」というし、
差別はあってはならない事だけれど、
酷なくらいに個々の命の重さの違いを感じた。

自由に人生を謳歌することは大切な事ではあるが、
他人に迷惑をかける生き方は決してまっとうではない。
「こういう究極の場面で自分はどう扱われるだろうか?」
それを絶えず頭に置いて、自分に恥じぬように生きねば…
そう痛感した。
できれば後藤さんのように真っ先に他人を案じられる人間になりたい。

後藤さんの無事の帰還を心からお祈りします。

先日、“Je suis Charlie”には疑問を感じる という記事を書いたのだが、
あのデモの数日後に、“Je suis Ahmed”というプラカードを掲げた人々の存在を知った。

アーメッド(Ahmed)とは、あのテロ事件で、市民を守って殉職した警察官の名前である。
奇しくも、彼はイスラム教徒だった。
テロを行った側も、市民を守った側もイスラム教徒だったのだ。

平和主義ムスリムの存在を信じる人達は、「私はアーメッド」というカードを掲げた。
彼は、まさに宗教戦争の発端になりそうだった対立構造を塗り替えくれた。
アーメッドが、過激派とは違う、平和を愛するイスラム教徒の未来を守ってくれたのだ。

多くの人が“Je suis Charlie”を掲げたデモには、国家の首相まで参加していた。
背景には、政策としてのイスラム系移民排斥の動きもあったように聞いている。
あの人々の群れを見て、世界の行く末に冷たい影を感じたのは、私だけではあるまい。

でも、一人の警官アーメッドのおかげで、「イスラム教徒=悪」の構図が消えた。
正義のために戦ったアーメッドが、世界を奇妙な潮流から救ってくれたのだ。

ああ、よかった( ;∀;)。
異国でマイノリティーとして暮らした事があるせいか、私は少数派に肩入れしてしまう。
実際の暴力にも怖気が走るが、言葉の暴力もに同じように怖気が走る。
そして、他者を尊重できて初めて、自由を行使できるものだと信じている。
この記事を書いた直後、「イスラム国」に囚われた日本人の命を縦にした、
身代金の要求のニュースが流れた。
この「イスラム国」や「ボコ・ハラム」の語道断な行為は許しがたいし、
上述のような、イスラム穏健派の人々の健闘を台無ししてしまって心が痛む。
イスラム教を信じるアラブ諸国と、過激派組織の「イスラム国」は全く別物。
両者を同一視する事は危険であると、ニュースでも強調していた。

「Je suis Charlie」という言葉が書かれたプラカードを
世界中の人々が掲げる中で、私はこの言葉に賛同する気になれない。

もちろん、犠牲者には心から御冥福をお祈りしたい。
また、暴力を行使した今回の殺人犯の肩を持つ気も毛頭ないし、
殺人者は、極刑に処すべきだとも思う。

そして、ヴォルテールのものとされる言葉にも大いに賛成だ。

Je ne suis pas d’accord avec ce que vous dites,
mais je me battrai jusqu’a la mort pour que vous ayez
le droit de le dire.
(あなたの意見には反対です。
でも、あなたがそれを主張する権利は、命にかえても守りましょう)

言論の自由を尊重することこそが、成熟した人間の証であると思う。
「圧力や暴力に屈せず、ペンのみで闘う事は」は、戦略の極みだとも思う。

でも…

自由であるはずの言論も、
自分とは価値観の違う人たちに対する“良識ある自制”を欠いた状態で
発してしまったら、それは言葉の暴力に成り得ると思うのだ。

まして、今回の風刺漫画は「過激派」だけに限定した揶揄ではない。
イスラム教を信じる人たち全てを不快にする内容だったように思う。
メディアの名を借りさえすれば、言葉によるハラスメントは許されてもいいのか?

だから私は、ちっともシャルリー・エブド紙に賛成できない。
“Je suis Charlie”なんてプラカードを掲げる人の気が知れない。

群衆には「Charlie紙と自分は一心同体」的な意味のカードを掲げる人々が目についた。
しかし、その多くは、もしかしたらセクハラだのパワハラだのと言って、
自分を傷つける言葉に対してだけは、敏感に反応する人々だったりしないだろうか?
こういう人々に限って、ダブルスタンダードなのでは? そんな邪推をしたくなる。

言論の自由やテロへの抗議"だけ"を訴えるデモなら、私は大いに賛成である。
しかし、シャルリー・エブド紙をあからさまに肯定する群衆は、異様としか思えない。
見えない政治力やレイシズムに動かされているような気がしてしまうのだ。
人々の動きが不気味だ。世界的な宗教戦争の始まりにさえ成り得るような…

暴力よりもペンを武器に選んで闘うのが理知的な人間だ。
そして、相手との文化の違いを尊重する(diversity)理念を忘れずに、
自由の中にさえ“良識ある自制を課す”のが、さらに高次の人間ではあるまいか?
補足:15日、ローマ法王が「表現の自由には限度がある」と声明を出した。
まさに私の言いたかったことだったので、とてもスッキリ(^o^)。

P.S. 激重だったPCを買い換え、娘と一緒にUVレジンクラフトにハマっています。

このページのトップヘ