Moony Geekazoid

つれづれにプライベートや思考を書き流しています



September 2016

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「アメリカン・アイドル」というTV番組の頃から注目している、
私の大好きなアダム・ランバート(前記事1前記事2)が、
これまた私の大好きなクイーンと組んで、ここ数年活躍中。
なんとも夢のようなワクワクするマリッジだ。

で、彼らが来日!
行くっきゃないと、数分で売り切れたチケット争奪戦を制し、
昨日22日、家族で行ってきた。

客層はまさに老若男女。女性6割、男性4割。
20代から70代位まで満遍なく居る感じ。中心層は4,50代。

客席がキラキラしてると思ったら、叶姉妹も観に来てた。
(そして、アダムにいじられていた(笑)。)


もぉおお〜超絶よかった!
何度も鳥肌立っちゃった!


スクリーンには、フレディや先日亡くなったデビッド・ボウイも映し出され、
フレディの歌声も聞こえて、涙なしには見れない心憎い演出。
レーザーやスモークや炎や金色の紙吹雪をふんだんに使った豪華なステージ。
アダムの美声は、相変わらず迫力あって素晴らしかったし、
ロジャーの親子とのドラムの叩き合いもカッコよかった。
でも、その夜一番素敵だったのは、ブライアンかも。
天体物理学の博士号も持つブライアン。超格好良いわ〜(惚)!

伝説のフレディ・マーキュリー(今年はちょうど生誕70年、没後25年)は
作曲、楽器演奏、パフォーマンス、歌唱力、全てに於いて別格だと思うけど、
"Who Wants to Live Forever"を力強くも透きとおった声で歌い上げ、
Rock Legendのブライアンとロジャーを、あんなにも楽しそうにキレッキレにさせた
アダムも凄いなって、つくづく思った次第。


で、帰り際、グッズ売り場に長蛇の列が出来ていて、2時間待ちは必至。
(調べたら、どうやら開演前も同じような混雑だったらしい。)
これは無理!と諦め、丁度ついでもあったので、本日出直した。

…ということで、グッズだけを買いに、もう一度日本武道館へGO!
演奏中なら空いてるかも…と思ったら案の定ガラガラで、ホッ。
(最終日だし、売り切れも多かったけど…)

音漏れが聞こえて来て、彼らの熱気を感じながら、
上の写真のとおり、グッズをゲットしました。イェーイ ♪
(画像はクリックで拡大可)

三日経ったが
余韻が全然覚めなくて困っている。
気分はまさに以下…

手を取り合って このまま行こう
愛する人よ
静かな宵に
光を灯し
愛しき 教えを抱き

何処何処に行かない?と聞かれたから、
忙しいと答えた。
それだけでは素っ気ないし、真実味がないと思って、
○○、××、これこれしかじか…と、
2行程度で収まるように、予定を列記した。

人は往々にして、他人の行事には興味がないので、
詳しくは書いていない。
忙しいという事の証明みたいなつもりで軽く触れた。

そうすると、決まって、
私も、△△、□□、あーだこーだと、
自分が如何に忙しいかを書いてくる。
私は、自分が書いた事に上書されたような気分になる。

暇だから誘われたのかと思っていたのに…。
そんなにも忙しいのに、時間を割いて誘ってくれたのかな?
こっちも大変だけど行かなければいけないのかと
申し訳なくもなるけれど、どうも違う気がする。

誰だって、忙しい時もあれば、比較的時間がとれる時もある。
そういうのは当たり前の事であって、至極当然のこと。
でも…
どうも他人より自分が大変じゃないとピリリと反応してしまうようだ。
そして、自分の事項で上書きしないと気が済まないみたいなのだ。
たまにそんななら、ニュアンスの書き間違いって事もあるけど、
100%の確率でいつもだから、こちらとしては
なんだかやり込められた気分になる。


○○行ったよ。△△行くよと、頻繁にメールが来るから、
いいねぇ! どうだった?など、
私は一つ一つに反応して返事を返す。
それが、人の話をちゃんと聞いているという合図になると思うから。
でも彼女は、私が行事を書いても、九割がた反応しない。

殆どの場合、一切無反応で、
私は△△、□□行きました。やります。
返って来るのはそれだけ。
つまり、こちらを無視して、上書きして、それだけ。
これも、毎度毎度の事。

無反応で上書きだけだと、否定されたような気がする。
気のせいだろうか?
だから、邪推したくなる。
私の些細な行事が相手を少なからず刺激しているのだろうかと。
だとしたら、それはその人の心の底に隠れた競争心なのではないか?と。
些細な事にピリピリ反応して、爆発的に怒るから、なおさらに…。



他人と比べて、他人を見下ろしたとしても、
自分の人生自体が向上するわけじゃない。
そんな事で得た自己評価や自己肯定は虚しいだけだ。
そんな負の感情は美しくないし、むしろ人生を汚す。

自分自身の力で得た満足感を大切にしていく事が
ひいては自分自身の人生を一歩一歩行く事に繋がる。
私は、そう思っている。

とと姉ちゃんがまた変な事になってきた。
分かりやすい「悪」を出してきて、
大衆誌を馬鹿にし、常子たちが上級で正義とでも言いたげな描き方。
ちょっと反吐が出そうだ。
そんなに簡単に線引きできるものではない。
前の記事でも書いたが、色々と極端過ぎて共感できない事が多い。

読者の味方だか、言論の自由だか知らないが、
剣をペンに持ち替えて、「天に成り代わって成敗!」的な
正義の味方になったつもりで感違いをしている
批評家やジャーナリストも、世の中には多い気がするし…。

星野さんとの再会エピソードが楽しかっただけに、
いっそう見る気が削がれる。
私は恋愛ドラマは好きじゃないし、恋愛を扱っただけの
ドラマや映画は殆ど見ないけど、星野さんと子供たちに癒されていた。

確かに、批判を撥ね付ける業者ばかりではなく、
批判を糧にして自分を見直す事に役立てる人もいる。
私も批判された時、その中に非常に正しい指摘があり、
社交辞令では得られないような貴重な意見を頂いたと感じた事もあった。

でも、多くの場合、ペンや言葉は武器になってしまう。
人(正しくは人の心)も殺せるのだと思う。
ジャーナリストは、言葉だけで、誰かを路頭に迷わせ、
死に追いやることも出来る。それを、自覚するべきだ。
シャルリー・エブド誌の事件でも、モヤモヤしていたけれど、
何を言っても許される的な、やり過ぎの自由でさえ、
ジャーナリズムの名の下では、まかり通ってしまう事も多い。

ドラマの中の常子たちのやっている事は、
今のネットに溢れている「口コミ」とは違う代物だ。
今のようなダイバーシティへの理解が高い世の中で、
個人個人の様々な意見として存在し、それを見る側が取捨選択する。
そんな風潮がまだ未熟な社会が、常子たちの生きた時代だ。

それは、まさに消費者の購買力を人質にとって、
業者を脅しているような形態だと思う。
今の世界でいう所の、検査機関や検査基準。
そんなものの「成り代わり」のつもりで金儲けしているのは、
いかがなものだろう。
本気で世の役に立ちたければ、無料で配ればいい。
今の時代で言えば、「NPO」にするべきだ。
又は、非公開で会員だけで情報を共有するとか。

とにかく、公開処刑のような事をするのは、欠席裁判に等しい。
そんなことをせずに、業者に直接問うて、改善を促せばいい。
それをやった後で、駄目な場合のみ、公けにすればよいだろうに。

ジャーナリズムって、片方からだけの批判であってはいけないと思う。
あくまでも、中立の立場から見なければいけないと思うのだ。

批判しっぱなしで、あとは無責任だったら、
単なる「批判のための批判」と同じだ。単なる口だけだ。
批判された者が改善を試みたら、それ【も】記事にしないといけないし、
批判された側に起こった被害【も】記事にしないといけない。
それをしなかったら、公平や中立とは言えない。

それをしなかったら、業者の事も思っている等という台詞を吐かせてはいけない。
あんなのが女性目線だとしたら、女性の一員として大変気分が悪い。


批判のための批判といえば、政治家にもそういうのが多い。
批判と突っ込みだけは得意だが、肝心の政策が無い…みたいな。
ジャーナリストって、それに似ていると思ったり…。

蓋を開けてみたら頭が足りないとも思われる鳥越氏のような人が、
ジャーナリストを名乗るのだから、
批判だけなら、誰でも出来るよなぁ(日本語さえまともなら)
とも思ってしまった。

私のようにネットで独り言を吐き出している個人とは違う。
彼らは、読者や視聴者からお金を貰って、
ジャーナリズムの舞台の上から獲物を狙って、ナタを振り下ろす。
なんだか、禿鷹みたいな人達だと思った。


同じ文章にするのなら、誰も批判せず、傷付けずに、
人に夢や力を与えられる、小説の方がずっとずっと良いと思った。
色々と考察して、真理を探究する、論文の方がずっと良いと思った。

また、戦場などに行って、見たままの窮状を
言葉の脚色無しに、ありのまま伝える戦場カメラマンや報道カメラマンの方が、
ずっと公平な目線のジャーナリストだと思った。

「とと姉ちゃん」は、高畑充希さんの輝きに救われているようなドラマだ。

昨日はレディスデーだったので、映画を二本まとめて見に行った。
車を運転して、一人で遊びに出かけたのは、もしかしたら人生初かもしれない。
電車では、ちょくちょく出かけるのだけれど…。

なんとなく見たくなって、ほとんど予備知識ナシに見たのだが、
二本は、両極端と言って良いほど違うタイプの映画だった。
けれど、とても良く似た共通点を持っていた。
両方とも、3.11を彷彿とさせる映画だった。
そして、日本人が持っている奇跡のような力を、もう一度信じてみたい。
そう思わせる映画だった。


「シン・ゴジラ」は、核兵器や原子力発電所に象徴されるような、
人類にとっての"御し難い巨大な力"を扱っていて、
教訓的意味合いの強い映画だったように思う。
また、日本を取り巻くアジア関係が緊張している昨今を反映してか、
かなり国粋主義の匂いも強かった気がする。
だからといって、押し付けがましいところはなかったし、
日本人の心をグッと掴んだ良い映画だったと思う。
あの経口投与だけは、喉に流れ込んだようには見えなかったけれど…。

斎藤工など多数の俳優が、超超チョイ役で出ていたりして、
海外でも名を売りたい俳優陣が、出演を熱望した国際映画である事が良くわかる。
良い映画だったと心から思う。
だからこそ、石原さとみの英語が致命的に最悪で、悲しくなるほど興醒めした。

彼女の英語は、日本人女優としては上手だと思う。
だから演じる役が、日本人設定なら問題ない。
でも、ネイティブの日系アメリカ人の役だもの、無理にもほどがある。

私の娘は、小中高、大学院の計7,5年を英語圏の現地校で過ごし、
英語の授業を受けた大学時代を入れれば、10年以上、英語で教育を受けている。
そして、アメリカ英語、カナダ英語、イギリス英語を完全に使い分ける。
だから、日本語の方が、危なっかしいわけだが、
その娘は酷い英語の発音を聞くと、耳をふさいで逃げる(本当にそうする)。

彼女が石原さとみの英語を聞いたら、のたうち回ってしまうに違いない。
まさに聞くに耐えない英語で、こちらが恥ずかしくなるくらい酷い。
そして、私の耳が確かなら、主役の長谷川博己や、
竹野内豊の方が綺麗な発音だったように思う。
だからと言って、石原さとみは悪くない。悪いのは配役を決めた制作側だ。

多くの日本人は、巻き舌で早口なら英語が上手いと思い込みがちだが、全く違う。
石原さとみの英語は、訛りの強い巻き舌で、滑りまくっていて品が無い、
お嬢様の日系アメリカ人という説得力が、哀れにも崩壊していた。
大統領も目指すほどのエリート令嬢の設定なのに、これでは
アメリカという超学歴社会で、失笑されかねないミスマッチだ。

映画に色濃い日本の国粋主義が世界的に受け入れられるかは別として、
世界中にファンを持つゴジラ映画として海外公開するならば、
石原さとみの英語部分を音声修正すべきではなかろうか。


一方の「君の名は」は、とにかく映像が美しかった。
2003年に公開された「黄泉がえり」という映画を思い出した。
あの映画もヒットしたが、「君の名は」も、
平日の昼間だというのに、広い劇場が7割程度の入りだった。
日本人は、この手の話が好きなのかもしれないと思う。

どこかで「ご都合主義だ」と書かれていた評を読んだが、
3.11もこうであったら良かったのに…という、
「願い」が形になったようなストーリーだと思った。

帰り際、隣の席にいた小学校高学年の女の子と母親が、
「良く分からなかった」「お母さんにも分からない」と言っていた。
深く考えちゃったら面白くないかもしれない。
大画面で、美しい風景から匂い立つ空気を楽しむ映画。
それで、良いんじゃなかろうか。

AIIB参加国が増えて、中国に世界が騙されて乗っ取られそうな勢いだ。
日本とアメリカだけが参加せず、米国の傘の中に入れて貰ってても、
アメリカの影がだんだん薄くなって来ていて、ヤバい限り。

シン・ゴジラで描かれているような、
【自立した強い日本】で居られたらどんなに良いか。
周りの国々とのシガラミや面倒な思惑に邪魔されずに居れたなら、
どんな難題であろうと、自分たちだけで解決してみせるのに。
クッソォオオ〜!みたいな気概が、
シンゴジラの"Scrap & Build"の描写に籠っていた気がした。

ホント、周りのウザい国々の口や行動を
ゴジラ光線でビーーーーっとやってスッキリしたい気分だ。
あれらは、人々のヤル気を削ぐ以外の何物でもない

美味しいものを食べると、しみじみと幸せを感じる。
美しい風景を目にすると、しみじみと幸せを感じる。
細やかな心遣いに接すると、しみじみと幸せを感じる。

最近、そういう幸せな瞬間が多いのは幸せな事だと思う。

反面、無神経や刺々しい感情に接する事も多かった。
ここ数日で、別々の人から、別々の場所で遭遇してしまった。
(まさに、こんな人達)

だから、相殺という事になろうか。
おかげで、ようやく心の均衡を保っていられる。

彼らには、おおらかさや余裕が全く感じられない。
自己中心的な威嚇を、まるで何かの発露のように他人にぶつけてくる。
それは、少しでも自分を強く見せたいが為の虚勢なのだろうか。
そうでもしないと、自尊心を保っていられないからなのだろうか。

嫌な人間と接すると心や力を思いっきり削られる。
負ってしまった心の傷を癒す為には、
その10倍程度の幸せが欲しいところだけれど、
幸せはそんなに沢山転がっていないから、
小さな幸せを大きな幸せに感じられるような
増幅機能付きの幸せセンサーを研ぎ澄ませないといけない。

うちの犬は、犬がキャンキャン吠えたてても無視する。
不安的で平和を乱す犬など、そこに存在しないかのように。
犬にも学ばなくちゃなと思う。

文章に書く事で、自分の気持ちが整理できる。
言葉にして吐き出す事で、落ち着く事ができる。
特定の個人に宛てたものでもないけれど、ネットの河の流す事で、
遠いどこかで誰かが共感してくれる可能性に、少しだけ心が慰められる。

こんな事を他の誰かに相談したりしたら、彼女と同じ事になってしまうから、
せめて、ここだけに書いてみる。


自分がやった事は、いつまでもいつまでも恩に着せる。
でも、こちらのやった事には殆んどお礼がない。覚えてもいない。
文句ばかりが降って来る。
お互い様とか、フィフティ・フィフティの感覚が欠落している感がある。

彼女の言うとおりに、思う通りに、私が動かないと声を荒らげる。
あんまりだと思って言い返してしまったら最後、
数倍のネガティブ波となって、押し戻ってくる。

その勢いのままに親戚などにまで、私のネガキャンを広めてしまう事もある。
一度「貴女が気が狂ったと、彼女が言っている」と親戚から連絡を貰った事があった。
今回は、娘が慌てて連絡して来た。またかと思った。
これが親戚だけでなく、共通の知人にまで及んでいそうで、恐ろしい。
そこまでやっていたら、もはや正気の沙汰ではないが、
彼女は、ほんの少しの提言でさえ攻撃だと思い込み、爆発し、
他の人にまで「私はこんなにも可哀想なの」と訴えて、自分の味方を作りたがる。

彼女は元来傷付き易いので、防衛本能が強過ぎる事で攻撃的になるのだと思う。
他人に訴えてしまうのも、自分の中で理性的に処理出来ないからに違いない。
それは少々、病気の範疇にも思うけれど、
「カウンセラーや精神科医を信じてないので、馬鹿にしたくなる」とか
「授業の内容が気に食わなければ、先生を論破してしまいたくなる」
などと普段から言っている彼女が、どうにかなるとは思えない。

私はと言えば、精々こんなブログに文字にして書くことで、
自分の気持ちの整理をし、ネットの河に文字を流して、心を落ち着かせるのが精一杯。
面と向かって何か言えば、余計に事態が悪化してしまうから、
母の位牌に「助けてくれ」と泣きながら頼むしか、なす術がない。

亡き母もいつも嘆いていたのだ。
「あの子は恐ろしい。いったい何様のつもりなんだろう?
自分が完璧だとでも思っているから、あんなに激しく人を攻撃できるのか?…」と。
(実際、彼女は「自分がいかにデキて、他人がいかに駄目なのか」そればかり口にする。)

あの子が欲しいのは、親身になって考えてくれる人間ではない。
あの子が欲しいのは、自分の言う事を聞き、
自分に都合の良い事を言ってくれて、
一緒に外食してお酒を飲んでくれる人間だけなのだ。
それ以外は、不要なのだ。
確かに、そう言っていたっけ。本当にそれだけだったのだ。

だったら、彼女にも分かって欲しい。
お酒もほとんど飲まず、のんだくれが大嫌いな私が、
それに適切な人間ではないと…。


距離を置こう。そうすれば、恐ろしい事態に陥る頻度が減る。
そして、できる事は自分ひとりでやろう。
いつもではないとは言え、いつ爆発するか分からない恐ろしさに耐えながら、
共依存みたいな関係はもう嫌だ。
この一年とちょっと、何度もグッと堪えながら、もう十分に私はやった。
どうもそれは、彼女にとっては当たり前の「奉仕」だったようで、
多くは文句を言われ、無視までされて苦しんだ。徒労感が半端ない。

もう苦しんでないで、私自身の人生を歩もう。
歩みを停めて、可哀想な自分に浸かりきった彼女と一緒に
私までもが立ち止まっていたら、私の人生が勿体ない。
私は自分自身のために、ちゃんと先へ進もう。

酷い物言いで突っ込まれる余地のない人間を目指そう。
そうやって切磋琢磨して前進したほうが、よっぽど建設的だ。
それを見て彼女も前を見る事が出来たら、それは彼女にもプラスかも知れない。
一緒に居て尽くす事だけが、サポートではないのかも知れない。

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