Moony Geekazoid

つれづれにプライベートや思考を書き流しています



カテゴリ: 心理学系の話

「自己愛性人格障害」の人は、幼い頃に自分を強烈に否定された経験を持つとの事。
自己愛性人格の人が最も苦手なことは、謙虚に他人の言葉や教えを聞く事だそうだ。
だから、この人格障害は、精神科医さえ「馬鹿にしてしまう」のだという。
そして、自分に都合が悪い事は、些細な事でも「傷つけられた!」と逆上し、
自分の思い通りに動かない相手は、容赦なく詰る。…という特徴があるそうだ。

そんな彼らはモラハラの加害者になる事が多いそうで、
その被害者になりやすいのは、身近な人との事。
一番良いのは、距離を取る事なのだとか。

ネットで概要を読んで、びっくりした。
…なんか、かなり一致する人が居なくもない。


とはいえ、私自身も「普通」だとは思わない。
そもそも「普通」の人間が居るとも思わないけれど。

私自身、ある時期までは明らかに「回避性パーソナリティ障害」だったと思っている。
難しい子を育てた事で、少しだけ変われたとは思っているが…。

娘も少々変わっているので、スキゾイドパーソナリティ障害、
もしくは高機能広汎性発達障害に近い気がする。
…旦那も、自己愛性に近い気がする。

多くの人間が、干からびて縮こまった黒い遺物を抱えているものだと、私は思っている。
誰かが言っていたが、どんな家の押し入れの奥にも、
表には見せたくない禍々しいミイラが、必ず一つくらいは隠されているのだそうだ。

オーストリアの精神科医であり心理学者のヴィクトール・フランクルは、「自己を忘れて何かに没頭できるかどうかで、すでに小さな自分を越えている」と言っている。つまり精神的無意識は自己超越であり、本当の自分に出会う方法なのだと。

彼はアウシュビッツの収容所にいた人物だ。身体的拘束の中で、自分だけの精神的な砦を築き、その中で没頭し、自分の置かれた状況を越えた…のだと思う。これを日本語で表すのであれば、『無我』とでも言うのだろうか。

昨年までの私は、時間的拘束もさることながら、精神的に余裕がなかった。自分自身の事なら己の覚悟の問題だが、家族の事はどうしても最善を願ってしまう。こちらは、『無私』と言えるかもしれない。この二年間、自分の事は全て後回しにして来たから…。

でも今は違う。もちろん逝ってしまった命に胸が疼く事もあるし、実家を処分したりとやる事は山積みだが、もう身内の未来や病気の事で気を揉み、足掻く事はない。心の整理も時間管理も全て自分自身に左右されるだけだ。

2月から、何かに“没頭”すべく準備を始めた。現在は、スビリチュアリティについて学んでいる。冒頭のヴィクトール・フランクルもその講義で紹介された人物である。

スビリチュアリティとは“人智を超えた何か”だと定義されている。最近は欧米を中心として医療現場におけるスビリチュアリティも重要視されるようになって来ており、特定の宗教に限定されない領域で、精神医学や心理学からのアプローチがなされている。一般人の場合だと、宗教は嫌いだが、“宇宙の大きな力”や“絶対的な存在”は信じていたり、“自然への畏敬の念”を重視する人々が好む分野らしい。(降霊術などを中心とするスピリチュアリズム(心霊主義)とは一線を画すので注意。)

自分が書いたキャラクターにも、大いにそういう面を入れて書いたし、彼自身を求道者のように描いてきたが、それがそういう分野だとは知らずに書いていた。だから、今回学んでみようと思った次第である。

今はアロマや香を焚いたり、キャンドルを点したりして、自分自身への手当てを行っているところだ。身の回りにたくさん生花も飾って手入れをし、土鍋でご飯を炊いたりと、“スローライフ”が身に沁みて心地よいと思われる毎日である。ひたすら慌ただしくて、いつも自分自身の事を後回しにしていた昨年までの反動なのかもしれない。

今日は、なんとなく自閉症(主に高機能自閉症)の方々ご自身の書かれたブログ等を回って読んでいました。
別に単なる興味本位というわけでなく、娘が自閉症の施設に併設された幼稚園に通っていた事もあって、私自身が、何人もその障害を持った方と実際に接して居た事もあり、又、娘自身も幼稚園の頃はかなり普通の子と違っていたので、そちらの先生方に相談を受けていたりしたものですから、まったく知らないわけではなかったのです。(娘の場合はそういう診断名は下りませんでしたが、感受性の強い繊細な子の事は確かです。)

私自身も「自閉症ではないか?」と、幼稚園の先生に言われた事があると、母が話して居りました。只、いくら高機能の自閉症でも知能指数的には、普通位を示すものですが、私の場合は、知能指数は、寧ろ一般の子供よりもずっと高い数値だったので、多分、他の子供が見なくていいものを見て感じて分析してしまうので、何かに対して必要以上の恐怖感を持ってしまっていたのかもしれません。そういう神経過敏なところが、体に来て、小さい頃は、熱や下痢はしょっちゅう…というとてもひ弱な子供でした。(今じゃ、考えられないし、只の人に成り果てましたが…;)

過敏というのは、傷つき易いとある意味同意語ですから、小さい頃から、自虐と自尊という両極端の狭間のスパイラルをぐるぐると巡るのが日課でした…。じっと手を見つめて、穢れてしまいたくないと思ったり、自分が果てしなく穢れていると思ってどうでもよくなってしまったり…。もし、そんな下らない堂々巡りばかりしていないで、その間勉強していたら、私はもっと立派な人間になったかもしれませんけれど…(笑)。

そんな私が昔、傷つきやすい自分の身を守る為に身に付けていた薄絹が「孤高」という衣でした。人と離れて超然としているわけです。そういう時の私は、人が皆馬鹿に見えて仕方がなかったのですよね。それって、儚い技ではあっても、自分にとっては鋼鉄の甲冑だったりするのですよ…。人から見ると多分最高にいけすかない奴だったと思いますよ。でも、身を守る手段だったりするのです。そして、かなりの英雄的自己陶酔を伴っていたり…(^^;)。全く持って、砂上の楼閣の主なわけですから、ある意味笑えるんですが、本人は大真面目なんですね、これが…;。自分でも情けなくなってしまうけれど…(T^T)

でも、これって、全てが自分への物凄い拘りなんですよね。つまりいくら格好つけていても、所詮自分が可愛いって奴です。どうしようもない自分主義(笑)…。はっきり言って、とても格好悪いわけ(笑)。でも、こういう堂々巡りをいつもしている奴だからこそ、他人が自分主義に徹して、しかもそういう人が自分より鈍感だと許せなかったりするんですよ。(怖っ;)

まあ、その話はさて置き。
自閉症の方たちの日記を読んでも、やっぱり自分と同じ体験として読むことは出来ませんでした。でも、過敏性に於いてはかなりシンクロしていましたので、得るところは凄くありました。皆さんが真面目に一瞬一瞬頑張っている事は、この上なく不真面目な私には、ドキッとさせられる事が多々ありました。一瞬一瞬を常に学んでいるという事実…。この重みって凄かった。私は、自分も持っているその感受性を、無駄遣いしていたと思い知らされました。

私は、その感受性を、不満の方向に向けていたんですよね。世界の基準がゼロだとしたら、私は、負の方向に使っていたような気がします。本当はもっと複雑ですが、簡単に表せば、感受性を「不幸を感じ取る」方向に使っていたような気がします。全く受身でしかもネガティブ…。これって最低ですよね。そうじゃなくて、「小さくても幸せを感じ取る」感受性を持たないと…。感受性はポジティブに使わないといけないと思いました。

自分の掲げた理想や夢と、自分を比べて、押し潰されているなんて…。自分の中で自分を大きくして飼い殺してしまった思い上がり者のする事なんだろうと思います。私みたいな人間を叩きのめすスケールのでっかい人間が現れる事を望みますが、そんな人居ませんよね、滅多に…;。多分こういう思い上がった人間を飼い慣らすのが神というものなのかもしれませんが…。残念ながら、私には信仰がないので、自分の中でマクロな宇宙等空想しながら、小さな自分と小さな幸せを絶えず意識して生きていかないと、幸せになれないかも…(苦笑)。 

そんな事をつらつらと考えさせて頂いた本日でした。


ほんの子供のころから、私はいつも他の人達とは違っていた。
他の人達が見たものを、私は見ずにきてしまった。
情熱を、みんなと同じ泉から汲むこともできず
みんなと同じ源から悲しみを引き出すこともできず、
みんなと調子を合わせて、喜びに胸おどらせることもできず、
何をするにしても、一人きりで愛した。


- エドガー・アラン・ポー 『孤独者』 -

(この書き込みは、上の「『モンスター』を見てきました。」記事に関連しています。これだけでも分るように書いてはいますが…。

唐突な題名ですが、誰でも親に感謝はしていると思います。でも、特に抑制の効いた理性ある人間は、たとえ復讐的な心があってもそれを押し殺してしまいます…。それが、形を変えて噴出す事もあるのですよね。それを素直に認めないと、危険という事もあるので、あえてこの表題にしました。道徳的に反するとお叱りをうけそうですが、道徳に反する感情を、全ての人間が持っていないと言ったら嘘になると思うので…。

**************
今読んでいる本の中で、神戸事件の酒鬼薔薇聖斗は、母親との間で、非常な葛藤があったようです。読んでいて、親子間のズレの典型だと思いました。血の繋がった親子でさえも、相性が合う合わないは、かなりある事のようですよね…。同じ兄弟が同じ親に育てられても、ある子だけが、苛められたり…。そんな例もありますし…。

実は、私の友達には、子供を殴りつける(かなり執拗に)親が二人もいます。本当に普通の優しい人達なのですが…。
彼女達の母親はとても忙しい人達だったそうで、彼女達は、小さい頃とても良い子だったとか…。彼女たちが子供の頃、本当は親に甘えたかったのに、ずっと我慢をして健気に生きてきたんですよ。その彼女達に子供が生まれて、自分の子供にはそんな思いをさせまいと、二人とも仕事に就かずに愛情をかけて育てたのですが…。それでも、子供は小さいですし、全てが親の言う事は聞きません。でも、彼女たちにしてみると、「こんなに愛情をかけているのに何故逆らうの?」という気持ちが湧いてしまうらしく、殴ってしまうらしいんです。もちろんその裏に「私は、あんなに小さい時に我慢してきたのに…。」という、"自分の親に対する復讐の気持ち"が含まれいている事を、気付かないでやってしまうんですよね。子供時代のリベンジを知らず知らず自分の子供相手にやっていたというわけです。そういう事ってとても多いそうです。これらを克服する為に、カウンセラーと彼女達自身が「小さい頃頑張った彼女達を」誉めてあげたそうです。がんばった事や自分の存在を、誰かが認めてあげるって、とても大切だそうですね。裏を返せば、人間というものは、知らず知らずに、必死の頑張りを誰かに認めて貰いたいと足掻いている動物なんだと思います。

私の場合は、父が長男なので、母が姑に跡継ぎの男の子が生まれない事で、散々苛められたの見て育ったんですよ。(かなり酷かったです。)私も妹も女性ですから、はっきり言って、自分達の存在を根底から否定されているわけです。別に面と向かって言われたわけではないのに、ジワジワ広がるんですよね、そういうのって…。(^^;) 多分、意図しようが意図しまいが、人間を一番深く傷つける事が出来るのは、誰あろう「親」なのかもしれません。その認識って、子育てにかなり大切な物かと思います。多分、自分が押さえつけてしまった、自分の幼い頃の思い出を掘り起こしてみて、素直に向き合って初めて、心から気付くものなのかもしれないけれど…。
男で無かったが故に、自分の存在を否定されてきた私。だから“男という存在”であるかぎりは、自分より優れている人間ければ納得できないんです。つまり、サイテーな男はどうしても許せないんです、私という人間は(笑)。特に妹は、出生時の逸話として、「男じゃない」事を祖母に詰られた話を母から聞いていたので、悲惨でした。だから、彼女は自分が敵わないと思われる男が現れるまで結婚できなくて、婚期がめちゃくちゃ遅いです。(今は、好敵手に値する旦那を見つけて、「夫婦はパワーゲームよ!」とか言って、気を抜かずに結婚生活を送っていますが…。^^;)

そんな私の元に生まれたのが、やはり女の子でした。そういう過去があったから愛せないという時期がありました。「この子を可愛くないと思うなんて、神とこの子への冒涜だ!」と、理屈で押さえつけて、おくびにも出さなかったのです。でも、言葉がめちゃめちゃ遅い子だったので、カウンセラーと話しているうちに、「私は、そういう風な環境で育ったのだから、女の子に屈折した考えを持つのは当たり前だ。自分にそう思う事を許してあげよう。」と自分で自分を許したのです。そうしたら、その途端に嘘のように娘が愛しくて堪らなくなりました。今では、何でも話し合えるので娘で本当によかったと心の底から思っています。
自分の本当の感情に気付いて、その感情を持つ事を、「自分で自分に許す事」をすると、物凄く楽になるみたいです。自分に嘘をつかない事、良い子を装うのはやめる事が、自分らしく生きる事に大切かと思います。

…で、結婚ですが、今旦那を愛しているかというと???なのですが(笑)私が、良い子を装わないで悪い子を目一杯やっていても、かなり大目に見てくれるっていうのは、良い旦那なのかなぁと思います。(「亭主元気で留守がいい」の典型ですし。笑) 結婚以前から「君は世の中の汚いところを見ていない。もっと目を向けないと…。」と言ってくれて…。私が、ブリっ子の意地っ張りである事をちゃんと見抜いていたんですよ。で、この人なら、疲れないかなぁ…と。その時点で、自分の全体像を見てくれる、自分より上の人間を見つけたような気がしたんです。でも、結婚して、騙された…と、発覚した部分も多いんですけどね。(笑) そんな旦那も、私の子育ては評価してくれているみたいです。娘が4歳半まで喋らないちょっと特殊な子だったのですが、その成長を幸せとして共有できた事は、幸いだったと思います。

で、極論を言ってしまえば、結婚とは子孫を残す事に価値あることなのかなぁと思います。夢も何にもない言い方ですが、私は、娘を育てられた事自体が幸せです。彼女が生まれた時は、姑になんと言われるか怖くてしかたがなかったのですけれど。(私の姑も「跡取り」と五月蝿く言う人なので…)もちろんこの事は、娘にもちゃんと話してあります。そんな事ばかり私が話すので、娘は、心理学か精神医学をやりたいと言うようになったのですが…。

とにかく人間って、吃驚するほど変わるんですね。人間万事塞翁が馬なのかもしれません。だから、他人のも自分のも“警告シグナル”を見逃さないようにと、いつも肝に銘じています。だから、「甘い」と、よく言われるんですが…。(笑) 
でもね。やっぱり今でも、嫁姑のトラウマは、私に深く残っていて、旦那の実家に行くと、帰宅した途端に激しい胃痛と嘔吐が…。いや、旦那のお母さんは、良い人なんですが…。理屈では分っていてもね…。これも、仕方がないと諦めています。(^^;)

メンヘル…。最初「メルヘン」と読み違えて首を傾げていたら、メンタル・ヘルスの略だったんですね〜。(^^;  人間生きている限り、それとは無関係ではいられないものの、メンヘル系を中心に扱ったサイトは、ヘルス=健康と言いながら、あまり心安らかには読むことはできないかなぁとも思います。といって、TVのニュースで、自殺系サイトで知り合った人が集団で…というのは、良く聞きますから、最近そうゆうサイトが多いそうですし、結構、影響を受けてしまう人いますよね…。

この間日記にも書いたけれど、イラスト系サイトで、包帯、眼帯、切り傷系のイラストが多いのには、本当にびっくりしたので、以前より目に触れる機会増えた事は確かじゃないでしょうか。単純に、芸術やファッションの流行かというと、そう捉えている人もいるにはいても、やっぱり、現実問題として真剣に悩んでいる人って多いと思いますし、現代ストレス社会の抱える大きな問題であると思います。

上記の“リストカットタトゥー”のサイトでは、リスカは「他人に見て気付いて貰いたいメッセージであり、心配されて甘えたいという理由からのもの」としているのですが、確かにそういう人もいるかもしれないけれど、自殺未遂する大半の人はそうじゃない気がします。寧ろ「他人に甘えられない」から、そこに至ってしまうような…。もっと甘えればいいのに自分を追い込んじゃう人が多いような気がするんですが、違うかなぁ…。

最近感動した言葉に、「あなたが空しく生きた今日は、昨日死んでいった人達が、あれほど生きたいと願った明日(『カシコギ』趙 昌仁)」というのがありました。涙が出る程ジ〜ンと来たし、私の様に人生を無為に過ごしているおばさんには、とっても考えさせられる言葉でした。(いや、座右の銘にしなければ、人間失格かも。)
でも、だからといって、「生きたくても生きられない人も居るのに、自殺や自虐をしている人は『甘えている』んだ!」と、一喝するだけでいいのかなぁと思うのです。病床で家族の愛に看取られながら亡くなる人もいると思うのですが、その一方で、辛くて仕方が無いのに、『甘えている』と一喝されて、たった一人で死を選ぶ…。そういったケースもあるのではないかと思うからです。


私のリスカをした事がありませんから想像に過ぎません。でも、程度の違いはあると思いますが、どうやら血管まで切らない人もいるようなので、甘いとは思いつつ考えてみました。

自分を壊して無くしてしまいたい衝動と、そんな事をしてはいけないという倫理の間(はざま)。人間は、衝動と倫理の間に居る動物で、それに常に折り合いをつけなければいけないものではあります。でも、肉体的にもさることながら、その衝動と倫理の間のナイフのエッジに立つような極限状態…そしてどちらかに転ぶのは神のみぞ知る…そんなリスカに象徴される世界には、ある意味の超越感があるのではないか…と、想像は出来るのですよ。(←私は其処に踏み込めない人間なので、余計にそう思うのかもしれませんが…。) だって、本当に自殺したければ、もっと確実な方法があるわけですから…。多分、本当に死のうというより、生死の根本的な間で、自分の存在を物理的に確かめてみたい衝動もあるのではないかなぁ…などと推測してみたりしてます。今の世の中は、自分で自分の付加価値を付けることが難しい時代ですから、せめて自分の物理的存在に魂で触れてみる方法というか…。今は多様な世の中で、本当の価値のあるものなんか分からないし、そんな物を真剣に議論する事はダサい世の中ですからね…。話す機会なんてあまりないでしょうし、それより、やっぱり目で見て、痛みとして感じて、自分で自分を戒めたり、追い込んだり、その極限で一番大切なものを見極めたり…等という、どちらかと言えば、苦行的な自虐の中に精神開放的救いを求めている…そんな思いがあるのではないかなぁ…と。自分を追い詰めて、追い詰めて、自己破壊の後に来る自己解放…。居場所の無い自分が、別の世界へ行く入口…。悲鳴にも似た…。(ああでも、現実は多分、その後も何も状況は変わらないのだと思うし、偏見もあって状況はもっと悪くなるかもしれないけれど、そういうものを求めてしまうのではないかと…。)

そして、その感覚を知っている人は、話をしなくても、極限の体験をしているという点に置いて、完全に分かり合えるのだという人間関係が、メンヘル系ネットでの繋がりなのかもしれません。命への執着の希薄さは、多分、自分の価値を見出せないからだと思うのですよね。実際にそういう時代だし、そう簡単には誰だって見出せないのだけれど、現代の人は、自分の生活に追われているだけで終わってしまう程単純じゃなくなっているし…。反対にその手の複雑さを受け入れる程、社会は練れてないし…。いや実際は、多様化して来ているけど、「リスクを背負うのはいけない事だ」と言われながら育てられてきた現代人は、動けないのだと思います。だから、そちらの方向に何かを求めてしまうのかなぁ…。などと、つらつら考えました。

私はと言えば、中学生の時は、いつ電車に飛び込もうか真剣に考えている子でした。(^^;)実際に電車の人身事故を見てしまって、その悲惨さを知るまでは…。
理由は、今思えばとても馬鹿らしい理由でして、「ピアノを辞めたい…」という事。あはは。
辞めたいのに親に辞めさせて貰えなくて…。でも親に反抗できない。別にピアニストを目指しているわけではなかったので、本当にアホの極致の理由なんですが、当時は、親と学校くらいが自分の世界だったから、その辛さから自分を救い出すのは、それしかないように思えていました。それで死ななくて良かったよ〜ホントに。(ToT) 人間の生理学でいうと、思春期、20歳くらいの青年期、40代…この時が一番自殺が多いそうですね。つまり、ホルモン的に身体が変わるから…。よく「理由もなく死にたい」…っていうけど、ちゃんとした理由があるんですよね。知っていれば、それほど悩まなくてすむのに…。(^^;)

まあ、でもこの先の見えない日本。勉強して良い大学に行っても出世するとも限らないし、方向性に明確な答えもないから、人は皆迷走状態。絶対価値なんて何処にも無くて、周りばかりが凄く見え、自分ばかりが取り残されるような強迫観念。一方TVでは悲惨なニュースが多くて…。どうしたら、いいんでしょうね。ホント。(^^;)  だから、人は寄り添うのでしょうか? ああ、でもネットの世界って、簡単に虚構が作れるし、見分けが付かないと悲惨なことになる…。ゲーテの「若きウェルテルの悩み」が出版された当時、自殺者が急増したのだとか…。この本は私の好きな本ですが、虚構と現実の区別がつかない人が読むと自殺者を増やす結果になる本なのですよね…。そんな理由かからも、やっぱりネットのメンヘル系は、私はあんまり好きじゃないのですよ。虚構と現実の区別が付かない青少年が見たら、危ないなと思うからです。実際、娘が居た中学で、学校でカッターを持ってきて、腕を切っていた子が何人か居たのです。割りと他人事ではなかったので、真剣に考えてしまいました…。

そんなこんなで、その“リストカットタトゥー”のサイトですが…。
言いたい事はわかるが、そこに結びつけるものじゃないだろう…とか、そこまで断定しなくてもいいだろう…とか、そういう理由をつけて、商品まで売るなんて…どういう商魂?などと、反論したくなるような過激的発想のサイトではありますが、まあ、ファッション感覚の軽い気持ちの人だったら、この広告みて、リスカしたくなる人より、冷める人の方が多いと思うから、沢山あるメンヘル系サイトより、実数的にリスカに関与する人の数を減らせるかもしれないなどとも思いました。
実際、そのサイトのBBSでは、怒っている人が多かったですけれど、怒りは少なくとも自分の外側に発せられるもので、能動的なものですよね。だから、リスカに向かうような自分を責めたりする内側に向かう心を、外に向けているわけで、物議をかもした点では効用があったかも…などと、思ったりもしました。まあ、ちょっと断定的過ぎる広告文句だし、このタトゥーをしている奴がいたら、蹴り倒したい心境になるような気がしますがね…。

どうやら、これってコミケで売っていたようですが、あんな広告文句つけたり、リストカットとせずに、単に「傷口タトゥー」として、ハロウィングッズとして売ればいいのに…。と余計な事を思ってしまいました。だって、顔に貼ってあったら、フェイスペインティング系で、おしゃれでは??
以上、お節介オバサンでした。m(_ _)m

最近本屋で、ドナ・ウィリアムズの「自閉症だった私へ」(新潮文庫)が文庫版になって出ているのを見かけました。私は、単行本で読みましたが、高機能自閉症の人が書いた本です。一見普通の人なのに、どうしても他人とにコニュにケーションが取れないくて悩んでいた作者が、自分が自閉症だった…と、発見する本です。あえて「高機能」というのは、非常に知能が高いので、障害者だと認識されにくく、変わった人に見られがちだからです。映画では、『レインマン』が有名ですかね。彼も高機能自閉症です。彼らは、サヴァン症候群等に代表されるように、障害があっても、その他で超人的な才能を発揮する事も時々あります。私の知ってる子達の中にも、5歳で絶対音感があったり、何年先でも、カレンダー曜日が言える子が居たり…。そりゃあもう凄いですよ!!はっきりいって天才です。

時々、TVドラマや漫画などで、心理的に辛い思いをして「自閉症になった」という表現がありますが、あれは全くの間違いです。 自閉症は脳の障害で、物理的なものです。薬はありますが、治らないんです。心理的にストレスで、突然自閉症にはなりまへん。(あ、でも、なんか最近TVで、自閉症を扱ったドラマがあったようですね。電車の中刷りで見ましたが、TV自体は見ていません。ごめんなさい。)

自閉傾向というのは、あります。学習障害(LD)や、多動(ADHD←多動だけが症状ではありませんが)も自閉傾向はあるし、自閉症との線引きも、専門家でも難しいそうです。アメリカに行った時びっくりしましたが、ADHDやLDの子が、クラスに一人は居て、教師はそれを知っていて、昼休みになると、皆保険の先生の所に行って、薬を貰うんですよ!!(もちろん個人的に処方された物を飲ませるんですが…)アメリカで患者の家族に配られるADHDのパンフレットを読ませてもらった事がありますが、近眼の人が眼鏡をかけるのと同じような感覚で、薬を飲むのだとか…。実は我が家に遊びに来ていた子で3人はこのADHD またはADDでした!! アメリカでも、クラスに一人いるという事は、日本にだって居るわけで…。日本の対応は、大幅に遅れています。 反面、ADHDは、TVでよく「片付けられない症候群」とかって紹介されてますが、あれは、ADHDの極一部…。TVって百害あって一利なしですね。ヘンテコな固定概念を視聴者に植えつけて、偉そうに言ってますが…。(最悪) ADHDは、日本語で「多動」とは、言っても、大人しい夢想家タイプもあるんですよ。才能豊かな人や知能が高い人もいるし…。でも、異常に自殺率が高いので、もっと日本でも認識されてほしいなぁと思います…。 日本では、精神科医さえも、この事に非常に遅れていますので、もし、お心当たりのある方は、かなり、お医者さんを探さないといけません。そのために渡米した人を私は実際に知っていますし…。 で、私は、ある友人の息子さんと似たタイプだと思ったので、自分でも疑った事がありますが、びみょ〜に違ってました…。(笑)

で、自閉傾向に戻りますが、自閉症のセラピスト達は、自分で「自分が、自閉傾向だ。」と言っています。脳は形態が人によって微妙に違いますから、障害の領域に入る人もいれば、性格的にそれに「近寄っている人」もいるっていう事だと思います。まあ、私が心理学に興味があるのも、結局は自分探しなんですが、どっかそういう「傾向」的な部分が多々あるのは、自分で知ってます。

よく言われていますが、うつ病なんて心の風邪って言われているくらいだし、世の中に沢山居るし、私は、性格の一種で片付けちゃいます。でも、同調しませんよ。誤解されるといけないので言いますが、自分でそういう病気だと言って、逃げ込んだりしたいわけではなく、自己分析に使っているだけで、薬とかは使っていませんしね…。人間、誰でも、そいういう「寄り」とか「傾向」的な物って持っていると思うので、自分を客観的に見たいがために、勉強しているだけです。(中学生くらいから分裂症の本読んでましたし…。←暗い子だった。^^;)

理論的に理解は出来ますし、その人達を尊重できますし、病気等の回復や改善を心から祈っておりますが、『同調しません』ので、よろしくです。最近精神系サイトって多いようですが、私は、悲劇のヒロイン的にそっちの方へど〜〜〜っと流れ込むタイプじゃないので、同類視しないでくださいねぇ…。(^^;) リストカットしたり、死や限界に酔ったりするタイプじゃありません。それよりも、そういう事を真剣に考えて行きたいと思う人間です。 感覚より理論派ですかね。 その感覚を空想して小説に書くなら、自分にも、書けるかもなぁ…と、思わない事もないけれど…。

こういうのを話し出すと、サイトが一個出来てしまう勢いなんで、この辺で締めを…。
飛鳥新社という所から出ている、森口奈緒美さんという人が書いた『変光星』という本の中に、ビックリするくらい素敵な言葉がありまして、忘れられません。

彼女もこの高機能自閉症なんですが、彼女は苛められて『死ね!』と何度も言われたそうです。
で、この『死ね』という言葉、ローマ字で書くと、sine ですが、「し」を「shi」と書く事も多いじゃないですか、で、そのように書くと「shine」と書けるんですよ。
わかります? 
英語で読むと、「shine」は、シャイン!! 輝け!!っていう意味なんです!彼女は『死ね』と言われるたびに、『輝け!』と言われていると、思いなおし、それをパワーに変えていったんですって…。
私には、彼女の その頭脳と、純粋な美しさと、力強さが、本当に眩しいくらいでした。
私は幸いにも、面と向かって『死ね』と言われたことはありません。でも、最近は、人が傷つく言葉を平気で、口にする人が多いと思います。
社会で普通に暮らしていながら、そういう言葉を平気で使う人より、私は、shine!と言った彼女の方が、何百倍も美しいと思うんですよね…。(←ここ、びみょ〜にレスになってますかね。^^;) 私も、御託を並べてないで、強くならないとあかんですね。そう思います。自分がサイコーって言える奴を見ると怖気が来ますが、反面、羨ましいですから…。あ、オリンピックで頑張った人は、評価しますよ。もちろん! でも彼らとて、欠陥のない人間ではないと思いますが、頑張った人は美しいですもの! 私が一番足りないのは、頑張りだろうな…。とほほ。(ToT)

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