Moony Geekazoid

つれづれにプライベートや思考を書き流しています



カテゴリ: つれづれ

昨今は日本でのハロウィン・イベントが盛況だ。
こんなにメジャーになったのは、ここ5.6年じゃなかろうか?
娘が大学時代に外国人の友達と六本木でパーティをやった頃は、
少なくとも外国人絡みのイベントだった気がする。
(川崎のハロウィンだって、そんなにメジャーじゃなったような…)

私が最初にハロウィンを体験したのは、
旦那のアメリカ赴任に同行した1998年だった。

アメリカでもかなり安全とされている地域だった事と、
10月31日の翌日が、土曜日で学校が休みだった事もあって、
我が家には、100人を超える子供たちがやってきた。
(正の字を書いて、しっかり数えていたので確かな数だ。)

あらかじめお菓子を買いそろえてあったのだが、
全く足らず、自分たちの為に買ってあったチョコレートバーや
コーンフレーク(小箱)まであげた事を覚えている。

それが最初の年だったから、次の年にはもっと沢山お菓子を買った。
アメリカ人の友達も出来て、親も一緒に仮装して、
子供たちの「トリック・オア・トリート」に付き合って、
一緒に家々を回ったりした。
でも、家を留守にしていた分、前年ほどは、お菓子は必要なかった。

とにかく、それらの思い出があまりに楽しくて、
私も娘もハロウィーンが大好きになった。
私立中学の受験の時でさえ「ハロウィン・パーティをやる」学校が
学校選びの決め手となったほどだ。
当時、ハロウィーンを祝う場など、日本にはなかったからだ。

ところが、娘はその私立中学で登校拒否になり、自主退学。
結局、イギリスに留学した。

すると、イギリスではハロウィンのイベントは無かった。
ハロウィンよりメジャーなのが、
ガイ・フォークス・デイ(Guy Fawkes Day)だった。
(それが何か気になる人は、検索して下さい。)

…それは余談だが、とにかく、ハロウィン好きが高じて、
カリフォルニアやフロリダのディズニー・リゾートにも
わざわざハロウィンの季節に行ったりしている。
娘はTDLのホーンテッド・マンションのキャストも経験し、
パリのディズニーランドにもハロウィンの時期に行った。

兎に角、我が家は、
クリスマスよりもハロウィンが大好きだったりする。

ちなみに、我が家はこんな感じの飾り付け。
http://blog.livedoor.jp/lestat227/archives/52220753.html

今年は、忙しくて飾りつけをしなかったが、
先日、なんとか東京ディズニーランドへ行って来た。
この、闇に浮かび上がるオレンジ色の光の加減が大好きだ。

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何処何処に行かない?と聞かれたから、
忙しいと答えた。
それだけでは素っ気ないし、真実味がないと思って、
○○、××、これこれしかじか…と、
2行程度で収まるように、予定を列記した。

人は往々にして、他人の行事には興味がないので、
詳しくは書いていない。
忙しいという事の証明みたいなつもりで軽く触れた。

そうすると、決まって、
私も、△△、□□、あーだこーだと、
自分が如何に忙しいかを書いてくる。
私は、自分が書いた事に上書されたような気分になる。

暇だから誘われたのかと思っていたのに…。
そんなにも忙しいのに、時間を割いて誘ってくれたのかな?
こっちも大変だけど行かなければいけないのかと
申し訳なくもなるけれど、どうも違う気がする。

誰だって、忙しい時もあれば、比較的時間がとれる時もある。
そういうのは当たり前の事であって、至極当然のこと。
でも…
どうも他人より自分が大変じゃないとピリリと反応してしまうようだ。
そして、自分の事項で上書きしないと気が済まないみたいなのだ。
たまにそんななら、ニュアンスの書き間違いって事もあるけど、
100%の確率でいつもだから、こちらとしては
なんだかやり込められた気分になる。


○○行ったよ。△△行くよと、頻繁にメールが来るから、
いいねぇ! どうだった?など、
私は一つ一つに反応して返事を返す。
それが、人の話をちゃんと聞いているという合図になると思うから。
でも彼女は、私が行事を書いても、九割がた反応しない。

殆どの場合、一切無反応で、
私は△△、□□行きました。やります。
返って来るのはそれだけ。
つまり、こちらを無視して、上書きして、それだけ。
これも、毎度毎度の事。

無反応で上書きだけだと、否定されたような気がする。
気のせいだろうか?
だから、邪推したくなる。
私の些細な行事が相手を少なからず刺激しているのだろうかと。
だとしたら、それはその人の心の底に隠れた競争心なのではないか?と。
些細な事にピリピリ反応して、爆発的に怒るから、なおさらに…。



他人と比べて、他人を見下ろしたとしても、
自分の人生自体が向上するわけじゃない。
そんな事で得た自己評価や自己肯定は虚しいだけだ。
そんな負の感情は美しくないし、むしろ人生を汚す。

自分自身の力で得た満足感を大切にしていく事が
ひいては自分自身の人生を一歩一歩行く事に繋がる。
私は、そう思っている。

美味しいものを食べると、しみじみと幸せを感じる。
美しい風景を目にすると、しみじみと幸せを感じる。
細やかな心遣いに接すると、しみじみと幸せを感じる。

最近、そういう幸せな瞬間が多いのは幸せな事だと思う。

反面、無神経や刺々しい感情に接する事も多かった。
ここ数日で、別々の人から、別々の場所で遭遇してしまった。
(まさに、こんな人達)

だから、相殺という事になろうか。
おかげで、ようやく心の均衡を保っていられる。

彼らには、おおらかさや余裕が全く感じられない。
自己中心的な威嚇を、まるで何かの発露のように他人にぶつけてくる。
それは、少しでも自分を強く見せたいが為の虚勢なのだろうか。
そうでもしないと、自尊心を保っていられないからなのだろうか。

嫌な人間と接すると心や力を思いっきり削られる。
負ってしまった心の傷を癒す為には、
その10倍程度の幸せが欲しいところだけれど、
幸せはそんなに沢山転がっていないから、
小さな幸せを大きな幸せに感じられるような
増幅機能付きの幸せセンサーを研ぎ澄ませないといけない。

うちの犬は、犬がキャンキャン吠えたてても無視する。
不安的で平和を乱す犬など、そこに存在しないかのように。
犬にも学ばなくちゃなと思う。

文章に書く事で、自分の気持ちが整理できる。
言葉にして吐き出す事で、落ち着く事ができる。
特定の個人に宛てたものでもないけれど、ネットの河の流す事で、
遠いどこかで誰かが共感してくれる可能性に、少しだけ心が慰められる。

こんな事を他の誰かに相談したりしたら、彼女と同じ事になってしまうから、
せめて、ここだけに書いてみる。


自分がやった事は、いつまでもいつまでも恩に着せる。
でも、こちらのやった事には殆んどお礼がない。覚えてもいない。
文句ばかりが降って来る。
お互い様とか、フィフティ・フィフティの感覚が欠落している感がある。

彼女の言うとおりに、思う通りに、私が動かないと声を荒らげる。
あんまりだと思って言い返してしまったら最後、
数倍のネガティブ波となって、押し戻ってくる。

その勢いのままに親戚などにまで、私のネガキャンを広めてしまう事もある。
一度「貴女が気が狂ったと、彼女が言っている」と親戚から連絡を貰った事があった。
今回は、娘が慌てて連絡して来た。またかと思った。
これが親戚だけでなく、共通の知人にまで及んでいそうで、恐ろしい。
そこまでやっていたら、もはや正気の沙汰ではないが、
彼女は、ほんの少しの提言でさえ攻撃だと思い込み、爆発し、
他の人にまで「私はこんなにも可哀想なの」と訴えて、自分の味方を作りたがる。

彼女は元来傷付き易いので、防衛本能が強過ぎる事で攻撃的になるのだと思う。
他人に訴えてしまうのも、自分の中で理性的に処理出来ないからに違いない。
それは少々、病気の範疇にも思うけれど、
「カウンセラーや精神科医を信じてないので、馬鹿にしたくなる」とか
「授業の内容が気に食わなければ、先生を論破してしまいたくなる」
などと普段から言っている彼女が、どうにかなるとは思えない。

私はと言えば、精々こんなブログに文字にして書くことで、
自分の気持ちの整理をし、ネットの河に文字を流して、心を落ち着かせるのが精一杯。
面と向かって何か言えば、余計に事態が悪化してしまうから、
母の位牌に「助けてくれ」と泣きながら頼むしか、なす術がない。

亡き母もいつも嘆いていたのだ。
「あの子は恐ろしい。いったい何様のつもりなんだろう?
自分が完璧だとでも思っているから、あんなに激しく人を攻撃できるのか?…」と。
(実際、彼女は「自分がいかにデキて、他人がいかに駄目なのか」そればかり口にする。)

あの子が欲しいのは、親身になって考えてくれる人間ではない。
あの子が欲しいのは、自分の言う事を聞き、
自分に都合の良い事を言ってくれて、
一緒に外食してお酒を飲んでくれる人間だけなのだ。
それ以外は、不要なのだ。
確かに、そう言っていたっけ。本当にそれだけだったのだ。

だったら、彼女にも分かって欲しい。
お酒もほとんど飲まず、のんだくれが大嫌いな私が、
それに適切な人間ではないと…。


距離を置こう。そうすれば、恐ろしい事態に陥る頻度が減る。
そして、できる事は自分ひとりでやろう。
いつもではないとは言え、いつ爆発するか分からない恐ろしさに耐えながら、
共依存みたいな関係はもう嫌だ。
この一年とちょっと、何度もグッと堪えながら、もう十分に私はやった。
どうもそれは、彼女にとっては当たり前の「奉仕」だったようで、
多くは文句を言われ、無視までされて苦しんだ。徒労感が半端ない。

もう苦しんでないで、私自身の人生を歩もう。
歩みを停めて、可哀想な自分に浸かりきった彼女と一緒に
私までもが立ち止まっていたら、私の人生が勿体ない。
私は自分自身のために、ちゃんと先へ進もう。

酷い物言いで突っ込まれる余地のない人間を目指そう。
そうやって切磋琢磨して前進したほうが、よっぽど建設的だ。
それを見て彼女も前を見る事が出来たら、それは彼女にもプラスかも知れない。
一緒に居て尽くす事だけが、サポートではないのかも知れない。

こちらの話題や話にはほとんど無反応。
私の文章をちゃんと読んでいなかったり、
話を聞いていない事が驚くほど多い。
返事が必要な事ですら催促しないと反応がない。
なのに、その逆だと怒る。こちらが忙しくても。

「ありがとう」という言葉も、こちらが指摘するまで、ほぼゼロだった。
なのに、言い訳や、文句や、皮肉は忘れたりしない。

可哀想なのは自分。その穴から出て来ないから、
お互い様という感覚や、持ちつ持たれつという感覚を持ち合わせていない。
悪びれもせず、当然のように誰かの奉仕を期待してくる。
だから、こちらの一方通行感や不公平感が半端ない。

「サポートする」と故人に約束したから、一年間頑張って来たが、
こんな調子が続くから、段々辛くなって来た。
せめて感謝してくれたら、少しは浮かばれるのに
文句や罵倒ばかりじゃ、やりきれない。

自分は完璧だと思い込んでいるのか、棚に上げているのか、
他人の落ち度をちょっとでも見つければ憤慨して、
自分が一番頑張っていて、他人はゼロで最低と見做す。

常に自分が正統で、自分を悩ますのは愚鈍な他人。
…そんな揺るぎない自信の世界に、彼女は生きている。
そんな風に見えてしまう。
…というか、彼女の言動は、どう考えてもそうだ。

今まで他の場所に書いていたブログや
つぶやきなどを、ここに一つに纏めてるんだけど、
ものすご〜く時間がかかる。
まだ、終わらない。

でも、日記的なものだから、
あの時はああだった。こうだったと思い出して懐かしんでる。
やっぱり記録って大事だなぁ。

日々、無為に過ごして来たような気がしていたけれど、
日々を経て、考えを重ねた痕が残っているから、
なんだか自分が少しだけ成長しているように思える。

TVを見ていて、イタリアの舞台俳優が言った言葉が印象的だったので、書き込み。
「俳優はスターではない。芸術家であり職人だ。」

あとは、パソコン立ち上げてる間に忘れたが、
「自分が無力だと思って、真摯に向き合ってこそ輝く」的なことを言っていたように思う。

いい言葉だと思った。「自分自身が芸術だ」と高言する自信も必要かもしれないが、
そういうハッタリの外郭の中に、弱さを秘めた二重性こそ、美しい気がする。

妹が変わった。友人に頼まれて「行きたい場所ではないし、虫も嫌」と言いながら、
しぶしぶ南米に旅行。熱帯雨林で半月過ごしたら激変した。

それまでは何を言っても聞く耳持たなかったし、
お酒を飲めば他人否定が延々続いたのに。

今は、逆に人を好意的に見るようになったし、私の勧めに対しても意欲的に動くようになった。

大自然が人を変えたのか…。どちらにしても素晴らしい変化に、私自身も良い刺激を貰った気がする。

今日はなので、記念に書き込み。
先週ずっと腹痛と下痢(それほど酷くはないものの)に悩まされ、
少々…というか、かなり疲れ気味。

…ところで、私は、「鬼ちゃん」ファン。
副業で雷様なんて、カッコ良すぎる!!

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