Moony Geekazoid

つれづれにプライベートや思考を書き流しています



カテゴリ: 美術館・博物館

一昨日の「若冲展」に続いて、昨日は「広重ビビッド展」に行って来た。

月に1,2回は行くミッドタウンへ食事に行ったら、偶然発見。
何故に、ビビッド? と思ったら、
「初摺り」の中でも早い期間に刷られた貴重なもので、
作者の広重監修の元に刷られた作品だからとか。
展覧会ではそれが一同に会しているらしい(原 安三郎コレクション)。
需要の多さに対応すべく、摺りの手数が簡素化された「後摺り」とは
全く違うのだそうだ。

確かに、彫のない場所に美しいグラデーションを作るには、
微妙な色の乗せ方で表現するしかない。
この展覧会の作品は、どれも空の色のグラデーションが美しかった。
こういった「初摺り」に接する事は
広重自身の意図をより多く感じ取るための貴重な機会に違いない。

(「刷り」という文字を使うのかと思ったら、
  公式HPでは「摺り」と。日本語って難しい。)

北斎の超有名な浮世絵も併せて展示されていたが、
「神奈川沖波裏」などは、本当に凄い構図だ。

でも、「凄い構図」の【数】で言ったら、
広重に軍配が上がるのではあるまいか?
彼はドローンを持っていた?と思わせるような構図が多数存在する。
広重は鳥と以心伝心出来て、鳥と同じものを見れたに違いない。
そんな風に思わせられる空からの構図や、
草むらの中から人の世を覗く構図。
そして、それを際立たせる効果的な遠近法。
どれを取っても、唸ってしまうものばかり。

有名画家の模写をする絵の勉強法は古今東西あるが、
この人の絵の模写をしたら、とてつもなく絵の勉強になるだろう。
…そう思ったのは、広重が初めて。
(あのゴッホが模写した浮世絵も、広重が多かった模様…(#^^#))

「若冲展」に比べて、見学者も少なく快適に鑑賞できた。
駐車場も混雑はなく、連休中に出かけるには、最適かもしれない。
金土曜日は、午後8時まで開館らしい。(詳細は以下で)
http://www.suntory.co.jp/sma/exhibition/2016_2/

昨日、高輪の開東閣で開催された「藤見の会」に出かけた。
2012年から毎年楽しませて頂いていて、今年で6回目になる。
最近は、4月29日の開催が恒例との事。

その後、車で移動して、上野の「若冲展」に行った。
劇的に混雑していたが、なんとか見学。

繊細さで圧倒される筆致の絵があると思えば、大胆な筆遣いの墨絵もあり。
とても可愛らしい野菜や虫の絵の巻物もあり。
もちろん、今回の目玉のモザイクタイルのような絵もあり…。
引きで見ても、近寄って見ても素晴らしく、
自由自在に描きかけられる、若冲の超絶な画力に驚嘆した。

中でも、月と梅を扱った絵が私は好きだった。
本来、梅の花の中には、緑色は見受けられないのに、
ペパーミントグリーンのような色が差してあった。
(おしべではないが、おしべのような形をしていて、
 本物の梅には見当たらないものだった。)

色の魔術師と言われる若冲だけに、
我々の計り知れない効果を期待して描いているのだろう。
遠くから見ると感じられるだろう薄い緑色は、
梅の若さや瑞々しさとなって、見る人の眼に感じられるのだろうか。

そして、梅はあるのに、日本人に人気の桜の絵が無い。
動植物の絵には、対象物への憧憬や愛情の眼差しを強く感じたが、
人物の絵はどこか歪曲フィルターを通したような絵柄だった。
若冲は人間嫌い且つ、ポピュラーの物が嫌いなのかなぁと拝察した次第。

あくまでも、一般人が目を向けないもの、小さきものを愛し、
愛情の眼差しを注いだ人物なのだろう。

開期が短く約1か月だが、金曜日は夜8時まで開館しているらしいので、
直に見る事を強くお勧めしたい展覧会だった。

http://jakuchu2016.jp/ (←公式サイト)

昨日、藤田さんちの曜変天目茶碗をサントリー美術館で見てきた。
2013年には、静嘉堂文庫美術館で、岩崎さんちのを見た。
とても派手な岩崎さんちの茶碗に対して、藤田さんちのは静かな色合いだった。
世界三つ現存するだけという曜変天目茶碗のあと一つもいつか見てみたいものだ。

だが、飲み口の辺りに、小さく欠けたような形に朱色が入っていた。
むむ? 景色なのか? 欠け(金継)なのか?
カタログの写真は、それが映らないように撮影してあるし、
それについて何の解説もない。ネットで調べても出てこない。う゛〜ん、謎だ!

前々回の記事の「西洋古版本」つながりで、
「ヴァチカン教皇庁図書館展」というものに行ってきた。
http://www.printing-museum.org/exhibition/temporary/150425/vc.html
開期は、7月12日まで。

1462年にグーテンベルグが印刷した「聖書」に始まり、
デューラーが挿絵を描いた「黙示録」、
ボッティチェリの挿絵の「ダンテの神曲」等、有名な本が並ぶ。
英国史上最も有名な書物収集家スペンサー伯爵(ダイアナ実家)が築いた
スペンサー文庫からの一冊などもあった。

なんと、重々しい鎖に繋がれた本も。
昔、書物は貴重だった時代。盗まれないように
机と椅子が一体化した台に、“本は太い鎖で繋がれていた”そうな…。

特に美しいのは、彩色された書物だ。
書物を買った貴人が、手描きで挿絵に彩色させたり、
自分の家の紋章が書き込ませたりと、オリジナルの加筆を施したものである。
その中でも、一人一人が自分自身の物を所有していたという「時禱書」には、
貴人が自分だけのために、美しい枠を描かせ、美しく装丁させたりしていた。
身を飾るための宝石とは異なるが、心を磨くための宝物と呼ばれるに相応しい、
優美な書物たちだった。
(時禱書は、いつか字書きネタで使ってみたいと目論んでいる。)

12月末にカイユボット展に行った印象をメモしておこうと思う。

彼の絵には音がない
展覧会の冒頭で彼を「都市の印象派」と紹介してあったが、
都市の喧騒から遮断されたような孤独が、絵を支配している。

行き交う人々も、誰一人として同じ方向を目指していない。
絵の中の人たちは、親しい人たちであろうのに
視線すら交わしていない。
それぞれが自分自身の想う何かを見つめている。

それなのにカイユボットは、絵を閲覧する人間の視線を意識している。
他の画家の多くの風景画のように
ゆったりと遠い光景を眺めるような余裕を我々に与えてはくれない。

ほぼ全ての彼の絵は、半ば強制的に我々の視線を一点に運ぶ。
遠近法の上をゆく、彼独特の技に強いられて、
閲覧者の視線は一気に絵の中のある一点にいざなわれる。

見る者の視線を誘導しておいて、そこには取り立てて何も配置されていない。
これも画中に漂う孤独感を際立たせる、作者の演出の一つなのかもしれない。

人間は根本的には誰とも理解し得ない孤独な存在である。
カイユボットのそんな哲学が染み透るような絵の数々であった。
それは確かに現代人の都市生活に澱む“諦念”の感覚に似ていた。

月曜日にターナー展に行った。
通常は月曜日が休館なのだが、最終週だったのでその日は開館日。
水彩画を習い始めた身には、大半が水彩画の展覧会は有難い。
連日予定が立て込んでいる中、半ば無理矢理駆け込んだ。

彼の色使いが特徴的だった。
殆どの絵が茶色と青が基調なのだ。
遠景は、ローシェンナとウルトラマリンで構成されている。
油彩であっても絵の具の透明度を生かすグレーズ技法を駆使していた。
絵の中核になるにしたがって、それらの色に赤みが差してくる。
その赤みはたぶん陽の暖かさを象徴しているのだろう、
朝日の栄光を浴びているように輝いている。
そして手前の影はバーントシェンナとウルトラマリンが混ざり合って深い。
(水彩では黒の絵の具は使わずに、青と茶を混ぜて微妙な黒を出す事が多い。)

ターナーがいちばん多用したのはクロームイエローだという。
これが、彼独特の光の色だ。もっと強い光はそれに白が加わる。
そして、鮮やかな赤は極力控えられて、
本当にシンボリックなものだけに、極少量使われている。
たとえば「水葬」という絵は、中心部に手をかざして隠してしまうと
青と茶だけの世界だ。
緑色は彼がいちばん使わない色かも知れない。
木々でさえ、辛うじて緑がかっている程度である。

彼は崇高なものを描き出そうとしたという。
だからか、絵の中の大気も光も質量を持って世界を圧している。
軽い透明感とか鮮明さには縁遠い。
印刷物やネット上の絵は発色が鮮やかなので分かりにくいが、
実際のターナーの絵は、霧を通して見る陽光さながらに
何もかもがシェンナ色に透けている。

たまに本の挿絵として依頼されたらしい色鮮やかな絵が混じっていたが、
なんだか恐ろしくターナー的ではなかった。(もちろん美しいけれど)

もう一つ興味深かったのは、ターナーが水彩画でも下塗りをしている事だ。
ウォッシュと呼ばれる、色を均一に薄く塗る技法で最初に紙に色を付ける。
下塗りの色は、インディゴが多かったようだ。(たぶん)
ターナーは、青い紙の上にも絵を描いていた。
黄土色の紙を使うのが一般的のように思うが、
彼は闇に光を置く感覚で色を置いていたのかもしれない。
とにかく、茶と青がターナーの絵の基本なのは間違いないだろう。

壮大な構図に物凄く繊細な注意力を注入したような絵の数々は
素人では真似られるべくもないが、ターナーの色を自分なりに分析してみて
僅かながらでも自分の絵に取り入れて、巨匠に近づきたいものである。

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