ルタンリッシュ音楽ホール津

ルタンリッシュ(豊かな時間)を目指して~津市神戸から発信~

ルタンリッシュ音楽ホールは津市神戸にある「豊かな時間」を創造する空間です

2016年12月

お世話になっている郵便屋さんに伊東朔の即興演奏

郵便配達や郵便局窓口の方々、郵便物のご紹介のお仕事の方、みなさん、いつもご親切にしていただいてありがとうございます。

最近、あれこれと郵便局のお世話になる機会が多く、かねてより親切にしていただいている方や、ここのところお世話になっている方、夜の窓口の方々と接しているうちに、あることを思い出しました。

専売公社というものがあって、タバコや塩、そして切手などを取り扱うお店が限られていた時代、私の母方の祖父母が小さな駄菓子屋をやっており、切手やタバコなどを販売する権利を持っていたのでした。

どこどこの地域にある赤いポストのあるお店、と言えば、駅からタクシーで間違いなく祖父母の家まで走ってくれる時代でした。

そんな頃、祖父母のところへいくと、店番をさせてもらうことがしばしばありました。お店のたたずまいは、あの「三丁目の夕日」の映画に出てくるようなもので、タバコや切手は小さい窓口で売っていました。こちらは中は半畳ぐらいの畳敷きで、そこに座ってお客様に対応するのです。

子どもの頃に、切手を売った経験のあるのは、珍しいのではないでしょうか。

私が民営化されても郵便局に親近感があるのは、そんな子ども時代があったことも影響しているのかも知れません。

伊東朔は、最近、パソコンで作曲する時間が長く、ピアノやヴァイオリンに触れる時間が短くて、私としてはあれこれと心配しているところです。けれども、ちょっとしたきっかけで、その人のために即興的にピアノ曲を演奏するということになると、スイッチが入るようです。

ある郵便局の方と懇意になって、伊東朔に興味を持っていただいたので、お休みのときに日頃のお礼もかねて、その方のための演奏をしました。

大変喜んでいただきました。ものすごく喜んでいただいて、こちらが驚いたぐらいです。感動が覚めません、と言って、翌日にはご自宅で栽培している野菜を持ってきてくださいました。

野菜と言えば、ルタンリッシュ音楽ホール津を応援してくださっている音楽関係の方も、ここのところ、無農薬野菜や新鮮な果物を届けてくださいます。

野菜の値段が高いときに、たくさんの新鮮な野菜を毎日食べさせていただいて、子どもたちも幸せです。もちろん、やはり鮮度と味がスーパーのものとは違いますので、どれを食べても、おいしい、と子どもたちが言います。

ありがたいことです。

伊東朔が郵便屋さんにお聴かせしたのは、10歳半ばで初めて自分で作詞作曲した曲と、その人の印象で即興的に創作した曲、そしてちょっと前に小さい子のために即興的に作ったメロディがハ長調の「ドレミファソラシド」の曲の大人バージョン、最後に、そのときに音を指定してそれを使っての即興演奏でした。

私は、伊東朔のいつものフレーズが余り出てこないことに気づき、シンプルながら創意に満ちた演奏だと思って、楽しめました。

また、ハ長調の「ドレミファソラシド」は、小さい子、同年代の女の子、今回の男性の大人の方、というように3回目でしたが、伴奏や間奏の入れ方が、聴いてくださる人の年齢に合わせていることに感心させられました。

いろいろとアレンジのできるバラード風の曲なので、「どれみふぁバラード」とでも名前をつけて、今取り組んでいるCD作成に入れてもいいかなと考え始めているところです。

この曲で特に面白いのは、終わり方で、伊東朔は曲の終止へのこだわりが強いのです。けれども、ドレミファソラシドという「しばり」があるので、毎回、工夫をして収めています。和音の付け方やリズムの形など、よくも瞬間に考えるものだなと思います。

そういうことが、郵便屋さんにはストレートに伝わったようです。

これだけできる子どもがどうしてあまり知られていないのか、と大変、不思議がってもいただきました。

東京や関西では、聴いていただく機会があるとすぐにとてもよい反応があるのですが、津では、聴く前から、そんなことができるはずがないという先入観で切り捨てられておしまいなんです。それにやったところで、どうせ親が作っているのだろう、とか、何が起こっているのかわからない、という受け止めがほとんどなんです。

なんとかならないかなあ。

東京へ行けばもっとチャンスが広がるのだと思いますが、本人がまだその気にならないので、今しばらくは、伊東朔が本当に聴いていただきたいと思う方だけに演奏しているという状態が続くような気もしています。

100人の演奏を1000人が聴く演奏もいいですが、一人のためのその場限りの音楽も、同じ価値を持つと、私はあらためて思うこのごろです。

そういえば、このようなことを、かつて指導していたいろんな団体でよく言っていたものでした。






「真田丸」最終回:感想~絶妙の物足りなさが私には心地よかった~

いつもより10分多い今年のNHK大河ドラマ「真田丸」の最終回。

ここのところBS放送で見てますので、総合テレビではまだですが、私にとっては「真田丸」が終わりました。

総合テレビを見ている方もいらっしゃると思いますので、内容についてはなるべく触れないようにします。

最も感じたことは、脚本の三谷幸喜さんの、一つの才能でした。

主人公が誰で、このドラマで何を伝えたかったのかが、最後までブレなかったと思います。

物足りない、と感じられる方もいらっしゃるかも知れません。

でも、私は、これでよかったなと思います。大げさではなく、むしろ淡々と、真田幸村の最期の姿を見せたと思います。

歴史の史実としても、無理をしなかったように思われます。戦術と戦略の関係がよくわかる描き方でした。

戦術的には真田幸村は相当に有利な展開をしました。けれども、戦略的には徳川家康の方が勝りました。

立場の違いが大きかったと思います。武将と大将の違いが、勝敗に大きく影響しました。

そのことを、たぶん意図的に、三谷脚本は描いたのだと思います。それも、くどくどと解説せずに、視覚的に見せたという感じでした。

今回の大河ドラマ全体を通して感じていたことは、歴史愛好家には余り受けの良くない人たち、得体の知れない人たちが、かなりよく描かれていて、以前よりも身近に感じられるなということです。

片桐や大野などの秀吉の大阪城の最期の武将たち、上杉や北条などの有力大名、家康の側近たちなど、なんとなく「まあ、どうでもよいか」というような扱いをされていた人たちが、それぞれの人間味を脚色されて、思いのほか、面白く見せてもらいました。ああ、途中でよく出てきた滝川一益も面白く描かれていました。

今回の「真田丸」で、これまでとは比べものにならないくらい人気が出た歴史上の人物もいるのではないでしょうか。

一方で、徹底的に割愛されたり、ほとんど触れられなかったりする有名人もいました。明智光秀、前田利家、小西行長、安国寺恵瓊など、この時代を描くときには必ず登場するような人物たちが、ほとんど登場しませんでした。

ご当地の藤堂高虎も、大阪の陣では相当に戦ったにもかかわらず、名前だけちょこっと出ただけでした。

織田信長でさえほとんど印象がなかったのが、今回の脚本の視点を確かなものにしていたと思います。

私は司馬遼太郎の「国盗り物語」が愛読書の一つで、大河ドラマで取り上げられたときも、かぶりつきで見ました。そのときは、歴史的有名人がはまり役によって大変面白く見た記憶があります。

三谷監督による映画「清須会議」も、視点や描き方が大変ユニークで、私が密かに追いかけている人物たちがたくさん出て来て、面白いと思っています。それと今回の「真田丸」は、どこかでセットになっていて、どこかで区別されているな、と思います。さらに三谷映画「陽気な金縛り」も、私はリンクしていると思いました。

「新選組」のときは、史実よりも若手の有力俳優と空想物語を見せられたようで、それなりに楽しめました。

それに比べると、「真田丸」は史実に近い形をとったのかな、とも思います。江戸時代から語り継がれている「真田幸村」のファンの方からすれば、かなり物足りなかったかも知れません。

この時代を、三重県に関係する人たちの視点から描くと、また別の物語ができます。私はその資料をかなり以前から集めてきています。

その中には、「真田丸」を見ながら、この背景にはこんな史実もあった、というようなものもあり、まだまだ面白いものはできる、と思いながらいました。

この記事の最後に書きたいのは、豊臣秀頼の描き方です。秀頼は近年の研究でも、家康が秀忠よりも優秀だと見抜いたから殺さざるを得なかった、と言われていることを知っている方も少なくないと思います。

江戸時代の秀頼の扱いは、独活の大木のような扱いでした。そのようにしなければ、豊臣ファンが多かったからでしょう。

今回の「真田丸」では、秀頼自身の人間性とそれを取り巻く大阪城の女性たちとの関係の複雑さが、一定の水準で描かれていたと思います。この匙加減は、あれこれと知っている者ほど、三谷幸喜の脚本の苦心が見えたのではないでしょうか。寧々、茶々、千などの描き方も、抑制を利かせていたので、返って楽しめました。

せっかくの大河ドラマなのだから、もっとスケールをでっかく、濃厚に作って欲しかったというご意見もあると思います。

けれども、大河ドラマだからこそできるすれすれの「物足りなさ」を、今回の「真田丸」は最後まで貫いて、成功だったと、私は思います。

視聴率に振り回されず、どのようにでもいいので、大胆に、かつ、ブレずに、日本のその時代の人たちの生き様をこれからも見せて欲しいと思います。

なんだか威張った文章になってしまいました。すみません。

そろそろ私も、集めた資料から、また別の戦国時代を描いてみたいと考えています。

生の合奏から遠ざかって気づくこと

父が亡くなったのが、その父が戦後の復興に尽力した津市の小中連合音楽会の直前でした。それから1年間、ステージ本番の指揮を自粛しました。

ただ1度やったのが大川学園がホールを借りて催した音楽会の指揮だけでした。理事長さんが父の教え子になり、共に供養していただいたのと、父も「これだけはちゃんとしなさい」と言っているような気がしたからです。父が亡くなってまだ1か月もたたない頃だったと思います。ステージで何度も客席に父の姿がないか探している自分がいました。

その後、附属小の合唱クラブのNHKコンクール全国大会出場も、津フィルの活動も父と語り合うことはできていません。

指揮活動を再開してから、再びあれこれと演奏会やそのための練習が続きました。愛知県の大学の教員になってしまったので、なかなか時間が作れなくて十分に準備ができないことが多く、かなりストレスがたまりました。

音楽活動や創作に専念できるようにと、サラリーマンの世界から飛び出してみて、それで生活しようと思うと、予想をはるかに超えて大変な世界だなと実感しています。

それでもぼちぼちとはやっていましたが、なかなか気分が落ち着かないのと、納得できるものができない苛立ちがさらに募って、本番から遠ざかってしまいました。

しばらくは音楽のことを考えることもなかったのです。以前のようにCDなども聴かなくなってしまいました。

ところが、この1か月ほど前から、交響曲のフレーズが頭で鳴っていることに気づきました。また、耳にする音楽に対して、以前よりも研ぎ澄まされたような感覚で向き合っていることを自覚するようにもなりました。

教育や学校もそうですが、音楽も離れてみてわかることがたくさんあるようです。

何かしなければならない、と自分を追い詰めるようにしてやってきた音楽がありました。今はそうではありません。

自然に任せて、あれこれと動いています。そこに音楽に直接結びつくものはまだほとんどありません。

それにもかかわらず、焦りもなく、義務感もなく、野心もなく、ただただ、音楽に接したり音楽を想ったりできている自分がいます。

即興音楽や吹奏楽、アンサンブル、オーケストラ、作曲、合唱、カラオケなど、これまでの年月でいつも何かに埋没していました。

たとえば、改めて聴くE・サティの音楽は、やはり魅力的です。

なんで自分はサティが好きなんだ、ということが、あらためてわかるような日々です。

日常の中で聴こえる音楽の心地よさに気づくということでしょうか。

さて、そろそろ何かしたいなあ、と心のなかで、まだ原石のようなものですが、確かに生まれて来ているような気がします。

「休符も音のない表現なんだよ」と口では何回も言ってきました。

人生の上で、休符というものを表現するとこうなるのかな、というこの期間に気づいたことは、次のステップにはとても大きな価値を持っているような気がしています。


「ゆるり」のお客様40人に~アロマと正体も近日開始~

リラクゼーションスペースとして、1階でやっている「ゆるり」にお越しいただいたお客様が、40人になったそうです。

40人というのは、延べ人数ではありません。1回目にお越しいただいた方が40名になったということです。

ですから、もう何度もお越しいただいている方もいて、多い方は数回、2度目、3度目の方も少なくないので、相当にリピート率も高く、延べ人数としては、その倍ぐらいの人数に近いようです。

また口コミでお越しくださる方も増えてきているようです。お越し下さった方が、ご近所や同僚の方に、「よかったよ」と言ってくれるそうです。

「正体」と書いて「せいたい」というものがあるそうです。いわゆる「整体」とよく似ていますが、内容はリラクゼーションに近く、体が正しい姿勢になるように援助するものだそうです。

それを専門に学んだ方が、平日の夜に来てくださることになりました。まだ始まっていませんが、準備ができれば、ご予約を受けるそうです。

私自身、その先生の「正体」を受けてみました。人によって異なるようで、1回が30分から1時間と、状態によって時間の長さが変わります。

とても柔らかい「もみほぐし」と柔軟体操の補助のようなことをしてもらって、とてもいい気持ちの40分でした。

あまりにも柔らかいので、先生は何も力を入れていないのかと思って起き上がったら、先生は額に汗をかかれていました。柔らかくするために、相当に配慮をした力の入れ方をするので、余計にやる方は大変なのだなと思いました。

いろんなリラクゼーションがあるようですが、これは、姿勢が悪くなってきたなと感じている人には、とっても効果的なものだと思います。自分でどこに悪い癖がついているのかがよくわかります。あとは自分で気を付ければ、姿勢が正しくなります。

ただし、一度では体も意識も忘れてしまうので、しばらく続けることが効果的らしいです。

もう一つは、全身アロマです。今も女性のお客様が多いようですが、全身アロマは女性限定でやるそうです。

これはやる側も得意らしく、これまでにも評判がよいものなので、「ゆるり」でもやりたい、ということで準備をしています。

全身アロマを安心して受けていただける場所をきちんとしないといけませんので、この場所づくりには私も協力したいと考えています。

場所ができたら、私も初体験してみたいかな、とも思います。

オリジナル音楽の制作も進んでいます。

ルタンリッシュ(豊かな時間)を実感していただける場の提供ができてきていることは、音楽ホールや楽曲制作の活動も関連して盛り上がる気配を見せていて、私はうれしいです。

ちなみに、お客様のなかに、楽器を演奏される方もいらっしゃって、たまたまそれがわかると、もみほぐしをしている最中も、音楽の話で時間があっと言うまに過ぎるそうです。

これもまた、なんだかうらやましいなと思います。

リラクゼーションスペース「ゆるり」は、地元の方々、初めての方々、女性の方々になかなか好評なようです。

よろしければ、12月のキャンペーン価格でやっていますので、一度、お試しください。

13年前に子どもだけではなくなった話

子どもがいないまま年齢を重ねていて、学校で出会う子どもたちを、みんな自分の子どものように感じていた。

そのつもりだったけれど、実際に、自分の子どもが生まれてきたとき、それまでの自分は子どもの仲間だったということがわかった。

そしてさらには、子どもが出来たからには、親、という立場になり、父母の子どもであるという立場だけではなくなったことを実感した。

もう、両親の子どもである、というだけではすまされない立場になったと感じながら見上げた夜空。

9日中に生まれるとのことだったが、日付が変わって間もなく生まれてきた、私の初めての子ども。

産婦人科の中庭で、灰皿があるのを幸いに、12月10日の夜空を見上げながらかなり長い間立っていた。

寒さを感じないほど、いろんな想いが体中をかけめぐっていた。

天上には半月があったように思う。

月のイメージが生まれた子どもにつながった。

息子が私の父と過ごした時間は、きっかりと11か月。1歳の誕生日を待たずに、その一ヶ月前に月に上った。

息子がピアノがそれなりに弾けるようになったとき、父が若いころに弾いていたという「月光」を弾いてもらった。確か小学校の2年生の終わりの頃だったように思う。

父が生きていたら、孫と二人で、いつまでもピアノで遊んでいただろうと思う。その時間を持てなかったのは、私がいつまでも子どもだったからだろうか。そうだろう。残念なことをしてしまった。

私は父のようになろうとして、なかなかなれないまま、息子は成長する。

息子が生まれたときに、親の立場がくっついたが、父が亡くなったときに、子どもの立場もほとんど失った。

母は今も健在だ。ただし、母も父が亡くなってから別人のようになった。

私も父が亡くなってから、初めて、子どもである土台を失ったように思った。そのとき、私は私として生まれたようなものだ。つまりは、父が亡くなってから12年の今、私はやっと12歳になったようなものだ。

私が子どもでなくなった原因となる息子が今日で13歳になる。

親としての13年を振り返ると、父がなくなってから生まれた今の私は、つねに息子より年下になっているような気がする。

息子よ、これまでの13年間、支えてくれていることに、心より感謝する。

父らしくしたいと思いながら、いつまでも自分の幼さだけを感じてしまう。そういう父をいつも見守り励ましてくれる君のおかげで、なんとか毎日、前を向いて歩いている。

13年の間に、たくさんの経験をさせてしまった。うまく消化してくれるといいなと考えている。

まだまだ夢の実現まで道のりはあるけれど、共に生きる人生の仲間として、これからもよろしくお願いしたい。

生まれて来てくれてありがとう。

13回目の誕生日、おめでとう。





台所に立って1か月ぐらいになる

学生時代に名古屋や兵庫の山奥で下宿生活をしていたので、それなりに家事はしていました。

先輩の下宿で「クラウディオ・アラウ」などとピアニストの名前を言いながら、皿洗いなどをしたのが懐かしく思い出されます。

自分の下宿では、物が少なかったせいもあり、かなり几帳面に掃除や整理をしていました。自炊が基本で、買い物や料理、後片付けなど、案外楽しんでいたものです。

部屋の掃除はもちろん、風呂やトイレもよく洗っていました。いつ友達が来てもよいようにと、ちゃんとしていないと落ち着かない性分です。布団も、毎日きちんとたたんでいました。

大学教員時代も、マンションでは、自炊と掃除や洗濯などをするのが基本でした。もっとも、学生たちと遊びに行くことも多く、また学生が遊びに来ることも多くありましたので、一人で過ごす時間は少なかった気もします。男の学生は、料理も食器洗いも掃除や片付けも、よくする者が多かったので助かりました。

ここのところ、本来の活動を支えるための仕事の都合で、私が料理したり台所を片付けたりすることが毎日続いています。最初は、さすがに家族が多くて、料理の量や食器の数にとまどいました。

子どもたちは食べ盛りなので、多めに作ります。本当によく食べます。それを見ているだけでも、これまでにはない大切な時間を実感します。

食器の量が半端ではありません。流しに食器があふれるので、手にするものから洗っていましたが、能率があがりません。それで思い切って、湯飲み、茶碗、皿、箸などと最初に分けてしまうようにしました。それを順番に洗いながら、お茶やご飯のしたくもします。

子どもたちも仕事をするように呼び掛けて、ご飯を炊く、机を拭く、洗った食器を片付けるなどと役割分担しています。食事の前は、調理の手伝い、食器の用意、配膳などと分かれています。食事中は、必要になったものを取りに行く係があります。

このように子どもたちもいっしょにやるので、洗った食器類の並べ方の工夫をしなければいけないことにも気づきました。背が低いので、小さい食器を手前に置くと、見えないのです。それで、子どもの位置かrらすべての食器が見えるように、洗い終わったものから配置するようになりました。

献立を考えたり買い物に行ったり、調理をしたり、ということも、できるだけ子どもの誰かとするようにしています。子どもたちの意見を取り入れて、楽しくおいしく食事の時間が持てればいいなと考えるからです。

私自身も料理の幅を増やさなければならないと考えています。特に、子どもたちにどうやって野菜を食べさせるかを考えています。

それにしても、噂やニュースのとおり、野菜は高いですね。

子どもらは、最初は私には買い物ができないと思っていたようですが、いっしょに行くと、相当の速さで目的のものと、その日のその時間にお値打ちのものを見つけてカゴに入れて行くので、スピード感もあり、比較するときの目安も必要に応じて変わるので、楽しいようです。

今夜もうちの台所は、一つの洗い残しもなく、静かに眠っています。

そろそろ私も眠くなってきました。おやもう、こんな時間。、

痩せたと言われてますが確かに10年前の服も着てます

今年は特にいろんなことがありました。

大好きな合唱曲の一つに三善晃さんの『雪の窓辺で』というのがあります。何度も子どもたちと演奏しましたが、今また津少年少女合唱団の子どもたちと練習しています。子どもたちが選びました。

思い返せば、というほど呑気なものではありませんが、今年はいろんな意味でたくさのことを経験し学んだことが多くあります。まだあと半月あまりありますので、まだまだこれからも勉強させられるのだと思っています。

大して意識はしていなかったのですが、いろんな方たちから、「痩せましたね」と声をかけられることが多くなりました。確かに体重は今年のはじめからみれば、10kg以上減っています。

「いえいえ、やつれただけです」と答えながら、大学教員の頃に年齢的にはかなりまずいことにかつてなかったほど太ってしまったのが、もとへもどっただけ、と内心は思っています。

おかげで、附属小当時のスーツが着れる体形にもどりましたので、それ以前のものも含めて、毎日、きちんとした身なりをしています。大学に行く頃に購入したものも着ることができます。

かなりスリムなジーパンを持っていて、もう二度と身に着けることはないだろうな、と半ばあきらめていたのですが、先日すんなりと穿けてしまいました。

そのような体形の頃を知っている人たちには、もとへ戻った、と言われます。でも、その後に知り合いになった人たちには、大変驚かれてしまいます。

もう太りたくないので、これまで残してきた、大きいサイズの衣類は整理しようと考えています。

勉強しながら贅肉を落としてきたと言うか、贅肉を落とすような勉強をしてきたと言うべきか、いずれにしても、心身には、とても実りの多い時間を持つことが出来ています。

肩書や安定した職場から離れてみて、初めて、社会というものがわかったというような勉強です。

学んだことをどう発信するか、創作すべきものがやっと確かな手応えを持って感じられてきたところです。

変な近況報告でした。

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