しかもこれは、宗教とは異なるベクトルからの答えです。
我々は我々自身の魂の苦難に対して、どう受け止めるべきなのか? 教えましょう。
あのね、人生を麻雀に例えればいいんです。
人生に訪れるあらゆる好転と暗転、僥倖と悪夢、運不運、楽しいことつまらないこと、
喜びと悲しみ、朝の日差しと無限の夜、獲得と喪失、
そういうような、
人生の裏に潜む「とてつもなく大きくて抗えない、自分の存在を大きく超えた圧倒的な何か」
に気づいてしまったとき、それら全てのものを「配牌とツモ」に例えて解釈すればよいのです。
人生には、誰も悪くないのに結果として全てがうまくいかなくなるような瞬間があるでしょう?
例えば唯一心から愛していた人と永遠に会えなくなってしまった、みたいな致命的に思えることから、
食べようと思っていたプリンが思ったより冷えてなかった、みたいな些細なことまで。
そういうのを「ただ配牌が悪かっただけだ」としちゃうんですよ。
悪いことが起きたということは、それがただわたしに起きたというだけで、それ以上もそれ以下の意味はないのだ。
僕が麻雀の好きなところのひとつは、「とりあえず配られた牌で頑張らないといけない」点です。
パチンコみたいによさそうな台が無いからって帰ることも出来ないし、ポーカーみたいに簡単に棄権も出来ない。
「手が悪いから降りる」という概念はあるけど、そもそも麻雀はあがるより降りる方が難しいゲームなんですよ。
麻雀の上手い下手というのは、まずそこに出てくる。極論を言えば麻雀の技術とは「どういう順番で牌を切るか」の中にだけあると言えるからね。いい牌が配られて、いいツモが来るのなら、誰がやったって同じです。
そう考えると、言い換えるなら麻雀という遊戯の本質は「上がる」という状況の中にあるのではなくて、どの牌を切るか? という行為の中にあります。
いい麻雀悪い麻雀というのがあるなら、「たくさん上がって点数を稼いだ」じゃなくて、「悪い手牌でなんとかしました」という視点の中にあるはずです。ただめくったツモったあがりました、じゃあただの絵合わせだ。
それをもっと展開すると、いい麻雀を打つ人悪い麻雀を打つ人は「たくさん点棒を集めた人」じゃなくて、「特定の状況下におけるベストの順番で牌を捨てた人」なんですよ。ですよね?
ある規則で並べられた牌がすごいんじゃなくて、牌を切った順番がすごいんです。ツモがいいか悪いか、配牌がいいか悪いか、それらは麻雀のプレイヤーに対する評価とは完全に切り離されます。ツモがいいからって、そんなのはそいつ自身とは全く関係ない。ツモがよかったとは、それがただ起きたというだけのことに過ぎないのだ。
つまり、状況の中そのものに本質的価値があるんじゃなくて、状況の中に行為があって、そこにある創造性にゲームの本質的価値があるんです。ほら、毎回何も考えずにリーチ一発なんかしらないけどあがれました、ばっかりでもなんだかつまらないでしょ?
とりあえず僕の美学はそれを美しい麻雀とは呼ばない。
まあ僕の美学は偏狭的なところがあるというのは確かだけれど。
人生も麻雀と一緒だと思えば、「悪いことが起きたとは、それがただ起きたというだけのことに過ぎないのだ」ということがすごく身にしみて分かりやすくなる。
the world is at your command.
これに気づいたときは「ああ、これはすごい発見だ。もう少しこれを深めて本にすれば、第二の中谷彰宏になれる」と思ったけど、ふたつ欠点があった。
(1)麻雀はゼロサムゲームだ、という事実が少しだけ僕を落ち込ませる。
(2)麻雀に一定以上のレベルで通じている人じゃないと、何が何だかよく分からない。
特に後者は致命的だった。中谷彰宏の本を手に取るような人々のグループの中に、麻雀を少しでも理解しているような人は果たしてどれくらいいるのだろうか極めて疑問である。
良き人生を送るには、まず手始めに麻雀を学ばなければならない。かもしれない。