すでにtypeAさん等によって精力的に批判されているマイケル・サンデル。ぼくも本のほうは読んでいないが、NHK教育テレビで放送されていた「ハーバード白熱教室」はそれなりにチェックしていた。先週が最終回だったが、その中で「同性婚」の問題が取り上げられていた。サンデルは、同性婚に対する3つの立場、すなわち「政府は同性婚を認めるべきではない」とする立場、「政府は同性婚を認めるべきだ」とする立場、そして「政府は結婚制度から撤退すべきだ」とする立場を紹介する。
不満に思ったのはこのうちの3つめの立場が真剣に検討されていないことだ。サンデルは、この立場の政治ジャーナリスト、マイケル・キンズリーの発言に言及するが、その後マサチューセッツ州最高裁判所が結婚は国家の承認を要する制度だと述べたことから、あたかもこの考えは間違っているかのように扱われている。しかし、これは馬鹿げた対応だろう。単に裁判所の判断が誤っていた可能性もあるからだ。
今回は、キンズリーと同様の議論を行っている日本のリバタリアニズム研究者を紹介したうえで、若干のコメントをしてみたい。そのリバタリアンは、九州産業大学準教授の橋本祐子だ。彼女は「リバタリアニズムと同性婚に向けての試論―私事化の戦略―」(仲正昌樹編著『法の他者』所収)と題された論文で、同性婚をめぐるアメリカのリバタリアン、具体的にはリチャード・ポズナーとリチャード・エプステインの議論を批判し、「法律婚という制度そのものの廃止、すなわち、婚姻の私事化を主張」する。橋本は、マレー・ロスバードにならい、リバタリアンは「廃止主義」の立場に立たなければとならないとし、同性婚の容認等にとどまるエプステイン等の妥協的な態度に異議を唱えている。
ぼくもこの彼女の見解に完全に賛成だ。なぜ性愛という最も個人的な営みに対し、「政府」のお墨付きを得る必要があるのか。しかし、論文の後半部分でデイヴィッド・ボウツやチャールズ・マレー、晩年のロスバードといった「保守的な」論者が、伝統的な家族像を擁護しているといって批判しているのには同意できなかった。
というのも、仮にライフスタイルに対する政府の介入に反対するとしても、個々のリバタリアン論者が望ましいと思う家族像は当然異なってくるだろうからだ。なかには伝統的な家族像が望ましいと思う者もいればそうでない者もいるだろう。例えばぼくは、ギャンブルやドラッグの使用は合法化されるべきだと思っているが、だからといって、そうした行為が道徳的に優れたものだと主張するわけではない。むしろそうした行為を日常的に行う人間とは余り付き合いたいとは思わない。
ぼくの考えるリバタリアン的な態度とは、単に法と道徳を峻別すべきということであり、橋本のように伝統的な家族象を擁護するリバタリアンを否定するのは、少なくともリバタリアニズムの考えからは出てこないように思われる。 また、道徳面からの評価は置いておくとしても、リバタリアンな社会で彼女が理想とするような多様なライフスタイルが促進されるかどうかは必ずしも明らかではない。
リバタリアンな社会では、既存の政府が担ってきた福祉政策や再分配機能が大幅に縮小されるだろうし、そうでなければならないはずだ。その際いままで政府が担ってきた機能(高齢者の世話等)の多くの部分は、家族が代替する可能性が高いだろう。そうなれば(親族間の緊密な結びつき等の)伝統的な家族のあり方がむしろ強化されるのではないのか。たしか、ミルトン・フリードマンが述べていたことだと思うが、福祉国家が家族の絆を弱めてきたというのはあながち間違いではない。その辺りの問題に余り触れていないのは残念だった。
とはいえ、婚姻の私事化というラディカルな提案をしている点で橋本の論文は特筆すべきものがある。また彼女は「R.A.エプスティーンの法理論の現代的意義と課題」というリバタリアン法学者のエプステインに関する素晴らしい論考も書いている。併せて一読をお勧めしたい。
不満に思ったのはこのうちの3つめの立場が真剣に検討されていないことだ。サンデルは、この立場の政治ジャーナリスト、マイケル・キンズリーの発言に言及するが、その後マサチューセッツ州最高裁判所が結婚は国家の承認を要する制度だと述べたことから、あたかもこの考えは間違っているかのように扱われている。しかし、これは馬鹿げた対応だろう。単に裁判所の判断が誤っていた可能性もあるからだ。
今回は、キンズリーと同様の議論を行っている日本のリバタリアニズム研究者を紹介したうえで、若干のコメントをしてみたい。そのリバタリアンは、九州産業大学準教授の橋本祐子だ。彼女は「リバタリアニズムと同性婚に向けての試論―私事化の戦略―」(仲正昌樹編著『法の他者』所収)と題された論文で、同性婚をめぐるアメリカのリバタリアン、具体的にはリチャード・ポズナーとリチャード・エプステインの議論を批判し、「法律婚という制度そのものの廃止、すなわち、婚姻の私事化を主張」する。橋本は、マレー・ロスバードにならい、リバタリアンは「廃止主義」の立場に立たなければとならないとし、同性婚の容認等にとどまるエプステイン等の妥協的な態度に異議を唱えている。
ぼくもこの彼女の見解に完全に賛成だ。なぜ性愛という最も個人的な営みに対し、「政府」のお墨付きを得る必要があるのか。しかし、論文の後半部分でデイヴィッド・ボウツやチャールズ・マレー、晩年のロスバードといった「保守的な」論者が、伝統的な家族像を擁護しているといって批判しているのには同意できなかった。
というのも、仮にライフスタイルに対する政府の介入に反対するとしても、個々のリバタリアン論者が望ましいと思う家族像は当然異なってくるだろうからだ。なかには伝統的な家族像が望ましいと思う者もいればそうでない者もいるだろう。例えばぼくは、ギャンブルやドラッグの使用は合法化されるべきだと思っているが、だからといって、そうした行為が道徳的に優れたものだと主張するわけではない。むしろそうした行為を日常的に行う人間とは余り付き合いたいとは思わない。
ぼくの考えるリバタリアン的な態度とは、単に法と道徳を峻別すべきということであり、橋本のように伝統的な家族象を擁護するリバタリアンを否定するのは、少なくともリバタリアニズムの考えからは出てこないように思われる。 また、道徳面からの評価は置いておくとしても、リバタリアンな社会で彼女が理想とするような多様なライフスタイルが促進されるかどうかは必ずしも明らかではない。
リバタリアンな社会では、既存の政府が担ってきた福祉政策や再分配機能が大幅に縮小されるだろうし、そうでなければならないはずだ。その際いままで政府が担ってきた機能(高齢者の世話等)の多くの部分は、家族が代替する可能性が高いだろう。そうなれば(親族間の緊密な結びつき等の)伝統的な家族のあり方がむしろ強化されるのではないのか。たしか、ミルトン・フリードマンが述べていたことだと思うが、福祉国家が家族の絆を弱めてきたというのはあながち間違いではない。その辺りの問題に余り触れていないのは残念だった。
とはいえ、婚姻の私事化というラディカルな提案をしている点で橋本の論文は特筆すべきものがある。また彼女は「R.A.エプスティーンの法理論の現代的意義と課題」というリバタリアン法学者のエプステインに関する素晴らしい論考も書いている。併せて一読をお勧めしたい。
コメント
コメント一覧 (6)
なおセイラーとサンセティーンによる「実践行動経済学」(原題"Nudge"の13章にも「結婚を民営化する」があります。
著者たちは政府が離婚契約のひな形を定めておくことが望ましいと主張します。しかし同性婚その他を認めることも含めて、より望ましいのは宗教などによる婚姻(シビル・ユニオン)の私事化であると主張します。
この意味では、当然サンデルよりもセイラーとサンスティーンははるかにリバタリアンに理解を示しています。
結婚の私事化(Marriage privatization)については、デイヴィッド・ボウツやウェンディ・マッケロイのような著名なリバタリアンにも支持者が多いようですね。http://en.wikipedia.org/wiki/Marriage_privatization
日本で余り議論が盛り上がらないのが不思議です。
橋本氏はパーマー氏が書いているようなリバタリアニズムの反イデオロギー的性質を捉えそこなってるのかもしれない 。
ちょっと厳しく書きすぎたかなとも思いましたが。橋本さんもフェミニズムに親和的なところから出たコメントなんでしょうね。ぼくはいろいろな考えのリバタリアンがいるところが、逆にリバタリアニズムの強みだと思っています。
なお「R.A.エプスティーンの法理論の現代的意義と課題」についてはCiNiiか同志社大学リポジトリで読むことができます。
いろんな論文がwebで読めるようになったのは画期的ですね。学生時代論文をコピーするのに苦労しました(笑)