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媽祖信仰

  • June 15, 2015
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中国版「オトタチバナヒメ」というべきものに、「媽祖(Māzǔ・マソ)」という道教の女神がある。媽祖は特に台湾・福建・広東などの沿海地域で広く信仰される航海・漁業の守護神で、日本でも長崎や南九州に伝播したほか、琉球では那覇や久米島に「天妃宮」が建立され、「菩薩観音」や「オナリ神(琉球諸島で信仰された男兄弟を守護する姉妹神。特に国王の姉妹は聞得大君と呼ばれ、国政にも参加した。)」信仰、「オトタチバナヒメ」信仰と混淆しつつ広まった。

 媽祖は、宋代始めの建隆元年(960年)3月23日、福建省興化府甫田県の海に浮かぶ眉州島の漁村で林家の娘として生まれ、987年9月9日に他界した実在の女性を神格化したものという。
 伝説では、建隆元年に福建省興化府の官吏・林愿の7女として生まれた娘が、ひと月経っても泣き声をあげないので「林黙娘」と名付けられたが、黙娘は幼少の頃より才気煥発で信仰心も篤く、16歳の頃には神通力と銅製の札を授かり、村人の病を治すなどの奇跡を起こしたので「通玄霊女」として崇められるようになった。しかし宋・太祖の雍煕4年(987年)9月9日、彼女が28歳の時、父が海難に遭って行方不明となったため、これを悲嘆した黙娘は旅に出立。その後、嵋山の山頂で仙人に誘われ、神になったといわれている。

 図像では、媽祖は「赤鬼」・「青鬼」と通称される「千里眼」と「順風耳」の二鬼神を脇に従えている。この二神はもとは悪神であったが、媽祖に調伏されて改心し、以降、媽祖の随神(甲冑を着けた将軍の姿)になったとされている。廟に安置される媽祖は一般に両手で杓を持つ坐像が多いが、立像では、しばしば左手に「宝冠のついた長杓のような物」をもつ姿も描かれる。

 当初は航海の守護神として祀られた媽祖だが、のちには自然災害・疫病発生・盗賊・戦争など万物の厄災を除くと考えられるようになり、中国では歴代皇帝からも信奉された。媽祖に神号を贈って祀った王朝もあり、元・世祖の時代(1281年)には「護國明著天妃」に、清代康熙23年(1684年)には「天后」に封じられ、孔子・関帝と同列の式典が認められた。(媽祖廟が「天妃宮」・「天后宮」と呼ばれるのはこれに由来。)
  媽祖信仰は、福建商人、広東商人の貿易活動にともなって中国沿海部に広まり、東北部の「瀋陽」、華北の「天津」・「煙台」・「青島」など多くの港町にも媽祖廟が建ったが、そのほとんどは1965年‐1976年の文化大革命で破壊された。
 
 日本最古の媽祖廟は、明の永楽22年(1424年)に琉球王国の「唐栄(営)」に置かれた「下天妃宮」であるといわれ、現在は那覇至聖廟内に「天妃宮」として祀られている。またこの他にも、14世紀頃に中国との朝貢貿易が始まった際、福建よりもたらされた「上天妃宮」が一層古いという説もある。那覇市久米の「天妃小学校(1949年に沖縄群島政府が置かれた場所。)」敷地内には「上天妃廟跡」があり、石門とそれに続く「布積み」と「あいかた積み」から成る石垣が残る。


 長崎では、日本初の黄檗禅宗の唐寺で、開祖・隠元が中国より日本に渡海して最初に住持したことでも知られる「東明山興福寺(長崎市寺町4−32)」が「媽祖」を祀る。港を見下ろす風頭山の麓にある「興福寺」は、中国・明(1368年−1644年)の商人が長崎に渡来をはじめた元和六年(1620年)、中国僧・真円が航海安全を祈願してこの地に小庵を建てたことが始まりという。
 江戸時代初期の長崎は、幕府の朱印船や唐船による貿易で、ヨーロッパ・イスラム・アジアなどの商人や物資が集散する国際都市であったが、なかでも中国からの来航者が圧倒的に多く、市民の6人に1人は中国人というほどであったという。この多くの中国人が出身地別に寺を建立したのが、「興福寺」・「崇福寺」・「福済寺」などの「長崎唐寺(とうでら)」で、いづれも「媽祖」を祀っている。

 2006年3月17日、横浜の中華街でも「横濱媽祖廟」が開廟した。これは2003年9月に株式会社・大京が「南門シルクロード」の「朱雀門」そばにマンション建設を計画したが、これに反対した「横浜中華街発展会協同組合」が同年11月に大京と協議の上、計画地を大京から買取ることで合意、「横浜媽祖廟」という名称の団体を立ち上げて、廟の建設に乗りだしていたもの。土地取得費用は約10億円、廟の建設費は約5億円。基礎工事の請負業者は清水建設、装飾などは台湾の業者が請け負った。



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媽祖信仰

  • June 14, 2015
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中国版「オトタチバナヒメ」というべきものに、「媽祖(Māzǔ・マソ)」という道教の女神がある。媽祖は特に台湾・福建・広東などの沿海地域で広く信仰される航海・漁業の守護神で、日本でも長崎や南九州に伝播したほか、琉球では那覇や久米島に「天妃宮」が建立され、「菩薩観音」や「オナリ神(琉球諸島で信仰された男兄弟を守護する姉妹神。特に国王の姉妹は聞得大君と呼ばれ、国政にも参加した。)」信仰、「オトタチバナヒメ」信仰と混淆しつつ広まった。

 媽祖は、宋代始めの建隆元年(960年)3月23日、福建省興化府甫田県の海に浮かぶ眉州島の漁村で林家の娘として生まれ、987年9月9日に他界した実在の女性を神格化したものという。
 伝説では、建隆元年に福建省興化府の官吏・林愿の7女として生まれた娘が、ひと月経っても泣き声をあげないので「林黙娘」と名付けられたが、黙娘は幼少の頃より才気煥発で信仰心も篤く、16歳の頃には神通力と銅製の札を授かり、村人の病を治すなどの奇跡を起こしたので「通玄霊女」として崇められるようになった。しかし宋・太祖の雍煕4年(987年)9月9日、彼女が28歳の時、父が海難に遭って行方不明となったため、これを悲嘆した黙娘は旅に出立。その後、嵋山の山頂で仙人に誘われ、神になったといわれている。

 図像では、媽祖は「赤鬼」・「青鬼」と通称される「千里眼」と「順風耳」の二鬼神を脇に従えている。この二神はもとは悪神であったが、媽祖に調伏されて改心し、以降、媽祖の随神(甲冑を着けた将軍の姿)になったとされている。廟に安置される媽祖は一般に両手で杓を持つ坐像が多いが、立像では、しばしば左手に「宝冠のついた長杓のような物」をもつ姿も描かれる。

 当初は航海の守護神として祀られた媽祖だが、のちには自然災害・疫病発生・盗賊・戦争など万物の厄災を除くと考えられるようになり、中国では歴代皇帝からも信奉された。媽祖に神号を贈って祀った王朝もあり、元・世祖の時代(1281年)には「護國明著天妃」に、清代康熙23年(1684年)には「天后」に封じられ、孔子・関帝と同列の式典が認められた。(媽祖廟が「天妃宮」・「天后宮」と呼ばれるのはこれに由来。)
  媽祖信仰は、福建商人、広東商人の貿易活動にともなって中国沿海部に広まり、東北部の「瀋陽」、華北の「天津」・「煙台」・「青島」など多くの港町にも媽祖廟が建ったが、そのほとんどは1965年‐1976年の文化大革命で破壊された。
 
 日本最古の媽祖廟は、明の永楽22年(1424年)に琉球王国の「唐栄(営)」に置かれた「下天妃宮」であるといわれ、現在は那覇至聖廟内に「天妃宮」として祀られている。またこの他にも、14世紀頃に中国との朝貢貿易が始まった際、福建よりもたらされた「上天妃宮」が一層古いという説もある。那覇市久米の「天妃小学校(1949年に沖縄群島政府が置かれた場所。)」敷地内には「上天妃廟跡」があり、石門とそれに続く「布積み」と「あいかた積み」から成る石垣が残る。


 長崎では、日本初の黄檗禅宗の唐寺で、開祖・隠元が中国より日本に渡海して最初に住持したことでも知られる「東明山興福寺(長崎市寺町4−32)」が「媽祖」を祀る。港を見下ろす風頭山の麓にある「興福寺」は、中国・明(1368年−1644年)の商人が長崎に渡来をはじめた元和六年(1620年)、中国僧・真円が航海安全を祈願してこの地に小庵を建てたことが始まりという。
 江戸時代初期の長崎は、幕府の朱印船や唐船による貿易で、ヨーロッパ・イスラム・アジアなどの商人や物資が集散する国際都市であったが、なかでも中国からの来航者が圧倒的に多く、市民の6人に1人は中国人というほどであったという。この多くの中国人が出身地別に寺を建立したのが、「興福寺」・「崇福寺」・「福済寺」などの「長崎唐寺(とうでら)」で、いづれも「媽祖」を祀っている。

 2006年3月17日、横浜の中華街でも「横濱媽祖廟」が開廟した。これは2003年9月に株式会社・大京が「南門シルクロード」の「朱雀門」そばにマンション建設を計画したが、これに反対した「横浜中華街発展会協同組合」が同年11月に大京と協議の上、計画地を大京から買取ることで合意、「横浜媽祖廟」という名称の団体を立ち上げて、廟の建設に乗りだしていたもの。土地取得費用は約10億円、廟の建設費は約5億円。基礎工事の請負業者は清水建設、装飾などは台湾の業者が請け負った。



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住吉信仰

  • June 14, 2015
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住吉大社の御田植神事

  • June 14, 2015
住吉大社 (1)住吉大社 (2)住吉大社 (3)住吉大社 (4)住吉大社 (5)住吉大社 (6)住吉大社 (8)住吉大社 (11)住吉大社 (10)住吉大社 (7)
住吉大社 (9)

g.e

  • June 14, 2015
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http://g.e-hentai.org/g/824257/f4599408c2/

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http://jp.xhamster.com/movies/4413187/the_toy_2_n15.html

http://jp.xhamster.com/movies/4412414/the_toy_1_n15.html



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阪堺電車

  • June 14, 2015
阪堺電車

天后崇拝

  • June 14, 2015
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中国版「オトタチバナヒメ」というべきものに、「媽祖(Māzǔ・マソ)」という道教の女神がある。媽祖は特に台湾・福建・広東などの沿海地域で広く信仰される航海・漁業の守護神で、日本でも長崎や南九州に伝播したほか、琉球では那覇や久米島に「天妃宮」が建立され、「菩薩観音」や「オナリ神(琉球諸島で信仰された男兄弟を守護する姉妹神。特に国王の姉妹は聞得大君と呼ばれ、国政にも参加した。)」信仰、「オトタチバナヒメ」信仰と混淆しつつ広まった。

 媽祖は、宋代始めの建隆元年(960年)3月23日、福建省興化府甫田県の海に浮かぶ眉州島の漁村で林家の娘として生まれ、987年9月9日に他界した実在の女性を神格化したものという。
 伝説では、建隆元年に福建省興化府の官吏・林愿の7女として生まれた娘が、ひと月経っても泣き声をあげないので「林黙娘」と名付けられたが、黙娘は幼少の頃より才気煥発で信仰心も篤く、16歳の頃には神通力と銅製の札を授かり、村人の病を治すなどの奇跡を起こしたので「通玄霊女」として崇められるようになった。しかし宋・太祖の雍煕4年(987年)9月9日、彼女が28歳の時、父が海難に遭って行方不明となったため、これを悲嘆した黙娘は旅に出立。その後、嵋山の山頂で仙人に誘われ、神になったといわれている。

 図像では、媽祖は「赤鬼」・「青鬼」と通称される「千里眼」と「順風耳」の二鬼神を脇に従えている。この二神はもとは悪神であったが、媽祖に調伏されて改心し、以降、媽祖の随神(甲冑を着けた将軍の姿)になったとされている。廟に安置される媽祖は一般に両手で杓を持つ坐像が多いが、立像では、しばしば左手に「宝冠のついた長杓のような物」をもつ姿も描かれる。

 当初は航海の守護神として祀られた媽祖だが、のちには自然災害・疫病発生・盗賊・戦争など万物の厄災を除くと考えられるようになり、中国では歴代皇帝からも信奉された。媽祖に神号を贈って祀った王朝もあり、元・世祖の時代(1281年)には「護國明著天妃」に、清代康熙23年(1684年)には「天后」に封じられ、孔子・関帝と同列の式典が認められた。(媽祖廟が「天妃宮」・「天后宮」と呼ばれるのはこれに由来。)
  媽祖信仰は、福建商人、広東商人の貿易活動にともなって中国沿海部に広まり、東北部の「瀋陽」、華北の「天津」・「煙台」・「青島」など多くの港町にも媽祖廟が建ったが、そのほとんどは1965年‐1976年の文化大革命で破壊された。
 
 日本最古の媽祖廟は、明の永楽22年(1424年)に琉球王国の「唐栄(営)」に置かれた「下天妃宮」であるといわれ、現在は那覇至聖廟内に「天妃宮」として祀られている。またこの他にも、14世紀頃に中国との朝貢貿易が始まった際、福建よりもたらされた「上天妃宮」が一層古いという説もある。那覇市久米の「天妃小学校(1949年に沖縄群島政府が置かれた場所。)」敷地内には「上天妃廟跡」があり、石門とそれに続く「布積み」と「あいかた積み」から成る石垣が残る。


 長崎では、日本初の黄檗禅宗の唐寺で、開祖・隠元が中国より日本に渡海して最初に住持したことでも知られる「東明山興福寺(長崎市寺町4−32)」が「媽祖」を祀る。港を見下ろす風頭山の麓にある「興福寺」は、中国・明(1368年−1644年)の商人が長崎に渡来をはじめた元和六年(1620年)、中国僧・真円が航海安全を祈願してこの地に小庵を建てたことが始まりという。
 江戸時代初期の長崎は、幕府の朱印船や唐船による貿易で、ヨーロッパ・イスラム・アジアなどの商人や物資が集散する国際都市であったが、なかでも中国からの来航者が圧倒的に多く、市民の6人に1人は中国人というほどであったという。この多くの中国人が出身地別に寺を建立したのが、「興福寺」・「崇福寺」・「福済寺」などの「長崎唐寺(とうでら)」で、いづれも「媽祖」を祀っている。

 2006年3月17日、横浜の中華街でも「横濱媽祖廟」が開廟した。これは2003年9月に株式会社・大京が「南門シルクロード」の「朱雀門」そばにマンション建設を計画したが、これに反対した「横浜中華街発展会協同組合」が同年11月に大京と協議の上、計画地を大京から買取ることで合意、「横浜媽祖廟」という名称の団体を立ち上げて、廟の建設に乗りだしていたもの。土地取得費用は約10億円、廟の建設費は約5億円。基礎工事の請負業者は清水建設、装飾などは台湾の業者が請け負った。



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護國明著天妃

  • June 14, 2015
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中国版「オトタチバナヒメ」というべきものに、「媽祖(Māzǔ・マソ)」という道教の女神がある。媽祖は特に台湾・福建・広東などの沿海地域で広く信仰される航海・漁業の守護神で、日本でも長崎や南九州に伝播したほか、琉球では那覇や久米島に「天妃宮」が建立され、「菩薩観音」や「オナリ神(琉球諸島で信仰された男兄弟を守護する姉妹神。特に国王の姉妹は聞得大君と呼ばれ、国政にも参加した。)」信仰、「オトタチバナヒメ」信仰と混淆しつつ広まった。

 媽祖は、宋代始めの建隆元年(960年)3月23日、福建省興化府甫田県の海に浮かぶ眉州島の漁村で林家の娘として生まれ、987年9月9日に他界した実在の女性を神格化したものという。
 伝説では、建隆元年に福建省興化府の官吏・林愿の7女として生まれた娘が、ひと月経っても泣き声をあげないので「林黙娘」と名付けられたが、黙娘は幼少の頃より才気煥発で信仰心も篤く、16歳の頃には神通力と銅製の札を授かり、村人の病を治すなどの奇跡を起こしたので「通玄霊女」として崇められるようになった。しかし宋・太祖の雍煕4年(987年)9月9日、彼女が28歳の時、父が海難に遭って行方不明となったため、これを悲嘆した黙娘は旅に出立。その後、嵋山の山頂で仙人に誘われ、神になったといわれている。

 図像では、媽祖は「赤鬼」・「青鬼」と通称される「千里眼」と「順風耳」の二鬼神を脇に従えている。この二神はもとは悪神であったが、媽祖に調伏されて改心し、以降、媽祖の随神(甲冑を着けた将軍の姿)になったとされている。廟に安置される媽祖は一般に両手で杓を持つ坐像が多いが、立像では、しばしば左手に「宝冠のついた長杓のような物」をもつ姿も描かれる。

 当初は航海の守護神として祀られた媽祖だが、のちには自然災害・疫病発生・盗賊・戦争など万物の厄災を除くと考えられるようになり、中国では歴代皇帝からも信奉された。媽祖に神号を贈って祀った王朝もあり、元・世祖の時代(1281年)には「護國明著天妃」に、清代康熙23年(1684年)には「天后」に封じられ、孔子・関帝と同列の式典が認められた。(媽祖廟が「天妃宮」・「天后宮」と呼ばれるのはこれに由来。)
  媽祖信仰は、福建商人、広東商人の貿易活動にともなって中国沿海部に広まり、東北部の「瀋陽」、華北の「天津」・「煙台」・「青島」など多くの港町にも媽祖廟が建ったが、そのほとんどは1965年‐1976年の文化大革命で破壊された。
 
 日本最古の媽祖廟は、明の永楽22年(1424年)に琉球王国の「唐栄(営)」に置かれた「下天妃宮」であるといわれ、現在は那覇至聖廟内に「天妃宮」として祀られている。またこの他にも、14世紀頃に中国との朝貢貿易が始まった際、福建よりもたらされた「上天妃宮」が一層古いという説もある。那覇市久米の「天妃小学校(1949年に沖縄群島政府が置かれた場所。)」敷地内には「上天妃廟跡」があり、石門とそれに続く「布積み」と「あいかた積み」から成る石垣が残る。


 長崎では、日本初の黄檗禅宗の唐寺で、開祖・隠元が中国より日本に渡海して最初に住持したことでも知られる「東明山興福寺(長崎市寺町4−32)」が「媽祖」を祀る。港を見下ろす風頭山の麓にある「興福寺」は、中国・明(1368年−1644年)の商人が長崎に渡来をはじめた元和六年(1620年)、中国僧・真円が航海安全を祈願してこの地に小庵を建てたことが始まりという。
 江戸時代初期の長崎は、幕府の朱印船や唐船による貿易で、ヨーロッパ・イスラム・アジアなどの商人や物資が集散する国際都市であったが、なかでも中国からの来航者が圧倒的に多く、市民の6人に1人は中国人というほどであったという。この多くの中国人が出身地別に寺を建立したのが、「興福寺」・「崇福寺」・「福済寺」などの「長崎唐寺(とうでら)」で、いづれも「媽祖」を祀っている。

 2006年3月17日、横浜の中華街でも「横濱媽祖廟」が開廟した。これは2003年9月に株式会社・大京が「南門シルクロード」の「朱雀門」そばにマンション建設を計画したが、これに反対した「横浜中華街発展会協同組合」が同年11月に大京と協議の上、計画地を大京から買取ることで合意、「横浜媽祖廟」という名称の団体を立ち上げて、廟の建設に乗りだしていたもの。土地取得費用は約10億円、廟の建設費は約5億円。基礎工事の請負業者は清水建設、装飾などは台湾の業者が請け負った。



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鬼神は常に享くるなし、克く誠なるに享く

  • June 14, 2015
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中国版「オトタチバナヒメ」というべきものに、「媽祖(Māzǔ・マソ)」という道教の女神がある。媽祖は特に台湾・福建・広東などの沿海地域で広く信仰される航海・漁業の守護神で、日本でも長崎や南九州に伝播したほか、琉球では那覇や久米島に「天妃宮」が建立され、「菩薩観音」や「オナリ神(琉球諸島で信仰された男兄弟を守護する姉妹神。特に国王の姉妹は聞得大君と呼ばれ、国政にも参加した。)」信仰、「オトタチバナヒメ」信仰と混淆しつつ広まった。

 媽祖は、宋代始めの建隆元年(960年)3月23日、福建省興化府甫田県の海に浮かぶ眉州島の漁村で林家の娘として生まれ、987年9月9日に他界した実在の女性を神格化したものという。
 伝説では、建隆元年に福建省興化府の官吏・林愿の7女として生まれた娘が、ひと月経っても泣き声をあげないので「林黙娘」と名付けられたが、黙娘は幼少の頃より才気煥発で信仰心も篤く、16歳の頃には神通力と銅製の札を授かり、村人の病を治すなどの奇跡を起こしたので「通玄霊女」として崇められるようになった。しかし宋・太祖の雍煕4年(987年)9月9日、彼女が28歳の時、父が海難に遭って行方不明となったため、これを悲嘆した黙娘は旅に出立。その後、嵋山の山頂で仙人に誘われ、神になったといわれている。

 図像では、媽祖は「赤鬼」・「青鬼」と通称される「千里眼」と「順風耳」の二鬼神を脇に従えている。この二神はもとは悪神であったが、媽祖に調伏されて改心し、以降、媽祖の随神(甲冑を着けた将軍の姿)になったとされている。廟に安置される媽祖は一般に両手で杓を持つ坐像が多いが、立像では、しばしば左手に「宝冠のついた長杓のような物」をもつ姿も描かれる。

 当初は航海の守護神として祀られた媽祖だが、のちには自然災害・疫病発生・盗賊・戦争など万物の厄災を除くと考えられるようになり、中国では歴代皇帝からも信奉された。媽祖に神号を贈って祀った王朝もあり、元・世祖の時代(1281年)には「護國明著天妃」に、清代康熙23年(1684年)には「天后」に封じられ、孔子・関帝と同列の式典が認められた。(媽祖廟が「天妃宮」・「天后宮」と呼ばれるのはこれに由来。)
  媽祖信仰は、福建商人、広東商人の貿易活動にともなって中国沿海部に広まり、東北部の「瀋陽」、華北の「天津」・「煙台」・「青島」など多くの港町にも媽祖廟が建ったが、そのほとんどは1965年‐1976年の文化大革命で破壊された。
 
 日本最古の媽祖廟は、明の永楽22年(1424年)に琉球王国の「唐栄(営)」に置かれた「下天妃宮」であるといわれ、現在は那覇至聖廟内に「天妃宮」として祀られている。またこの他にも、14世紀頃に中国との朝貢貿易が始まった際、福建よりもたらされた「上天妃宮」が一層古いという説もある。那覇市久米の「天妃小学校(1949年に沖縄群島政府が置かれた場所。)」敷地内には「上天妃廟跡」があり、石門とそれに続く「布積み」と「あいかた積み」から成る石垣が残る。


 長崎では、日本初の黄檗禅宗の唐寺で、開祖・隠元が中国より日本に渡海して最初に住持したことでも知られる「東明山興福寺(長崎市寺町4−32)」が「媽祖」を祀る。港を見下ろす風頭山の麓にある「興福寺」は、中国・明(1368年−1644年)の商人が長崎に渡来をはじめた元和六年(1620年)、中国僧・真円が航海安全を祈願してこの地に小庵を建てたことが始まりという。
 江戸時代初期の長崎は、幕府の朱印船や唐船による貿易で、ヨーロッパ・イスラム・アジアなどの商人や物資が集散する国際都市であったが、なかでも中国からの来航者が圧倒的に多く、市民の6人に1人は中国人というほどであったという。この多くの中国人が出身地別に寺を建立したのが、「興福寺」・「崇福寺」・「福済寺」などの「長崎唐寺(とうでら)」で、いづれも「媽祖」を祀っている。

 2006年3月17日、横浜の中華街でも「横濱媽祖廟」が開廟した。これは2003年9月に株式会社・大京が「南門シルクロード」の「朱雀門」そばにマンション建設を計画したが、これに反対した「横浜中華街発展会協同組合」が同年11月に大京と協議の上、計画地を大京から買取ることで合意、「横浜媽祖廟」という名称の団体を立ち上げて、廟の建設に乗りだしていたもの。土地取得費用は約10億円、廟の建設費は約5億円。基礎工事の請負業者は清水建設、装飾などは台湾の業者が請け負った。



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媽祖信仰

  • June 14, 2015
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中国版「オトタチバナヒメ」というべきものに、「媽祖(Māzǔ・マソ)」という道教の女神がある。媽祖は特に台湾・福建・広東などの沿海地域で広く信仰される航海・漁業の守護神で、日本でも長崎や南九州に伝播したほか、琉球では那覇や久米島に「天妃宮」が建立され、「菩薩観音」や「オナリ神(琉球諸島で信仰された男兄弟を守護する姉妹神。特に国王の姉妹は聞得大君と呼ばれ、国政にも参加した。)」信仰、「オトタチバナヒメ」信仰と混淆しつつ広まった。

 媽祖は、宋代始めの建隆元年(960年)3月23日、福建省興化府甫田県の海に浮かぶ眉州島の漁村で林家の娘として生まれ、987年9月9日に他界した実在の女性を神格化したものという。
 伝説では、建隆元年に福建省興化府の官吏・林愿の7女として生まれた娘が、ひと月経っても泣き声をあげないので「林黙娘」と名付けられたが、黙娘は幼少の頃より才気煥発で信仰心も篤く、16歳の頃には神通力と銅製の札を授かり、村人の病を治すなどの奇跡を起こしたので「通玄霊女」として崇められるようになった。しかし宋・太祖の雍煕4年(987年)9月9日、彼女が28歳の時、父が海難に遭って行方不明となったため、これを悲嘆した黙娘は旅に出立。その後、嵋山の山頂で仙人に誘われ、神になったといわれている。

 図像では、媽祖は「赤鬼」・「青鬼」と通称される「千里眼」と「順風耳」の二鬼神を脇に従えている。この二神はもとは悪神であったが、媽祖に調伏されて改心し、以降、媽祖の随神(甲冑を着けた将軍の姿)になったとされている。廟に安置される媽祖は一般に両手で杓を持つ坐像が多いが、立像では、しばしば左手に「宝冠のついた長杓のような物」をもつ姿も描かれる。

 当初は航海の守護神として祀られた媽祖だが、のちには自然災害・疫病発生・盗賊・戦争など万物の厄災を除くと考えられるようになり、中国では歴代皇帝からも信奉された。媽祖に神号を贈って祀った王朝もあり、元・世祖の時代(1281年)には「護國明著天妃」に、清代康熙23年(1684年)には「天后」に封じられ、孔子・関帝と同列の式典が認められた。(媽祖廟が「天妃宮」・「天后宮」と呼ばれるのはこれに由来。)
  媽祖信仰は、福建商人、広東商人の貿易活動にともなって中国沿海部に広まり、東北部の「瀋陽」、華北の「天津」・「煙台」・「青島」など多くの港町にも媽祖廟が建ったが、そのほとんどは1965年‐1976年の文化大革命で破壊された。
 
 日本最古の媽祖廟は、明の永楽22年(1424年)に琉球王国の「唐栄(営)」に置かれた「下天妃宮」であるといわれ、現在は那覇至聖廟内に「天妃宮」として祀られている。またこの他にも、14世紀頃に中国との朝貢貿易が始まった際、福建よりもたらされた「上天妃宮」が一層古いという説もある。那覇市久米の「天妃小学校(1949年に沖縄群島政府が置かれた場所。)」敷地内には「上天妃廟跡」があり、石門とそれに続く「布積み」と「あいかた積み」から成る石垣が残る。


 長崎では、日本初の黄檗禅宗の唐寺で、開祖・隠元が中国より日本に渡海して最初に住持したことでも知られる「東明山興福寺(長崎市寺町4−32)」が「媽祖」を祀る。港を見下ろす風頭山の麓にある「興福寺」は、中国・明(1368年−1644年)の商人が長崎に渡来をはじめた元和六年(1620年)、中国僧・真円が航海安全を祈願してこの地に小庵を建てたことが始まりという。
 江戸時代初期の長崎は、幕府の朱印船や唐船による貿易で、ヨーロッパ・イスラム・アジアなどの商人や物資が集散する国際都市であったが、なかでも中国からの来航者が圧倒的に多く、市民の6人に1人は中国人というほどであったという。この多くの中国人が出身地別に寺を建立したのが、「興福寺」・「崇福寺」・「福済寺」などの「長崎唐寺(とうでら)」で、いづれも「媽祖」を祀っている。

 2006年3月17日、横浜の中華街でも「横濱媽祖廟」が開廟した。これは2003年9月に株式会社・大京が「南門シルクロード」の「朱雀門」そばにマンション建設を計画したが、これに反対した「横浜中華街発展会協同組合」が同年11月に大京と協議の上、計画地を大京から買取ることで合意、「横浜媽祖廟」という名称の団体を立ち上げて、廟の建設に乗りだしていたもの。土地取得費用は約10億円、廟の建設費は約5億円。基礎工事の請負業者は清水建設、装飾などは台湾の業者が請け負った。



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