May 28, 2006

VOGUE 1948

e8f5aecb.jpg 1946年、パリ・モンテーニュ街30番地にオートクチュールメゾンをオープンさせたクリスチャン・ディオールは41歳でした。翌年、コロル・ライン、エイト・ラインをパリコレクションで発表。48年に「ジグザグ・ライン」、50年に「パーティカル・ライン」、51年に「オーバル・ライン」、52年に「シニュアス・ライン」、53年に「チューリップ・ライン」、54年に「Hライン」、55年に「Aライン」、56年に「アロー・ライン」と続きます。

このVOGUEは、1948年3月号の表紙。モデルは「ニュールック」に身を包んでいます。

編集者は、Audrey Withers、カバーはClifford Coffinでした。

第二次世界大戦の終戦から間もない時代に、贅沢な華やかな服飾を纏えたのは、どうのような女性たちだったのでしょう。

ディオールの死後、21歳でイヴ・サンローランが主任デザイナーに。60年にはマルク・ボアン、89年にジャンフランコ・フェレ、96年より、ジョン・ガリアーノがデザイナーに就任。現在「LVMH」グループです。

DIOR VOGUE ※学生の皆さん、そろそろ試験です。

追記:第二次世界対戦の終戦間もない時代のファッションについて

水平線



資本主義や社会主義、ファシズムといった思想を超え、モダンデザイン(この時代のモダンデザインにはどういう主義、思想があったのでしょうか。)のなかから、「標準服」、「国民服」を身に纏うことから社会や人間の変貌がみられるようになりました。これは「既製服への抵抗」がなくなっていく意識の変化でしょう。

もともと「既製服」は、労働者階級の低品質なものであったからですね。

産業革命後のヨーロッパでは、オートクチュールになど手の出ない民衆が「古着屋」を相変わらず利用します。(のちにマドレーヌ・ヴィオネが、衣装を身体へ視点を変化させたこと、文化的現象にもなった「衛生・清潔」という視点から、「古着屋」の存在も変化します。またフランスでの女性の生理帯も同様です。)

ポール・ポワレ以降、「プレタポルテ」というシステムが中流階級を惹きつけたわけです。

そうして大戦中には、「平等」という理念が植えつけられた「標準服」から、量産可能なカジュアルで機能的なスタイル、市場システムが確立されたわけです。

・大戦中の政治的プロバガンダ
・ニューヨーク万国博覧会
アメリカン・ウェイ・オブ・リビング

こういった時代の流れはあるものの「自分でつくる」、「民族衣装」を着用していたということを忘れてはなりません。

19世紀のフランス。ブルジョワジーの象徴は「住み込み乳母」(持ち込み乳母もいました)です。彼女たちは、出身地であるノルマンディーやコーの民族衣装を身に着けていました。それが19世紀末には、クラシックなコスチュームで着飾り、ブルジョワジーの「装飾品」の一部になるのです。人が人の持ち物になったわけですね。

絵画からもさまざまな衣装から、職業や階級を知ることができますよ。



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