善悪の彼岸 (光文社古典新訳文庫)
善悪の彼岸 (光文社古典新訳文庫)


実はまだ2/3程しか読んでいないのだが、気持ちの高ぶりを感じているので、この時点でメモを記録したい(いつもと違い”である調”で書くことにしよう)。

この本を読んでいて最も強く感じるのは、ニーチェの悲壮なまでの孤独感だ。これは2、3ヶ月前に読んだ「ツァラトゥストラはこう言った」にも共通している。

どこか薄っぺらで嘘っぽい道徳的・宗教的な善、同情したり褒め合ったりしてしか繋がらない友情。そういったものに異を唱えれば唱える程、むしろその集団から排除され孤独を深めながらも、自分の心の底にある力を振り絞りながら、常に自分を高めようという血のにじむような苦闘の痕が読み取れる。

よくニーチェを読むと勇気をもらえるというが、私はむしろ、自分の弱さや小ささをえぐられるような感じにとらわれ、心の奥底がズキズキ痛むのを感じた。

ニーチェに言われるまでもなく、結局私は、お金を求め、愛情を求め、成功を求め、称賛や名声を求める、群れる家畜だ。家庭を持ち、日常の幸せを求める父親であり、ニーチェを読んだ直後に、社会で成功する方法を求めて自己啓発書を読むような小市民である。

それにしても、人間はそこまで強くなれるのだろうか?

私も人並みに、いやもしかしたら人より過敏な分、人並み以上の孤独感や虚無感を感じている。自分なりに考えに考えたことが誰にも理解されないのは辛いことだし、年を重ね、自分の限界も見え隠れし、その思いは強まるばかりだ。

当然その孤独感、虚無感から脱却したいという欲求を持っていると思う。しかし、もしそのために、ニーチェの言う「力への意志」を突き詰め生きていく覚悟が必要なら、私は、おそらく群れる家畜のままでいるだろう。本当の生の叫び、力への意志をありのままに受け入れるには、あまりにも壁が高い。社会の中の自分を捨てるのはあまりにも怖い。

おそらく、ニーチェの本を再び読んだとしても、問題に突き当たったときに自分を確認する程度の矮小な使い方しかできないだろう。実際、ほとんどの解説書の類いも、ニーチェの思想の上澄みを俗っぽく説明しているにすぎない。

それでも、ニーチェの本をこれからも読みたいと思う。ニーチェの思想というのは、強い酒のように、悪酔いせずに本当に味わえるのはほんの一握りの強い人間なのだろう。でも、普段ビールしか飲まない酒に弱い人間が、時に強い酒を飲んで泥酔するのもいいじゃないか。群れる家畜が孤高の精神に憧れる権利くらいはあるだろう。

ところで、ニーチェは晩年発狂したそうだが、狂うというのはいわば、群れる家畜が定めた普通の状態から理解できないことだと思う。本当の自分、強い自分、孤高の自分を探し求めたニーチェの末路としては皮肉である。