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ゼーターラーは1966年生まれの、オーストリアの作家である。
この作品では、オーストリア山岳地方の片田舎で生まれ育った、きわめて素朴な、ある意味地味に生きた男の一生が描かれている。

主人公エッガーは私生児として生を受け、引き取られた親戚の家では厳しい養父から鞭を受けて育つ。
その体罰が原因で、一生片足を引きずって生きていくことになる。
平凡ではあるが、並外れた体力にも恵まれて、幾度かの逆境にも耐えて生きていくさまは感動的である。

例えばこんなエピソードがある。
歳を取り見躯体労働から身を引いたエッガーは、ふとしたきっかけでハイキングガイドを始めることになる。
(ところで、その宣伝広告文は、とてもユーモラスで心温まるものがある)

あるハイキング客の女性が途中で足に軽傷を負い、ガイドのエッガーに手を引いてくるように頼む。
それに対するエッガーの答えは、いかにも彼らしい。
彼が生きてきた苦境に満ちた人生、それに彼の強固なパーソナリティが凝縮されたかのようだ。

エッガー曰く「足は自分で引きずるもんだ!」

ソビエトとの戦争にも駆り出され、厳しい抑留生活という悲劇にも見舞われたが、エッガーを最も悲しませたものは、それは純情で無骨なエッガーがいかにも彼らしいやり方で手に入れた愛妻マリーを悲しい事故で失ったことである。
晩年になって、エッガーは回想する。
もしマリーが生きていたらどういう人生になっていただろうか・・。

老女性教師(エッガーも教師も60を超えての出会い)とのつきあいもうまく行かず、案内する都会人の軽薄さ、騒がしさに嫌気も差しガイド業も止め、全く孤独になったエッガー。
(気持ちはとてもわかる)

しかし美しい自然に囲まれ孤高の最晩年を生きるエッガーの姿にはもうすぐその年代に達する私は・・憧れさえ感じる。

特に印象的だったのは次の一文である。
私の余生(まもなく始まる)もこんな風にして、人生の来し方を振り返りたい。

<その年の最初の暖かな陽光を感じる時、エッガーは、自分の一生はだいだいにおいて決して悪くはなかったと感じるのだった。>
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60歳で定年を迎え、再雇用として働き始め、早3年2カ月が過ぎた。
そしてこのほとんど保障されている5年間の再雇用期間も、残りあと22カ月に迫った。

これまで「完全リタイア」というものを考えるとき、必ず「毎日が日曜日という地獄」という負の面が頭に付きまとい続けていたものだ。

しかし、今は少し違う。

今から数週間前に感染したコロナと足関節の痛みの同時襲来以来、いまだに体調がすぐれない。
のどの痛み・頻繁なセキは、おそらくコロナの後遺症なのだろう。
時々窒息するのではないかと思うぐらい、深刻な咳が襲ってくる。
確か「トローチ」みたいなものが薬箱にあったはずだと探し出し、それを服用する。
ちょっと大きめのドーナツ型のクスリだが、無理して飲み込む。
喉につっかえたような感じがする。
なるほど!これは痛む喉に停滞し患部に薬剤を浸透させ、そしてこの穴は窒息を免れるための穴だ・・と感心する。
それを職場で再現しその画期性を説明したところ、同僚N氏から鬼首で笑われた。
それは舐めるものだと、溶けやすくするためのドーナツ構造だと・・近くに座っている非正規の女性職員KDさんも巻き込んで大笑いである。

それはいい。(笑)
咳など大したことではない。
それに随伴するように足関節の痛みが最近また出始めたのである。
杖を使うほどではないのだが、〇〇〇を引いて歩くことが多くなった。

更に・・これが一番つらいのだが、倦怠感がただならない。
これはコロナ後遺症(かもしれないが)というより、周期的に襲ってくる持病みたいなものだ。これまでもここ20年ほどの間、予期せぬ波のように襲ってきたものだ。
それに加え、カスミ目にも悩まされている。

先週の土日は絶好の釣り日和であった。
ところがこの倦怠感と足周りの関節痛で、釣りに行く余裕などこれぽっちもなかった。
健康でさえあれば、走りの梅雨グロ(メジナ)、アブッテカモ大漁のはずであったであろうにと、忸怩たる思いであった。

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(夏の寝床である1階ベッドから)

出勤の日。
朝目覚めると、小人に全身を縄で縛られたガリバー状態である。
体が鉛のように重いのである。
それでも仕事が待っているので、何かに操られている操り人形のように起きあがるしかない。
出勤の準備が整い、玄関のドアを出るまでに20分ぐらいの時間がある。というよりその時間を作っている。

この時間何をするかというと、・・ベッドに再び倒れこむのである。
この至福の時間よ!
1分、1分が蜜のように甘い。
あと10分・・5分・・1分と、この至福の時間が過ぎていく。
そして時間になり、意を決し操り人形のようになって、自転車の重いペダルを漕いで今日も仕事に行くのであった。
いったい何に操られているのだろうか?

・・・このつらい朝が、あと最大で22カ月の辛抱で終わるかと思えば・・「操り糸」を切ることができると思えば、「完全リタイア」も悪くないな・・と最近思うようになってきた。
たとえそれが「毎日が日曜日という地獄」、「無間地獄」のような生活であっても・・。


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2010年にノーベル賞を受賞したペルー出身のバルガス=リョサの作品はこれまで幾つか読んできたのだが、そのいずれもがとても感動的な作品であった。


この作品『密林の語り部』は、それらとかなり隔たった、ある意味特殊な作品に思える。
作者自信がどれだけ、ここに描かれている世界・・密林に住むインディオ達のプリミティブな世界に「理想」を感じているのかは謎だ。
ともかくも、この作品はそうした「非文明」「神話的世界」で読者を包み込みこもうとする。
その世界は「文明」と「非文明」の間の折衷的なものではなく、あくまでも神話が人々の世界観であり、生きる拠り所となる世界である。

マチゲンガ族の「語り部」によって語り継がれる数々の、美しく、ユーモラスで、少し卑猥でもある幾つもの霊感溢れる物語が、バルガス=リョサのあの熱っぽい語り口で語りかけられるとき、我々は密林世界にスリップしたような錯覚を憶える。
そして、この錯覚はとても心地よい。
それはあらゆる動物が、昆虫が、草木が、自然がすべて魂を持って、善意あるいは時には悪意を持って、人を取り囲んでいる世界である。

現代においても、「奥地に住む人たち」はテレビ番組にしばしば取り上げられるほど少なくない。
しかし、そうした人たちの世界観とは、あくまでもほとんどは普通の現代人が持つ、科学的、経済原理が支配する世界、そしてほとんどは非宗教的なものでははなかろうか?

この小説に描かれているのは、そうした世界観が人間に植えつけられる前、我々はどんな目で世界を見ていたのか・・ということを強く問いかけてくる。
そしてその世界は原始的で不便で衛生的ではなのかもしれないが、もしかしたら我々が失ったとても大きなことが・・その精霊宿る世界との魂の交感というべきものがあったのではないか・・ということをありきたりな手法ではなく、きわめて独特な方法で強く示唆しているように思う。

そして、そうした世界に無くてはならない存在として「語り部」が登場する。
そして、こうして密林の中に入り込み・・自ら「語り部」となっていったある心と顔に悲しい傷を負った青年のことも物語られる。

「通常の」小説とはかなり異質であるが、極めて特異な感動をもたらす作品である。
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