ポール・グレアム「バブルが是正したもの」を翻訳しました。


http://d.hatena.ne.jp/lionfan/20070115


原題は「What the Bubble Got Right」で、原文は以下です。


http://www.paulgraham.com/bubble.html


翻訳にはmoonan様、NAPORIN様、tmasao様の協力をいただきました。ありがとうございました。


「はてな」で翻訳の不備な部分の指摘を募集したのです。


http://q.hatena.ne.jp/1168936413


まだ誤訳がありえますので、英語に強い方、ぜひアドバイスいただければと思います。


よろしくお願いします。





バブルが是正したもの


2004年9月


(このエッセイはICFP 2004の招待講演を基にしています)


私は1998年と1999年にYahooで働いていたので、インターネット・バブルの最前列に座っていたことになる。ある日、Yahoo株が約200ドルで取り引きされたころ、私は座って適正価格はいくらか推定した。私の答えは12ドルだった。私は隣のブースに行き、友達のトレヴォーにそう伝えた。トレヴォーは「12ドルだって!!」と言った。彼は怒ったフリをしたが、あまり成功していなかった。トレヴォーは、我々につけられた株価が正気の沙汰ではないことを、私と同様、よく知っていたのだ。


Yahooは特殊なケースだった。見せかけは株価収益率だけではなかった。利益の半分も見せかけだった。もちろんエンロン流ではない。経理係は所得を正直に報告した。我々の利益が見せかけだったのは、Yahooが実質的にはネズミ講の中心にいたからだ。投資家がYahooの収益を見て「インターネット企業は利益を生むっていう証明だね」と独り言を言う。そして次のYahooになりそうな新しいベンチャーに投資する。これらのベンチャーが資金を得て、直ちにすることは何だろう? 「ブランドを浸透させるために、Yahooサイト上に何百万ドルもの広告を打とう」 その結果、ある四半期におけるベンチャーへの投資は、次の四半期にYahooへの収益となって計上され、そしてまたベンチャーへの投資が刺激される。


ネズミ講と同様、システムの収益に見えたものは、単に、次の新たな投資金にすぎなかったのだ。そのシステムと本物のネズミ講との違いといえば、意図的に作られたものではない、ということしかない。少なくとも私は、意図的だったと思わない。ベンチャー・キャピタル・ビジネスは、きわめて近親相姦的で、おそらくしかるべき位置の人が、たとえこの状況を作りだしたのではなくても、何が起きていたかは理解して甘い汁を吸っていた。


1年後にはゲームは終わった。2000年1月からYahooの株価は下がりはじめ、最終的には95%の暴落をした。注意してほしいのは、市場価格から全ての贅肉を取り去ったあとでも、まだYahooにはすごく価値があったということだ。2001年の3月と4月という、夢が覚めた後の価値でさえ、Yahooは6年間で約80億ドルの価値の会社をどうにか作りあげていた。


バブル時代に「ニュー・エコノミー」に関して多くのたわごとを聞かされたが、実際のところ、真実の核もあった。本当に大きなバブルを作るには真実の核が必要だということだ。中心にしっかりしたものを用意すれば、賢い人でさえバブルに巻き込むことができる。(アイザック・ニュートンとジョナサン・スウィフトは、どちらも1720年の南海泡沫事件に巻き込まれお金を失った)


今、振り子は揺り戻している。バブル中に流行ったものは何であれ、バブル中に流行っていたからという理由で現在は流行らない。でもそれは間違っている。1999年にみんなが言っていたことを信じるよりも、さらに大きな誤りだ。長い目で見れば、バブルが是正したものは、バブルが悪くしたものよりも重要なんだ。





1. 小売りVC


バブルの行き過ぎを経験した現在では、黒字化する前に株式を公開すると疑わしい目で見られる。しかしその考えは、本来は何も悪くない。初期段階で会社を公開するのは、単なるVCの小売りにすぎない。資金調達の最終段階にベンチャー投資企業に行くのではなく、公の市場に行っただけだ。


バブル末期には、赤字なのに株式を公開する会社は「アイデア株」と呼ばれ、まるでその株に投資することがどうしようもなく愚かであるかのように嘲笑された。だがアイデアへの投資は愚かじゃない。それはVCの仕事だし、最高のVCは愚かとはかけ離れている。


まだ黒字でない会社の株にも、何らかの価値がある。市場が20世紀前半に普通株の評価法を学んだのと同じで、黒字化する前の企業を市場が評価することを学ぶのには時間がかかるかもしれない。だが市場はそういった問題を解くのが上手い。市場が現在のVCよりもよい仕事をするようになっても、私は驚かないだろう。


どんな企業でも、早々に株式を公募することがよいとは限らない。もちろん経営でとち狂ったり、初期の社員を急に金持ちにさせたりして、ダメになることもありうる。だが市場がベンチャー企業を評価する方法を学ぶのと同じで、ベンチャーは株式公開のダメージを最小化する方法を学ぶだろう。





2. インターネット


インターネットは本当にすごい。それが賢い人々さえバブルに踊った理由の一つだ。インターネットが強い力を持とうとしていたことは明らかだ。だがその力はナスダックの上場会社の価値を2年で3倍にするほどなのだろうか? そんなことはない、と今ではわかっている。だが当時は違うと断言することはできなかった。[1]


同じことがミシシッピ社事件と南海社バブル事件で起きた。バブルを動かしていたものは、組織化された公的な資金(南海社はその名前にもかかわらず、実際はイングランド銀行のライバルだった)の発明だった。そしてそれは、長い目で見れば大事業になってきていた。


大きなトレンドを知ることは、そのトレンドからどうすれば利益を得られるかを知るよりも簡単だ。投資家がしばしばやってしまうミスは、トレンドをあまりにもストレートに解釈してしまうことだ。インターネットはすごく新しいものだったので、投資家は会社がインターネットらしくあるほど良いものだと思いこんだ。その結果Pets.Comのような事態が発生した。


実際には、大きなトレンドから得られる利益の大部分は間接的なものだ。鉄道の景気が良かったころに最も利益を挙げたのは鉄道会社ではなく、レールを製造したカーネギーの製鋼所や、鉄道の利用で石油を東海岸経由でヨーロッパに輸出できるようになったスタンダード・オイルのように、トレンドの中心ではなく、上流や下流にいた。


インターネットには、今までにはない大きな力があり、今まで見てきたことは今後見ることになるものとは比べものにならないと私は思う。しかしほとんどの成功する企業は、間接的にインターネット会社であるだけだろう。Google1社につき、ジェットブルー社が10社あるのだ。





3. 選択


なぜインターネットが大きい勢力を持つことになるだろうか? 新しいコミュニケーションの形態はいつでも大きな影響を持つのだ、ということで概ね意見は一致している。めったに現れないけれど(工業化時代が来るまでは、スピーチ、手書き、印刷しかなかった)、でも新しいコミュニケーションが表れた場合、いつも大きなしぶきを跳ね上げる。


その他の意見として、インターネットによって我々には多くの選択肢がもたらされた、というものがある。「古い」経済では、人々に情報を示すコストが高かったため、選択肢がほとんどなかった。大衆につながる細く高価なパイプ・ラインは、いみじくも「チャンネル」と命名された。チャンネルさえコントロールすれば、大衆に好きな時期に好きな情報を与えることができた。この法則に従ったのは大企業ばかりではない。労働組合、伝統的なマスコミ、芸術界、文壇などが彼らなりのやり方でそれにならった。勝利は良い仕事をすることではなく、あるボトル・ネックの支配権を得られるかどうかにかかっていた。


それが今、変わりつつあるようだ。Googleは月に8200万以上のユーザーを持ち、年間約30億ドルの収入がある。[2] そもそも今までGoogleの広告を見たことあるかい? 何かが起きているのは確かだ。


そりゃGoogleは極端な例であることは認める。新しい検索エンジンに切り替えるのはとても簡単だ。ほとんど努力もいらないし、お金も必要ない。新しいのを試して、もっと良い結果が出るかどうか見るのも簡単だ。だからGoogleには広告の必要がない。このようなビジネスでは、ただ最高でありさえすればよい。


インターネットがワクワクするのは、すべてをそのような方向に変えるからだ。いちばんいいものを作って勝ちたいなら、いちばん難しいのはスタート地点だ。最終的には、すべての人があなたがベストであると口コミで知る。しかし、それまでどう生き残ればいいのだろうか。インターネットがもっとも力を持つのは、まさにこの重要なステージだ。第一にインターネットによって、あなたをほぼ無料でみんなに見つけさせることができる。第二に、インターネットは評判が口コミで広がる速度を劇的に早める。これら両方が意味するのは、いろんな分野でのルールが次のようになるということだ。「とにかく作れ。そうすればみんながやってくる。なにか凄いものを作ってネットにアップしろ。前世紀の勝利の方程式は大きく変わったんだ」





4. 若さ


インターネット・バブルの報道でいちばん目立ったのは、数名の若いベンチャー起業家だった。これも今後も続く傾向だ。26歳の間の標準偏差は大きい。ある人には入門レベルの仕事しかできない。しかしあるものは、事務処理を他の人にやってもらえるなら、世界を支配する能力を秘めている。


26歳では、経営やSEC(米国証券取引委員会)との駆け引きはうまくないかもしれない。経験が必要だからだ。しかしそれらはよくある仕事なので、誰か代理の人に委任できる。CEOに最も必要なのは、自社の未来に関するビジョンだ。次に何を作るのか? その分野には、誰に対しても渡り合うことのできる26歳がいる。


1970年では、会社の社長とは、少なくとも50歳代の誰かだった。彼のもとで働く技術者は馬車馬のように扱われた。褒められるが地位は低かったんだ。しかし技術がより重要になり、オタクの地位はそれを反映するようになった。現在では、CEOは技術的なことを尋ねられる誰か賢い人を抱えているだけでは不十分で、ますますCEO自身がその賢い人であることを求められるようになってきている。


いつものことだが、ビジネスは古いやりかたに固執する。VCは、いまだにCEOらしい口の達者な人物をインストールしたがっているようだ。


しかしだんだん、ベンチャー創業者は実力者に、そして白髪の採用者は将軍というより音楽グループのマネージャーになっていきつつある。





5. 非公式


ニューヨークでは、バブルは劇的な結果をもたらした。スーツはダサく見えるので流行らなくなった。だから1998年の典型的なニューヨーカーは、サンタクララ郡の連中(訳注: シリコンバレーの中心地)のように、あわてて開襟シャツとカーキ色の服、楕円形のメタルフレームの眼鏡を着るようになった。


ファッション業界のパニック的な反応もあって振り子は少し揺り戻し、その傾向は少し落ち着いた。でが私は開襟シャツに賭ける。いっけんどうでもいい質問だがそうじゃない。オタクは服を、はっきりと自覚していないかもしれないが、重要だと感じているんだ。


オタクならば「自分の会社でスーツとネクタイ着用を強制されたらどう思うだろう」と自問すれば、服がどれほど重要か理解できるだろう。ゾッとするよね? 実際のところその嫌な感じは、単にそんな服を着るのは不快だというのに止まらない。プログラマにスーツ着用を強制する会社は、めちゃくちゃひどい結果になるだろう。


アイデアを質ではなく数で評価したらどうなるかを考えれば、間違いは明らかだ。それは形式主義に関する問題だ。正装自体はそんなに悪くない。でもこの問題は「いいアイデアを思いつけない奴は正装する」っていう思考につながるレセプターなんだ。技術的にダメなビジネスのやり方が「訴訟(スーツ)」を呼ぶのは偶然じゃない。


オタクはたまたまルーズな服を着るんじゃない。それにしちゃ一貫しすぎているだろ。意識的であってもそうでなくても、バカになりたくないからルーズな服を着るんだ。





6. オタク


服は形式主義に対する戦いのうち、いちばん目に付きやすい戦場にすきない。オタクは概してあらゆる形式主義を嫌う。たとえばオタクは、職業や権威、それらに付随する物に感銘を受けない。


まさにそれこそがオタクの定義だ。私は最近、オタクたちのショーを計画していたハリウッドの人と話す機会があった。オタクとはどんな連中か説明して置いた方がいいだろうと私は思った。私が思いついたのは、「自分を売る努力を全くしない人」というものだった。


言いかえればオタクは実体にこだわる人たちだ。ならばオタクと技術の関係は何だろうか。おおざっぱに言って、人類は母なる自然をだますことはできない。技術的な問題では正解が必要となる。ソフトウェアが宇宙探査機の経路を計算するときに、自分のコードが愛国的だとか前衛的だとか、技術的な分野の外での巧みな言い訳によって経路の問題に対処することは不可能だ。


経済にとって技術の重要性が増すのに伴い、オタク文化の地位も向上している。私が子供だったときよりも、オタクはずっとクールと思われるようになった。1980年代中ご、私が大学にいたころ、「オタク」はまだ差別用語だった。コンピュータ科学を専攻したふつうの人は、それを隠そうとした。今では女性が「どこに行けばオタクに会えるんですか」と私に尋ねるようになった。(頭に浮かんだ答えは「Usenix」だったけど、消火栓から水を飲むようなもんだよね)


私は、オタク文化が認められるようになった理由に関して、甘い幻想を抱いてはいない。人々がとうとう宣伝よりも実質を重視するようになったからだとは思わない。オタクが金持ちになったからだろう。でも変わりつつあるのはそれではない。





7. オプション


オタクは通常、ストック・オプションによって金持ちになる。現在、企業がオプションを与えることを規制しようとする動きがある。確かに一部、完全な制度の乱用があり、何としてでも修正しなければならない。だが金のガチョウを殺してはならない。公正さは技術革新を推進する燃料だからだ。


オプションはすばらしい。だって(a)公平だし、(b)ちゃんと機能する。会社に仕事に行く人は、企業に価値を付加したいと望んでおり、分け前を与えるのは実にフェアなことだ。そして純粋に実用的な手段として、オプションをもらった人はずっと熱心に働く。私はそれを直に見た。


バブル時に一部の悪党が自分自身にオプションを与えて会社から泥棒したからといって、オプションが悪い考えだということにはならない。鉄道ブームの時には、重役の一部は水増し株、つまり公表したより多くの株の発行して儲けることが目立った。だからといって普通の株が悪いアイデアということにはならない。悪党はどんな手だって使う。


オプションに問題があるとしたら、わずかに間違ったものに報いることだ。人は当然のことだが、支払うものに対して働く。仕事時間に払えば、人は長時間、働くだろう。仕事量で払うなら、多くの仕事をするだろう(あなたの定義する「仕事」に従うだけだが)。株価を上げさせるために支払うなら、彼らは株価を上げようとするだろう。


でもそんなこと、ぜんぜん望んでないでしょ? 市場の評価額じゃなくて、会社の本当の価値を増加させたいでしょ? 長期的にはこの2つは一致するはずだ。でもそれがすぐにオプションに反映されるとは限らない。オプションという手段は社員に、無意識に「パンプ・アンド・ダンプ」、つまり会社に価値があると偽装するように誘惑する。私はYahooにいた頃、「これはいいアイデアだろうか?」と問うべき時に、つい「投資家はどう思うだろうか」と考えてしまう自分を抑えられなかった。


だからたぶん、普通のオプションは、ちょっと手直しする必要がある。恐らくオプションは、もっと利益としっかり関係するものに取って代わられるべきなのだろう。オプションの歴史はまだ短い。





8. ベンチャー


オプションの価値を上げたのは、おおかた、ベンチャー株のオプションだ。もちろんベンチャーはバブルが生みだしたものではない。だがバブル前より、バブル期にベンチャーは目立つようになった。


多くの人がバブル中にはじめて知ったのは、ベンチャー起業は買収されることを目的として創立されるということだ。元々のベンチャーは、大起業になることを望んだ小さな会社のことだった。しかしベンチャーは、要求に合わせて技術を発展させる場へと次第に進化している。


私が「ハッカーと画家」で書いたように、社員は生産高と支払いが正比例したときに、最も生産的であるように思う。じゃあベンチャーのメリット、いや存在意義そのものは? ベンチャーでなければ作れないものを作ることだ。


多くの業界で会社は技術を得たいときには、自社で研究するのではなくベンチャーを買収するようになるだろう。高くつくけれどリスクは少ない。そしてリスクほど大企業が恐れるものはない。その結果、技術者はより説明責任を強いられるようになる。良いものを作らなければお金が支払われないからだ。その結果、大企業の官僚的な雰囲気ではなく、ベンチャーの革新的な雰囲気で作るために、より速く、よりよい技術を開発できる。


私たちのベンチャー(Viaweb社)は、売却するために創立し、そのことを創業当初から投資家に対し秘密にしなかった。また私たちは、大企業にも導入が容易なものを作るように注意を払った。これは未来へのお手本だ。





9. カリフォルニア


バブルはカリフォルニアの現象だった。1998年にバブルがシリコンバレーに現われた時、私は1900年にアメリカに着いた東ヨーロッパの移民のように感じた。誰でも非常に陽気で、健康で、裕福だった。新しく進歩した世界に思えた。


小さなトレンドをいつも大げさに言いたがるマスコミは、現在、シリコンバレーがゴーストタウンだと印象づけようとしている。そんなことはない。空港から車でルート101を下ると、まるで近くの巨大な変圧器があるかのように、エネルギーのうなりを感じる。地価は国内の他のどこよりも高い。人々は相変わらず健康に見えるし、天候もいつもながら素晴らしい。未来はあっちにある。(Yahooを出た後で私は東海岸に戻ったので、「あっちに」と書いた。移転は正解だったのかといまだに気にしている)」


ベイエリアが最高にしているのは人々の態度だ。ボストンに帰宅するとわかる。航空会社のターミナルから出て最初に見るものは、太って無愛想なタクシーの列係りのおじさんだ。「私は東海岸に戻ったんだ」と肝に銘じ、無礼に備える。


都会の雰囲気は都会によってぜんぜん違う。そしてベンチャーのようなか弱い有機体は、そんな変化にとても敏感だ。ベイエリアの雰囲気を示す言葉は、自由主義者の新しい婉曲表現にのっとられていなければ「進歩的」となったはずだ。もし自由主義者の新しい婉曲表現に取って代わられなければの話だが。カリフォルニアの人々は未来を作ろうとしている。ボストンにもMITとハーバード大学があるが、身代金用に民主党の全国大会を開催した警察官のような、残酷で団結した労働者もたくさんいるし、多くの人がサーストン・ハウエル3世のようになりたがっている。時代遅れなコインの両面ってわけだ。


シリコンバレーは次世代のパリやロンドンではないかもしれないが、少なくとも次世代のシカゴだ。今後50年間、新しい富の源泉だ。





10. 生産性


バブル期には、よく楽天的なアナリストが「技術によって生産性は劇的に向上する」と言い、高い株価収益率を正当化した。彼らは特定の企業については間違ったが、根本的な原理についてはそれほど間違っていなかった。私は、次の世紀に現れる大きな傾向の一つは、生産性の大幅な向上だと思う。


もっと正確に言えば、生産性の多様性の拡大だ。技術はてこみたいなもので、力を加えはしないが、増幅する。現在の生産性の幅が0~100なら、10倍になると生産性の幅は0から1000になる。


その結論は、未来の会社が驚くほど小さいかもしれないというものだ。私はときどき、社員10名以下で会社をどれくらい収入という点で大きくできるのだろうかと空想する。製品開発以外のすべてを外部に委託したらどうだろう。そう考えれば、どれほど凄いことができるかに驚くだろう。フレデリック・ブルックスが指摘したように、グループ中のいざこざは人数の二乗に比例するから、小さなグループのほうが生産的だ。


つい最近まで、大企業の経営とは多くの労働者を管理することを意味していた。会社には何人の社員がいるべきかに関する私たちの標準は、古い因習に影響されている。ベンチャーは多くの人を雇う余裕がないため、必然的に小さくなる。しかし私は、収入が増えたからといって企業がベルトを緩めるのは大きな間違いだと思う。追加分の給料を支払えるかどうかが問題なのではない。会社の増大に伴う生産性の低下に耐えられるかどうかを問うべきなのだ。


技術による、てこの増幅の可能性は、もちろん失業の亡霊も生み出す。私は人々がいまだにこれを心配するので驚いている。職を奪うような技術革新が数世紀つづけば、おそらく仕事の数は、その仕事を望む人数の10パーセント以下になってしまう。だが同時に発生ではないし、ある種の平衡のメカニズムも働くだろう。





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これらのトレンドを見渡したとき、なにか包括的なテーマがみつかるかい? たぶん以下のようなものだ。次の世紀では、よいアイデアはさらに重要になること。よいアイデアを持つ26歳は、強いコネを持つ50歳と比較して、ますます優位に立つこと。会社にとってよい仕事をすることは、着飾ったり広告を打つことよりも重要になること。それこそが会社のやるべきことだ。そして人々は、地位ではなく作るものに比例して報酬を与えられること。


もしそうならば、これは確かに良いニュースだ。よいアイデアは、いつも最終的には勝つ。問題は、すごく長い時間がかかるときもあるってことだ。相対性理論が受け入れられるまでには数十年間かかったし、計画経済がダメだとわかるまでに一世紀近くかかった。だから、良いアイデアが勝つ可能性をわずかに高めるような変更さえ「ニュー・エコノミー」といった名前でといった名前で呼ばれるに足るほど大きな変化になるだろう。





注釈


[1] 今はそうもいえないようだ。ジェレミー・シーゲルが指摘したように、ストックの価格がその逸失利益であるなら、利益がいくらか判明するまで、それが過大評価されたかどうかも分からない。1999年に有名なインターネット関連株の大部分は確かに過大評価されていたようだが、例えばナスダック指標が本当にそうだったのかを言い切るのは難しい。


シーゲル・ジェレミー・J「株価バブルは何か -操作的定義-」ヨーロッパ財務経営、9:1、2003年。


[2] ユーザ数は、Googleのサイト上で引用された2003年6月のニールセン調査値から(読者はもっと新しいのがあると思うかもしれない)。利益の推定収入は2004年の上半期で13億5000万ドルとのIPO冊子の報告に基づく。


原稿を読んでくれたクリス・アンダーソン、トレヴォー・ブラックウェル、サラ・ヘレン、ジェシカ・リヴィングストン、ロバート・モリスに感謝する。