ポール・グレアム「よい芸術とは」を翻訳しました。


原題は「How Art Can Be Good」で、原文は以下です。


http://www.paulgraham.com/goodart.html


この翻訳には、korompa様、NAPORIN様、tmasao様、j0hn様、typo様のご協力をいただいたています。ありがとうございます!!


よい芸術とは


2006年12月


私はセンスはたんなる個人的な好き嫌いだと信じて育った。すべての人に好みはあれど、善し悪しはない。センスなんてものはない、と。


私がかつて信じた多くのものと同じく、これも間違いだとわかった。その理由を説明しよう。


「センスなんてない」と言う問題点の1つは、「優れた芸術なんてない」ってことになるからだ。もし良い芸術があるのなら、それを好む人は好まない人よりも良いセンスを持つだろう。したがってセンスを捨てるなら、芸術が良い/悪いという考えや、それを作る優れた芸術家が上手/下手という概念も放棄するべきだ。


このひもを引き寄せていくことで、子供時代に信じていた相対主義を解体することになった。何かを作ろうとするときにセンスは非常に実際的な話になってくる。次に何をするか決めなくちゃいけない。この絵、この部分を描きなおすほうがいいだろうか。良いものがないのなら、何をしたってよくなる。実際、描くまでもない。ただ外出し、既製の白いキャンバスを買ってきたっていいのだ。「良い芸術」なんてないのなら、それだってシスティナ礼拝堂の天井画と同じくらい偉大な作品だろう。たしかに労力は少ないさ。でも、より少ない努力で同じ完成度に達したなら、印象は薄くなるのではなく、より強くなるはずだ。


でもこれは、とうてい真実とは思えないだろ?




鑑賞者


思うにこのパズルを解く鍵は、芸術には鑑賞者がいることを思い出すことにある。芸術には目的がある。鑑賞者の関心をひくという目的だ。よい芸術とは、(ほかのよいもの同様)特によくその目的を達成するものをいう。「関心をひく」やりかたは色々だ。ある芸術作品はショックをもたらし、あるものは喜びをもたらす。あるものはあなたに正面からぶつかってくるし、あるものは、静かに存在するだけだ。しかし全ての芸術は鑑賞者に働きかけねばならず、そしてここが重要なのだが、鑑賞者達が考えを共有するようになっている。


例えばほぼすべての人間は、人の顔に興味を持つ。脳に織り込まれているのだろう。赤ちゃんは生まれたときから顔を認識する。実のところ顔は、私たちが興味を持つから進化したように思われる。顔は身体の看板なのだ。だから他の条件がすべて同じなら、顔がある絵画は、ない絵画よりも人々の興味を惹くだろう。[1]


センスは単なる個人的な好みだと安易に信じられやすい、そのひとつの理由は、もしそうでないなら、どうやって良い鑑賞力を持つ人々を選択できるというのだろう? 何十億もの人々がいて、それぞれの自分の見解を持つ。どういう根拠であなたはあるものを別のものより好むのだろうか?[2]


しかし、もし鑑賞者がかなり共通するものを持っているなら、個人の偏りのランダムな組み合わせから1つを選ばなきゃいけないという地位から降りることができる、なぜなら、組み合わせはランダムじゃないからだ。ほとんど当たり前だけど、みんな顔が魅力的だと思う:顔の認識は私たちのDNAにある。だから、いい仕事をする芸術という意味での「良い」芸術を知るには、誰か数名を選択し、彼らの意見を正解とする必要はない。誰を選んだって、その人は顔を魅力的だと思うはずだ。


もちろん宇宙人は、おそらく人類の顔を魅力的と思わないだろう。けれども宇宙人と人類に共通するものがあるかもしれない。最も可能性がありそうなのは数学だ。2つの証明のうちどちらが良いかについて、宇宙人と人類は、ほぼ意見の一致をみるだろうと私は思う。エルデシュもそう考えた。彼は最高にエレガントな証明を「神様の手帳」から来たものと呼んだ。おそらく神の手帳は全宇宙で共通だ。[3]


一度、観客について考え始めたら、普遍的な鑑賞力などあるのか、という問題を論じる必要はなくなる。鑑賞力を池のさざ波のような、一連の同心円と考えるようになるんだ。あなたやあなたの友人の好みに合うものがあり、同年代の大多数の好みに合うものがあり、ほぼすべての人間が好むものがあり、そしてたぶん(いかなる意味の存在でも)感じる能力のあるものほぼすべてが好むものがある。


池の真中には、さざ波の組み合わせが重なるから、現実はこの図式よりももう少しだけ複雑だ。たとえば、特に男性の好みに合うものがあり、そして、ある文化圏の人々に合うものがある。


もし芸術とは、観客の興味を惹くものだと定義するなら、今後芸術について話すなら、誰が鑑賞者なのかついても論じる必要がある。じゃあ単にある芸術の善し悪しを論じても無意味なの? いや、そうではない。ある鑑賞者は、全人類のうちの一人だからだ。ある鑑賞者が「この芸術作品は良い」と言うとき、暗黙のうちに「すべての人間にとって」ということを意味しているのだと私は思う。[4]


これは意味のあるテストだ。というのは、たしかに「人間」という概念は、日常のすべての概念と同じく境界があいまいだが、現実に人間は多くのものを共有しているからだ。顔に関心を持つ以外にも、私たちはほぼ全員、原色を特別扱いする。私たちの目を惹く人工物だからだ。また多くの人は3Dの画像を魅力的だと思う。我々の視覚に組み込まれているようだ。[5] またその下のレベルには、輪郭線検出があって、これにより明確な形を持ったものが単なるしみよりも魅力的に見える。


人間はもちろん、これよりずっと多くのものを共有する。私は完全なリストを作りたいのではなく、単に確かな基盤があることを示したかっただけだ。人々の好みはランダムではない。だから絵画に取り組み、ある部分を変おようか考える芸術家は、「なぜ悩むのだろう。コインを投げた方がよくないか?」と考える必要はない。その代わりに「絵を人々にとって興味深いものにするにはどうすればよいだろうか」と問えばいい。外出して白いキャンバスを買うことがミケランジェロと同等でないのは、システィナ礼拝堂の天井画のほうがより興味深いからだ。


多くの哲学者が、芸術に客観的な基準というのがありうると信じるのに苦労した。たとえば美が、物の属性ではなく鑑賞者の脳内で起こるものだということは明白に思えた。それは「客観的」というよりは「主観的」だった。しかし実際のところ、美の定義を「人をある方法で感動させるもの」と狭め、また、人間が非常に多くの共通点を持つと知れば、それは結局、対象の属性になる。もしすべての主体が同様に反応するとすれば、属性が主体にあるのか対象にあるのか迷う必要はない。芸術は、たとえば人間にとっての毒と同様、物の属性だ。いつもある方法で人に影響を与えるなら、それは芸術なのだ。




誤差


では私たちは、最高の芸術を投票することで見つけられるだろうか? だって人々を魅了するかどうかが問題なのなら、単に人々に聞いてみればいいんじゃない?


いーや、全然そうじゃない。自然物ならそれでうまくいくだろう。私は、世界中の人々が投票したいちばんおいしいリンゴを喜んで食べる。たぶん世界中の人々が投票した最も美しい海岸だって喜んで訪れる。でも世界中の人々が最高とした絵画を見ろと言うのは・・・冒険だね。


人工物は話が違うんだ。一例を挙げると芸術家は、リンゴの木と違って、しばしば私たちを意図的に騙そうとする。あるトリックはすごく微妙だ。たとえばどんな芸術品にも、完成レベルの期待値がある。ラフなスケッチに写真の精度は期待しない。したがって、特にイラストレーターの間で広く行われているトリックの1つは、絵画か図面を本当よりも速く描いたように見せかけることだ。一般人はそれを見て「すごく熟練しているんだなあ」と考える。まるで、会話時にその場で思いついたフリをして、冴えたことを言うのに似ている。実際には前の日に考え抜いたものなんだけれど。


それと大差ないのがブランドだ。モナリザを観にいったなら、ぶ厚いガラス壁に遮られ、その正面で自分たちの写真を撮る群衆に囲まれ、失望するだろう。うまくいっても、混みあったパーティー会場を横切るときに友達を見るような感じでしか見られない。ルーブルは模写と取り替えてもいいかも。誰にもわからないと思うよ。モナリザは小さく暗い絵でもある。もしモナリザに未知の15世紀芸術家の肖像というラベルを付けて他の絵と一緒に展示し、モナリザを見たことがない人々を博物館に送り込めば、ほとんどの人はチラッと見ただけで通り過ぎるだろう。


一般人にとってブランドは、芸術を評価する最大の要因だ。絵画を見るときも、その複製品の記憶に圧倒されてしまい、絵として観るときの反応はかき消されてしまう。


もちろんその他にも、人々が自分でハマる罠がある。芸術を見る大人のほとんどは、周囲から好きだと思われている物が好みでないと教養がないと思われることを恐れている。この影響は、私はそれが好きだと主張させるだけに止まらず、そうあるべきと思われるように自分自身を作り替えてしまう。


以上が単なる投票ではダメな理由だ。人々への魅力度は意味のあるテストだが、実際上、測定は無理だ。すぐそばに磁石があったら、コンパスを使っても北を見つけられないのと同じだ。誤差の源はあまりにも強力だから、投票しても測定できるのは誤差だけだろう。


しかし私たちは自分自身を実験台にすることで、別の方向からゴールに近づける。あなたも人間の一員だ。ある芸術への一般的な人間の反応を知りたいなら、自分の判断におけるエラーの源を取り除けば、少なくともそれに近づくだろう。


たとえばどんな人であれ、最初は有名な絵画に対する反応が名声によって歪んでしまうことがありうるが、その歪みを減らす方法がある。1つは絵に何度も戻ることだ。数日後に名声の印象は減り、絵として観ることができるようになる。別の方法は近くに立つことだ。模造品で有名な絵は、3メートル離れたところから観ると、より見慣れたように見える。近づけば模造品では再現されていない細部が見える。つまり初めて見ているのと同じようなものだ。


芸術の鑑賞を邪魔する主なエラーには、自分の環境から発生するバイアスと、芸術家のトリックという2種類がある。トリックの修正は簡単だ。普通はトリックに気づくだけで有効性は失われるからだ。例えば私は10歳の頃、エアブラシ処理された光る金属のように見えるレタリングに非常に印象づけられた。描き方がわかってしまえば、視覚のツボを何回かとても強く押して、見る人をちょっとの間、圧倒することに頼ったようなお粗末な芸だということがバレる。大声を張りあげて誰かを納得させようとするようなものだ。


トリックに騙されにくくなるには、トリックをはっきり明示し、カタログ化することだ。ある芸術から一連の嘘くささを感じたら、立ち止まって何が起きているのか見つけ出そう。誰かが明らかにカモの観客に迎合しているときは、それが10歳児には魅力的なぴかぴかの物を作っているのであれ、自称インテリに印象づけるための派手で前衛的な作品を作っているのであれ、彼らがどのようにして行うかを知ってほしい。いろんなトリックのパターンを見た経験が十分にあれば、専門の手品師と同じで、トリック全般の鑑定家になりはじめる。


何がトリックなのだろうか。おおざっぱに言えば、観客をナメているものだ。たとえば1950年代にフェラーリを設計していた人々は、たぶん自分たちが欲しい自動車をデザインしていた。でも私はGMでは、マーケティングの人がデザイナーに「SUVを買う人のほとんどは、荒れ道で運転するのではなく、男っぽく見せたいだけなんだから、サスペンションなんて気にしないで、吸入管をできるだけ大きく、頑丈に見えるようにすればいいのさ」と言っていたんじゃないかと疑っている。[6]


私は、ちょっと努力すればトリックに対して免疫を持てると思う。自分の環境の影響を避けるほうが困難だが、少なくともそう努力することはできる。解決策は時間と空間をはば広く移動することだ。もしあなたが他の文化では人々が好むものが様々に異なるということを知り、そして、人々が昔、好きだったものを学んだなら、おそらくあなた自身の好みも変わることだろう。時間は一方向にしか進めないから、完全にユニバーサルな人間になれるとは思わない。だけどあなたの友達にも、ネパール人にも、古代ギリシア人の好みにも合う芸術品を見つけたなら、何かを掴んだんだ。


私は鑑賞力を持つ方法を述べたかったのではないが、今の方法は鑑賞力を持つ方法になりうる。また私はその方法を示したと思う。芸術のようなものがあり、それは鑑賞者の興味を引くような芸術のことだ。また人は多くの共通点を持つので、人に興味を感じさせる芸術はランダムではない。芸術があるからには、鑑賞力がある。それは芸術を認識する能力だ。


りんごの鑑賞力についてなら、私は鑑賞力とは個人的な好みにすぎないと同意しよう。それぞれの人に、それぞれ好きなりんごの種類がある。だからといってある1種類が正しくて他が間違ってるなんて言えないだろ?[7]


でもこの議論を芸術にあてはめてはいけない。芸術はりんごじゃない。芸術は人工物なんだ。多くの文化的な手垢が付いているし、さらに芸術家がしょっちゅう私たちを騙そうとする。大多数の人々は芸術を判断するときに、これらの余分な要因に左右される。それは、りんごとハラペーニョが半分ずつ入った料理でりんごの味を判定するのに似ている。ハラペーニョの味をりんごの味だと思ってしまうのだ。これは、裏返していうと、世の中には鑑賞力のある人たちもいるということだ。つまり、りんごの味だけを味わうように芸術を鑑賞できる人たちのことだ。


もっと散文的に言うなら、彼らは (a)騙しにくく (b)子供の頃から見て慣れ親しんで育ったからという理由だけで好き嫌いを判断しない人たちだ。判断するときに、こういった影響をすべて排除する人々を見れば、たぶん彼らの間でも、なお好きなものに幅があることがわかるだろう。しかし人間には非常に多くの共通点があるから、彼らは非常に多くのことで意見が一致するとわかるだろう。彼らはほぼ全員、白いキャンバスよりシスティナ礼拝堂の天井画を好むだろう。




作ること


私は「鑑賞力なんて主観的だ」と聞き飽きており、これを最後に抹殺したかったので、このエッセイを書いた。何かを作る人は、みんな直観的に、「鑑賞力なんて主観的だ」ということが真実でないと知っている。あなたが芸術品を作ろうとしているとき、怠けたいという誘惑は他の仕事と同様に大きい。もちろん、それは仕事をするときに問題となる。しかし美術界でさえ、芸術の善し悪しを語るときに人々がとても神経を使うことから、未だに「鑑賞眼なんて主観的だ」という思いこみが非常に強いことがわかる。キュレーターのように芸術品の判断を迫られる職業の人々は、「意義深い」、「重要な」、(やばい表現だと)「悟りの域に達した」といった婉曲な表現に頼る。[8]


「芸術の善し悪しを論じられるようになれば、人々はもっと有意義なことを語れるようになる」とまでは私は思わない。実際のところ、「鑑賞力は主観的だ」という考え方が早とちりな人たちをひきつけてきた理由のひとつは、これまでの「優れた鑑賞力」というものについて語られてきた内容こそが、そういったナンセンスな議論だったからだ。


でも私は芸術という概念を、芸術を論じる人ではなく、芸術を作る人々に対して解放したい。今でも大志を抱いて美術学校に通う子供たちがレンガの壁に衝突している。子供たちは本で観た有名な芸術家と同じくらいの芸術家になりたいと入学し、そして最初に「『良さ』なんて考えは忘れてしまえ」と学ぶのだ。そんなことをしないで、自分自身のビジョンを磨くほうが良いのではないだろうか。[9]


私が美術学校にいたころ、私たちはある日、素晴らしい15世紀の絵画のスライドを見ていた。そのとき一人の学生が「なぜ現在の芸術家は、こんな風に描かないんですか?」と尋ねた。急に部屋は静かになった。めったに口にすることはなかったが、この質問は、すべての絵を描く学生の深層心理に気まずく残されていたものだったのだ。まるでフィリップ・モリス社の会議で、誰かが肺ガンの話をしたときのようだった。


教授は「あー、その質問は、みんなつまらんと思うだろうね」と答えた。彼はいい教授だったが、でもそのとき私は、教授を15世紀のフィレンツェのレオナルド工房に連れていって、現代のアーティストは古い芸術の概念の制約をどう越えたのか説明させたいと思ってしまった。ちょっとその会話を想像してみてほしい。


実際、15世紀フィレンツェの芸術家が偉大な作品を作れた理由の1つは、彼らは自分が偉大な作品を作れると信じたからだ。[10] たぶん彼らは現在の数学者や物理学者といった、実際に凄いことをしている人々たちのように、激しい競争に身を置き、互いに切磋琢磨していた。


「偉大な芸術を作れる」という考えは、単に役に立つ幻想などではなかった。実際に正しかったんだ。だから良い芸術があるって理解したときにいちばんのメリットは、それを作ろうとする芸術家を解放することなんだ。今年、大志を抱いて美術学校に入学した学生達に、私はこう言いたい。「良い芸術があり、それを作ることができる」という考えがナイーブで時代遅れとか言われても耳を貸すな、と。いい芸術はある。そしてあなたがそれを作れば、気づいてくれる人もいるんだ。




注釈


[1] もちろん、良い絵なら顔があるってことではなく、みんなが持っている視覚のピアノには顔のキーもあるってことだ。顔がすごく注意を引くからこそ、顔を使いたくなくなる時さえある。しかし、顔がいかに宣伝で使われているかを知れば、その力の普遍性がわかる。


[2] これを安易に信じてしまうもうひとつの理由は、そう考えると気持ちいいからだ。子供にとって、この考えは麻薬だ。いつもいっぱい勉強しないといけないって言われ続けてるのに、このことだけはもう完璧なんだから。子供の意見が大人と同じだけの重みを持ってしまっている。子供のころに信じていたもので、これほど強く信じたいと思うようなものは、それが何であれ疑問に思ったほうがいい。


[3] 数学者の感性と一致すると判明することになる、ある形式的な方法が存在しうるという意味で、証明のエレガントさを計測できるという想像が可能だ。エレガントな証明は(たぶんマクロ展開されるかコンパイルされた後で)常に短くなるような、証明用の形式言語を作ろうと試みる価値があるだろう。


[4] たぶん宇宙人好みの芸術も作成可能なのだろうが、私はそれに深入りするつもりはない。なぜなら、(a)あまりにも議論するのが難しいし、(b) 芸術という概念が人間の鑑賞者にとって意味がある概念だと証明できれば、私は満足だからだ。


[5] 初期の抽象画が後期の抽象画より面白く思えるのは、たぶん初期の抽象画家は実物をもとにして描くよう訓練されていたから、今では具体物を描くときに使われるような手の動きをしてしまう傾向があったせいだろう。実際のところ彼らは「uebfgbsb」と言う代わりに「scaramara」と言っていた。


[6] 時として芸術家はトリックを無意識に模倣して用いるから、話はもう少し複雑だ。


[7] りんごの外見に人は惑わされるから、ここでは私はりんごの味について述べている。私が子供のころ、ほとんどのりんごは店では魅力的に見えるよう品種改良された赤いデリシャスという種類のりんごだったが、味はあまりおいしくなかった。


[8] 公平に書くとすれば、キュレーターたちは難しい立場にいるということも書いておく必要がある。現代美術を扱っている場合、自分ではひどいと思っているものも展示に加えなきゃいけない場合もあるから。なぜなら展示に値するかどうかは基本的には市場価格によって決まり、そして現代美術で価格を決めるのは、大部分が成功したビジネスマンとその奥さんだからだ。だからそれはキュレータやディーラーがどっちつかずの言葉を使ったからと言って、必ずしも知的に不誠実というわけではない。


[9] 実際のところはみんな芸術についてしゃべるのがほんとにうまくなる。芸術がどんどんランダムになるに従って、作品に注がれていたはずの労力は、「私の作品は、都市というコンテクスト中におけるジェンダーとセクシュアリティの探求を表現する」といったインテリぶった理論に注がれるようになった。このゲームで勝つのは芸術家ではない。


[10] 他にもいくつかの理由があった。フィレンツェはそのとき世界で最も豊かで洗練された都市だったし、また写真が(a)収入源となる肖像画を駆逐し、(b)芸術の販売にブランドが圧倒的な要因となる前の時代だった。


ちなみに私は、芸術=15世紀のヨーロッパの芸術、とは言っていない。彼らのような作品を作れというのではなく、彼らのようなやり方で仕事をしようと言っているんだ。現代にも、15世紀の芸術家と同じエネルギー、同じ正直で多くの人々が仕事をしている分野がある。だけど美術界はそうではない。


原稿を読んでくれたトレヴォー・ブラックウェル、ジェシカ・リヴィングストン、ロバート・モリスと、トップ画像の使用許可を頂いたポール・ワトソンに感謝する。