ポール・グレアム「子供につく嘘」を翻訳しました。
原文は「Lies We Tell Kids」で、原文は http://paulgraham.com/lies.html です。

現在、「はてな」で訳文のおかしなところを質問中です。http://q.hatena.ne.jp/1210865780
そしてpracticalscheme様、sibazyun様、tmasao様、ko1kun様のアドバイスを受けております。大感謝です。

子供につく嘘

2008年5月

大人はしばしば子供に嘘をつく。嘘をやめようというのではない。少なくともどんな嘘をなぜついているのかを調べておこう。

おそらく嘘を調べることによって、大人も得をするだろう。私たちは子供のころに、みんな嘘をつかれた。言われた嘘の一部には、今でも影響されている。だから大人が子供に嘘をつく方法を調べることで、つかれた嘘を頭から取り除くこともできるかもしれない。

私は「嘘」という言葉をとても広い意味で使っている。明らかな虚偽だけではなく、子供を誤解させる、もっと微妙な方法も含めている。「嘘」には否定的な意味合いがあるが、私は「決して嘘をつくな」と言いたいのではない。ただ「嘘をつくときは注意しろ」と言いたいのだ。[1]

大人が子供に嘘をつく方法の中で、いちばん目につくのは、口裏合わせが非常に広く行われているということだ。子供に「親に聞きなさい」と答えるような質問は、嘘だということを大人はみんな知っている。ある子供が「1982年にワールドシリーズに勝ったのはどこ?」とか、「炭素の原子量は?」と尋ねたら、そのまま教えるだろう。でも子供が「神はいるの?」とか「売春婦って何?」と聞いてきたら、おそらく「親に聞きなさい」と言うだろう。

大人たちはみんな示し合わせているため、子供は示された世界観の歪みをほとんど見つけることができない。両親と学校の間の差が最大なのだが、それでさえ小さい。学校は議論の種となりそうな話題には慎重だ。子供に信じさせたいことに矛盾したら、親は学校に対し黙っているよう圧力をかけたり、子供を転校させてしまう。

口裏合わせはすごく徹底しているので、嘘を見抜く子供は、その嘘どうしの矛盾を見つけるという方法によることがほとんどだ。手術中に目覚めてしまった人は、トラウマになることがある。それがアインシュタインに起きたことだ。「一般的な学術書を読んで、私はすぐに聖書の逸話の多くが真実ではないと信じるようになった。その結果、国家は嘘によって思春期の若者をだましているという印象と結びついた、熱狂的な自由思想の持ち主となった。それは圧倒的な印象だった」[2]

私はその感覚を覚えている。15歳になるころには、私は世界は何もかも腐っていると信じていた。それがマトリックスのような映画が共感を呼ぶ理由だ。子供はみんな偽りの世界で成長する。見えない力を異星人のようにはっきりと分離できるなら話は簡単だ。人はカプセルを飲むだけで、きれいさっぱり関係を絶つことができるだろう。

保護

なぜ子供に嘘をつくのかと大人に尋ねたら、挙げる理由のトップは「子供たちを守るため」だろう。たしかに子供は保護する必要がある。生まれたばかりの子供のために用意したい環境は、大都市の路上とはぜんぜん違うからだ。

すごく妥当に聞こえるので、それを嘘と呼ぶのは間違いに思える。確かに世界は穏やかで暖かく安全だと赤ん坊に思わせるのは悪い嘘ではない。しかし無条件のままに信じ込まれたままでは、この無害なタイプの嘘も有害になりうる。

ある人を赤ちゃんと同じような環境に18歳まで閉じ込めたと想像してほしい。誰かを世界についてあまりにはなはだしく誤解させるのは、保護ではなく虐待に思えるだろう。もちろんこれは極端な例だ。両親がそういったことをしたら全国ニュースになる。でもティーンエイジャーが郊外住宅地で感じるイライラは、もっと小さな規模ではあるが同じものなのだ。

郊外住宅地の主な目的は、子供を育てる安全な環境を与えることだ。10歳のときにはすばらしく思える。私は10歳のときには、郊外住宅地に住んでいるのが好きだった。私は郊外住宅地がどれくらい無菌だったか気づいていなかった。自転車で回った友達の家と、走り回った森が私の全世界だった。対数のスケールでは、私はベビーベッドと地球の間にいた。郊外住宅地の街路はちょうど適正なサイズだった。だが成長するにつれ、郊外住宅地は息づまる偽の世界だと感じるようになった。

人生は10歳か20歳のときはとても良いことがあるが、15歳のときはしばしばフラストレーションがたまる。これはここで解決するには大き過ぎる問題だが、人生が15歳の時につまらなくなる理由の1つに、10歳用の世界に閉じ込められているせいもあるのは確かだ。

子供を郊外住宅地で育てることで、親は子供を何から保護したいのだろうか? マンハッタンから引っ越した友人は一言、彼女の3歳の娘が「見すぎちゃうから」と言った。ざっと考えただけだが、それはラリったり酔っ払っている人々、貧困、狂気、ひどい医療制度、いろいろな変わった性的行動、暴力的な怒りなどを含むのだろう。

私に3歳の子供がいたら、いちばん心配するのは怒りだ。ニューヨークに引っ越したとき、私は29歳だったが、その時でさえ私は驚いた。私が見た口論のあるものは、あまりに恐ろしいので3歳の子供には見て欲しくない。大人は、子供が脅えるだろうという理由で多くのものを子供から隠すが、怖いものが存在するということ自体を隠したいわけではない。子供が誤解してしまうのは、ただの副作用だ。

これは大人が子供につく嘘のうち、最も良質なものに思える。直接的な嘘ではないため、私たちは厳しくチェックしない。親は自分たちがセックスに関する事実を隠しているとわかっている。多くの親は、いつかは子供たちを座らせ、もう少し説明する。しかし現実の世界と、子供たちが育った繭の差については、ほとんど説明しない。さらに親が子供たちに覚えこませようとしている信念が加わって、世界について何でも知っていると思い込む18歳が毎年、生み出される。

18歳なら誰だって、自分は何でも知っていると思うものでは? 実際には、それはせいぜいここ100年の、最近の変化のようだ。産業化以前の時代には、十代の子供は大人たちの世界の子供会員であって、自分たちの短所をよく知っていた。昔の子供は「自分は村の鍛冶屋ほど力もないし上手くもない」と考えていただろう。昔の人々は、いくつかの点に関しては私たち以上に子供に嘘をついたが、人工的で保護された環境における暗黙の嘘は現代のものだ。多くの新発明と同様、最初にそういう嘘を使い始めたのは金持ちだ。王や偉大な成功者の子供は、現実から隔離されて育った最初の人々だった。 郊外では人口の半分が、その点では王様のような生活ができる。

セックス(とドラッグ)

ニューヨークで十代の子供を育てるなら、さらに別の心配がある。子供が見るものよりも、子供がやることを心配するだろう。私はマンハッタンで育った多くの子供たちと大学に通った。一般的に、彼らはかなりすれているように思えた。平均して14歳ごろにセックスをして、大学生になるまでには私が聞いたことさえない多くのドラッグを試していたように思えた。

親が、十代の我が子にセックスして欲しくない理由は複雑だ。妊娠と性感染症という、はっきりとした危険もある。だが親が我が子にセックスをして欲しくない理由はそれだけではない。14歳の少女を持つ普通の親は、妊娠か性感染症のリスクがまったく無かったとしても、自分の娘がセックスするとは考えたくもないだろう。

おそらく子供は、ちゃんとすべてを説明されていないと感じる。妊娠や性感染症は大人にとっても同様に問題であるはずなのに、大人はセックスしている。

十代の子供がセックスをすることで、親が本当に悩むことは何だろうか? 子供のセックスに関する親の嫌悪はあまりに直感的なので、たぶん生まれつきなのだろう。しかし、その嫌悪が生まれつきのものならば、普遍的なはずだ。なのに自分たちの十代の子供がセックスをしても気にしない社会もたくさんある。実際、14歳が母親になるのが普通の社会もある。じゃあ何が起きているのだろうか? 生殖可能になる前の子供とのセックスは、普遍的なタブーのようだ。その進化論的な理由はわかるだろう。私はそれが工業社会において親が十代の子供がセックスするのを嫌う主な理由だと思う。子供が生物学的には子供でなくなっても、親はまだ子供だと考えるので、子供がセックスすることを忌避したいというタブーをあてはめてしまうのだ。

大人は強い快楽を生むものを、ドラッグについても、セックスと同様に隠す。その結果、セックスとドラッグはとても危険になってしまう。セックスとドラッグに対する願望は、人の判断を曇らせる。ただでさえ判断力に乏しい十代の子供の判断が曇るから、特に恐ろしい。

ここに両親の望みの葛藤がある。昔の社会では、子供たちは愚かだと言ったが、現代の親は、自分たちの子供に自信を持たせたがる。子供に自信を持たせるほうが、たぶん昔流よりもよいだろう。しかし子供たちの判断を褒めたら、暗黙の嘘をついたことによる副作用がある。子供が親を信じた場合、親は子供たちがトラブルを起こす可能性があるすべてのものについて、嘘をつき続ける必要があるのだ。

親が我が子にセックスとドラッグの真実について語ったら、次のようになるだろう。「お前にはまだ分別がないから、これらはやめておきなさい。お前の倍の経験を持つ人でさえ、トラブルになっているんだから」。しかし、これは真実であっても説得力がない例だ。というのも、分別のない人間こそ「自分には分別がある」と思うからだ。力が弱くて何かを持ち上げることができないとき、そうとわかるだろう。しかし衝動的に決めてしまったことほど、その決断が正しかったと思い込みやすいものだ。

無垢

親が我が子にセックスして欲しくない別の理由は、子供たちを穢れのないままでいてほしいからだ。大人は子供がどのように振る舞うべきかのモデルを持っていて、それは他の大人に期待するモデルとは異なっている。

いちばん違いがはっきりするのは、子供が使っていい言葉だ。ほとんどの親は、他の大人と話すとき、我が子には使って欲しくない言葉を使う。親はできるだけ長く、汚い言葉があることさえ隠そうとする。これは大人が口裏合わせに加わる別の例だ。大人は、子供の前では汚い言葉を使うべきではないと知っている。

私は親が、子供に「汚い言葉を使ってはいけません」と言う以上の説明を一度も聞いたことがない。私が知っているすべての親は、子供が汚い言葉を使うことを禁止するが、その理由は人によってみんな違う。「子供には汚い言葉を使って欲しくない」という願いが最初にあり、あとから理屈をつけているのは明白だ。

この事実に関する私の説明は、汚い言葉は話者が大人であることの印であるというものだ。「糞」と「うんち」に意味の違いは全くない。 なのになぜ一方は子供が言ってもOKで、一方はダメなのだろうか。唯一の説明は以下の通り。「それが汚い言葉の定義だから」。[3]

大人になったら将来やることを子供がすると、なぜ大人は非常に悩むのだろうか? 口汚いひねくれた10歳がタバコをくわえつつ街の隅で街灯柱にもたれている、というのは、まさしく大人を悩ませる例だ。しかし、なぜ?

大人が子供に無垢であって欲しいと思うのは、子供がある意味、未熟であることを好むように大人はプログラムされているからだ。私は何回か、母親が「うちの子の発音が間違ってたけど、すごく可愛かったから直さないでおいたの」と言うのを聞いた。つきつめて考えれば、かわいさ=未熟さとわかる。かわいらしさを意味するおもちゃやとマンガのキャラクターは、いつもバカっぽく、また短く太い機能的ではない手足で描かれる。

人間の子供はかなりの間、非常に無力であることを考えれば、大人には無力な生物を愛して保護するという生まれながらの願望があっても驚くにはあたらない。子供をかわいく見せるダメさがなければ、子供は非常に煩わしくなる。子供は単に、無能な大人のように見えるだろう。しかし、もっと気になる理由がある。今の無神経な10歳の例が大人を非常に悩ませる理由は、その子供が煩わしいであろうというだけではない。その子供がそんなに早く成長をあきらめてしまったことにあるのだ。人生にうんざりするためには、世界がどのようなものか知っていると思わなければならない。そして10歳が世界について知っていることは、かなり狭いだろう。

また、無垢さは心の広さだ。子供たちが学び続けることができるように、大人は子供が無垢であって欲しいと願う。逆説的に聞こえるが、ある種の知識は他の知識の学習を妨げる。世界は弱肉強食の残酷な場所だと学ぶつもりなら、最後にそれを学んだほうがいい。でなければ、それ以上学びたいとは思わなくなるだろう。

非常に賢い大人は、しばしば非常に無垢に見える。私はそれは偶然ではないと思う。彼らはあえて、あることに関して学ぶことを避けたのだろう。確かに私はそうしている。かつて私は、すべてを知りたいと思っていた。 現在では、自分がそう願っていないと知っている。



セックスに次いで大人がもっとも子供に嘘をつくのは死についてだ。セックスについては、深いタブーのために隠しているのだと思うが、なぜ大人は死を子供から隠すのだろうか? おそらく幼い子供は、特に死を怖がるからだ。子供は安全と感じたいのに、死は究極の脅威だ。

親が私たちに言ったいちばん大きな嘘の1つは、最初に飼った猫の死についてだった。何年にもわたって私たちが詳しい説明を聴きたがったので、親は次々と新しい嘘を重ね、ついにはなかなかの物語となった。猫は診察室で死んだ。何で死んだの? 麻酔で。なぜ猫は診察室にいたの? 治療のためよ。なぜ猫は普通の治療をしてたのに死んじゃったの? 治療のせいじゃないの。生まれつき心臓が弱かったのね。麻酔に耐えられなかったのよ。けれど、麻酔をする前にそのことはわからなかったの。20代になってはじめて真実が判明した。私の妹が三歳のころ、うっかり転んで猫の脊椎を折ってしまったのだ。

親は猫はいま天国で幸せそうだったと子供に言う必要があるとは思わなかった。私の親は、死んだ人や動物が「もっと良い場所に行った」とか、また会えるとは決して言わなかった。言わなくても大丈夫だと思ったからだ。

私の祖母は、祖父の死を装飾して話した。ある日、祖母は二人で座って読書しており、祖母が祖父に何か言ったとき、答えがなかったと言った。眠っているのかと思ったが、起こそうとしても起こすことができなかった、彼は逝ってしまったと。まるで心臓発作で眠るように死んだという感じだった。その後、私は、実際はそんなに穏やかな死ではなくて、心臓発作が起きてから死ぬまでに1日弱かかったと知った。

そういったあからさまな嘘の他にも、話をそらされたことが多かったに違いない。もちろん思い出すことはできないが、私は19歳になるころまで、死を本当には理解していなかったという事実から、そう推測できる。そんな明白なことを、どうしてそんなに長い間、理解しないままでいられたのだろう? 親がどう対処したかを見たので、私はどうするか知っている。死に関する質問は、さりげなく、しかししっかりと逸らされた。

とりわけ死に関しては、子供もどっこいどっこいだ。子供はしばしば嘘をつかれたがる。子供は、親が言うとおりの、快適で安全な世界に暮らしていると信じたいのだ。[4]

アイデンティティ

民族もしくは宗教の集団に強い愛着を持ち、子供にも愛着を持たせたがる親もいる。通常、これには2種類の嘘が必要だ。1番目はその人がXであるという嘘で、2番目はXと信じることで他とは違った存在になると子供に言うことだ。[5]

子供にある民族や宗教のアイデンティティがあると言うのは、最も深く根を下ろす言葉の1つだ。子供に他の事を言っても、ほとんどの場合、子供が自分で考えだすようになれば、子供は後に考えを変えることができる。しかし、親が子供に「あるグループのメンバーだ」と言ったら、その考えを揺るがすのはほとんど不可能だ。

これは親の嘘のうち、最も意図的な嘘であるにもかかわらず、後から覆すことが難しい。親同士が異なる宗教を信仰している場合に、子供はXの宗教で育てよう、と合意することは良くある。そしてその場合でさえうまくいく。子供はお人良しにも、自分はXだと思いながら育つ。もう一方の親の宗教で育てていたら、自分はYだと思いながら育っただろうという事実にもかかわらずだ。

これがそんなにうまくいくのは2番目の嘘のせいだ。真実は普遍的だ。合理的に振る舞い、真実であることを信じていたら、特別な集団にはなれない。他人とは違って目立ちたいなら、何か適当なことをしたり、何か間違ったことを信じる必要がある。

子供たちに何か嘘なことを信じさせ、変な「部外者」だと見なされるようなことに一生を捧げさせたなら、認知的な不一致によって、Xは偉大であるはずだと思い込む圧力がかかる。もしXでないなら、なぜXの信条と習慣を持っているの? なぜXでないなら、どうして非XなみんなからXと呼ばれるのだろうか?

この手の嘘にも使いどころはある。役に立つ信条という荷物を運搬するのには使える。それは子供のアイデンティティの一部になるだろう。たとえば子供に対し、世界は巨大なウサギによって作られたと信じ、魚を食べる前にはいつも指をパチンと鳴らし、黄色の服は決して着ないことに加えて、Xは特に正直かつ勤勉であると言うことができる。するとXの子供は、正直かつ勤勉であることが自分の特徴の一部だと感じながら育つだろう。

これはおそらく、現代の宗教が普及していることの多くを説明し、それらの教義がなぜ役に立つことと奇妙なことの組み合わせであるかを説明する。奇妙な部分は宗教に縛りつけさせ、残りの役立つ部分は荷物なのだ。[6]

(ポール・グレアム「子供につく嘘」(下)に続く)