焦点
インサイダーの技術そのものが弱点になることがある。ある人がいったん何かに熟達すると、そればっかりをして過ごすことになりがちだ。この種の集中は、たしかにすごく価値がある。専門家の技術の多くは、誤った道を切り捨てる能力だ。しかし集中には欠点もある。他の分野を学習しないし、新しいアプローチにも気づかない。
アウトサイダーは、このことから勝つ方法を2つ導けるだろう。1つはいろんな仕事をすることだ。狭い領域に集中することで(まだ)多くを得られないなら、大きな網を投げて、いろいろな領域の共通点からできるだけ多くを引き出してみたらどうだろう。上流・下流の仕事も自分でしてしまうことで、仕事を委任してしまう相手と競争できるのと同じで、より幅広い仕事をすることで、専門化する相手と競争できるんだ。たとえば自分で本を書いたら、自分でイラストも描くとか。
専門化する相手と競争する第2の方法は、専門化が何を見落とすか見極めることだ。これは特に新しい物事についてあてはまる。まだ得意なものが何もないなら、うんと新しくて、誰もそれが得意でないような分野に取り組んでみよう。誰もそれが上手でないなら、その分野での有名人もまだいないだろうから、あなたがすべてを独占できるだろう
ふつう新しいメディアの可能性は、過小評価される。誰もまだ可能性を追求していないからだ。デューラーが版画を作るまで、誰も版画をたいして真面目に考えていなかった。版画はちょっとした敬虔な絵を作るものだった。要は15世紀の聖人版のベースボール・カードだ。このメディアで傑作を作ろうとするのは、デューラーの同時代の人にとっては、たとえば現在の一般人にとって、マンガで傑作を書くのと同じように見えたに違いない。
コンピューター界では、新しいメディアではなく、新しいプラットフォームとなる。ミニコン、マイクロプロセッサー、ウェブ・ベースのアプリケーション。最初のうちはいつも、「現実の仕事には適さない」と片付けられる。でも常に誰かが、もう少しがんばってみようと決め、みんなが期待する以上のことができるようになる。だから、将来人々が新しいプラットフォームについて、「うん、広まってきたし安くなったけれど、まだ実用には届かないな」と言っているのを聞いたら、それに飛びつこう。
敷かれたレールの上で働くのは、楽なだけでない。ふつうインサイダーは、自分たちを永続させる既得権を持っている。ある新理論で有名になった教授は、それを乗り越える発見をすることはないだろう。これは、とくに技術と地位を築いただけでなく、資金も持っている会社にあてはまる。成功した会社のアキレス腱は、自分自身の殻を打ち破ることができないってことだ。多くの革新は、何かをより安価な代案に置き換えることなのに、会社はすぐに既存の利益源を奪うことになる、その方法を直視したがらない。
だからアウトサイダーは、がんばって大胆な賭をする投資家のプロジェクトを捜すべきだ。優れた会社が有名になったその何かを作ろうとするのではなく、その名声を奪うような何かを作るために働こう。
本当においしいアプローチは、インサイダーが不可能だと拒絶するようなものではなく、品位がないと無視するようなものだ。たとえばウォズニアックは、アップルIIを設計したあと、最初に勤めていたHPに話をもちかけた。しかしHPはスルーした。その理由の1つは、ウォズニアックはお金を節約するためにモニターにテレビを使ったため、HPはそんなしょぼいものを作るわけにはいかないと考えたせいだ。
より少なく
ウォズニアックは、単にモニターを買う余裕がないからテレビを使った。アウトサイダーは単にフリーなだけでなく、安く、シンプルなものを作ることを強いられる。どちらも成長にはよい投資だ。安いものは速く広まるし、シンプルなものは素早く進化する。
一方、優秀な者は、たいてい大規模なものを作ることを強いられる。物置の代わりに、巨大な美術館を設計するだろう。彼らが大きなものを作ってしまう理由は、単に大きなものを作ることができるからだ。先ほどのたとえ話の小説家のように、それらはそういうことができることが自慢なのだ。さらに彼らは、大きなプロジェクトは、単に大きいというだけで、みんなの印象に残ると知っている。物置はどんなに美しくても、簡単に無視される。一部は失笑するかもしれない。逆に、どんなに嫌いであっても、巨大な博物館に対して失笑することはないだろう。最終的には大勢の部下がいるために、皆に仕事がいきわたるようなプロジェクトを選ぶ必要がある。
アウトサイダーにはそんなことがない。小さなものを作ることができるし、小さいものを作るのはとても面白い。大きなものはたいていバグがあるが、小さなものは完全にできる。しかも小さなものには、そんな合理的な説明をも越える魔力がある。子供は誰でも知っているが、小さなものはより個性的なんだ。
さらに、小さいものを作るのは楽しい。好きなことができ、委員会の許可もいらない。そしてたぶんいちばん重要なのは、小さなものは素速く作れるってことだ。完成した仕事を思い浮かべるのは、夕食の料理の匂いをかぐようなものだ。がんばれば、もしかしたら一晩でできるかもしれない。
さらに、小さなものを作るのは、いい勉強になる。ひとつのプロジェクトにつき一つだけ大事なことが学べる。(次はこんなヘマはしないぞ・・・)プロジェクトを次々と回転させるほど、あなたも次々と進化するだろう。
簡素な素材には、小規模であることと同様の魅力がある。またさらに、より少なさを追求する挑戦になる。デザイナーは負けず嫌いなので、「ゲーム」という言葉を聞き逃すことが出来ない。二軍選手が一軍のゲームでプレイするようなもので、引き分けに持ち込めれば勝ったようなものだ。すごく逆説的だが、資源が少ない方が、デザイナーの創作の喜びが補われるため、かえってよい結果を生む場合がある。[5]
だからあなたがアウトサイダーなら、小さく安いものを作るようにしよう。そのテの仕事の楽しみと単純性を大事にして欲しい。いつかは失われ、懐かしく思うものだから。
責任
年を取って有名になると、若くて無名のときに比べ、何を失ってしまうのだろうか。人々が最も恋しく思うのは、無責任でいられたことだ。
責任は優秀さの職業病だ。原則としては、年をとっても太らずに済むのと同様、優秀でも責任なしでいられる。でもほとんどの場合は不可能だ。私は時々、責任は罠みたいなもので、最も正しい対応法はそれから逃げ回ることだと思う。しかし不注意であれば、どっちにしろ責任によって制約される。
もちろんアウトサイダーであろうと制約される。たとえば経済的な制約だ。だが責任以外の制約は制約の仕方が違う。責任はあなたをどう制約するのだろうか。最悪なのは、責任によって、自分の本当の仕事に注目されずに済んでしまうってことだ。ちょうど、あたかも仕事をしているように見える作業が最も危険な種類の後回しになるのと同じで、責任の危険は、それに追われてまる一日過ごしても、公園のベンチでぼーっとしていた時に感じるような危機感を感じなくて済むってことだ。
アウトサイダーは、自分の後回しに気づかされるという大きな痛みがある。でもこれは、本当はいいことなんだ。いい匂いをかぐとお腹がすくのと同じで、少なくとも仕事に近いと気づくことができる。
アウトサイダーであるということは、何かをすることから、単に一歩、離れているにすぎない。たしかに大きな一歩で、ほとんどの人は踏み出さないんだが、でも、たったの一歩なんだ。もし始める熱意を奮い起こすことができれば、ほとんどのインサイダーに匹敵するものがいないほどの強い感情と高い質でプロジェクトに取り組める。インサイダーの仕事は、責任と期待がつきまとうため、義務になってしまう。それは若かったころほど純粋ではなくなっている。
鋤につながれている牛ではなく、散歩に連れられている犬のように働こう。それが年を取って有名になった人が失ってしまうものなんだ。
観客
多くのアウトサイダーは、正反対のことをする、という間違いを犯す。優秀な者を褒めそやし、彼らの間違いさえコピーしてしまう。コピーは学習するにはいい方法だが、正しいものをコピーしよう。私は大学にいたとき、有名な教授の尊大な話し方を真似た。でもそれは、その教授を有名にしたものではなかった。むしろそれは欠点で、彼らの優秀さを減じてしまうものだった。それをコピーすることは、金持ちのフリをするために、通風持ちであるかのように振る舞うのと同じだ。
優秀なもののもつ特徴のうちの半分は、本当は欠点だ。それらをコピーすることは、時間の無駄であるだけでなく、しばしばモデルが愚かに見えるようになってしまう。
インサイダーであることの真のメリットは何だろうか? 最も大きな利点は観客だ。アウトサイダーにとって、インサイダーのいちばんの利点は、好きなことを自由にできる資金に見える。でも莫大な遺産を相続した人が、あまり人生の助けにならないのと同じで、観客ほどには役だっていない。観客はあなたから仕事を引き出すんだ。
インサイダーのメリットは観客だという私の説が正しいなら、私たちはわくわくするような時代にいる。インターネットに多くの流動的な観客があらわれたのは、ここ10年くらいだからだ。アウトサイダーは、観客がわりの数人の賢い友達でガマンする必要がなくなった。今やインターネットのおかげで、アウトサイダーはホンモノの観客を相手に成長できるようになったんだ。これは変人にとって大きな朗報だ。アウトサイダーの利点を保ったまま、最近までエリートの特権だった利益をますます吸収できるようになったからだ。
10年以上前にすでにウェブはあったが、私たちはまさに民主化がはじまる過程を目の当たりにしている。アウトサイダーは、まだ観客を奪う方法を学んでいる最中だ。でももっと重要なのは、観客もまた奪われる方法を学んでいるということだ。観客はディープなブロガーはジャーナリストよりも掘り下げることができ、民主主義的なニュース・サイトは、編集者が管理する一面記事よりもずっと興味深く、ウェブカメラを持つ子供たちの集団が、大量生産されるコメディよりも面白いと悟りはじめた。
マスコミの大企業は、大衆がYouTubeに著作権で保護されたものを投稿すると心配するべきじゃない。人々がYouTubeに自分たちのコンテンツを投稿してくれて、それを見てくれる人がいるかを心配すべきなのだ。
ハック
もし変人の力を1つの文に縮めろと言われたなら、「何かをハックしようと試すこと」と言うだろう。この言葉は、私が今までに述べたほとんどの内容を含んでいる。何かをハックすることは、何をするかを、上司のビジョンを実行する部下としてではなく、自分自身でやりながら決めることなんだ。それは、適当な材料でてっとり早く作られるために、きれいな結果にはならないだろう、ということも暗に示唆する。動くかもしれないが、優秀な人が自分の作品と認めたいようなものではない。ハックによって問題をなんとか解決できるかもしれないし、ぜんぜん問題を解決できないかもしれない。でも途中で何か別のものを発見するだろう。それでいいんだ。最初のバージョンは、何かそのものではなく、その道しるべなんだから。きれいな服を着た、泥の中を進む勇気のないインサイダーは、向こう岸の堅い地面にたどりつくことはないだろう。
「試す」って言葉が特に重要だ。私はこの点で「『試す』などない」と言ったヨーダに反対だ。「試す」はアリだ。それは、失敗しても罰がないってことだ。義務ではなく好奇心で動くってことだ。後回しも仕事を避けるための後回しではなく、好きなことをやるための後回しになるだろう。そしてそれをしている時、いい気分になるだろう。仕事に想像力が必要な仕事ほど、ますますいい仕事ができる。なぜなら人々は幸せなとき、さらにいいアイデアが浮かぶからだ。
もし私が20代に戻ってやり直せるなら、何かをハックする時間を、もっと増やしただろう。その世代の多くの人と同じく、私もまた、自分が何をすべきかを悩んで多くの時間をムダにした。さらに私は素材作りにもある程度の時間を費やした。悩む時間を減らし、もっとなにかを作るべきだったんだ。何をすべきか分からないなら、何でもいいから作れ。
レイモンド・チャンドラーの推理作家へのアドバイスは次のようなものだった。「自分のしていることに迷ったら、ドアから銃を手にした男がやって来ると思え」そしてチャンドラーは自分の言葉に従った。彼の本を読む限り、チャンドラーはしばしば自分のしていることに迷ったようだ。そして生み出したものは、ときどきお粗末だったが、退屈ではなかった。実生活では、本の世界でも同じだが、アクションは軽視される。
幸運なことに、ハックすることができる事は増え続けている。たとえば50年前の人々は、1人の人間が映画をなんとか作れることに驚くだろう。
不適当
もし大きなポイントを稼ぎたければ、注目すべき分野は、変人の中のさらに変人だ。最近になってインサイダーがようやく視野に入れたような分野だ。それはあまりにも危険か、もしくは徹底的に調べようとするインサイダーがほとんどいなかったために、最も重要なプロジェクトが未完成だと分かっているような領域だ。
そしてそれが、私が最近、ほとんどの時間をエッセイに費やしている理由だ。かつてエッセイを書くことは、出版できる人々に制限されていた。原則としては誰でもエッセイを書いて、友達にそれを読ませることもできた。でも現実にはそれでは誰もエッセイを書かなかった。[6] 彫刻家が板の抵抗を必要とするのと同じで、エッセイストには観客の抵抗が必要なんだ。
数年前まで、エッセイを書くことは究極のインサイダーによるゲームだった。ある分野の専門家は、その分野に関してのエッセイを公表しても良かったが、一般的なトピックを書いてよい集団は、ニューヨークの正しい派閥に属す8人程度だった。現在ではこの分野に革命が起き、特に驚くことでもないが、まだまだ開発されていないテーマがあることがわかった。まだ書かれていない、とてもたくさんのエッセイがある。それらは概して危険な話題だ。インサイダーは母の愛とアップルパイといった話題は、ほとんど書き尽くしてしまったからだ。
このことから私は、「自分が現在、正しいことをしているかどうか決める方法」として提案するものを生み出した。資格がないとか、変なことをしていると人々が苦情を言うなら、あなたは正しい。人々が苦情を言っているなら、あなたは座っているのではなく、何かをしているからで、それは最初の一歩だ。また、もし人々がそのようなつまらない苦情しか言えないなら、恐らくあなたは良いことをしているんだ。
もし人々が「あなたが作ったものが動かない」と苦情を言っているのなら、それは問題だ。でも、あなたを非難する最悪の材料が、あなたがアウトサイダーであるってだけなら、それ以外のすべての点ではあなたは成功したことを示している。誰かに「資格がない」と指摘するのは、人種差別に訴えるのと同じくらいの悪あがきだ。それは単に「私たちは、あんたみたいなのが嫌いだ」という発言の正当化にすぎない。
でも一番いいのは、「変なことをしている」とみんなが言ったときだ。私は人生でずっとこの言葉を言われてきた。また、私は最近、それは実はホーミング・ビーコンの音だとわかってきた。「変な」は無意味な批判だ。それは単に「私はそれが好きじゃない」の形容詞にすぎない。
だからそれは、変人にとって最高のゴールであるべきだと私は思う。変になろう。人々にそう言われたら、あなたは光り輝いている。ついでに言えば、そう言った奴らは終わってる。
注釈
[1] アップル創業初期の歴史は、ジェシカ・リヴィングストンの近刊「創立者の仕事」Apress(2006年)におけるスティーブ・ウォズニアックとのインタビューを参考にした。
[2] ふつう通俗的なイメージというものは、 現実の姿の数十年遅れのものだ。現在の誤解された芸術家像は「チェーン・スモーカーでアル中、大きなうす汚いキャンバスに情熱を注ぎ、その絵を見て俗物が「ありゃ芸術じゃないね」と言う・・・といったものではない。現在では俗物も、壁に掛けられたものはすべて芸術とみなすよう訓練されているのだ。現代の誤解されたアーティスト像は、コーヒー中毒の極端な菜食主義者のマンガ家で、人々が「なんか日曜紙で似たようなの見たなあ」と思い「ありゃ芸術じゃないね」というものである。
[3] 「客観的なテストがない状態でのランク決定」というのは、政治の定義としてマジで相当にいいと思う。
[4] 高校では、自分の未来はすべて、どこの大学に行くかにかかっていると信じこまされる。でもその効果は2~3年で期限が切れるとわかる。20代半ばになれば、あなたが認めてもらいたがっている人物は、あなたがどの学校にいたかではなく、その学校で何をしたかによって判断している。
[5] 管理者はたぶんびっくりする。どうして私はこんな奇跡を起こすことが出来るんだろうか? どうすればもっと少ない支払いで、人々を私のために働かせることができるだろうか? 残念だが、たぶん制約は自らに課さなければならない。もっと支出を少なくしたいなら、高潔にも何も食べないで、飢死してしまうだろう。
[6] 出版の可能性なしで、大多数の人がエッセイを書くのにいちばん近いのは、日記を書くことだ。でも私は、日記はエッセイほどテーマを深く掘り下げないと思う。日記という名前が示すとおり、2週間もかけて何度も書き直したりしない。
インサイダーの技術そのものが弱点になることがある。ある人がいったん何かに熟達すると、そればっかりをして過ごすことになりがちだ。この種の集中は、たしかにすごく価値がある。専門家の技術の多くは、誤った道を切り捨てる能力だ。しかし集中には欠点もある。他の分野を学習しないし、新しいアプローチにも気づかない。
アウトサイダーは、このことから勝つ方法を2つ導けるだろう。1つはいろんな仕事をすることだ。狭い領域に集中することで(まだ)多くを得られないなら、大きな網を投げて、いろいろな領域の共通点からできるだけ多くを引き出してみたらどうだろう。上流・下流の仕事も自分でしてしまうことで、仕事を委任してしまう相手と競争できるのと同じで、より幅広い仕事をすることで、専門化する相手と競争できるんだ。たとえば自分で本を書いたら、自分でイラストも描くとか。
専門化する相手と競争する第2の方法は、専門化が何を見落とすか見極めることだ。これは特に新しい物事についてあてはまる。まだ得意なものが何もないなら、うんと新しくて、誰もそれが得意でないような分野に取り組んでみよう。誰もそれが上手でないなら、その分野での有名人もまだいないだろうから、あなたがすべてを独占できるだろう
ふつう新しいメディアの可能性は、過小評価される。誰もまだ可能性を追求していないからだ。デューラーが版画を作るまで、誰も版画をたいして真面目に考えていなかった。版画はちょっとした敬虔な絵を作るものだった。要は15世紀の聖人版のベースボール・カードだ。このメディアで傑作を作ろうとするのは、デューラーの同時代の人にとっては、たとえば現在の一般人にとって、マンガで傑作を書くのと同じように見えたに違いない。
コンピューター界では、新しいメディアではなく、新しいプラットフォームとなる。ミニコン、マイクロプロセッサー、ウェブ・ベースのアプリケーション。最初のうちはいつも、「現実の仕事には適さない」と片付けられる。でも常に誰かが、もう少しがんばってみようと決め、みんなが期待する以上のことができるようになる。だから、将来人々が新しいプラットフォームについて、「うん、広まってきたし安くなったけれど、まだ実用には届かないな」と言っているのを聞いたら、それに飛びつこう。
敷かれたレールの上で働くのは、楽なだけでない。ふつうインサイダーは、自分たちを永続させる既得権を持っている。ある新理論で有名になった教授は、それを乗り越える発見をすることはないだろう。これは、とくに技術と地位を築いただけでなく、資金も持っている会社にあてはまる。成功した会社のアキレス腱は、自分自身の殻を打ち破ることができないってことだ。多くの革新は、何かをより安価な代案に置き換えることなのに、会社はすぐに既存の利益源を奪うことになる、その方法を直視したがらない。
だからアウトサイダーは、がんばって大胆な賭をする投資家のプロジェクトを捜すべきだ。優れた会社が有名になったその何かを作ろうとするのではなく、その名声を奪うような何かを作るために働こう。
本当においしいアプローチは、インサイダーが不可能だと拒絶するようなものではなく、品位がないと無視するようなものだ。たとえばウォズニアックは、アップルIIを設計したあと、最初に勤めていたHPに話をもちかけた。しかしHPはスルーした。その理由の1つは、ウォズニアックはお金を節約するためにモニターにテレビを使ったため、HPはそんなしょぼいものを作るわけにはいかないと考えたせいだ。
より少なく
ウォズニアックは、単にモニターを買う余裕がないからテレビを使った。アウトサイダーは単にフリーなだけでなく、安く、シンプルなものを作ることを強いられる。どちらも成長にはよい投資だ。安いものは速く広まるし、シンプルなものは素早く進化する。
一方、優秀な者は、たいてい大規模なものを作ることを強いられる。物置の代わりに、巨大な美術館を設計するだろう。彼らが大きなものを作ってしまう理由は、単に大きなものを作ることができるからだ。先ほどのたとえ話の小説家のように、それらはそういうことができることが自慢なのだ。さらに彼らは、大きなプロジェクトは、単に大きいというだけで、みんなの印象に残ると知っている。物置はどんなに美しくても、簡単に無視される。一部は失笑するかもしれない。逆に、どんなに嫌いであっても、巨大な博物館に対して失笑することはないだろう。最終的には大勢の部下がいるために、皆に仕事がいきわたるようなプロジェクトを選ぶ必要がある。
アウトサイダーにはそんなことがない。小さなものを作ることができるし、小さいものを作るのはとても面白い。大きなものはたいていバグがあるが、小さなものは完全にできる。しかも小さなものには、そんな合理的な説明をも越える魔力がある。子供は誰でも知っているが、小さなものはより個性的なんだ。
さらに、小さいものを作るのは楽しい。好きなことができ、委員会の許可もいらない。そしてたぶんいちばん重要なのは、小さなものは素速く作れるってことだ。完成した仕事を思い浮かべるのは、夕食の料理の匂いをかぐようなものだ。がんばれば、もしかしたら一晩でできるかもしれない。
さらに、小さなものを作るのは、いい勉強になる。ひとつのプロジェクトにつき一つだけ大事なことが学べる。(次はこんなヘマはしないぞ・・・)プロジェクトを次々と回転させるほど、あなたも次々と進化するだろう。
簡素な素材には、小規模であることと同様の魅力がある。またさらに、より少なさを追求する挑戦になる。デザイナーは負けず嫌いなので、「ゲーム」という言葉を聞き逃すことが出来ない。二軍選手が一軍のゲームでプレイするようなもので、引き分けに持ち込めれば勝ったようなものだ。すごく逆説的だが、資源が少ない方が、デザイナーの創作の喜びが補われるため、かえってよい結果を生む場合がある。[5]
だからあなたがアウトサイダーなら、小さく安いものを作るようにしよう。そのテの仕事の楽しみと単純性を大事にして欲しい。いつかは失われ、懐かしく思うものだから。
責任
年を取って有名になると、若くて無名のときに比べ、何を失ってしまうのだろうか。人々が最も恋しく思うのは、無責任でいられたことだ。
責任は優秀さの職業病だ。原則としては、年をとっても太らずに済むのと同様、優秀でも責任なしでいられる。でもほとんどの場合は不可能だ。私は時々、責任は罠みたいなもので、最も正しい対応法はそれから逃げ回ることだと思う。しかし不注意であれば、どっちにしろ責任によって制約される。
もちろんアウトサイダーであろうと制約される。たとえば経済的な制約だ。だが責任以外の制約は制約の仕方が違う。責任はあなたをどう制約するのだろうか。最悪なのは、責任によって、自分の本当の仕事に注目されずに済んでしまうってことだ。ちょうど、あたかも仕事をしているように見える作業が最も危険な種類の後回しになるのと同じで、責任の危険は、それに追われてまる一日過ごしても、公園のベンチでぼーっとしていた時に感じるような危機感を感じなくて済むってことだ。
アウトサイダーは、自分の後回しに気づかされるという大きな痛みがある。でもこれは、本当はいいことなんだ。いい匂いをかぐとお腹がすくのと同じで、少なくとも仕事に近いと気づくことができる。
アウトサイダーであるということは、何かをすることから、単に一歩、離れているにすぎない。たしかに大きな一歩で、ほとんどの人は踏み出さないんだが、でも、たったの一歩なんだ。もし始める熱意を奮い起こすことができれば、ほとんどのインサイダーに匹敵するものがいないほどの強い感情と高い質でプロジェクトに取り組める。インサイダーの仕事は、責任と期待がつきまとうため、義務になってしまう。それは若かったころほど純粋ではなくなっている。
鋤につながれている牛ではなく、散歩に連れられている犬のように働こう。それが年を取って有名になった人が失ってしまうものなんだ。
観客
多くのアウトサイダーは、正反対のことをする、という間違いを犯す。優秀な者を褒めそやし、彼らの間違いさえコピーしてしまう。コピーは学習するにはいい方法だが、正しいものをコピーしよう。私は大学にいたとき、有名な教授の尊大な話し方を真似た。でもそれは、その教授を有名にしたものではなかった。むしろそれは欠点で、彼らの優秀さを減じてしまうものだった。それをコピーすることは、金持ちのフリをするために、通風持ちであるかのように振る舞うのと同じだ。
優秀なもののもつ特徴のうちの半分は、本当は欠点だ。それらをコピーすることは、時間の無駄であるだけでなく、しばしばモデルが愚かに見えるようになってしまう。
インサイダーであることの真のメリットは何だろうか? 最も大きな利点は観客だ。アウトサイダーにとって、インサイダーのいちばんの利点は、好きなことを自由にできる資金に見える。でも莫大な遺産を相続した人が、あまり人生の助けにならないのと同じで、観客ほどには役だっていない。観客はあなたから仕事を引き出すんだ。
インサイダーのメリットは観客だという私の説が正しいなら、私たちはわくわくするような時代にいる。インターネットに多くの流動的な観客があらわれたのは、ここ10年くらいだからだ。アウトサイダーは、観客がわりの数人の賢い友達でガマンする必要がなくなった。今やインターネットのおかげで、アウトサイダーはホンモノの観客を相手に成長できるようになったんだ。これは変人にとって大きな朗報だ。アウトサイダーの利点を保ったまま、最近までエリートの特権だった利益をますます吸収できるようになったからだ。
10年以上前にすでにウェブはあったが、私たちはまさに民主化がはじまる過程を目の当たりにしている。アウトサイダーは、まだ観客を奪う方法を学んでいる最中だ。でももっと重要なのは、観客もまた奪われる方法を学んでいるということだ。観客はディープなブロガーはジャーナリストよりも掘り下げることができ、民主主義的なニュース・サイトは、編集者が管理する一面記事よりもずっと興味深く、ウェブカメラを持つ子供たちの集団が、大量生産されるコメディよりも面白いと悟りはじめた。
マスコミの大企業は、大衆がYouTubeに著作権で保護されたものを投稿すると心配するべきじゃない。人々がYouTubeに自分たちのコンテンツを投稿してくれて、それを見てくれる人がいるかを心配すべきなのだ。
ハック
もし変人の力を1つの文に縮めろと言われたなら、「何かをハックしようと試すこと」と言うだろう。この言葉は、私が今までに述べたほとんどの内容を含んでいる。何かをハックすることは、何をするかを、上司のビジョンを実行する部下としてではなく、自分自身でやりながら決めることなんだ。それは、適当な材料でてっとり早く作られるために、きれいな結果にはならないだろう、ということも暗に示唆する。動くかもしれないが、優秀な人が自分の作品と認めたいようなものではない。ハックによって問題をなんとか解決できるかもしれないし、ぜんぜん問題を解決できないかもしれない。でも途中で何か別のものを発見するだろう。それでいいんだ。最初のバージョンは、何かそのものではなく、その道しるべなんだから。きれいな服を着た、泥の中を進む勇気のないインサイダーは、向こう岸の堅い地面にたどりつくことはないだろう。
「試す」って言葉が特に重要だ。私はこの点で「『試す』などない」と言ったヨーダに反対だ。「試す」はアリだ。それは、失敗しても罰がないってことだ。義務ではなく好奇心で動くってことだ。後回しも仕事を避けるための後回しではなく、好きなことをやるための後回しになるだろう。そしてそれをしている時、いい気分になるだろう。仕事に想像力が必要な仕事ほど、ますますいい仕事ができる。なぜなら人々は幸せなとき、さらにいいアイデアが浮かぶからだ。
もし私が20代に戻ってやり直せるなら、何かをハックする時間を、もっと増やしただろう。その世代の多くの人と同じく、私もまた、自分が何をすべきかを悩んで多くの時間をムダにした。さらに私は素材作りにもある程度の時間を費やした。悩む時間を減らし、もっとなにかを作るべきだったんだ。何をすべきか分からないなら、何でもいいから作れ。
レイモンド・チャンドラーの推理作家へのアドバイスは次のようなものだった。「自分のしていることに迷ったら、ドアから銃を手にした男がやって来ると思え」そしてチャンドラーは自分の言葉に従った。彼の本を読む限り、チャンドラーはしばしば自分のしていることに迷ったようだ。そして生み出したものは、ときどきお粗末だったが、退屈ではなかった。実生活では、本の世界でも同じだが、アクションは軽視される。
幸運なことに、ハックすることができる事は増え続けている。たとえば50年前の人々は、1人の人間が映画をなんとか作れることに驚くだろう。
不適当
もし大きなポイントを稼ぎたければ、注目すべき分野は、変人の中のさらに変人だ。最近になってインサイダーがようやく視野に入れたような分野だ。それはあまりにも危険か、もしくは徹底的に調べようとするインサイダーがほとんどいなかったために、最も重要なプロジェクトが未完成だと分かっているような領域だ。
そしてそれが、私が最近、ほとんどの時間をエッセイに費やしている理由だ。かつてエッセイを書くことは、出版できる人々に制限されていた。原則としては誰でもエッセイを書いて、友達にそれを読ませることもできた。でも現実にはそれでは誰もエッセイを書かなかった。[6] 彫刻家が板の抵抗を必要とするのと同じで、エッセイストには観客の抵抗が必要なんだ。
数年前まで、エッセイを書くことは究極のインサイダーによるゲームだった。ある分野の専門家は、その分野に関してのエッセイを公表しても良かったが、一般的なトピックを書いてよい集団は、ニューヨークの正しい派閥に属す8人程度だった。現在ではこの分野に革命が起き、特に驚くことでもないが、まだまだ開発されていないテーマがあることがわかった。まだ書かれていない、とてもたくさんのエッセイがある。それらは概して危険な話題だ。インサイダーは母の愛とアップルパイといった話題は、ほとんど書き尽くしてしまったからだ。
このことから私は、「自分が現在、正しいことをしているかどうか決める方法」として提案するものを生み出した。資格がないとか、変なことをしていると人々が苦情を言うなら、あなたは正しい。人々が苦情を言っているなら、あなたは座っているのではなく、何かをしているからで、それは最初の一歩だ。また、もし人々がそのようなつまらない苦情しか言えないなら、恐らくあなたは良いことをしているんだ。
もし人々が「あなたが作ったものが動かない」と苦情を言っているのなら、それは問題だ。でも、あなたを非難する最悪の材料が、あなたがアウトサイダーであるってだけなら、それ以外のすべての点ではあなたは成功したことを示している。誰かに「資格がない」と指摘するのは、人種差別に訴えるのと同じくらいの悪あがきだ。それは単に「私たちは、あんたみたいなのが嫌いだ」という発言の正当化にすぎない。
でも一番いいのは、「変なことをしている」とみんなが言ったときだ。私は人生でずっとこの言葉を言われてきた。また、私は最近、それは実はホーミング・ビーコンの音だとわかってきた。「変な」は無意味な批判だ。それは単に「私はそれが好きじゃない」の形容詞にすぎない。
だからそれは、変人にとって最高のゴールであるべきだと私は思う。変になろう。人々にそう言われたら、あなたは光り輝いている。ついでに言えば、そう言った奴らは終わってる。
注釈
[1] アップル創業初期の歴史は、ジェシカ・リヴィングストンの近刊「創立者の仕事」Apress(2006年)におけるスティーブ・ウォズニアックとのインタビューを参考にした。
[2] ふつう通俗的なイメージというものは、 現実の姿の数十年遅れのものだ。現在の誤解された芸術家像は「チェーン・スモーカーでアル中、大きなうす汚いキャンバスに情熱を注ぎ、その絵を見て俗物が「ありゃ芸術じゃないね」と言う・・・といったものではない。現在では俗物も、壁に掛けられたものはすべて芸術とみなすよう訓練されているのだ。現代の誤解されたアーティスト像は、コーヒー中毒の極端な菜食主義者のマンガ家で、人々が「なんか日曜紙で似たようなの見たなあ」と思い「ありゃ芸術じゃないね」というものである。
[3] 「客観的なテストがない状態でのランク決定」というのは、政治の定義としてマジで相当にいいと思う。
[4] 高校では、自分の未来はすべて、どこの大学に行くかにかかっていると信じこまされる。でもその効果は2~3年で期限が切れるとわかる。20代半ばになれば、あなたが認めてもらいたがっている人物は、あなたがどの学校にいたかではなく、その学校で何をしたかによって判断している。
[5] 管理者はたぶんびっくりする。どうして私はこんな奇跡を起こすことが出来るんだろうか? どうすればもっと少ない支払いで、人々を私のために働かせることができるだろうか? 残念だが、たぶん制約は自らに課さなければならない。もっと支出を少なくしたいなら、高潔にも何も食べないで、飢死してしまうだろう。
[6] 出版の可能性なしで、大多数の人がエッセイを書くのにいちばん近いのは、日記を書くことだ。でも私は、日記はエッセイほどテーマを深く掘り下げないと思う。日記という名前が示すとおり、2週間もかけて何度も書き直したりしない。