ポール・グレアム「哲学入門」を翻訳しました。
原題は「How to Do Philosophy」です。

翻訳にあたって、クロノスファンド松山様、ブレイナー社小野様、akiyan.com 秋田様の心温まる激励を受けています。また「はてな」でNAPORIN様、tsubo1様、ほんのしおり様、deanima様、nofrills様、kuro-yo様、ita様、practicalscheme様、korompa様のご協力を得ています。ありがとうございます。

あと、若いベンチャー起業家のあなたにはいい話をプレゼント。


哲学入門

2007年9月

高校生のころ、私は哲学を学ぼうと決めた。動機はいくつかあり、中には高尚な動機もあった。それほど高尚でもない理由のひとつは、みんながびっくりすると思ったからだ。私が育った地域では、大学というのは職業訓練のために通うところだと思われていたので、哲学を勉強するなどということは、とてつもなく非実用的なことだと見られていた。そのころちょうど流行りはじめていた、服に穴を開けたり耳に安全ピンを刺したりするような、派手で非実用的な行為だ。

だがもう少し素直な動機もあった。哲学の勉強は知恵への最短の近道だと思ったのだ。他の何を専攻したって、専門領域に詳しくなるだけ。私は真実とは何かを学びたかった。

私は哲学の本を数冊、読もうとした。最近の本じゃない。そういうのは高校の図書館では見つからないのだ。とにかく私はプラトンとアリストテレスを読もうとした。彼らの思想を私がそのときに理解していたかどうかはわからないが、彼らは何か重要なことを論じているようだった。私はそれらを大学で学ぼうと思った。

高校3年生になる前の夏に、私は大学の授業の一部を履修した。微積分の授業はすごく勉強になったが、哲学入門の授業は身に付かなかった。だが哲学を勉強するという私の予定は揺るがなかった。何も学べなかったのは私のせいだ。ちゃんと注意深く課題図書を読んではいなかったしな。バークリーの「人知原理論」には、大学で、また挑戦してみよう。みんながあんなに推奨していて、あんなに読みづらい本なら、何が書いてあるかさえつかめれば何かがあるはずだ。

その後26年が経ったが、私はいまだにバークリーを理解していない。私は立派なバークリーの全集を持っている。私はそれを読み通すだろうか? ありそうもない。

当時と今の違いは、バークリーを理解する価値はたぶん存在しないというその理由を、今では知っているということだ。哲学の何がいけないのか、どうすれば修正できるのか、今ではわかったように思う。

言葉

最終的に、私は大学の間はほとんどずっと哲学専攻で過ごした。それは私が期待していたほどの効果はなかった。それと比べたら、他のすべては単なる専門知識に過ぎない、というような魔法のような真実は、まるで知ることはなかった。しかし少なくとも今では、私が魔法のような真実を知ることがなかったのはなぜかについては、わかっている。哲学には、数学や歴史学など大学の科目にあるような主題があるわけではない。習得すべき知識の核がない。それに最も近いのは、長年にわたっていろいろな哲学者がさまざまな話題について述べたことに関する知識だ。ほんのいくつかしか実質的に正しい発見はないので、人々は哲学者の誰が何を発見したか忘れてしまう。

記号論理学にはいくらかテーマがある。私は論理学の授業をいくつかとった。私がそれらから何かを学んだかはわからない。[1] A→BをB←Aに変換してみる。その二つがカバーする範囲が異なっているとか、基本的には同じなんだけど何点か変わってしまっている点があるとか、そういう思考実験ができることは大事だと思う。しかしそれを記号論理学から学んだのかと言うとそうでもない。しかし論理学の勉強が、そのように考えることの重要性を教えてくれたのだろうか? あるいはそのおかげで私はそれが上手くなったのだろうか? わからない。

確かに哲学から学んだこともある。いちばん印象的だったのは、1年生の一学期で、最初にシドニー・シューメーカーの授業で学んだことだ。私は自分が存在しないということを知ったのだ。私は(そしてあなたも)、いろいろな力に動かされる細胞の塊で、その細胞の塊を「私」と呼んでいるのだ。しかし、自身のアイデンティティが存在する、中心的で分割できない何かなどない。脳の半分を失っても生きていられるということになる。ということは、理屈では人の脳はふたつに分けて、別々の身体に移植できるということだ。そのような手術を受けたあとで目覚めた、と想像してみよう。自分が2人になったと想像するんだ。

この話の真の教訓は、日常生活で使う概念はあいまいで、あんまり突き詰めると崩壊するってことだ。「私」ほどに人間にとって大切な概念さえ、崩壊してしまう。このことが腑に落ちるまで時間がかかったが、まるで19世紀初頭の人が進化論を理解して、子供の時に教えられた創造の物語はすべて間違いだったと知ったときのように、かなり突然に理解した。[2]数学を除けば、言葉を突き詰めるのにも限度がある。実際、数学は正確な意味を持つ語の研究である、というのはそう悪い定義ではないだろう。日常的に用いられる語は、本質的に不明確だ。日常の生活では十分に機能するために気づかない。ニュートン物理学と同様、言葉はうまく機能するように見える。しかし非常に突き詰めた推論をすると、言葉はいつも崩壊してしまう。

哲学にとって不幸なことに、私はこれこそが哲学の中心的な事実だと言おう。ほとんどの哲学的議論は、言葉による混乱によって悩ましいものとなっているだけではなく、その混乱が議論を導いている。私たちは自由な意志を持つのだろうか? 「自由」が何を意味するかによる。抽象観念は存在するだろうか? 「存在」が何を意味するか次第だ。

一般に、「哲学論争の大部分はことばをめぐる混乱によるものである」と考えたのはヴィトゲンシュタインだとされている。しかし私は、どの程度、ヴィトゲンシュタインの貢献と見なすべきか疑問に思う。私の思うに、多くの人々もそう理解していたのだが、哲学の教授になるのではなくて、単に哲学を勉強しないことで自分の理解を示したのだ。

どうしてこんなことになったのだろう? 人々が真剣に何千年も研究したのに、時間の浪費だったなんてことがあるの? これは興味深い質問だ。実際のところ、それは哲学の中でもっとも興味深い質問のひとつと言っても良いだろう。現在の伝統的な哲学にアプローチする最も有益な方法は、バークリーのように無意味な思索に迷い込むのでも、ウィトゲンシュタインのように切り捨てるのでもなく、論理が失敗する実例として学ぶことだろう。

歴史

西洋哲学は本格的には、ソクラテス、プラトン、アリストテレスから始まった。それ以前の哲学者に関する私たちの知識は、後の研究の断片と引用によるものだ。ソクラテス、プラトン、アリストテレス以前の者の教義は、分析もままならない、憶測だけの宇宙論というほかない。おそらく彼らは、他の社会でも人々に宇宙論を発明させたものなら、なんであれ駆り立てられていただろう。 [3]

ソクラテス、プラトン、特にアリストテレスによってその風潮は変わり、分析がずっと重視されるようになった。プラトンとアリストテレスは、数学の進歩に後押しされて分析に重きを置けるようになったんじゃないかと私は思っている。数学者は当時、何かに関するもっともらしい話をつくりあげるより、はるかに決定的な方法でものを理解することができる、ということを示していた。[4]

しょっちゅう抽象概念について語る現代では、はじめて人々が抽象概念を語りはじめたとき、どれほどの飛躍だったのか実感できないだろう。何かが「熱い」「冷たい」と言い始めてから、誰かが「熱って何?」と問うまでに、おそらく何千年もかかった。それが非常にゆっくりとした進歩であったことは疑いがない。プラトンやアリストテレスがした質問を、最初に質問したのが彼らかどうかはわからない。しかしプラトンやアリストテレスの業績は、そのような質問をはじめて広範囲にわたって行い、そして彼らの質問の一部には、その時代には(素朴さではなく)少なくとも斬新さを示す何かがあったことだ。

特にアリストテレスは、人々が一世代のうちに次々と争うように新しい発見をし、その大きさに興奮している時代を思い起こさせる。もしそうならば、こういったアイデアがどれほど新鮮だったかの証拠だ。[5]

これこそ、プラトンとアリストテレスが非常に印象的なのに、単純かつ誤っている理由のすべてだ。その問題を問うこと自体が衝撃的だったのであり、彼らがいつも良い答えをしたのではない。古代ギリシャの数学者がある点で単純すぎた、あるいは少なくとも、もっと楽ができたはずのアイデアを思いつかなかったと言っても、彼らを侮辱したことにはならないだろう。だから古代の哲学者が数学者と同様に単純で、特に私が先に述べた「言葉はあまりに追求すると崩壊する」という哲学の中心的事実を十分に理解していなかったようだと言っても、あんまり怒らないでほしい。

ロドニー・ブルックスは「初期のコンピュータ設計者は、書いたプログラムがたいてい上手く動かないので驚いた」と書いている。人々が初めて抽象概念を語りはじめたとき、似たことが起きた[6]。驚いたことに、意見が一致することはなかった。実際、答えにたどりつく様子もほとんどなかった。

彼らは実際の所、あまりに解像度の低いサンプリングによってもたらされた計測機に由来するノイズについて議論をしていたにすぎない。

哲学の成果が役に立たないということは、哲学者たちの答えがほとんど役に立っていないことから明らかになった。アリストテレスの形而上学を読んだから、読む前と比べて行動が変わった人なんていない。[7]

私は「概念が興味深くあるためには、現実的な実用性があるべきだ」と主張しているのではない‐その必要はない。ハーディが「整数論はまったく何の役にも立たない」と誇らしげに言ったところで、整数論の価値は不滅だ。しかしハーディは誤っていた。実際のところ、まったく応用できない数学の分野を見つけるのは非常に難しい。そして哲学の究極の目標についてアリストテレスが形而上学第一巻で説明するところによれば、哲学も役に立つ必要がある。

理論的な知識

アリストテレスの目標は、最も根本的な原理を見つけ出すことだった。アリストテレスの挙げた例には説得力がある。普通の労働者は経験から自己流でやるが、熟練した職人は基本の原則を理解しているから、よりうまくできるのだ、と。流れは明快だ。知識が一般的になるほどいいってわけだ。だがアリストテレスは、たぶん哲学史上、最大の過ちを犯した。アリストテレスは理論的な知識は現実的なニーズよりも、しばしば理論そのものへの好奇心のために得られると気づいた。そこでアリストテレスは次のようなことを述べた。理論的な知識には現実の問題に役立つものと、現実の問題には役に立たない2種類がある。後者に興味がある人は、知識そのものに興味があり、より高尚なはずである。そこでアリストテレスは形而上学の目標を、実用的でない知識の探求とした。その結果、アリストテレスが壮大でこそあれ漠然とした質問をしても、警告する者もなく、言葉の海に溺れることになった。

アリストテレスの間違いは、動機と結果を混同したことだ。確かに、何かを深く理解したいと思う人は、現実的なニーズというより好奇心に駆られている。だからといって学んだことが結局、役に立たないってことはないだろう。自分がしていることを深く理解することは、実際はとても重要だ。今より難しい問題を解決するように言われることがまったくなくたって、より単純な近道の答えがあればそれとわかるし、境界線上の領域でもうまく判断できるし、自分には理解できない公式に従って振る舞うこともできる。知識は力だ。それが理論的な知識が高尚な理由だ。それはまた、賢い人がある特定の物事に強い好奇心を抱く理由だ。人類のDNAは、私たちが思うほど平等ではないのかもしれない。

だからアイデアにさしあたり興味深い現実的なニーズがなくても面白ければ、驚くほどしばしば、実際的な応用があると判明する。

アリストテレスが形而上学でまったく成功しなかった理由の一部は、矛盾する目標を最初に掲げてしまったせいだ。最も抽象的な概念を探し求めるために、抽象概念は役に立たないという仮定を指針にしてしまった。北の果てまで行こうとする探検家たちが、それは南にあるという仮定から始めたようなものだ。

そしてアリストテレスの業績が、後世代の探検家の地図として使われるようになったため、後世代の探検家たちもまた同様に間違った方向に迷い込んでしまった。[8] おそらく最悪だったのは、アリストテレスは外部からの批判についても、そして「最も崇高な理論的知識は現実に役立ってはいけない」という教理を心の支えとすることについても、どちらの言いわけにもなってしまったことだ。

形而上学の大部分は失敗した実験だ。いくつか知る価値のある概念もあったが、ほとんどは無価値だった。「形而上学」は有名な本のうち読んでも得るものが最も少ない本の一つだ。ニュートンの「自然哲学の数学的原理」と同じ難しさなのではなく、メッセージが回りくどいのだ。

おそらくそれは興味深い失敗した実験だった。しかし残念なことに、形而上学のような本に触発されたアリストテレスの後継者たちは、そうは思わなかった。[9] まもなく西洋社会は知性の暗黒時代に突入する。プラトンとアリストテレスの作品バージョン1の衝撃が、習得し議論されるべき神聖な教科書に成り代わってしまった。そしてとんでもなく長い間、それが続いた。(当時、世界の中心だったヨーロッパでは) 西暦約1600年まで待って、はじめてアリストテレスの業績が間違いだらけだったと安心して言えるようになったが、それでも率直にそう言われることはめったになかった。

そんなに時間がかかったことが不思議なら、ヘレニズム時代からルネッサンスまで、数学がほとんど進歩しなかったことを考えて欲しい。

残念ながらその時期には支配的だったのは、『形而上学』のような作品を書くことが容認されていただけではなく、哲学者と呼ばれるような階級が書いた作品はとりわけ権威を持っている、という考えだった。アリストテレスが議論をした動機にまでさかのぼってデバッグしようと考えた人はいなかった。非常に曖昧かつ抽象的な概念の議論はすぐに迷走するので、アリストテレスの後継者たちはアリストテレスが身をもって教えてくれた落とし穴を指摘するかわりに、同じ落とし穴にハマり続けた。