特異性

しかし奇妙なことに、後継者たちの本は新しい読者を魅了し続けた。伝統的な哲学はその意味である種の特異点だ。壮大な概念をあいまいに書けば、未熟だが知的な好奇心にうずうずしている学生にとっては、ものすごく魅力的に見える何かを生み出す。人は分別がつかないと、何かが難しくても、作者自身がよく理解していないことを書いているから難しいのか、数学の証明のようにそれが示す概念そのものが難しいのか、どちらか区別することができない。その違いを学ばなかった人にとって、伝統的な哲学は数学と同じくらい確かで(したがって印象的で)、数学より広い範囲を対象とする、とても魅力的なものに見える。それが高校時代の私を誘惑したものだった。

この特異点は、それ自体が言い訳になる点でさらに特異だ。何かが理解しづらくても、無意味ではと疑う人たちは、ふつう黙っている。文章が無意味だと証明する手段がないからだ。その証明にいちばん近いのは、あるレベルの公式な判定人でも、その文章を偽物と区別することができないと示すことだ。[10]

哲学が時間のムダと思った人のほとんどは、哲学を非難するのではなく、単に他の勉強をした。哲学の問題を挙げるなら、この一つだけでもかなり大きな証拠だろう。哲学は究極の真理であるべきだと思われている。もし哲学がその通りのものならば、賢い人はみんな哲学に興味を持つはずじゃないか。

哲学の欠陥が、哲学者の誤りを指摘できる可能性のある人々を締め出してしまったので、哲学者たちはいつまでたっても自己満足する傾向があった。バートランド・ラッセルは、1912年の手紙でこう書いた。「今まで哲学に惹きつけられた人の多くは大胆な一般化を好んだが、それがすべての誤りで、ちゃんとした神経の持ち主がテーマを設定したことはほとんどなかった」と。[11]
ラッセルの態度をウィトゲンシュタインが推し進め、劇的な結果をもたらした。

状況証拠から判断する限り、ヴィトゲンシュタインが有名になったのは、ちょっとでも哲学を学び、あるところで哲学をあきらめた賢い人ならだれでも知っている「過去の哲学の多くが時間のムダだ」ということに気づいたからではなく、実際に哲学の多くが時間の無駄であることを指摘したからだと思う。[12] ヴィトゲンシュタインは黙って別の分野に移るのではなく、異議を申し立てた。彼はゴルバチョフだったのだ。

哲学はウィトゲンシュタインのもたらした恐怖に、まだ脅かされている。[13] ヴィトゲンシュタインは後期には、言葉の機能について述べることに多くの時間を費やすようになった。それは許容範囲のようなので、現在、多くの哲学者がそうしている。一方、ある一派は、形而上学的な思弁に空しさを感じつつも、「文学理論」「批評理論」、ちょっと大げさだと思ったときは単に「理論」という新しい名前で文芸評論をして、カントの用語を洗練させてきた。書いているのは次のような、おなじみの言葉のごたまぜだ:
現実に対応するものが存在しない文法概念を明白に説明する文法概念であるがゆえに、知識人達がたとえそうする事に価値がないようなものでも思い描くようにしむけるような何かを、実のところ明白に説明するわけがない文法概念とは、性は似ていない。[14]
私の説明した特異性は、まだなくなっていない。もっともらしく聞こえる、反証できない言葉を聞きたがる人がいる。いつだって需要があれば供給がある。ある集団がこの市場を捨てても、すぐに取って代わる集団がいつもある。

提案

私たちはもっとうまくやれるかもしれない。興味深い可能性がある。たぶん私たちは、アリストテレスがしたことではなく、するつもりだったことをするべきなのだ。アリストテレスが形而上学で示した目標には、追求する価値があるように思う。最も一般的な真実の発見・・・それは良いと思う。だがその真実を「役に立たない」と定義して見つけようとするのではなく、「役に立つ」という理由で見つけようと努力しよう。

私はこれまで軽蔑されてきた「有用性」という基準を、抽象概念の沼にハマらないようにする指針として使いつつ、やり直そうと提案したい。「何が最も一般的な真実だろうか?」という質問に答えようとするのではなく、「私たちが知っている有用な知識のうち、最も一般的なものは何か」と問おう。
私が提案する有用性のテストは、文章を読んだ人が自分の行動をどう変えたか、というものだ。曖昧なものには明確なアドバイスをすべきだと心得ていれば、日常用語の解像度以下に陥らないで済むだろう。

目標はアリストテレスと同じだ。私たちは異なる方向からアプローチしているだけだ。

役に立つ一般的なアイデアの具体例として、対照実験はどうだろうか。これは広く適用できるとわかったアイデアだ。それは科学の一部だと言う人もいるかもしれないが、ある特定の科学の一部ではない。対照実験は文字通り(わたしたちの言葉で言うところの)形而上学(メタ-フィジクス)なのだ。もう一つの例は進化論だ。それは非常に広く応用できる。たとえば遺伝的アルゴリズムや製品の設計にさえ応用可能だ。フランクファートがウソとウンコな議論を区別したのは最近の例ではいい線行っていると思う。[15]

これらの概念は、それらを理解した人が行動をガラッと変えることがよく観察される。哲学もそうなるべきだと私は思う。

そのような観察は必然的に、厳密には定義できないものになるだろう。正確な意味で言葉を使いはじめたら、数学になってしまう。有用性を出発点にしても、前に述べたような問題が完全に解決するわけではない。形而上学の特異性を除去することはできないだろう。しかし有用性を出発点はプラスになる。それは人々に良い意味で抽象概念の新たな地図を与える。そしてそうすることで、お堅い文章は相対的にダメに見えるようになるかもしれない。

この方法の欠点は、終身在職権を得られるような文章を書くことはできないってことだ。そんな文章は最近、流行ってないからという理由だけじゃない。どんな分野であれ、終身在職権を手に入れたいなら、終身在職権の認定委員会に所属するメンバーの同意が得られないような結論ではダメだ。現実にはこの種の問題には2種類の解決策がある。数学や科学では、自分の主張を証明したり、好みの精度で自分の結論を間違いのないように調整できる (「8名の被験者のうち6名には、治療後に血圧の低下が観られた」)。人文科学では結論の明言を避けたり(たとえば問題は複雑であると結論する)、誰も真面目に反対する気にならないような、非常に些細な結論にすることができる。

私の提案する哲学では、どちらの証明をすることもできない。できるのは数学者や実験主義者の証明ではなく、せいぜいエッセイストのレベルの証明だ。そして応用できる範囲と、かなり広く受け入れられる結論がなければ、有用性テストを受けることさえできない。さらに問題なのは、有用性テストは人々を怒らせる結果になりがちってことだ。人々がすでに信じていることを話したって何の利益もないのだが、人は自分たちが信じていなかったことを聞くとしばしば動揺する。

だがそこには刺激がある。誰だって真似できる。有用性からスタートし、一般性を上げていくことで一般性と有用性を獲得するやり方は、最終在職権を得ようとしている准教授には向いていないかもしれないが、すでに最終在職権を持っている教授を含む、他の全ての人にとっては良い。山のこちら側の斜面は、いい感じに段々となっている。役に立つが非常に特殊なものごとについての文章を書くことから始め、すこしずつ一般化する。ジョーはおいしいブリトーを持っている。おいしいブリトーをおいしくさせているのは何だろうか? おいしい食べ物をおいしくさせているのは何だろうか? 良い物を良くさせているのは何だろうか? 好きなレベルを選べる。山の頂点まで行く義務はない。哲学していると誰かに言う必要はない。

哲学が気の重い仕事に思えるなら、ちょっと勇気づけられる考え方がある。哲学は見た目よりずっと歴史が浅いんだ。伝統的な西洋の哲学者がはじめて生まれたのは2500年前だったので哲学は2500年の歴史を持つと勘違いしがちだが、その時間の大部分で主要な第一線の人は、侵略軍を見張っている間にプラトンやアリストテレスの解説を書く以上のことを、たいしてしていたわけじゃない。その時代が終わると、哲学と宗教はどうしようもないくらい混ざってしまった。それは数百年の間、自分自身を自由に揺さぶることもせず、さらに私が先に述べた構造的な問題に悩まされていた。これをある人はとんでもなく広く苦しい一般化だって言うし、他の人はそんなのあたりまえだって言う。でも実際にはこんな感じだった。哲学者の業績から判断する限り、哲学者の多くは、今に至るまで時間をムダにし続けている。だからある意味で哲学は始まったばかりだ。[16]

これはめちゃくちゃな主張に聞こえるかもしれない。だが1万年の単位で見ればそれほどめちゃくちゃじゃない。いつだって文明は古く見える。なぜって文明は、つねにこれまでの歴史の一番古いところにあるからだ。何かが本当に古いかどうかを判断する唯一の方法は、構造の証拠を調べることだ。そして構造的には哲学は若い。哲学は言葉が思いがけなく行き詰まったため、いまだに動揺している。

いまの哲学は西暦1500年の数学と同じくらいの若さだ。まだ発見されていないことがたくさんある。


注釈

[1]実際には、この150年に多少、進歩したにもかかわらず、わずかな命題しか形式化できないので、形式論理学がすごく役に立つわけではない。多くの命題が巨大でアナログな脳の状態よりも簡潔にはならなかったので1980年代の「知識表現」がまったくうまくいかなかったのと同じ理由で、形式論理学もこれ以上はうまくいかないかもしれない。

[2] 私たちは簡単に考えるが、ダーウィン時代の人々が進化論を理解することは困難だった。聖書の創造物語は、ユダヤ教とキリスト教の概念にとどまらなかった。それはおおざっぱに言って、人間が人間である以前から、みんなが信じていたと思われるものだった。進化論を理解する上で困難だったのは、種は不変に見えるのにそうではなく、想像もできないほど長い時間をかけて、もっと単純な有機体から進化した、ということだった。

現在、私たちはその飛躍をする必要がない。先進国に生まれれば、大人になって初めて進化論に出会うなんてことはない。真実としてであれ、異端の説としてであれ、子供の時に誰でも進化論を教わる。

[3] プラトン以前のギリシャ哲学者は韻文で書いていた。これは言葉にも影響したに違いない。世界の理を韻文で書こうとしたら、必然的に無意味な言葉の繰り返しになってしまう。散文はもっと正確で謙虚になることを強いる。
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[4]哲学は数学のろくでなしの弟のようだ。プラトンとアリストテレスが前任者の業績を見て、「どうして哲学は兄のようになれないんだ?」と言ったときに哲学は生まれた。2300年後のラッセルは、まだ同じことを言っていた。

数学は最も抽象的な概念のうち正確なほうの半分で、哲学は不正確なほうの半分だ。その精度に下限がないのだから、哲学が相対的に数学よりダメになるのは避けられない。数学は悪くても退屈なだけだが、悪い哲学はナンセンスになる。だが不正確な半分にも若干の良い考えがある。

[5] アリストテレスの最高の仕事は論理学と動物学で、彼はその両方を発明したと言ってもよい。しかしアリストテレスが最も飛躍したのは、前任者よりもずっと分析的な新しい思考法だった。おそらくアリストテレスは初の科学者だった。

[6]ロドニー・ブルックス、「Programming in Common Lisp」、Wiley出版、1985年、p.94。

[7] アリストテレスの思想は私たちの文化全般を構成する一部だから、自分たちが思うよりもずっとアリストテレスの恩恵を私たちは受けているのだと言う人もいるかもしれない。確かに私たちが使う多くの言葉はアリストテレスと関係がある。だがアリストテレスが書いていなかったら、私たちは物の本質という概念を得たり、質料と形相を区別することができなかったとほのめかすのは、ちょっと言い過ぎだろう。

私たちが現実にどの程度、アリストテレスに負っているのかを知る一つの方法は、中国文化とヨーロッパ文化のdiffを取ることだ。西暦1800年のヨーロッパ文化には、アリストテレスがいたために中国文化にはないどんな概念があっただろうか?

[8]「哲学」という言葉の意味は時代ととともに変わった。古代には私たちの「学問」という言葉のように、幅広いテーマが含まれていた。ニュートンの時代になってさえ、それは私たちが現在「科学」と言う言葉の内容を含んでいた。だが「最も一般的な真実を発見する試み」という現代哲学の核心は、アリストテレスの時代でも核心であったと思う。

アリストテレスはこれを「形而上学」とは呼ばなかった。私たちが今日、「Metaphysics」と呼んでいる本がその名前になったのは、アリストテレスの「Physics」の標準版が書かれた後(メタ=後)、3世紀後に、ロードス島のアリストテレス学派によって編集されたからだ。

[9]アリストテレスの時代に近い後継者はこのことを理解していた人もいたかもしれないのだが、彼らの作品の大部分が失われているため、そう言うのは困難だ。

[10] アラン・ソーカル、「境界を侵犯すること:量子重力の変換解釈学に向けて」、Social Text 46/47、pp. 217-252。

抽象的に響くだけで中身のないことばは、聞き手が内心で期待していることと共鳴する場合に最も魅力的なものとなるようだ。だとすれば、そういう言説は弱い人々、もしくは弱いと感じている人々に最もウケが良いだろう。本当に力を持った人々は他人に立場を保証してもらう必要はないからだ。

[11] オットーリン・モレル夫人(1912年12月)への手紙の引用

モンク、レイ、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン「天才の責務」、Penguin出版、1991年、p.75。

[12] アリストテレスから1783年までの形而上学の一応の成果が時間の無駄となったのはI.カントが現れたからだ。

[13] ヴィトゲンシュタインは20世紀初頭のケンブリッジの人々が特に弱かったある種の支配力を持って断言した。おそらく理由の一部は、長い間、宗教を尊敬していた信仰を捨てたため、頭に何をするべきかを詰め込む空白があったことで(他の人々はマルクスやカーディナル・ニューマン卿に走った)、別の理由は、当時のケンブリッジのように静かで真面目な場所では、ヨーロッパの政治が独裁者に対して生まれつきの免疫を持っていなかったのと同様、救世主的な見かけに対して、生まれつきの免疫を持っていなかったからだ。

[14]これは実はドゥンス・スコトゥス著「オルディナティオ」(およそ1300年)の「数」を「性」に変え、ちょっと手を加えたものだ。

ヴォルター・アラン(訳)、ドゥンス・スコトゥス「哲学書」、ネルソン出版、1963年、p.92。

[15] ハリー・フランクファート「ウンコな議論」、プリンストン大学出版局、2005年

[16] 哲学入門の一部は、現代の哲学はある真実を学ぶためというより、むしろ過程に勉強する価値がある、という方針をとる。こういった本で扱われた哲学者は、墓の中で怒っているだろう。彼らは議論のネタにされる以上のことを望んでいた。成果を挙げたかったんだ。ほとんどは間違っていたが、不可能な望みだったとは思えない。
[16] Some introductions to philosophy now take the line that philosophy is worth
この議論は、1500年の錬金術の成果がお粗末だったことに関し、そのプロセスに価値があったと言っている人のようだ。残念、彼らは間違った方向に進んでいた。(鉛を金に変換することも現在のエネルギー価格では経済的に引き合わないとしても)可能なことがわかったが、その知識を得られるまでの道のりは、引き返して別の道を行くことだった。

この原稿を読んでくれたトレヴァー・ブラックウェル、ポール・ブッフハイト、ジェシカ・リヴィングストン、ロバート・モリス、マーク・ニックバーグ、ピーター・ノービグに感謝する。