ポール・グレアム「中道には2種類ある」を翻訳しました。原題は The Two Kinds of Moderate で、原文はココです。英語に強い皆さま、メール(takeuchi19@mail.goo.ne.jp)でのアドバイスを、よろしくお願いいたします。
中道には2種類ある
The Two Kinds of Moderate
2019年12月
December 2019
政治的に中道であるには、中道であろうとするか、たまたま中道になるかという、2つのはっきり異なった方法がある。中道であろうとする人は、極端な意見を排除することで、左右両極端の中間の位置を意図的に選択する。たまたま中道派である人は、平均的には、極右と極左の中間となる。なぜなら、たまたま中道になった人はそれぞれの問題について自分の意思で決めており、かつ、極右と極左はおおむね同じくらい間違っているからだ。
中道であろうとする派とたまたま中道派は、意見の分布で見分けられる。ある問題についての極左の意見が0で極右の意見が100だとしよう。中道であろうとする派の意見はすべての問題について50に近いが、たまたま中道派の意見は広い範囲に分布しながらも、中道であろうとする派の意見と同様に平均で約50になる。
中道であろうとする派は、自分の意見がある意味で自分自身のものではないという点で、極左や極右の意見に似ている。左派であれ右派であれ、イデオロギーの決定的な資質は、自分の見解をまるごと決定してしまうことだ。選り好みはできない。同性婚に関する意見を聞けば、税金に関する意見は予測できる。過激派とは真逆に見えるかもしれないが、中道であろうとする派も、信条(彼らの場合、「位置」という言葉の方がより正確かもしれない)をまるごと決定してしまう。中央値の意見が右や左にシフトしたら、意図的な中間値はそれとともにシフトせざるを得ない。でなければ中道でなくなってしまう。
一方、たまたま中道派は、答えだけでなく質問も選ぶ。たまたま中道派は、左派と右派がとても重要と考える問題には、ぜんぜん興味がないかもしれない。つまり、たまたま中道派が関心を持っている問題と、左派と右派が関心を持っている質問との交点から、たまたま中道派の政治を測ることさえできるし、その交点は時として消えてしまうほど小さい。
「私たちに賛成でなければ反対だ」と言うのは、人を操ろうとする修辞的なごまかしであるだけでなく、単に間違っていることがよくある。
中道派は時に臆病者として、特に極左から嘲笑される。だが、中道であろうとする派を臆病者と呼ぶのは正しいかもしれないが、自分はたまたま中道になったと公言するのには、何よりも勇気が必要だ。左右から攻撃されるし、自分を支えてくれる多数派の正統なメンバーであると安心できないからだ。
私が知っている最も印象的な人々のほとんどは、たまたま中道派だ。プロの運動選手や芸能人をたくさん知っていれば、違うかもしれない。左派でも右派でも、走る速さや歌唱力には関係ないからだ。だが、アイデアをうまく活用するには独立心が必要だ。
もっと正確に言うと、自分が取り組んでいるアイデアについて、独立心を持つ必要がある。人は政治については何も考えずに空理空論に染まりながら、それでも優れた数学者であり続けることができる。20世紀には、非常に優秀な人々の多くがマルクス主義者だった。そしてマルクス主義が関係する問題については誰も賢くなかった。だが、仕事で使うアイデアが時代の政治と交差しているなら、中道であろうとする派とたまたま中道派という、2つの選択肢がある。
注釈
[1] 理論的には、完全に一方が正しく、一方が完全に間違っている可能性がある。実際、過激派は自分が正しいと信じる必要がある。しかし歴史的には、そんなことはほとんどなかった。
[2] なぜか極右の人は、中道派を堕落していると軽蔑するより、無視することが多い。理由は不明だ。もしかしたら、極右は極左よりも理論的でないからかもしれない。あるいは、自信があるのか、あきらめているのか、単に組織の結束が弱いからか。私にはわからない。
[3] 異端な意見を持っているからといって、それを正直に言う必要はない。言わない方が楽だろう。
この原稿を読んでくれたオースティン・オルレッド、トレバー・ブラックウェル,パトリック・コリソン、ジェシカ・リビングストン、アムジャッド・マサド、リアン・ピーターソン、ハージ・タガーに感謝する。
中道には2種類ある
The Two Kinds of Moderate
2019年12月
December 2019
政治的に中道であるには、中道であろうとするか、たまたま中道になるかという、2つのはっきり異なった方法がある。中道であろうとする人は、極端な意見を排除することで、左右両極端の中間の位置を意図的に選択する。たまたま中道派である人は、平均的には、極右と極左の中間となる。なぜなら、たまたま中道になった人はそれぞれの問題について自分の意思で決めており、かつ、極右と極左はおおむね同じくらい間違っているからだ。
中道であろうとする派とたまたま中道派は、意見の分布で見分けられる。ある問題についての極左の意見が0で極右の意見が100だとしよう。中道であろうとする派の意見はすべての問題について50に近いが、たまたま中道派の意見は広い範囲に分布しながらも、中道であろうとする派の意見と同様に平均で約50になる。
中道であろうとする派は、自分の意見がある意味で自分自身のものではないという点で、極左や極右の意見に似ている。左派であれ右派であれ、イデオロギーの決定的な資質は、自分の見解をまるごと決定してしまうことだ。選り好みはできない。同性婚に関する意見を聞けば、税金に関する意見は予測できる。過激派とは真逆に見えるかもしれないが、中道であろうとする派も、信条(彼らの場合、「位置」という言葉の方がより正確かもしれない)をまるごと決定してしまう。中央値の意見が右や左にシフトしたら、意図的な中間値はそれとともにシフトせざるを得ない。でなければ中道でなくなってしまう。
一方、たまたま中道派は、答えだけでなく質問も選ぶ。たまたま中道派は、左派と右派がとても重要と考える問題には、ぜんぜん興味がないかもしれない。つまり、たまたま中道派が関心を持っている問題と、左派と右派が関心を持っている質問との交点から、たまたま中道派の政治を測ることさえできるし、その交点は時として消えてしまうほど小さい。
「私たちに賛成でなければ反対だ」と言うのは、人を操ろうとする修辞的なごまかしであるだけでなく、単に間違っていることがよくある。
中道派は時に臆病者として、特に極左から嘲笑される。だが、中道であろうとする派を臆病者と呼ぶのは正しいかもしれないが、自分はたまたま中道になったと公言するのには、何よりも勇気が必要だ。左右から攻撃されるし、自分を支えてくれる多数派の正統なメンバーであると安心できないからだ。
私が知っている最も印象的な人々のほとんどは、たまたま中道派だ。プロの運動選手や芸能人をたくさん知っていれば、違うかもしれない。左派でも右派でも、走る速さや歌唱力には関係ないからだ。だが、アイデアをうまく活用するには独立心が必要だ。
もっと正確に言うと、自分が取り組んでいるアイデアについて、独立心を持つ必要がある。人は政治については何も考えずに空理空論に染まりながら、それでも優れた数学者であり続けることができる。20世紀には、非常に優秀な人々の多くがマルクス主義者だった。そしてマルクス主義が関係する問題については誰も賢くなかった。だが、仕事で使うアイデアが時代の政治と交差しているなら、中道であろうとする派とたまたま中道派という、2つの選択肢がある。
注釈
[1] 理論的には、完全に一方が正しく、一方が完全に間違っている可能性がある。実際、過激派は自分が正しいと信じる必要がある。しかし歴史的には、そんなことはほとんどなかった。
[2] なぜか極右の人は、中道派を堕落していると軽蔑するより、無視することが多い。理由は不明だ。もしかしたら、極右は極左よりも理論的でないからかもしれない。あるいは、自信があるのか、あきらめているのか、単に組織の結束が弱いからか。私にはわからない。
[3] 異端な意見を持っているからといって、それを正直に言う必要はない。言わない方が楽だろう。
この原稿を読んでくれたオースティン・オルレッド、トレバー・ブラックウェル,パトリック・コリソン、ジェシカ・リビングストン、アムジャッド・マサド、リアン・ピーターソン、ハージ・タガーに感謝する。