第二次世界大戦中から、近年に至るまで全地のホバの証人たちは野獣の崇拝を拒んで投獄や流刑を経験しました。ウクライナのエホバの証人たちの経験を見てみましよう。

(野獣の崇拝とは、聖書的に何を意味するかは、ブログの2009年12/1の記事をご参照ください。)



第二次世界大戦中に,ソビエト軍は徴兵制を実施し、ウクライナのゲリラ隊が,ドイツとソビエト両軍を相手に戦闘を繰り広げていました。ウクライナの住民は,ゲリラ隊に加わるよう圧力をかけられました。それで,エホバの証人たちは中立を保ち、戦うことを拒否したために,幾人もが処刑されました。ある兄弟たちは,ソビエト軍に入隊することを拒んだために処刑されました。10年の拘禁刑を宣告された兄弟たちもいました。投獄された兄弟たちが生存する見込みはごくわずかでした。戦中戦後のウクライナでは,自由な人々でさえ飢えていたからです。1944年,ブコビナの一会衆の兄弟たち7人が軍に入隊するのを拒み,拘禁刑を言い渡され、そのうち4人は刑務所内で餓死しました。同じ年に,近くの会衆の兄弟たち5人が,シベリアの収容所における10年の懲役を宣告されました。戻ってこられたのは一人だけで,他の兄弟たちはそこで亡くなりました。


  1947年6月,あるエホバの証人の兄弟が,文書を定期的に届けている証人たちの住所を教えるなら,エホバの証人の組織を法的に登録するという保安局の申し出を信じて,国の責任者をはじめ30人近いエホバの証人の兄弟たちの住所を教えました。後に,それらの兄弟たちはみな逮捕されました。逮捕された兄弟たちはキエフの刑務所に連行され,さらに取り調べや法廷審問を受けました。


  その後ほどなくして,責任者のブラク兄弟は刑務所で亡くなりました。国家の秩序を乱しているという虚偽の告発が証人たちに対してなされ,大勢が死刑を宣告されました。しかし死刑宣告は,収容所における25年の懲役へと減刑されました。


  証人たちが勾留された理由は,文書を印刷していたからだけでなく,軍に入隊せず,選挙で投票せず,子どもたちを共産主義青年同盟の組織に加入させなかったためでもありました。ただエホバの証人であるというだけで,投獄される十分の理由となりました。


  1947年から1950年にかけて,当局は1,000人余りの証人たちを逮捕しました。それでも,エホバの証人の数は増え続けました。そのため1951年に,当局は秘密裏に残っている証人たちを東へ5,000?,遠くロシアのシベリアへと流刑にするという計画を進めて,エホバの証人の組織を打ち砕こうとしました。


  1951年4月8日,ウクライナ西部から6,100人余りの証人たちがシベリアへ追放されました。朝早く,兵士を乗せたトラックがエホバの証人の家々に乗りつけ,それぞれの家族はわずか2時間で旅支度をするよう命令されました。持って行くことが許されたのは,貴重品と身の回りのものだけでした。家にいた人は全員,男性も女性も子どもも流刑になりました。速やかに,わずか1日で貨物列車に集め入れられ,送り出されました。ウクライナ以外にも,モルダビア,ベラルーシ西部,リトアニア,ラトビア,エストニアの六つの共和国から,合計およそ9,500人の証人たちが軍の護衛の付いた貨物列車に乗せられて送り出されました。


  エホバの証人たちの大半がシベリアへ流刑にされたため,残された人の多くは組織との接触を失いました。1951年から1960年代の半ばにかけて,兄弟たちの大半は投獄か流刑に処されていたため,多くの会衆では姉妹たちが率先して物事を行なっていました。(エホバの証人は、男性の証人を兄弟と呼び、女性の証人を姉妹と呼びます。)


  ミハイル・ダーセビッチは,こう回想しています。「地域にいた証人たちのほとんどがシベリアへ送られました。そのため,組織と接触を失った個々のエホバの証人を捜し出して,書籍研究の群れや会衆を編成しなければなりませんでした。それはつまり,巡回監督の責任を果たすことを意味していました。でも,その仕事を行なうようだれかから任命されたわけではありません。毎月すべての会衆を訪問し,報告を集め,まだ手元にあった文書を会衆から会衆へと分配しました。しばしば姉妹たちが会衆の僕の仕事を行ない,一部の地域では巡回の僕の責任も果たしました。兄弟たちがいなかったからです。わたしたちの巡回区では,安全上の理由で,会衆の僕たちの集まりはすべて夜に墓地で行ないました。」

 
  それで、主の日に野獣の崇拝を退けるという難しい挑戦に応じたエホバの証人がいたということが分かります。彼らも普通の人々でした。彼らの多くは難しい時期を忠誠を保って生き残りました。それで、彼らの模範は、難しい時期に野獣の崇拝を退けるように、クリスチャンを励ますものとなっています。