[イエス]がオリーブ山の上で座っておられたところ,弟子たちが自分たちだけで近づいて来て,こう言った。『・・・あなたの臨在と事物の体制の終結のしるしには何がありますか。』」(マタイ24:3)


 弟子たちがイエスに、「あなたの臨在と事物の体制の終結のしるしには何がありますか」と質問しました。これは、新世界訳です。この部分を新共同訳は、「あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。」と訳しています。新改訳では、「あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」と訳しています。


 新世界訳では、臨在という言葉は、ある程度の期間を示唆しますが、新共同訳や新改訳では、単なる「来られる時」すなわち、到来が強調されています。これは、どちらの訳が妥当でしょうか。エホバの証人の主張している通り、臨在にはある程度の期間が関係しているのでしょうか。考えてみましょう。


 「臨在」と訳されている元のギリシャ語はパルーシアで,これはパラ(傍らに)とウーシア(いること)から成る語です。したがって,パルーシアは,字義通りには「傍らにいること」を意味します。この語は、新約聖書の中で24回使われています。


 イエスのパルーシアが、単に瞬間的に到来し、その後直ちに出発することではなく、むしろある期間を包含する臨在であるということは、マタイ 24章37〜39節に記録されているイエスの言葉から分かります。マタイ24章37節には、「人の子の臨在はちょうどノアの日のようだからです。」述べられています。(新世界訳)


 当然、ノアの日というのは、一瞬のことではありませんでした。ノアが箱船を作り、宣べ伝えるという一定の長い期間を意味していました。また、それは、人々が「食べたり、飲んだり、めとったり、嫁いだり」する期間を意味します。イエスは、ご自分の「臨在」とノアの日の比較を単に、ノアの日の最終的な最高潮としての大洪水の到来だけに限定しておられるわけではありません。「ノアの日」は実際に幾十年もの期間を包んでいたので、予告されていた「人の子の臨在」も同様に、注意を払わない者たちの滅びのときに最高潮を迎える、ある程度の長さの期間を意味していると考えることでできます。


 イエスの臨在には当然,イエスの臨在する場所への到着という意味合いが含まれていますが,パルーシアを「到来」もしくは、「来られる」と訳すなら、到着だけに強調が置かれ、到着の後に続く臨在が不明瞭になります。


 聖書は、このパルーシアという語を他の箇所でどのように用いているでしょうか。パウロはフィリピ 2章12節で、フィリピのクリスチャンは,「わたしのいる[パルーシアーイ]時だけでなく,わたしのいない[アプーシアーイ]今いよいよ進んで」従っていると述べています。ですから,ここで対比されているのは,いることと,いないことであって,到着(到来)と出発ではありません。こうした対比は、パルーシアという語が、単に到着することではなく、ある程度の期間いることを意味していることを示しています。

この点を考慮に入れ、J・B・ロザハムのエンファサイズド・バイブルは、付録(271ページ)の中でこう述べています。「この版では、パルーシアという語は一貫して“presence”[臨在,いること]と訳されている(この語の訳語として、“coming”[到来]は除外されている)。……“presence”の意味は,“absence”[いないこと]との対比によって,非常に明確に[示される]ので,……その語をいつでもそのように訳さないのはなぜかという疑問が当然生じる。」それで、新世界訳以外でも、ある訳は、パルーシアを臨在と訳しています。

 
 また、イエスは冒頭の弟子たちの質問に答えて、イエスのパルーシアのしるしてして、国際的な戦争や、食糧不足や地震、クリスチャンが全地で憎まれ迫害されること、王国の良いたよりが全地で宣べ伝えられることを予告されました。(マタイ24:7,9,14)こうしたしるしが成就するのにも、数十年もの時間がかかるでしょう。それは、100年以上の期間が必要かもしれません。


 それで、パルーシアの訳語として、来ることではなく、臨在と訳し、イエスの臨在の期間は、エホバの証人の主張する通り、西暦1914年に始まって非常に長い期間が経過すると考えるのは、道理にかなっていると言えます。


 ※イエスのパルーシア、臨在がなぜ西暦1914年に始まったと言えるかについては、ブログの2009/12/19をご参照ください。イエスの臨在のしるしについては、カテゴリー「主の日における預言」をご参照ください。