モアブ碑石(メシャ碑文)は、モアブの王メシャの作成したほぼ3,000年前の碑文で、1868年にディボンの遺跡の中で発見されました。モアブ碑石は、聖書の歴史や場所の多くの点を裏付けています。また、モアブ碑石は、神のみ名が使われている聖書以外の最古の記録でもあります。


 モアブのメシャ王は,自分がイスラエルの支配を打破したことを記念し,自らの神ケモシュのためにモアブ碑石を建てました。モアブ碑石は、黒光りする玄武岩でできており、頂上部が丸く、高さは112センチ、幅は71センチ、奥行きは36センチです。
石碑の本文はヘブライ語と同系統の言語であるモアブ語で、34行の碑文が刻まれています。


 モアブ碑石は一度壊されましたが、復元され、現在もパリのルーブル美術館に展示されています。また、ロンドンの大英博物館でも、その複製品を見ることができます。





meshastele

mesha stele





 モアブ碑石の内容は普通、列王第二 3章に記されている出来事のあった時期の事柄であるとされています。聖書が述べていることは、メシャの宣伝調の碑文とは少し異なっています。聖書はモアブ人が屈辱的な敗北を被ったことを伝えています。


 聖書によると、モアブの王メシャは、イスラエル王国に隷属していた時、アハブ王に子羊10万頭と、毛を刈っていない雄の羊10万頭を貢ぎ物として支払いました。しかし、アハブが死ぬとすぐ、メシャはイスラエルの王アハジヤに反逆しました。(列王第二 1:1; 3:4,5)しかし、アハジヤは長く支配せずに死に、その後を兄弟のエホラムが継ぎました。


 エホラムは、メシャを再び服従させるために、ユダおよびエドムの王と同盟し、モアブを攻めます。同盟軍は、行軍の途中で水が尽きてしまいました。しかし、預言者エリシャは、彼らを助け、乾いた奔流の谷が水で満たされました。(列王第二 3:5‐11,16-20)翌朝、日の光が水面に映り、モアブ人はそれを血だと錯覚し、イスラエルとユダとエドムの連合軍が同士討ちをしたのだと考えました。モアブ人は油断して、イスラエルの陣営に入りましたが、敗走させられました。イスラエルは追撃して、モアブ人の諸都市を滅ぼし、彼らの泉をふさぎ、良い土地に石を満たしました。(列王第二3:21-25)


 それでメシャは、剣士700人を引き連れ、エドムの王のところに突入しようとしましたがそうすることができませんでした。「ついに彼は、自分に代わって治めることになっていた長子を取り、その子を城壁の上で焼燔の犠牲としてささげ」ました。何らかの理由で「イスラエルに対する大いなる憤りが臨み」、攻囲は放棄されました。(列王第二 3:26,27)


 モアブ碑石の中でモアブの王は自分を「
モシャ」と言っています。聖書ではこのモアブの王は「メシャ」と発音されてきましたが、ギリシア語70人訳で「モサ」となっているようにモアブ語で「モシャ」であったと思われます。


 また
、碑文の中に「イスラエルの王」「オムリ」の名前が出てきます。そして、彼は、オムリとその子の時代、すなわち聖書によればアハブの時代にモアブがその支配下に置かれていたことを認めています。


 メシャはその碑文の中で,自分が非常に信心深いこと、都市や街道を作ったこと、
そして、オムリの子らの時代に、40年間続いたイスラエルの支配を撃ち砕いてイスラエルに対して勝利を収めたことについて誇っています。そしてこの点で、すべての誉れを自分の神ケモシュ(カモシュ)に帰しています。聖書は「モアブ」の神が「ケモシュ」であると述べています。(列王第一11:7,33)


 日本人の考古学者による碑文の訳文がネットで公開されています。「モアブの王メシャの石碑 和田幹夫」です。確認されてみてください。


 その中にも、「イスラエルの王」「オムリ」の名前と、「アタロト、ネボ、アロエル、
マヘダバ、ディボン、バト・バアルマオン、ヤハツ、キルヤタイン、ベツェル、バアルマオン、ハウロナイン(ホロナイム)、バト・ディブラタイン(ベト・ディブラタイム)、キリヨト(ケリヨト)」の地名が確認できます。それらの地名はイスラエルの領地にある都市であり、それらの場所は聖書に記載されています。(民数記32:34,37,38。ヨシュア 13:9,17‐19,20:8。イザヤ 15:5。エレミヤ 48:22,24)このようにモアブ碑石は聖書に登場する場所の史実性を裏付けています。


 メシャは、また、イスラエルの神エホバについて言及しました。その文書の第18行目に四文字語テトラグラマトンが記されています。その部分でメシャは,「わたしはそこからヤハウェの[器]を取り,それらをケモシュの前に引いて来た」と豪語しています。
日本人の考古学者は「わたしはそこから18ヤーウェの英雄たち(?)を捕らえて、カモシュの前に連れ出した。」と訳出しています。聖書以外の文書で神のみ名が使われている例としては,これが恐らく最古の記録であろうと思われます。


 しかし、碑文は、モアブの神ケモシュと王メシャに栄光を帰するものであったため、モアブの王は自分の敗北や息子を犠牲にしたことは省いています。「聖書考古学レビュー」誌(1986年5/6月号,57ページ)は次のように述べています。「支柱なしで立っている石や神殿の壁の記念碑文は、宣伝を目的として、また国民の神と国の支配者を栄化するために造られた。したがって、メシャが、自分の国に対するイスラエル、ユダ、エドムの王たちの軍事行動に何も触れていないのも驚くにあたらない。一方,聖書はそのことを詳しく述べている」。


 古代のモアブ碑石は、モアブ人の神ケモシュと、王メシャをたたえるために、作られましたが、はからずも、聖書の歴史的正確さを裏付けています。私たちは聖書の記録が詳細な点に至るまで、正確であリ、実際に起きたことであることを信頼できます。




創世記7章・ノアの大洪水が実際に起きた証拠


イザヤ46章・キュロスに関する預言とその成就―その2


列王第二18章・ニネベとセナケリブに関する聖書の記述の真実性


結婚生活を幸福なものにする(1)−そのための鍵