ヨハネのブログ―聖書の預言の希望

聖書朗読を行って聖書預言の意味について分かったことを発表しています。最近は新型コロナの実際的な対策や聖書的な対策の記事も出しています。

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聖書と考古学

イザヤ46章・キュロスに関する預言とその成就―その2

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「昔の最初のことを思い出せ。わたしは神たる者であり,ほかに神もわたしのような者もいないことを。終わりのことを初めから,また,まだ行なわれていなかったことを昔から告げる者。『わたしの計り事は立ち,わたしは自分の喜びとすることをみな行なう』と言う者。」
(イザヤ469
10)


   エホバ神は事前におよそ200年前に、キュロスという名前の人物を用いてバビロンの川を減水させ、バビロンに成功裏に侵入させ、倒壊させることを予告されました。その目的は、バビロンに捕らわれていた神の民を解放させ、故国に帰還させ、イスラエルの地で再びご自分の清い崇拝をスタートさせることでした。エホバの預言が成就したことは、エホバが救う力を持たれる真の神であり、他にエホバのような者はいないことを証明しました。


   このことが実際に起きたことを証明する考古学的証拠があります。その中で今回はナボニドス年代記とキュロスの円筒印章を調べてみましょう。


   ナボニドス年代記とは、別名「クロス‐ナボニドス年代記」また「クロスの年譜刻板」と言います。この粘土版の断片は幅の最も広い箇所で約14センチあり,高さも大体それと同じで、大英博物館にあります。これは非常に短い碑文ながら,バビロン倒壊に関する楔状文字による現存の記録としては最も完璧なものです。この碑文はとかくクロスをたたえる一方,ナボニドスのことを侮べつ的な調子で述べているところから,これをペルシアの書記の作,または「ペルシアの宣伝」とさえみなす見解が出されています。とはいえ,この「情況資料」は信頼性があると考えられています。


   ナボニドス年代記によれば,キュロスはタシュリツの月、オピスでバビロニア軍を攻撃しました。碑文はこう続けます。「14日目,戦わずしてシッパラは占領され,ナボニドスは逃げた。16日目,グティウムの総督ゴブリヤス(ウグバル)とクロスの軍隊は戦わずしてバビロンに入城した。その後,ナボニドスはバビロンに戻って捕えられた」―ジェームス・B・プリチャード編,「古代近東本文」306ページ。


   このようにナボニドス年代記はペルシャのキュロスの軍隊が「戦わずして」バビロンに入城したこと、同時に,ナボニドスがバビロン倒壊のさい,その都にいなかったことを示しています。ですから、この碑文は、聖書がなぜナボニドスの名前に触れていないのかを説明するものとなっています。しかしながら,聖書は,ベルシャザルが王国の第3の地位をダニエルに提供したとしている点で,ナボニドスの存在を示唆しています。その王国の第1の地位はナボニドスによって,また第2の地位はベルシャザルによって占められていたので、ベルシャザルはダニエルに第2の地位ではなく、第3の地位を提供したのです。(ダニエル 516)


   キュロスについて、証言しているのは、他に、イランの国宝とたたえられる「キュロスの円筒印章」です。実物は英国ロンドンの大英博物館が所蔵し、複製品が米国ニューヨーク市の国連本部にも展示されています。

 
   キュロスの円筒印章は、トウモロコシほどの大きさをしており、粘土製で、表面には楔形文字が刻まれています。それは、英国のマグナカルタが制定される
2000年前に作られた、人類初の人権宣言とも称されます。表面には、宗教と民族の自由を呼びかける文字が刻まれ、奴隷制度やあらゆる種類の弾圧、代償なしに財産を奪うことなどを禁じています。


   翻訳された本文は一部次の通りです。「わたしはキュロス,世界の王,大いなる王,正統な王,バビロンの王,シュメールとアッカドの王,(地の)四つの縁の王……わたしはチグリスの他の河畔の[以前,名を付けられていた,ある]幾つかの都市,つまり久しく廃虚と化していたそれらの都市の聖所に,かつてそこにあった像を戻し,それらの像のために恒久的な聖所を設置した。わたしは(また),それらの都市の(以前の)住民すべてを集め,彼らの居住地を彼らに返した」。


   キュロスの円筒印章はこのように、捕らわれの状態に置かれた諸民族を元の場所に帰らせるという王の政策について明らかにしています。その政策と一致して、キュロスはユダヤ人に、エルサレムへ帰り、そこでエホバの家を再建せよとの布告を出しました。(エズラ123)


   このようにナボニドス年代記とキュロスの円筒印章は、バビロンが突然に倒壊し、キュロスがイスラエル人をバビロンから解放し、故国に戻してエホバの崇拝を再興させたとする聖書の記述を裏付けています。


   それらの証拠は、エホバ神は、ご自分の計り事を前もって告げ、それを成し遂げることの出来る方であることを裏付けています。


   この方だけが真の救い主で、真の神であられます。エホバ神は今日においても、ご自分の預言の言葉を成し遂げることがおできになるでしょう。また、ご自分の民を守られ、ご自分への崇拝が存続するように取り計らわれることがおできになるでしょう。

創世記11章・アブラハムの故郷は実在の場所ウル

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「後にテラは,その子アブラムと,ハランの子で自分の孫のロトと,その子アブラムの妻である嫁のサライを連れ,一行は彼と共にカルデア人のウルを出てカナンの地に向かった。」(創世記11:31)


  アブラハムは聖書に登場する主要な人物の一人です。


  聖書によるとエホバ神はアブラハムに、住んでいた「カルデア人のウル」から出るようにと指示を与えました。(ネヘミヤ9:7)アブラハムはエホバ神の指示に従い、父親のテラと、甥のロトと、妻のサライを連れて「カルデア人のウル」から出ました。(創世 11:31;12:1)


  そして、アブラハムは、神の示された土地で天幕生活をすることになりました。エホバはアブラハムに将来彼の子孫に、アブラハムが歩き回ったカナンの土地を与えることを約束されました。それで、アブラハムの子孫であるイスラエル人が約束の地を取得することになりました。

  では、アブラハムは実在の人物だったでしょうか。

歴史家は長い間、アブラハムを物語上の人物だと言っていました。しかし考古学者たちのツルハシとシャベルはアブラハムの故郷カルデア人のウルを明らかにしました。

1922年から1934年にかけて,英国の考古学者レナード・ウーリー卿はユーフラテス川の西岸からほんの数キロしか離れていないテル・エル・ムカッヤール(「歴青の塚」)がウルの遺跡であることを証明しました。Wikiによると、それはテル・エル=ムカイヤル(Tell el-Mukayyar、ムカイヤルの丘)と呼ばれています。そして、アブラハムが後にしたウルは隆盛を極め,世界貿易の中心地で,高度に文明化の進んだ都市であったことを明らかにしました。


 そこでは、
ウル王墓と呼ばれるシュメール初期王朝時代の墓が発見されており、当時の社会や王達についての情報が多く得られています。しかし1991年の湾岸戦争の時、多国籍軍のミサイルの破片が当たり、大小数百の穴があいてしまいました。



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                   Ruins in the Town of Ur, Southern Iraq

M.Lubinski from Iraq,USA. -

Flickr
ウルの遺跡イラク南部



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"Abraham's House" in Ur, photographed in 2016.

ウルのアブラハムの家と言われている所




  ウルはバビロンの南東約240キロ、ユーフラテス川の現在の川床の西にあります。その遺跡の広さは約910メートル×730メートルです。その場所はかつて月神ナンナ(または,シン)の崇拝の中心地でしたが,今でも,縦61メートル,横46メートル,高さ21メートルほどの神殿塔,すなわちジッグラトがその遺跡の最も際立った特色となっています。


  発掘者たちはウルの王墓に金,銀,ラピス・ラズリ(青金石)の品や他の高価な物品を数多く見つけたほか,その都市の初期のシュメール人の王や女王たちが従者である男女の僕たちと一緒に埋葬された証拠を発見しました。


  その場所で発見された粘土板によると、そこには男子に文字と算数を教える学校がありました。粘土板の中には楔形文字の書き方を教えるために使われたものもありました。他の粘土板からは,生徒が掛け算と割り算の表を持っていたこと,そして平方根や立方根の計算をしていたことが分かります。粘土板の多くは商業上の文書です。


  さらに,ウルでの発掘調査によると、個人の家と思われるものの遺跡は,れんがでできており,しっくいと水しっくいが塗ってあり,舗装された中庭を囲むようにして13ないし14の部屋があったことを示しています。

  ウルの建築家たちが,円柱・アーチ・丸天井・ドームなどを使用したことも分かりました。ウルの職人たちは,極上の宝石,凝ったデザインのたて琴,純金の刃でできた短剣などを製造しました。幾つかの家屋から,考古学者たちは陶製の下水管を発掘しました。その管は下方の,深さが12メートルもある大きな汚水溜めにつながっていました。

これらの発見により,多くの学者はアブラハムに対する見方を改めました。

  レナード・ウーリー卿は,自著「過去を掘り起こす」の中で,「これまでアブラハムと言うと,ただの天幕生活者と考えがちであったが,実は,都会の洗練されたレンガ造りの家に住んでいたのかもしれない」と書いています。


  考古学者のアラン・ミラードは,自著「聖書時代の遺物」の中で,「アブラハムは,高度に発達した都市と,そこで得られる安全で快適な生活すべてをあとにして,立場の低い遊牧民になったのである」と述べています。


  アブラハムの故郷であるウルという都市について,歴史家たちは長い間疑念を表明してきました。しかし,考古学者のシャベルは聖書が正しいことを証明しました。

 

 

創世記7章・世界的な大洪水が実際に起きた証拠

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「そして,水は地に大いにみなぎって,全天下の高い山々がことごとく覆われるようになった。・・・ そのため,地の上を動くすべての肉なるものは,飛ぶ生き物も,家畜も,野獣も,地の上に群れなすすべての群れも,そして人もみな息絶えた。」(創世記7:19,21)


   聖書の年代計算によると西暦前2370年、ノアの時代に世界的な大洪水がありました。その時の水は全世界の山をことごとく覆ったと聖書は述べています。ですから、ノアの時代の洪水は局地的なものではなく、世界的な洪水でした。


   聖書の述べる世界的な洪水は実際に起きたのでしょうか。
 


   聖書によると、大洪水の前は地球全体が高空の水蒸気の雲で覆われていました。それは、創造の第二日目の「大空の上方に来る水」でした。(創世記1:7)その高空の水蒸気の層のために、地球は世界的な規模の“温室”のような状態になっており、ノアの大洪水の前は、地球全体の気候は一様だったと考えられます。


   そのために、今は極寒の地である極地地方も温暖であったと考えられます。その「大空の上方に来る水」は、創造者の指図を受けて崩壊し、ノアの日の世界的な大洪水の水となりました。(創世 71112)そのため、地上にいた肉なるものはすべて滅びてしまいました。では、それが現実に起きたという証拠があるでしょうか。


   世界的な大洪水の証拠は世界中に見られます。バイロン・C・ネルソン著の「石に記された大洪水の物語」からの引用をご覧ください。


   「英国,スコットランド,ウエールズ,ドイツ,スイス,アメリカのロッキー山脈の岩石の中に何百万もの魚がうずもれている様子や,アラスカ,シベリア,英国,イタリア,ギリシャで何百万頭もの象やサイがうずまっている様子……カナダ西部,アメリカ,南米,アフリカ,オーストラリアで何百万匹もの爬虫類がうずまっている様子からすると,これはこうした事例のほんの二,三の実例に過ぎないが,そのなぞを解くには,大変災があったとする説明が絶対に必要である。」



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世界中に何百万もの動物の骨がうずまっている層があります


 


   また、動物たちが広範囲にわたって水のために滅びたことを示す特異な証拠として、シベリア北部からアラスカにかけて広く発見されるマンモスの死骸があります。何十万頭(五百万という推定もあります)というマンモスが凍った土の中に突然に埋められ,急速に冷凍にされています。時としてそれはほとんど完全に近い保存状態で発見され,胃の中や歯の間に未消化の熱帯植物の残っているのが見られます。


   「最も不可解な地球の神秘」はどんな災害がその原因となったかについてを示唆して次のように述べられています。「恐竜の化石とマンモスの化石すべてについていつも認められるひとつの重要な事実がある。それは、どの化石もほとんどすべての場合、水に浸された水成岩の中から発掘されたということである。」


   また、科学誌にも次のような注解が載せられました。サイエンティフィック・マンスリー誌,1949年8月号 「当時,地球上の陸地の表面の大半の気候は熱帯性もしくは亜熱帯性気候であった。」


   シャンス・エ・ヴィー
誌,1966年7月号 「[南極]はかつて,草花の間を小川が流れ,木々の間では鳥が鳴く緑の大地であった。」


   極地地方に何十万頭ものマンモスが生息していたこと、胃の中や口の中に熱帯植物が残っているということは、科学誌が述べるとおり、昔は極地地方が温暖で緑が豊かであったことを示しています。それで、以前は緑の豊かな地方に生息していた恐竜やマンモスが大洪水のために、砂や土に閉じ込められたと推測できるわけです。


   その時、地球の温室のビニールハウスの役目をしていた「大天の上方に来る水」は、神の命令によって下方に落ちてしまいました。そのため、極地地方は突然に寒冷化して、マンモスを凍結土に閉じ込めたのだと考えられます。


   ですから、聖書の述べるノアの日の大洪水の証拠が現に世界中に存在するわけです。極地地方に、また全世界に証拠があります。


   ノアの日の大洪水は物語ではなく、本当に起きたことです。

 

歴代第二9章・バルサム油や金や宝石を贈り物にしたシェバの女王の王国はどこにあったか

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   歴代第二9章によると、シェバの女王はバルサム油や金や宝石を大量にらくだに積んでやってきてソロモン王への贈り物としたと記されています。(歴代第二9:1)シェバというのはどこでしょうか。そこには、バルサム油や金や宝石が豊富に産出したのでしょうか。調べてみましょう。

 


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シェバの女王はソロモン王にバルサム油と金と宝石を大量に贈り物として持ってきました
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 シェバ王国の所在については有力視される2つの説があります。南アラビアのイエメン説と、アフリカのエチオピア説です。イエメン説によればシェバの女王はビルキス(あるいはバルキス)と呼ばれ、エチオピア説によればマケダ(あるいはマーキダ)と呼ばれています。どちらの場所もそれらしい証拠があります。

 

 歴代第二の記録によると、女王はソロモンに金120タラント(現在の価値に換算すると4,6242,000ドル)を持ってきました。また、彼女はバルサム油も持ってきました。バルサムとは、芳香性の多くの草や木に当てはまります。バルサム油は香料として用いられ、乳香の木のことであると考えられています。(エレミヤ8:22)



 

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       Ancient Treasures by lowjumpingfrog (frankincense)
バルサム油とは乳香のことだと考えられており生活の中で香料として昔から珍重されています

 


 

 聖書の他の記録も、シェバは、乳香などの香物、金、宝石を商う商人であったと記されています。そして、彼らの商業活動は、ティルスにまで及んでいました。(エゼキエル 27:2; 27:22‐24詩編 72:15。イザヤ 60:6

 

 ですから、シェバは、そうしたものが豊かに産出する場所であり、あるいは、少なくともそれらを他の国から仕入れて売ることのできた場所でなければなりません。

 

                       イエメン説

 

 イエメンには、マーリブという町にシェバの女王のものであったとされる、太陽の神殿と月の神殿があります。マーリブとは、北イエメン東部サヌアから約120km高原にある町です人口13000(1975)です。太陽神殿(マハド・シャムシュ)は65もの部屋が発見されていることから太陽の宮殿とも呼ばれています。遺跡は柱が8本残っているだけでしたが、最近地中に埋まっている部分の発掘が進み建物部分を見ることが出来ます。


 

  月の神殿はアルシュ・ビルキスといい、ビルキスの椅子という意味です。現地の人々は、ビルキスをシェバの女王の名前だと考えています。

 

 

 イエメンでは、乳香は生活の一部としてごく普通に使われているものだそうです。お客を歓待するために、さりげなくくゆらせたり、衣服に炊き込めたりして、一般の人々が乳香を楽しんでいるそうです。


 

 しかし、古代では、もっと乳香が交易に用いられていました。西暦前一世紀のディオドロスは、「世界史」の中でこう書いています。「アラビア人の中で最も有名なのはサバ人の国である。彼らは幸福なアラビアとして知られている土地に住んでいる。・・・内陸全体は深い森林に覆われ、そこには、乳香と没薬を生じる大樹や椰子、シナモンの樹などそれとこれと同じような香りを持つあらゆる植物がある。」

 

 また、南アラビアのイエメンの東隣の国はオマーンです。オマーン南西部ドファール地方の一帯が、2000年、「乳香の道」としてユネスコの世界遺産に登録されました。ドファール地方は、昔から、良質な乳香の産地として知られており、このローマ帝国への通商路が確立した紀元12世紀に乳香交易で海と陸の通商路として栄えていたということです。


 

 やはり、オマーンでは、金が少量ですが産出します。また、オマーンの都市マスカットには、宝石店も金細工店も、香料を扱う店もあります。


 

 さらに、アッシリアのサルゴン2世は、『粉塵の様な形の黄金、宝石、象牙、黒檀の種、全ての種類の芳香物質、馬および駱駝をシバのイタマール・ワタール1世から受け取った』という記録が残っています。また、センナケリブは、アッシュールに神殿を建てたのを記念した基礎の碑文に『シバの王カリビルから贈られた宝石と素晴らしい香辛料を神殿の基礎の上にばらまいた』と書き記しています。

 

 このシバ王国もしくはサバ王国は、南アラビアのイエメンにあったと考えられています。

 

紅海沿岸の歴史 その9 再論:サバ王国




 


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  NormanEinstein (yemen)
イエメンは昔から香物の木がたくさんはえておりアッシリアの王に香料や金や宝石を貢いだという記録が残っています
 


 

 ですから、イエメンでは、現在は、金や宝石が産出すると言う証拠がなく、オマーンに産出する金と宝石は少量ですが、古代においては貢物にすることができるほど金と宝石が産出していた、あるいは他の土地から入手していたという証拠があります。それで、私はシェバの王国は、イェメンであるという説の方が可能性が高いと思います。

 

                         エチオピア説

 

 次にエチオピア説ですが、エチオピアでは、ソロモン王とシバの女王の間に生まれた子供が、メネリク1世であり、成人したメネリクは、父のソロモン王を訪問し、多くのユダヤ人をエチオピアに招いたとされています。そして、実際に多くのユダヤ人がエチオピアに近代に至るまで存在していました。




 

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(ethiopia)エチオピアには近代までユダヤ人のコミュニティがあり乳香や金や宝石が今でも産出します





 この伝承は、紀元前5世紀頃に建国されたアクスム王国の王室と、1270年にエチオピア帝国を建国した、イクノ・アムラクによって確立され、両者はともにメネリク一世の直系の子孫であると主張しています。

 

 確かに、聖書には、「ソロモンは,ファラオの娘と共に多くの異国の妻たち,すなわちモアブ人,アンモン人,エドム人,シドン人,[および]ヒッタイト人の女を愛した。」こと、また、「七百人の妻,すなわち王妃たちと,三百人のそばめを持った。」ことが記されています。(列王第一11:1,3)

 

 さらに、聖書は恋人のいるシュラミの娘にソロモン王が、王妃にして性関係を持ちたいという願いを言い表したことをはっきりと記録しています。(ソロモンの歌7:8,9)
 

 

 しかし、聖書は結婚関係外にない男女の間の姦淫や淫行を非としています。(出エジプト20:14)聖書はダビデが、バテシバと姦淫をしたことを隠さずに記録し、非難しています。(サムエル第二12:9,10;詩編51:1)

 

  そして、ソロモンが神の律法からはなはだしく違反したのは、晩年ですから、シェバの女王が来訪した時には、まだ神に忠実であったのではないかと思います。それで、ソロモン王は淫行や姦淫を禁ずるモーセの律法に従っていたはずです。ソロモンがシェバの女王をめとらずに、一時的な性関係を持つ、つまり、淫行をするとは考えられません。


 

 そして、聖書の正直さを考えるならば、もしソロモン王がシェバの女王を妻としたのであれば、そのことを聖書は隠さずに記録したのではないかと思います。ソロモンがシェバの女王を妻とするというような重要な出来事を聖書が記録から省く可能性も低いと思います。


 

 でも、シェバの女王が随行員の誰かをソロモン王に王妃か妾として差し出して、そのことが記録されなかったということは考えられるかもしれません。それで、エチオピアの記録は、後世に事実を曲げて記録された可能性もあります。


 

 しかしながら、エチオピアでは、現在でも、乳香も金も宝石も産出します。それで、エチオピア説の根拠はあると言えます。


 

 こうしたことを総合的に考慮するなら、私はシェバの女王の故郷はイエメン説が正しいのではないかと考えますが、今ひとつ断言できない部分もあります。いずれにしても、イェメンにしても、エチオピアにしても、ソロモンの時代に、バルサム油や金や宝石の贈り物を持ってくるシェバの女王の王国は、確かに存在し得ました。



聖書の歴史を裏付ける考古学的証拠品が豊富な大英博物館

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 大英博物館には聖書の歴史を裏付ける考古学的な証拠が豊富に展示されています。大英博物館はロンドンのグレートラッセル通りにあります。古今東西の美術品書籍や略奪品など約800万点が収蔵されています。そのうち常設展示されているのは約15万点です。 来館者の約56%が外国人観光客といわれています。このため各国語版の案内書も充実しており、この中には日本語版(£6)もあります。


 最寄の地下鉄駅はTottenham Court Road (500m) Holborn (500m) Russell Square (800m) Goodge Street (800m) です。見学は無料で10:00から17:30まで毎日開館しています。金曜日は2030までです 。閉館日は、元旦、24日、25日、26日。 電話は+44 20 7323 8299

       



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P80801861-The entrance to The British Museum by gailf548 (BritishMuseum2)

大英博物館の入口−大英博物館には聖書を裏付ける考古学的証拠品が豊富にあります




  大英博物館に正面入り口から入ると広間のGreat Courtに出ます。ここは円形の広場で天井には、格子のガラス張りがあり、販売店などがあります。


 それより左の展示室群は古代ギリシア、古代エジプトコーナーとなっています。古代エジプトの展示物が一階のルーム4にあります。古代アッシリアの展示物が一階と二階の一部にあります。古代ギリシャと古代ローマの展示物も一階にあります。



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              British Museum by Яick Harris (britishmuseum3)

                   大英博物館のグレートコート




大英博物館館内図





 広くて1日では回りきれないので、パンフを手に入れた後、Room94まである各部屋のどこを回るか決めていく必要があります。



  エジプトの展示物には、ラムセス二世の関連の石と有名なロゼッタ石があります。


 教会史家の中にはラムセス二世がモーセが対決したファラオではないかと考える人がいますが、そのファラオは紅海で死んでしまったので、長生きしたラムセス二世ではないでしょう。しかしラムセス二世の繁栄は、聖書が述べる通りエジプトのファラオが権勢を振るったことを証明しています。



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                    Bust of Ramesses II by Biker Jun(Ramesses II1)

   ラムセス二世の胸像−彼の権勢はエジプトのファラオの権勢を物語っている



 

 ロゼッタストーンは、ナポレオンのエジプト遠征で発見した黒色の記念碑でエジプトの神聖文字(ヒエログリフ)と民衆文字(デモティック)と古代ギリシャ語の3種類で文字が彫られていますロゼッタ石はエジプトのプトレマイオス五世を崇拝するように勧めています。聖書が述べている通りロゼッタ石もファラオがエジプトで権勢を振るっていたことを証ししています。



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    British Museum 069 Rosetta stone by David Holt London(rosettastone)

    ロゼッタストーン−エジプトのファラオを崇拝するように勧めている


 


 

 古代アッシリアのコーナーには、シャルマネセル三世Shalmaneser IIIの銅の門があります。またその同じ王の黒いオベリスクがあります。そのオベリスクには、イスラエル王エヒウがシャルマネセルに平伏し、貢物を献上する様子が刻まれています。その石碑は、ニムルド(アッシリアの首都カルフの遺跡)から出土しました。



 エヒウは『オムリの家のイエフ(エヒウ)』と、エヒウ自身が滅ぼしたアハブ王朝の父親の名前の下で紹介されています。聖書の述べるとおり、聖書に記録されたエヒウやオムリというイスラエルの王が実在したことを証明しています。(列王第一16:23,29。列王第二10:10,11)



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Jehu on the Black Obelisk of Shalmaneser III by Averain(ShalmaneserIII)

エヒウがアッシリアのシャルマネセルに平伏する様子が描かれている−イスラエルの王エヒウとオムリが実在したことを証明している




  また、ティグラトピレセル三世Tiglath-pileser IIIの石板があります。彼は聖書に出てくるプル王だと考えられています。(列王第二15:19。歴代第一5:26)イスラエルの王メナヘムはアッシリアが攻めてきたとき、アッシリアの王プルに銀を払ったので彼は引き返しました。(列王第二15:20)               


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       Stone panel from the Central Palace of Tiglath-pileser III (pul)

ティグラトピレセル三世の宮殿の石板−彼はプルだと考えられているが銀をもらってイスラエルの攻撃から引き返した




 ルーム9には今の北のイラクにあるニネベのセナケリブ王の宮殿展示物があります。セナケリブは聖書によるとユダのヒゼキヤ王の時に、ユダに攻めてきました。(歴代第二32:1-2)その時のアッシリア側の説明となっているテイラープリズムも大英博物館あります。

                   



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Bas-Reliefs from Sennacherib's Palace by Averainsennacherib)セナケリブの王宮のレリーフ                     



 ナホム書の中で、アッシリアは獲物をかき裂くライオンとして描かれていますが、古代アッシリアの王たちはライオン狩りをスポーツとして楽しみ、他の国家をライオンのように襲いました。(ナホム2:11-13)大英博物館にはアッシリアの王がライオン狩りを楽しむレリーフが見られます。



 また、大英博物館には、サルゴン二世の王宮に関連した展示物もあります。サルゴン王に関しては、彼がフィリスティア人の主要な都市のひとつアシュドドを攻め取ったというイザヤ書の記述があります。(イザヤ20:1) サルゴンの王宮の入り口には、王宮の守護者とみなされていた人間の頭をした翼のある二頭の雄牛の彫刻があります。



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Colossal winged bull from the Palace of Sargon II by portableantiquities   (sargon2−サルゴン二世の王宮の入り口にあった翼のある人面の雄牛の像

The city and palace at Khorsabad (in modern northern Iraq), was built for the Assyrian King Sargon II (721-705 BC). The palace entrances were originally dominated by pairs of colossal human-headed winged bulls, which were intended as guardians, accompanied by protective spirits with magical powers.




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       Sargon II wall panel by virtusincertussargon1

                         壁の石板のサルゴン二世




 2012年には大英博物館のルーム52長さ約22センチ太さ約10センチキュロスの円筒印章が所蔵されていました。イザヤ書の中では、キュロスは「油そそがれた者」と呼ばれ、神はキュロスにバビロンを倒させ、エルサレムを建て直し、神殿の基を据えるように取り計らわせることが預言されていました。(イザヤ44:28;45:1)



 キュロスの円筒印章には楔形文字で、キュロスバビロンを倒したこと、諸民族を解放し、弾圧や圧政を廃することが書かれています。

 


cyruscylinder1


London 013 Cyrus Cylinder by David Holt London (cyruscylinder1)

キュロスの円筒印章−キュロスがバビロンを倒し諸国民を寛大に扱ったことが記録されている




 また大英博物館には、ギリシャのアレキサンダー大王が支配した時代とその後にインドに流通していたギリシャ流のコインが展示されています。また、アレクサンダー大王の頭像もあります。 アレクサンダー大王の名前は、聖書には出てきませんが、彼のことは、雄ヤギの頭にある一本の大きな角として預言的に描写されていました。その角は、折れることになっており、その後四つの王国に分かれることになっていました。(ダニエル8:8)



 確かにアレクサンダー大王は、若くして死に、その後に彼の建設したギリシャの帝国は、彼の部下の四人の将軍によって分割されました。




alexandergreat1

        Alexander the Great by mariosp (alexandergreat1)

ギリシャのアレキサンダー大王の頭像―聖書の預言の中で彼が大帝国を打ち立て若くして死に4つの帝国に分かれることが預言されていた




 大英博物館には、他にも古代ローマに関連した展示物もあります。このように大英博物館の考古学的な展示物を見学するならば、聖書に出てくる歴史が決して作り話ではなく、実際にあった出来事であることが分かります。



 機会があったら、大英博物館に足を伸ばされてください。また、大英博物館の展示物は、他の国の博物館や美術館に巡回展示されることがあるので、そうした機会を捉えるならば、聖書の記述に対する信仰が強まります。聖書を読むとき、その背後に実際の出来事があるということが分かります。




bible2
                                Bible Study 1 by DrGBB(bible2)

     聖書の記録の背後には真実の歴史があるという証拠が豊富にあります






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パウロが手紙を送った会衆・コロサイ・テサロニケ

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 新約聖書の一部であるコロサイ人への手紙とテサロニケ人への二通の手紙はパウロが書きました。今回、パウロが手紙を送った会衆のあったコロサイとテサロニケが実在の場所であることを確認したいと思います。


コロサイColossae小アジアの南西の町です。使徒パウロの時代にはローマの属州アジアにあり、その州は古くはフリギアと呼ばれました。歴史家のヘロドトスクセノフォンは、コロサイが毛織物の産地として栄えたことを述べています。その遺跡はラオデキア(現代のデニズリの近く)の近くにあります。現在,その場所には人は住んでいません。コロサイ人への手紙によれば,パウロはコロサイを訪れたことがなく,その会衆はエパフラスの働きの実であったことが示唆されています。コロサイには元々の住民であるフリギア人のほかに,ギリシャ系やユダヤ系の人々も住んでいました。(コロサイ 3:11)


colossaemap

             コロサイはラオデキアの近くにあったアジア州の町


colossae
Sign for Colossae by Ian W Scot
コロサイのサイン・コロサイには人は住んでいない



テサロニケThessalonicaはギリシャのマケドニアの主な都市のひとつでした。使徒パウロとシラスがテサロニケに行った時も,そこは繁栄している重要な都市でした。現在でも、テサロニケは、ギリシャの首都アテネに次ぐ2番目に大きな都市で、経済や産業、商業、政治の中心地です。


thessalonicamap
                  テサロニケThessalonicaはギリシャの都市


thessalonica
             ギリシャでテサロニケはアテネに次ぐ大きな都市



西暦50年ごろ,パウロはそこにクリスチャン会衆を設立しました。現在,この都市はサロニカSalonica(または,テッサロニキThessaloniki)と呼ばれています。マケドニアの王アレクサンドロス大王の後継者カッサンドロスが、テサロニケを建設しました。彼の妻はアレクサンドロス大王の妹で、その妻の名にちなんで,その都市をテサロニケと命名しました。


テッサロニキのキリスト教とビザンティン様式の建造物群が、世界遺産に登録されています。市の中心部には有名な2つの博物館テッサロニキ考古学博物館とビザンティン文化博物館があります。テッサロニキ考古学博物館は重要なマケドニア王国の遺物が収蔵されています。


ですから、パウロが手紙を書いた小アジアのコロサイとギリシャのテサロニケが実在する場所であることが分かります。ですから、パウロは一世紀に実在していた人々に対して実際に存在していた状況に関して手紙を書き送ったことが分かります。コロサイ人への手紙とテサロニケ人への手紙は真剣に考慮するに値します。


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パウロが手紙を送った会衆・ガラテア・エフェソス・フィリピ

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パウロが手紙を送った会衆・エフェソス・フィリピ

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 今回、パウロの手紙のあて先になっているエフェソス、フィリピが実在する場所であることを確認したいと思います。


小アジアのエフェソス(Ephesus)は、アルテミス崇拝で知られたギリシア人都市でした。聖書はパウロがエフェソスに滞在した時、そこにアルテミス神殿や劇場があったと述べています。(使徒19:27,29,31)エフェソスは、トルコ西部にあり、現在のイズミル県セルチュク近郊に位置しています。現在はトルコ語エフェスEfes)とも呼ばれます。現在残るアルテミス神殿の遺構はローマ時代に建てられたとされています。


                     Map of Turkey, Recent by nathanh100

turkey
              現在のトルコの地図・エフェソスはイズミールの南



 

         Temple of Artemis, Ephesus, Turkey(Ephesus)Adam Carr

ephesus

                   アルテミス神殿(エフェソス近郊)



ephesus4
                     Photo by Djenan Kozic (http://www.djenankozic.com).  

                              エフェソスの遺跡



使徒パウロが第2回宣教旅行を行なった時,フィリピはギリシャの「マケドニア地区の主要都市」で、ローマの「植民地」でした。(使徒 16:11,12)同市は東マケドニア,エーゲ海の北端に位置していました。西暦前四世紀にマケドニアのフィリッポス2世(アレクサンドロス大王の父)によって創建されました。現在の都市フィリッポイは、昔の遺構近くに位置しています。



パウロの時代にフィリピは、経済的に繁栄しており、ギリシア風のアゴラ(広場)や、ローマ風のフォルム(広場)、ローマ風の競技会が行われる円形劇場があり、ローマの市民権が高く評価されていました。(フィリピ3:20。使徒16:26,27)ラテン語の碑文が多く出土します。しかし、14世紀オスマン帝国に征服された後、廃れてしまいました。



             Philippi's forum and basilica B seen from the acropolis.
             Photography taken on 12/11/2000 by Marsyas

Philippi2
                     遺跡のフィリピのフォーラム


 

 パウロが手紙を送ったトルコのエフェソスとフィリピは、確かに実在する場所でした。それらの場所に書き送ったパウロの手紙は、真剣に考慮するに値します。



20136月には、トルコ各地で、7月時点で、トルコのイスタンブールで反政府デモ隊と警察の衝突が起こっていました。現地を確認したい方は、十分安全を確認してから行かれることをお勧めします。


 

 

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 新約聖書には、15通のパウロの書いた手紙が含まれています。そのあて先になっているのは、一世紀のヨーロッパ、小アジアに存在していたクリスチャンの会衆や個人でした。その中には、ローマ、コリント、ガラテアなどの会衆に当てた手紙が含まれています。今回それらの場所が実在することを確かめたいと思います。


聖書は、パウロがローマ人へ手紙を書いた時、アクラとプリスキラがローマにいたことを示しています。(ローマ16:3)そして、皇帝クラウディスがユダヤ人にローマから退去するようにと言う命令を出したので、アクラとプリスキラが、ローマから出たと述べています。(使徒18::2)ローマの皇帝は カリグラが西暦37‐41年、クラウディウスが西暦41‐54年支配します。その後にクリスチャンに対する迫害で有名なネロが続きます。(西暦54‐68年)


アクラとプリスキラが、上なる権威のクラウディウスの命令に反して、またネロの迫害が激しい時に、ローマに戻ったとは考えられません。ですから、パウロは、ローマ人への手紙をおそらくカリグラか、クラウディスの治世中に書いたのではないかと思います。

Imperial portrait of Roman emperor (41–54 AD) Claudius (10 BC–54 AD).

          National Archaeological Museum of Spain

claudius
     スペインの国立考古学ミュージアムのローマの皇帝クラウディスの胸像

 



Paul was taken to the forum on the Appian Way and to The Three Taverns
  before arriving in Rome.

romemap
イタリアのローマ


Rome, the colosseum. This is one of the most representative monument of Rome, the best known amphitheater   Rome by Moyan_Brenn

rome
                    ローマの円形闘技場コロッセウム




パウロはコリントに会衆を設立しました。パウロは手紙の中でその中で行われていた性の不道徳について語っています。(コリント第一5:1)コリントは、ギリシャのコリントス地峡に位置する都市で、古代ギリシアにおいてアテナイスパルタと並ぶ主要な都市国家ポリス)のひとつでした。古代ローマ時代には属州アカイアの州都でした。(コリント第二1:1)アクロポリス古代ギリシアポリスのシンボルである小高い丘)には遺跡が残っています。現在のコリントの市街地は19世紀半ばに新たに建設されたものです。




corinthmap

              コリントはギリシャのペルポネセス半島にある


                                  Ancient Corinth by Ploync

corinth1
                                                      コリントの遺跡

                                                 


パウロが手紙を書いた小アジアのガラテア州は、カパドキア,ビチニア,ポントス,アジア,パンフリアなどのローマの属州と接していたトルコの中央高原地帯にありました。(ペテロ一 1:1)当時のガラテア州にはイコニオム,ルステラ,デルベなどのルカオニアの諸都市,ならびにピシデアの都市アンティオキア市が含まれていたと言う人もいます。(使徒13:14;14:1,6,7)ガラテア州のルステラは、Klistraという名のコンヤ地方の村であるという人もいます。



パウロは第1回宣教旅行の際,それらの都市にクリスチャン会衆を組織しました。ガラテアはアンキュラ(現在トルコの首都アンカラ)を首都としていました。

 

 

galatiamap

                 小アジアのガラテア州トルコ中央

 

                       Ankara by Jorge Franganillo

ankara
                 小アジアガラテア州の首都アンカラ


                ancient roman city of lystra, turkey by B e r n a

lystra

                  小アジアのルステラ現在のKlistra

 

 

このように、パウロが手紙を書き送ったイタリアのローマ、ギリシャのコリント、トルコのガラテアが一世紀に実在した場所であり、現在でも残っていることが分かります。新約聖書にのせられている事柄は、実際にあった場所で起きた実際の状況であったことが、分かります。一世紀に書かれたパウロの手紙は、現代のクリスチャンが真剣に考慮するに価します。


20136月の時点で、トルコで暴動があることが伝えられています。今、行かれると紛争に巻き込まれる可能性もあります。他の場所についても、現地に旅行したいと思われる方は、現地の治安状況を十分確認してから行かれることをお勧めします。


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Sevenchurches
Map with seven churches
七つの会衆の地図

わたしは霊感によって主の日に来ており,ラッパの[音]のような強い声がわたしの後ろでこう言うのを聞いた。『あなたが見ることを巻き物に書き,それをエフェソス,スミルナ,ペルガモン,テアテラ,サルデス,フィラデルフィア,ラオデキアにある,七つの会衆に送りなさい。』」(啓示1:10,11)


 

ヨハネはパトモス島に流刑になり、そこでイエスから幻を与えられ、小アジアの七つの会衆に巻き物を送るように指示されました。先回ヨハネが流刑になったパトモス島、エフェソス、スミルナ、ペルガモンが実在する場所であることを確認しました。今回、テアテラ、サルデス、フィラデルフィア、ラオデキアについて調べたいと思います。

 


テアテラは、現在のトルコマニサ県の町アクヒサルです。人口は約10万です。ユダヤ人のコミュニティが存在したことが知られており、ユダヤ人の商人がイスタンブールの市場と綿と織物の交易を行なっていました。


thyatira
 

             Thyatira Basilica by simonjenkins' photos

                       テアテラ


 

サルディスの遺跡はトルコマニサ県の現代のサルトという村にあります。公衆浴場ギュムナシオンの施設、シナゴーグなど、遺構の一部分が年間を通じて訪問者に開放されています。



 

Sardis2

Sardis synagogue courtyard. Remains of the Sardis Synagogue

at the archaeological site of Sardis, near present-day Sart in the Manisa

province of Turkey.  

                     サルディスの遺跡 

 

sardismap
                       User:Roke

                    サルディスの位置

                       

 

  フィラデルフィアPhiladelphiaは、トルコマニサ県にあるアラシェヒルです。そこは、エーゲ海に面した港町イズミル(スミルナ)の東にあり、鉄道で結ばれています。1990年時点での人口は36,649人です。この街には正教会大主教座があり、いくつかのモスクとキリスト教会があります。



philadelphia1

              Church of St John by simonjenkins' photos

                フィラデルフィアのヨハネの教会

 

 

ラオディキア(laodicea)は、現在のトルコのデニズリ県エスキ・ヒサールという村であると言われています。そこは、コロサイのおよそ17キロ西にあり、ヒエラポリスの10キロ南にあります。ラオディキアは、西暦前3世紀のアンティオコス2世の妻ラーオディケーのためにそこのより古い町の上に建てられました。アンティオコス大王が二千人のユダヤ人の家族をバビロンからその地に移したので、ラオディキアの多くの住民は、かつてユダヤ人でした。中世にイスラム教徒の侵略によって破壊されました。



Laodicea3
            リュコス川沿いのラオディキアの廃墟Roymail

 


こうして調べてみると小アジアの七つの会衆が実在の場所にあったことが分かります。ですから、ですから、イエスは一世紀の実在した会衆の実際に存在していた状況に基づいてヨハネに手紙を書かせたことが分かります。


すでに、当地に旅行して、遺跡など現在の場所を確認してみた人たちがいます。下記のサイトにも、七つの会衆の場所のフォトがたくさん掲載されていましたから、確認されてください。

 

The Seven Churches of Revelation

 

しかしながら、20136月の時点でイスタンブールとイズミルで反政府デモ隊と警官隊の衝突が起こっているという報道がありました。暴動は、飛び火しているようです。もしトルコに旅行して場所を確認したいと考える方がおられるなら、現在の暴動が十分収まってから行かれることをお勧めします。

 

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「わたしは霊感によっての日に来ており,ラッパの[音]のような強い声がわたしの後ろでこう言うのを聞いた。『「あなたが見ることを巻き物に書き,それを,エフェソス,スミルナ,ペルガモン,テアテラ,サルデス,フィラデルフィア,ラオデキアにある,七つの会衆に送りなさい』」(啓示1:10,11)


一世紀に、ヨハネはイエスを通して預言的な幻を見せられました。その預言は、しるしにより与えられていましたから、それには、象徴的な意味があります。(啓示1:1) ヨハネはパトモス島から、小アジアのエフェソス,スミルナ,ペルガモン,テアテラ,サルデス,フィラデルフィア,ラオデキアに巻き物を書き送りました。


ヨハネが流刑にされたパトモス島、そして、ヨハネが預言の幻を書いて送るように言われた七つの会衆の場所は一世紀に実在していました。今日、それらの場所を確認できるか調べてみましょう。今回はパトモス島と、エフェソス、スミルナ、ペルガモンが実在したかどうかを確認したいと思います。


パトモスはギリシャとトルコにはさまれたエーゲ海に位置するギリシャの小島です。ここは,不毛同然の岩の多い小さな火山島です。人口は2600人(1995年)。島内には、ヨハネが啓示を受けたとされる洞窟が残っており、旧市街ホーラは、ユネスコ世界遺産に登録されています。



aegean
                     Aegean Sea Lookout by divya_

                     パトモス島のあるエーゲ海


patmos
The seven churches were located on a major Roman road. A letter carrier would leave the island of Patmos (where John was exiled), arriving first at Ephesus. He would travel north to Smyrna and Pergamum, turn southeast to Thyatira, and continue on to Sardis, Philadelphia, and Laodicea in the exact order in which the letters were dictated.

            エーゲ海のパトモス島と小アジアの七つの会衆



patmos1
                   Approaching Patmos by sisaphus

                           パトモス島

 

 

トルコ西部の古代都市エフェソスは、現在のトルコイズミル県セルチュク近郊に位置しています。エフェソスは、アルテミス崇拝で知られた都市でした。現在は遺跡が残っているだけです。



ephesus


           Adam Carr at the English language Wikipedia

                                     エフェソス



スミルナは、現在はイズミールと呼ばれる小アジア西岸の重要な商業都市です。イズミールは現在278万の人口で、その美しさが「エーゲ海の真珠」と言われます。


        

              

symrna1
                Karsiyaka - Izmir, Turkey by Kusadasi-Guy

                    スミルナ(イズミール)



izmir2
               IZMIR BAY TURKEY AUG 2011 by calflier001

               エーゲ海の真珠と言われるイズミール



ペルガモンは、トルコのミュシア地方にある古代都市です。スミュルナ(現イズミル)北方にあり、エーゲ海から25キロメートルの位置にあります。ペルガモンのアクロポリス遺跡は標高335メートルの丘の上にあり、宮殿、ローマ時代のものであるトラヤヌス神殿、アテーナー神殿、ゼウスの大祭壇、アゴラなどの遺跡があります。



Pergamon
                         Kadellar

                     ペルガモン


このようにパトモス島と、エフェソス、スミルナ、ペルガモンは実在した場所であり、今日でも確認できます。ですから、イエスが一世紀に実在した小アジアの会衆に対してヨハネを通して音信を伝えたことが分かります。今日、イエスの音信を読む時、今日でも実際に存在しえる状況についてイエスが語っておられたことが分かります。私たちは、今日その音信を読む時に自分たちの状況を考えて当てはめることができます。



次回は、残りの場所について調べたいと思います。

 

 

 

 

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「次の日、わたしたちはシドンに上陸した・・・。次いでそこから船出したが、向かい風だったので、キプロスの島影を帆走した。それからキリキアとパンフリアに沿って大海を航海し、ルキアのミラに入港した。しかし、そこで士官は、イタリアに向けて航行中のアレクサンドリアの船を見つけ、わたしたちをそれに乗せた。それから、・・・やっとのことでクニドスに着いた・・・わたしたちはサルモネのところでクレタの島影を帆走し・・・その沿岸を進んで、良い港と呼ばれる所に着いた。その近くにラセア市があった。」(使徒27:4-8)


  使徒たちの活動27章では、パウロは地中海沿岸を船で航海します。その記録には、多くの地名が出てきます。その地名は実際に存在した土地でしょうか。確認してみましょう。


パウロがカエサルに上訴するために、パウロはカエサレアから出発して、イタリアに送られることになります。(使徒25:11,13;27:1)まず、パウロの一行はシドンから船出します。海港の町シドンは、フェニキア人の主要な都市でした。今日その都市はレバノンの都市サイダとして知られています。シドンは、首都ベイルートの40キロ南にあります。

Sidon1

                      シドン現代のサイダ

 

それから、パウロの乗った船はキプロスの島影を進みました。キプロスは、東地中海の島国で、現在EUの加盟国です。



Cyprus


           Location of  Cyprus  (dark green) in the European Union  (light green)

                         キプロス島の位置

cyprus1
              Akrotiri Peninsula - Cyprus by Glen Bowman

                          キプロス島


パウロの船は、キリキアとパンフリアに沿って航海します。キリキアは、小アジア南東部の地域です。南に地中海,西にパンフリアがあります。ローマ時代には,キリキアに,パウロ(サウロ)の生まれ故郷のタルソスなどの都市が散在していました。使徒 21:39


cilicia
  Tarsus was the capital city of the Roman province of Cilicia and Tarsus

was the hometown of Paul.

            ローマの属州キリキアの首都パウロの出身地タルソス


パンフリアは、パウロが最初の宣教旅行の際に訪れた,小アジア南岸の小さなローマの属州です。

pamphylia1
Pamphylia hill country, Turkey, a small Roman province in southern Asia

Minor during Paul's time.

            小アジアのパンフリア


パウロの船は、ルキアのミラに入港しました。ミラは小アジア南西部の沿岸の近くの3キロほど内陸にあります。その場所は今ではトルコのデムレとして知られています。


lycia2
         Lycia, Turkey, a district in southern ancient Asia Minor

                南小アジアの地域ルキア


Myra
                          ミラmyra)


それから、パウロは船を乗りかえ、クニドスに着きます。クニドスは、小アジアの南西に位置するレサディエ半島にある都市です。


cnidus
                           クニドスcnidus)


それからパウロの船は、クレタ島のサルモネの近くを進みました。クレタ島は、150マイルの長さで50マイルの幅の地中海の島です。クレタ島は、ギリシャの島々の最も大きい島です。サルモネは、現代のクレタ島のシデロ岬です。

 

crete2
                         赤い部分がクレタ島

crete3
               Crete is a large island in the Mediterranean Sea

                    クレタ島は地中海の大きな島


パウロの船は、ラセア市の近くにあった良い港に着きました。良い港は、ギリシャのクレタの南岸にあり,今でも現代ギリシャ語で同じ名称のカロイ・リムニオネスと呼ばれる湾と同定されています。(使徒 27:7,8)ラセアは、普通,現代のカロイ・リムニオネスの東約8キロの所にある廃墟と考えられています。


fairhaven
The harbor at Fair Havens on the southern side of Crete. Paul stayed here

on his voyage to Rome

               クレタ島の南の端にある良い港


lasea
               (lasea) Pictures of Lasea in the Bible.

                  クレタ島の良い港の近くにあるラセア


このように使徒たちの活動の記録に出てくる土地は、現代でも実在する土地です。ですから、パウロの宣教の記録が記載されている使徒たちの活動の記録が実際にあった出来事を述べている歴史的に信頼できる記録であることが分かります。


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モアブ碑石は聖書の正確さを裏付ける

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モアブ碑石(メシャ碑文)は、モアブの王メシャの作成したほぼ3,000年前の碑文で、1868年にディボンの遺跡の中で発見されました。モアブ碑石は、聖書の歴史や場所の多くの点を裏付けています。また、モアブ碑石は、神のみ名が使われている聖書以外の最古の記録でもあります。


 モアブのメシャ王は,自分がイスラエルの支配を打破したことを記念し,自らの神ケモシュのためにモアブ碑石を建てました。モアブ碑石は、黒光りする玄武岩でできており、頂上部が丸く、高さは112センチ、幅は71センチ、奥行きは36センチです。
石碑の本文はヘブライ語と同系統の言語であるモアブ語で、34行の碑文が刻まれています。


 モアブ碑石は一度壊されましたが、復元され、現在もパリのルーブル美術館に展示されています。また、ロンドンの大英博物館でも、その複製品を見ることができます。





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 モアブ碑石の内容は普通、列王第二 3章に記されている出来事のあった時期の事柄であるとされています。聖書が述べていることは、メシャの宣伝調の碑文とは少し異なっています。聖書はモアブ人が屈辱的な敗北を被ったことを伝えています。


 聖書によると、モアブの王メシャは、イスラエル王国に隷属していた時、アハブ王に子羊10万頭と、毛を刈っていない雄の羊10万頭を貢ぎ物として支払いました。しかし、アハブが死ぬとすぐ、メシャはイスラエルの王アハジヤに反逆しました。(列王第二 1:1; 3:4,5)しかし、アハジヤは長く支配せずに死に、その後を兄弟のエホラムが継ぎました。


 エホラムは、メシャを再び服従させるために、ユダおよびエドムの王と同盟し、モアブを攻めます。同盟軍は、行軍の途中で水が尽きてしまいました。しかし、預言者エリシャは、彼らを助け、乾いた奔流の谷が水で満たされました。(列王第二 3:5‐11,16-20)翌朝、日の光が水面に映り、モアブ人はそれを血だと錯覚し、イスラエルとユダとエドムの連合軍が同士討ちをしたのだと考えました。モアブ人は油断して、イスラエルの陣営に入りましたが、敗走させられました。イスラエルは追撃して、モアブ人の諸都市を滅ぼし、彼らの泉をふさぎ、良い土地に石を満たしました。(列王第二3:21-25)


 それでメシャは、剣士700人を引き連れ、エドムの王のところに突入しようとしましたがそうすることができませんでした。「ついに彼は、自分に代わって治めることになっていた長子を取り、その子を城壁の上で焼燔の犠牲としてささげ」ました。何らかの理由で「イスラエルに対する大いなる憤りが臨み」、攻囲は放棄されました。(列王第二 3:26,27)


 モアブ碑石の中でモアブの王は自分を「
モシャ」と言っています。聖書ではこのモアブの王は「メシャ」と発音されてきましたが、ギリシア語70人訳で「モサ」となっているようにモアブ語で「モシャ」であったと思われます。


 また
、碑文の中に「イスラエルの王」「オムリ」の名前が出てきます。そして、彼は、オムリとその子の時代、すなわち聖書によればアハブの時代にモアブがその支配下に置かれていたことを認めています。


 メシャはその碑文の中で,自分が非常に信心深いこと、都市や街道を作ったこと、
そして、オムリの子らの時代に、40年間続いたイスラエルの支配を撃ち砕いてイスラエルに対して勝利を収めたことについて誇っています。そしてこの点で、すべての誉れを自分の神ケモシュ(カモシュ)に帰しています。聖書は「モアブ」の神が「ケモシュ」であると述べています。(列王第一11:7,33)


 日本人の考古学者による碑文の訳文がネットで公開されています。「モアブの王メシャの石碑 和田幹夫」です。確認されてみてください。


 その中にも、「イスラエルの王」「オムリ」の名前と、「アタロト、ネボ、アロエル、
マヘダバ、ディボン、バト・バアルマオン、ヤハツ、キルヤタイン、ベツェル、バアルマオン、ハウロナイン(ホロナイム)、バト・ディブラタイン(ベト・ディブラタイム)、キリヨト(ケリヨト)」の地名が確認できます。それらの地名はイスラエルの領地にある都市であり、それらの場所は聖書に記載されています。(民数記32:34,37,38。ヨシュア 13:9,17‐19,20:8。イザヤ 15:5。エレミヤ 48:22,24)このようにモアブ碑石は聖書に登場する場所の史実性を裏付けています。


 メシャは、また、イスラエルの神エホバについて言及しました。その文書の第18行目に四文字語テトラグラマトンが記されています。その部分でメシャは,「わたしはそこからヤハウェの[器]を取り,それらをケモシュの前に引いて来た」と豪語しています。
日本人の考古学者は「わたしはそこから18ヤーウェの英雄たち(?)を捕らえて、カモシュの前に連れ出した。」と訳出しています。聖書以外の文書で神のみ名が使われている例としては,これが恐らく最古の記録であろうと思われます。


 しかし、碑文は、モアブの神ケモシュと王メシャに栄光を帰するものであったため、モアブの王は自分の敗北や息子を犠牲にしたことは省いています。「聖書考古学レビュー」誌(1986年5/6月号,57ページ)は次のように述べています。「支柱なしで立っている石や神殿の壁の記念碑文は、宣伝を目的として、また国民の神と国の支配者を栄化するために造られた。したがって、メシャが、自分の国に対するイスラエル、ユダ、エドムの王たちの軍事行動に何も触れていないのも驚くにあたらない。一方,聖書はそのことを詳しく述べている」。


 古代のモアブ碑石は、モアブ人の神ケモシュと、王メシャをたたえるために、作られましたが、はからずも、聖書の歴史的正確さを裏付けています。私たちは聖書の記録が詳細な点に至るまで、正確であリ、実際に起きたことであることを信頼できます。




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列王第二18章・ニネベとセナケリブに関する聖書の記述の真実性


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列王第二18章・ニネベとセナケリブに関する聖書の記述の真実性

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「アッシリアの王は銀三百タラントと金三十タラントをユダの王ヒゼキヤに負わせた。それゆえ,ヒゼキヤはエホバの家と王の家の宝物倉に見いだされる銀を全部与えた。」(列王第二18:13〜15)

 

ニネベは、物語の中の架空の都市ではありません。聖書によると、昔アッシリアの首都ニネベにセナケリブという王が住んでいて、ユダとエルサレムを脅かしました。その聖書の記述を裏付ける豊富な考古学的な証拠が存在しています。


 考古学上の調査によると
ニネベの遺跡は、北部イラクのチグリス川沿いの東岸にあります。クユンジクとネビ・ユヌス(「預言者ヨナ」)という二つの塚が,かつての大いなる都市ニネベの跡です。ネビ・ユヌスは、イスラム教の聖地となっているため、エサル・ハドンの宮殿を覆っているこの塚は調査がほとんど行なわれていません。しかし,クユンジクでは,ニネベの過去の栄華を証しするものが発掘によって数多く明るみに出されてきました。セナケリブの宮殿やその他のアッシリアの王の宮殿の遺跡や、楔形文字の刻まれた幾千点もの書字板が発見されています。

  

 聖書は西暦前732年に起きた,セナケリブ王配下のアッシリア人による侵略の様子をかなり詳しく記録しています。1847年から1851年にかけて英国の考古学者A・H・レイヤードは,ニネベでセナケリブの大宮殿の遺跡を発掘しました。



 その宮殿には約70の部屋があり,彫刻の施された石板をはめた3キロ以上に及ぶ城壁のあったことが分かりました。セナケリブの年ごとの出来事に関する報告,すなわち年代記が,粘土の円筒印章やプリズム角柱に書き記されていました。



 シカゴ大学のオリエント研究所は,古代ニネベの遺跡の近くで発見されたプリズムに基づく優れた複製品を保管しています。また別の年代記は、テイラー・プリズムとして知られており、大英博物館に保存されています。




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 テイラープリズム



  
シカゴ大学のオリエント研究所に保存されているセナケリブの角柱(プリズム)として知られる碑文の中で,セナケリブは自分がユダに侵攻したことについて次のように豪語しています。「わたしのくびきに服さなかったユダヤ人ヒゼキヤに関しては,わたしは彼の強固な都市46,すなわち城壁をめぐらした堡塁とその近隣の無数の小さな村を攻囲し,踏み固められた(地の)斜面,(そのようにして城壁の)近くに運ばれた破城槌,(それと共に)歩兵による攻撃,また坑道,破れ目,および土木工兵の作業によって,それらを征服した。わたしは(そこから)老若男女20万150人と,馬,らば,ろば,らくだ,大小の無数の家畜を追い出し,(それらを)戦利品とした。彼[ヒゼキヤ]をわたしはその王都エルサレムに閉じ込めて,かごの中の鳥のようにした。……わたしは彼の国から強奪し,取り去った町をアシュドドの王ミティンティに,エクロンの王パディに,ガザの王スィリベルに(引き)渡した。……



 ヒゼキヤ自身は……後に,わたしの堂々たる都ニネベに金30タラント,銀800タラント,宝石,輝安鉱,大玉の赤石,象牙で(象眼した)長いす,象牙で(象眼した)ニメドゥのいす,象の皮,黒檀,ツゲ材(と)あらゆる宝物と共に,彼(自身)の娘たち,そばめ,男女の楽人を送った。貢ぎ物を運び,奴隷として拝するために,彼は(自分自身の)使者を遣わした」。「古代近東テキスト」,288ページ。


 セナケリブがヒゼキヤに課したこの貢ぎ物に関し,聖書は次のように記録しています。


 「ヒゼキヤ王の第十四年に,アッシリアの王セナケリブがユダの防備の施されたすべての都市に攻め上って,これを奪いはじめた。そこでユダの王ヒゼキヤはラキシュのアッシリアの王のところに人をやって,言った,『私は罪をおかしました。私のところから引き返してください。あなたが私に課されるものは何でも負います』。そこで,アッシリアの王は銀三百タラントと金三十タラントをユダの王ヒゼキヤに負わせた。それゆえ,ヒゼキヤはエホバの家と王の家の宝物倉に見いだされる銀を全部与えた。」(列王第二18:13〜15)



 それで、アッシリアの記録と聖書の記録は、アッシリアの王セナケリブが、ユダの王ヒゼキヤの時に、ユダに攻めてきて、ユダの諸都市を奪い、エルサレムを脅かし、ヒゼキヤが金三十タラントを支払ったという点で、一致しています。(列王第二18:17。歴代第二32:9。イザヤ36:2)それで、聖書はそれが金30タラントであったことは確証していますが,銀については300タラントとしか述べていません。しかも聖書は,これがセナケリブによるエルサレムの攻囲以前のことであることを示しています。



 アッシリアの文書の解読を手伝ったヘンリー・ローリンソン卿は,これらの碑文は「[セナケリブが]歴史的人物であったことを議論の余地のないものとした」と述べています。



 しかし、聖書はその後、エホバのみ使いが一夜のうちにアッシリアの兵士18万5,000人を滅ぼし,セナケリブはニネベに逃げ帰らざるをえなかったことを記録しています。(列王第二19:35,36)アッシリアの勝利に関して事実をわい曲したその報告の中で,セナケリブはユダで自分が味わった決定的な敗北については故意に省略しています。ともあれ,セナケリブのプリズムに記されたこの誇らしげな記録は,エホバによって追い返される前に、アッシリアのセナケリブがエルサレムにどれほど脅威を与えていたかを物語っています。



 セナケリブが息子たちの手によって暗殺されたことに関する記述もセナケリブの後継者エサル・ハドンの碑文に刻まれており,その暗殺のことはその次の王の碑文でも言及されています。(列王第二 19:37。イザヤ37:37,38)



 このように、ニネベとセナケリブに関する考古学的証拠は、聖書の記述が単に物語ではなく、真実の歴史の記録であったことを裏付けています。

サムエル第二7章・裏づけられたダビデの実在性

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ダビデは巨人ゴリアテを倒したエホバに対して強い信仰を持つ人として有名です




「あなたのみ名が定めのない時までも大いなるものとなり,『万軍のエホバはイスラエルの』と言われ,この僕ダビデの家があなたの前に堅く立てられますように。」(サムエル第二7:26)


 聖書を読む人であれば,イスラエルの王となった勇敢な年若い羊飼いダビデのことはよく知っています。聖書の中にその名は1,138回,おもにダビデの王朝を指す「ダビデの家」という表現は25回出てきます。(サムエル第一 20:16)ところが最近まで,ダビデが実在した明白な証拠は,聖書以外には全くありませんでした。ダビデは単なる架空の人物だったのでしょうか。考古学は何を明らかにしていますか。



 アブラアム・ビラン教授の率いる考古学者のチームが1993年に驚くべき発見をし,その報告が「イスラエル踏査ジャーナル」に掲載されました。イスラエルの北部ガリラヤに位置するテル・ダンと呼ばれる古代の塚の遺跡で,黒い玄武岩の石が見つかりました。石には「ダビデの家」および「イスラエルの王」という文字が刻まれていました。


 その碑文は、綿密な調査に基づいて、西暦前
9世紀のものとされています。その碑文は,学者たちによれば,「イスラエルの王」と「ダビデの家」の王の双方の敵であるアラム人がダンに立てた戦勝記念碑の一部であると考えられています。アラム人は嵐の神ハダドを崇拝しており,東方に住んでいました。


 ビラン教授とその仲間であるエルサレムのヘブライ大学のヨセフ・ナベ教授の報告に基づき,「聖書考古学レビュー」誌の一記事は,こう述べました。「聖書以外の古代の碑文の中でダビデという名が発見されたのは,これが最初である」。


 『イスラエルの王』という語句は,聖書の中に,とりわけ列王記にしばしば出て来る用語です。この発見は,聖書以外のセム語による手書き文字の碑文の中でイスラエルに言及している最古の例かもしれないと言われています。この碑文は,聖書を軽視する一部の学者の主張とは裏腹に,イスラエルが当時,重要な王国であったことを証明しています。


 この碑文に関しては,ほかにも注目すべきことがあります。「ダビデの家」という語句は一つの語として記されています。言語の専門家であるアンソン・レイニー教授は次のように説明しています。「単語区分記号はしばしば省略される……。その組み合わせが固有名詞として定着している場合は特にそうである。『ダビデの家』という語句は確かに,西暦前
9世紀半ばのそうした政治的また地理的固有名詞であった」。


 「ダビデの家」という言い方は、西暦前
9世紀に、固有名詞として定着しており、諸国家に広く知られていた語であったと考えられます。ですから,ダビデ王とその王朝は,古代世界に広く知られていたものと思われます。


 ところが、テル・ダンの石碑が発見された後,パリのルーブル美術館に展示されているメシャ石碑(別名,モアブ碑石)の専門家であるアンドレ・ルメール教授も,その碑文には「ダビデの家」に言及している箇所があることを報告しました。


 メシャ石碑の碑文の中の部分的に損なわれているある行が新たに復元されたことに関して,ルメール教授はこう書いています。「わたしはテル・ダンの石碑の断片が発見される
2年ほど前に,メシャ石碑には『ダビデの家』に言及している箇所が含まれているという結論に達した。……『ダビデの家』に言及しているその箇所がこれまでに一度も注目されなかったのは,多分,メシャ石碑の訳文の初版が正式に出されたことがなかったためであろう。それこそ,メシャ石碑が発見されてから125年たった後の今,わたしが作成しているものなのである」。


 1868年に発見されたメシャ石碑とテル・ダンの石碑の間には多くの共通点があります。両方とも西暦前9世紀のもので,同質の石でできており,大きさも大体同じで,ほぼ同一のセム語の手書き文字が刻まれています。テル・ダンの石碑とメシャ石碑の両方がダビデの実在性を裏づけています。


 み使いもイエスご自身も,またイエスの弟子たちや一般の人々も,ダビデの史実性を証ししています。(マタイ 1:1; 12:3; 21:9。ルカ 1:32。使徒 2:29)考古学上の発見は,ダビデという人物とその王朝,つまり「ダビデの家」の存在は事実であったことを裏づけています。私たちは、ダビデに関する聖書の記述を読む時、ダビデが実在の人物であったことを念頭に置いて読むことができます。



アブラハムの故郷ウルは実在の場所

創世記7章・ノアの大洪水が実際に起きた証拠


イザヤ20章・実在した聖書の古代アッシリアの王たち

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「タルタンがアシュドドに来た年,すなわち,アッシリアの王サルゴンが彼を遣わし,彼がアシュドドと戦い,これを攻め取ったとき。」(イザヤ20:1)


以下はエホバの証人のものみの塔1988年2月15日号から転載

1843年に,フランスの領事代理ポール‐エミール・ボッタは,古代のニネベの所在地と考えてコルサバードの発掘を行ないました。ところが,発見されたのはニネベではなく,聖書のイザヤ 20章1節で名前の挙げられている「アッシリアの王サルゴン」の壮麗な宮殿でした。


   批評家たちは,この王に言及している古代の文書がほかに知られていないので,聖書は間違っていると主張してきました。しかし,サルゴンは確かに実在しました。考古学者たちは,200の部屋を持つサルゴンの宮殿に加え,碑文や他の遺物から成る途方もない宝を発見したのです。その中には,聖書に述べられている出来事をアッシリア人の観点から確証するサルゴンの年代記も含まれていました。



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Penn State University Libraries Architecture and Landscape Architecture LibraryBy: Penn State University Libraries Architecture and Landscape Architecture Library


   その後,1847年にオースティン・ヘンリー・レイヤードは,コルサバードから南西に19キロほど行った所で,ニネベのセナケリブの宮殿を発見しました。このセナケリブは,エルサレムに激しく敵対し,聖書中に13回名前が挙げられているあのセナケリブです。レイヤードはその宮殿の71の部屋を調査しました。宮殿は戦闘や勝利や宗教儀式の場面で飾り立てられていました。


   さらに驚くべきこととして,考古学者たちは,セナケリブ自身の年代記,つまり粘土の円筒やプリズムに記録された,種々の出来事に関する年ごとの報告を発見しました。その一つはシカゴ大学オリエント研究所に保存されており,もう一つのテイラー・プリズムのほうは大英博物館に保存されています。


   これらの発見から何が分かりましたか。聖書がこの民や,この民に関係した出来事について述べている事柄は,アッシリアの支配者たちの名前に至るまで,極めて正確であるということです。

創世記14章・創世記に出てくる場所は実在の場所

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「これらの者たちがソドムの王ベラ,およびゴモラの王ビルシャ,アドマの王シヌアブ,ツェボイイムの王シェムエベル,そしてベラ(すなわちゾアル)の王と戦いをした。」(創世記14:2)

  最近では1976年に,イタリアとシリアの考古学者たちが,シリア北部で古代の都市国家エブラを見いだしました。

  エブラは聖書の中で名を挙げられていませんが,それらの名は族長たちの時代にまでさかのぼる古代文献に現われます。


  では,この新たな遺跡で発掘者たちのシャベルはどんな事柄を明らかにしたでしょうか。


  王宮の図書室で,西暦3000年期末から2000年期初頭にかけての粘土板が幾千点も見つかりました。


  フランスの週刊誌ル・ポワンは,1979年3月19日号でこの発見について報道し,次のように述べています。


  「固有名詞は[聖書にある固有名詞と]驚くほど似ている。聖書の中には,“アブラハム”という名があるが,エブラの粘土板には“アブラウム”がある。エサウ―エサウム,ミカエル―ミキイル,ダビデ―ダウドゥム,イシマエル―イシュマイルム,イスラエル―イシュライルといった具合いである。

  エブラの記録保管所にはソドムとゴモラの名を記した文書も見られる。これらの都市は聖書の中に出てくるが,学者たちは長い間その史実性を疑問視してきた。……それだけではなく,粘土板は旧約聖書に挙げられているのと全く同じ順序で,すなわちソドム,ゴモラ,アデマ,ゼボイム,ベラという順序でこれらの都市を挙げている[創世 14:2]。」


  ニューヨーク・タイムズ紙にボイス・レンズバーガーが書いたところによると,「聖書……時代の生活に関する知識の真実性を示し,その知識を増やす点で,[エブラ粘土板]は死海写本に匹敵すると考える聖書学者もいる」とのことです。
         (ものみの塔1981年1月1日号から転載)

プロフィール

ヨハネ

 わたしは幼い時に父から聖書物語の本をプレゼントされ、どこかの教会に行くことなく、ひとりでまことの神を信じてきました。
 わたしは世界に真理が存在していて、聖書ははっきりクリアに理解できるものという信念をもっています。その信念のもとに聖書そのものを二十歳頃から、毎日読むよう努力を払ってきました。その努力を四十年以上行って、徹底的に聖書を読みこんできました。
それで今では、聖書をかなりよく理解できるようになったと思います。その理解をみなさんにお分かちしています。
しかしながら、まだ聖書理解の途上にあり、いまだ、聖書を完全に理解するには至っておらず、理解の調整をすることが今でもたびたびあります。
 でも、分かったことをできるだけ早くみなさんにお分かちしています。
 聖書預言の理解は人類の命を救うものとなります。聖書の預言はこれから世界がどのように動いていくのか、そして、そのさまざまな災いのもとで、人々がどのように行動すれば命が救われるかを教えています。

 ご一緒に聖書朗読するクリスチャンを募集しているので、yohane-19144026fujiyama@tutanota.com
あるいはdaughter-of-zion1029ing@protonmail.chの方にご連絡ください。

ご質問やご感想も承ります。

〇メールは littleyohane〇aol.com 〇⇒@  か 
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メールが届かなかったりするようなのですが、しばらくこのメールを試してみたいと思います。何かご質問やお申し出がある場合は、こちらのメールにお知らせください。

〇ルームメイト希望や聖書朗読を共に行う希望のある方は引き続き募集していますので、上記 にお知らせいただければ嬉しく思います。

G-mailは、政府機関にだだもれだと言われています。悪いことをするわけではありませんが、いろんな考え方をする人がいますから、慎重にした方がいいと思います。tutanotamailは全然届かないみたいなので、Aol.mailをしばらく使います。これも、妨害されるので、また、探してみますのでお待ちください。

○「しあわせを約束する聖書のことば」というサイトにわたしヨハネのアイコンが見られます。そのブログの作成者は、わたしの「ヨハネのブログ」の作成者ではありません。また「しあわせを約束する聖書のことば」というブログの記事はわたしヨハネが執筆したものではないことをお知らせ致します。

 他にも、littleyohaneのアイコンを使っている方が時々見受けられます。偶然にアイコンが一致したかもしれませんが、なりすましかもしれません。わたしは絶対平和主義のクリスチャンです。殺人、淫行、同性愛、輸血、暴力行為、破壊行為、偶像崇拝、心霊術などを認めていません。また、人種は平等だとみなしています。

 また、わたしは三位一体説を正しいとは思いません。でも、わたしはエホバの証人ではありません。わたしになりすましている方々の主張とわたしの主張は異なる場合があるかもしれないので、ご注意ください。

○私はアメブロ・ヨハネのブログ 、はてなダイアリー聖書の描く地球の今と将来 、わたしのブログ・楽天ブログ もしています。そちらにも別の記事を投稿したりしますので、ご覧ください。
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