October 2007

October 31, 2007

ピークアウト

とうとうワールドシリーズも終わってしまった。ロッキーズが1勝もできなかったのは意外でもあり、心の片隅で準備ができていたような気もする。レギュラーシーズン最終盤からの快進撃につられてロ軍のにわかファンになってしまったが、WSの戦いを見終わった今ふり返れば、ナ・リーグのチャンピオンシップ戦がまさしくロッキー山脈のピークだったことが分かる。

ピークアウトとはよく言ったもので、あのあとの8日間はただただ斜面を下るだけだった。そしてWSはレッドソックスという怪物を相手に鞍部でもがいていた、という印象。3連勝4連勝で勝ち進んだチームの皮肉であった。こうした軌跡を見ていると、まるで物理の法則を見るようで、人智をもってしてはいかんともしがたかったような気もする。

それに相手があれだけの投手力を揃えたレッドソックスときては。フランコーナ監督は2004年の3連敗後の4連勝とあわせてWS8連勝の快挙である。あとはかつてのヤンキースのように「くたばれ、レッドソックス」と後ろ指をさされないようにと祈るばかりである。

とまれ、地元紙デンバー・ポストの見出しがよかった。曰く、

「苦痛ではあるが、恥辱ではない」。
31Oct.2007




live_on1 at 17:06スポーツ 

October 30, 2007

『生物と無生物のあいだ』

福岡伸一の『生物と無生物のあいだ』を読んだ。読み終えたあと、いまベストセラーになりつつあるということを知った。さもありなん。

ワトソンとクリックのDNAの二重ラセン発見という20世紀を代表する業績が実にきわどい僥倖(あるいは剽窃)と相接していること、ある遺伝子を取り除いたノックアウトマウスが予想されたいかなる欠陥も示さなかったこと、そこに生物の独自性があること等々は、ある意味こちらの想像の範囲内であった。

こうした内容も興味深くはあったが、なにより感心し気に入ったのは氏の文体であり、文章の柔らかさだった。氏の文章に身をゆだねているだけでうれしくなってくる。内容と形式が上質なマッチングをした好例である。

それだけに残念なのは、誤植と信じたいが、誤用があること。P56の1行目。「与できない」は、正しくは「与することができない」だろう。
30Oct.2007



live_on1 at 18:40 

October 29, 2007

パチンコ屋

1週間ほど前にJR有楽町駅そばにITOCiAという商業施設がオープンした。隣には下半分に丸井が入ったオフィスビルが建った。このITOCiAビルの1階という最高に目を惹く場所に店を出したのが、なんとパチンコ屋である。

デフレ下の原油高、低金利、高失業率、株価の低迷、格差社会等々、景況の見えにくいこのご時世に唯一元気がいいのがパチンコ業界かもしれない。そのことはテレビCMの露出度でも分かるが、近所のパチンコ屋の改装の頻度や朝早くからの開店待ちの行列を見ていると納得させられる。

パチンコが流行って何が悪いか!? 完璧な自己責任の世界。一攫千金(というにはささやかだが)の道は、上流下流を問わず、誰にも開かれている。負けじとこれに続くのが、宝くじ、競馬、サッカーくじ、株取引への個人投資家の誘導、…

規制改革 deregulation とは畢竟こうした射倖的な社会を目指していたのである。小泉、竹中は口が裂けてもそうは言わないだろうが…
29Oct.2007

live_on1 at 23:17政治・歴史 

October 28, 2007

フレーザーとバード

ジェームズ・フレーザー『金枝篇・初版 上下』を読了した。上下巻とも500ページ余のこの書は改行がやけに少なく(見開きに1個かせいぜい2個)、保ちがよくて助かった。一見退屈な、文字通り古今東西(なかにはミカドやアイヌへの言及も含む)の民俗学的事例(その数は半端ではない)を延々と読まされるのだが、吉川(きっかわ)信氏の翻訳文の素晴らしさのおかげで、さほど退屈せずに読めた。

第3章12節「神聖な動物を殺すこと」を読んでいるときに思わぬ再会があった。タイトルの事例を挙げるなかで話がアイヌの熊殺しにうつり、ふと既視感が訪れた。理由はそのときめくった夥しい注のひとつを見て氷解した。イザベラ・バードの『日本奥地紀行』が引かれていたのである。この書について投稿しようと思いながら果たせずにきただけにあまりの奇遇に驚いた。イギリス人女性47歳のバード嬢が単身横浜の港に降り立ったのが1878年! ここからイトウという通訳の青年ひとりを伴い、日光、新潟、米沢を経て東北地方を縦断し、北海道に渡り、アイヌの部落に滞在してその生態を記録した。この本は1880年に発行された。

話を『金枝篇・初版 上下』に戻すと、これの発刊は1890年。興味深かったのはその引用の仕方である。上にも書いたが、素人目にも参照文献のリストは多く、そうした膨大な引用のなかで、イザベラ・バードに対する言及がやけに辛辣なのである。たとえば、

「バード嬢の情報は注意して受けとめなければならない。彼女が情報提供者に騙されていると考えられる根拠があるからである」と書くが、その根拠は示していない。

ここには19世紀後半のイギリスに生きたフレーザーの女性蔑視が現れているのだろうか? それともバード嬢の果敢な行動力に対するやっかみや劣等感がにじみ出ているのだろうか? フレーザーは後にいろんな批判や非難にさらされたが、なかにアームチェア学者というのがあった。彼の著には、自身の仮説とそれを証明するための引用と論理をおいて、自身によるフィールドワークの披瀝は皆無である。一方のバード嬢の行動力は半端ではない。若い頃健康のためにとカナダとアメリカを訪問したが、本格的な旅行を始めたのは中年になってから。オーストラリア、ニュージーランド、ハワイとつづき、アメリカに帰ってロッキー山脈を騎行横断したという。その足跡は日本を去って後も、マレー半島、朝鮮半島、中国、中東や中央アジアに及ぶなど、まさに破天荒な行動力を示した。母国はまさにヴィクトリア朝時代。自国の空気はこの女性には監獄のようなものだったのかもしれない。
28Oct.2007



live_on1 at 16:51 

October 21, 2007

イライラ

1ヶ月ほど前、天声人語を読んでハッとさせられた。人語子がアメリカ駐在から帰任してしばらくのこと、エレベータに乗りこんでドアが閉まるのを待っていると背後の男性が「チェッ」と舌打ちをしたというのである。その心は、なんで「閉」ボタンを押さないか、である。

ハッとさせられたのは舌打ちしたのが自分であってもおかしくないと思ったからだ。自身の短気はよく自覚していて、矯正しなくてはとつねづね思ってはいるのだが…

アメリカ(人)との対比も、1年間太平洋をはさんでアメリカ人と仕事をした経験、相互の出張で接触した経験からはよく納得できる。集団としてのアメリカ人には言いたいことも少なくないが、個人としては実にフランクで他人の瑕疵におう揚な気がした。もしかしたら西と東の対比ができるかもしれない。

つい先だってアメリカのサブプライムローンの破綻問題の影響を受けて、イギリスで某銀行の取り付け騒ぎが発生した。預金を下ろそうという人々の行列がTVに映し出されたが、かれらののんびりとした様子はどうだろう。メディアがマイクを向けても声を荒げもせず笑顔で答えているのには、日本でならどうだったろうという思いが頭をかすめて、笑えてしまった。同じころ日本では、あるブランドのトートバッグを求めて列を作る日本人の行列があった。品切れで購入できなかった人々が売り手を責める殺気立った様子は異様だった。資本主義のルールに「品切れまかりならぬ」はないのである。

人語子はエレベータのほかにバスの乗降にも触れていた。自分も通勤にバスを利用するので身につまされるが、似たような教訓を感じる。乗降の際もたもたする人がいると、つい「どうして乗る(降りる)前に準備をしておかないのか」と心の中であきれている自分がいる(ヤレヤレ)。こんな場面でもアメリカ人は平気だそうである。高齢化社会ではみんながおう揚でなかったら、こんなときの転倒事故が増えるだろう。自分もすぐに「そちら側」の人間なのだ。努めて気長にいきたいものである。
21Oct.2007



live_on1 at 20:00エッセイ 

October 20, 2007

「牛乳を注ぐ女」

昨日19日休みをとってフェルメールを観てきた。場所は国立新美術館。千代田線乃木坂駅の6番出口から直結しているのはなによりだった。

展覧会は『フェルメール「牛乳を注ぐ女」とオランダ風俗画展』と銘打っていたが、中身はほぼ「女」に尽きていた。料金の1500円は「女」一点のために払ったようなもの。一応真ん前で観たあと、対面する壁の前にしつらえてあったベンチに座って30分ほどぼーっとしていた。午前だというのに人の流れが尽きないのが玉に瑕だったが、ああいうのを至福の時というのだろう。

30年前にフェルメールを知って以来、本物を観たのは初めてである。1980年、ルーブルに「刺繍」を訪ねたときは修復中だか出張中だかで実見することができなかった。

私の狭い知見のなかで別格の画家だったが、この展覧会においても他を圧倒して別格だった。

最初に買った画集にホイジンガの賛がある。アムステルダム国立美術館の「牛乳を注ぐ女」の展示室でのこと。フランス人と思われる男性が近づいてきて「この画は、日常生活を非物質化し、霊化し、永遠化していると思わないか」と言ったという。ホイジンガは「まさしく」と応える。この男性の言葉を私はなぜか「結晶化 cristalliser 」と覚えていたが、大きな間違いではないだろう。

ところでその後読んだ何冊かの本でも教えてくれないのはこの女の服の色使いである。上着の黄色は有名だが、スカートの赤とその上に巻かれた布の青の意図についての言及は寡聞にして知らない。衣服における赤と青は聖母マリアを象徴する色のはずなのである。フェルメールには意図があったのだろうか、それとも…??
20Oct.2007



live_on1 at 23:11エッセイ 

October 17, 2007

マネジメント力

MLBへの肩入れを不思議なことと書いたが、いままでにいくつか理由らしきことは書いてきた。球場の騒がしさ、笛・鉦・ラッパへの違和感、選手を見下すえらそうな監督たち等々。ここでは別の観点から書いてみる。

スポーツ興行におけるマネジメント力の差である。日本プロ野球のマネジメントの不手際はもはや日常茶飯事だが、今しも、大相撲やボクシング界においても問題が噴き出してきている。

MLBの1チーム当りの試合数は162、プロ野球は144である。ところがシーズンの終わり方の違いはどうだ。後者では早く終わったチームと遅かったチームは2週間近くの差があったのではなかったか。その点MLBは、ドーム球場が少ないにもかかわらず、両リーグ30チームが揃って最終日を迎える。こうした運営ひとつとってみてもマネジメント力の差は明らかである。両国で開催日はあまり変わらない。インディアンスなどは春先の大雪で4試合連続流れたにもかかわらず、終わってみればダブルヘッダーをこなしながら最後は他チームに追いつき、いまやア・リーグのチャンピオンシップを戦っている。ポストシーズンの試合数もあちらが多いが、終わるのはMLBの方が先になるだろう。MLBの整然とした日程管理を知った今では、プロ野球のそれはチンタラチンタラ、まさにゆるんだふんどしである。

コミッショナーの威厳も全然違う。絶大な権限を持っているが、その行使についてメディアがしっかり監視・牽制している印象があってうらやましい。

そもそも日本人は「マネジメント」に固有の技能とディシプリンがあるということを知らないできた(知ろうとしなかった)国民なのではないか? だから名プレイヤーだったからという理由だけで監督を任せたり、大相撲の理事・理事長を互選してしまう。マネジメントという職能に独立性を認めていない証拠である。

マネジメントの訳語は「経営、管理」が代表だろうが、思えば、それぞれ金勘定か規則を作って従業員や選手をがんじがらめにすること、ぐらいにしか理解されていないのがこの国なのかもしれない。
17Oct.2007




live_on1 at 22:35スポーツ 

October 16, 2007

負けることを忘れたロッキーズ

やっちゃったよ、ほんとに! 

というのが素朴な感想。前回は地区シリーズ3試合をスイープしたときに「注目!」と書いたが、それどころではなかった。ロッキーズがNLCSの4試合までもスイープしてしまった。残るはワールドシリーズのみ。今日のタイトルはあと1勝に迫ったときの地元紙のタイトルを頂戴した。

NHKはいまだに分かっていないようだが、ロッキーズは今1試合1試合、MLBの歴史を作っているのだ。
.櫂好肇掘璽坤鵤系⊂,浪甬遑吋繊璽爐靴ない。
直近22試合で21勝したがこれも1935年のカブス以来。
これが始まったときロッキーズはワイルドカード争いの4位だった。
いい泙泙韮牽馨,最高だったチームが今季90勝をあげ、それでも地区優勝はできず、ワイルドカードの1ゲームプレーオフに回った。
イ修離廛譟璽フを延長13回9−8でもぎとったことは既に書いた。
Γ隠坑坑廓創設の若い球団だがワールドシリーズはおろか、リーグチャンピオンシリーズさえ球団史上初だった。
В廝啌始まで8日を開けて出場を決めた。(これが災いしなければいいが…)

これに比べれば、ア・リーグのチャンピオンシリーズは言っちゃ悪いが、淡々とルーチンをこなしているという感じしかしない。

ところで記録の羅列もさることながら、地元の有力紙デンバー・ポストの記事にはグッときた。曰く「少年のころMLBの名試合名選手を観てあこがれたロッキーズの選手たちが、今、みずからの手で少年たちに夢を与えている。寝不足の目をこすりながら明日登校しなければならない少年たちが、大きくなって何年後かに「2007年の秋はすごかったんだよ」と回想する。こうして世代から世代へと野球への愛が受け継がれていく、今まさにそんな歴史の現場に居合わせている」と。まさに野球がアメリカ人にとってナショナル・パスタイムであるゆえんである。

ひとつだけ残念なのは、松井カズに対しては概ね好意的なのだが、どうしても3ランホーマーを打ったホリデイだけが脚光を浴びてしまうこと。分かる人には分かるのだが2アウトでホリデイにつないだ松井のヒットが貴重だったのだ。

それにしても日本の片隅のおじさんが、自国のプロ野球には目もくれず、なんでこんなによその国の野球に肩入れしてしまうのか、不思議なことではある。
16Oct.2007




live_on1 at 21:50スポーツ 

October 10, 2007

ニュースバリューへの感度

ヤンキースはあえなく敗れ、3年連続地区シリーズで敗退した。どんなに強打者を揃えても投手陣がゲームを作れなかったら勝てない、ということを如実に示しているのが今のヤンキースだろう。

ところで書きたいのはそのことではない。去る8日日曜日。朝刊のTV番組欄を見て目が点になってしまった。NLDS、すなわちナ・リーグの西地区の代表決定戦、ロッキーズ対フィリーズ戦の放映がどこにも見当たらなかったからだ。

組むとすればNHKしかなかったろうが、NHKはまったくニュースバリューへの感度がないということを露呈してしまった。

ロッキーズはこの試合(2−1で勝ちリーグ代表決定戦進出を決めた)を入れて、直近18試合で17勝を記録した! レギュラーシーズン終盤の頑張りで、地区優勝には届かなかったものの、ワイルドカード決定のための非常に珍しい1ゲームプレーオフに臨んだ。これだけでも耳目を集めたが、この試合がまたすごかった。延長13回表にパドレスが2点をあげ「万事休した」かと思われたその裏、なんと3点(!)をあげて劇的な逆転サヨナラ勝ち(9−8)を収めたのだ。球団として12年ぶり2度目に臨んだ地区シリーズに3連勝してNLCSに初進出(前回はNLDSで敗退)を決めたのだ。地元デンバーの盛り上がりようが目に浮かぶ。

この間のリトル松井の活躍も目覚ましくうれしいことだが(メッツからロッキーズに移ったのは大成功、「よかったね」というのがアメリカメディアでの取り上げ方である)、ついでに言えば、チーム生え抜きの名選手トッド・ヘルトンにとっては10年1600近い試合数を経て初めてのポストシーズン出場というのもめでたい。
10Oct.2007



live_on1 at 11:28スポーツ 

October 08, 2007

万太郎の俳句

  秋風にふくみてあまき葡萄かな

この可憐でさりげない句の詠者は久保田万太郎。狭い知見の範囲では蕪村に次いで好きな俳人である。俳句史上のビッグネームではないが、万太郎を天才という人もいる(『俳句の天才 − 久保田万太郎』小島政二郎)。小島氏はまたマイナー・ポエトと呼び、ふだん着の俳句を抒情詩たらしめた俳人と呼ぶ。

このブログでも二度ほど引いているが、上記の本を再読して目についたものを拾ってみよう。

1945年8月15日についてはいろんな文章に触れてきたが、俳句というのは管見にして記憶にない。以下カッコ書きは詞書;
  「終戦」 
  何もかもあつけらかんと西日中
  灰ふかく立てし火箸の夜長かな
  もちふりし夫婦の箸や冷奴
  短日やされどあかるき水の上
  「雪中庵逝く、その通夜の席上」
  少しづつ夜のあけてくる寒さかな
  しぐるるや番茶土瓶の肩の艶

小島氏が「象徴的な美しさが、いや深さがある」という句;
  「昭和24年をおくる」
  年の灯やとほく廊下のつきあたり

北陸の海やぼたん雪を思い出させる以下の句は極私的なお気に入りである;
  みぞるるやただ一めんの日本海
  雪の傘たたむ音してまたひとり
10Oct.2007 語句訂正
8Oct.2007



live_on1 at 21:49エッセイ句・歌・詩 
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