December 2007

December 31, 2007

M−1と青春の定義

先日M−1グランプリを観た。2001年に始まった若手芸人の登竜門である。回を重ねるごとに参加者が増え、今年は4000組を超えたらしい。今年の優勝者はサンドウィッチマンという漫才コンビだった。決勝は8組プラス敗者復活の1組で争われる。今回なにがすごかったかというと優勝を敗者復活組がかっさらっていったこと。決勝は9組から3組が選抜され、いずれもふたつ目のネタで勝負する。TVや会場の受けはあきらかに他の二組が勝っていたが、審査員の結論はサンドウィッチマンだった。玄人受けといえば聞こえはいいが、審査員はなぜか保守的でオーソドックスな漫才を選んだ。

その是非を論じたいのではない。技は確かと見えた。あえてこのサンドウィッチマンに注文をつけるなら、ネーミングとビジュアルの地味さだけである。ところで優勝後のインタビューである。賞金1000万円をどう使うのかと訊かれて、ボケ役が「上京後9年、ずっとふたり同居のアパート暮らしだったので、これを機会に一緒にマンションに移りたい」と答えて、相方から「なんで一緒なんだよ」とつっこまれていた。

今回の優勝がなかったらふたりはどうしていたのか、というのが子を持つ親の率直な感想である。聞けばふたりとも33歳独身とか。こんな若者たちが4000組のなかに何百組もいるのだ。夢があるだけいいじゃないかと奇麗事はいくらでも言える。けれども…

そこでふと思い出したのが向井敏の『文章読本』である。向井はたしかそこで伊藤整の「青春の定義」ともいうべき文章を引いて誉めていた。上記のような、かなうかどうか保証のない夢を追いつづける、それに耐えつづけるのが青春だ、と。確認のため再読してびっくり、まったくの記憶違いだった。

名文なので、長いけれど、ここに写しておく。

「本当に力が必要なのは、単に耐えることではない。目標を持たずに耐える、ということである。いつ、どのようにして、自分に、ある事が満たされ、ある事が成就し、この空しさから抜け出すことが出来るか、ということが、あらゆる青年のひそかな、そして心からの願いであり、期待である。しかし誰も、何びとも、その青年に、それを確約してやることができない。洪水の後に新しい発芽と成長と実りがあるかどうかは、本人には分からず、まして他人には分からない。しかも彼は全力でもって、何かを為そうとしし、崩壊に耐え、無限にやり直して、待っていなければならない。そして、そのようなものが、いつ終りになるか分からない。それが青春である。」

目標を持たずに耐える、すなわち夢さえ持ちえない状態に耐えることが青春だと伊藤整は言ったのである。

向井の本は1988年に出た。伊藤の文章は1954年「新潮」8月号に「青春について」というタイトルで発表されたエッセイである。かえすがえすも残念なのは、この文章に10代(1960年代)半ばのころ遭遇したかったということ。
31Dec.2007




live_on1 at 19:58エッセイ 

December 23, 2007

ほかにも知っていること

ほかにも知っていることはいくつもある;

々颪亮擽發800兆円を超えても有効な手が打てないのはなぜか
¬害はなぜ繰り返されるか。産官の癒着があるからである
産官の癒着をなぜなくせないか。官僚の天下りがなくせないからである
づ群爾蠅鬚覆爾覆せないか
タ融制度にも問題があるが、官僚が政治家より強いからである
Δ覆軸盈修強いか。特別会計を牛耳っているからである。はっきり言うが、総理大臣より特別会計を握っている官僚の方が強い
特別会計の闇をなぜなくせないか
╂治家が利権を手放したくないという弱みがあるから、官僚に足許を見られているからである
利権の雑然とした集合が自民党であり、自民党があって利権があるのではない(見よあれだけ異質な派閥やポリティシャンたちの野合を)
ここで,北瓩襦M権の総和としての党益が国益に優先するからである
したがって,里曚、国家利害に基づく一貫した外交もできない

さらに;

大借金国アメリカが、それでもドルの垂れ流しを続けられるのはなぜか
国際収支黒字国の日本が円高を恐れるのはなぜか
グローバリズムの進展が総需要の落ち込みを招き、格差社会を助長すること
数学の世界にはリーマン予想という難問があって21世紀中に解決できるかどうかわからないこと
阿海留宙は4次元時空ではなく、5次元時空(4つの空間次元とひとつの時間次元)かもしれないこと

などを知っている。でもそれがどうしたというのか。知っていて得になる知識は見事にひとつもない。
23Dec.2007




live_on1 at 21:57政治・歴史 

December 22, 2007

知識のさびしさ

こういうテーマはくれぐれも大上段に振りかぶりたくない、と思いながら書き出している。

最近の事例では「年金問題の名寄せ問題」。来年3月までの解決がほど遠いこと、などは安倍君が甲高い声で叫んでいたころから、分かる人には分かっていた。何を今さら、とメディアや世論調査を見下してみても、たださびしいだけ。

最近とみに目につくTVのクイズ番組。なかでも常識を問うクイズを観ていると、本当にとんでもない想像を絶する解答が続出で、「人間こんなことを知らなくても十分に生きていけるんだ」と変に感動してしまう。否、ただ生きるだけじゃない、かれらの中にはそうした無知を売りに、人一倍稼いでもいるのだ。たくましい、というか…

閑話休題。

64歳の契約社員として悠々自適に仕事と趣味を両立させているK氏のこと。年に3、4回仕事が一緒になる。するとうれしそうにパソコンの壁紙にしたフォトアルバムを見せてくれる。夏場を中心に、仕事を避け、奥さんと一緒にヨーロッパに出かけ、2週間から3週間レンタカーで旅行をしているらしい。ところで、その写真を見せられると、私にはほとんどそれがどこの国どこの街かが分かってしまうのである。彼も驚くが、一番驚いているのは自分自身で、そしてしばらくしてさびしさが背筋を這い上がる。そう、知っているより実見するほうがいいに決まっている。

先日見せてもらったのが、アドリア海の真珠と呼ばれるクロアチアの街ドゥブロヴニクの写真。しかし知っていたのは街の名前だけではない。海岸からほど近い国境を越えるとそこはオシムの生地ボスニア・ヘルツェゴビナ。内陸には首都サラエボ。そこからさらに奥に入るとセルビアとの国境近くにかつて銀山として栄えたスレブレニツァという谷間の街がある。1995年7月はじめ、この街で第二次大戦後ヨーロッパ最悪といわれるジェノサイドが起きた。標的となったのはムスリム系ボスニア人の、それも男性ばかり約8000人。そのためジェンダーサイドと呼ばれることもある。

1995年といえば日本では1月に阪神淡路大震災があり、3月には地下鉄サリン事件があり、その夏もこれらを引きずっていて、日本人には東欧の片隅の事件に耳目を寄せる余裕がなかったかもしれない。自分も知ったのはようやく2年前のことだった。

とまれ、今夏、スロベニアから入ってドゥブロヴニクまで、クロアチアを縦断したというK氏のコース選択の動機までは聞かなかったが、こうしたコースを選ぶこと自体相当の旅行巧者と見ていいだろう。しかし、サラエボに回らなかったのは惜しかった、というのはアームチェアトリッパーの負け惜しみである。
22Dec.2007




live_on1 at 14:18エッセイ 

December 20, 2007

ランキング1位のラーメン

ネット上のラーメンサイト数ある中で、かなり大きな、全国をカバーする「ラーメンデータベース」で先月今月と1位を張る「麺屋吉左右(きっそう)」に行ってきた。

すごい行列の店と聞いていたので、食べられただけでもハッピーだが、じつはそれほどの感激はなかった。決してまずくはないのだが… 直太麺にどろっとした豚骨醤油スープ。スープの味が濃すぎなかったのはよかった。食べたのはラーメン。ほかにつけ麺があってもしかしたらこれが評判なのかもしれない。

いずれにしてもまた行きたいとは思わなかった。

そういえば、メディアで騒がれた店まで足を運んで実食し、再訪してもいいと思った店は「青葉」だけである。よせばいいのに健忘症もここまでくると救いがたい、か。

その点、何回食べても飽きのこないのがステディである。私のステディ&フェイバリットは神楽坂は神楽小路の「黒兵衛」。ここは醤油、味噌、塩いずれもおいしくて、ほかの店なら大盛りぐらいのたっぷりの直太麺を一口すすると、我ながら変な表現だが、「豊かだな」と感じる。
20Dec.2007




live_on1 at 22:53エッセイ 

December 11, 2007

モーゼルの白

ワイン党どころか、ワインが好きというのもおこがましいくらいの自分がワインについて書くのは、じつは恥ずかしい。

先日誕生日に娘がワインを届けてくれた。モーゼルの白、シュヴァルツェ・カッツ(黒猫)である。もちろん好みと知ってのことである。ドイツの西部、コブレンツでライン河に合流する支流モーゼル川が形成する渓谷のリースリンクから醸造される白ワイン。

発見というか遭遇したのは15年ほど前だろうか。神田近辺の路地裏のステーキ屋で出してくれた。ラベルはたしかベライヒ・オーバーモーゼルとあった。ステーキに白というのも変だが、一口すすって、旨いと感じた。それまでもそれからも、どの白ワインも自分には辛すぎるか甘すぎるかだった。年に1、2度高いワインに接することはあって、なるほどこれが上等の味か、と頭で納得することはあっても、舌とのどが歓ぶ味に出会ったことはない。その点モーゼルの白はほんのりとした甘さにぴりっとくるフルーティな酸味が絶妙で飽きない。国産の白でもこれほど自分に合うワインに接したことがないので、大げさに、前世はモーゼル渓谷か、などとひとりごちている。

赤はどうか? 赤ワインは奥が深そうで、一方自分にはきわめて散漫かつ浅い体験しかないので、何事かを言える立場ではないが、なぜか赤の味は単純に値段に比例するような気がしてしょうがない。少なくとも、モーゼルの白に相当するような自分の舌にぴったりの赤にはいまだ遭遇していない。お金に糸目をつけなければそれなりにチャンスもあるのだろうが、そこまでの資力と根性もない。シュヴァルツェ・カッツはその意味でもリーズナブルで助かる。

モーゼル渓谷といえば川沿いにトリーアという町がある。カール・マルクスの生地である。彼も若い頃にはモーゼルワインを愛したのだろうか。
11Dec.2007




live_on1 at 14:24エッセイ 

December 03, 2007

アジア的変容

このブログでも何度か言及しているので、またかという感じもあるが…

きのうの野球日本代表対韓国代表戦は珍しく緊張感のあるいい試合だったが、これに水を差したのが、耳障りな例のラッパの応援。わざわざ台湾まで遠征して恥をさらすか、と嘆いていたら、相手の攻撃になるとアチラもアチラなりの騒がしい応援。やれやれ、これは野球文化のアジア的変容か。

韓国台湾の事情は知らないが、日本の場合、選手や監督がどんなに迷惑していても、「いやだな」と思っていても、それを口に出して言えないという弱みにつけこんでいるのが不快である。応援というのはもともと支える、サポートするという謙虚な意味あいがあると思うのだが、彼らはいつかしら選手たちを見下している。「どうだうれしいだろう」とばかり。

ところで、メジャーの球団がきて巨人が試合をしたときには、なぜか!?、あれを自粛したのだ。メジャーを相手にするときには自粛するというのは、それなりにやましいところがあるのだろうか? 同じ国際試合でも、アジアの国を相手にするときは許されると、高をくくっているのだろうか? など、いろんな疑問が湧いてくる。

同じ鳴り物でも、日本の応援団のラッパの音は、韓国のそれに比べてどこかしら刺すような攻撃性を感じさせるのは気のせいか? 相手が凡打したときの馬鹿にしたようなフレーズも、いかにも相手を見下しているようで不快である。
3Dec.2007




live_on1 at 12:46スポーツ 
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