January 2008

January 26, 2008

親の家を片づける

リディア・フレムの『親の家を片づけながら』を読んだ。父親が死んでひとり残っていた母親が亡くなったあと、ひとり娘の著者が両親の家を片づける(原語はvider、文字通り「空にする」の意)話である。

遺された物の多さと、指図の不在のまえで著者が途方にくれる箇所を読んで、13年前のことを思い出した。やはり晩年ひとり暮らしをした父が逝ったあと、JR摂津富田駅近くのマンションの片づけをしたときのことを。屋敷とマンションの違いもあって、フレムはそれこそ何日も何日もかけて片づけたようだが、こちらは次の入居者の都合もあって、姉や義兄と一緒に丸一日かけて片づけたことだった。それでも、なんでこんなものをと驚くようなものが遺されていて、はたして終りが来るのかといぶかしんだものだった。台車を駆って4階と1階の倉庫の間を何度往復したことか。まるでシジフォスが受けた刑罰のようだった。

この本に出てくる両親も私の両親も物持ちのいいことはよく似ていて、この世代は洋の東西を問わないのか。その点自分はわりと手離れがいい方だと思っているが、傍からみればどうだろう? そっと見回せば、本だけは自然とたまってしまっている。年2回ほどの頻度で古本屋へ持っていくが、それでも追いつかない。人生の折り返し点を過ぎたいま、新しい本を追いかけるのではなく、昔読んだいい本を読み直すのも一興でありお似合いかとも思い始めている。

この本を読んだのもなにかの縁、一念発起(大げさか)して10年以上前に使っていた市立図書館のカードを取り出して出かけてみた。ちょっとした本人確認の書類を書いてカードを有効にしてもらい、早速2冊を借りてきた。この10年の間にWEBのシステムもできていて、本の予約も居ながらにしてできるようになっていた。これも早速入れてみると、刻々とステータスが推移していくのを確認することもできる。
26Jan.2008

live_on1 at 19:59 

January 24, 2008

佐藤優に訊きたい

年間6000億円だそうである。いわゆる「思いやり予算」である。むかし金丸信が国会答弁で「隣人が困っているときには手を差し出すのが思いやりというもので…」とやって失笑をかってから延々と続いている。最初は60億円ぐらいだったらしい。

さしたる根拠もなく払ってきたこの金を累積したら、何ができたかを考えると気が遠くなる。聞けば財務省も防衛省も「おかしい」「やめたい」と思っているらしい。どこが頑張っているかといえば、外務省である。

要はこれも政府与党、官僚そして間接的には野党も含めての不作為である。

佐藤によると外務省のなかは言語によってアメリカンスクール、ロシアンスクール等々に分かれているらしい。佐藤優の愛国の情、信念の強さ、献身には頭が下がるが、一方で同じ外務省村のこうした不作為を彼はどう評価するのだろう? とても興味がある。国益を金額で測るのは無謀だが、それにしても佐藤が一身を賭した北方四島に関わる国益と「思いやり予算」の非国益を比べたくなるのである。

思いやり予算が問題なのは、事が金額のことだけではすまないからである。朝鮮戦争、ベトナム戦争、そしていまイラク戦争と、外務省アメリカンスクールはそのつど犬のようにアメリカに追随する道を選んできた。結果的に日本に目に見える損害はなかったが、ひとつ間違えば、戦火の泥沼に引きずり込まれるところだったわけだ。もちろん、イラク、アフガンの戦争は目下進行中であり、過去形で書くのは正確でない。

軍事評論家田岡によると、日本人の多くが「だって日本はアメリカ軍のおかげで守られてるんでしょ」と思い込んでいるのは、とんだ誤解らしい。自衛隊の軍事力は米軍のそれをはるかに凌駕していて、むしろ駐留米軍は自衛隊に守られている、というのが真相らしい。安保条約にも日本が攻撃を受けたときの防御に関わるプライマリ・レスポンシビリティ(第一義的責任)は日本にあると明記されているという。ところが、ここでも頭のいい外務省キャリアは、姑息にも「主体的責任」とかなんとかぼやかした訳語をあてているというから、開いた口がふさがらない。
24Jan.2008

live_on1 at 17:23政治・歴史 

January 23, 2008

象徴が好き

次は「思いやり予算」について書くつもりだったが、その前に…

昨夜の報道ステーションでのこと。止まらない株安にゲストとして渡辺行革大臣と榊原英資が出ていた。大臣がこれみよがしに利下げを論じたあと、榊原があっさりと切り捨てた。「この局面で一般論は下げだが、現在の0.5%はあまりに低すぎて、よしんばゼロまで下げても効果はないだろう」と。「上げるときに上げておかないから、金融政策が無力化するんだ」と。

なるほどそういうことかとこちらは腑に落ちた。

戦後最長の好景気などと自慢しながら、実感・実態経済が好転させられない政治の無策・不作為を隠すために、日銀に散々圧力をかけてゼロ金利を強いてきたのは政府与党である。一方、そうした圧力から自由であるべき日銀は飼い犬のように唯々諾々とそれに従ってきた。あまりに情けないと思ったのか、昨年だったかようやく上げたその政策金利がいまの0.5%だった。形だけの象徴的ポーズだった。世界の中央銀行の標準から見ればあまりにみすぼらしく、大火事を文字通り犬猫のおしっこで消火しようとするようなものだったのだ。そのときの大見得が金融政策のイニシャチブを確保するために、だった。

記者会見で「金利は維持します」と突っ張ったのを日銀の毅然ととるのはとんだ勘違い。自慢のイニシャチブを全部使っても、洪水にドライヤーを当てようとするものだったというお粗末。

この政府にしてこの中央銀行あり。

姑息を英語でなんというのか、日本の政治は形だけなんとかすれば分かってくれるだろうと高をくくっているところがないか。あいにく世界が日本を見る目はそんなに甘くはあるまい。そう、このあいだの給油新法も火事におしっこの延長みたいなもの。そういえば、日本人はよくよく象徴(的な行為)が好きだった。
23Jan.2008

live_on1 at 20:00政治・歴史 

January 20, 2008

政治家の麻薬

ガソリンの暫定税率存続か廃止かが通常国会の目玉だと。

存続派はいい加減に目覚めた方がいい。政府与党は「道路が造れなくなる」と、それ自身偽問と言っていいデメリットを強調するが、ガソリンが安くなることによるプラス面は決して言わないし、試算する気もない。道路特定財源としての税収は確実に減るかもしれないが、自然増もありうるわけだ。この点、タバコを一箱千円にしても売上げは変わらないという試算に似ている。

にもかかわらず政府与党が存続にこだわる理由は、特定財源に利権が貼りついているからである。かれらにとって利権のついてこない税収増には意味がないのである。

ここには重要な教訓がある。近い将来必ず実施されるであろう消費税のUPも、「福祉」税や「環境」税などという聞こえのいい甘言にだまされて目的税にしてはならないのだ。目的税はすなわち特定財源・特別会計という利権の闇を生むことは必定である。「暫定」が30年以上続いてしまったように、状況(の変化)のいかんに関わらず、政官の不作為を助長し、闇を闇として放置してしまうことになる。

政治の要諦は、限られた資源を変化する状況に応じていかに適切に配分するかであろう。優先順位づけと、その動的なコントロールである。それこそむずかしいギリギリの判断力が求められる。このむずかしい判断をまったく不要にしてしまうのが特定財源・特別会計という麻薬なのである。見よ、麻薬漬けで腑抜けになった政治家たちを。

赤字が減らないわけである。実はもっと大きな闇、政官の不作為の最たるものに駐日アメリカ軍用の「思いやり予算」というのがある。これについてはいずれ。
20Jan.2008

live_on1 at 16:35政治・歴史 

January 19, 2008

佐藤優『国家の罠』

佐藤優『国家の罠』を読んだ。読み始めると同時に異界にひきずりこまれ、読み終えたとき、ふっと息が抜けたような気がした。この重苦しさを読み応えというなら、確かに読み応えのある本だった。

佐藤優が続けざまに本を出していることは知っていたが、なぜか危機回避の本能が働いて避けて通り過ぎていたような気がする。読み終えたいまもそれは正しかったような…

ではなぜこれを手に取ったかというと、柄谷行人や松岡正剛が一目置いていることが分かったから、そしてこれが処女作でしかも文庫化されていたからだ。

国策捜査という、禍々しいだけと思っていた捜査手法の、歴史的文脈からする別解があることを知ったが、さりとて検察と司法の強引さに納得できるわけもない。まさに憤りを超えた恐怖を感じる。それだけに、これら巨大な権力の壁に対峙して一歩も引かない(いまも裁判は続いている)著者の剛直さと冷静さに瞠目を禁じえない。

昨今、社会保険庁、厚生労働省、文部科学省、防衛省、外務省をはじめとする役人たちの背信、矮小化をいやというほど見せつけられ、自分も散々にけなしてきたが、「はきだめにツル」というか、ノンキャリアにもかかわらず、これだけ国のために献身的に働いた外交官がいたというのはまさに奇跡のようである。

それにしても、一外交官である佐藤をここまで政治にコミットさせ、一政治家(鈴木宗男)にコミットさせたものは何なのか。情熱? 愛国心? 忠誠心? 衒いもなく「国益」ということばを使って弁明できることがすごい。自分の仕事が国益と直結しているという佐藤の自覚と自信は、砂漠に水を撒くような仕事しかできていない自分には「異界」以外のなにものでもなく、ただただまぶしいばかりだった。

さはさりながら、北方領土の帰趨が国益を左右する重大事とはどうしても思えない自分には、結局、氏の思想は分からないままである。とまれ、読み進んでいたあいだの濃密な時間について感謝あるのみ。
19Jan.2008

live_on1 at 16:52 

January 13, 2008

五次元時空???

年末にリサ・ランドールの『ワープする宇宙』を読んだ。副題は「5次元時空の謎を解く」。本の帯に付された著者のポートレートを見てびっくり。青い目のブロンド美人は女優と言われても信じてしまうだろう。

しかし、この本は著者の容貌で読者を釣る必要はまったくない。本物の理論物理学者による正統派の啓蒙書である。自説の余剰次元宇宙論の解説書だが、良心的といえるのは、全600ページのうち450ページをアインシュタインの相対性理論から量子力学、ひも理論までの20世紀の物理学のおさらい(当然それは自説の必然性を語ることでもある)に割いていること。英米のいくつかの大学で教科書として使われているというのも納得がいく。それにしても数式が一切出てこないことを思えば瞠目すべきことである。

後に理論物理学の歴史を振り返ったときに、この本はエポックを画した本と評価されるに違いない。ではひとつ前のエポックを画したのは何だったか? 思うにそれはブライアン・グリーンの『エレガントな宇宙』(2001.12)である。超ひも理論の解説書である。本のグールー松岡正剛が千夜千冊で千夜を達成後、おまけにといって異例にも5夜にわたってこの本をとりあげたことで励まされたことを覚えている。松岡はたしか10年ごとに宇宙論の最先端を確認することにしているとも言っていた。

ところで、超ひも理論は誕生の直後から「検証可能性がない以上、そもそも物理学でさえない」という厳しい批判(R.ファインマンなど)があったが、グリーンの紹介がいよいよ大統一理論に近づいたかの期待を抱かせるものであったにもかかわらず、その後一向にブレークスルーがなくどうしたのかと思っていた。そこへランドールの余剰次元宇宙論である。彼女の理論は当然ながら超ひも理論を批判的に踏まえているので説得力がある。しかも、今年スイスで稼動する大型加速器LHCで証拠が検出される可能性があるという。

余剰次元とは、空間には4つ目の次元があり時間とあわせて、宇宙は5次元時空であるというもの。非常に分かりやすい叙述のおかげで、われわれがなぜこの余剰次元に気づかないのか、まではなんとかついていけるのだが、ブレーン(膜、membraneの略)という概念がイメージできないのである。われわれの3次元空間はひとつのブレーンに擬せられるというのである。自分を取り囲む空間はどの方向にも360度広がっている。それを膜とはどういうことか????? (自分はなにか読み違いをしているのか…)
13Jan.2008

live_on1 at 16:47 

January 10, 2008

キレる理由

最近キレる人が多い。若い子だけかと思っていたら、もうひとつのピークは50代の男性にあるとか、ドキっとするではないか。

先日手持ちの本を切らして、急きょ本棚からつまみ出したのが岸田秀の『続・ものぐさ精神分析』。第一作の『ものぐさ精神分析』以来この人の唯幻論には脱帽で、今回の再読も痛快かつ新鮮だった。

なかに「怒りと悲しみ」という文章があって、上記の「キレる」現象への鋭い分析が書かれていた。

「怒りっぽい人とは、人一倍攻撃エネルギーをたくさんもっている人ではなく、その自尊心を支えている幻想があまり共同化されていない人である。共同化されていなければいないほど、彼の自尊の幻想は人びとに無視される機会がそれだけ多いわけである。彼はそのたびごとに腹を立てざるを得ない」。

これ自身で十分に自立した分析(1977年初出)だが、昨今のデフレ基調社会におけるさまざまなあつれき、リストラ、格差社会、選別、等々を考え合わせると、さらに説得力が増しているかもしれない。これら共通項は何かといえば、共同幻想に破れが生じ、はじきとばされるということ。と同時に岸田は「われわれがいかに幼稚な幻想に執着しているか」を、卓抜な例を列挙して読者を赤面させる。

さよう、昨今自分をいらいらさせるもろもろを振り返ってみても、ちっぽけな自尊心さえ捨てられれば、なんでもないことに見えてくるのは確かである。しかし、されど自尊心、というのもあってむずかしい。

自尊心とは少しずれるかもしれないが虚栄心についてのニーチェのことばを思い出したりもする。曰く「人がもっとも打ち克ちがたいもの、それは虚栄心である」。
10Jan.2008

live_on1 at 21:54 

January 07, 2008

他者の夢

年末の「夢」談義にかこつけて、新しい年も「夢」の話で始める。

むかしTVで「ストーリーランド」という番組があった。調べると1999年から2001年にかけて放映されたらしい。熱心な視聴者ではなかったので、記憶に残っているストーリーはただひとつである。

3人の男(西洋人)が冒険の旅に出る。旅の中身はまったく忘れているが、途中で神様に遭遇する。なにか神様に褒められることをしたのだったか、神様が3人に褒美をやるという。「おまえたちの夢をひとつだけ叶えてやるから言ってみよ」と。すると;

ホームシックにかかっていたAは「自分の家に帰りたい」といい、あっという間に目の前からいなくなってしまう。

B(の夢はよく覚えていないのだが…)は「ひとりでいいから○△×へ行きたい」とまったく別の場所を指定し、こちらもいなくなってしまう。

最後に残ったCがなんと言ったか。「さびしいよ。ぼくはAとB、ふたりと一緒に今の旅を続けたい」と言ったのである。

そう、AとBふたりが即座にCのいるもとの場所に戻されたことはいうまでもない。

「むむ、深い」と感心したのをいまでも覚えている。そのときふと、サルトルの「他者(のまなざし)は地獄である」という言明(『存在と無』)を思い出したのである。
7Jan.2008




live_on1 at 13:42エッセイ 
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