April 2009

April 15, 2009

裁判員制度 私の疑問

「私ごときが人を裁けるのか。かねがね疑問に思っている」と朝日新聞の素粒子は書く。

私の疑問は少し違う。

「裁く」はふたつに分解して考察すべきである。ひとつは有罪/無罪の決定であり、もうひとつは量刑の決定である。こんど始まる裁判員制度は両者ともに素人にやらせようとしているのが解せないのである。

両者はまったく次元の違う行為である。前者は事実認定の問題である。提出された証拠(客観的事実)と、法律の条文(客観的事実)を照合しON/OFFを決定することであり、簡単なこととは言わないまでも、デカルトがいう、最も公平に分け与えられているという「良識」に依拠してなんとかなりそうではある。

ところが後者には一定のものさしがいる。ものさしには判例という知識の蓄積と、経験という記憶の蓄積が必須である。こんなことを素人に期待していいのだろうか、大いに疑問である。

浅薄な映画の知識しかないが、たしかアメリカの陪審員制度では、陪審員の役目は有罪か無罪かを決めるところまでで、量刑は専門の裁判官が決めることになっていたと記憶する。

納得のいく役割分担である。
15Apr.2009

live_on1 at 20:05エッセイ 

April 12, 2009

パスタイムとしての野球

野球の日本代表がWBCに2連覇しようが、原辰徳がいくら監督としてひと皮むけようが、いざ祭りが果て、さあペナントレースといって日本のプロ野球を観るかというと、全然その気にはなれない。なぜだろう?

観るのはもちろん、アメリカのNational Pastime、メジャーリーグベースボールである。

日本やそして韓国の緻密な野球を観た目で改めてMLBを観ると、欠点は明らかである。2ケタ得点はざら。一度形勢が傾くと、その差はとめどなく広がっていく。ピッチャーのコントロールはなっておらず、行先はボールに訊いてくれといった按配。

一言でいうなら大味。

しかし、この大味こそがベースボールの魅力なんだと、WBCの緊迫した胃のよじれるようなアジアン・ファイナルを観たおかげでよく分かる。

観るほうだけではない。イチローの胃までがおかしくなったではないか。イチローの胃は野球道とパスタイムのはざ間で悲鳴をあげたのだ。

パスタイムを辞書で引くと、娯楽、気晴らしとある。ビールを飲みホットドッグやハンバーガーを頬張りながら楽しむのに、なんで野球道が必要だろう。なんで鉢巻を締め、太鼓ラッパを鳴らし、声をそろえて気勢を上げる必要があるだろう?

次のWBCもその次のWBCも日本もしくは韓国が制するだろう。しかし、上記のような強迫神経症から自由にならないかぎり、野球は日本で真に広く愛される娯楽にはなりえないことは確かである。

今朝のレイズ対オリオールズ戦でこんな場面があった。1回裏、レイズの投手はメジャー初先発。緊張のせいか打ち込まれ、5点を失ってノーアウト。しかしマドン監督は降ろさなかった。「へぇっ」と思ったが、なんとこの投手は2回以降立ち直り、6回にもう1点取られたところまで好投し、予定通り降板した。

日本のプロ野球ではまず見られない光景である。この試合レイズは無得点だったから敗れるべくして敗れたわけだが、この若いピッチャーはマドン監督の度量に感謝し、このあときっとチームに倍返しをする投手になるだろう。

大味万歳。
12Apr.2009

live_on1 at 23:10スポーツ 

April 08, 2009

ラディカルということ

このところ辺見庸をまとめて読んだ。

困るのは、絶妙な警句、大事な勘所、重要な指摘、うまい表現、…、そうした箇所をマークしようとすると本が真っ黒になりかねないこと。

辺見に大変失礼だし、客観的にみれば笑止なことは分かった上であえていうと、彼とは波長が合うし、発想の根が自分と似ている気がする。

彼の原理原則論は浮いていない。世界中の現場(その多くは戦場)を実見したうえでの実感に根ざしている。

アメリカ帝国主義批判もすばらしいが、とりわけ日本の政治とメディアに向けた攻撃が根源的で熾烈である。日本の現状が静かに足音もなくファシズムに向かっていること、メディアがさしたる強制もないまま、みずからその動きに擦り寄っていきつつあること、あたかもメディア・ファシズムであるとの指摘は、語の正しき意味においてラディカルである。

『永遠の不服従のために』『いま、抗暴のときに』『抵抗論 国家からの自由へ』。これらのタイトルを見るだけで、辺見がいかに孤高の戦いを闘っているかが分かる。

彼の著書が書店の在庫から消えつつある(ない本がないと言われるあのジュンク堂にさえない本があった)のが、上記の鋭いメディア批判のせいだとすると、よくよくこの国は危ないと言わねばなるまい。

先日、辺見は現代のカサンドラと書いたが、日本(人)は将来、取り返しのつかないことが起こってから、辺見を再発見しようというのだろうか。
8Apr.2009

live_on1 at 16:40政治・歴史 

April 01, 2009

湯浅誠『反貧困』

東京大学大学院博士課程を退学してボランティアの世界に飛び込む湯浅誠のような若者もいれば、同じく東大を出て、エスカレータに乗って官僚世界に漬かり、やがては貧困を食い物にする「貧困ビジネス」をあおり、ひいては自分たちの天下り先をしっかり確保するやつらもいて、まさに「人生いろいろ」という感慨。

「生活保護世帯以下の収入で暮らす貧困層がいる」というデータを、生活保護基準の切り下げ論の論拠として「活用」するという役人の発想にははらわたが煮えくり返る。

蔓延しているのは「自助努力の欠如」ではなく、「自助努力の過剰」なのだと湯浅が説く実態は重い。

生活保護申請を行政の末端(福祉事務所)で違法に頑強に跳ね返す実態があるということをはじめて知った。行政に拒絶されたことによる自殺も多いという。まじめな市民たちの自助努力の過剰がホームレスを生むことも。

もっとも感心したのは憲法25条と9条を明確に結びつけて議論していること!

私もこのブログで間接的には書いているが、湯浅の著書を読んでそのことを再認識した。どんなに国防が大事といって軍備を固めても、守るべき国が腐っていたらどうしようもない、という自明の理。「スベリ台」をすべり落ち、増え続ける貧困を放置し、セーフティネットを穴だらけのまま放置するのか、それとも軍事費を削ってでも社会保障にまわすのか。

「聖域なき改革」とはここにこそ用いるべきスローガンである。
1Apr.2009

live_on1 at 11:29 
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