December 2009

December 28, 2009

美しい断定

加藤周一の『日本文学史序説 上』を読み終えた。1970年代に朝日ジャーナルに連載中、拾い読みをしつつ、いずれ単行本になったら読もうと考えているうちに30年以上が流れ、文庫版を手にすることになったわけである。

理知的で歯切れのよい氏の文章は読んでいるだけで気持ちがいい、ということはとっくに既知のことだが、第七章「元禄文化」の末尾、芭蕉の項で目の覚めるような断定に遭遇し、文字どおりしびれた。

芭蕉が日本文学史上なしとげたことは「自然の発見」だったと述べたあと、加藤はこう断定する。

「一般に日本人が自然を好んでいたから、芭蕉が自然の風物を詠ったのではなく、彼が自然の句を作ったから、日本人が自然を好むとみずから信じるようになったのである。」

異論はいっぱいありそうだが、そんなことはどうでもいいではないか。これだけ美しい断定がひとつでもできれば文筆家として本望だろう。加藤はそれを何度も何度も繰り返してぶれなかったのだ。

そのためにどれだけの蓄積と自負がいるかと想像するだに目がくらむ。
28Dec.2009

live_on1 at 22:54 

December 27, 2009

『ディア・ドクター』そのほか

きのうの投稿でこのブログも、ひとつの目安としてきた365本に達した。2005年10月に始めたから4年と少しかかったことになる。ちなみにきのうのアクセス30件は過去2位にあたる(1位はたしか中日落合監督の日本シリーズでの采配についてだったような気がする)。

家人が仕事に出たので、ひとり目黒まで足をのばし、目黒シネマで『ディア・ドクター』を観てきた。

ニセ医者を演じた鶴瓶が目当てだった。独特の笑顔のうしろにいかがわしさと自信のなさがにじみ出ていて、うまいとまで言い切る自信はないが、器用なタレントだと再認識した。

驚きは八千草薫。1931年1月の生まれというからもうすぐ79歳だが、とても信じられない。美しさのさきに上品な色気まで感じさせるところが凄い。

途中で久しぶりに買ったAERA。そこに姜尚中のコラムがあって、先日ここで書いた司馬遼太郎の遺志についてまったく同じことを言ってくれていて、わが意をえた。

姜尚中は1950年生まれの同い年なので気になってはいるのだが著書を手にしたことはまだない。ただ、井の頭線下北沢の駅ですれちがったことがある。歳にしては体形にくずれがなくスマートな長身。トレードマーク(とこちらが勝手に思っている)仕立てのいいスーツに片掛けしたリュック姿は、同年の自分から見てもかっこよかった。

あのもどかしいくらいゆっくりとした語り口のかれなら、こんな場末のしがないおやじとも誠実に話をしてくれそうな「妄想」がわくが、どうか。
27Dec.2009



live_on1 at 09:54エッセイ 

December 26, 2009

クリスマスの約束2009

昨夜のTBS特番「クリスマスの約束」はよかった。

年甲斐もなく、というか、もう遭遇することはないだろうと思っていた「祭りのあと」状態(ポスト・フェストゥム)を味わっている。

音楽番組とドラマを観なくなって久しいが、ここ数年、この番組だけはこの時期の風物詩のように観てきたような気がする。なかでも今年は出色のできだった。

21組34名のアーティストが、小田和正の無謀とも思える呼びかけに応じて集まり、メドレーでそれぞれの持ち歌をワンコーラス歌っていく。ただつなぐだけではなく、自分が歌っている間は、全員がバックコーラスを担当したのである。

自分が自分の歌を歌うと同時に、大勢のプロに歌ってもらえるという体験はかれらも初めてだったのだ。かれらひとりひとりが感動している様子がこちらにも伝わってきて(観客も女性はほとんどが泣いていた)、真夜中なのに異様に高揚してしまった。

アーティストの年齢差は40ほどあったはずだが、いずれ劣らぬ熱唱だった。

今回初見の歌手、JUJU、中村中もよかったが、かねて気になっていたいきものがかり(このグループ名だけはいただけない)吉岡聖恵の声のツヤにはもう一度ほれなおした。それからAIを忘れてはいけない。

延々22分50秒、聴きほれているうちにビデオを録るのを失念してしまった!
26Dec.2009


live_on1 at 20:16エッセイ 

December 23, 2009

「おいたわしい」

きょうは天皇の76歳の誕生日とか。「おめでとう」とはとてもいえなくて、「おいたわしい」が正直な感想である。

先の特例会見のごたごたを引くまでもなく、この歳での激務に同情を禁じえない。

「天皇」という檻への幽閉ひとつとっても非人間的だが、こうして死ぬまで働かせる皇室典範の酷薄さはどうだ。

「おいたわしい」とは、昭和天皇の最晩年、寝たきりになって下血を繰り返し、毎日大量の輸血を受けていた老人に大岡昇平が発した言葉である。大岡が信念を枉げたか、と物議をかもした一言。

「天皇」職が公務なら、なぜ定年制がないのか? 皇室典範はなぜ譲位のルールを持たないのか? 天皇も人間なら生物学的条件によって譲位を考慮せざるをえない可能性はいくらでも想像できるではないか。
23Dec.2009


live_on1 at 16:51政治・歴史 

December 21, 2009

大雪情報とピーカンの空

ここに書くのはこれで何度目になるだろう。冬の天気の対照についてだ。

日本海側の大雪のニュースを見聞きするにつけ、関東平野で見上げる空の蒼さにいまだ違和感を禁じ得ない。

確かに太平洋側も寒い。しかし屈服させられるような寒さではない。先週後半は大阪で仕事をしたが、コートは着なかった。マフラーと手袋で十分だった。これを書いているきょうの出勤もそう。

35年前関東平野(の西の端)に出てきたときは冬季の好天に驚いた。両三年はしかし異常気象だろうと高をくくっていた。冬にこんなに乾いた晴天が続くはずがないと。そのうちこれがかつて社会科で習った「表日本気候」だと知らされた。それでも違和感は消えなかった。

富山平野の西部(いまは南砺市)に広がる庄川扇状地の冬の風景といえば、どこまでも続くモノクロームの世界。来る日も来る日も雪雲は低く垂れ込め、重苦しいことこの上なかった。と書けるのは、関東に出てきたからである。当時はそれが「世界」そのものだったから、違和感など感じようがなかった。

若い頃はそんな風土から自分の性格の負の部分を演繹してみたりもしたが、この歳になると、懐かしいようないとおしいような気分がわいてくるから不思議である。

今夏、幼い頃実の弟のようにかわいがってくれたいとこが他界し、ふるさとはますます地名だけの存在になりつつあるにもかかわらず、である。
21dec.2009

live_on1 at 17:08エッセイ 

December 14, 2009

司馬遼太郎の遺志

NHKが鳴り物入りで『坂の上の雲』の放送を始めた。

記憶によると、司馬遼太郎は生前この作品の映像化を何度も打診されたが、「勘違いする輩が出てくるに決まっている」との理由で固辞していたはずである。

死んでしまえば、こうした遺志(意思)は吹っ飛んでしまうのだろうか? 強い疑問を感じる。

司馬に義理立てしてドラマは観ていないし、その気もないが、試金石は乃木大将の描き方にあると思う。

というのも、司馬がこの作品を書いた動機のひとつは、乃木大将にまつわる英雄像の見直し、すなわち偶像破壊にあったとひそかに信じているからである。

乃木大将の自裁は美談でもなんでもない。かれは明治天皇のために殉死するくらいなら、旅順攻撃の際、みずからの采配ミスにより虫けらのように死なせてしまった、あきれるほど多くの部下のためにこそ殉死すべきであった。

さて、ドラマはそのように描くであろうか、それともまたぞろステレオタイプの美談を繰り返すのだろうか。
14Dec.2009


live_on1 at 18:11政治・歴史 

December 12, 2009

伊勢参り・熊野詣で

9日から11日にかけて家内とふたり伊勢・熊野を巡ってきた。

自分の中の目当ては那智の滝だったが、伊勢神宮、熊野本宮大社もよかった。

まずは外宮から始めた。橋を渡り、玉砂利を踏みしめ歩き出すと、杉の巨木が迎えてくれる。手つかずの森とあいまって、外の光はかなりさえぎられてしまう。ひんやりとした空気の、そこは異界である。20年ごとの式年遷宮のため簡素な造りという建屋には塗りもなく、神さびたたたずまい。

舌を噛みそうな、ナニナニノミコトの神話や縁起など、猥雑な文字情報は一切不要である。それらをきっぱり遮断して、神韻縹渺とした異空間に身を置く。それだけで満足だった。とくによかったのが、伊勢神宮内宮・外宮、そして熊野本宮大社。

圧巻は那智の滝。平日で曇りのためか客は自分たちのほかふた組ほど。30分ほどだったが、われわれが滝を独占できた。落差や、幅、水量で優る滝はいくらでもあるだろう。しかし、落差の適度、落水の姿、これを取り巻く樹木や、背後の岩の形、いずれをとってもこれほど立派な滝はあるまいと素直に思えた。

この滝を見るのはじつは今年二度目である。最初は根津美術館での国宝『那智瀧図』だった。国宝のあと実物を見ての「がっかり」はまったくの杞憂だった。

おかしかったのは、那智勝浦の旅館の露天風呂が「滝見の湯」といったこと。「まさか」と高をくくって入ったら、確かに滝の上半分が那智湾をまたいで遠望できたのには驚いた。

伊勢市駅から白浜駅までレンタカーを駆ったが、燃費はちょうど16キロだった。
12Dec.2009


live_on1 at 15:45 

December 08, 2009

大田實中将の遺言

現下の沖縄米軍基地移転問題はむずかしい問題に見えるが、その実単純明快な問題である。県外移設か日本を出て行ってもらうかである。

なぜむずかしくなってしまったかといえば、自民党政権が「思いやり予算」を垂れ流しつつ不作為を重ねたからである。

なぜ単純かといえば、大田實中将の遺言があるからである。一見もっともらしく「アメリカとの信頼関係」をあげつらう人たちはこの遺言を知っているのだろうか? 戦後60数年にわたって無視し続けた遺言を。

…。沖縄県民斯ク戦ヘリ。県民ニ対シ、後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ。

われわれ日本人は沖縄県民に対し、なんという「御高配」を押しつけてきたことか。

アメリカに対する信義をいうなら、その前に、大田中将と死んでいった沖縄県民への信義をまずとりあげるべきだろう。

政権が代わったいま、そのことができなかったら、大田中将は死んでも死にきれまい。
8Dec.2009

live_on1 at 16:31政治・歴史 

December 05, 2009

定家の筆跡

きのう『冷泉家 王朝の和歌守展』を観てきた。今月20日までのスケジュールにあまり余裕がないことが分かり、きのう急遽出向くことにした。

予想されたことだが、会場は自分を含め、じいちゃんばあちゃんばかり。改めて若い世代の負担を思った。

目当ては和歌ではなかった。ただただ定家の『明月記』の筆跡が見たかった。稀代の能筆家とはいえないかもしれないが、気持ちのよい字であり、生意気なようだが好みにぴったりの筆跡であった。

和歌の書写のように斉一な、ある意味退屈な繰り返しと違い、筆に勢いがあるし、墨の濃淡、字の大小に音楽的な美しさがある。

弱冠19歳のとき「紅旗征戎吾ガ事ニ非ズ」と書き始めた『明月記』。内容についてはもっぱら堀田善衞の『定家明月記私抄』の手引きによるが、すばらしい日本の宝である。そして堀田の著も名著の名に恥じない傑作である

父俊成が臨終の床で「しぬべくおぼゆ」とつぶやいたということも堀田の著で知っていたが、その部分が前期に展示されていたことを土産物のレプリカで知った。残念!! しかも、

しかもその日付が11月30日と、私の誕生日と同じ日付であったこと。俊成91歳、時は元久元年、1204年のこと。旧暦のそれが今と同じとは思わないが、ともかく定家が書き留めた三十日という字が墨痕鮮やかだったこと、そして漢文の地に俊成のことばだけが和文で浮き上がっていたのには感動した。
5Dec.2009


live_on1 at 21:14エッセイ 
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