January 2011

January 31, 2011

日豪戦の椿事と落合シェフ

李忠成の美しいボレーシュートを貶めるつもりはまったくない。しかし、

あのシーンはひとつの椿事ではなかろうか。

ゴールキーパーの真正面、バイタルエリアのど真ん中で李がぽつんとひとり立っている図の異様さは。単にマークを外しただけであんなにフリーになるものだろうか。ほかでもない、アジア杯の決勝で。

どこかのスクールで、李くんがボレーシュートの練習をするから周りの人はどいててね、といわれて身を引いたかのような…

さほどサッカーに入れ込んではいないが、人並みには観戦してきたつもりだが、公式戦であれほどフリーなシュートシーンは見たことがない。

長友くんのクロスと相まって、型にはまったときの、鬼のように美しいゴールシーンだった。

ごちそうさま。

閑話休題。

オーストラリアのFWキューウェルのこと。ドイツW杯当時から誰かに似ていると思い続けてきたが、ようやく気がついた。イタリアンの落合シェフにそっくりである。

それにしても、もうひとりのFWケーヒルとともに、レフェリーへのアピールがあまりに汚くてがっかり。落合シェフとは違って性格は悪そう。
31JAN.2011

live_on1 at 16:57スポーツ 

January 26, 2011

日韓戦のあとのあれこれ

サッカーアジア杯日韓戦のこと。

前稿でケチをつけたわりにはしっかりと見届けるのが失業者の気楽なところ。ただし、もちろん音は消して。

南アW杯パラグアイ戦後にも書いたが、PK戦は次へ進むチームを決めるための手続きにすぎない。昨夜の結果は正確には「勝ち」ではなく「引き分け」である。それにしても後味の悪いこと。あれだけ引いて人数をかけて守って、しかも、日程の不利があった韓国に120分目にゴールを決められるのはどうかと思う。

けさの報道を見ると川島はヒーロー扱いだが(PK戦だけにかぎっていえば文句はない)、もとはといえば川島が墓穴(2点目)を掘っている。カタール戦の2点目も(厳しくいえば1点目も止められなくはなかった!)自身の左側にぽっかりと穴をあけ、そこを衝かれている。

バイタルエリアでの日韓の違いは、ゴールスタイルに表れている。日本は型にはまれば鬼のようにきれいに決まる。対する韓国は条件が整っていなくても、形になっていなくても、とにかく打開して押し込む強さがある。

日本代表にとって昨夜のドローは「上々」以上の結果ではなかったか。

そこで思い出すのが、南アW杯のときに漏れ聞いた大橋巨泉のことば。90分プレーして1点かせいぜい2点しか入らない競技、どころか120分プレーしながら無得点でも「認定勝利」で次に進める競技を「僕はスポーツとして認めない。したがって観ることもない」と。

極論だとは思うが一理あるともいえる。サッカーは実力(地力)やゲームに注いだエネルギーと結果の間のギャップが大きすぎる競技である。おまけに、前稿で触れたレフェリングの難しさ(これは宿命)からくる誤審の多さが結果に直結してしまう。誤審がなくても点を入れるのがむずかしいのに、誤審で失点しようものならこれを覆すのは至難の業。先日のカタール戦は例外中の例外である。

ラグビーフェチにいわせれば、ラグビーのようにゆるやかなルール改正によってこの欠点をコントロールできないか、と思うのだが、ステークホルダーは多いし、歴史は分厚いし、無理だろうな… …
26JAN.2011


live_on1 at 16:33スポーツ 

January 24, 2011

娑婆の空気 秩父宮

22日土曜日、秩父宮ラグビー場へ出かけた。今シーズン初である。リタイヤしてから2ヶ月弱。久しぶりの娑婆であった。

久しぶりにバスに乗り電車に乗った。

むかし関東に出てきたときに、冬の好天を体験してしばらくは「異常気象」かと思ったと書いたことがあるが、この冬日本海側の荒天の報を聞き、かたや関東のカラカラ天気を体験すると、本当に「異常」なんだとつくづく思う。

そんなピーカンの空のもと、バックスタンドは例によってひなたぼっこの好適地。キックオフの70分前に着いたが、ベストポジションと思っているスタンド最上位の某席にはすでに先客がいた。それも年輩の女性の単独行。サンドイッチを食べたり文庫本を読んだり、場慣れした常連と見た。

その彼女が、キックオフ後しばらくするとポカポカ陽気につられたか、こくりこくり舟を漕ぎ始めた! これも一興である。

試合は、トップリーグ4位のサントリーが異様に堅いディフェンスで同1位の東芝を退けた。

いつものことながら前夜のサッカー・アジア杯の試合を思い浮かべていた。久々の快勝の陰でいつものように審判への不審が報じられていた。

同じ英国発祥の球技でありながら、両者の違いはレフェリーへの信頼感にあると思い知る。ラグビーにも誤審はあるが、頻度としてサッカーに比べ圧倒的に少ないし、ましてや選手からの抗議は絶無に近い。サッカーにおける笛の直後の抗議風景はじつに見苦しい。

ラグビーのプレーは荒々しいだけに、レフェリーの落ち着きぶりは出色で、あたかも猛獣使いのよう。笛だけではなく、口頭による鼓舞や諭しによって選手を、ひいては試合全体をコントロールする姿には実に威厳がある。サッカーをスタンドで観る気がしないのは主に観戦スタイルや騒音のせいであるが、このレフェリングの違いも大きい。

おりあしく隣の神宮球場でも試合があったようで、絶え間ない太鼓ラッパの騒音には辟易した。そういえば野球も、審判への抗議が見苦しいスポーツである。

スポーツにおける応援の騒々しさとレフェリーの威厳の間には逆相関があるのかもしれない。
24Jan.2011

live_on1 at 16:37スポーツ 

January 21, 2011

「…になります」って、何が?

レジで遭遇する「…からお預かりします」にはいまだに強い違和感がぬぐえない。「…でよろしかったでしょうか」なども同じ。聞けば、これらはバイト敬語というらしい。

検索すると、いろんなもっともらしい解説も出てくるが、日本語を学ぶ外国人がふえた昨今、おとなの側からはっきりノーというべきではなかろうか。

そうこうしているうちに最近さらに耳につくようになった表現は「…になります」(「これが当店自慢の…になります」etc.)。「…です」でいいところ、「なります」はないだろう、と思う。
21JAN.2011

live_on1 at 16:53エッセイ 

January 18, 2011

べーシック・インカム その8

新閣僚の与謝野が年金・社会保障は保険方式で、とのたもうた。民主党は与謝野登用と引き替えに税方式を見送るやの報道。

残念である。ベーシック・インカムの理念からすれば一歩後退である。与謝野はすでに70代。若い人たちに考えてほしいのは、年金に依存しないこんな高齢者たちに年金のことを任せていていいのかということ。もう一度あの名川柳を引こうか。

  年金はいらない人が制度決め

もっとも、現行制度が税方式であれ年金方式であれ、ベーシック・インカム導入の際には制度のスクラップ&ビルドが必須であるから、過度に悲観しなくてもいいのかもしれない。要は若者が先頭に立って、ベーシック・インカムを実現する運動が起きてほしいものである。

自殺者の数の話である。年間3万人超という数字の意味についてわれわれはもう少し想像力を巡らせるべきだろう。イラクでもアフガンでも、1年に3万人もの民間人(非戦闘員)が死んではいまい。戦争従事国でさえそうである。

戦争を放棄したはずの極東の高福祉国家日本で、生き延びるための戦いに破れて死んでいく人が、仮に経済的理由が8割として、年間2万4千人はいるということである。ただ死んでいくだけではない。国から見捨てられているのだ。

昨今の事業仕分けでも、財政再建のための議論でも不可触の聖域とされている防衛費。

ハードウェアとしての防衛力で守ろうとしているものは何か? 戦闘機が何機あれば上記の犠牲者が守れるのか? いわば、鎧甲に身を固めた戦士の身体が、一定の割合で着実に壊死していっている、そんなマンガチックな構図を想わざるをえない。

ひるがえって、ベーシック・インカムは、兵器では守ることのできないものを守る「防衛」力といえるかもしれない。
18Jan.2011


live_on1 at 15:49ベーシックインカム 

January 14, 2011

断捨離いくつか

最近、いずこからともなく断捨離ということばが耳に入ってくる。

定年退職の前後にはいろんな断捨離が、意図するとしないとに関わらず、起きてくる。

昨年春、生命保険を見直し、大きく減額したのは、もしかして、捨。定年を機に、同じ仕事を業務委託契約で続けることも可能だったが、やめたのは、断。仕事にも重宝した『日経xxx』の購読をやめ、ケーブルテレビを解約したのも、断。

始めてから37年、土日は必ず顔を出していたテニスコートから少し離れることにしたのは、離。

そして11日、かなり迷ったすえに、車を売却した。これは、捨。税金、保険、燃料費、駐車場料金などをならすと維持費が月3万円近くになっていた。2002年式の車なのに走行距離が5万キロに届いていなかった(それくらい利用頻度は低かった)ことを考慮すれば、遅きに失した決断だったかもしれない。

いざ手放してみると、この解放感はどうだ。慢性の肩こりが一挙に吹っ飛んだような、といえば少しは分かってもらえようか。

似たような状況で迷っている人には是非勧めてまわりたい、そんな気持ちである。おりしも朝刊では、自賠責保険料の上げや任意保険の上げが報じられている。保険会社によっては解約時の等級を10年間維持できる「中断証明書」を発行してくれる。
14Jan.2011

live_on1 at 10:37エッセイ 

January 12, 2011

べーシック・インカム その7

最近の朝日新聞の変調には目を覆いたくなる。

けさの朝刊の社説では「寄付文化を根づかせるには…」などと言い出した。

年末年始のタイガーマスク、矢吹丈騒動にまつわるTVや雑誌のダンスに相乗りしてしまったらしい。

寄付は止められるものでもないし、寄付者の善意を疑うものではないが、社会(システム)が寄付に依存するようになったらおしまいだろう(これも生の序列化)。

新聞は寄付が照射するシステムの穴(綻び)をこそ取り上げるべきである。個人の責に帰することのできない不幸を減少させるのがシステムなら、100%個人に帰することのできない成功から分け前をとるのもシステムである。

後者には相続税率の上げ、累進課税、実現していないが奢侈品の消費税率強化などがあるが、これらをあまりに強化すると創造的革新への推進力を殺ぐという見方もある。

後者の存在をある程度許容しながら(なくせるわけがない)、前者を、しかもその経済的因子に関わる部分だけでも、一掃しようというのがベーシック・インカムの利点と考える。

くどいようだが「寄付文化」の定義ってなに???
12Jan.2011

live_on1 at 11:33ベーシックインカム 

January 10, 2011

べーシック・インカム その6

8日の朝日新聞朝刊に「ホーム事故最悪ペース 酔客6割」とあってドキっとした。先に、鉄道人身事故の95%以上が投身自殺と書いたばかりだったから。

記事の中身を読んで納得。論旨は昨年4〜9月の死傷事故は117件で、このペースだと2008年度の最高記録216件を超えそうというもの。えらい少ない(!?)と思ったらカッコ書きに「自殺は除く」とあった。

なんのことはない。朝日の記者は95%ではなく5%のほうが気になるらしい。「…だからホームドアがあったほうがいいが、コストが嵩んで大変…」という茶飲み話のようなとりとめもない結論。

自殺の規模とセーフティネットの破れを対照させて論じることこそジャーナリストの責務ではないのか。

ネットでも、昨年の自殺者数は3万人を超えたが、減少傾向にあるとの記事が報じられていた。これまた、さまざまな対策が効果を挙げているとの趣旨であって、「依然として」3万人の大台が続いていることは気にならないらしい。

これほど続いたら、普通なら「システム」の問題と受け止めてよさそうなものなのに。

ふたたび朝日新聞。同紙は年明けから「孤族の国」という特集記事をとりあげているが、個別の事例をいくつとりあげたところで何が変わるだろう? へたをすれば、読者は「自分のことでなくてよかった」ぐらいの感慨で終わってしまうだろう。自称先進国日本の社会保障システム=セーフティネットの穴の大きさを測定してみせるくらいのことができないか。それを繕うのにベーシック・インカムはどうか、ぐらいのことが書けないか!?

もどかしいことこの上ない。
10JAN.2011

live_on1 at 16:03ベーシックインカム 

January 08, 2011

べーシック・インカム その5

いま一番大事なことは、賛成にしろ反対にしろ、ベーシック・インカムという単語が、一日でも早く、ひとりでも多くの人々の口にのぼること。

それこそ百家争鳴、哲学(実はもどき)の名をかりた反対論が出ることが予想される。たしかにBIには世界観や価値観が入り込む余地があって、完全に価値自由な議論ができない可能性がある。

望むらくは議論のレベルを間違えて無駄な論争が起きないことが大事! うまく交通整理できる御仁が出てくるかどうかが鍵である。ロッキード事件のときの立花隆のような。

たとえば、非正規雇用労働者(失業者を含めてプレカリアートと呼ぶ)の問題。これなど、いまはネガティブな話ばかりになってしまうが、BIを前提にすれば、いかに経済合理性が貫徹するかは、ちょっとした想像力があればすぐ分かる。

必要なときに必要なだけ労働力を調達したい(切りたい)経団連は派遣法を姑息にねじまげる必要はなくなる。小泉も竹中もいらない。(もしあったとして)良心の呵責も軽減されるだろう。

一方、プレカリアートは広くなった労働の定義のなかのひとつの選択肢として派遣労働やパートを選ぶことができる。あまりにひどい労働環境には遠慮なくノーと言える。BIがあればこそである。

3Kを選ぶ人がいなくなるという仮想反論があるらしいが、これも、労働市場に真の市場原理が働いて、「汚れ」仕事に就く労働者の賃金が大学教授のそれよりも高くなる可能性もある(これはこれでなぜか痛快な展開ではなかろうか)。

先に現下のデフレの原因は過少需要というよりも過剰供給・生産にあると書いたが、ことはもう少し複雑で、完全雇用を必要としない生産体制(しかも生産物は恒常的に過剰)が、プレカリアートの増加=購買力の低下に相対しているというのがより正確かもしれない。

けさの朝日新聞もE・トッドに対して「雇用問題」を連呼して訴えているが、労働=雇用関係という呪縛を脱しないかぎり解はないだろう。

衣食足りて礼節を知る。

誤解を恐れずにいえば、ベーシック・インカムがあってこそ「愛国心」は裏打ちされるだろう。
8Jan.2011

live_on1 at 18:01ベーシックインカム 

January 06, 2011

べーシック・インカム その4

今年の年賀状の幾葉かに与謝蕪村の句を引いた。昨年末に遭遇した句で、蕪村には珍しく俳句本来の滑稽味が出ている。

  追剥に褌もらふ寒さ哉

ところで、私的な状況にひきつけすぎかもしれないが、意外にもこれがダブル・ミーニングになっていることに気がついた。

保険料は雇用保険と厚生年金保険とふたつながら別枠でしっかりと払ってきたのに、いざ給付となると「どちらか一方だけ」という。やらずぶったくりとは言い過ぎかもしれないが、上限値で抑さえられた失業手当はまさに寒空のなかの褌である。

ベーシック・インカム(山森)が過渡期の社会保障をふくめて税方式を説くのは、筆者の持論でもあったが、納得できる。「保険」としてはすでに原理的にも運用的にも破綻している。

BIは労働観の再考を促していると書いたが、労働価値説への根本批判や土地所有への再考も促している。すなわち、

「社会の富は、現在の私たちの労働からだけではなく、過去の世代の労働の遺産からも成り立っているとすれば、その分は私たち全てが平等に継承できるもの」ではないのか。この一言でもって労働価値説は破綻している。また、

「この地球に生まれ落ちたという点で平等であるなら、一定の土地を平等に与えられなくてはならない」はずである。しかしそれは土地私有によって阻まれている。その補償としてベーシック・インカムが正当化されるという議論もある。

山森亮の『ベーシック・インカム入門』で印象的だったのは「生の序列化」という言葉だった。

現下の日本の社会保障制度は、本来権利であるべきことがらを「申請」と「選別」に委ね、狭い労働観に沿って「労働」も序列化し(家事を労働と認知しない制度は、介護を家事に準ずるものとして、低賃金に抑えこんでいる)、そこにはまた性別による差別も加わっている。
6Jan.2011

live_on1 at 11:04ベーシックインカム句・歌・詩 
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