May 2016
May 26, 2016
蟻地獄
「つぎ」つぎと「なり」ゆく「いきほひ」…
闘いとるのでもなく、築きあげるのでもなく、ただただ「なり」ゆくのがこの国の『歴史意識の古層』(丸山真男)らしい。
1999 周辺事態法、国旗・国歌法、盗聴法
2003-04 有事法制
2014 特定秘密保護法
2015 一連の安保法制(いわゆる戦争法)
さしたるチェックも機能せずに進行する上の事態は、まるで蟻地獄に向かって砂の坂を転がり落ちていくようではないか。この「なり」ゆく「いきほひ」を、だれが、なにが食い止められるというのか。
政治を見ても、報道の自由度72位のメディアを見ても、ただただ悲観あるのみ。
そして、国民も…
先日のTV番組でのこと。1945年樺太に侵攻したソ連軍によって15歳で家族と切り離され、シベリアの収容所を転々し、最後は死を待つ収容所に入れられた男性86歳が出てきた。もちろん親の死に目にはあえていない。かれは生き残ったが、その陰に彼の地で亡くなった同胞は数千を数えるという。壮絶というしかない運命を生き抜いたかれを見て、スタジオのゲストらは涙を流していたが、そして、戦争はいけないという雰囲気におさめていたが、原爆と同じくソ連の参戦を見る前に止めようと思えば戦争は止められたことをどれだけ分かっているか!?
涙を流したゲストらも、国が勲章をやるといったらすんなり受けるだろうことが分かりきっているだけに苦々しい。今なら授与者はアキヒトだが、世が世ならヒロヒトだったわけで、…、…
辞退できる気骨ある国民はどれだけいるか?
先に国連の「報道の自由度」調査官が訪日した折、菅やメドゥーサ高市に面会を求めたが、ふたりは逃げまわって実現しなかったという。やってることに信念と自負があるなら、受けて立ち「日本に報道の自由はいらない」と答えればいいのに。
例によって、都合の悪いことは無視し、かつ無視し続ければ、「いきほひ」に乗っかってことは「なり」ゆくとばかり…
26May2016
闘いとるのでもなく、築きあげるのでもなく、ただただ「なり」ゆくのがこの国の『歴史意識の古層』(丸山真男)らしい。
1999 周辺事態法、国旗・国歌法、盗聴法
2003-04 有事法制
2014 特定秘密保護法
2015 一連の安保法制(いわゆる戦争法)
さしたるチェックも機能せずに進行する上の事態は、まるで蟻地獄に向かって砂の坂を転がり落ちていくようではないか。この「なり」ゆく「いきほひ」を、だれが、なにが食い止められるというのか。
政治を見ても、報道の自由度72位のメディアを見ても、ただただ悲観あるのみ。
そして、国民も…
先日のTV番組でのこと。1945年樺太に侵攻したソ連軍によって15歳で家族と切り離され、シベリアの収容所を転々し、最後は死を待つ収容所に入れられた男性86歳が出てきた。もちろん親の死に目にはあえていない。かれは生き残ったが、その陰に彼の地で亡くなった同胞は数千を数えるという。壮絶というしかない運命を生き抜いたかれを見て、スタジオのゲストらは涙を流していたが、そして、戦争はいけないという雰囲気におさめていたが、原爆と同じくソ連の参戦を見る前に止めようと思えば戦争は止められたことをどれだけ分かっているか!?
涙を流したゲストらも、国が勲章をやるといったらすんなり受けるだろうことが分かりきっているだけに苦々しい。今なら授与者はアキヒトだが、世が世ならヒロヒトだったわけで、…、…
辞退できる気骨ある国民はどれだけいるか?
先に国連の「報道の自由度」調査官が訪日した折、菅やメドゥーサ高市に面会を求めたが、ふたりは逃げまわって実現しなかったという。やってることに信念と自負があるなら、受けて立ち「日本に報道の自由はいらない」と答えればいいのに。
例によって、都合の悪いことは無視し、かつ無視し続ければ、「いきほひ」に乗っかってことは「なり」ゆくとばかり…
26May2016
May 16, 2016
さらば司馬遼太郎
オバマ大統領が広島を訪問するという。
(のっけに余談だが、先日当選したフィリピンのトランプ、ドゥテルテ、弾劾されたルセフ、独裁者プーチンなど、なげかわしいのが多いなかに、オバマは地球規模で、大統領らしい最後の大統領だったということになるのではないか…)
TV報道はおおむねアベ政権の手柄であるかのようなトーン。その際、「これは謝罪のための訪問ではない」との米報道官の言明を挿入するのを忘れず、国民に釘をさす。
その国民が、オバマの謝罪なし訪問を「大目に見てやる」かのような上から目線で満足感にひたっているとしたら、勘違いもはなはだしい。
そのむかし久間元防衛大臣が「戦争を終わらせるには(原爆投下は)しょうがなかった」と発言し、総スカンを食って辞任させられた*1)。ないものねだりだが、なぜ久間は「何がおかしい」と言って反論しなかったか…! 議論が広く行なわれた場合、不可触の一点に触れざるを得ないからである。こういう自己抑制・自主規制が働くのがこの国の言論空間の陰湿さである。
端的にいえば、久間発言は半ば正しく半ば間違っている。原爆投下後にあってさえ、御前会議で継戦論と降伏論が拮抗したことをみれば、結果的には「しょうがなかった」。一方、新型爆弾を落とされる前に戦争を終らせる機会がなかったかといえば、幾度もあった!! その意味で「しょうがなくはなかった」。
1945年2月、近衛文麿が降伏を進言(近衛上奏文)するも、ヒロヒトは「もう少し戦果をあげてから」と退ける。取り巻き連中はすでに必敗を覚悟し、戦後処理としてヒロヒトの退位、仁和寺への隠遁まで道筋を考えていたのだ。
3月、すっかり制空権を握られていた日本の空はB29のやりたい放題だった。東京大空襲では10万を超える犠牲者が出た。東京に限らず、地方の都市も軒並み焼夷弾の餌食とされ焼け野原となっていった。古井由吉など、東京で焼け出され、母の実家大垣まで逃れてそこでも焼け出されている。
6月、沖縄は本土決戦を先延ばしにするためだけの捨て石にされた。ここでも民間人を含む10数万人の犠牲者が出た*2)。
そして8月6日、9日である。少なくとも20万人!
2月の時点で降伏しておけば、どれだけの日本人が命を落とさずにすんだか…!!
したがって日本人は、アメリカに対して「なぜわが国に原爆を落としたか」を問う前に、「なぜ日本は原爆投下を見る前に降伏できなかったのか」を問うべきなのである。
同じ論法で、極東(東京)裁判の瑕疵をあげつらうのはいいとして、ならば、なぜ同等以上の熱心さでみずから責任追及法廷を開かなかったのかを問うべきなのである。
しかし戦後日本人は上記いずれをもサボったままである。おそらくは不可触の一点を守るために。
まず黙し、かつ黙し続ければ、やがてあったことはなかったことになる、という歴史修正主義の準則を身につけ、降伏を遅らせた張本人を好々爺たらしめた戦後日本人は、1945年2月にヒロヒトの退位を考えていた取り巻き連中に比べても、倫理的によほど退化したと言わざるをえまい。
折も折、司馬遼太郎のある発言に遭遇。宮崎駿がもちかけた堀田善衞との鼎談『時代の風音』である。司馬のヒロヒト評価についてはあやしいと思いつつずっと判断を留保していた。ところが、この鼎談中、司馬がヒロヒトの戦争責任なしを美濃部達吉の天皇機関説を援用して断言していたのである。堀田(たぶん宮崎も)の鼻白んだ様子が、暗黙(両者フォローせず)の紙面から漂っていた。
司馬は後年、国を憂え、国民の倫理観に訴え諭すような文章を書いていたが、当の国民の倫理観の根っこを腐らせているヒロヒトの責任問題についての司馬の判断がこれでは、のれんに腕押しというか、押すほうも押されるほうも根なし草みたいなもの…(ヤレヤレ)…
*1) メディアまでがこぞって久間に石を投じたが、この時がヒロヒトの責任問題を論ずる最後の機会だったかもしれない。先般この国の報道自由度は世界72位と報じられたが、天皇・皇室にかんする不自由度は査定されているのだろうか? もし査定されていたら、順位は二桁では済まなかった気がする。とりわけ最悪なのは日本のメディアがこのことにさしたる危機感を持っていないらしいこと。
*2) 戦後、安保締結時、沖縄を基地に使わせてくれとのアメリカの要求に対し、「50年といわず、永久に使ってくれていい」と沖縄を「差し出した」のはほかならぬヒロヒトだった。ヒロヒトは、大田司令官の「県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」との遺言に対し、巨大なマイナスの「御高配」をもって報いたのである。
16May2016
(のっけに余談だが、先日当選したフィリピンのトランプ、ドゥテルテ、弾劾されたルセフ、独裁者プーチンなど、なげかわしいのが多いなかに、オバマは地球規模で、大統領らしい最後の大統領だったということになるのではないか…)
TV報道はおおむねアベ政権の手柄であるかのようなトーン。その際、「これは謝罪のための訪問ではない」との米報道官の言明を挿入するのを忘れず、国民に釘をさす。
その国民が、オバマの謝罪なし訪問を「大目に見てやる」かのような上から目線で満足感にひたっているとしたら、勘違いもはなはだしい。
そのむかし久間元防衛大臣が「戦争を終わらせるには(原爆投下は)しょうがなかった」と発言し、総スカンを食って辞任させられた*1)。ないものねだりだが、なぜ久間は「何がおかしい」と言って反論しなかったか…! 議論が広く行なわれた場合、不可触の一点に触れざるを得ないからである。こういう自己抑制・自主規制が働くのがこの国の言論空間の陰湿さである。
端的にいえば、久間発言は半ば正しく半ば間違っている。原爆投下後にあってさえ、御前会議で継戦論と降伏論が拮抗したことをみれば、結果的には「しょうがなかった」。一方、新型爆弾を落とされる前に戦争を終らせる機会がなかったかといえば、幾度もあった!! その意味で「しょうがなくはなかった」。
1945年2月、近衛文麿が降伏を進言(近衛上奏文)するも、ヒロヒトは「もう少し戦果をあげてから」と退ける。取り巻き連中はすでに必敗を覚悟し、戦後処理としてヒロヒトの退位、仁和寺への隠遁まで道筋を考えていたのだ。
3月、すっかり制空権を握られていた日本の空はB29のやりたい放題だった。東京大空襲では10万を超える犠牲者が出た。東京に限らず、地方の都市も軒並み焼夷弾の餌食とされ焼け野原となっていった。古井由吉など、東京で焼け出され、母の実家大垣まで逃れてそこでも焼け出されている。
6月、沖縄は本土決戦を先延ばしにするためだけの捨て石にされた。ここでも民間人を含む10数万人の犠牲者が出た*2)。
そして8月6日、9日である。少なくとも20万人!
2月の時点で降伏しておけば、どれだけの日本人が命を落とさずにすんだか…!!
したがって日本人は、アメリカに対して「なぜわが国に原爆を落としたか」を問う前に、「なぜ日本は原爆投下を見る前に降伏できなかったのか」を問うべきなのである。
同じ論法で、極東(東京)裁判の瑕疵をあげつらうのはいいとして、ならば、なぜ同等以上の熱心さでみずから責任追及法廷を開かなかったのかを問うべきなのである。
しかし戦後日本人は上記いずれをもサボったままである。おそらくは不可触の一点を守るために。
まず黙し、かつ黙し続ければ、やがてあったことはなかったことになる、という歴史修正主義の準則を身につけ、降伏を遅らせた張本人を好々爺たらしめた戦後日本人は、1945年2月にヒロヒトの退位を考えていた取り巻き連中に比べても、倫理的によほど退化したと言わざるをえまい。
折も折、司馬遼太郎のある発言に遭遇。宮崎駿がもちかけた堀田善衞との鼎談『時代の風音』である。司馬のヒロヒト評価についてはあやしいと思いつつずっと判断を留保していた。ところが、この鼎談中、司馬がヒロヒトの戦争責任なしを美濃部達吉の天皇機関説を援用して断言していたのである。堀田(たぶん宮崎も)の鼻白んだ様子が、暗黙(両者フォローせず)の紙面から漂っていた。
司馬は後年、国を憂え、国民の倫理観に訴え諭すような文章を書いていたが、当の国民の倫理観の根っこを腐らせているヒロヒトの責任問題についての司馬の判断がこれでは、のれんに腕押しというか、押すほうも押されるほうも根なし草みたいなもの…(ヤレヤレ)…
*1) メディアまでがこぞって久間に石を投じたが、この時がヒロヒトの責任問題を論ずる最後の機会だったかもしれない。先般この国の報道自由度は世界72位と報じられたが、天皇・皇室にかんする不自由度は査定されているのだろうか? もし査定されていたら、順位は二桁では済まなかった気がする。とりわけ最悪なのは日本のメディアがこのことにさしたる危機感を持っていないらしいこと。
*2) 戦後、安保締結時、沖縄を基地に使わせてくれとのアメリカの要求に対し、「50年といわず、永久に使ってくれていい」と沖縄を「差し出した」のはほかならぬヒロヒトだった。ヒロヒトは、大田司令官の「県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」との遺言に対し、巨大なマイナスの「御高配」をもって報いたのである。
16May2016
May 11, 2016
日々是瞠目
きのう23時、デスクで就寝前の血圧測定をしていると、デスクスタンドの蛍光管が切れた。
6年、いなそれ以前から使っていたからよく保ったとおどろく。
すでに落としていたPCを立ち上げていつもの通販にアクセス。そもそもまだ蛍光管はあるのかと思いつつ品番を打つと、なんと3社の製品が出てきてびっくり。品番はメーカー独自のものでなく、いわゆるジェネリックプロダクトだった。
「注文確定」の際、お届け日がきょうとあるので、時間が時間だけに「えっ」となり、半信半疑で待っていると、昼過ぎほんとうに届いたのにはびっくり! 次の使用タイミングに間に合って照明のロスは1分もなかったわけである。
居ながらにして、とはこのこと。すごい時代になったものである。さらに、
この間、二度ほど配送状況照会していた(!)自分にもびっくりする。
***
BSプレミアムの「新日本風土記」を観、番組の締めで朝崎郁恵の「あはがり」を聴くたびに不思議な思いにとらわれる。
そこが日本のどの土地、どの町であれ、彼女の歌声とあの旋律が、その回のために誂えたようにピタリとはまり、これしかないと思えることが…
毎回欠かさずとはいえないが、過去に観た「東京」の回でさえ、まったく違和感がなかった。
この感じ方は共感してもらえるものなのか、それとも個人的なものなのか…?
脳のいずこかに、奄美の島唄に感応するニューロンがあるのだろうか?
11May2016
6年、いなそれ以前から使っていたからよく保ったとおどろく。
すでに落としていたPCを立ち上げていつもの通販にアクセス。そもそもまだ蛍光管はあるのかと思いつつ品番を打つと、なんと3社の製品が出てきてびっくり。品番はメーカー独自のものでなく、いわゆるジェネリックプロダクトだった。
「注文確定」の際、お届け日がきょうとあるので、時間が時間だけに「えっ」となり、半信半疑で待っていると、昼過ぎほんとうに届いたのにはびっくり! 次の使用タイミングに間に合って照明のロスは1分もなかったわけである。
居ながらにして、とはこのこと。すごい時代になったものである。さらに、
この間、二度ほど配送状況照会していた(!)自分にもびっくりする。
***
BSプレミアムの「新日本風土記」を観、番組の締めで朝崎郁恵の「あはがり」を聴くたびに不思議な思いにとらわれる。
そこが日本のどの土地、どの町であれ、彼女の歌声とあの旋律が、その回のために誂えたようにピタリとはまり、これしかないと思えることが…
毎回欠かさずとはいえないが、過去に観た「東京」の回でさえ、まったく違和感がなかった。
この感じ方は共感してもらえるものなのか、それとも個人的なものなのか…?
脳のいずこかに、奄美の島唄に感応するニューロンがあるのだろうか?
11May2016
May 07, 2016
独裁者でなければポピュリスト
一発勝負の選挙ならともかく、あれだけ投票を繰り返してなおかつトランプが消えなかった、どころか独走したのには驚いた。
政策そっちのけで放言を連発するポピュリストについていくアメリカ国民(じつは共和党員)の「浅はかさ」を日本のメディアや日本人は上から目線で嗤っているが、一足先にポピュリスト安倍を政権につけた自覚はあるのかどうか。
さっそくアベは「米新政権とも同盟を深化させる」と発言したらしいが、「アメリカをもう一度強い国に」と吠えるトランプと、「日本を取りもどす」と絶叫したアベが相まみえたら、どんなファルスが生まれるのか、それはそれで興味は尽きないが、視点の高度を徐々に上げていくと何が見えてくるか?
見わたせば、世界は、独裁者(政権)とポピュリスト(政権)で充ち満ちてきたのではないか。海面上昇によって存立を脅かされる島嶼国なみに、成熟した民主主義国は孤島化の一途をたどってはいないか?
高度化したはずの資本主義+グローバリズムは、つまるところ、経済循環の一局面だったはずの不況と高失業が常態化するシステムと化してしまった。翻弄される庶民の苦境をよそに、意気軒昂なのは金融資本、そして独裁者とポピュリストのみ。それを裏づけたのがパナマ文書だろう。
パナマ文書で浮上したやつらはみずからの選択というよりは、メガバンクや巨大投資銀行の使嗾によって甘い汁をすっているわけで、表立っては対立し喧嘩しているように見えて、実は権力者同士、蓄財仲間として十分すぎる「相互理解」や「紐帯」があると思われる。
7May2016
政策そっちのけで放言を連発するポピュリストについていくアメリカ国民(じつは共和党員)の「浅はかさ」を日本のメディアや日本人は上から目線で嗤っているが、一足先にポピュリスト安倍を政権につけた自覚はあるのかどうか。
さっそくアベは「米新政権とも同盟を深化させる」と発言したらしいが、「アメリカをもう一度強い国に」と吠えるトランプと、「日本を取りもどす」と絶叫したアベが相まみえたら、どんなファルスが生まれるのか、それはそれで興味は尽きないが、視点の高度を徐々に上げていくと何が見えてくるか?
見わたせば、世界は、独裁者(政権)とポピュリスト(政権)で充ち満ちてきたのではないか。海面上昇によって存立を脅かされる島嶼国なみに、成熟した民主主義国は孤島化の一途をたどってはいないか?
高度化したはずの資本主義+グローバリズムは、つまるところ、経済循環の一局面だったはずの不況と高失業が常態化するシステムと化してしまった。翻弄される庶民の苦境をよそに、意気軒昂なのは金融資本、そして独裁者とポピュリストのみ。それを裏づけたのがパナマ文書だろう。
パナマ文書で浮上したやつらはみずからの選択というよりは、メガバンクや巨大投資銀行の使嗾によって甘い汁をすっているわけで、表立っては対立し喧嘩しているように見えて、実は権力者同士、蓄財仲間として十分すぎる「相互理解」や「紐帯」があると思われる。
7May2016
May 01, 2016
安西祐一郎『心と脳』
「看板に偽りあり」が率直な感想。心と脳と言われれば、ふつう心身問題を思い浮かべるわけで、そんな期待で手にとったが、はぐらかされた。「認知科学史」、それも「序説」とでもいうべき内容。まじめだが、ひたすら浅く、網羅的。
そうした欲求不満の読書中、とつぜんラマチャンドランの『脳のなかの幽霊』を思い出して早速図書館に予約。読み始めたら面白くてたまらない。
いっとき認知科学や脳に興味をもっていろいろと読んだが、そしてラマチャンドランの著作もその評判は知っていたが、なぜか読む機会がなかった。
あらためて、科学啓蒙書の彼我の差を思い知る。日本のそれはまじめで客観的かもしれないが、それを気にするあまり退屈なものになりがち。実証された学説だけを紹介されても読者は満足感を得られない。欧米の研究者・ライターは客観事例を紹介するなかで、その含意やそこから立ち上がる自分なりの仮説や「哲学」を書くのをためらわない。
ごく狭い読書範囲で唯一の例外は、少壮の研究者池谷裕二の『単純な脳、複雑な「私」』だった。このタイトルの絶妙なウィットはどうだ!
心脳問題は直観や推理や哲学が先行できるふしぎな分野である。認知科学は科学であるための実験実証に時間がかかりすぎるために、こうした「哲学」に追いつくのが大変だった印象がある。そのうち、ラマチャンドランや池谷、ノレットランデルシュみたいな研究者が、素人哲学者の直観を裏切る事例を持ち出してきて、ようやく「哲学」を出し抜くことができてきた。
「脳は、あなたたちが考えるよりもはるかに複雑and/or単純なんですよ」と。
しかしである。ラマチャンドランも序論で書いているが、人間の心にかんする最大の未解決問題は依然として「意識とは何だろうか?」であるはず。「脳のなかにある小さな原形質(ニューロン)の集合の活動がどのようにして意識体験となるのか?」。
長い進化の過程を経て数百億の神経細胞まで数を増やした脳。これほど膨大な細胞群が、知覚に流れ込むインプットのほとんどを見過ごしながらも(ノレットランデルシュ)、想像もつかない超並列処理を始めた。
そしてある時、この超並列処理のなかに、ふっと自己再帰的な回路が立ち上がったのである。
この回路こそ意識の原形ではないのか。すると、この回路が立ち上がる条件や機微こそがわれわれの知りたいことである。この立ち上がりのためには、細胞の数や組織の複雑度に客観的な閾値があるのかないのか、etc.、etc.、…?
1May2016
そうした欲求不満の読書中、とつぜんラマチャンドランの『脳のなかの幽霊』を思い出して早速図書館に予約。読み始めたら面白くてたまらない。
いっとき認知科学や脳に興味をもっていろいろと読んだが、そしてラマチャンドランの著作もその評判は知っていたが、なぜか読む機会がなかった。
あらためて、科学啓蒙書の彼我の差を思い知る。日本のそれはまじめで客観的かもしれないが、それを気にするあまり退屈なものになりがち。実証された学説だけを紹介されても読者は満足感を得られない。欧米の研究者・ライターは客観事例を紹介するなかで、その含意やそこから立ち上がる自分なりの仮説や「哲学」を書くのをためらわない。
ごく狭い読書範囲で唯一の例外は、少壮の研究者池谷裕二の『単純な脳、複雑な「私」』だった。このタイトルの絶妙なウィットはどうだ!
心脳問題は直観や推理や哲学が先行できるふしぎな分野である。認知科学は科学であるための実験実証に時間がかかりすぎるために、こうした「哲学」に追いつくのが大変だった印象がある。そのうち、ラマチャンドランや池谷、ノレットランデルシュみたいな研究者が、素人哲学者の直観を裏切る事例を持ち出してきて、ようやく「哲学」を出し抜くことができてきた。
「脳は、あなたたちが考えるよりもはるかに複雑and/or単純なんですよ」と。
しかしである。ラマチャンドランも序論で書いているが、人間の心にかんする最大の未解決問題は依然として「意識とは何だろうか?」であるはず。「脳のなかにある小さな原形質(ニューロン)の集合の活動がどのようにして意識体験となるのか?」。
長い進化の過程を経て数百億の神経細胞まで数を増やした脳。これほど膨大な細胞群が、知覚に流れ込むインプットのほとんどを見過ごしながらも(ノレットランデルシュ)、想像もつかない超並列処理を始めた。
そしてある時、この超並列処理のなかに、ふっと自己再帰的な回路が立ち上がったのである。
この回路こそ意識の原形ではないのか。すると、この回路が立ち上がる条件や機微こそがわれわれの知りたいことである。この立ち上がりのためには、細胞の数や組織の複雑度に客観的な閾値があるのかないのか、etc.、etc.、…?
1May2016