December 12, 2016

受賞者ではなく授賞者が問題

ボブ・ディランはちっとも悪くない。むしろ被害者である。スウェーデン・アカデミーの特異なクセ(既述)、気まぐれの犠牲者である。

この授賞について、BS1はイギリスでの公開討論会の様子を報じていた。pro & con 双方とも大学教授をたてての本格的なもの。

聞いていると、議論が「ディランの業績はノーベル文学賞にふさわしいかどうか」から、「歌詞は文学か」というマージナルな方向へとずれていくのが分かる。あげくは、「歌手が受賞して何が悪い」と贔屓の引き倒しのようなファン心理が、自分もファンのひとりだが、透けて見える。

pro の議論にとって致命的なのは、百歩譲って「歌詞も文学である」を受け入れたとして、ではだれもが異論のない文学の本流に歌手ディランよりふさわしい文学者がいなかったかという設問に返す言葉がないことだろう。

ディランの授賞式欠席は至当の選択であり、その賢明さにあらためて感じ入った。


前にここで、ノーベル文学賞は賞金を分割してでも受賞者を三人にしてはどうかと「提言(?)」した。今回のディランへの授賞という逸脱は、それが三人中のひとりだったら、おとなの分別で看過できたのではないか。
12Dec.2016




live_on1 at 10:43エッセイ | 句・歌・詩 
月別アーカイブ
記事検索
QRコード
QRコード
Recent Comments
  • ライブドアブログ