May 04, 2019

成れの果て

日本の文化の特徴は様式(化)である。型、形といってもよい。英語なら、style、mode、form、あたりか。和歌、俳句、歌舞伎、能、… あげく、茶の飲み方(茶道)、花の生け方(華道)にまで「道」をつける。どころか、「道」のなかに、わけの分からない差異をもうけて「〇〇流」「〇〇家」をたてて家元制度をつくる。世界に類がないのではなかろうか。

様式そのものはニュートラルな概念だが、スノッブたる日本人の弱点は、内容内実内包を忘れて形に入れあげること。ほとんど病の域である。だから儀式という儀式が大好きである。大喪の礼から入学式、開会式、さまざまの行事まで、式を式として成立させることが内容に優先する。神社に参るのでも、ここは二礼二拍、あちらは二礼四拍とかしましい。自分など形式に囚われているうちに祈りの内実を忘れてしまい、自嘲するばかり。

反動として、型にはまらない(はまれない)者を異化し排除する。いじめやひきこもりの、唯一ではないが有力な原因ではなかろうか。

元号もそうした型偏重のひとつである。時代を、出来事の識別を、生身の人間の寿命にリンクして呼称し記録するという異形の形式。

(ここからは、ここで何度か触れたが、何度でも繰り返し書く価値があると思うので…)

世界が記憶し記録するHiroshima、Nagasakiはあくまでも1945年であって、昭和20年ではない。Fukushimaは2011年である。平成23年ではない。元号を使う者らはこれらの世界史的意義を取りこぼし続けるだろう。

1945年8月、日本は破滅の淵に、いな破滅そのものだった。そんな国家にとって極限の凶事がまるでなかったかのように、たまたまテンノーヒロヒトが生き延びたために、昭和という元号を続けてしまった! 昭和どころか、元号制度そのものを廃止して当然だったのにである。こんなシンプルなことを、この国の報道メディアはなぜこの機会にとりあげないのか? ごく少数であれ、こうした反対論があることをなぜ取り上げないのか? (ネットでは芸人タモリやカズレーザーの「よいしょ発言」を気の利いたコメントとしてもてはやしているが、噴飯物である。日本人の歴史(とくに現代史)認識はかくまで幼稚化痴呆化してしまった)

いくら形式偏愛とはいえ、戦前戦後を昭和という単一の呼称で括って平然としている日本人は、本当に反省したと言えるのか!?

金銭問題を別にすれば、韓国に指摘されるまでもなく(テンノーが謝ってすむ話でもない)、日本人は本当には反省していない。

スノッブ日本人が支える自民党的スノビズム政治の成れの果てである。
4May2019

live_on1 at 11:25政治・歴史  
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