May 29, 2019

上田秋成 末期のことば

前稿で紹介したように、秋成は孤高の批評眼をもち、歯に衣着せぬ物言いの男だった。そんな男の末期のことばは、山田風太郎によれば、

 ああ天は何すれど我を生みしか

であったと。『雨月物語』をものした男にしてこれである。「お国のために生きた」などと勘違いして勲章「命」のスノッブ連中の対極にある自己卑下。

そんな秋成は、前年末に亡くなった蕪村の訃報に接して句を詠む。

 かな書の詩人西せり東風吹て

厳しい批評家の故人にたいする無言のリスペクトが感じられて、蕪村ファンとしてこの上なくうれしい。

***

現代のアンチスノッブ辺見庸の『月』を読んでいたら、蝶を一頭二頭と数える場面が出てきてびっくり。調べると、なるほどこれが正しい数え方らしい。

だが、これを豆知識として子供たちに教えようとして、ふと安西冬衛の短詩を思い出していた。

 てふてふが一匹韃靼海峡を渡って行った

一匹二匹も誤用とまでは言いきれないらしい。
29May2019

live_on1 at 10:31 

February 05, 2019

辺見庸『1★9★3★7』 3

初版の副題には「記憶の墓をあばけ!」とある。

読了後、唐突に山崎方代の短歌をおもいだす。

 私が死んでしまえばわたくしの心の父はどうなるのだろう

辺見は堀田善衞の『時間』をたて糸に大状況を論ずるだけでなく、よこ糸として実父の従軍と後半生をあばくという苦行をみずからに課している。方代の自問は辺見の自問でもあったのではないか。

南京大虐殺の当事者・実見者はほぼ鬼籍に入ったことだろう。日本の戦後をのみ下すことのできない辺見のような「変人」が死に絶えたとき、ニッポン(ジン)の歴史認識はまさしく、どうなるのだろう? この国の20世紀史は、墨をぬられたまま、あるいは捏造されたまま永遠に凍結してしまうのか!!? (あとは猿の惑星・・・)

いな、この国のサル山化はいましも着々と進行中。つぎの元号に使われる漢字は何かとクニをあげてうかれ騒ぎ、一か月前の発表は許しがたいと石化脳の右翼サルが吠えている。


またまた唐突に、W・G・ゼーバルトをおもいだす。ドイツに生まれ、戦後ドイツの反省・総括・教育(われわれからすればまぶしいくらいに模範的と思えるそれ)を、いまだ不十分と糾弾しつづけ、それが影響したか、英国に移住しそこで客死した男。

石にも刻さんとする辺見の気迫みなぎる硬質な文体も好きだが、静謐なしかし持続する強い意思を感じさせるゼーバルトの文体も好きである。
5Feb.2019

追記:町田市の図書館は、南京大虐殺を中国人の視点で描いた堀田善衞の『時間』を「貴重図書」「特別閲覧」などとマーキングして、貸出・閲覧に制限を課している。君が代起立斉唱強制に特に積極的な教育委員会をもつ市ならではの措置と見え、胃が重くなるような不気味さを感じる。

live_on1 at 10:44 

February 04, 2019

辺見庸『1★9★3★7』 2

1938年、南京攻略完遂を記念する式典でのこと。虐殺を指揮した佐々木到一中将は君が代を聴きながら、恍惚感にうたれ、オルガスムスとまごうばかりに陶然とする。(佐々木はこのことを戦中日記に残していた)

君が代は、ことほどさように血塗られ、呪われている。それを戦後、悔い改めたはずの戦後、なにごともなかったかのように、しれっと国歌と定め、定めただけでなく、教育現場で子供ら教師らに起立斉唱を強いる。こんな国がどこにあるだろう!?

自国の歴史を踏まえて君が代の起立斉唱を拒む少数者の人権が、無自覚無感覚の多数者によって蹂躙される、こんな国がどこに…

ドイツではナチにかんする教育を義務づけ、年間の講義時間を規定しているという。かたやこの国では、ナニモノかに忖度して、サボタージュを決め込んでいる。この劇的な差はどこから来るのか?

それにしても、ここ2、3年のこと、NHKがBS1で散発的に、しかし何度も、ナチにかんするモノクロの記録映像を流すのに気づく。それ自体は悪くないが、それならなぜ、せめて同じくらいのやる気で自国の中国侵略から太平洋戦争敗戦までを特集しないのか!? その黒歴史に天皇制が果たした役割を照射し、啓蒙しないのか!? いまこそ天皇制存続の是非を問う絶好の機会ではないか。

アベら歴史修正主義者たちは、メディアのこうした無為無策に乗じている。

辺見は珍しく気弱につぶやく。「亡命先はいっこうにおもいあたらないのだが、どこかに亡命してみたい」と。同感である。
4Feb.2019

live_on1 at 10:38 

January 31, 2019

辺見庸『1★9★3★7』

読みたいというより、読まなければいけない本と思っていた。しかし手にしたのは出版から4年もたっていた。

1937年暮れから翌年にかけて日本帝国陸軍が南京で犯した大虐殺についておおよそのことは知っていた。それを改めて細部にわたりおさらいをさせられることは、正直気が重かったのである。一読者でさえこうである。ガンと脳出血の後遺症のなかでこれを書ききった辺見の力業、精神力にただただ頭が下がるばかり!

本に比重というものがあるならば、さしずめこれ一冊をもって毎年発行されるゴミのような数万冊に匹敵するのではないか。いな、そもそも日本人のだれもが見ざる聞かざる言わざるを決め込んでいる(もっと正確にいえば、知らないという自覚さえない)史実を暴こうという辺見の意図のかけがえのなさを思えば、何かと比べること自体が笑止である。そう、比類なき偉業である。

この場で何度も言及した、この国の20世紀前半の歴史(教育)の穴、黒塗り、あったことをなかったことにせんとする歴史修正(捏造)主義を粉砕しうるポテンシャルを持つと思うが、それにはまずこれが多くの人びと、とくに若い人たちに読まれなくてはならない。実際にどれだけ読まれ、受容されたのだろうか?
31Jan.2019

live_on1 at 16:38 

December 25, 2018

中村文則『教団X』

2年ほど前だったか、随分話題になり図書館で予約しようとしたら長蛇の待ち行列で諦めた記憶がある。最近ふと思い出してトライするとすんなり確保できた。

読後すぐに浮かんだ感想は、図書館が10冊も購入するような作品ではない、というもの。

プロットの見透しも悪く、人物の描写は独白や会話中心で、人物像はあくまでも抽象的。かりに読み違えても違和感がないほど登場人物は交換可能と見えた。

感心させた点は創作性ではなく歴史認識の部分だった。四半世紀ちょい年少の中村が勉強家で、この国の現代史ボイコットを自力で克服しようとしているかに見えた。

〇太平洋戦争に至る過程の混乱と出鱈目さ。日清日露で増長した軍部の自己過信と跳梁するテロに翻弄される政治の脆弱さ
〇検証に堪えない暴挙としての開戦の決断
〇兵への陰湿ないじめと兵站の軽視。日本兵の死因の大半は餓死と病死だったこと。「食うな、戦え、捕まれば死ね!」
〇靖国のイデオロギー性、東京裁判批判の欺瞞
〇そこに参拝を繰り返す超党派議員団や右翼政権の欺瞞。拗ねた盲信と野望がありながら、「あの戦争は正しかった」と世界に向けては公言しない陰湿さ。

しかしである。ここまで一貫した認識をえておきながら、腰が抜けるほどがっかりさせられたのは、かれが天皇制批判だけは棚上げにしていること。かつ、天皇ヒロヒトの戦争責任に一切言及していないこと! この勉強家にしてこれかと…


中村の歴史認識でもうひとつ感心したのは。いままさに進行中の熱々の現代史について。

政治難民、テロ、内戦、独裁、etc. 前世紀、南北問題といわれたものが、世紀をまたいで緩和されるどころか、苛酷さと絶望度を加えている。日本人はもちろん、難民受け入れを拒む欧米諸国の国民が知らない(知らされていない)ことは、難民・テロ・内戦・独裁の出自・経緯を遡れば、そのほとんどが、途上国への大国の干渉、なかんずく金融資本や多国籍企業や軍需産業の陰謀と暗躍にいきつくということ。めぐる因果というか、自業自得というか、この事実を知れば、9.11のテロリストにも五分の魂はあったと分かる。

国内で居づらくなるとすぐに外遊に出かけて、好き放題にODAをばらまくアベ。このODAがまんまと独裁者を助け、内戦をあおり、テロリストや難民を生み出していることを、日本人は知るや知らずや…


もう一作『掏摸』を読んでいるが、これは無駄なプロットがなくて、いい。この作家のホームグランドは短篇もしくは中篇ではなかろうか。
25Dec.2018

live_on1 at 10:56 

April 12, 2018

「昨日の老いは老いならず」

中井久夫を読み進んでいくと、上のことばに遭遇した。カッコ書きのため、なにがしかの引用かと調べてみたが、これというものが見つからない。もしかして、箴言・格言・諺に擬した中井の独白か?

これが老いというものかと思っても、つねにその先があって不意を衝かれるとの謂い。

老いについては、いろんな断案に出会ったが、これは深い! そういえば、サルトルには「老いとは他者である」がある。


ロードバイクを始めて3年弱。ヒルクライムのための練習はコースを固定して繰り返し登っている。脚力は少しずつ上がっていて、そろそろこれが限界かと思っても、その先があり、つい先日、久しぶりに自己記録を更新した。

一見なりゆきは中井のいう「老い」の進行に似ているが、冷静に俯瞰すれば、急流を遡行せんとあがいているようなもの。いずれ押し流されるのは必定。


ふと、良寛の辞世の句が思い出される;

  散る桜 残る桜も散る桜

12Apr.2018



live_on1 at 09:42 

April 06, 2018

教養

「小さな高校から大学にはいった私は、大学の中が外と大いに違って科学的社会主義に賛同するのにさほどの頭脳は要らなくて、自由検討の位置を守るのには精緻な論理が必要であることに驚いていた。」

精神科医中井久夫の、六全協のあとというから、50年代半ばの断案(再読中の『家族の深淵』より)である。

60年後の今日、舞台は反転し、自民党的スノビズムになびくのにさほどの頭脳は要らなくて(右脳石化で十分)、対抗軸を打ち出そうとすると、議論は−−精緻化しているかどうかは疑問だが−−錯綜し、四分五裂をくりかえす。

同書にこんな箇所もある。

「今(1990年代前半)は簡単に中国に行ける」と書いて例をあげたあと、「しかし、私にはまだ心理的に中国の敷居が高い。韓国にもまだ足を踏み入れていない。親が迷惑をかけた家に子が訪れにくいようなものであろう」と書く。

激しく同意したい。自分の場合は、行かないに「行けない」が混じるのでいささか不純だが、中国、韓国、沖縄には観光で足を踏み入れる気がしない。(沖縄には仕事で2回行かされたが…)

分裂病(ママ)の泰斗として業績を残しながら、ギリシャの詩人の全訳をして賞を受け、ヴァレリー、サルトル、バルト、カミュ、カフカ、ニールス・ボーア、フォン・ノイマンを論じる。深く、かつ広い。これが教養というものか、との感慨が、同書を読んでいると、ひしひしと迫ってくる。

最近はインテリということばがインフレ気味ですっかり安っぽくなってしまったが、中井や渡辺京二などは最後のインテリゲンチャかもしれないとさみしく思う。
6Apr.2018

live_on1 at 16:15 

February 11, 2018

マクルーハン その2

獲得形質は遺伝しないとされている。養老孟司によると人間の脳はこの10万年ほとんど変わっていないという。

マクルーハンが2000年を俯瞰したところで、こうした学説からは「脳はそう簡単に変わるものではない」ということになる。しかしである。

学説が見ているのはハードの脳にすぎない。生れ落ちるまでの脳はたしかに10万年前のヒトの脳と変わらないかもしれない。しかし、その直後から赤ん坊の脳はデジタルの海に浸される。かれらを取り巻く圧倒的なデジタル技術の影響を避けて育つことはできまい。そうした環境圧が脳(や、感受性、習性、思想)に不可逆な影響を与えないとはなんぴとも言いきれまい。それが何世代も続けば、脳は変化し進化していると言えるのではないか。

援軍にはリチャード・ドーキンスがいる。遺伝子(gene)のように器質的ハード的に特定はできないが、ミーム(meme)とでも命名したいソフト的文化的な「遺伝子」を仮定できないかという…


家族の恥をさらすようだが… 

娘とはおもにSMSを使って通信している。LINE世代の娘とeメールまでの自分が折り合える唯一の手段である。ところでこちらが短いメッセージを送るたびに、必ず2通か3通の返信がある!? 多い時は4通でも!! 別に字数制限に引っかかったわけでもなく。

遠まきに見ているだけだが、LINEの短いチャット交換に慣れた娘は、脳より先に指が動いているのだろう。思えば脳をバイパスするというのが反射の機序だった。

そのせいかどうか知らないが、1通目でこちらの質問をとんでもなく誤解した回答が返ってくることがある。それを指摘する間もなく2通目がとんでくる。こちらの質問を一度咀嚼する手間を省くのである。

ツイッター上で頻発する炎上は多くの場合これが原因ではないか。

こうした反射と反射が飛び交うデジタル空間から取り残されるわれら老人はさておき、反射だけでほとんどのことが足りる(レシピサイトがいい例だが)これからの世代は、反射で空いた脳を何に使うのだろう? 

余計なお世話と言われそうだが、心配である。空ぶかしを余儀なくされた脳たちは、なにかの拍子に、あるいはデマゴーグによって、異様な共振共鳴を始め、暴走しそうな気がするからである。
11Feb.2018

live_on1 at 13:53 

February 09, 2018

マクルーハン『グーテンベルクの銀河系』

若いころからずっと頭の片隅にあったこの本をついに読了。ひとことでいうと活字の海。その波にもまれ、たゆたう感覚を味わった。本文が細かい活字を採用しているうえに、三割から四割を占める引用文がさらに細かい。

アルファベットという表音文字文化が始まって2000年後に生まれた活版印刷技術。それが人間の感受性や思考にどんな影響を与えたかをたどる。それは五感のうち視覚を突出させ、視点の固定による透視画法、ニュートン的均質空間、線形的思考を生み、印刷本によって民族語が確定し国民国家を成立させ中央集権的政府を生み出した。と同時に、矛盾するようだが、個人主義や反政府的態度をも生んだ、という。

線形的な数字による章立てもなくモザイク的文章によって構成されたこの本を要約することは、筆者の貧弱な脳をおいても、不可能だが、二千数百年を俯瞰しようとする野心が伝わってくる。これが1962年刊(!)というから驚く。

そしてマクルーハンは、20世紀後半に至り急激に普及した電気電信技術の発展を見て(本の後半にいたってようやくいくつか「電子的」という単語が出現)、印刷革命がもたらした先述の流れはついに「反転を始めている」と書いて擱筆する。

そんなマクルーハンがいま生きていたとして、進行する電子的技術の爆発(ビッグバン直後にあったとされるインフレーション爆発)的進化を見たら、どんな総括をするのか、問うてみたい気がする。と同時に、マクルーハンならずとも、個々の技術云々以前に、変化のスピードについていけず、総括のタイミングさえつかめないのが実情ではないか、という悲観を禁じえない。

PCの進歩に加えて携帯端末の高機能化、様々なアプリ。Blog、Facebook、Twitter、YouTube、Instagram、LINE、etc. デジタルギャップという単語も出ると同時にすりつぶされそうな勢い。活字離れが叫ばれて久しいが、これだけあれば確かに本を読む暇はあるまい。人間てこんなにも饒舌にコミュニケートしなくては生きていけない動物だったっけ、と茶々を入れたくもなる。

かと思うと、ちょっと見、対人コミュニケーションを無化するようなAI、VR、ロボット、IoTの波が押し寄せている。

マクルーハンの問題意識を筆者なりに言いかえると、「技術革新は人間の脳にどんなインパクトを与えるか」となるが、ならば、このデジタル技術の奔流はわれわれの脳をどのように変え、どこに連れて行こうとしているのだろうか?

流れからはじき出され、岸に打ち上げられて立ちすくむ老人だけに見えるものがあるかもしれない…
9Feb.2018




live_on1 at 16:51 

January 28, 2018

西部邁の入水死

西部の訃報(享年78歳)を読んでまず思い浮かべたのが、冷徹な論理と自覚のもとに自死した須原一秀(享年65歳)とその絶筆『自死という生き方』だった。

西部も須原と同じく『葉隠』の山本常朝に傾倒していたらしい。「自然死に尊厳ある死はない」と見切っていた点も似ている。もしかしたら西部は須原の著を読んでいたかもしれない。

自他ともに認める保守の論客であるから、いろんな意味で遠い所にいる人だったが、遠いながらもなぜか不穏な雰囲気が気になる人だった。よってこのたびの死に方も「なるほど」と思わせるような印象がある。

よくよくおこがましいことは承知のうえで書くと、西部は思想的には対蹠点にあり、論理のプロセスは段違いなのだろうが、なぜか結論的に似てくるところがあった。例えば、アンチ安倍、アンチ日米同盟、「日本人=サル山」視、etc.

Anyway、冥福を祈る。

合掌。

28Jan.2018


live_on1 at 22:27 
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