2020年02月12日

飛鳥寺縁起

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飛鳥大仏
























飛鳥寺というの日本最初の本格的仏教寺院だったが、今やそこには小さな寺があるだけで、見る影もないと思っていた。しかし、そこにある飛鳥大仏は、609年に完成したと思われる丈六金銅仏の名残りであることが資料や金属のX線分析でわかっているし、なんといっても仏像の置かれている台座の位置は、まさに昔の金堂があった場所で、台座の石も当時のものらしい。

葛西臨海公園、24.5km(Rw)、78.1kg、23.1%



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現代の飛鳥寺(2017年)


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金子先生講義

・四天王寺と飛鳥寺の発願

日本書紀の崇峻天皇即位前記(用明二年・587年)によれば、仏教派の蘇我馬子は、廃仏派の物部守屋大連を滅ぼすために、泊瀬部皇子、竹田皇子、厩戸皇子などの皇族や紀男麻呂宿禰、巨勢(こせ)氏、膳(かしわで)氏、葛城氏、などと連合して、志紀郡(現代の八尾市)渋河の家を攻める。大連自ら、攻めてくる敵に矢を射掛け、三度攻撃を退ける。

そのときに、厩戸皇子は、「今もし我をして敵に勝たしめたまわば、必ず御世四王のみために、寺塔{→四天王寺}を起立(た)てむ」とのたまう。蘇我馬子も誓いを立てて曰く「凡そ諸天王・大神王等、我を助け衛りて、かつこと獲(え)しめたまはば、願わくはまさに諸天と大神王とのみために、寺塔{→飛鳥寺}を起立(た)てて、三宝を流通(つた)へむ」という。

この後、馬子側の迹見首赤檮(とみのおびといちひ)が、物部守屋大連を射落とし、一気に馬子側の軍勢が勝った。この乱が鎮まったのち摂津国(いまの天王寺区)に聖徳太子の請願した四天王寺を造る。蘇我馬子は飛鳥の地に、法興寺を造った。(法興寺=飛鳥寺)
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・飛鳥寺の造営

日本書紀の崇峻元年(588年)条によれば、この年に百済国が三名の使者を遣し、仏の舎利と僧六名、寺工(工人)、露盤博士(九輪の下の盤、中国由来)、瓦博士、画工を連れてきた。当時の日本には板葺屋根の屋敷しかなかったが、百済からの工人たちの指導で、最初の瓦葺きの寺ができた。それが法興寺(飛鳥寺)である。しかし、588年に初めて、工人たちが来て596年に塔が出来たというのは、早すぎる。多分それ以前(577年頃)に先行技術部隊が日本に来ていて、準備がされていたのではないかと考えられる。

また、飛鳥寺の造営年表を詳細検討してみると、日本書紀では596年に飛鳥寺が完成したとあるが、これは仏像の銘や露盤銘の文字記録と、日本最初の寺院を建設したのに掛かる年数を推定すると、少し早すぎると、大橋教授が1976年に発表している。そもそも用地を整地して、寺の建設用の木材を切り(杣取:そまとり)、数年乾燥させて製材するには5年くらいかかり、多分1チームしかいない建設部隊が、塔を建設し、その次に中金堂、東西の金堂を造り、最後に講堂を造るには20〜30年は掛かる。587年(用明2年)に発願し寺地を見定め、588年(崇峻元年)に以前に建っていた飛鳥衣縫造の家を壊したと日本書紀に記述があることから、612年(推古22年)ごろに飛鳥寺の主要伽藍が出来たのではないかと推測している。

なお、この飛鳥寺は日本書紀の法興寺であり、平城京に移され元興寺となる。



・飛鳥大仏

また、現在残っている飛鳥大仏は、1196年(鎌倉時代、建久7年)に焼けて、頭部の一部と手のみ残っているとされている。現在の仏像を桜庭教授が蛍光X線分析やX線回析分析で9カ所を測定した結果、後で補修された部分も含め、ほぼ同一の組成であると判断されたが、造詣的に補修された部分は頭部とかなり違うと疑問が呈された。

しかし2017年、藤岡教授などがさらに詳細な組成検査(200箇所以上)をした結果、頭部および手の部分とその他の部分は若干の組成上の違いがあり、補修された部分は、元の像の焼け落ちた青銅を溶かして再利用したのではないかと推定されている。

また仏像の基壇の石は、当時使われたであろうと推定される兵庫県の特定地域の石であり、その置かれている位置も、周囲の遺跡発掘から判明した金堂の仏像設置の位置からずれていない。

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この仏像の光銘と日本書紀において605年(推古13年)に鋳造開始と記されているが、日本書紀には1年後に完成とあるのは疑問だ。仏像光銘には609年(推古17年)に完成したとあり、これだけ大きな像は4年くらい掛かるというのは妥当であろう。なおこの丈六像は止利仏師に作らせたと日本書紀に記述があり、法隆寺の釈迦三尊像(止利仏師の基準作例)に比べ遥かに大きく、当時の蘇我氏の権力の大きさがわかる。


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平城京の薬師寺は今も立派であるが、藤原京の元薬師寺は碑が残るのみである。いかに最初の仏教寺院であっても、鎌倉時代に焼失した飛鳥寺の再建に、そんなに大きな権力の庇護はなかったようだ。法隆寺も火災や災害に遭っているが、現代にその姿を残しているのは、聖徳太子への信仰が厚かったからなのか。四天王寺も立派に残っているが、それも太子信仰のせいなのだろうか。


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liveokubo at 20:01│Comments(0) 勉強会 | 風景

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