2014年04月02日

ライブラリーが教えてくれたこと。(3)

 それにしても、なぜ塚本さんの家と暮らしぶりに、ぼくはあんなにも惹かれたのだろう?
 たとえば、こんなことがあった。朝から塚本邸を撮影していると、ガスコンロの上に乗せるだけの一斗缶のような形をしたオーブンから、甘いいい匂いがしてきた。「これからお友だちの家に行くから、お土産にしようと思って」。高校生の娘さんが、クッキーを焼いていた。コンビニでおやつを買うでも、ファミレスで話し込むでもなく。いまどき、なんて素敵な娘さんだろうと感心してしまった。
 陶芸家の家はたいてい食が豊かである。奥さまの手料理はプロ顔負けの腕前だった。日に三度、決まった時間に、台所からはいつもいい匂いが漂ってきた。ほぼ毎日のように食べるという朝のうどんも、小麦粉から手作り。出来合いのもの、長期保存のきくものは見当たらない。小さな旧式の冷蔵庫に、取り寄せた肉やハムソーセージが入っているだけ。野菜や卵は、台所の籠や大皿に無造作に入れてある。
 家のなかには、ティッシュペーパーの箱ひとつない。キッチンの棚に昔懐かしいちり紙が積んであって、必要があれば、そこから取って使う。驚いたことに、風呂もトイレもない家だった。風呂は、近所にある温泉の共同浴場に行く。トイレは、家の前の畑に掘った穴で用を足す。目隠しに掘建て小屋のようなものが置いてあるだけの、どこか遠くの国の田舎にありそうなトイレだ。その穴を順繰りに移動させて、畑に養分(肥料)をあげるのだと言う。野菜は、ほとんどすべてその畑でとれる。ふたりの女の子の出産も、奥さまひとり、自宅でされたと聞いた。そう、まるで『緑の革命』よろしく、60年代ヒッピーのライフスタイルだ。
 その暮らしを支える価値観は、ぼくが生きてきた広告の世界とは真逆であり、大量生産・大量消費の世界から、もっとも遠いところにあった。いわば、反消費文化的、反広告的な生き方、暮らし方である。いや、そういう理屈抜きに、ただただ美しかった。
 2002年、春。何かに導かれるように塚本邸を訪れたぼくは、ここを撮影したいと思った。その衝動の向こう側に、自分が生きてきた世界の、行き詰まりとか転換期のようなものを感じ取っていたのだろうか?
 ライブラリーを始めたとき、ぼくは切実に仲間が欲しいと思った。そこを拠り所に、新しい関係を築きたいとか、何か新しいことをはじめたいと思った。でもいまは、決して、つじつま合わせで言うのではないけれど、「ひとり」で何かを始める時だと感じている。
 広告を作る、CMを作るという仕事は、ひとりでは何もできない。かと言って、しっかりとした個の強さを持っていないと生きていけない。見渡せばこの世界、ほんとうに個性的で強烈な自我を持った人ばかりだと思う。でも、最近、「自分がやりたいこと」「いいと思うこと」を真っ当に主張できる人が少なくなっている。クリエイターとは名ばかりの、個を見失い、相手(クライアントやタレント)との意見の調整や、空気を巧みに読むことに長けた人ばかりだ。それに翻弄されて、若い人たちが、ほんとうに気を使い、心を砕くべきところがどこなのかわからずに、疲れきっているようにぼくには見える。
 さて、そろそろリハビリ期間は終わりにしよう。広告が、大量生産・大量消費・大量廃棄の社会を支えるものなら、遅かれ早かれ、それも終わる。次の時代へ、ぼくらは、ひとりで出かけよう。
(おわり)  
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2014年03月30日

ライブラリーが教えてくれたこと。(2)

 塚本さんがなぜ「ひとりで来てください」と言ったのかは、定かではない。そもそも「人を写して欲しくない」と言われていたくらいなので、「とにかく少人数で、できることならあなたひとりで」というくらいの意味だったかもしれない。ぼくはあえてそれ以上深く考えることもなく、最低限の人数で行くしかない、と理解した。
 ぼくと撮影をお願いした井上隆夫さん、録音の北原慶昭さんの3人を基本に、時には撮影助手が加わったり、録音の人が入れ替わったりして、撮影は、その年の晩春から冬にかけて、3〜4回行ったと記憶している。井上さんが機材屋さんから借りてくれた16ミリカメラで、フィルムは制作会社の人に提供してもらうなどした。もちろん現像までやった。あっちでもこっちでも、日頃の付き合いや先方の好意に甘えて、ライブラリー初のプロジェクトは順調に進んでいた。
 しかし、結局フィルムは放置された。撮影素材がある程度たまったところで、一度オフライン編集までしたのだが、すぐに行き詰まってしまった。それはそうだろう。もし、それをドキュメンタリーと呼ぶなら、もっと人を記録するべきだった。それに、ドキュメンタリーこそ編集なのだ。ぼくは音(言葉・サウンド・音楽)を骨格に編集を考えるタイプのディレクターであるにもかかわらず、頭の中には何も聴こえていなかった。手でつかみ損ねた魚のように、ぼくはイメージの海のなかに、作品の姿を見失ってしまった。
 唐突な物言いかもしれないが、ライブラリーの12年間はリハビリに必要な年月だったのではないか、と最近になってふと思う。
 ほんとうの意味のクリエイティブとは、何もないところから、たったひとりで発想し、つくりあげること。しかし、広告の仕事をしていると、いつも最初の「1」を投げかけられるところから仕事が始まる。オリエンテーションと呼ばれるのがそれだ。いや、それどころか、予算もマーケティングもオンエア計画も、最近では肝心の企画でさえすべてお膳立てされて、さてディレクターの出番となる。制作に入ったら入ったで、人もモノも惜しみなく与えられ、気がつけば何十人とスタッフの数がふくれあがっている。あまりの人の多さに、ベテランのぼくでさえ驚くのだが、よく見れば必要のない人などひとりもいない。そんなことが繰り返され、ぼくのなかの大切な何かがスポイルされていたのではないか。
 塚本さんが言いたかったことは、こういうことだったのではないか。ひとりの作家として、いや、素のひとりの人として、私に向き合ってください。撮影しにきてください。12年間という、決して短くはないリハビリ期間を経て、いまのぼくなら、その言葉をすこしはまともに受け止めることができるような気がしている。
(明日に続きます。)
  

2014年03月28日

ライブラリーが教えてくれたこと。(1)

 ライブラリーが発足して間もない頃だから、2002年の春のことだ。伊豆に温泉旅行に出かけた時、古い日本家屋を改造したギャラリーで、ある椅子に出会った。鉄で立方体の枠組みを作り、その上に、一塊の掘り出した木が乗せてあるだけの、まるでオブジェのような椅子。しかし、座ってみると、しっくり馴染む。もちろん作者の工夫の賜物だろうが、まるでたまたま座った河原の石ころのような具合なのだ。こんな作為と天然の境界にあるような椅子を作るのは、いったいどんな作家だろう? ふと、強い好奇心にかられた。書道家でもあるというギャラリーのオーナーに無理を言って紹介してもらうと、運良くこれから会ってくれると言う。そこから車を10数分走らせて、南伊豆にある作家の自宅を訪ねた。
 塚本誠二郎というその作家は、陶芸家だった。これまで、何人かの陶芸家の住居(ほとんどが工房を兼ねている)を見てきたが、たいてい、日当りや眺望がよく、なにより土地に良い気がみなぎる場所にある。人気作家と言われる人ならなおさらだ。塚本宅も例外ではなかった。ぼくは、肝心の椅子そっちのけで、家の佇まいが放つなんとも言えない心地よさに魅了されていた。煉瓦積みの二階建て。まるで子どもが絵に描いたらこうなるというような、何の変哲もない造りだ。しかし、一階に床はなく、土間のまま。キッチンには、古い中華料理屋のようなガスコンロがあるだけで、システムなんとかとは似ても似つかない。バリ島かタイの田舎あたりで見かける素朴さだ。窓辺の天井から吊るされたプリズムが、部屋の思いがけないところに虹色の光の反射を映している。
 塚本さん自作の、ほぼ球体の器でお茶をいただきながら、ぼくは気がついた。最低限の器具や調度品以外、ほとんどすべてが手作りらしい。ぼくが出会った椅子は、もともと塚本さんが自宅のために作ったものだったのだ。「この家も自分ひとりで建てたんですよ、30何年前になるかなぁ?」。こともなげに塚本さんが言った。ぼくは衝撃を受けた。それとほぼ同時に、この家を撮影したいという強い欲求にかられていた。
 帰りの車のなかからすでに、塚本邸を撮影したいという思いが膨らみはじめ、数日後、ぼくは手紙を書いた。文面は、とうに忘れてしまったけれど、家そのものを主人公にしてドキュメンタリーを撮影したいという思いを切々と伝えたはずである。折り返し葉書をいただき、東京は汐留のとあるレストランがオープンするのだが、そこのために光と水のオブジェをこしらえた。それを見に行きたいから、そこで会いましょう、とのことだった。
 水が張られた陶器の鉢に、天井から吊るされた急須から水滴がほどよい間隔で落ちる仕掛け。その時できる水紋が壁に反射するようにライティングが施されていた。塚本さんの伊豆の家にも、ほぼ同じ仕組みのオブジェがあった。都会の、もっともトレンドなレストランの内装を手がけるデザイナーや建築家にも、塚本さんのオブジェ(と言うより空間アート)が注目されているのだとしても、何の不思議もなかった。その瀟洒なレストランで食事をしながら撮影の件に水を向けると、塚本さんが言った。「では、今村さんひとりで来てください」。そんなわけには行かない。最低でもカメラマンとその助手、時には照明する人だって必要だ。録音もしたい。協力してくれる人がいたら、制作の進行役の人がいたら助かるのだけど。単純に見積もっても、すぐ7〜8人になりそうだ。しかし、口をついて出た言葉はこうだった。「わかりました、でも、3人で行かせてください」。
(明日に続きます。)
  

2013年07月20日

言い訳がないプロジェクト。

すっかりブログから遠のいている。
そのせいで、オフ・コマーシャルの進行状況を、
多くの人とシェアーできていない。

撮影が終わってから、もう一年半が経過しようとしている
枡一市村酒造のオフコマは、ようやく今週末完成の予定だ。
潤沢に予算があり、通常の業界のシステムに乗る仕事ではない以上、
ひとつひとつの作業に、どうしても時間がかかってしまう。

今年、3月3日の小布施ッションの、
ぼくの講演のなかで、一度は公開した。
だが、もうひとつ納得がいかない、と言うか、
まだ別の可能性がありそうな気がして、
フィニッシュまで持って行くことができなかった。
そして、ようやく最近になって、
「これで完成だな」と思えるバージョンを作ることができ、
いま最終的な色調整(カラコレ)の上がりを待っているところだ。
ここまで来ると、早く多くの人に見てもらいたくてウズウズする。

そして、第3弾のオフ・コマーシャルが終わらないうちから
スタートを切ったのが、九州パンケーキのプロジェクトだ。
いま、企画がほぼ固まり、9月後半の撮影スタートに向けて、
制作の体制づくりをしている。
と言っても、これをやってくれているのが、
なんと、いわゆるクライアントである、
九州パンケーキの生みの親で、
(株)一平の代表取締役・村岡浩司さんだ。

東京から九州までの旅費をどうするか?
制作費をどう捻出するか?

かなりの部分、自腹のプロジェクトになったDIGAWEL、
実費を後精算してもらったシャボン玉石けん、
初めて見積もりを書いて臨んだ枡一市村酒造。
そして今回は、映画でいうところの
「制作委員会方式」のようなカタチができあがろうとしている。
前代未聞のCM制作の仕組みが生まれる予感がしている。
それも、クライアント自ら奔走してくれて(笑)。

九州だけの、それも九州全県から素材を集めて
商品開発するというアイデア。
製粉会社まで九州にこだわる(熊本製粉)という姿勢。
しかも、食の安全に配慮し、そもそも、
すでにブームを巻き起こしつつあるくらい、おいしい。
すべてに、シンプルなのだ。一直線である。
だから、ひとつとして言い訳がいらない。
(たとえば、この素材だけは九州産じゃないとか、
志はいいがおいしくないとか、
安全とは言い切れない添加物が含まれているとか。)
こんな商品、そうそうあるものではない。

言い訳がない。
だから、ひとつになれる。
人の力が集まる。
こういうプロジェクトに関われることに、
心から喜びを感じている。
  

2013年05月28日

話の音(93)蜘蛛


水族館の前の広場で、「ウォーン、ウォーン」と大きな
声が響いていた。
リュックサックを背負った、太って身体の大きい男は、
まっすぐみつめるような、なにも見ていないような目を
していた。
「ウォーン、ウォーン」
彼は力の限り、精一杯そう発しているのだった。
すぐわきにはふたりの付き添い人らしき男女がいて、
ひとりはなだめるように彼の手をにぎり、もうひとりは
途方に暮れてあたりを見まわしていた。私は彼の視線の
ひだりがわに立って、一体彼は何歳なのだろうと考えて
いた。
「ウォーン、ウォーン」
それはひとの声というより、どこか禽獣類の鳴き声に似
ていた。
耳に突きいってくるその叫びの皮を剝いで、そのなかに
ある声を聞き取ろうとしてみる。これは果たして声なの
か、ただの音なのか判然としなくなってきた。
しかしその音には強い意思があるように思った。
彼は叫ぶことをやめない。全身でなにかを拒絶している
のか、全霊でなにかに抗議しているのか。
「ウォーン、ウォーン」
休日の水族館の多くのひとが行き交う広場で、やりどこ
ろのない叫びはどこまでも遠く広がっていった。

深夜、行くあてを失った「ウォーン、ウォーン」は残響と
なって私の耳に巣食い、もぞもぞとかゆくなって私の目を
覚まさせた。
閉め切ったはずの六畳間に、なぜか風が吹いていた。
ひんやりとした風は、ふとんから顔をだしている私のこめ
かみのすぐうえだけに当たっている。
額の下部分だけが、細長く吹きつけてくる風に晒されて冷
たくなっている。風を避けようとして、顔の向きをかえた
りしながら、天井を見上げた。ただ白く塗られただけのせ
いか、薄明かりのなかでも、黒くて小さい点があるのがわ
かった。汚れかと思って目を凝らしていると、それはゆっ
くり右のほうに動き出した。
どうやら蜘蛛のようである。
蜘蛛はあまり好きではないが、部屋にいる小さいものはさ
ほどいやではない。その小さな蜘蛛の動きを、覚めて閉じ
ることができなくなったまなこで追ってみることにした。
蜘蛛はなにかに警戒しているかのように、ゆっくりと、
ほんとうにゆっくりと動いた。部屋の天井をぐるりと半周
するのを、長い時間見ていた。ときどき、額にだけあたる
風をよけようと、右に左に首を振ったりしたが、それ以外
はじっと蜘蛛から目を離さなかった。

蜘蛛がようやく最初にいた位置にまで戻ってきたころ、私
は眠りに落ちようとしていた。
風はいつの間にかやんでいた。薄れていく意識のなかで、
その音は強い意思とともにまたやってきた。
「ウォーン、ウォーン」
私は知っていた。天井の黒いシミはもう半年も前からそこ
にあるのだと。シミは動いたりしないし、風が吹いたりも
しないのだと。

私は、暗がりのはるか遠くで「ウォーン、ウォーン」と叫ぶ
私自身の姿をはっきりと見ていた。

(北原慶昭)
  

2013年03月25日

話の音(92)異形者の宴


春の日の
晴れた日の
幾度となく踏みしだかれた
茶色の葉の切れ端を越えて
歩いていけば
私も点描になるようで

高くのびた
細い枝先の
幾すじの果たてのむこうに
青色の空のやるせなさを
見上げていたら
私が点描になるようで

神々、怪物、妖精、化け物
イメージの善悪はこの際、どうとでもなれ
いずれ異形のものたち
手に手に楽器をたずさえ、奏でるは
異形者の音楽

ずいぶんと長い時間をかけて
分け入ってきた甲斐は、この異形者の
音に触れるためであった
生きて音楽を盗み聴く幸福と
死すらも越えた尊さと

この世界のいたるところから
集めてきたありったけの
感受性の向こう側
小さな自由が楽しげに
踊っているではないか

(北原慶昭)
2013年3月24日
ウエイン・ショーター・カルテット
渋谷シアターオーブにて
  

2013年01月21日

人が行き交う場所。

どうして、
ここで話すことがこんなに心地いいのだろう?
トークショーも終盤にさしかかった頃、
ふとある光景が頭をよぎった。

ぼくが、大学2年のときだから、1974年だと思う。
青山のブルックスブラザースのビルより少しばかり
青山3丁目寄りに、VAN99ホールなるものがあった。
あの石津謙介率いるVANが、
本社の一階を劇場にして、若者たちが
演劇や映画などを発表する場としたものだった。
入場料99円、名前はそこから来ている。
ぼくは、他の学生たちに混じって、
自分の8ミリ映画を上映させてもらった。
たいして観客は入っていなかったけれど、
ヴァンジャケットの社員らしき人たちが、
熱心に観てくれて「いいねぇ」「がんばれよ」
などと、まるで部活の先輩のように
声をかけてくれたことを覚えている。

もちろん、当時から山陽堂書店はあった。
表参道の駅で降りて階段を登ると、
谷内六郎の壁画がいやでも目に入ってくる。
薄暗い店内には、いつ行っても
雑誌や本がうずたかく積まれていて、
インクや紙の濃厚な匂いが充満していた。
1970年代頃の書店には、
純文学も哲学書もファッションや芸能雑誌や
卑猥な本も雑多にあって、時代の空気が
澱のように溜まっていたものだ。
ましてあの狭さだ。
山陽堂書店にも、当時の書店らしい
高密度で濃厚な雰囲気があったけれど、
たとえば外国のファッション雑誌や、
デザイン関係の本があるという点で、
いかにも青山らしい感じがした。
流行通信や広告批評なんかをよく買った記憶がある。
橋本治や吉本隆明の本も、買ったっけ。

先週、18日土曜日、
ぼくはその山陽堂書店の2階にいた。
自分でも不思議なほど、よくしゃべった。
トークショーのお相手だった
並河進さんのスマートな進行も、
ぼくの気持ちを楽にさせてくれたのだと思う。
参加者は、20数名だっただろうか?
ひとりひとりの表情が、くっきりと見えていたのは、
会場の狭さのせいばかりではない。
なんだか、妙に気持ちが通いあうように感じた。
そして、ふと浮かんだのは、
30年、いや、40年近くも前のVAN99ホールだった。

青山という土地には、特別な意味がある。
時代の流行を生み出す人が、常に行き交う場所。
そう、まるで交差点だ。

トークショーに来ていたのは、圧倒的に若い世代だった。
大学生や院生、仕事を始めて間もない若者。
もうすぐインドの学校で働くという、
澄んだ目をした女性もいた。

かつて石津謙介がそうしたように、
いままた山陽堂のみなさんが、
あの街で人が集まる場所を作る。
大人が、若者にも、何かを得るチャンスを与える。
そこから、きっと、何かが生まれる。
ぼくのトークショーに来てくれた若者が、
この先、30年か40年経った頃、
ふと思い出すことだってあるだろう。

いまの山陽堂は、
かつてと違って、とても明るい。
2011年6月に改装された際、
トークショーの会場にもなったギャラリーができた。
東日本大震災をはさんで「生まれ変わった」
わけだけれど、それもどこか象徴的な気がする。
書店だって、必死に新しい姿を模索している。
(必死かどうかはわからないけれど、
容易い状況にはないことは確かだろう。)
この時代に見合った、
人が行き交う場所をつくり出すために。
  

2013年01月11日

ぼくの情熱。

ぼくはCMディレクターで、
そうである限り、
すべてはCMというカタチで
自分の思いを表現しなければならない。
だから、このブログで
CMや広告制作の現状を嘆いたり、
分析したりしたとしても、
最後は、だったら
自分の思いを遂げるCMとは何かを、
実際カタチにしてみたくなる。

本を書いても、そうだった。
広告とは何か、どうあるべきか。
そんな、自分にはまるで似つかわしくない、
荷の重い話をさんざんした後で、
ぼくなりに未来の広告の実験でもある
オフ・コマーシャルについて、
書かずにはいられなかった。
ぼくは、CMディレクターで、
ぼくの存在価値は、
モノ作りの現場があってこそ、
証明できるのだから。

と言っても、
オフ・コマーシャルは、
いくらがんばって作っても、
それ自体が
大きな収益を上げるわけではないし、
締め切りがあるわけでもない。
少し気を抜くと、
一気にモチベーションが下がる。
かつてこのブログに
さかんに思いや進行状況を書き、
それなりに手応えがあった頃と違って、
世間から注目されることのない、
過去のプロジェクトになりかけていた。
いま制作中のものが、ひとつあるにも関わらず。

最初にオフ・コマーシャルを思いついたのは、
2006年のことで、
第一弾DIGAWELのCMの完成が2007年。
もう、6年も前のことになる。
第2弾のシャボン玉石けんのCMが
完成してからも4年近くが経過している。

それがいま、
誰かと、何かとシンクロして、
急に、再び動き出す気配を強く感じている。
うまく行くことがはじまる時って、そんなものだ。
いくらあがいても、
動かない時は動かないのに、
何かが連鎖し始めると、
だまっていても次から次に
思いがけないつながりが生まれて行く。

『幸福な広告』を読んだ電通の並河進さんが、
オフ・コマーシャルをおもしろいと言ってくれた。
そして、昨年末、
さっそくインタビューをしてくれて、
ネットで彼が担当するコラムに、
昨日その記事を公開してくれた。
http://www.advertimes.com/20130109/article98397/

並河さんの取材があり、
ぼくの中の消えかけていた火が
再び大きくなりかけたとき、
ふと気がつけば、
ぼくが次のオフ・コマーシャルで
取り上げるべきモノは、
すでにぼくの手元にあった。
宮崎の村岡浩司さんが手がける、
とある新商品だ。
この人とは、初めて会った時から、
何かをいっしょにすることになる人だ
という予感がぼくにはあった。
昨年、「まちのたね」でも
彼が取り組む「街市」を取材させてもらった。
でも、それで終わるとも思えない
何か強い磁力のようなものを感じていた。
http://www.corner-cafe.asia/blog/muraoka

何かが生まれそうな予感。
ぼくの情熱に火が付きそうな予感。

ふと、槇原敬之の、
ナゾめいたこの曲を思い出した。
いまのぼくは、こんな気分。


誰かが君を笑っても
いつか笑えなくなるよ
気にすることなんてない

いままで見たこともない君を
待っているから 待っているから

何かが生まれるんだろ
なぜかそれがわかるんだろ
もうすぐ手にする君の情熱
どうすればいいかわからないなら
抱きしめてやればいい
君だけの 君だけにしかできないやり方で
  

2012年12月30日

今年は、60点。

27日の忘年会は、
東北芸術工科大学の先生方が集まった、
気の置けないホームパーティーだった。
グラフィックデザイン科の学科長であり
アーチストの中山ダイスケさんのお宅に、
デザイン科や企画構想学科や映像学科の先生たちが
10人あまり集まって。
大半は、東京から山形に通う先生方、
そして中にはパーティーのために
山形や仙台から駆けつけた人もいた。

奥さまの手料理と
各自持ち寄りのお惣菜で満腹になり、
さんざん日本酒を飲んだ後、
キッチンのカウンターに数人の先生方が集まって
スコッチウィスキーを飲みはじめた。
そこで、ある先生が聞いた。
「今年は、何点でしたか?」

80点、85点、ぼくも80点・・・
本業は、アーチストやデザイナーや建築家の先生が答える。
大は付かないかもしれないが、満足と言っていい点数だ。
今村さんは?と聞かれて、「60点かな?」と、
自分でもちょっと驚く辛い点数が口をついて出た。
「本が出たし、こうして大学で教えるようになったし、
そうだ、初めて番組も手がけた。新しいことをはじめた
一年でしたね。でもなんか、途上にいる気分なんです」。
その時は言い忘れたが、
「はみだし塾」なんてのもやったし、
春から夏にかけては武蔵大学でも一コマ持っていた。
もちろん、本業のCMディレクターだって、それなりに。
ずいぶんがんばったじゃないか、
と自分に言ってやりたいくらいだ。

それでも、何か物足りないのだ。
心のなかに、焦燥感があるくらいに。
その理由がわからない。
なぜ、60点しか自分にあげられなのか。

昨日(29日)は、ランチ忘年会。
いや、来年の抱負を語る会とでも言えばいいか。
カメラマンの蓮井さんとふたりでピザを頬張りながら、
彼が来年挑戦しようと考えていること、
ぼくのなかで最近にわかに再燃している
オフ・コマーシャルについての計画など、
何であれ、未来志向の話に花が咲いた。
そばで誰かが見ていたらおかしかったかもしれない。
いい大人が、たぶん目を輝かせて、ぼくらは話し込んでいた。

結局、どちらからともなく、こんな結論に落ち着いた。
「やっぱりぼくらは、
作品をつくり続けていなくちゃダメなんだね。」
そして、わかったことがある。
作品をつくる場数が、少なかった。

ぼくがこの一年に感じる物足りなさ、
焦燥感のようなものの正体は、どうやらそれのようである。
今年、ぼくのエネルギーの大半は、
本を書くことと大学で教えることに費やされたと言っていい。
ぼくはアーチストではない。
だが、頼まれ仕事であれ、自分で生み出す何かであれ、
作品と呼ばれるものをつくることを生業としてしまった人間である。
いくつになろうが、つくるものが何だろうが、
表現することへの意欲を持ち、
それをカタチあるものにし続けないと、
自分の中のなにかが停滞してしまう。
それは「ぼくらの性のようなものでしょうね」と、
蓮井さんが言う通りなのだ。

80点や85点をつけた先生方は、
何かを作ることが同時にできていたのだろう。
それは、絵だったり、空間だったり、あるプロジェクトだったり、
そして、教育の中で生徒たちといっしょになって作るもの
だったかもしれないが、とにかく、作品と言っていいなにかだ。

考える。書く。教える。それもいいけれど、
考えながら、書きながら、教えながら、作品をつくらないと、
来年、自分にいい点数はあげられない。
そんなことがわかった年末である。
  

2012年11月23日

7枚の鏡

昨日は、
大学の同級生たち(ぼくを入れて7名)
が集まって、出版を祝ってくれた。
正しくは、ぼくが彼らを招集したのだから、
「祝ってもらった」だけれど。
場所は、先代の親父さんの時から、
もう30数年の付き合いになる、
市ヶ谷薬王寺の中むらで。
ぼくにとっていちばん居心地のいい、
「家」のようなところに
集まってくれたということになる。

しかし、どう思い返しても、
だれかが祝辞を述べてくれるわけでも、
本の内容に話が及ぶわけでも、
感想を言ってくれるわけでも(もっとも、
まだ読了するには日が浅いけれど)なく、
勝手に、てんでバラバラな話で
盛り上がっていただけだったな。
いや、それでいいのだろう。
こうして会うのは、年に一回あるかないか。
だけど、会った瞬間に、空白が一気に埋まる。
この感覚だけは、
無為な日々の中でお互いをさらけ出しあい、
大人一歩手間の、あのやわらかい時間を
共有した者同士でなければ味わえない。
ぼくらは、きっと、人それぞれの、
変わらない部分を見せ合ったのだろう。

「尊敬する人は、自分の両親」と言って
ぼくを驚かせたN君は、両親といっしょに暮らし、
父親の介護をしている。
マイペースだったM君は、
相変わらず飄々と自然体に生きている。
時々、自分にしか聴こえないように笑うK君は、
どこか少年のように自我を抱えたままだ。
大阪人らしく、「ボケ」の味わいを持つG君は、
のらりくらり(いい意味で)。
「ああ、そうか」が口癖で、自分を語らない割に、
いつも人から突っ込まれていたD君は、
遠慮がちに、しかし聞きようによっては、
なかなかドラマチックな近況を語る。
ぼくと、一番近い仕事をするK君は、
相変わらず些細なエピソードを
おもしろおかしく語って人を惹き付ける。
そう言うぼくは?
何かと言うと「レジュメ」や「アジびら」など
書く役回りだったから、他のだれでもなく、
このぼくが本を出すのは、
案外、意外でも何でもないのかもしれない。

いやはや、ほんとうに、変わらない。
あの頃のままだ。
共通の話題は、ぼくの本のことなどではなく、
定年を見据えての今後の生き方や、
それぞれが自分の親とどう向き合っているかだった。
ああ、そんな年代になってしまったのだね。
いくら変わらない、と言ったって。

少し時間がたって昨日のことを思い返すと、
7枚の鏡がちょっとずつ角度を変えて向き合って
いたような、不思議な感覚に襲われるのだった。
  
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