2006年12月31日
鈴木さんへの手紙(14・最終回)仮説と、これからのこと。
鈴木さん、こんにちは。
12月に入って、仕事と、オフ・コマーシャル、個人的な雑用などで
バタバタするうちに、あっという間に年末。
それも、明日は、大晦日だと言う今ごろになって、
やっと返信を書こうとしている始末です。
HPで、日記のようなものを書き始めて、4年近くが経過しました。
(最初の2年はHPで、その後の2年はこのブログで。)
ふりかえってみると、その4年間は、
ぼくが鈴木さんとの往復書簡で話し合ってきたように、
CM制作のプロセスが複雑化して、
シンプルなモノ作りの楽しみが失われた、
ある意味で、「どん底の時代」だったかもしれません。
一方、「CMのテレビ離れ」が始まった4年間であった、
とも言えると思います。
もはや、CMはインターネットとの関係を抜きに語れないという傾向が、
ますます加速しています。
そして、最近になって、ぼくは「ある仮説」を立ててみました。
それは、「テレビCMは、一応、その役割を終えた」というものです。
これからは、そう考えながら、CM制作の現場で起こる問題や、
ぼくらが向かわなければならないCMの未来を
見て行こうと思っています。
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2006年12月05日
鈴木さんからの手紙(12)いま、そして、これから。
こんにちは、今村さん。
今年の1月から「往復書簡」をやりとりさせていただいてもう12月・・・。
1年が早いですね、あっという間です。
思い返してみると今年の7月に今村さん、北原さん、山岸さんと
初めて中目黒でお会いするまでは一度も顔を合わせることなく
「往復書簡」はメールのやりとりのみでした。
9月からはライブラリーにも参加させていただきましたし、
私にとっても変化の大きい1年でした。
今村さんとの「往復書簡」やお話から受けた助言。
偶然見つけたハリウッド名監督たちから映画学校学生への
助言集を読んで考えた事。意識して一回り、二回り年上の
カメラマンと仕事を組んだ際にいただいた数々の助言。
この先の仕事で、この「助言」を最大限生かす事が
当面の目標の一つです。
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2006年11月20日
鈴木さんへの手紙(13)それでも、ぼくはCMが好きか?
鈴木さん、こんにちは。
先日の手紙の最後に書いたように、ぼくは最近、ある人から
「今村さんは、広告が好きですか?」と質問されました。
「ある人」とは、オフ・コマーシャルについて
コメントを書いていただいたことがきっかけで、
メールを何度かやり取りするようになった
「地方企画演出家」のGさんです。正直言って、
「CMが好きですか?」と聞かれて、けっこう考え込みました。
いま、CMで「監督」をする、多くの人たちが、
前向きに、真剣に向き合っているのは、
実のところ、もはやCMではないのかもしれません。
その「監督」が、もともと、広告が好きなのではなく、
映像が好きで、生活のためにCM業界に身を置くのだとしたら、
なおさらです。では、ぼくはどうなのか?
明らかに「もともと、広告が好きなのではなく、映像が好き」
なタイプなのです。この前の手紙で、「監督とは何か?」について
ぼくなりの考えを書きましたが、
正しくは、「CM監督とは何か?」であるべきです。
あるいは、「ぼくはなぜCM監督であろうとするのか?」と、
自問するべきなのです。
ちょっと長くなりますが、今日は、
Gさんに宛てて書いたメールを引用させてください。
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2006年11月07日
鈴木さんへの手紙(12)ぼくが思う「監督とは何か」。
鈴木さん、こんにちは。
この前に手紙をいただいてから一ヶ月が経過してしまいました。
その手紙の中にあった、「監督とは何か?」について語られた
歴史的な映画人の言葉、とてもおもしろいですね。
それでわかることは、時代が移り変わっても、
監督とは何かの答えは、まったく鮮度を失わずに伝わってくること。
そして、その問いを、「CMディレクターとは何か?」
に置き換えたとしても、よく理解できることです。
ぼくの場合は、わずか数年間のサン・アド在籍中に、
監督とは何かの、心がまえのようなものができ、
以後、ほとんどそれは変わっていないような気がします。
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2006年10月10日
鈴木さんからの手紙(11)監督とは何か?
こんにちは、今村さん。
前回、CM制作上の「監督」という役割についての
さまざまな思いを書きました。(プチな運動後も名前ではなく
監督と呼ばれる事も多いのですが。)
個人的には今さらながらCMにおいての
「監督という職業」の難しさを考えるきっかけになりました。
そこで「監督」について書いてある本はないかと
神保町の事務所近くにある「矢口書店」を覗いてみると
「ディレクティング・ザ・フィルム」
エリックシャーマン著(キネマ旬報社)という分厚い本が
目に留まりました。
アメリカン・フィルム・インスティテュートで行われた
プロのフィルムメーカーと学生たちの
セミナー記録からまとめられた本です。
75人の著名映画監督自身による「監督(演出技術)論」は
とてもこの書簡に書ききれないほどの分量です。
監督のみならずプロデューサーや脚本家(CMでいうとプランナー?)ほか、
とても多くの「監督をめぐる」発言が載っています。
ちなみに第一章は「監督とは何か」です。
(見つけた時は、いきなり書いてあるのかぁと絶句・・・
少しだけ引用しますと、
「監督の仕事は自分に合ってる・・・(だが監督業は)
問題も多いし嫌になる事もある、
やり甲斐はあるけどフラストレーションもたまる。
全く辛い事ばかりだけれど、満足度の大きい仕事でもあるんだ
(ウイリアム・フリードキン)」とか
「怒鳴る監督、優しい監督、
自分のすべき事がわからない監督、いろいろいる。
しかし、いずれにしろ監督というのは
何らかのコミュニケーションをしなくてはならない。
監督は俳優が何をしたいのか知らなくてはならないし、
人間がどう振る舞うのか知らなくてはならない。(ジリ・ワイス)」とか
「あれをしろ、これをしろ!と(スタッフや役者に)
断定的に命じるのは良くないと思います。
監督の考えが間違っている事も多いからです。
大概スタッフや俳優は監督を喜ばせようとします。
皆いい人たちですが彼らにとっても作品にとっても
良くない事をさせてはいけません。
自分の意見と、何がベストなのかを見極めてから
策を練るのが一番です。(ジャック・ドゥミー)」
さらに、「監督というのはストーリー・テラー、
つまり物語を語る人なんだと思う。茶番劇でもドラマでも、
悲劇や喜劇、通俗劇などどんな話でも語るべき物語はある。
むしろどんな風に語るか、その語り方によって
監督の作風が違ってくる。だから監督はそれぞれ一番効果的な
語り口を探しているんだ。(ヴィンセント・シャーマン)」
また、「私は物語を語るだけであって、語れないと思った時は
その仕事を引き受けないようにしている。
作りたくない映画を説得されて引き受けたりすると絶対後悔する。
(ハワード・ホックス)」・・・(笑)など、
ほかにも映画制作全般の各段階ごとに
「監督」としての判断や成功&失敗の経験など、
「監督」から映画学校学生に向けての発言が多数書いてありました。
「監督」が直面する「共同作業においての自身の個性の表現」
についての発言も多いですね。
同時にカメラマンや役者との関わりかた、
レンズやカメラワークの事、プロデューサーとの関係性など
もとても参考になりました。
ヴィンセント・シャーマンが語っている
「監督はそれぞれ一番効果的な語り口(作風)を探している」
という発言は、CMディレクターにも当てはまりますね。
任された「CM企画」をスタッフ・出演者と共に
どんな独特な語り口(作風)で語るのか?
CMディレクターにとっても永遠のテーマですね。
2006年09月29日
鈴木さんへの手紙(11の2)人を喜ばせたいと思う気持ち。
鈴木さん、こんにちは。
最近、ぼくらディレクターが「監督」と呼ばれるようになった
経緯について考えていたら、もうひとつ、あることが気になり始めました。
いつ頃からか、プロダクションのプロデューサーや、PMの人たちが、
クライアントのことを「お得意」と呼ぶようになったと思いませんか?
もしかしたら、ディレクターを「監督」と
呼ぶようになったのと同じようなタイミングで、
クライアントを「お得意」と呼び始めたのかもしれません。
「お得意」という言い方は、もともと広告代理店の
営業職の人のものであって、プロダクションの人がそう言うのは、
どことなく違和感があるように感じていました。
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2006年09月22日
鈴木さんへの手紙(11の1)なぜぼくらは「監督」と呼ばれるか?
こんにちは、鈴木さん。
先日の手紙にあった「監督」と呼ぶのやめてくださいね運動、
なかなかおもしろいですね。
あまり気にしていなかったのですが、
鈴木さんの手紙をきっかけに振り返ってみると、
確かに、ある時期を境に、業界の空気が変わり、
そして、ぼくたちディレクターが、
「監督」と呼ばれるようになった気がします。
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2006年09月12日
鈴木さんからの手紙(10の2)「監督」の壁。
こんにちは、今村さん。
前回の続きです。
8月からはじまったいくつかのお仕事から唐突にはじめたのですが・・・、
「監督」と呼ぶのをやめてくださいね運動!(笑)をはじめました。
名前で呼んでもらえるようにお願いしているんです。
始めた理由は、ここ数年、
「監督」と呼ばれて仕事をしている時に感じていたのですが・・・
「監督」=「部外者」
と思う(思われていると感じる・・)事が増えてきたからです。
一つの仕事の中で起きるさまざまな「状況」の変化にたいして、
「監督」と呼ばれると、大事な時に「別室」で
待たされてる事が増えている気がするんです。
「今大変なので、監督はこちらでしばらくおまちください」です・・・。
不思議な事に「鈴木さん」「則さん」状態だと「部外者」にならず、
情報がはいってきたり「状況」を変化させる場に留まれる、呼ばれる時が多い。
「企画」の場に留まれる確率が高ければ
「企画・演出」として受け身でないディレクションができるように思える。
個人的にはブレストに苦手意識があったり、
あまり事情を鑑みすぎるのはCMの出来上がりが
悪くなるんじゃないかと不安に思い、
少し前まで企画会議・PPMから距離をおいていた時期もありましたが
最近はむしろ行きたくてたまらない。
(特に以前M・HASUIさんと同席したPPMを経験してから・・・)
なんというか仕事の骨組みを企画チームといっしょに直接触って、
創っている「部外者扱い」ではないやりがいを強く感じるからです。
現状では「企画」に関わらず受ける仕事がほとんどですが
できるだけ「企画」を追体験して遡り、
骨組みに触れるように気をつけ始めました。
必要な時は演出コンテを制作部にVコンテ化してもらって
みんなでチェックしたり、演出コンテ自体が
「打ち合わせの有益な材料」になるようにしはじめました。
長期にわたってみんなが改良し共有する企画コンテ・各種資料に比べて、
演出コンテって以外と「寡黙」だなよあと感じた事もあって。
(企画から関わった時、無いほうがいいと判断してわざと描かなかった事もあります)
「監督」について・・・もう一つ。
先日、グラフィックデザイナーのAさん、フォトグラファーのM・HASUIさんと
仕事をご一緒した際、あるロケセット前で3人で打ち合わせをしている時
「あっ、お二人ともCMディレクターもやっている人たちだなあ」(嬉)
と気がついてなんかよかったんですよー、その時の感じが。
申し訳ないけど、じつはCMプランナーの人たちって
意外と企画説明の下手な人が多くて、
一度聞いたぐらいじゃ内容がよくわからない事も多いし
日常業務でスポンサーに向けての説明が多いせいか
「その企業・個別の事情」を説明してもらってからじゃないと
企画の面白さが伝わってこないときも多いです。
それに比べてそのロケハン中や企画打ち合わせ中に出てくる
お二人の撮影・演出のアイディアやさまざまな発想は
とてもわかりやすいし演出プラン自体が広がる感じがつよく、
CMディレクター経験者同士の横のつながりでの
「協力・演出」「セッション・演出」でした。
以前の書簡でお話しあった「シェアー」ではないかんじでしたね。
三分の一ずつではなくて×3のような。
この現場でも「監督」という言葉とは無縁でしたし…。
お二人ともグラフィックの仕事の仕方をCMでもやってるんですね、たぶん。
CMは専門職種に別れすぎたかもしれないとその後思いました。
カベを取り払って、シンプルにならないと。
今回は、とりとめない個人的な近況報告の手紙になってしまいました。
2006年09月05日
鈴木さんからの手紙(10の1)「企画」と「演出」の距離。
こんにちは、今村さん。
前回のお手紙にあった「アイディアが降りてくる」瞬間は
確かにありますよね。
たぶんどんな分野でも、クリエーティブ職の人は
必ず経験があると思います。
5分前には思いもつかなかったアイディア、
演出コンテの一コマ目を描いている時には思ってもいなかった
画期的なアイディアが、2コマ目の枠線を書きながらゆっくりと現れてくる。
更にコマを書き進めると、それまでの問題を解決する
可能性のあるコンテができ上がっている。
写真の一コマが、次々に印画紙に浮かび上がるように・・・。
そして発注者の喜ぶ顔が目に浮かぶ。
そんな瞬間の連続のおかげで、
私も20年以上CMクリエーティブを職業に出来たのだと思います。
今村さんがお書きのように、現在の複雑な状況の中、
代理店営業部と距離のある(特にフリーの)CMディレクターが
TVCMの企画立案の仕事でスポンサーや広告代理店、
制作会社など働く人々とおなじ目線で、
長期にわたり広告企画に加わる機会はなかなかありません。
逆に大手広告代理店社員や出身クリエーター、制作会社の方々は
企業と共同で商品開発や商品企画・ネーミング・
パッケージデザイン・マーケッティング等、
単にTVCMの企画制作・グラフィック製作をこえたスケールで
クライアント企業との共同クリエーティブに日夜関わっています。
そうした長期の作業の結果生まれた、
商品と広告表現のひとつである「CM企画」。
それを映像化する最終段階ではじめて関わる
CMディレクターや各スタッフ。
かつてCMディレクターが、本来の意味での「企画演出」、
そして「監督」と呼ばれていた時代からすると、
「企画立案」の部分はやはり大きく手を離れていますね。
実際、仕事の依頼をうける際には「演出・候補」の場合がほとんどですし、
「複数の企画案にそれぞれの演出候補が必要なので
企画決定までお待ちください」と言われる事が普通です。
じゃ、自分じゃなくていいんだ?と思うと逆なんですね。
仕事を依頼される方は以前より私の「演出集」ビデオを、
「企画」に合っているか真剣に観てくださったり、
仕事仲間の間で情報交換をして、丁寧なやりとりの中推薦してくれて、
仕事依頼の電話をくれる。
仕事が成立しても、しなくてもとても丁寧に経過を説明してくれる。
たしかに「企画立案」は自分から離れたけれど、
別の意味で「企画」と「演出」としての自分の距離は
接近しているようにも思えるんです。
以上の事も含めて、8月から新たに始まったお仕事で、
周りの方にお願いを始めたささやかな事があります。
この件については次回に書きます。
2006年08月23日
鈴木さんへの手紙(10の2)CMの、届くスピード。
こんにちは、鈴木さん。
昨日の手紙に書いたように、
テレビコマーシャルを作る上で何より重要なのは、
企画における「ジャンプする力」だと、ぼくは考えています。
そして、もうひとつ、そのCMがテレビで流れたとき、
視聴者に「届くスピード」。このふたつは、
「CMのいのち」と言っても過言ではないと思っています。
企画の打ち合わせをしていると、クライアントの
さまざまな要求や事情を、どう企画に盛り込むか、
悶々と悩んでいたのに、一気にそれを解決するアイデアが、
「降りてくる」瞬間があります。
(つまり、それが「ジャンプする力」が見つかった瞬間ですよね。)
そして、その瞬間から、CMの「届くスピード」が
一気に加速すると思えるのです。
いや、その瞬間がなければ、そのCMはいまひとつ淀んだ鈍いもの、
輝きを放たないものに違いありません。
クライアントの要求は、とても複雑なものである場合が多いのですが、
その複雑さを抱えたままの表現が、「ジャンプする力」や、
「届くスピード」を持つことは、残念ながらありません。
伝えたいことがクリアーで、表現がシンプルであること。
そこにたどり着けるかどうかが、勝負の分かれ目ですよね。
一気にモヤモヤを解決するアイデアを出すのは、
プランナーであれ、コピーライターであれ、デザイナーであれ、
正直、誰でもいいのですが、CMディレクターの考えるアイデアには、
他のクリエーターにはない、何かがあるような気がします。
それは、「アイデアの素朴さ」のようなものではないか、
とぼくは思っています。
業界でも一流の優秀なクリエーターたちが、
すばらしい企画を考えて、ぼくらも、
ワクワクしながらその演出をさせてもらうことがあるのですが、
時に、それはなかなか「巧みな仕掛け」であって
(だからこそ、クライアントをうならせるわけですが)、
なにか、とても大切なものが欠けていると思えることがあります。
「巧みな仕掛け」には、業界の人たちは、いち早く反応するし、
広告関係の雑誌も取り上げて話題にしてくれるし、
広告賞だって取りやすいのかもしれない。
でも、人がおもしろがるのは、もっと素朴な何か、
そのコマーシャルの持っている気配のようなもの
なのではないでしょうか?
つまり、CMディレクターが作る、トーンのようなもの。
もっと、鮮やかに、説明抜きに、
サッと人の気持ちに入り込める何か。
うまく説明することはできないけれど、
コツンと、小さく、人の気持ちに残る何か。
理屈を言い出したら、簡単に否定されてしまう何か。
そして、生意気を言わせてもらえば、
クライアントや広告代理店の関係者が優秀じゃないと、
気がつきにくい何か。
CMディレクターの考える、素朴なアイデアやトーンとは、
そういうものかもしれません。
だからこそ、ここでぼくと鈴木さんが話し合ってきたように、
CM制作のプロセスが複雑化しているなかで、
CMディレクターが企画に参加しにくい状況が生まれているのでしょう。
でも、CMが、「届くスピード」を獲得するために、
CMディレクターが考えるような、
アイデアの素朴さを、もっと生かして欲しい。
広告のカタチとしては見えづらいけれど、
CMディレクターが広告のトーンを生み出す力を
もっと企画に生かして欲しい。
まとまらない手紙になってしまいましたが、
「CMディレクターにもっと企画を!」と、
ぼくが言いたいわけは、そんなことのようです。