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花が咲くと、遠くから見ても、すぐにわかりますが、

糸のように長い雄蕊(おしべ)が見えないと、

合歓(ねむ)の木らしくないかも知れません。

 

ボンボン型の、でかい桃色の花ですけれど、

マメ科ですから、日あたりの良い荒地に育ち、

10年もすれば、屋根よりも高くなります。

 

落ち着いた味わいはありませんが、女の子が喜びます。

廃屋になったお寺の境内に咲いていました。

 

          ***          ***

 

 

性転換をしたい気持ちって、

外国に行ってでも、手術を受けたいところまで、

一時的に亢進します。

 

ほとんどが、性転換医療を行なうお医者さんを含めて、

性転換を取り巻く人たちに、

唆(そそのか)されて、囃(はや)し立てられたからです。

 

一時的に亢進する気持ちは、そうなの。

 

でも、性転換をしたい人って、

持続的に社会生活上の苦境にあったり、

具体的に、これと言った原因を自覚できないのに、

精神的に人一倍、しんどいと感じたりしている人たちです。

 

本人は、

苦しい気持ちの原因が、性別であるって、わかったと、言います。

 

苦しいって自覚したのが、赤ちゃんや幼児の頃からであり、

生まれつきに性別のせいで、ずーっと苦しかったと、表現します。

 

赤ちゃんに、わかるわけがありませんから、

苦しかったのは、幼児の頃からであっても、

思春期になってから、自分なりに解釈ができた、という意味です。

 

ほんとに性別のせいである、という証拠は、皆無です。

性別のせいって、吹聴したのは、

性転換医療を行なうお医者さんや、

歓楽街の同性愛や異性装関係のお店の人たちです。

 

そりゃあ、商売ですから、そう言うのに、決まっています。

ついでに、マスコミや学者の人もね。

 

精神的に苦しければ、歓楽街に入り浸るって、

昔から、よくあることですので、不思議でありません。

異性装は、誰にでも気持ちの良いことですが、

歓楽街では、タブーがありませんから、これも当たり前です。

 

同性愛ってのが、性交渉の経験のない人と、よく似ています。

 

異性との交際が、相手によらず、上手(うま)く行かないのと、

同性愛しか出来ないとか、

異性愛は嫌々(いやいや)ながら、我慢して実行しているとかって、

似たような傾向ですから、

性交渉の経験のないGID(性同一性障害)の人も、

同類と見ることが出来ます。

本人は、アセクシャルと言うかも知れません。

 

同性愛は大嫌(きら)いで、異性愛しか出来ない、と言う人も、

配偶者や子供のいるGIDでは、

離婚をしたくないから、嘘をついていることが、よくあります。

 

一般には、同性愛って、精神や体が健常でしたら、

オナニーのように、誰でも簡単に習得できると、わかっています。

 

同性愛が、

社交上の不可欠の慣習になっていない時代や地域でしたら、

異性愛だけで、間(ま)に合っている人が、

わざわざ、新しく同性愛を習得する必要もありませんが、

容易に習得できて、広く誰でも楽しむことが可能であり、

自由に使用と不使用を選択できるのは、言うまでもありません。

 

欧米やイスラム教社会では、同性愛が禁止の建前になっていますが、

宗教や軍隊が、同性愛の本家本元であることは、

今も昔も、公然の秘密です。

 

歴史的な経緯から、欧米やイスラム社会は、ひねくれています。

 

日本は、

世界で唯一と言っても良いほど、素朴に同性愛が自由でした。

歴史上、一度も禁止されたり、社会的に軽蔑されたりしたことは、

ありません。

 

それにもかかわらず、ここ数十年来の、欧米や日本などの、

同性愛の文化運動やカミングアウトに熱心な人たちは、

自由な同性愛や、本家本元の同性愛は、偽物(にせもの)であり、

自分たちの同性愛が、本物である、と言います。

 

この人たちの言う本物の同性愛って、何かしら?

 

性転換を強く望み、

実行しようとするGID(性同一性障害)の人たちの同性愛と、

ほぼ同じように、

異性との性交渉が出来なかったり、

忌避したりする気持ちなどに共通の、

乳幼児の頃からの、持続的な精神の苦しさがなければ、

本物でない、と言っているようです。

 

同性愛のほうの性的快感を、拒否しないのですから、 

精神的な苦しさが、本物の同性愛には、必須であるって、

変(へん)と思いません?

 

同性の社会の中での、競争や殺し合いが、

同性の合従連衡を必要としますから、

同盟関係と性的快感とを、兼ね合わせられれば、一石二鳥です。

 

ほんとに、そのように持続的な精神の苦しさが、

同性愛しか出来なかったり、

異性愛に苦痛を感じたりする原因でしたら、

性別のことでなく、もっと広く一般的な精神の病気と、

ほとんど区別がつきません。

 

性転換医療を行なうお医者さんの中には、

鬱病である、と指摘する人もいます。

わたしは、鬱病に限定されずに、もっと広く、

とりわけGID(性同一性障害)では、

統合失調症を発病するまでの、統合失調症の人の心の道すがらが、

全部、含まれるような気がしてなりません。

 

統合失調症と鬱病の関係って、厄介ですが、

統合失調症は、人間特有の知性の故障に見え、

鬱病は、哺乳類に共通の感情の故障に見えるのでしたら、

統合失調症のほうが、鬱病よりも基礎的である、と言うと、

怒られます。

 

物理化学とエステティックって、どちらが野蛮なのかしら。

 

甘やかされて育てられたからと、指摘する人もいますが、

統合失調症なら甘やかされて、鬱病なら頑張り屋と言うのは、

値段の安い文学です。

 

本人に出来なければ、甘やかさざるを得ませんし、

本人に出来て、みんなに褒められれば、頑張るのに決まっています。

 

脳味噌って、化学変化を記憶して、

こっちとあっちを、電線で繋いでいるだけですから、

あっちの化学変化が、こっちの化学変化に影響します。

生まれつきに、あっちこっちの配線は、出来上がっていますから、

神経が、手を伸ばすのは、記憶するだけのようなものです。

 

別に難しいことを記憶するのでなく、

コンピュータと同じで、マルペケ式のあほですから、

どのような意味を持つかは、文化のほうの価値にすぎません。

脳味噌の知ったことでありません。

 

記憶の意味は、脳味噌というハードウェアのプログラムでなく、

文化というソフトウェアのほうのプログラムによって、決まります。

 

記憶のための、細かな神経の、手を伸ばす配線でなく、

脳味噌の、あっちとこっちを、大まかにリンクさせるための、

神経の軸索と言われる電線の配線は、

生まれつきに、ほとんど変更不能ですから。

 

甘やかされたり、頑張り屋であったりって、

文化的な評価ですけれど、

精神の病気の人って、変更できないのと、変更したくないのとが、

同じに見えることが、わたしには気になります。

 

行くところまで行って、玉砕しようとする魂胆かも知れません。

みんなに合わせるなんて、あっかんべーって感じです。

 

 

 

 

   

    

 

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