花が咲くと、遠くから見ても、すぐにわかりますが、
糸のように長い雄蕊(おしべ)が見えないと、
合歓(ねむ)の木らしくないかも知れません。
ボンボン型の、でかい桃色の花ですけれど、
マメ科ですから、日あたりの良い荒地に育ち、
10年もすれば、屋根よりも高くなります。
落ち着いた味わいはありませんが、女の子が喜びます。
廃屋になったお寺の境内に咲いていました。
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性転換をしたい気持ちって、
外国に行ってでも、手術を受けたいところまで、
一時的に亢進します。
ほとんどが、性転換医療を行なうお医者さんを含めて、
性転換を取り巻く人たちに、
唆(そそのか)されて、囃(はや)し立てられたからです。
一時的に亢進する気持ちは、そうなの。
でも、性転換をしたい人って、
持続的に社会生活上の苦境にあったり、
具体的に、これと言った原因を自覚できないのに、
精神的に人一倍、しんどいと感じたりしている人たちです。
本人は、
苦しい気持ちの原因が、性別であるって、わかったと、言います。
苦しいって自覚したのが、赤ちゃんや幼児の頃からであり、
生まれつきに性別のせいで、ずーっと苦しかったと、表現します。
赤ちゃんに、わかるわけがありませんから、
苦しかったのは、幼児の頃からであっても、
思春期になってから、自分なりに解釈ができた、という意味です。
ほんとに性別のせいである、という証拠は、皆無です。
性別のせいって、吹聴したのは、
性転換医療を行なうお医者さんや、
歓楽街の同性愛や異性装関係のお店の人たちです。
そりゃあ、商売ですから、そう言うのに、決まっています。
ついでに、マスコミや学者の人もね。
精神的に苦しければ、歓楽街に入り浸るって、
昔から、よくあることですので、不思議でありません。
異性装は、誰にでも気持ちの良いことですが、
歓楽街では、タブーがありませんから、これも当たり前です。
同性愛ってのが、性交渉の経験のない人と、よく似ています。
異性との交際が、相手によらず、上手(うま)く行かないのと、
同性愛しか出来ないとか、
異性愛は嫌々(いやいや)ながら、我慢して実行しているとかって、
似たような傾向ですから、
性交渉の経験のないGID(性同一性障害)の人も、
同類と見ることが出来ます。
本人は、アセクシャルと言うかも知れません。
同性愛は大嫌(きら)いで、異性愛しか出来ない、と言う人も、
配偶者や子供のいるGIDでは、
離婚をしたくないから、嘘をついていることが、よくあります。
一般には、同性愛って、精神や体が健常でしたら、
オナニーのように、誰でも簡単に習得できると、わかっています。
同性愛が、
社交上の不可欠の慣習になっていない時代や地域でしたら、
異性愛だけで、間(ま)に合っている人が、
わざわざ、新しく同性愛を習得する必要もありませんが、
容易に習得できて、広く誰でも楽しむことが可能であり、
自由に使用と不使用を選択できるのは、言うまでもありません。
欧米やイスラム教社会では、同性愛が禁止の建前になっていますが、
宗教や軍隊が、同性愛の本家本元であることは、
今も昔も、公然の秘密です。
歴史的な経緯から、欧米やイスラム社会は、ひねくれています。
日本は、
世界で唯一と言っても良いほど、素朴に同性愛が自由でした。
歴史上、一度も禁止されたり、社会的に軽蔑されたりしたことは、
ありません。
それにもかかわらず、ここ数十年来の、欧米や日本などの、
同性愛の文化運動やカミングアウトに熱心な人たちは、
自由な同性愛や、本家本元の同性愛は、偽物(にせもの)であり、
自分たちの同性愛が、本物である、と言います。
この人たちの言う本物の同性愛って、何かしら?
性転換を強く望み、
実行しようとするGID(性同一性障害)の人たちの同性愛と、
ほぼ同じように、
異性との性交渉が出来なかったり、
忌避したりする気持ちなどに共通の、
乳幼児の頃からの、持続的な精神の苦しさがなければ、
本物でない、と言っているようです。
同性愛のほうの性的快感を、拒否しないのですから、
精神的な苦しさが、本物の同性愛には、必須であるって、
変(へん)と思いません?
同性の社会の中での、競争や殺し合いが、
同性の合従連衡を必要としますから、
同盟関係と性的快感とを、兼ね合わせられれば、一石二鳥です。
ほんとに、そのように持続的な精神の苦しさが、
同性愛しか出来なかったり、
異性愛に苦痛を感じたりする原因でしたら、
性別のことでなく、もっと広く一般的な精神の病気と、
ほとんど区別がつきません。
性転換医療を行なうお医者さんの中には、
鬱病である、と指摘する人もいます。
わたしは、鬱病に限定されずに、もっと広く、
とりわけGID(性同一性障害)では、
統合失調症を発病するまでの、統合失調症の人の心の道すがらが、
全部、含まれるような気がしてなりません。
統合失調症と鬱病の関係って、厄介ですが、
統合失調症は、人間特有の知性の故障に見え、
鬱病は、哺乳類に共通の感情の故障に見えるのでしたら、
統合失調症のほうが、鬱病よりも基礎的である、と言うと、
怒られます。
物理化学とエステティックって、どちらが野蛮なのかしら。
甘やかされて育てられたからと、指摘する人もいますが、
統合失調症なら甘やかされて、鬱病なら頑張り屋と言うのは、
値段の安い文学です。
本人に出来なければ、甘やかさざるを得ませんし、
本人に出来て、みんなに褒められれば、頑張るのに決まっています。
脳味噌って、化学変化を記憶して、
こっちとあっちを、電線で繋いでいるだけですから、
あっちの化学変化が、こっちの化学変化に影響します。
生まれつきに、あっちこっちの配線は、出来上がっていますから、
神経が、手を伸ばすのは、記憶するだけのようなものです。
別に難しいことを記憶するのでなく、
コンピュータと同じで、マルペケ式のあほですから、
どのような意味を持つかは、文化のほうの価値にすぎません。
脳味噌の知ったことでありません。
記憶の意味は、脳味噌というハードウェアのプログラムでなく、
文化というソフトウェアのほうのプログラムによって、決まります。
記憶のための、細かな神経の、手を伸ばす配線でなく、
脳味噌の、あっちとこっちを、大まかにリンクさせるための、
神経の軸索と言われる電線の配線は、
生まれつきに、ほとんど変更不能ですから。
甘やかされたり、頑張り屋であったりって、
文化的な評価ですけれど、
精神の病気の人って、変更できないのと、変更したくないのとが、
同じに見えることが、わたしには気になります。
行くところまで行って、玉砕しようとする魂胆かも知れません。
みんなに合わせるなんて、あっかんべーって感じです。
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