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ピンボケですみません。

花びらの先が、毛のようになっていますから、

自動焦点が、うまく機能しないのかも、知れません。

 

一々、カメラの液晶画面に、

写真の部分を、拡大して確認するのが、面倒臭くて…

老眼になると、液晶画面が、ぼやけて見えません。

 

昔のように、ファインダーを覗くほうが、

確かかも、知れません。

視度を、調節できますから。

 

        ***          ***

  

言語が、人為的に作られたと、

だれでも、知っています。

 

流行文化と、似たようなものですから、

憲法や法律のように、

個人と個人の、約束事です。

 

みんなの支持が、得られれば、

みんなの文化のように、言われますから、

約束は、取り決めた人たちの、

規則であるだけでなく、憲法や法律のように、

支持していない人たちにも、

規則として、強要されるかも知れません。

 

約束や規則って、みんなで取り決めますが、

取り決めていない人たちにも、拘束力があるのは、

憲法や法律よりも、言語やファッションのような、

流行文化のほうが、顕著です。

 

自分は、ちっとも賛成していなくても、

みんなに従わなければ、殺されても仕方ありません。

数学や憲法などは、屁(へ)です。

 

約束事や規則って、

作られ方や、流行の仕方が、決まっていませんから、

マスコミの、記事や番組の内容や、

インターネットのWebサイトの内容のように、

みんなに受ければ、世界を覆いますが、

受けなければ、無視されて、消えて行きますから、

殺されても、だれも文句を、言ってくれません。

 

     唯物論では、

     すべての規則は、物に由来しています。

 

     生物や人間も、物の一種ですから、

     規則は、物の在り方や、

     運動や変化の仕方を、

     人間が、物を知るために、

     物から抽出したものです。

 

     抽出の間違いが、あるかも知れませんが、

     あくまで、

     正しい規則は、物の中にあります。

     

     物の在り方を、自然といいますが、

     生物や人間の在り方も、含まれています。

 

     自然は、

     事実として、人間に知覚されますが、

     必ずしも、正しく知覚されているとは、

     限りません。

 

     知覚により抽出された規則が、

     事実と言われても、

     自然に一致していなければ、

     事実から、抽出された規則は、

     裁判の判決や、政府の通達や、

     法律や常識や道徳や迷信や、

     マスコミの報道や、

     ファッションの流行などと、

     さほど違わない代物(しろもの)にしか、

     なりません。

     

     物理化学は、実験や検証により、

     試行錯誤を繰り返して、

     自然の、普遍的で必然的な規則を、

     よく抽出していると、言われます。

 

     未来の事実を、予言して、的中するのは、

     物理化学の法則が、

     自然の規則に、一致しているからと、

     唯物論者は言います。

 

     事実は、必ずしも、

     自然を、正しく知覚していないのに、

     事実を見て、自然と物理化学が、

     同じ規則を、共有していると、

     判断するのは、なかなかのものです。

 

     物理化学は、数学を使い、

     未来を予言しますが、

     数学は、事実から、規則を抽出して、

     未来の事実を、競馬の予想のように、

     言い当てているだけでないかと、

     疑われます。     

 

     サラブレッドとアラブの競争なら、

     サラブレッドに賭けたほうが、

     儲かりますが、

     必ずというわけで、ありません。

 

     数学の判断は、必ず、そうなりますから、

     こいつは、定義でしか、ありませんのに、

     事実を見て、正しいと、確信しなければ、

     仕方がないのは、

     明らかに変(へん)です。

 

     自然は、

     物理化学の捏(でっ)ち上げでないかと、

     疑われますので、

     科学技術が、確かに役に立つ事実を、

     作るのは、もしかしたら、

     ただの技術の、積み重ねのせいかも、

     知れません。

 

     技術が、

     物理化学や数学を、書類に書くのは、

     嘘偽りがないと、

     宣誓するようなものかも知れません。

     

     役所に提出する書類なんか、

     宣誓をしても、嘘偽りであるのが、

     普通です。

     本当の事を書けば、技術が漏れますので、

     外部に出す書類に、秘密を書く馬鹿は、

     いません。

 

     科学技術だけでなく、

     科学もそうであると、

     小保方さんは言っていました。

 

     うちの父は、IQ70の知的障害でしたので、

     二桁と二桁の足し算が、

     出来ませんでした。

     それでも、化学会社を創業しただけでなく、

     父が作らなければ、

     だれも、採算に合うように、

     効率良く製品を作れませんでした。

 

     作り方を、秘密にしていましたので、

     他人に教える作り方は、

     全部、嘘八百でした。

     物理化学の教科書の通りに、書類を作り、

     役所に提出していました。

     

     わたしも、工場の施設の強度を、

     建築基準の通りに、計算しましたが、

     自分で信じたことは、

     一度もありませんでした。

 

     数学は、役所の事務かも、知れません。

     実際に、うちの学校の数学の先生は、

     ソロバンの上手(うま)い事務員に、

     似ていましたが、

     商売は下手(へた)でした。

     

     物理化学や数学は、事実の中から、

     規則を抽出していますので、

     自然と名付けられた何かは、

     自分たちの抽出した規則に、

     箔(はく)を付けるための、

     虚構かも知れません。

     

     物理化学が、実験や検証などの、

     試行錯誤を繰り返して、

     事実の中から、

     比較的に、よく再現されるものを、

     抽出するように、

     数学は、脳の神経や化学物質の、

     繋がり方やくっつき方の中から、

     よく現れる判断を、

     抽出しているだけかも、知れません。

 

     こうすれば、必ず、そうなるのは、

     定義でなければ、あると思えません。

      

     定義をすれば、必ず、そうなるような、

     論理法則って、

     そのように、変更不能になっている脳の、

     情報処理の仕方ですから、

     品種改良のように、

     純化されたものかも知れません。

 

黒船や原爆に負けるまで、日本人は、

神仏の不合理な世界を、信じていましたから、

唯物論者でありませんでした。

 

むしろ、仏教のような、

インドヨーロッパ文化の、端っこの、

田舎の考え方が、伝わっていましたから、

物よりも心を、信じていました。

 

第二次世界大戦に負けると、

日本の学校教育が、いっぺんに唯物論になりました。

 

物理化学の考え方を、

アメリカ合衆国やソ連が、信奉していましたので、

当たり前でした。

 

アメリカ合衆国では、

第二次世界大戦の終わった直後に、

現代のコンピュータが、完成しましたので、

唯物論の考えかたが、

決定的に古臭いものになりました。

 

日本の第二次世界大戦の後の、学校教育って、

その後のソ連と、運命を共にすることになりました。

 

ソ連が潰れて、日本のバブルが弾(はじ)けて、

明治維新以後の日本は、完全に、海底に沈みました。

 

ソ連は科学主義を掲げましたが、

コンピュータの技術に乗り遅れたことが、

経済が左前になった原因でないかと、

言われているように、

唯物論とコンピュータって、相反する考え方です。

 

日本は、家電製品だけでなく、

コンピュータの製造が得意でしたのに、壊れました。

 

アメリカ合衆国が、

汎用型のパーソナルコンピュータを作ったのに、

日本は、トランジスタを大量生産して、

電卓を作ったように、

コンピュータを作った意味を、

日本人は理解していませんでした。

 

コンピュータを作った考え方が、

インターネットのように、

はっきりと、唯物論を否定するだけでなく、

科学主義や物理化学や数学をも、

否定する考え方であることを、

日本人は、よく理解していませんでした。

 

インドヨーロッパの人は、子供の頃から、

特有の宗教文化を、教育されていますので、

物理化学や科学技術と、

キリスト教のような宗教との、考え方の調和を、

日本人よりも、

桁違いに、よく理解しているかも知れません。

 

インドヨーロッパ文化の特徴は、

論理主義ですけれど、

ロマンティックな思想では、弁証法と言われます。

 

事実と論理の関係を、知性として、理解します。

お釈迦さんの時代に、

すでに、その傾向が、はっきりしていましたから、

日本人は、あほです。

 

     19世紀の初めに、電信が実用化された時に、

     だれでも、考えます。

     

     機械が、人間の筋肉の代わりをして、

     産業革命が起こったように、

     電信が、人間の脳味噌の代わりをして、

     知性の中身が、大きく変わるのでないかと。

 

     機械が、

     筋肉の代わりをするようになったのは、

     人間が行動をして、

     事実を変化させる仕組みが、

     だれの目にも、

     理解できるようになったからです。

 

     人間がしなくても、

     機械がすれば、同じですから、

     上手(うま)い機械を作れば、楽ちんです。

 

     脳味噌の作業も、そうなの。

     電信ができると、だれの目にも、

     こいつにさせれば、

     人間が考えなくても、良いと、

     わかりますから、

     上手く使えば、とても楽ちんです。

 

     算盤(そろばん)と同じような作業が、

     電信の仕組みであると、

     わからなければいけません。

 

     電話の回線網って、

     コンピュータと同じですから、

     電話交換を、人間がするのでなく、

     自動で行えば、良いわけです。

 

     算盤の計算って、玉を動かしますから、

     電信や電話のように、

     電気を伝えるコミュニケーションと、

     同じです。

 

     電信は、

     算盤の玉みたいに、電気を流します。

     脳味噌の中は、

     神経と言われる電線が一杯ですから、

     思考って、電話回線網の機能のように、

     脳の中の、

     コミュニケーションですけれど、

     算盤の計算のように、玉を動かします。

 

     電信が実用化された時に、

     自然や、自然の法則が、

     虚構であるだけでなく、

     事実から、規則を抽出しなくても、

     定義を伝える仕組みがあれば、

     配線を変えるだけで、

     脳味噌の遺伝的な素質に、制限されずに、

     自由に、

     人工的な脳味噌を、作れるのでないかと、

     たくさんの人が、疑いました。

 

     自然や、自然の法則だけでなく、

     事実さえ、必要ありません。

 

     数学は、黒を白と言うように、

     自由に定義をして、自由に、

     変更不能な規則を、作るだけですから、

     電信を上手く設計すれば、

     唯物論的な、認識の対象の世界は、

     存在する必要がありません。

     

     人造の言語を、作るように、

     自由に、世界を作れます。

      

     想像されるコンピュータの仕組みを、

     不自由にしたのが、

     人間でないかと、疑われます。

 

     どのような手順で、

     コンピュータの判断を、

     作れば良いかって、

     人間の判断を、擬えるだけでなく、

     事実や自我や自然などは、必要なく、

     自然の摂理や、物理化学の法則などの、

     規則は、

     自由な定義が、脳の遺伝的な素質に、

     制約されていたせいと、わかる手順と、

     同じです。

     

     科学の規則って、法律みたいに、

     流行文化にすぎません。

     これからは、

     憲法や自由や自我や、

     自然や事実や法則などを、

     12才の女の子のエステティックと、

     似たようなものと、

     思わなければいけません。

 

     それなのに、どうして、

     ソ連が、唯物論や科学主義を掲げて、

     石油危機の後(のち)の日本が、

     科学立国を掲げたのかしら。

 

     ソ連と日本は、

     枕を並べて、討ち死にしました。

     逗子の石原って人や、

     ソニーのなんとかと言う人や、

     堺屋っていう道頓堀で泳ぐ人などは、

     日本の東郷平八郎が、

     バルチック艦隊をやっつけたのを、

     北欧が賛美しているって、

     頻(しき)りに宣伝していましたが、

     ソ連と日本は、仲良く潰れました。

 

     強いアメリカ合衆国や、

     経済のグローバル化や、

     コンピュータを普及する政策が、

     ソ連と日本を潰すためであったのに、

     ちっとも気づかない人が、

     日本を引っ張ったのは、間違いでした。

 

コンピュータは、

どうして、自然や事実を奉らなくても、

上手く行くのかしら。

 

インターネットは、

みんなでコミュニケーションをしますけれど、

みんなの約束事があっても、

自然や物理化学の法則なんて、必要ありません。

 

人間の脳味噌を、品種改良して、

事実や論理を作ったのに、

どうして、日本人は、気づかなかったのかしら。

 

何を作るかって、

何を変更不能にするかと、同じですから、

変更不能な、普遍的で必然的な論理や法則って、

作られたものに決まっているのに…

 

事実がなくても、何を作るかが、一致すれば、

みんなの言葉のように、

人為的なコミュニケーションが作られます。

 

どうして、言葉が通じるのかってのと、

どうして、同じ事実を、

みんなが共通して知るのかってのとは、

同じ仕組みによります。

 

言葉は、みんなに共通の、種類のような意味が、

その具体的な言葉の、意味になります。

事実も、そうなの。

みんなに共通の、種類としての意味が、

その具体的な事実として、みんなに知られます。

 

違う事実を見ていても、同じとされるのは、

種類を見ているからなの。

 

海を見た人と、花を見た人は、

同じ具体的な事実を見たと、法廷で証言します。

海と花の共通点が、彼らの見た具体的事実ですが、

海の人と、花の人とでは、

何を共通点にするかが、違います。

 

赤いとでも、名付けておけば、二人の証言は、

簡単に、人を死刑にすることが、出来ます。

黒でも白でも、構いません。

�ケ小平は、

黒猫でも白猫でも、鼠を捕る猫が、よい猫だと、

表現しました。

 

言葉って、使われることにより、定義されるように、

具体的な事実も、

コミュニケーションされることにより、

特定されますから、

裁判が、事実を争うのは、お笑い草です。

 

みんなと違う奴を、間引いているだけですから、

魔女狩りと、ちっとも変わりません。

 

 

 

 

 

 

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