【ふるさと】
歌 : 五木ひろし
野暮ったい歌と顔で、ごめんなさい。
わたしの故郷は、函館で、いまもお兄さんが暮らしています。農業です。
その後、岐阜県の神岡で、幼年期を過ごしました。鉱山の町です。
それから、都会を転々して、横須賀に流れ着きました。
途中、アメリカやスーダンやアフガニスタンもあります。
ベトナム戦争に、スーダンの南北戦争に、ソ連占領時代のアフガン紛争です。
戦争ばっかり。
ふるさとという感じは、函館と神岡かしら。
同伴の女性が、突然、喫茶店を通り抜けて、裏道に出ました。
喫茶店を出る時に、日傘を、ドアの内側に置いて行きます。
裏道の向かい側の、二階建ての木造アパートに入ると、
そのまま、出てこない。
これだから、困ります。
突然、何も言わずに行動するので、
周囲の人には、事情がさっぱりわからない。
そんなこと、お構いなし。
これが、性同一性障害(GID)の人に多いの。
この人は、GIDでなかったけれど、
木造アパートから、一緒に出てきた男性がFtM。
何か、事情があったのかと尋ねると、
この男性を、わたしに会わせたかったので、
大急ぎで、呼びに行ったそうです。
そう言われると、こごとを言えなくなります。
でも、15分間ぐらい、待ちました。
いきなり、消えてしまって、15分はないでしょう。
せいぜい、数十秒が、限界と思うけれど。
小学校の同級生で、一緒に暮らしていたと言います。
レズだったのね。
立ち役の女性が、性転換してFtMになっちゃった。
それっきり、何十年も会わずにいたのに、
つい最近、再会したってことかしら。
よくある話ですけれど、
ふつうは、別れる前に喧嘩になっていますので、
二度と会わないか、さもなければ、
手術が終わって、何もかもが出来上がって、
落ち着いた後に、GIDのほうから、
昔の友達に会いたいと、言ってきます。
それがなければ、二度と会うことはないかも。
どちらなのかしらと、わたしは勝手に想像しました。
話を聞くと、性転換のことで、意見が異なり、
別れた後、一段落がついてから、彼のほうから連絡があり、
性転換後の顔や体の、お披露目になりました。
でも、やっぱり別れてしまって、20年後の再会が、つい先日あり、
この日が、その数日後でした。
この人達の年齢から、20年というのは、人生の大部分でしょうけれど。
日傘の女性は、結婚して、子供が中学生なのに、
FtMの彼は、木造アパートに、一人住まい。
ふつうなら、色気付いた子供が、友達を連れて来る年頃です。
付近は、再開発中で、道がなくなり、
あたり一帯が、工事現場の真っ只中。
アパート付近だけが、昔ながらの感じで、孤立していました。
木造の骨董品ですけれど、再開発の立ち退きを待っていたのかしら。
騒音の中で、宙に浮いたように、静かな佇まいが、
性同一性障害の心に似ていました。
MtFですと、性転換後に、男女逆転した生活になりますけれど、
FtMは、性転換前から、レスビアンの男っぽい服装ですから、
ほとんど変わりません。
自分が男にならないと、男性と、まともに話ができないのかしら。
性転換しても、やっぱり、女の子と一緒でなければ行動できない人が多く、
一対一では、男性と対等に話ができません。
女って、コロニーを作って、いつでも、連れションですから。
一生、女の社会から、出ていけない人に限って、FtMになるみたい。
性転換したことを看板に、話題をそちらに陽動したり、
男の仮面を隠れ蓑に、心に裏表の陰翳を演出したりして、
やっと、男性と話ができるようになります。
そんな子が多いの。
粗暴で突っ張っている心の内は、融通の効かなくなる病気かしら。
心が動脈硬化みたいに、固く脆くなります。
性転換を楯にしないと、男性と話す時に、突っ慳貪になるのかしら。
それとも、口を閉ざしてしまうのかしら。
そう言えば、MtFも、はっきりと、女性に性欲を催すのに、
女性の気持ちを、もてなすことができません。
人に共感できずに、自閉的になる発達障害の気持ちから、
思春期以後に、人と応対する時に、
幾つもの気持ちを、
要領よく使い分けることが出来ないみたい。
自分自身の心の中で、幾つもの気持ちが争いになってしまい、
統合失調症の気持ちに、変わって行く人が、たくさんいます。
もしかしたら、性転換手術が、統合失調症に進行させずに、
解離したままで、生活できるところに、
心を落ち着かせるのかも知れません。
正直な人なのに、嘘つきと、紙一重に見えてしまいます。
自分の中の、幾つもの気持ちって、
オナニーやナルシズムに、最も単純な形で現れます。
生殖をなぞっていますから、
自分が幾つもに分かれる原形かも知れません。
異性装や同性愛は、オナニーやナルシズムの
ごくありふれた変形です。
異性に性欲を催すにもかかわらず、
心を鏡に照らし合わせたように、
主体と客体の入れ替わった気持ちから、
人は同性愛を習得するのでないかしら。
そんな気がします。
同性愛者の中には、
一時的な同性愛者を、にせ者のように言う人がいますけれど、
戦争の時に、一時的に同性愛を経験した男性は、
ほとんど、オナニーの気持ちで、
相手の人と、心を照らし合います。
もちろん、体も使いますけれど。
そう、聞いています。
タイのお坊さんの修行でも、
半数ぐらいの青年が、同性愛を覚えますが、
別に同性愛の修行でありませんから、
精神的に健常で純情な青年が、
ごく普通に同性愛者になるだけです。
あたりまえの修行を終えると、
さっさと同性愛を棚上げにして、
奇麗な奥さんと結婚して、幸せに暮らします。
同性愛の習得なんか、難しくも、なんともありません。
健常な精神なら、朝飯前です。
これって、TV(transvestism)のMtFの、
異性装の要領と同じです。
男性は、いつでも、その気持ちになることができますし、
いつも通りの男性の気持ちに、戻ることもできます。
男性でも、女性でも、健常な人が、オナニーをする時って、
そうでしょう?
いつでも、オナニーの気持ちになれるし、
いつでも、異性愛の性交渉の気持ちになれます。
健常な人が、同性愛を嗜む時も、同じです。
そういう融通が効かなくなり、選択の自由を失うのは、
同性愛に、ある種の精神の病気が重なった時のように、
わたしは思います。
異性との性交渉ができないのは、
けっして本物の同性愛でなく、
同性愛を嗜む人が、なにかの精神の病気に罹ったとか、
精神の病気がひどくなったとか、
もともと、精神の病気のせいで、
同性愛しか習得できなかったとか、
そんなに感じに見えます。
異性との性交渉のできない同性愛の人って、
なんらかの精神の病気のせいで、
そうなっているのでないかしら。
同性愛のせいではありません。
健常な人が、同性愛を習得するのって、簡単ですけれど、
今は、同性愛の流行期でありませんから、
わざわざ習得しなければならないことも、ありません。
関西の人は、納豆が嫌いですけれど、
飢饉の時代でありませんから、
わざわざ嫌いな納豆を食べなくても構いません。
たぶん、GIDの人は、自由な選択でなく、
そこへ落ち着いてしまうのかも知れません。
自然に、そうなるとも言えますけれど、
精神の病気のせいとも言えます。
オナニーやナルシズムの気持ちを、
わざわざ、実際に、異性装や性転換で実演してみなければ、
自由に使い分けられないって、
それなりに不器用かも知れません。
ふつうは、心の中に異性を想像すれば、用を足せますけれど…
性転換手術は、それを目で見える形に、固定する感じかしら。
そう言えば、ミュンヒハウゼン症候群の人が、手術を望むのも、
目で見て、体に確実に残る証拠の形にして、
それに縋り付きます。
刺青や焼き印も、似たような気持ちです。
話題の中心になって、人とのコミュニケーションを得る道具に、
手術の話を使いますけれど、
傷痕を見せれば、嘘偽りでないことを示せます。
話相手に見せびらかすと同時に、
自分の心に、物的証拠を示しているのかも知れません。
やはり、事実や物的証拠が、欲しいのですよね。
それって、心が、事実によって、
整理されていないからに見えます。
一本の時間の上に、事実を並べて、
記憶を事実にくくりつけて整理する意識の特徴を、
自己同一性と言います。
他人と情報交換をするときの、共通の形式として、必要です。
自己同一性のほかに、身内と異物の識別などの、
自我と言われる意識の形式の、幾つかの特徴が曖昧になると、
意識が解離していると言われます。
たがが弛んだようになります。
MtFの人は、作られた性器の割れ目に、感激しますけれど、
どう見ても、女性の体を見て、男性の催す性欲が、
そのまま、性転換の感激になっているとしか、思えません。
FtMも、作られたペニスの形に、涎れを垂らしますけれど、
オナニーやナルシズムの心を、目に見える形に固定しています。
刺青や焼き印のように、
体に、しっかりとした事実の形で固定しないと、
心が解離して、漂流してしまうのでないのかしら。
わたしも、スーダンやら、アフガンやらを、漂流しましたけれど、
無事、横須賀に流れ着きました。
スーダンは石油、アフガンはラピスラズリの、お仕事でした。
どちらも、家業でしたけれど、わたしにとっては副業ね。
統合失調症の人になると、
自分の心が、何人もの人のように自覚されますので、
いつも、一人ごとを言うようになります。
解離性同一性障害なども、それに近いのですけれど、
人格交代して、実際に演技的に行動するところが、
性同一性障害に近いかも。
体で演技して、宙に浮いている心を、確かなものにします。
わたしも、バレエが好きです。
性転換手術や性ホルモン剤が普及する前の、
今で言うGIDの仲間社会ができる前の、
1960年頃までは、後にMtFになる人たちは、
遊郭の名残の町にたむろしていました。
MtFの人たちから話に聞くだけですので、また聞きですけれど、
火鉢のある広間に、
女装の人と、男装のままでペニスをしごき続ける人とが、
同じグループでした。
男性同性愛の人は、一般の異性愛の人と一緒のグループのこともあれば、
別のグループのこともありましたけれど、
女装のグループとは、はっきりと別でした。
男装のままでペニスをしごき続けて、射精しないで、
一日中、半分いい気持ちで過ごすのと、
一日中、女装の、色ボケ気分で過ごすのとが、
同じグループだったそうです。
当時の人に聞くと、MtFのペニスが大きいのは、当然と言います。
しごき続けている人は、みんな大きかったそうです。
女装をする人とは、簡単に振り替わりました。
今でも、MtFの人と、彼女らとの性交渉を望む男性達とは、
簡単に入れ替わりますので、
男女の役割などは、GIDの仲間社会の中では、便宜的かも知れません。
この事情は、男性同性愛の人たちの仲間社会の中でも、
女性同性愛の人たちの間でも、同じです。
女役とか、立役とかって、入れ替わりますから、
性別の心を、とやかく言うのは、実態にそぐいません。
なんとなく、解離して、自己同一性を維持できずに、
自我障害の状態で居続けるのが、いい気持ちの人たちに見えます。
自我を弛めた色ボケの気持ちよさに、浸っているだけでなく、
オナニーやナルシズムの、二重になった自我の間に移ろいますので、
発達障害から統合失調症の、中間のところの気持ちのようです。
この気持ちのまま、生活できるように固定するのが、
性転換手術かも知れませんけれど、そうかという確証もありません。
性同一性障害の人は、男女を問わず、心が宙を泳いでいるようで、
さもなければ、極端な所に張り付いてしまう人のような気がします。
性転換手術が、心を空中に静止させて、固定する手術でしたら、
わたしは、昨日のブログの、蓮の写真ではありませんが、
麻原っていうオウムの教祖を思い出します。
あの人は、蓮の葉っぱの上に座ったまま、
空中に浮き上がったそうです。
もうじき死刑になりますけれど、
もったいないと思う人が、いるかも知れません。
逃亡中の信者さんが捕まって、その人の刑が確定すると、
麻原って人の死刑が、執行されるそうです。
空中に静止する秘術なら、彼に聞かなくても、
性同一性障害の人が、知っているかも知れません。
形成外科の手術は、写真入りで、インターネットに載っています。
SRS(Sexual Reassignment Surgery )です。
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