2016年03月01日

<H2O>という表現 クールに語り直さねばならない時に、吉本隆明は来ている

<H2O>という表現

 水をH2Oと表現したい…吉本隆明の願望。
 吉本隆明はどこかで‘水をH2Oと表現したい’と述べている。心的現象論序説を読むと、それが真に願望だったことがわかる気がする。水をH2Oと表現したい…このことはあまり知られていないかもしれないが、詩人の表現の両極の一方を占める大変なものではないだろうか。
 たとえば心についてそのように現したものが心的現象論だといえそうだ。
 三島由紀夫が性的興奮を覚えると賛美の言葉を贈った吉本隆明の多くの言辞とともに、他方の極をクールな論述が占めている。その代表が難解で有名な「心的現象論序説」だ。

 時代の感性に照らした時に、鹿島茂の「吉本は、その時代を共有した者にしか分からない」という言葉を待つまでもなく、時代の感性を読解コードとするならば、クールに語り直さねばならない時に、吉本隆明は来ているはずだ。何よりも、まだ、そうは語られていないのだから。

 文学的?にいえば、心的現象論序説は、そういう本だろう。これ以上は微分できないところまで、心という現象が探究されている。そこでは鮮やかに古今東西の哲学や思想が拠りどころにしてきた基礎的な概念が、時−空間概念に解体されていくのだ。それだけで、まず多くのドグマのそれ自体であるかのような思弁や恣意性がクリアされていくところは、何よりもクールだった。「クール」…このアメリカ由来の一風俗的な言葉こそ、心的現象論序説の第一評価にはふさわしいのかもしれない。文庫化が話題になったときに、坂本龍一が‘こういう本が大衆に簡単に届くのは危険だ’というようなことを、やはり、どこかで述べていた。それほどのインパクトがあったのだ。それは古典の名前で免罪されているような少なくない知見を一掃しうる可能性を示しているものだと私は思った。難解の一言で葬られようとしていた心的現象論序説のポテンシャルまで隠し通すことは不可能だ。
 感情の生成を‘世界・内・存在から立ち上る…’とアバウトにあるいは詩的にしか表現できないハイデガーをまず取り上げながら、感情の揺るぎない定義を明らかにし、それが<ゼロ>であることをも示すパートで、私はこの本のクールさを確信した。そして何より新しい可能性をそこに見出すことができた。

 共同幻想論にはそれほど興味がなく、思春期・青春期のありがちな興味の延長で、仕事の途中、移動や一休みするときにポケットに忍ばせた心的現象論序説を読んでいた。最大の興味は時空間の概念を駆使したアプローチだ。時空間概念を単位にして経済が微分される資本論の講義の鮮やかさに感激し、あるいはもっと明晰に世界を時空間および縦横高さと形態や量や質といったものに解体するヘーゲルの論理学に準拠したかのような心的現象論序説の展開に、何か大きな期待をつのらせながら読んでいた。
 そこには時間と空間でクリアされていく心の世界があった。


   古典哲学が<衝動>とか<情緒>とか<感情>とか<心情>とか<理性>とか<悟性>とか
   よんでいるものを、身体から疎外された心的な領域とみなすばあい、
   それらは心的時間の度合いとみなされる…

                            (『心的現象論序説』供タ甘世界をどうとらえるかP50)
  

2016年02月16日

<ゼロ>の発見 純粋疎外というサイエンス

<ゼロ>の発見 純粋疎外というサイエンス

はじめに

 私は<ゼロ>を発見した。吉本隆明の著作のなかに。
 それは、戦後最大の思想家といわれた秘密が解けた瞬間でもあった。同時に吉本隆明に対する批判がいまだに成立しない理由もそこに見た気がした。見えないものに的を絞ることが出来ないように、あるいは形のないものの形を破ることが出来ないように、多くの論客が文字どおり気がつくこともできない<ゼロ>の前に、自覚すらないままに消耗していったのだろう。
 吉本著作の、強烈なイメージのテキストとどこか捉えどころがないような論旨。主要著作の資本論のような構成…。私が学生の時に、大学で選択した資本論の講座では、予め論理学を受講することが求められていたのは幸いだった。ヘーゲルの「小論理学」マターではじまる論理学の講義は、その後の読書に役立つことになり、吉本隆明の著作と思想から<ゼロ>を見出すことが出来たのは、その最大の成果だったかもしれない。資本論やマルクスのキーが疎外であるように、吉本のそれは<ゼロ>だったのだ。

 はじまりは難解な漢字よりも馴染み深そうなカタカナが散りばめられた「構造と力」を手にとったことだった。文字どおり、コピーライターやイラストレーターといったカタカナ職業の人気がバブルとなるなかで、思想や哲学の世界でも「理性」よりも「感性」が問われていた。時代の感性を問うものとしてプロモーションされていたのが、この「構造と力」だ。白水社のフランス語辞典の売り上げに貢献したともいわれる「構造と力」は、その白い辞典とともに、カジュアルでファッショナブルだった。ニューアカという言葉がこのトレンドに拍車をかけ、カタログ雑誌といわれたジャンルではニューアカ特集が繰り返し組まれ、アイドルによる「ヘーゲル大好き!」などというサインまであった。やがては高級な女性ファッション誌でも吉本隆明自らがブランド品に身を包まれて登場し、コムデギャルソン論争といわれるものまで起こった。

 このニューアカの最大の功績は<知>も商品であることを示したことだろう。現在も「構造と力」は54刷を記録しながらロングセラーの記録を更新しつつある。反安保闘争、全共闘運動といった時代には「共産党宣言」が70万部以上も売れたことがあり、また革命の書として「都市の論理」が長期間のベストセラーだったことがあるらしいが、現況ではそれらを類推できる片鱗を見つけるのも難しいくらいだ…。
 ニューアカやポスモダといったものはピークアウトしているが、演繹された系として現在は恒常的なジャンルを確実に占めている。それらはオタクやアニメをはじめ、ひきこもりからDV、ハラスメントまで包含しうる領域をカバーしているともいえる。
 ニューアカに問題があるとすれば、そもそもその知の本質である部分はブラックボックスのままブームが終息していったことかもしれない。欧米先進国のポストモダンとパラレルであると思われるニューアカは、答えも解も出さないまま、しかし新たな一つのジャンルであるかのような成果?を残していった。だが、そのコアの部分は未解決のまま、ただ問いだけが多少のバリエーションを増殖させているのが現況ではないだろうか。

 2003年の『現代詩手帖』10月号の特集「吉本隆明とはなにか」では以下のような指摘がされている。

   1980年代の日本では、「ポストモダニスト」たちにとって、
   吉本隆明を批判することが、踏み絵的な儀式であったことがある。


 ポストモダニストはそうやって吉本隆明に封印をしたつもりなのだろう。しかし、それは同時にニューアカやポスモダを自閉や自壊に招いたのではないだろうか…。

 世界中の、どこの誰もが、ある時代のある条件のなかで生きているように、人間をはじめとしてあらゆる生き物はある特定のTPOを生きている。そして、あらゆる思想はそのTPOに規定されつつ思念される…。
 吉本隆明が生きたのは全共闘運動とか安保闘争と呼ばれるものがさかんだったある時代だ。鹿島茂は、その時に同時代を生きた者にしか吉本隆明はわからないと断言する。闘争がさかんだった約10年間をともにすごした人間にしか吉本隆明は理解できない、というのだ。
 また、橋爪大三郎は、吉本隆明は社会を表現してきたが、社会の方は吉本隆明を表現できるのか?と問う。

 鹿島の言い分には次の世代への継承を放棄した怠惰を、橋爪の疑問にはクリアしたくなる闘争心を、それぞれ感じさせられるものだ。この2つの指摘が、私にとって戯れてみたくなる目標を与えてくれたものでもあった。

 14年の10月のある日、東京の大きな書店で、私はあることに気がついた。
 いつもの書店で、ある変化が起こっていた。
 ちょうど吉本隆明関係の新刊が2、3出るはずだった。おそらく、その新刊の予約状況やその他の吉本関係の書籍の動向?がポイントだったのだろう。

 10月になって、メディアや雑誌で紹介されるような比較的大きな書店で、吉本のコーナーが整理され、書店によってはそれまで数多く鎮座していた本が、こつ然と消えていた。
 これらの本は12月になって古本屋やネットのオークションに姿を現わすことになる…。

 吉本のコーナーがなくなることは、これまでもあり、それはそれで仕方のないことだろう。しかし、この10月はいままでとすこし違っていた。コーナーが整理されても何らかの書籍が残っていた吉本関連本だったが、今回、場所によっては10月の新刊本以外には何一つない書店もあったのだ。それも、これまで吉本周辺の本が充実していた店でだ。しかも、関連の新刊本も売れているというキザシは感じられない。

 私は、すぐさまに橋爪大三郎が述べていた疑念を思い出した。


   大衆社会が高度化し、消費社会とも呼びにくい、
   ハイパーな状況に突入している。

   吉本さんならこのハイパーな状況を記述できる、
   と思うのですが、ただ、
   社会の側が吉本さんのことを記述できるのか?



 「吉本さんのことを記述できるのか?」という問いは重く、事実、記述できているものはどれだけあるのだろうか? もちろん偉大な思想家の輪郭をその魅力どおりに描いたテキストはいくつかあるだろうし、実際に読んでもいる。
 自分だけの為に書かれたように錯覚させられることを価値とする文芸と、H2Oとして言語や国境を超える科学とのアンビバレンツそのものであるような吉本隆明という表出。それが容易く記述できるとは思わないが、特にH2Oとしての理解と検討は充分に不十分なままではないだろうか?

 <ゼロ>に帰結し、またそこからこそスタートする吉本の思索というものをメモにしたいと思った。これは、はじまりなのだ。


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2006年08月25日

根源的な世界との関係

●世界との関係

 <世界>と自己は不可分ですが、部分的に可分となり対象化することが可能になります。


  赤ちゃんは空腹になるとオッパイが欲しくて泣きます。
  泣くとオッパイがもらえて空腹が満たされます。
  これらが反復されてある認識が成立します。

  泣くとオッパイがもらえて空腹が満たされる、ということ。
  空腹はイヤだ、ということ。
  泣いている自分がいる、ということ。
  オッパイという他者がいる、ということ。


 「空腹」というのは自己に起る必然的な現象で、それは現象に表出された自分そのもののことです。この反復から抽象化された自己認識(自己同一性)が析出していきます。
 「泣く」というのは自己の行為であり、行為をとうして自己そのものも対象化され自己関係性が生成されていきます。
 「オッパイ」というのは他からやってくるものとして他者であり、対象化された世界の一部です。
 「泣くとオッパイがもらえる」というのは自己と世界との関係です。受動的な自己の振る舞いが生む結果と自分との因果関係であり、その点で自己(の行為)を規定するものです。やがて「泣いてオッパイをもらう」という能動的な自己関係性に再帰し、自己コントロール可能な意識が確立します。これらは<世界>における<自己>と<他者>の在り方を示すものです。


●2つの自意識

母という世界との関係は反復することにより2つの認識を確立していきます。

  反復から抽象化される自己同一性。
  反復から対象化される自己関係性。


 自己同一性は「ワタシはワタシ」という言葉で表せる即自的な自意識であり、自己関係性は「ワタシのワタシ」という言葉で表せる対自的な自意識です。
 自己同一性は抽象化された自意識であり、反復する再帰性における不変的な意識だといえます。自己関係性は対象化された自意識であり、反復し再帰するごとの変化の可能性と外部性の意識だといえます。


  ワタシはワタシ
         自己同一性・自己抽象性
         即自
         強度・概念・自己確定
         現実界
         知覚からの離脱

  ワタシのワタシ
         自己対象性・自己関係性
         対自
         場所・規範・指示決定
         象徴界
         ベクトル変容


●根源的な2つの問い

 これらの意識は心的な認識システムの重層的なファクターの根源的なものですが、その可塑的な変成により常に表出する可能性があります。
 時に<ワタシそのもの>へあるいは<ワタシがいる世界>への根源的な問いとして意識上にのぼります。自己関係性は反復と再帰により対他意識、他者関係性へと拡張し発展します。この拡張性が人間と動物との違いであり、<遠隔対称性>として無限に拡張しうる観念の可能性そのものです。


  ワタシはダレ?
  ココはドコ?

 自己対象性・自己関係性から生成する意識で最も根源的な問いは以上の2つです。
 これらは自己への問いであるとともに世界と他者への根源的な問いにもなっています。
 ここから意識の根源的な対象性として認識の基本となる<規範>が生成します。

  自己関係性の対象性に外部から具体性を導入して形成される意識が<規範>です。
  自己同一性の抽象性に外部から具体性を導入して形成される意識が<概念>です。


 自己同一性は自己意識そのものから自己規定するものであり、自己関係性は自己意識の外部から自己規定するものです。
 「自己意識そのものから自己規定」するときの属性は時間性として把握されます。自己関係性における「自己意識の外部」というのは外部環境由来の主に感覚的受容による知覚情報が考えられ、その属性は基本的に空間性です。


  
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最初の2つの世界

●最初の世界

 受精し受胎し生命が始まります。その時、生命にとってはその環境が世界になります。
 そして、その環境世界のなかで自分の位置(=場所)を確認しています。


 原始的な生命体でも自己の位置を確認しています。重力、地磁気、太陽光をはじめ潮の干満に代表される引力による変化などを感じ取って自分の位置を確定し、自分の場を確保します。自然環境は周期的な変化を繰り返しているので、自己の位置確認も断えず定期的・恒常的に行なわれてます。

  人間の個体の場合は胎内環境が<世界>です。
  この胎内環境<世界>は絶えず変化します。

 胎内環境という<世界>の変化は、つまり母体の心身の変化です。母体の栄養摂取の度合いや健康状態、精神的なストレスまで、母体に生じるすべてのデキゴトが、必ず何らかの変化を<世界>におこします。そして、この<世界>の変化が個体の属性を決定していきます。たとえばサリドマイドなどの薬害もそうです。妊娠中のある時期に胎児はサリドマイドに対する感受性が高くなるために、その時期に母体がサリドマイドを摂取していると発達不全が起こります。逆にその時期以外では悪影響がないことも確認されています。

 個体はあるタイミングで母体という<世界>から決定的な影響を受けているワケです。


●世界である母

 個体は<世界>との関係のなかで自分を確認します。
 そこに自分を知り(自己抽象→自己対象)、母体(世界≧対象)を知るという二つの認識が生じます。


 原初は<自己>と<世界>とは不可分です。
 この自らと対象が不可分なのが<純粋疎外>の状態です。
 また生命の生きているということそのものが<原生的疎外>という状態です。この<原生的疎外>と<純粋疎外>の差異が<観念≧意識>だと考えられます。


  
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2005年11月11日

予期理論やラカン

●予期を生む<否定性>

 対幻想への否定性が共同幻想を生成していく過程は、
たとえば、宮台真司さんの『権力の予期理論』が明晰に描き切っています。

 相互に全面肯定されるハズであるという認識=時点ゼロの双数性=対幻想に、
一方への否定が生じると、それをキッカケに他方の優位化(権威権力化)というベクトルが生じます。

 それは以下のような機序が生じる....

   劣位者の対幻想の共同幻想化
   対象(優位者)の象徴化
   象徴にともなうシステム化

....と考えられます。


●〔<母=子>⇔父〕以前の認識

 ラカンはこれを主体からみた父性(優位者)との関係として、そこに象徴界の生成(システム化)を見い出そうとしているようです。

 ラカンが誤解されやすいところは、対他認識が2つの個体(あるいは主体と対象の)=2者間で行使されることを無視して父性=第三項を暴力的に介在させていること。
 逆にいえば暴力=力を顕在化させるには母=子に対して父を登場させることが条件の最適化ですが、そのことによって〔<母=子>⇔父〕以前の認識や論理に関しては不可知にならざるを得ないという陥穽があります。

 その不可知な領域を現実界として顕在化させたならば、
それはラカンのアクロバットな知恵かもしれませんが、そのことが〜以前=EXCE^{'}Sの状態として不問に付されることのイイワケにはならないでしょう。
 「原初的不調和」という認識を提出しても、それ以上の探究が免除されるわけではないハズです。
 このように過剰な論理性に依拠する理論こそがラカンの本質なのかもしれないしれません。だからこそラカン自身による「フロイトへ帰れ」という言葉がスローガン化しうるワケでもあるのかもしれません。


●<純粋疎外>概念の可能性

 過剰な論理性は必ずゲーデルの定理のような論理そのものの限界に致ります。でも、その限界にこそ、ブレークスルーを生むものとしての心的現象論の可能性を見出すこともできるハズです。たとえば<純粋疎外>はそういった可能性を秘めた概念であり論理です。








  
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2005年05月13日

無意識の多重性

●無意識には2つある

 無意識つまり意識できないコト、対象化できないコトには2つのレベルが考えられます。
 位相的には<内部への認知>と<外部への認知>それぞれにともなう矛盾として把握できます。
 それぞれに大きな特徴があります。
 <内部への認知>は絶対に言及できないモノゴト≧自己そのものを動因としています。<外部への認知>は認知を予期できる可能性を担保として作動します。

 自己言及が不可能な領域   (自己矛盾)
  ゲーテル的限界を特徴とする自己言及できない領域としての無意識
  自覚できない自己意識としての無意識

 <内部への認知>は絶対に言及できないモノゴト≧自己そのものを動因とする
 あるいは
 絶対に言及できないモノゴト≧自己そのものを動因とする<内部への認知>
 ....以上のように考えられます。

 不可知な領域としての無意識   (認知不全)
  指示決定されながら自己確定不能の対象(性)としての無意識
  外部からの情報に対する不可知であるがゆえの無意識

 <外部への認知>は認知を予期できる可能性を担保として作動する
 あるいは
 認知を予期できる可能性を担保として作動するのが<外部への認知>
 ....以上のように考えられます。


●自覚できないことの多重性

 無意識つまり意識できない、対象化できない、自覚できないというコトによって認識にさまざまな不確定と不安定が生じます。この不定性そのものが心的な動因そのものになるのですが、認識そのものの不定性≧流動性もまた再生産されるコトになります。

 不定性の再生産は、上記の<内部への認知>(自己矛盾)と<外部への認知>(認知不全)が相互に循環する構造をもっているコトによります。

 <内部への認知>における<絶対に言及できないモノゴト>に対して、心的システムはシステムの安定のために<あるモノゴト>を代入します。この作用=力動は心的現象の中でいちばん根本的なものであり、強度そのものだといえます。
 また
 <外部への認知>における<認知できる可能性(という担保)>は、心的システムの拡大のための動因であり、環界へのアプローチの基本となる強度です。

 <絶対に言及できないモノゴト>に対して代入される<あるモノゴト>はドコからくるか? 何に由来するか? という問題があります。
 これが心的現象におけるいちばん根本的で、究極の問題であり、ただひとつの答えでもあるものです。
 <絶対に言及できないモノゴト>に対して代入される<あるモノゴト>とは、<外部への認知>そのものなのです。この認識の循環が心的システムそのものであり、その発現が心的現象そのものとなります。

 論理的に自己言及不可能という自己矛盾(内部への認知)を解消するために、そこへ言及可能な環界への認知(外部への認知)を代入します。代入はあくまで代入であり、何を代入しても暫定的、蓋然的に心的な安定性を得るだけですが、この暫定性こそが<生きていく>理由そのものだと考えられます。<死>は環界への全面的な復帰であり、心的には突然の終了でしかありません。
  
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2004年12月03日

物語の基本となる転写

●胎内における対幻想=<時点ゼロの双数性>

 母の胎内にある胎児は完全なる対幻想=<時点ゼロの双数性>の状態です。
 母子の関係は自他不可分であり、相互に全面肯定であるハズという認識を前提としています。
 ここでは4つの要素からなる2つの関係がそれぞれ不可分に存在しています。

   母 ← → 子
   栄養 ← → 情報

 母の精神的・身体的な状態はすべて子に影響します。
 母が摂取する栄養が足りなければ子への栄養の供給も足りなくなり、
 母がストレスを受ければ、ホルモンなどの代謝レベルで子へ影響します。

 母子が不可分であるほど、母の状態はそのまま子に転写します。この段階では情報はホルモンなど分子レベルのやりとりそのものだと考えられます。

   母の意識および無意識の状態が転写されます。
   母の<意識>も<無意識>も、子の<無意識>として形成されます。


●母からの<転写>という基本

 母の状態は子に転写されますが、そのまま全部が転写されるわけではありません。
 あるいは転写された領域がすべてではありません。

 母の状態がそのまま転写される部分と、そうでない部分の2つの領域が生じます。
 その2つの領域をもつ無意識あるいは無意識の2つの領域が生じるといえます。

 つまり2つの領域というギャップまたは<二重性>が生じます。


●マイナスの<転写>という問題

 母がストレスを受けた場合、そのストレスによるマイナスの影響はそのまま子へマイナスの影響として転写されます。

 母から子に対してマイナスの影響があった場合、2つの問題が生じます。

   マイナスの傾向がそのまま転写させられる。
   マイナスに反発する力動が生じる可能性。

 母の影響は胎児の感受性とも関係があるので、実際には複雑です。
 サリドマイドのようにある時期の胎児に多大な異常をもたらすものも、その感受性がある時期以外では障害を起こさないものもあり、刻一刻と変化する胎児の感受性とそれへの影響は最終的にどのようなかたちになるかは重層的な非常に複雑な過程を経ています。


●<転写>の基本条件

 子の遺伝子は母と父の遺伝子を半分づつ継承してできています。
 母の状態が子へ転写するときに、子の遺伝子が母の遺伝子と全く同じであれば、同じ反応や、<状態>の同じような転写が考えられます。
 しかし、実際は子の遺伝子の半分は父の遺伝子であり、母の状態やその転写に対する反応は、さまざまだと考えられます。
 父からの遺伝子は基本的な変数として考えられます。


参考までに....

  
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2004年11月20日

物語の2つの方向性

●基本となる2つのベクトル

 物語の原初の論理は2つの志向性として生成します。

 吉本理論のようにフロイト的に語れば、エスから自我が離脱(しようと)するベクトルと、エスへ回帰しようとするベクトルです。
 別の面からみれば、それは観念が自律しようとすることに対して<YES>と<NO>のスタンスがあるということです。YESとは観念が自らの生成を育み個として自立しよとするベクトルであり、NOは個以前の状態への回帰、エスへの回帰です。このエスへの回帰は類いとしての存在への回帰だといえます。

 おそらくこの<YES>と<NO>というスタンスは、やがて<イナイイナイ・バア>として発現、表現され、その後のすべての認識の基本となる文字どおりの<YES・NO>として行動や思考や言語の根幹を左右するものとして展開していくものと考えられます。


●死という最大のイベント

 エスからの離脱が始まった時点(つまり個体生命として存在した時点)で、すでに自我が迎えなければならない最大のイベントととして死があります。

 原初のベクトルはエスからの離脱をめぐるものでしたが、生を獲得してしまった以上、その終わりである死が究極のイベントであり、すべてのベクトルが死に対する何らかのカウンターとして生成することが考えられます。フロイト-ラカン的にいえば死は最大の去勢であり、すべての生はこの去勢との反作用として営みだといえます。


●イベントに対応する物語

 この死を最大のイベントだとして考えたE・キューブラー・ロスという人がいます。その著書『死ぬ瞬間』では死を極限とした事件に対して人間がどのような認識をもつか、その原型が臨床における具体的な孝察の結果として示されています。
 ロスによれば、それが物語の原型としての7段階です。

 吉本さんはそれを援用し、そこに母の物語とのかかわりを導入して考察することでオリジナルな物語論?の基本を作りました。
 つまり、人間がストレスに対してどう対応するかの基本形に、そのストレスから自分を救済してくれる原型としての母の物語(母による養育・擁護を基本とする)をバイアスとして導入したと考えられます。


参考までに....



  
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2004年11月04日

吉本theory独解のワケ

独解、吉本隆明さん ― 心的現象論で読む世界といろいろな理論の可能性

 80年代にリアルタイムの分析をとおして現代そのものを取り上げたのが『マス・イメージ論』と『ハイ・イメージ論』。この2つの理論では吉本理論の初期三部作をベースにして、現在のテクノロジーとメディアによる特徴的な理論の拡張がはかられています。
 吉本さん自身の説明(『イメージ論』あとがき・全撰集7・大和書房)によれば以下のようなポリシーのもとに思索されたようです。

   マス・イメージ論は現在版の『共同幻想論』である。
   ハイ・イメージ論は現在版の『言語にとって美とはなにか』である。


   言語の概念をイメージの概念に変換することによって
   三部作に分離していたものを総合的に扱いたい。そして、
   イメージの概念によって総合することで、普遍領域についての
   批評概念を目指したい。


 また、そこで生じる問題を自らハッキリと把握し、その追究に力が注がれています。

   ここでいちばん問題になったのは、言語と、
   わたしがかんがえたイメージという概念が、
   どこで結びつき、どこで分離して遠ざかるかを、
   はっきりさせることだった。


 その前提であり不可分でもあるラジカルな問題が『ハイ・イメージ論』の当初からの課題である「イメージという概念に固有な理論、その根拠をつくりあげる」こと。これはCGへの孝察から理論が展開されて「世界視線」の概念へと到達し、大きな成果を生んでいます。
 そこでは視覚作用と想像作用によるイメージとが同致されて受容されることへの可否が問われ、哲学や心理学で問われてきた認識論への全面的で根本的な解答がなされます。

 この部分は基本的に『心的現象論序説』において詳細に孝察され、認識の障害や異常、あるいは感情や夢への分析としても既に理論づけされています。そのため『イメージ論』は全般的に『心的現象論序説』の演繹として読むことのできる内容になっています。
 逆にいえば、『心的現象論序説』の射程の長さや深さは予想以上のものであり、またジャンルや領域を超えたものであることがわかります。
 それが、ここで『心的現象論序説』をメインに吉本理論を解読していくことの大きな理由です。
 その結果をY理論として考えていきます。


ハイ・イメージ論1


ハイ・イメージ論2


ハイ・イメージ論3
  
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2004年11月03日

物語の生まれとはじまり

実母の声に人間の脳幹は1/10000秒で反応します
 受精卵そして胚の段階から受け続けている特定の周波数、振動や音声は特別なものとして細胞に刻印されます。それは情報を受容する神経以前のもの。分子レベルの生体反応に直接関与するものとして記憶(記録)されます

2つの細胞の融合から多細胞分裂を繰り返して10ヶ月。個体はようやく人間の形になって生まれてきます。

●人間にとって最初の環境は母体
 人間にとって最初の他人は母
 人間にとって最初の社会は母との関係

そして人間にとって最初の物語は<母との物語>です。

●個人にはそれぞれ母との物語があります。
 それぞれの物語の表出が、個人それぞれの人生だともいえます。
 つまり「母との物語」はその人の物語=人生の原点となるものです。

●別のいい方をすると原点となる物語から分岐していくのがそれぞれの個人の人生だともいえます。

●世界の神話の構造にいくつかのパターンがあるのは、人々が受容し認識する仕方がいくつかのパターンに収斂すること示しています。

●人々の受容と認識の基本が作られるのは母とのやりとりの中です。
 つまり母との物語こそが人々の認識の基本形をつくる場となっているわけです。

●神話は母との物語が極限まで拡大し、抽象化され、共同化したものです。
 一般的な小説やドラマ、歌といった物語は、その特定の社会の共同性に合うように形成された物語りです。もちろん、その原点も母との物語です。

●母との物語はいくつかのパターンに分けることができます。

●そのパターン化する以前、分岐する前の基本となる認識(感情、気持ち、思考などの原点となるもの。数学でいえばゼロの状態に相当するものです)があります。

●このゼロの状態が減算され微分されてパターン化し分岐します。
 自分が全面肯定される(ハズだ)という<対幻想>=<時点ゼロの双数性>が否定されることによって拡散するわけです。

●対象に投映された<自己が全面肯定される(ハズの)志向性>が、否定(去勢)されることによって拡散します。

(自己)肯定のイメージが微分されるワケですが、この時絶対に微分されない拡散されない領域があります。前述にもどれば否定(去勢)されない領域があります。
 それは自己の観念からいえば対象に投映された時に自覚できない領域です。自覚できないために否定されることもありません。(否定を自覚できない)
この領域に対する否定は身体的な否定に相当し、それは観念にとって依拠する環境そのものの否定になります。


参考までに....







  
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