2016年02月16日

<ゼロ>の発見 純粋疎外というサイエンス

<ゼロ>の発見 純粋疎外というサイエンス

はじめに

 私は<ゼロ>を発見した。吉本隆明の著作のなかに。
 それは、戦後最大の思想家といわれた秘密が解けた瞬間でもあった。同時に吉本隆明に対する批判がいまだに成立しない理由もそこに見た気がした。見えないものに的を絞ることが出来ないように、あるいは形のないものの形を破ることが出来ないように、多くの論客が文字どおり気がつくこともできない<ゼロ>の前に、自覚すらないままに消耗していったのだろう。
 吉本著作の、強烈なイメージのテキストとどこか捉えどころがないような論旨。主要著作の資本論のような構成…。私が学生の時に、大学で選択した資本論の講座では、予め論理学を受講することが求められていたのは幸いだった。ヘーゲルの「小論理学」マターではじまる論理学の講義は、その後の読書に役立つことになり、吉本隆明の著作と思想から<ゼロ>を見出すことが出来たのは、その最大の成果だったかもしれない。資本論やマルクスのキーが疎外であるように、吉本のそれは<ゼロ>だったのだ。

 はじまりは難解な漢字よりも馴染み深そうなカタカナが散りばめられた「構造と力」を手にとったことだった。文字どおり、コピーライターやイラストレーターといったカタカナ職業の人気がバブルとなるなかで、思想や哲学の世界でも「理性」よりも「感性」が問われていた。時代の感性を問うものとしてプロモーションされていたのが、この「構造と力」だ。白水社のフランス語辞典の売り上げに貢献したともいわれる「構造と力」は、その白い辞典とともに、カジュアルでファッショナブルだった。ニューアカという言葉がこのトレンドに拍車をかけ、カタログ雑誌といわれたジャンルではニューアカ特集が繰り返し組まれ、アイドルによる「ヘーゲル大好き!」などというサインまであった。やがては高級な女性ファッション誌でも吉本隆明自らがブランド品に身を包まれて登場し、コムデギャルソン論争といわれるものまで起こった。

 このニューアカの最大の功績は<知>も商品であることを示したことだろう。現在も「構造と力」は54刷を記録しながらロングセラーの記録を更新しつつある。反安保闘争、全共闘運動といった時代には「共産党宣言」が70万部以上も売れたことがあり、また革命の書として「都市の論理」が長期間のベストセラーだったことがあるらしいが、現況ではそれらを類推できる片鱗を見つけるのも難しいくらいだ…。
 ニューアカやポスモダといったものはピークアウトしているが、演繹された系として現在は恒常的なジャンルを確実に占めている。それらはオタクやアニメをはじめ、ひきこもりからDV、ハラスメントまで包含しうる領域をカバーしているともいえる。
 ニューアカに問題があるとすれば、そもそもその知の本質である部分はブラックボックスのままブームが終息していったことかもしれない。欧米先進国のポストモダンとパラレルであると思われるニューアカは、答えも解も出さないまま、しかし新たな一つのジャンルであるかのような成果?を残していった。だが、そのコアの部分は未解決のまま、ただ問いだけが多少のバリエーションを増殖させているのが現況ではないだろうか。

 2003年の『現代詩手帖』10月号の特集「吉本隆明とはなにか」では以下のような指摘がされている。

   1980年代の日本では、「ポストモダニスト」たちにとって、
   吉本隆明を批判することが、踏み絵的な儀式であったことがある。


 ポストモダニストはそうやって吉本隆明に封印をしたつもりなのだろう。しかし、それは同時にニューアカやポスモダを自閉や自壊に招いたのではないだろうか…。

 世界中の、どこの誰もが、ある時代のある条件のなかで生きているように、人間をはじめとしてあらゆる生き物はある特定のTPOを生きている。そして、あらゆる思想はそのTPOに規定されつつ思念される…。
 吉本隆明が生きたのは全共闘運動とか安保闘争と呼ばれるものがさかんだったある時代だ。鹿島茂は、その時に同時代を生きた者にしか吉本隆明はわからないと断言する。闘争がさかんだった約10年間をともにすごした人間にしか吉本隆明は理解できない、というのだ。
 また、橋爪大三郎は、吉本隆明は社会を表現してきたが、社会の方は吉本隆明を表現できるのか?と問う。

 鹿島の言い分には次の世代への継承を放棄した怠惰を、橋爪の疑問にはクリアしたくなる闘争心を、それぞれ感じさせられるものだ。この2つの指摘が、私にとって戯れてみたくなる目標を与えてくれたものでもあった。

 14年の10月のある日、東京の大きな書店で、私はあることに気がついた。
 いつもの書店で、ある変化が起こっていた。
 ちょうど吉本隆明関係の新刊が2、3出るはずだった。おそらく、その新刊の予約状況やその他の吉本関係の書籍の動向?がポイントだったのだろう。

 10月になって、メディアや雑誌で紹介されるような比較的大きな書店で、吉本のコーナーが整理され、書店によってはそれまで数多く鎮座していた本が、こつ然と消えていた。
 これらの本は12月になって古本屋やネットのオークションに姿を現わすことになる…。

 吉本のコーナーがなくなることは、これまでもあり、それはそれで仕方のないことだろう。しかし、この10月はいままでとすこし違っていた。コーナーが整理されても何らかの書籍が残っていた吉本関連本だったが、今回、場所によっては10月の新刊本以外には何一つない書店もあったのだ。それも、これまで吉本周辺の本が充実していた店でだ。しかも、関連の新刊本も売れているというキザシは感じられない。

 私は、すぐさまに橋爪大三郎が述べていた疑念を思い出した。


   大衆社会が高度化し、消費社会とも呼びにくい、
   ハイパーな状況に突入している。

   吉本さんならこのハイパーな状況を記述できる、
   と思うのですが、ただ、
   社会の側が吉本さんのことを記述できるのか?



 「吉本さんのことを記述できるのか?」という問いは重く、事実、記述できているものはどれだけあるのだろうか? もちろん偉大な思想家の輪郭をその魅力どおりに描いたテキストはいくつかあるだろうし、実際に読んでもいる。
 自分だけの為に書かれたように錯覚させられることを価値とする文芸と、H2Oとして言語や国境を超える科学とのアンビバレンツそのものであるような吉本隆明という表出。それが容易く記述できるとは思わないが、特にH2Oとしての理解と検討は充分に不十分なままではないだろうか?

 <ゼロ>に帰結し、またそこからこそスタートする吉本の思索というものをメモにしたいと思った。これは、はじまりなのだ。


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