2011年08月06日

 「節制」はいかにも古臭い自己訓練法だ。豊かな時代にそんなことを言うのは時代錯誤もはなはだしい。
 と言って済ませるか?

 ところで、「節制」の反対の「飽食」ということにも、現代人も魅力を感じないだろう。
 「飽食」は肥満、緩慢で鈍感な行動、そんなイメージにつながる。

 日本のこの20年間は経済的には下降をたどったが、それでも物があふれかえっている。

 だから、人々は物の豊かさが幸福も生まないし、活力ある社会の目標にもならないことを知っている。しかし、物の豊さを習慣で追い続けている。社会の発展を経済の発展で測る呪縛から逃れられないのである。

 「節制」の現代的意味は、実にここにある。「飽食」という目標では人は満足しないし、社会を活性化もしない。

 「節制」とは「足るを知る」ということである。
 欲望を捨てては、人間の活力や社会とりわけ経済を停滞させると心配する人もあろう。
 しかし、そんなことはない。


 欲望を捨てると、心にスペースができる。そのスペースを埋めようとして心と体が活性化するのである。これを心理学的には欲望のクリーニングと言う。
 欲望を捨てても、それはスリムになって戻ってきて、精神力を高める。

 経済でも有効需要を作ると称するバラマキは、無秩序で無気力な経済を作り出すだけ。異常な国債残高だけが残るのである。

 震災復興財源でも、「節制」精神で生み出したもので賄うのが正しい。将来につけを残し、子孫に借金を残してはいけない。


★ 私の水彩画

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2011年08月03日

 仏教に自力宗と他力宗がある。これはどちらかが間違いで、どちらかが正しいということではない。
 因みに、日本の仏教では自力宗も他力宗も正統な仏教である。覚りに至るプロセスは勿論違う。しかし、仏を信じて仏の導きに従う点においては同じ基盤に立つ。
 自分の力を重んじるのは禅宗などの自力宗ではあるが、それでも仏の救いの力を信じる点で、浄土真宗などの他力宗にいささかも見劣りしないのである。

 今回は至福・フローに至る方法で、自分の力を磨くことでそれを達成することを考えてみたい。今まで幾つかの方法を提案してきたが、必ずしも自力的か他力的かを問わずに進めてきた。

 例えば感謝、信頼はどちらかというと他力的方法である。
 
 一方、気の活用は自力的である。

 祈りや瞑想は自力にも他力にもなりうる。
 近代心理学にアファメーションとかビジュアライゼーションという方法がある。これなど実に自力的方法である。それに倣った祈りや瞑想なら自力的なものになるであろう。

 さて、自力的なやり方は自己陶冶ということであり、意識して自己訓練をするところがポイントである。
 
 フランクリンは面白いことを提案している。
 彼の自叙伝を読むと、自己陶冶のために13の徳目をあげて、それを一つひとつ取り上げて意識して身につけていくのである。

節制  沈黙  規律  決断  節約  勤勉  誠実  正義  中庸  清潔

平静  純潔  謙譲

 如何にも古臭いやり方のように見えるが、これがどうして役に立つのである。
 私も夙にこのやり方に感服している一人であるが、今回至福・フローに至る方法論についてそれを参考に方法を考えてみる。フランクリンの提唱する各項目を援用して、私の考え方を書いてみたい。


★私の水彩画

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2011年07月29日

 日常生活や経済活動において、信頼なきことが惹起する事態は深刻なものがある。ところが、信頼は本来空気のようなものである。自己信頼などは誰も当然授かって生きているのである。

 しかし、不幸な幼年時代を生きた人間は、ともすれば自己信頼を欠如したまま大人になる。いつも拠って立つべき大地がゆらいでいるのである。いわゆる神経症的人間、うつ状態の人間には、この信頼ということがもともと欠如しているかに見える。

 幼少時の不安は、単に非力故にでてきたのではない。こういう人は、成人して大人の力を得た以降も言われなき不安にさいなまれる。
 しかし、諦めてはいけない。そんな不安も自覚して鍛えていけば、吹き飛ばすことができる。そして何よりも、神に対する信頼、自己を越えて繋がる宇宙の力を信じることで、自己信頼を築くことができるのである。

 一気にできるわけではない。
 日々繰り返し神や大いなる力に呼び掛け、信頼の絆を強めていく。 
 不安や恐怖に対しては、パニックに陥ることなく、その都度勇気を持って迎え撃つ。
 
 現実をありのまま受け止め、必然・必要・ベストのものを授かったことに感謝して、「今ここに」必要なことをやっていく。

 自分の事では欲張らず、足るを知る心で過ごし、できるだけ人に与える。

 あらゆることから、シンクロニシティ(共時性)の兆候を見つけ、不可思議なメッセージに感激・感謝する。


 そういう日々の気づきと自己鍛錬から、いつの日か自己不安を克服して、自己信頼を獲得することができるであろう。


★私の水彩画

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2011年07月26日

 信頼は、己を信じ、神を信じ、そして宇宙を信じ、己の運命を信じることである。

 どういうときに信頼は試されるか?
 先が見えなくなった時、企てが全て失敗したかに見える時、親しい人間が突然自分から離れた時、死とか別離が言わば理不尽で襲って来た時などである。

 そういう時でも、動揺し慌てふためくことなく切りぬけるには、信頼がものを言う。信頼は抽象的にあるのではない。その時々のケースによって違うだろうが、心理的・心霊的にはある一定のパターンを持っている。
 それは目の前の事態がどんなものであれ、必ず好転して、満足のいく結果が生じることを、いささかも疑わないことにある。


「人間万事塞翁が馬」という諺がある。これは人生はあざなえる縄のごとし、人生は幸も不幸も全く偶然ということを言っているかに見える。
 しかし、そうではない。この逸話に出てくる男はなかなかの人物で、私に言わせれば、実に人生の達人。
 信頼があったから、大きな不幸に遭っても、それにじたばたすることなく、チャンスを待つことができた。そういう大きな信頼には、何か特別な見通しとか、戦略があってかいうと、このケースではそんな知恵とか才覚の次元ではないような気がする。
 もっと雄大でおおらかな運命や宇宙を信じる力である。

 この男は更にどんでん返しを受けて、不幸が襲ってくることがあっても、来世や子孫の幸運を信じて、従容として死んでいったであろう。信頼とはそのくらいのスケールのものと考えるべきである。己一人の運命だけのことでない。

 信頼があれば待つこともできるし、未知のことを企てることもできる。九死に一生の賭けもすることも出来る。最終的にはすべてうまくいく事を信じているからである。

 物事はすることに意味があるという態度もここから出てくる。最後の結果あるいは特定の結果だけを重んじる短絡した態度から自由でいられる。
 たとえ自分が最も恐れる結果を得ても、自分の本質をそれで知り得たことを喜ぶことだろうし、あるいはしたたかにそれを活用して、自分を拡げ、人生を深め、交友を拡げるチャンスに転用することもできる。人生には無駄などどこにもない。

「全てが必然、必要、ベスト」なのである。こう言えるのも信頼があればこそである。


★僕の水彩画

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2011年07月22日

 信頼するというのは、その究極の姿が信仰である。
 信仰は他人から見ると、馬鹿げて、合理性がないようなこともままある。宗教を異にする人の間では、他人の信仰は嫌悪感すら惹起することもある。
 宗教がからんだ諍いは、深刻化して大きな不幸の原因にもなる。歴史にその実例を求めれば、おびただしい数になるのである。

 そういうことから、一般には宗教には関わりたくない、仮に何か信じる対象があっても、日常の生活ではそれを隠しておく。特に近年の日本の常識的な人間にあっては宗教を話題にすることはタブーである。私もそういった常識人の一人であることを認めるが、信仰の持つ心理的・社会的力については驚異の目をもって見る一人である。

 信仰の起きる心理的ベースは信頼ということである。信頼という原初的心理機能まで還元していけば、より純粋に信頼の意味や意義が理解できる。信仰という概念では、それが往々にして教団とか教義とかいう次元に飛んでしまいがちで、信頼の心理的・霊性的ものが簡単に吹き飛ばされてしまう。

 信頼というのは、最初は人間関係に生じる。子どもと母親の間にまず生じるのは、子どもの母親に対する信頼である。その信頼関係は家族や社会の中にまで拡大していく。
 
 さて、そのような人間関係における信頼こそ、全ての信頼のベースにあるが、信頼が能力や自己実現や自己の運命に対するレベルまで進んだ時に、一段と心理的・霊性的なものになっていくのである。

 いったいこれはどういうことだろうか。
 自己に対する信頼は、それがいかに強固になろうと、個人の狭い世界に止まっているものでしかない。だから、何も大げさに考える必要はないのでないか。そう思うのももっともである。
 ところが、至福・フローという心理的・霊性的次元のことになると、信頼はその現象のある意味必須要件なのである。


◆私の水彩画

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2011年07月19日

 内観法は知る人ぞ知る偉大な感謝行である。何故偉大であるかと言うと、これをやるとその人間が突如変貌する。罪を犯して収監されていたような人間、しかも自分の罪をこれ見よがしに誇る悪漢とでも言える人間が変わるのである。

 たまたま何かのはずみで悪いことをやって、悔い改めている人間がしおらしく反省するのと違う光景に出くわすのである。

 内観法は、じっと坐って自分の過去を見返す。何を見返すかというと、如何に今まで他人の恩を受けてきたか反省する。
 まず母親から受けた恩、十月十日母親は子を身籠り、その間わが身を捧げて胎児を育て、出産。その後の育児の苦労はまた計り知れない。にもかかわらず、その苦労を当たり前として母親に感謝どころか、自分は悪いことをして母親をどれだけ苦しませたか。そういう反省をする。

 母親の後は父親、兄弟、妻や夫、先生など自分が関わり、恩を受けてきた人のことをしっかり思い出す。
一日中部屋の中で一人その思い起こしをくり返し、一定時間毎にアドバイザーのところに行って、どんなことを思い出したか、どれだけ恩を被りながら、それに返すことも無く過ごしてきたかを報告して、若干のアドバイスを受ける。

 この作業を繰り返していく過程で、如何に自分が受けた恩が大きく、それに対して恩返しが少ないかを認識する。
 この体験では、受けた恩と返した恩のギャップの大きさに気づくのは、大罪を犯したやくざなどに顕著である。やくざの親分などが、この内観法をやって忽然として覚るところがあり、その後は刑務所内で模範囚となり、放免後も刑務所をまわる説教師などになることが稀でないと聞く。

 大悔悛をしたやくざの親分程でないにしても、受けた恩と返した恩のギャップに驚くのは普通の人間においても多いはずである。それほど人間関係において我々は他人の恩に浴して生きてきたのである。その受けた恩の何分の一かでも返したいと思う気持が、ごく自然な感情であろう。このダイナミックな気づきがその人に偉大な跳躍をもたらすのである。

 先に例をあげた西田天香さんなどはその典型である。
 正にこのダイナミックな心理的挑躍は至福・フロー体験なのである。

 この変化は視点を変えたことによって発見できる世界なのである。比較をするとき、人はとかく上を見る傾向がある。上と比較するとき、限りなく自分が惨めになる。ところが、どんな不幸の中にあっても、それ以上の不幸で悲惨な世界を見ると、自分の今の幸せが感謝になるのである。
 日記に毎晩感謝することを列記するだけで、如何に安らかに寝ることができるか、ごく簡単な幸福法であるが、試してみる価値があるのでお勧めする。

◆面で描く画面はあまり得意ではありませんが、透明水彩画ではこの画法が主流のようです。

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2011年07月15日

 西田天香さんの感謝行はたしかに覚りのための修業ではあるが、他人の家のトイレ掃除は苦行でしかないのではないか。現代の若者ならおぞ気をふるうことであろう。

 苦行は自虐的ながら、ある種の喜びがある。しかし、天香さんのトイレ掃除にはそういう自虐的で倒錯的なものはない。
 では、純粋な修業か?長時間坐禅をする禅僧の姿を思い出すが、それもピンとこない。

 筒袖を着てトイレ掃除にいそしむ姿は、実に晴々としているのである。歓喜に満ち満ちているのである。つまり、至福・フローの中にいらっしゃるのである。
 これはどういうことなのか。深い感謝は人間に挑躍の変容をもたらすのである。


 この一連の真理探究で求めるものは、人間如何にして至福・フローの状態に到達できるかである。単に修業や覚りの境地を求めてではなかった。誤解されては困るが、修業や覚りを軽視しての話ではない。ただ、至福・フローの方法という焦点を逸らしたくない。

 深い感謝、通り一遍の感謝といったものではなく悔悛の後にくるような感謝のことだが、それは正に回天のインパクトを持つ。それにより自分が変わるだけでなく、取り巻く周囲が変わり、運命が変わるようなものである。

 天香さんはビジネスで挫折をし、郷里に帰っていた。単に働き口を失っただけではなく、彼は人生に何かを求めてさ迷っていた。乞食同然になって街をうろつく。郷里で彼を知る人はあった。そこで親戚のところで食事を賜る。
 しかし、そのとき忽然として覚るところがあった。今ここに生かされていることの不思議を覚ったのである。天に生かされている。成功・失敗に関わらずお光に生かされている。
 今乞食同然の身で故郷をさ迷いながらも、そのままありがたいことに気づいたのである。だから感謝する。大歓喜の渦に酔いしれる。

 親戚の女主人に賜った食事に彼は感激し、一番下座でその食事をおしいただき、その後とりもなおさず、お礼に庭などの掃除をせっせと始めたのである。

 それを見てそこの女主人が感動をした。彼のその行為は自らを卑下して、お礼のために働く姿ではなかった。尊い覚りの修業者の姿であった。彼が何かを説教をしたり、講釈をしためではない。深く感謝をして至福とフローにいる天香さんの姿が、女主人を感激させたのである。


★私の水彩画

suisaig 2


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2011年07月13日

 あるがままを受け容れるのは、自分の意志や努力の否定とも取れる。
 無自覚なあるがままの受け容れは、確かに敗北主義や無気力になりかねない。しかし、あるがままの受容の本質はそんなものではない。また、苦渋の選択というものでもない。

 受け入れの最初はともかく、覚悟をしてそれを受け容れるとき、それは不思議な変容をとげているのである。敗北感は吹き飛び積極性が体中に漲ってくる。

 これは人間心理にとって不思議な現象とも言えるのである。受容し、引き受けたときから、その人間に備わった底力が湧出してくるのである。
 
 親鸞は浄土真宗の宗祖であるが、彼は自力の無力を説き、一方で弥陀の力の絶対性を宣言する。自らの無力にうめきながら、他力に生かされている自分に驚きを発する。
 これは不思議なパラドックスである。自己無力の自覚が、弥陀の絶対力にそのまま道を譲り、その瞬間、無力のはずの己が弥陀の力添えがあるとは言え、力あるものに変貌しているのである。
 
 あるがままの受け容れは、丁度親鸞に生じたと同じ心理的メカニズムをもたらすのである。あるがままを受け容れるというのは、自己の無力を是認したに等しい。しかし、その無力を自覚した時、今まであたかも隠されていたかに見えた弥陀の絶対力に気づく。

 無力であるにも拘らず生かされ、支えられている自己を発見するとき、無力転じて力となる。これが他力のダイナミズムである。
 さて、このダイナミックな自己再生は、自己の無力と他力の発見がその最初のステージである。そしてその発見は次に感謝へと移行する。そしてその感謝によって、自己再生はますます深まっていくのである。

 多くの宗教家がこの種の感謝について語っている。親鸞はその大なる実例である。
 大正から昭和にかけて、京都に拠点をおいていた一燈園の西田天香さんは、感謝を宗教的行に高めた。
 天香さんは事業に失敗して郷里に帰り、乞食同然になりながら一燈園活動を始めた。彼は、奉仕活動に大きな意義を見出し、彼の托鉢は他人の家のトイレを掃除することであった。これは信者獲得のための方便などではない。生かされていることへの純粋な気持つまり感謝を表するために、トイレ掃除はさしていただくものとなったのである。

 
 彼のトイレ掃除は、どんなに偉くなっても重要な覚りのための修業であった。原初の一燈園のメイン活動はトイレ掃除と言っても過言ではない。つまりトイレ掃除は奉仕のパフォーマンスなどではなく、覚りのための修業であった。

 感謝行は一見苦行のように見えて、覚りそのもののエッセンスである。そういう実例をみるまでもなく、感謝には驚異的な力がやどっているのである。


★この頃水彩画を始めました。本文と関係ありませんが、私の中では繋がっています。

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2011年07月08日

 大後退の時期が人生には往々にしてある。そして、そのまま浮上せず沈んでしまうケース、それを契機に運命が好転してカムバックするケース。色々ある。

 ある画家は幼少から絵が大好きであった。しかし、ごく普通の家庭に育った彼は画家になるために美術系の大学に進学することはしなかった。サラリーマンコースに繋がる私立大学の経済学部を卒業したのである。ところが、幸いアニメ制作会社に先輩がいて、在学時もアルバイトながら手伝い、そのままその小さなアニメ制作会社に入社したのである。

 もともと好きな道だし、それで飯が食えれば幸いなこと、才能が開花すればアニメ制作の監督にもなれるだろうという気持もあったのである。
 ところが、職業としてのアニメ制作に携わり本気度が強くなると、芸術家としての自分の才能がむくむくと動きだしたのである。自分の才質を吟味するとアニメに必要な資質とはかなり相違している事を発見したのである。
 それでも、絵を描くことでは同じはずと自分自身を一時的には説得したのであるが、職人としてのアニメ制作には、才能が活かされないという思いが強くなるばかりだったのである。
そうなると、ことごとくアニメに要求されるテクニックなどが疎ましく、自分をスポイルしているかに思えてきたのである。

 しかし、彼は自分の身の振り方をどうしたらよいか、決定しかねたのである。その職場は積極的に求めたものではなかったにせよ、ある意味居心地が良かったのである。自分の才能にある種の予感みたいなものがあったが、それは気まぐれかもしれない。
 仮に何か大きな潜在能力の片鱗としても、それに掛ける勇気がなかった。

 そうこうするうちに会社が突然倒産して、急にフリーターになってしまったのである。彼はそのとき既に30歳を越えていた。結婚するつもりで同棲していた女性がいたが、彼がフリーターになった途端、出て行ってしまった。丁度その時突然父親が死んで、わずかながら遺産を手にした。
 彼は突然、身の回りが思いもかけない速度で崩れ落ちて行くことに遭遇したのだ。会社が倒産して世間に投げ出された時、知人を介しデザイン会社やアニメ制作会社を探したが、恋人が去り、父親が死に一挙に自分のいる場所がなくなったような空虚感を感じたのであった。

 まともな職場を探し求めることも、恋人を説得して呼び返すことも一切やめにして、彼はなけなしのお金を持って世界に飛び出したのである。それは放浪に近かった。センチメンタル・ジャーニーを気取る余裕もなかったが、とにかく逃げるようにして世界にとびだしたのである。
 ところがロンドンで知り合った日本人女性と意気投合して、彼女のところに居候することになった。ところがその彼女は彼にとって救いの女神、いや再生の伴侶になった。
 彼はロンドンで描きまくった絵が、彼女のちょっとした文化的サークルで評判と呼び、異色の画家として遇されるようになったのである。そして、日本に帰ってもある画商の評価を得て、画家として独立できたのである。

 ところで、彼を取り巻く環境の突然の崩壊が、次の飛躍を生んでいることに注目しよう。

 自分の本質を発見するプロセスだ。最初は次の飛躍に道をつけるために、人生の大崩壊が起きたことである。彼は動転しつつも一見理不尽とも言える成り行きを受け容れた。

 そしてそれが、不思議なタイミングで彼の本当の才能の開花に道を開いたのである。


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2011年07月05日

 タイミングよく事が進み、そこに合理的なものが貫いているならそれは納得できる。それが偶然うまく当たっただけなら、単にそういうこともあるかと思うだけ。
 そんな思考をして、出来事を判断しているのが普通である。

 ところが、タイミングの良さや不思議なめぐり合わせに、自分をとりまく見えざる力を感じるとしたら、合理性とか世間的な常識を越える何物かに気づくはずである。

 タイミングの良さが内部の感情や思考とつながりがあり、宇宙とうまくやれているといった感慨を持つだろう。
そして自分と他人と宇宙がしっかり結びついていて、密な関係にあるという実感を持つ時、これこそ本当の人生なのだという気持が湧いてくるだろう。

 人間は常日頃何かを企てて生ている。そして良かれと思って色々工夫をし、計画をし、実行をする。そして今日は昨日より何か良くなり、向上していくことを願い、気ぜわしく生きる。そこでは意図や目的に反するものは全て否定される。

 「あるがまま」という姿勢はそこにはない。それを言っては敗北主義になってしまうのである。
 ところが、タイミングの良さは、そういった意志する世界には出てこないのである。あくまで上手く行くというのは、計算通りいくということなのである。
 想定内の出来事が成功であり、想定外の出来事はその結果が良いとしても、再現性がないということで高く評価されない。

 一方、あるがままを受け容れる姿勢には、全てのものが自分の人生を豊かにしてくれるという前提がある。見た目の不如意や短期的な失敗はあるが、全てが成功と幸福に向けてタイミングを見計らって現象していると考える。

 そうなると、それまで平凡な事に思われていた人生が深い意味を持った織物であることが分かる。一つひとつの事件が、ある意味と秩序を持って生起していたことを発見するのである。

 そうやって眺めると、事件の生起にある種の戦慄を覚えるような時がある。劇的な失敗も捲土重来の回復も、皆その時々の意味あるタイミングで起きていたのである。

 それを感じる思考と姿勢が「あるがまま」なのである。あるがままは究極の受け身であり、任せきった信仰心とでも言うべきものである。


人間あるがままの姿勢を持つに至るには、否定的反動を経験するときがある。つまり「悔悛の契機」を必要とする。


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2011年06月30日

 至福・フローでは他力的な力が働く。他力的力は計算づくでは行かないことが間々ある。
 いやむしろ、計算外の成就は「理外の理」とも言えるのである。


 なるほど、計算外の成就はいかにも、他力の原理で働くものである。自力主義では計算を行い、確率的に成功を測定する。それはそれで意味があることだが、それだけに頼っていてはいけない。人生がちまちましたものになりがちである。

 例えばこういうことがある。 
 家を購入しようとしていたが、ある物件が見つかった。場所は前そんな閑静な住宅街に住みたいと思い描いたような環境にある物件である。
 早速買う覚悟をして家族にも相談してほぼ買うつもりになった。しかし、どうしたことか土壇場になって、妻がもう一つ踏ん切りがつかないらしく、ぐずぐず言いだしたのである。
 
 購入するにはローンなどの手当てもある。やや無理をした感じでローンの設計もしていた。考えて見ると、そのローンの負担はかなり厳しい。今の仕事が将来も順調ならまあなんとかなる。しかし、仮にリストラなどに遭ったらかなり厳しくなる。
 妻はそのことを心配しているわけでもなかったが、自分も急にかなり無理をしていることに気がついた。内心は無理をしてストレスや不安を強く感じていたのだ。
 
 それから、景気の急激な悪化で、株が大幅に下がり、倒産なども激増した。そんなことで住宅価格も大幅にダウンして、1年後には平均的な住宅価格は目を見張るような低下をしたのである。
 幸い勤める会社はそんな中盤石で、給料が下がるとか、近い将来リストラの心配もないことが分かった。改めて家の購入を考えたら、1年前に狙った家が20%も下がってまだ売りに出ていた。今度はそれを妻が発見して買おうと言いだしたので、買うことになったのである。

 今回は文句を言っていた妻が言いだしたことだし、またそれ以上にローン関係のストレスなどもなくなり、無理なく購入できたのである。

 さて、このケースでみると、事をしかける時のタイミングの問題である。押すタイミング、引くタイミングというものがある。タイミングはある程度まで計算づくでいく。合理的な予測や計画を立てることができるが、ただそれだけで事を決めたり、進めたりできるかというとそうではない。

 決断をするときに、気分がどうかである。何かつまらないことで障害がでたり、関係者の気持がまとまらなかったり、ストレスやあせりや不安を強く感じるときは、それを無視しないことである。
 否定的な気分や小さな障害でも、何かのシグナルなのである。小さな障害をすべて無くすまで待てということではない。どんな時でも障害や抵抗はあるだろう。しかし、それをどう感じるかである。

 少しくらいの抵抗はむしろやる気を刺激し、「頑張るぞ!」といった気持を喚起するものなら、あえてやるべきである。

 そういったかすかな気配をどう感じるかを日頃から重視していれば、そのシグナルの見た目の大小に関わらず、本質的な意味や意義を見誤ることはないであろう。


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2011年06月28日

 至福・フローの状態は努力をせずに上手くいく。
 そんな虫のいい話はないと思うであろう。世間ずれした人間、あるいは苦労人と言われる人はそんな話をてんで相手にしない。
 そういう人は頑固で妥協をしない自力主義者である。
 味わいのない詰まらない人間である。それだけならよい。恐ろしいほどの悲観主義者なのである。
 その人の理屈から言うと、努力の放棄は人間失格であるばかりか、許しがたき傲慢なのである。

 努力なしに成功をしたり、幸福になったりしたら困るのである。むしろ努力しない人間は、不幸にならねばならないというのが彼らの信念である。自力専制主義人間の極致がここにある。

 努力をしなければ成功は勿論ありえないし、幸福からもほど遠い。そう思いこんでいる人間には、至福・フローがもたらす努力しないに物事が成就するプロセスは腹立たしいことだろう。

 一方ある人にとって、物事はちゃんと首尾一貫した幸運のプロセスをなす。

・物事は落ち着くべきところに落ち着いて、しかも達成している。

・最適なタイミングで事は起き、そのプロセスは驚くべき調和に満ちている。

・一見不都合が生じたかに見えて、最後はちゃんと目的を遂げている。途中の不都合も最後の結果から見れば、不思議な整合性を持っているのが分かる。
 

 この驚くべきプロセスは、合理的な説明をしがたいことを沢山含んでいる。合理的プロセスである限り、常識的な自力主義者が力を発揮できるが、これには困るのである。
 この不合理とも言える喜ばしき至福・フローのプロセスを、どうすれば我が物にできるのか。

 それを可能にするのが、神秘主義的な他力主義なのである。それは宗教で言う他力宗なのである。幸運を呼ぶ他力主義である。

 この意味での他力主義を、これからは至福・フローの他力主義と呼ぼう。


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2011年06月24日

 普通の世間的発想から自力と他力を考えると、自力主義には主体性と積極性とプラス思考などがあってよいことである。
 一方、他力主義は他人依存と消極性とマイナス思考などからなり、望ましいことからほど遠い。勿論それは非難されるべき態度であり、学校教育や家庭教育からは生徒の是正されるべき考え方、態度あるいは行動パターンである。
 
 ところで、宗教では自力宗と他力宗があるが、実はどちらもいいことなのである。従って宗教では世間一般の言葉の使い方とは、全く違うということに気づいて欲しい。
 
 禅宗は他力宗である。浄土宗は他力宗である。
 自力宗では覚るために自分の努力をよしとする。しかし、その主体的な努力も、根本的には仏の助けをベースに持つのである。決して己一人の努力だけで覚ることができるとは考えていない。坐禅一つするのも仏の力あってのことである。それを知った上で、ひたすらに坐禅をする。
 一方他力宗では、己の力を全く頼みにしない。自力を放下することによって、他力の偉大なることを如実に知る。念仏を唱えるのは、仏からの力添えがあってのみできることなのである。専ら仏の力を信じることが大切。

 どちらにせよ、仏の力あっての自力であり他力である。仏の絶対的存在と信仰が両者に通定するものである。

 これから論じることは世間一般に言う自力・他力の論理ではなく、宗教での使い方による自力と他力で話を進める。

 さて、至福・フローは自力か他力かを問うなら、どちらかというと他力なのである。
 今までそれを得る方法として、瞑想と気の活用を語ってきた。実は方法論としては議論半ばであるが、二つの方法だけでも基本形はすでにそこにある。

 瞑想も気の運用も、近代的心理学的ツールとしては、正に道具であり、その限りでは自力的なのである。しかし、これらのツールの意味や効用は自力でのみ、あるいは顕在意識的論理だけでは説明しがたいものを多く含んでいる。論理や自力の世界を飛び越えてしまう何かを持っている。
 それが、常識と理詰めの中に埋没しているわれわれにとって一つの魅力ではあるが、一方で何か頼りなさを感じさせるものでもある。

 だが、敢えてその曖昧としたものに焦点を当てて見ると、任せ切ることで厳然として実現している物がそこにあることに気づくのである。この態度は自力ではなく他力なのである。

 身体をめぐる気感などは、その実体をつかむことを諦めて放棄したときに、ぱっと現れ出る何かである。そういう経験をすることによって初めて知る摩訶不思議世界である。


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liveyaguchi at 19:17トラックバック(0)人生コーチング 

2011年06月21日

 不幸なことを感じているときは、至福・フローの中にはない。 

 ドストエフスキーは、あの偉大な小説から推測するかぎり、幸福な世界にいることは少なかったのではないかと推測する。にもかかわらず、創造の過程では至福・フローを体験していたことはきっとあったと思う。
 彼は癲癇の発作のとき、苦しみながらもある種の至福を感じていた。あれは生理的に言ったら苦痛だったろうが、瞬間的・痙攣的ではあったが喜びを感じていたのではないかと思う。
 まあ、どちらにしても凡人のわれわれには想像するしかないことであるが。

 さて、幸福をもっと静かな至福のレベルで考えると、次のようなことが言える。 
 それは努力なしに得られる至福感である。努力による達成で一瞬痙攣的な幸福感を得ても、それは持続性もないし、ストレスが根深く残ってしまう。

その1. 努力しないで成就するとはどういうことか?

・人間は孤立していると努力が強迫的になってしまうのである。努力する人間は誰かが助けてくれるなどとは思っていない。いわんや天地が協力してくれるなどとは思ってもいないのである。

・そういう人にとって努力は、あらゆる関所を通れる通行手形みたいなものである。しかし便利なものだが、それをなくしたら悲惨だ。そう思っているから際限なく営々と努力してしまう。

・ところが、至福・フローはその努力とは無縁である。

その2.あたかも何者かに仕組まれたかのように幸運が生まれる。

・物事は落ち着くべき所に落ち着く。

・完璧なタイミングで出来事が起き、完璧な形で必要が満たされ、一方必要ないものは現れない。

・ストレスが掛ってくるようなときは、休めばよい。至福・フローにいると押すべきとき、引くべきときが分かるようになる。

・自分と世界が調和して、対立していない。


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liveyaguchi at 14:18トラックバック(0)人生コーチング 

2011年06月18日

 今まで至福・フローに至るための手段あるいは通路として「気」について論じてきた。もとより気がカバーする領域は広く、ともすれば至福・フローとの関係づけが無くなりかねない分野にまで迷いこんでいなくもなかった。

 そこで感じるのは、至福・フローの意味である。その点について、この辺りでもう一回振り返ってみたい
 至福・フロー現象は、極めて身体的経験である気の突発的上昇(クンダリニー)から、日常生活の静かな幸福感にいたるまで広い範囲にわたっているのである。

 ここで至福・フローにおける色々の体験に共通する特徴や意味を整理してみたい。

その1.至福・フロー状況にあると、自分と他人あるいは宇宙との垣根がなくなり、自分が個人でありながら、一方で宇宙や世界と一体化し、その一部であるという感覚や観念を持つに至る。

・私たちは全体の大きな流れのうちの一部である。

・東洋の宗教では万物は一様につながり、万物の意識の織物の中に自分の意識もある。
しかし、それは無意中の繋がりであるので、顕在意識の世界では個人は独立しているかのような錯覚を持っている。

・量子力学は物質レベルでそれを証明した。
万物は大きな量子の織物の中にあり、個人の存在は巨大な量子の織物の中で一つの局在化したものとしてある。しかし量子そのものは個人に入り来たってはまた去っていく、流動してやまないものである。


その2.因果律を越えた繋がりの原理は、私たちの欲求に反応する。因果律の範囲に止まる限り、それは非科学的・不合理な出来事として却下される。

・欲求の反応とは「引き寄せ力が働く」ということである。

・努力とは無関係の幸運な出来事を呼ぶ。

・但し、欲求はプラスにもマイナスにも働く。プラス方向に働くときに初めて幸運な出来事を呼ぶのである。至福・フロー体験は幸運な出来事でのみ味わうものである。


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2011年06月16日

 前回身体の臓器などを通じて神や宇宙とつながることを話した。神や宇宙とつながる通路として臓器があるのである。
 何故臓器を通して神や宇宙と繋がるのがいいのか?
 気は目に見えず、触れることはできないが、それでもある種の身体性を備えていて、具体的に実感できるものなのである。全く純粋な精神性のみを通じて神や宇宙に繋がるのとは別な感触を得ることができるのである。

 気の性質は身体的精神性とでも言うべきものなのである。
 至福・フローも基本は身体的精神性である。そこで気はそれを得るための主要な通路になると思っている。

 さて、自分の肉体を媒介にして神や宇宙と繋がることができることを確認したので、人間関係における気の効用も少々書いておきたい。

 人間関係は主に言葉や身体を媒介にして結ばれ、構築されるものではあるが、実は気を通してもなされるのである。雰囲気というのは多分に気が関与して醸成されるものであるが、当人同士はあまり意識していない。
 普通の関心事は専ら交わされた言葉であり、行動である。ところが無意識に発信している気が、その場に重大な影響を及ぼしているのである。

 そうであるなら、むしろ気をしっかり意識して人間関係に持ち込んでいったらどうであろうか?
 好意を持つ、あるいは相手に何かを働きけるに際して、気を意識して人に対処するのがよいだろう。悪意や傷つけるような邪な気持を気に託するのは感心しないが、原理的にはそれも可能である。
 
 良いことにも悪いことにも、対人関係の気は劇的な作用を及ぼすものと考えた方がよい。

 気を他人の病気の治療に使うのが、手当(手かざし)療法である。直接肌に触ることなく、患部に手をかざして治療者の気を送るのである。中国の医療気功では、手当療法で手術の麻酔を行うくらいであるから、この手当療法はなかなか馬鹿にならない。

 また、互いに手をつなぐ、あるいは二人が背中合わせで座ることで気を交流させることができる。

 以上の2つの例は意識的に人の間に気を交流させることであるが、先に述べたように平常の人間関係に気を意識して善用して行けば、人間関係の改善や関係強化に活用できるのである。

 下手に言葉や行動だけで人間関係を改善・強化しようとせずに、気のレベルの交流をまず整えてた上で、実際の人間関係作りをやっていくと、ずっと強固な関係づけを構築できるのである。

 以上のように神や宇宙との交流、あるいは人間関係の交流に気を活用することをお勧めする次第である。


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liveyaguchi at 21:58トラックバック(0)人生コーチング 

2011年06月14日

 神や宇宙というものを、自分の外にあるものと思っていると、そうでもないのである。勿論自分から離れたところにいらっしゃる神、自分を外から包みこんでいる宇宙というものでも構わないのであるが、一度自分の内なる神性や仏性を再認識して良いのではないか。

 まず肉体的に見ると、胃腸・心臓などの内臓あるいは手・脚など。そういうものが痛い・かゆいを言わない限り、その存在について日常意識しないし、それに感謝したり、会話をすることなどないであろう。

 ところが、胃が痛い、脚が言うことをきかない、となって初めてその存在に気づくのである。そこでびっくりして病院に駆け込んだり、薬を求めることになる。それはあくまで身体のパーツの不具合として、対処しているのである。

 気の観点からすると、痛みなどで不調を訴えているのは、そこに気がうまく流れていかないことを伝えているのである。もっと注意をそこに注ぎ、気を流して欲しいと言っている。
 それを医者に行ってすぐ症状を緩和させるだけで、気のことは相変わらずほったらかしであるから、患部はそれでは収まらない。
 別な病気を創りだして、気を流して欲しいと訴え続けるのである。更に、病気は慢性化したり、ところを変え、品を変えて症状を出し続けるのである。


 子どもが訳もなく泣きわめくように見えるが、実はもっと関心を持って、自分を扱って欲しい、もっと気を流して欲しいと訴えているのである。そこをちゃんと心得ている母親は、いつまでも子どもを泣き叫ぶままにしておかない。関心を注ぎ、気を流してやることに出し惜しみしない。しっかり抱きしめたり、おんぶしてやることで、子どもに気を送り、気を満たしてやる。それが一番いいことを、ちゃんと心得ているのである。

 さて、身体のパーツである内臓などは、一つひとつ内なる神なのである。病気は内なる神を意識させてくれる。従って、その病気を治せばそれで終わりということにはならない。
 病気を契機にその部分との気の交流を高めることだ。もともと無意識に気の交流はあったのであるが、何かの都合で病気を起こし、その部分と気の交流が滞ってしまったのである。
 だから、病気は何を求めているのか真剣に考え、注意を払い、そこに宿る内なる神に気を送り、崇めることが必要である。

 各内臓や筋肉、骨格、神経皆等しく内なる神なのである。その内なる神々と気の交流をして、対話するのである。それらは単なる物質的存在ではない。それら内なる神々は外の神とつながっている。個人の肉体的制約のはるか外にまでつながっているのである。

 我々の意識は宇宙や神とのつながりを直接持つことができる。
 同時に肉体の各部分が夫々の仕方で神と繋がっているから、そのチャンネルを通して神や宇宙とつながることができるのである。
 気というものは多分に目に見えない身体性であるから、各臓器などに気を通すことで神や宇宙とつながるのである。


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liveyaguchi at 11:55トラックバック(0)人生コーチング 

2011年06月11日

 気は一人で高めていくこともできるが、場の力をかりて気を高めることもできる。そこで問題になるのは「雰囲気」ということである。

 先日もあるところで会合を行ったところ、会話が弾み、もともと難しい話をするために集まった仲であったが、すんなりとまとまった。
 うまい具合に話の筋道ができて、大同小異ではあるがまとまったのである。それにしても皆が異口同音に「ここの雰囲気がいいから」ということであった。そして次回も同じ場所を使おうということになったのである。

 これなど、「場の雰囲気」のなせる業であるのは明らかである。

 場に人をなごませ、温か味を感じさせるものがあるのである。勿論参加者の心構えというものもあるのであるが、その場がもともと持っていた雰囲気の影響が大きいということがあるのである。
 そこで、心がけるべきは左脳を余り働かせずに、右脳を働かし、良い「雰囲気」の場を探し、その場の力を借りて人間関係や物事の良き達成をめざすべきなのである。
 
 そういうことを一切無視して、専ら論理的、理屈だけでやると、「場の雰囲気」が刺だって納まるものも納まらなくなっていく。
 「場の雰囲気」というのは、実に「場所と人が出す気の相乗的働き」なのである。良い気が出ているところでは、それは1+1の世界ではなくなり、掛け算の世界になってくる。

 しかし、注意しなければならないのは、[場の雰囲気]は悪い方でも働くのである。悪い雰囲気にいると、何となく落ち着かず、苛立ったり、逃げ出したくなる。
 そういう陰の気が立ち昇る場所がある。そういうところには原則近づかないことである。
 
 反対に陽の気が立ち昇っている場は、お宝の場である。


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liveyaguchi at 16:19トラックバック(0)人生コーチング 

2011年06月09日

 木になって、立ちながら気を巡回させる。木は人間のような意志を持たないかに見える。しかし、どっかりと大地の一点に根を生やして、風の日も、雪の日も、炎天下でもそこに泰然自若として己を全うしている。
 何とすばらしい根性、覚悟ではないか。しかし、それはあまりにも人間的な心情で木の心を推し測っているかもしれない。
 
 ともあれ、こちらも極力自分の了見を放りなげて、木の気持になる。己の魂を鏡のように研ぎ澄まして、じっと耳をそばだてる。そうすると木の気が自分に入ってくる。そうしたらしめたものである。一体化すると、自分の気は木の気とシンクロナイズして、共鳴しだす。

 木のように立つのが基本である。そうすると気が大地から上がってくる。と同時に眼前の木との気をやり取りもできるようになる。
 樹葉が燦々たる太陽の光を受けて盛んに光合成をやっているのが、ざわめきのように伝わってくる。木はそこに無為のままで立っていたのではないことが分かってくる。光合成をすることで、木は最高の生命活動をやっているのである。

 そのうちに木は木でなく、自分でもあることが実感できるようになる。気を共有することで命を共有していることが分かる。呼吸しているのが同じ気であることが分かったとたんに、木は自分であり、自分は木であり、我々を支え活かしているのは共通の生命であることが分かるのである。

 生命のエネルギーが生き生きと動き出す。それは無理矢理に自分で作りだした元気ではない。見えないところに働いているエネルギー、自分を背後で支えている根元的生命なのである。
 この生命エネルギーは、無理やりに意志力などで作りだされたものではない。そういう作為的意志は放ち去り、無欲の状態になって初めて実感できる代物なのである。
 己を虚しくする、つまり意識をゼロにし、欲望を捨て去ることによって得られる本物の気なのである。
 気も意識的・意志的に作り出すそれは、まだ低い次元の気なのである。

 もっとも、断わっておくがそれも気ではある。何も恥ずかしがる必要はない。初手はまず嘘でも気があると意識するところから出発してよい。気はある意味「嘘から出た真実」なのである。


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liveyaguchi at 20:09トラックバック(0)人生コーチング 

2011年06月07日

 真似るということは、何かはかりしれない物が乗り移ってくるということなのだ。これは形だけの真似事とは全然意味が違う。
 
 その物特有の魂みたいなもの、精霊、エネルギーが自分に入ってくるのである。
 俳優たちは、あるキャラクターを木偶の坊のように、なぞっているのではない。
 その主人公に自分の身と心を明け渡し、その人物になり切った時に、思いもかけず自然な演技ができるのではないだろうか。

 私はそれを「神話化」するという表現で述べたい。つまり、己を明け渡して神子になるのである。夫々神の精霊にあやかるには、それを己に体現する方法を身につけなければならない。そこでは理屈を言っていても、はかばかしい説明にはならない。

 気は結びつける力である。我々は普通論理世界に生きているので、物を区別し、分ける原理で生きている。それは左脳的原理であり、とても分かりやい原理である。
 ところが、多くの現実は「あれでもあり、これでもある」世界なのである。融合の原理で動いているのである。
 古典物理学の原理は総じて分ける原理でなりたっている。ところが量子力学の世界になると、融合の原理が働く場面が多くなる。

 量子力学の世界は左脳的頭で見ると、とても矛盾したものに見える。それを単純に非科学的というレッテルを貼っていることが多いのである。この場合の科学とは古典物理学の科学・ニュートン力学である。

 融合の原理を使うのが「真似る」ことなのである。真似るだけなら、それはインパクトが小さい。真似ることが本物になるには、その物の気を実感しつつ、気にひたり、それに導かれて真似ることである。その物の気をつかめば、真似ることに生命が宿る。

 樹木や石を真似るのは、一番初歩的な真似る気の行法である。
 動物を真似ることもある。身近な犬・猫をあげても、その嗅覚、ジャンプ力は驚異的である。かれらに宿る神の性を真似ることによって、彼らのもつ力をわが身に招来するのである。

 中国の気功に五禽戯というものがある。虎・猿・熊・鹿・鶴を真似る。
 あるいは、シャーマニズムという未開人などの憑依霊媒がある。アニマル・パワーと一体化することにより、神を日常世界に招来する。憑依現象を人間の異常心理や病理世界とみるだけでは、極めて一方的、独り善がりなのである。


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