老いの愉しみ

老いのたわごと・ひとりごと。 私の住んでいる街神戸のことや趣味酒器類・絵葉書、貯金箱その他のことをいろいろと・・・  

宮本武蔵の師匠で知られている沢庵和尚こと「澤庵宗彭」の忌日

今日(12月11日)は臨済宗の僧「澤庵宗彭(たくあん そうほう)」1645年の忌日。
澤庵宗彭は、江戸時代の臨済宗の僧。大徳寺住持・・・と言っても、ピント来ない人も、吉川英治のあの有名な小説『宮本武蔵』の中で、武蔵の師匠として描かれている沢庵和尚と言えばわかるだろう。
 私も正直言って、沢庵和尚に関しては、吉川英治の小説『宮本武蔵』の中に出てくる沢庵和尚のイメージしか沸いてこないが、時代劇大好きで、
朝日新聞に連載時の挿絵入り、単行本が中央公論社(現:中央公論新社)から出版(昭和35年、全6巻)されたときにはこれを購入しむしゃぶり読んだものである。
小説『宮本武蔵」の沢庵01
小説『宮本武蔵」の沢庵

①沢庵とお通

②武蔵を取り押さえる沢庵


小説『宮本武蔵」の沢庵02
③千年杉に縛られた武蔵に
人の道を説くを沢庵
ここに掲載の①②③の画像は、中央公論社刊、吉川英治の小説『宮本武蔵』第一巻に描かれた沢庵の画像。
①は第一巻”地の巻”
花御堂二の項の挿絵。作州宮本村の郷士・新免武蔵の幼馴染・本位田又八の許婚お通も村の人と同様に関ヶ原の戦いに参加したあと二人がともに帰らぬのはもう亡くなったからではないかと暗い気持ちになっている所へ、3年か4年には美作国吉野郷宮本村、現在の岡山県英田郡大原町 宮本※1参照)の七宝寺(※2)に現れる但馬の国の30歳くらいの若き旅の雲水が、寺にいたお通の前に裸のままであらわれる、それを見て驚くお通。
「ま・・・沢庵さん、裸になってしまって着物の乾くあいだどうするのですか」「寝てるさ」「あきれたお人」
「そうだ、明日ならよかった、
四月八日灌仏会だから、甘茶を浴びて、こうしておる・・・」
と、沢庵は、真面目くさって、両足をそろえ、天上天下へ指をさし、何時までも、
誕生仏の真似をしている沢庵。ここで小説の挿絵の沢庵は裸ではない。このあとで、用を思い出し逃げるように去ってゆくお通を町へ追いかけたていったとき時、間に合わせの風呂敷を身にまとったとあり、。小説上の挿絵は、風呂敷を纏った沢庵の姿が描かれている。
②は、同第一巻”地の巻”縛り笛九の項の挿絵。
関ヶ原の戦い以降放浪していた武蔵(たけぞう)は、又八とも別れ、故郷で囚われの身となっている姉を助けるべく帰ってきたが、その乱暴さから人を殺め、役人に追われ山奥へ逃げ込む。その武蔵が役人に捕まり殺されるのを防ぐため、自らの手で捕まえようと、お通とともに山にこもった沢庵。たき火を炊き笛を吹くお通の姿を見て、安心し近づいてきた武蔵を、言葉巧みに、誘い出し説得し取り押さえる沢庵。
③は第一巻”地の巻”樹石問答三の項の挿絵。沢庵に捉えられ、罰として、縛られ二丈も空の千年杉の梢に引き上げられ、晒されている武蔵が、腕では勝てぬのに言葉巧みにだまされ、捉えられ、このような仕打ちにあったことを沢庵に悪態をつく。そんな、武蔵に沢庵は、
「腕ずくでは、なるほどおぬしが強いに極まっている。虎と人間では、角力(すもう)にならん。だが、虎はやはり、人間以下のものでしかないのだぞ」
「たとえば、おぬしの勇気もそうだ。今日までの振る舞いは、無知から来ている
生命(いのち)知らずの蛮勇だ。人間の勇気ではない。武士の強さとはそんなものじゃないのだ。怖いものの怖さを良く知っているのが人間の勇気であり、生命は惜しみいたわって珠(たま)とも抱き、そして、真の死所を得ることが、真の人間というものじゃ。・・・惜しいと、わしがいうたのはそこの事だ。おぬしには生まれながらの腕力と剛気はあるが、学問がない。武道の悪いところだけ学んで、知徳を磨こうとしなかった。文武二道というが、二道とは、ふた道と読むのではない。ふたつを備えて、一つ道だよ。--わかるか、武蔵」・・・と。
沢庵の言葉に、死を恐れなかった武蔵は初めて、生きたいと言う人間性に目覚、生まれ変わって生きたい・・と沢庵に命乞いをするが、何事もやり直しができないのが人生だ・・と、許してはくれない。そんなやり取りを陰で見ていたお通は沢庵がそこからいなくなったのをみて助ける。武蔵は生まれ直して生きる決心をする・・・。
小説では、映画やドラマで見せ場となっているような千年杉に縛られ吊るされている武蔵の姿は、絵としては描かれていない。この絵に描かれている沢庵の姿は、私には釈迦のようにも見える。沢庵は、お通が武蔵を助け逃げていくであろうことは分かっていたのである。この挿絵画家は
矢野橋村である。

武蔵の生地はいろいろといわれているが、概ね美作国播磨国の二説が主流であり、吉川英治が小説『宮本武蔵』では当地の生まれとしたことから、その通説が今日では一般的になっているようだ。私も一度、訪れたことがある。何もないお堂のような小さな家が辺鄙な場所にぽつんと建っていた。生誕地前から旧因幡街道を10分ほど歩くと、姫路 - 鳥取間を結ぶ鉄道には、武蔵生誕地伝承からつけられたという「宮本武蔵駅」があった。そうすると、沢庵の生地・但馬の出石とは、 山ひとつの背中合せの場所である。
作東地域(旧美作国の東側にあたる)の北東、山中に「真言宗別格本山・大聖寺」があり吉川英治は小説「宮本武蔵」の構想を練るのに、武蔵の生誕地に近いこの寺に幾度も逗留したという。小説『宮本武蔵』"地の巻”花御堂」六 には、以下のように登場する。

大聖寺の鐘が鳴る。 七宝寺のかねも鳴る。 夜が明けると早々から、午過ぎも時折、ごうんごうんと鳴っていた。
画像①から②武蔵が捕まるまでのくだりである。七宝寺(※2)も、兵庫県
神崎郡神河町大山に実在する寺である。

年齢も沢庵のほうが武蔵よりわずか10~11歳の年長者であり、武者修行者と
禅門との関係が密であったことを考えれば、沢庵を武蔵と知己の間柄として小説上に登場させてもそう不合理を感じないと思ったのだろう。同、小説の中で、澤庵和尚は武蔵が武芸者として成長していくための師匠としてなくてはならない存在感を示している。
実際の澤庵宗彭のことはよく知らないので、以下参考のフリー百科事典Wikipediaのものをそのまま引用する。澤庵宗彭は、1573年12月24日(天正元年12月1日)に秋庭能登守綱典(※3も参照)の次男として
但馬国出石(現兵庫県豊岡市)に生まれる。
父秋庭綱典は小説では、城主
山名祐豊の重臣であった。8歳のとき山名家は羽柴秀吉に攻められて滅亡し、父は浪人した。沢庵は10歳で出石の唱念寺で出家し、春翁の法名を得た。14歳で同じく出石の宗鏡寺(すきょうじ)に入り、希先西堂に師事。秀喜と改名(※4参照)。
1591年(天正19年)希先西堂が没すると、この間、
出石城主となっていた前野長康は、大徳寺から春屋宗園(しゅんおくそうえん)の弟子、薫甫宗忠(とうほそうちゅう)を宗鏡寺の住職に招いた。沢庵も宗忠に師事する事になり、このときから、沢庵と大徳寺との関係が生まれた。
1594(文禄3)年宗忠が大徳寺住持となり上京したため、沢庵もこれに従い大徳寺に入り、大徳寺では三玄院(※5:「大徳寺」の
ここ参照)の春屋宗園に師事し、宗彭と改名した。
宗忠の死後、
和泉国堺に出た。では南宗寺陽春院の一凍紹滴に師事し、1604年(慶長9年)沢庵の法号を得た。
1607(慶長12)年沢庵は大徳寺首座となり、大徳寺徳禅寺(※5:「大徳寺」の
ここ参照)に住むとともに南宗寺にも住持した。1609(慶長14)年、37歳で大徳寺の第154世住持に出世したが、名利を求めない沢庵は、野僧たるべくたったの3日で大徳寺を去り、堺へ戻った。
1620(元和6)年には、郷里出石に帰り、藩主
小出吉英が再興した宗鏡寺の裏に庵を結び、投淵軒と付けた。「投淵軒」という名は、中国の憂国の詩人・屈原が汨羅の淵汨羅江(べきらこう)に身を投げた故事によっているという。
1627(寛永4)年、
紫衣事件が起こった。幕府は、後水尾天皇が幕府に諮ることなく行った紫衣着用の勅許について、法度違反とみなして、勅許状を無効とし、京都所司代に紫衣の取り上げを命じた。
これに反対した沢庵は、急ぎ京へ上り、前住職の宗珀(そうはく)と大徳寺の僧をまとめ、
妙心寺単伝(たんでん)・東源(とうげん)らとともに、反対運動を行った。1629(寛永6)年、幕府は、沢庵を出羽国上山に、また宗珀を陸奥国棚倉、単伝は陸奥国由利、東源は津軽へ各々流罪とした。1632年、将軍徳川秀忠の死により大赦令が出され、天海柳生宗矩の尽力により、紫衣事件に連座した者たちは許された。
沢庵が
柳生宗矩に与えた書簡を集めた『不動智神妙録』(参考※ 6、※7参照)は、「 剣法(兵法)と禅法の一致(剣禅一致)」を説いたものとして著名である。沢庵はいったん江戸に出て、神田広徳寺(後下谷へ移転)に入った。しかし京に帰ることはすぐには許されず、沢庵は同年冬駒込堀直寄の別宅に身を寄せ、1634年(寛永11年)夏までここに留まった。
宗珀とともに大徳寺に戻ったのち、
家光が上洛し、天海や柳生宗矩、堀直寄の強い勧めがあり、沢庵は将軍徳川家光に謁見した。この頃より家光は深く沢庵に帰依するようになった。
同年郷里出石に戻ったが、翌年家光に懇願されて再び江戸に下った。沢庵は江戸に留まることを望まなかったが、家光の強い要望があり、帰郷することは出来なかった。家光は
品川東海寺を建て、沢庵を住持とした。家光は政事に関する相談もたびたび行ったという。書画・詩文に通じ、茶の湯(茶道)にも親しみ、また多くの墨跡を残している。
大根の糠(ぬか)漬けは一般的に「たくあん」と呼ばれているが、江戸時代の俳諧師・
吾山の書物「物類称呼」には「たくあん漬けの名は、武州品川、東海寺開山の澤庵禅師、初めて製し給う、に依ってたくあん漬けと称する」書かれているという。
又、古今の書籍を引いて、本邦歴代の制度文物、及び社会百般の事項を類聚している、「
古事類苑」には、香物と題して、澤庵の以下の句が掲載されているという。
 「大かうの物とはきけどぬかみそに 打つけられてしほしほとなる」(
後撰夷曲集 九雑 澤庵和尚 。※9)
一般には
沢庵漬けの考案者が沢庵と言われているが、確たる証拠はなく異説もあるようだ。発案者でなくても広くひろめることには係っていた可能性は大きいのだろうね。
 土井晩翠の随筆『雨の降る日は天氣が惡い』序、に谷至道さんの著『禪の極致を洒脱に説いた澤庵和尚』からの拔萃として以下のような
伊達政宗と澤庵和尚の問答が書かれていた(※10青空文庫参照)。
或日、澤庵和尚は千代田城に赴いた折、名うての荒武者伊達政宗に會つた。政宗が「雨の降る日は天氣が惡うござるが、どうしたものでござるな」
 澤庵和尚はヂツと政宗を見た、政宗は
瑞嚴寺の和尚に參じて禪も出來た武士である。
「左樣、雨の降る日は天氣が惡う御座るな」と同じやうなことを澤庵も繰返した。
 *         *
”ある日
鷹狩の歸りに一天俄かに掻き曇り、雨は篠を突くやうにザア/\降つて來た。政宗も家來も濡れ鼠のやうに、眼もあてられない。すると今まで野良かせぎをしてゐたらしい百姓が「雨の降る日にや天氣が惡い‥‥」と大聲で唄つて行つた。
その時、政宗は百姓の聲を聞いて「ははあ、こゝだな」と、初めて澤庵禪師の言葉の意味が分つた。その時の彼の心持は家來共が雨に濡れて困つてゐる樣子を見て氣の毒に思ふ憐みの情以外の何物でも無かつた。つまり我を捨てたのである、我を捨ててこそ會得が可能なのである。
*         *
 私が『隨筆』誌上に書いた時は全くこの事を知らなかつた。
・・と。
 あなたは、分かりましたか? 
 「雨の降る日は天氣が惡い」・・・、あたりまえのこと、わかりきったことのたとえであるが、人間、ごく当たり前のことになかなか気づかないものなのである。     
1646年1月27日(正保2年12月11日)、沢庵は江戸で没した。墓は東海寺にある。
澤庵は、死ぬ前に残す言葉を弟子が求めると自分で筆を取り、「夢」の一字を書いて筆を投げ捨てるようにして息を引き取ったという。この「夢」というのは「
」に通じるのだそうだ。「夢」という字は、音で読むと「む」。沢庵は、長い修行の末に「無」の境地をわがものにした。禅の修行の目的は「無」の境地に至ることだということだそうだ(※11参照)が・・凡人にはなかなか到達は難しいよね~。
そして、「自分の葬式はするな。香典は一切もらうな。死骸は夜密かに担ぎ出し後山に埋めて二度と参るな。墓をつくるな。朝廷から禅師号を受けるな。位牌をつくるな。法事をするな。年譜を誌すな」と遺言を残したそうだ。
小説『宮本武蔵」を書いた吉川英治は、武蔵と澤庵が交接した核心はないが澤庵を登場させた。しかし、澤庵は、柳生但馬守に剣禅一如の奥義を伝えたほどの禅僧である。武蔵が澤庵の元で修行していたとしても不思議はない。
美濃国 (岐阜県)八百津にある「宮本武蔵ゆかりの寺 大仙寺( だいせんじ ) 」は、宮本武蔵が禅修行をしたお寺 だそうだ。同寺によれば、京の都で沢庵和尚のもと剣の道を極めんと禅の修業に励んでいたが、沢庵和尚は「禅の道は愚堂に学べ」と言い残し、この世を去った。愚堂とは、美大仙寺八代目住職「愚堂国師(愚堂東寔)」 のことで、宮本武蔵は、この美濃国 八百津 を訪れ、愚堂国師に禅の教えをこい、大仙寺二の門にある石の上で座禅を組み、寺に近い五宝の滝(※12参照)や昼なお暗い渓谷で厳しい剣術の修業を積んだと言い伝えられているという。
 
参考:

※1:
宮本武蔵の旅/生誕の地・宮本

※2:七宝寺 | 兵庫県神河町公式観光サイト かみかわ観光ナビ

※3:武家家伝_田公氏

※4:宗鏡寺の歴史 | 宗鏡寺(沢庵寺)公式ホームページ

※5:大徳寺

※ 6 :沢庵・不動智神妙録

※7:沢庵宗彭『不動智神妙録』古写本三種・『太阿記』古写本一種

※8;沢庵禅師日本の食文化と偉人たち|食生活文化研究所|キリン





 

 





神戸開港記念日

開港当時の神戸港
開港間もない頃の運上所前波止場


開港当日の神戸港


開港間もない頃の運上所前波止場

武庫連山古覧の図

③神戸港開港間もない頃の武庫連山古覧図


今日(12月7日)は、「神戸開港記念日」神戸市が制定(※1)。
1867(慶応3)年12月7日(新暦1868年1月1日)、神戸港が外国船の停泊地として開港した。新暦に換算した1月1日も「神戸港記念日」となっている(※2:「神戸税関」 > 税関古掘れ話の幕府運上所の顛末)。
1854(安政元)年、ロシア軍艦
ディアナ号が大阪天保山沖から和田岬(神戸市兵庫区大阪湾なる現神戸港に面する)に来航。
皇居(当時:京都御所)に近い瀬戸内海への黒船進入は大反響を呼び、ことに1862年(文久2年)生麦事件が起ると、その報復のため英艦が大阪湾に来襲するだろうという噂がひろがり、幕幕府摂津防衛の強化に乗り出す。
1863(文久3)年、4月、幕府の
軍艦奉行勝安房守(勝海舟)は、将軍家茂に随行し摂津巡視のため神戸村小野浜(YAHOO!地図)に上陸。網屋吉兵衛の船蓼場(フナクイムシを駆除するための乾ドック)を、見せ、ここが日米修好通商条約に基づく開港場として最適地と納得させ、将軍の許可を得て、神戸海軍操練所を開設した。操練所は半年余りで廃止され、海舟の海軍創設の悲願は中途で挫折(僅か1年も経ない慶応元年=1865年3月に閉鎖)したが、塾頭の坂本竜馬をはじめ陸奥宗光伊藤祐享など、後年活躍した人々を生み出した。
慶応3年12月7日、(西暦1868年1月1日)、正午、神戸の沖合いに停泊した黒い外国船団から21発の祝砲がとどろく中で、「びーどろの家」(ガラス張りの家)と住民から呼ばれていた運上所(後の
神戸税関。※2参照)で、幕府役人と諸国外交官が参加して、兵庫(港)開港式が行われた(兵庫開港と言っても実質は神戸開港であった)。
冒頭①画像は、「開港当日の神戸港」この日停泊中の各国軍艦はそれぞれ日章旗を掲げ、正午には、21発の祝砲を放って開港を祝った。
②は「開港間もない頃の運上所前波止場〔第一波止場)。この波止場は、網屋吉兵衛が生田川尻西側に設けた船蓼場で、幕府の手により、波止場に改築され、第一波止場と呼ばれ、今日まで続いている(
新港参照)。
③は、神戸港開港間もない頃の「武庫連山古覧図」。同図は若林秀岳の作といわれており、現在の神戸空港上空あたりから北を眺めた図だそうだ。描かれているのは開港前(江戸末期)の
深江から須磨までの様子を描いたもの(部分図)で、神戸や兵庫津の辺りは、特に家屋が密集している。また、兵庫の港には多数の商船が描かれており、港町として現在の兵庫区を中心とした地域が繁栄していたことがわかる。 開港した、生田川西側、 生田の森辺りは開けておらず人家もまばら、沖には航行中の船が2隻ほど描かれているだけである。画像は、いずれも、私の蔵書、神戸市発行の「市民グラフ こうべ」No95より掲載している(画像クリックで拡大)が、③の詳細画像は、以下参考※3の中の武庫連山海陸;古覧参照されるとよい。

1858(慶応3)年、幕府が約束した兵庫開港が、長い曲折の末5年間も延期され欧米列強(英・仏・蘭・米)の強い圧力もあって、天皇(
孝明天皇)の許しを受けたのがこの年5月25日のことであった。開港準備、居留地神戸外国人居留地)工事など殆ど未完成でこの日を迎えたといわれている。
この日、波止場を埋めた村人たちは歓声と拍手でこれを迎えた。又、運上所の建物を囲んで「ええじゃないか、ええじゃないか」と踊り歩く人達がいた。
西国街道沿いのひなびた農・漁村にすぎなかった神戸は、この開港とそれに伴う外国人居留地の造成、そして、神戸事件(慶応4年1月11日)などを経て、文明開化への急速な足取りをたどっていったのである。
開港当初の港の賑わい
ええじゃないか踊り


開港当初の港の賑わい


兵庫(神戸)開港を祝って踊る人達。

④画像は、開港当初の港の賑わい「摂津神戸海岸繁栄図」長谷川小信(貞信)画。この画は、蔵書、神戸市発行の「市民グラフ こうべ」No95より掲載しているが、別の画像が、
参考※3の
摂州神戸海岸繁栄之図及び、
※4:
摂津神戸海岸繁栄図 文化遺産オンライン
で見られる。
⑤「兵庫(神戸)開港を祝って踊る人達」の画像は、同じく蔵書、神戸市発行の「市民グラフ こうべ」No57より掲載しているが、そこには絵の解説として以下のように記している。
幕府辛苦により、兵庫の開港が勅許せられ居留地も埋め立てられ運上所(今の税関)も設けられ、ビイドロ館と称し、人々の見物のため押しかけ、”昔の砂浜は俄かに繁栄をきたせりと。當時庶民は開港を祝し、「エエジャナイカ」「エエジャナイカ」と盛んに踊り歩きたりと云ふ。此の背景は當時の神戸港にして試に次の観艦式の光景と(対)比せられよ。
・・・と。兵庫(神戸)開港を祝って大勢の人達が「エエジャナイカ」「エエジャナイカ」と踊り歩いたのであるが・・。
観艦式(かんかんしき)とは、軍事パレードのひとつで、軍艦を並べて壮行するのことである。日本における観艦式の起源は、1868(明治元年)3月26日に大阪の天保山の沖において行われ、この時は、明治天皇が陸上から観閲し、受閲艦艇は日本の6隻及びフランス海軍の1隻であった。その後、1890(明治23)年4月18日、神戸沖(参加:軍艦18隻〔3万2,854トン〕、その他12隻〔1,528トン〕)で実施された「海軍観兵式」が日本の近代海軍(大日本帝国海軍の歴史)としての観艦式の始まりだそうであり、神戸では度々観艦式が行われている。観艦式のことはこのブログ「明治四十一年海軍大観艦式記念絵葉書」でも取り上げた。

この神戸開港の前年、1866(慶応2年)年は、
凶作と第二次幕長戦争(長州征討)に伴う穀物価格の急騰が大きな原因で、米の安売り、施金、施米などの要求運動が全国のあちこちで続発しており(※5参照)、勝海舟は、慶応2年4月28日付けの越前藩前藩主松平慶永(よしなが=松平 春嶽)宛の手紙で、長州征伐や幕府改革慶応の改革参照)が容易に進展しないことを憂慮しつつ「かくの如くにて御永引き相成り候わば、下民一時に蜂起はかり難く、人身の離反は日々相見え、是は尤も恐るべく、未だこの事甚だしきに及び申さず候うち、御内々の破れば然るべく候方も御座あるべく・・・」と述べ、これに対し、6月4日付け慶永の返事も、神戸と大阪の打ちこわしについてこれに応じているがこうしたやり取りの中に、幕府の政策追行能力の喪失が民衆蜂起を続発させることについての、深刻な危機意識があらわれている。
この手紙の翌5月11日に、摂津
西宮で米の安売り要求があり、これが一連の都市打ちこわしの発端となっている。5月8日には伊丹と兵庫湊川で、10日には池田で、米屋・酒屋・質屋などが打ち壊されるなどの事件も発生している。
これら慶応2年の諸運動にたいして、慶応3年の運上所前での「
ええじゃないか」は、急騰を続けた米価が下落する局面で展開されており、「ええじゃないか」は、幕府権力の衰退の元で生まれた世変りへの漫然とした期待が、米価の下降と豊作の予想に結び付けられ増幅した祓浄(ふつじょう)除災と祝祭的な歓びがこめられて行われていたものであろう。
全国各地に社寺の
お礼参りが(下降)降り、「世直し踊り」とも呼ばれる「ええじゃないか」が全国を席巻していたのである。「ええじゃないか」が実際にどんな踊りかは明らかではないが、「ええじゃないか。ええじゃないか」という言葉の繰り返しが中心だったようで、どうも、「阿波踊り」のリズムと基本的には同じ様なものだろうといわれている。
豊饒御蔭参之図s

⑥「豊饒御蔭参之図」と落下した御祓。


⑥は、「豊饒御蔭参之図」(慶応3年(1867)板 3枚続)と落下した御祓。人々の関心をひいた「ええじゃないか」の刷り物は、多量に世の中に出た。雨乞いの結果、雨が降り豊年となり、さらに、お札が降ったと解説している。一恵斎芳幾=落合芳幾画。浅井コレクション オリオンプレス 神宮徴古館蔵。この画像は、蔵書『週刊朝日百科 日本の歴史』94より。
「ええじゃないか」の始まりはいろいろといわれているが、その本当のことはよく分からないが、そのようなことは別にして、空から甘露が降ってくるなどの事例は、古くから多くみられこのように人々が空から降下してくるものを神聖視するのは、神は
祀る時に空から降ってくるという伝統的な民族宗教の構造によるものだろうという。
参考:※6:「神戸元町商店街ホームページ:元町マガジン」の商鑑>
第13話 ええじゃないかにも書かれているように、
江戸時代、ほぼ六十年周期で発生した「
おかげまいり」は、幕藩体制の閉塞した社会から解放されたいという民衆の潜在的願望の表現であったが、幕末、より豊かな、より安らかな生活への希求、より良い社会への変革の要求が、「ええじゃないか」という大衆行動となった。
そして、全国各地で「今年は世直りええじゃないか」などと連呼しながら町々を練り歩く民衆運動で、直接間接、江戸幕府が倒壊し、明治維新が成就する要因となった。

今の日本は、1894年に
日清戦争、1904年日露戦争、1914年第一次世界大戦に参加。世界の五大国にものし上がったが、1931年満州事変、1937年支那事変日中戦争)を経て、1941年太平洋戦争第二次世界大戦)に突入。
1945(昭和20)年敗戦後には、すべてを失い、食べるものにも困窮した時代から、
高度経済成長を遂げGNP第2位へ(現在は中国に抜かれ3位,※7)、その後の証券不況(昭和40年不況)も乗り越えて、安定成長期へ移行。第二次ベビーブームが終わり、第2次オイルショック時の1980以後の日本は少子化の道を歩むこととなった。
1980年代後半から1990年代初頭の
バブル景気崩壊以後も趨勢として実質経済成長は続いたものの、失われた20年で知られる低成長期に入った。
その後、2012(平成24)年からの
安倍内閣第2次安倍内閣)以降は日銀とタッグを組みゼロ金利政策のもと、デフレ脱却,2%の経済成長を目指している。
経済成長の著しい
新興国アジア諸国等(※8)やアメリカ経済の好調などに支えられ、今空前の株高ブームで沸いているが、公共投資への財政支出の増大等により、日本の財政赤字は拡大するばかりで、2016年12月末の借金総額は1000兆円を超えている(※9参照)。
東日本大震災、その後の相次自然災害の復興などもあるが、少子高齢化が進む中では、社会保障費の制度改革に手をつけず、増税と公共投資増加の組み合わせによる経済成長政策は、裕福者と貧困者との間で益々格差貧困を悪化させる要因になるとの意見があるが・・・。
日本の社会保障費の増大と財政赤字を解消する妙薬はなかなか見当たらない。そもそも、政治家は、選挙のために、有権者に耳触りのいいことばかり公約し、根本的な問題を解決せづ、今まで、やってきた。
日本でも、貧富の
格差社会は確実に拡大してきている(※11)が、根本問題への着手を怠り、明治期のような「いいじゃないか」じゃなく、テロによる解決を・・・なんてことを考えだす者が出ないようにして欲しいものだね。
神戸港開港をテーマに、つまらぬことを多く書いてしまった。
神戸では、今、神戸開港150年事業をいろいろしている。以下参照してください。

神戸市:神戸開港150年記念事業


参考:
 
※1:
公益財団法人・日本海事広報協会

※2:神戸税関

※3:一覧|神戸市立中央図書館 貴重資料デジタルアーカイブズ

※4:摂津神戸海岸繁栄図文化遺産オンライン

※5:「打ちこわしと慶応2年5月の尾崎村(2014年5月) - 阪南市役所

歌舞伎俳優十八代目中村勘三郎忌日

chi-てれすこ

今日・2017(平成29年)年12月5日は十八代目 中村 勘三郎が2012(平成24)年に亡くなって(享年57)5年目となる。私の一番好きな歌舞伎役者であった。
彼亡き後は、長男の中村勘九郎(6代目と次男の中村七之助(2代目)、がその芸を受け継ぎ、2017年2月に行われた「若祭二月大歌舞伎」夜の部における「門出二人桃太郎」では勘九郎の長男、波野七緒八(当時(2歳)が三代目中村勘太郎、二男の波野哲之が二代目中村長三郎を名のって初舞台を勤めた(演劇チケット情報こ参照)。
十八代目中村勘三郎、本名は波野 哲明(なみの のりあき)。
屋号中村屋定紋角切銀杏、替紋(定紋に替えて用いる、略式または装飾の紋。裏紋。副紋のこと)は丸に舞鶴。舞踊名に藤間勘暢(ふじま かんちょう)がある。子役時代から46年間名乗った前名、五代目 中村 勘九郎としても知られた。
父 は、人間国宝・十七代中村勘三郎、 母 波野 久枝は、六代尾上菊五郎の娘。兄弟には、長姉・波乃久里子(新派女優)、次姉・千代枝(夫は二代目澤村藤十郎で義兄にあたる)。
日本舞踊中村流二代目中村梅彌は義姉、九代目中村福助三代目中村橋之助(現:八代目中村芝翫 )は義弟にあたる。
1980(昭和55)年に結婚し、以来勘三郎を影で支えてきた妻の波野好江は、七代目中村 芝翫の次女であり、梨園の名門の家系の2人の結婚は「梨園の役者はほとんどが親戚関係になった」と言われるほどの名門同士の結婚だった(※1参照)。
江戸で初めての常設の芝居小屋となった猿若座/中村座(江戸三座のひとつ)の創始者猿若勘三郎(初代中村勘三郎)は、山城(今の京都)の武士中村勘兵衛の次男として生まれ、狂言師の兄らと大蔵流狂言を学び、その経験を生かして創作した生涯の傑作が舞踊『猿若舞』である。
 『猿若舞』は中村屋に代々伝わる演目で祝の際に必ず踊られる『猿若舞』であり、2013年10月27日に、東京・築地本願寺で行われた十八代目中村勘三郎を偲ぶイベント『一周忌メモリアルイベント』の最後には、これを特別にアレンジした『偲草鶴競猿若舞』が勘九郎、七之助、そして勘九郎の長男七緒八くん(当時2歳)が初披露し3300人の大観衆を前にたじろぐことなく、見得を切ってみせたの印象的であった(※2)。
中村座の定式幕は、左から「黒」「白」「柿色」の引き幕だった。「白」の使用は中村座に限って幕府から特別に許された色であったそうだ。現在では十八代目中村勘三郎の襲名興行や平成中村座の公演などで使用されていた。
ichi-中村勘九郎親子共演

因みに上掲の画像は、1992年(平成4)年12月3日、神戸文化ホールで公演された中村勘九郎親子共演のチラシである。
当時、五代目中村勘九郎(十八代中村勘三郎)は、第一部で祝儀ものの歌舞伎舞踏『七福神』を、第二部では、長男の当時二代目中村勘太郎(六代中村勘九郎)11歳と、次男の二代目中村七之助9歳が、『宝船』を演じ、五代目中村勘九郎は『まかしょ』を演じている。いずれも藤間勘十郎(七世、現:三世藤間勘祖)振り付けによるもの。

江戸の世話狂言から上方狂言(上方歌舞伎)、時代物(江戸時代から見た時代劇)、新歌舞伎から新作と、どんな役でも圧倒的な芸の力で見る人を引きつけて放さなかった稀代の歌舞伎役者十八代目中村 勘三郎。 (演目については、※3の歌舞伎の演目>演目の分類参照)
性格が明るく、天性の輝きをもっていて登場すれば、その場がぱあっと明るくなる、太陽な様な存在の人であった。
名子役として1955(昭和330)年3歳で五代目勘九郎として『昔噺桃太郎』で初舞台に立った。
尊敬する祖父・六代目菊五郎の芸を継ぐ正統派として、舞踊では『鏡獅子』(★)や『京鹿子娘道成寺』(★)など、世話物では『髪結新三』(※3の『梅雨小袖昔八丈』参照)、『隅田川続俤−法界坊』(★)など、時代物では『義経千本桜』『仮名手本忠臣蔵』と並ぶ歌舞伎の3大名作『菅原伝授手習鑑』の梅王丸や松王丸など、歌舞伎を代表する役々で見事な芸を見せている。
chi-十月大歌舞伎

上掲の画象は、京都・南座の新装開場記念と銘打った「十月大歌舞伎」(1992[平成4]年10月2日初日〜26日千穐楽)のチラシである。
昼の部は、一、『平家女護島- 俊寛』と、三の『ら く だ』(★)に出演。二、『京鹿子娘道成寺』は中村富十郎が演じている。夜の部の通し狂言『青砥稿花紅彩画-白浪五人男』に出演している。
画像は、夜の部の江戸市村座で初演された世話物・通し狂言『青砥稿花紅彩画-白浪五人男』の弁天小僧菊之助を演じる勘九郎。
白浪物」は盗賊が活躍する歌舞伎狂言を総称する名前である。二幕目第一場(雪の下浜松屋の場)での女装の美男子・弁天小僧菊之助の名乗り(男であることを明かして彫り物を見せつける)の名場面である。
伝統的な歌舞伎を演じる一方で、梨園の壁を越え、演出家の串田和美と組みコクーン歌舞伎を立ち上げて、俳優の笹野高史を抜擢(第1回演目:『東海道四谷怪談』)。『夏祭浪花鑑』(第2弾1996年)など斬新な舞台で若者を歌舞伎に引き込んだ。
新作にも意欲的で、劇作家野田秀樹と組んだ『野田版 研辰の討たれ』(★第1作。木村錦花原作の歌舞伎狂言『研辰の討たれ』を野田秀樹が新しい視点で書き直し演出した舞台)など一連の作品(『野田版 鼠小僧』(★)や『野田版 愛陀姫』[オペラ「アイーダ」を野田秀樹氏が歌舞伎に書き換えた作品]が知られている)にも出演。これら一連の新作歌舞伎は古典に現代の息吹きを吹き込む新ジャンルへと発展した。
これら作品は、宮藤官九郎(「大江戸りびんぐでっど」★)や三谷幸喜(『決闘! 高田馬場』)等人気劇作家にも古典の筆を執らせる力強い呼び水ともなり、映画監督の山田洋次に『人情噺文七元結』(★三遊亭円朝の落語『文七元結』が原作の歌舞伎の台本)の補綴・演出を手がけてもらうなど、数々の野心的な試みにも意欲的に取り組んできた。
なお今まで書いてきた中で『野田版 研辰の討たれ』等作品の備考()に★印のあるものは、松竹株式会社が制作するシネマ歌舞伎でも公開されている。
シネマ歌舞伎は、歌舞伎の舞台公演を高性能カメラで撮影しスクリーンで上映する手法であり、2005(平成17)年1月、最初の作品である『野田版 鼠小僧』(2003年8月歌舞伎座にて上演)が東京・東劇で公開され、それに続く勘三郎の第2弾(映画全体では第4弾)として公開されたもの。この作品も『野田版 鼠小僧』同様、勘三郎襲名披露の時に演じたもので、勘三郎にとっては記念すべき特別な作品と言えるだろう。
以下参考の※4:「シネマ歌舞伎| 松竹」で作品の粗筋説明と映画予告編を見ることができる。『野田版 研辰の討たれ』等こんな歌舞伎があるのかと驚くほど面白い。以降の物でも★印のあるものは見ることが出来るので、ちょっと覗いてみるとよいだろう。
chi-野田版 鼠小僧
因みに、上掲の画象は、シネマ歌舞伎第一弾・中村官九郎、十八代目中村勘三郎襲名記念『野田版 鼠小僧』(平成17年9月3日~16日、梅田ブルク7で上映のもの)である。
勘三郎は江戸の中村座が栄えた浅草に歌舞伎小屋を作るのが夢であった。実現しなかったが、2000(平成12)年11月に江戸時代の芝居小屋を模した仮設劇場を設営して「平成中村座」と名付け歌舞伎『隅田川続俤 法界坊』を上演したのを皮切りに、会場はその時によって異なるものの、ほぼ毎年「平成中村座」を冠した公演を国内外をめぐり行い、大阪で初公演は2002(平成14)年11月、扇町公園内に特設した芝居小屋で、『隅田川続俤 法界坊』 『夏祭浪花鑑』が上演された。
また、2004(平成14)年ニューヨークでは『夏祭浪花鑑』を上演、喝采を浴びた。
平成中村座は、2006(平成18)年の名古屋平成中村座公演以降は、既存の施設を利用しての公演も行われている。
平成中村座公演の特色の一つは、江戸時代の芝居小屋である中村座の雰囲気を模した劇場空間である。
その特徴として、先にも述べた江戸時代に中村座で使用されていた「(左から)白・柿色・黒」の定式幕が使われることや、劇場の内外に中村屋の紋である「角切銀杏」が描かれることなどが挙げられる。
 2011年秋からの平成中村座浅草公演は2012(平成24)年5月まで7か月も続いた。初参加の若い俳優が舞台をにぎわせ、長男勘九郎の襲名披露もした2012(平成24)年3月の中村座の日々はある意味夢の結実だったのかもしれない(※5:「歌舞伎美人」の平成中村座 三月大歌舞伎 | 平成中村座参照)。
1999年のNHK大河ドラマ『元禄繚乱』で主役の大石内蔵助役を演じ、同年紅白歌合戦で白組司会を務めるなどお茶の間や映画などでも親しまれた。
2004(平成16) 年12月、歌舞伎座上演の渡辺えり子脚本・演出による『苦労納御礼・今昔桃太郎』(くろうの かいあり かんしゃ かんしゃ・いまはむかし ももたろう)の桃太郎で五代目勘九郎としての舞台納めをした。勘九郎4歳での初舞台作品(『昔噺桃太郎』)を洒落のめした舞踊劇(内容は※6を参照されるとよい)。勘九郎が初舞台から手掛けてきた舞踊の数々をダイジェスト版で踊り抜く。「藤娘」から始まり、「連獅子」の仔獅子に終わる。
2005年(平成17年)3月3日、同じく歌舞伎座『鬼一法眼三略巻』4段目「一條大蔵譚」(※7参照)の一條大蔵卿、『近江源氏先陣館』「盛綱陣屋」(※8参照)の佐々木盛綱ほかで十八代目中村勘三郎を襲名。以後5月まで3ヵ月間にわたる襲名興行は十二代目市川團十郎以来の事。
前年の記者会見では、「大好きな父に恥ずかしくない勘三郎になりたい。勘九郎の45年間の方が恐らく役者人生としては長い。年数でなく、中身の濃い勘三郎時代にしたい」と語っていたという(2012年12月6日朝日新聞より)。
2010(平成22)年暮れから体調を崩し2011(平成23)年過労の蓄積を理由に2月に出演予定だった舞台を休演。特発性難聴であったが、同病から復帰して、同年11月から2012(平成24)年5月までロングランで浅草の平成中村座公演に出演。3月の、長男・勘太郎の「6代目中村勘九郎襲名披露大歌舞伎」の出番が終わった後、隅田川の屋形船で臨んだ取材では「俺には芝居しかないからね、戻れて本当にうれしいよ、還暦にはこの浅草で中村座で助六をやりてえなあ」と語っていたというが、最後の5月公演出演直後の6月に食道がんを公表、摘出手術を受けた。手術には成功したものの新たに肺炎を発症闘病を続けていたが、12月5日に死去した。
この日は、京都・南座で長男、勘九郎は襲名披露の真っ最中でであった。また、2013(平成25)4月、東京に新装開場した新しい歌舞伎座の舞台に立つことなく逝ってしまった。
伝統的な歌舞伎を演じる一方で、梨園の壁を越え新しい試みに挑戦し、革新的な舞台を創造しつづけてきた勘三郎が、「伝統」という言葉にこだわり、それを重んじていた理由は、本来の歌舞伎の原点ともいえる破天荒さ、そして懐の深い江戸歌舞伎を現代に生きる歌舞伎としてよみがえらせることであったようだ。
志半ばで突然降りた人生の幕。どれほど心残りであり、残念に思っていただったろうか。その早すぎる死は、あまりにも惜しいとしか言いようがないが、その理想の芝居を生涯夢見た勘三郎魂は、二人の息子又、その他の梨園の人達に受け継がれてゆくことだろう。

ここで掲示のチラシは全て、マイコレクションからのものあるが、冒頭の画象は、映画チラシ平山秀幸監督『やじきた道中 てれすこ』(2007[平成1999]年公開)。喜多さん役の柄本明とコンビを組んで弥次さん役で出演する。中央が弥次さん役の勘三郎。

参考:

※1:梨園家系図- 近現代・系図ワールド
 
※2:勘九郎、七之助「十八世 中村勘三郎 一周忌メモリアルイベントで舞踊を; ...

我楽多談義:大石内蔵助の「掟の盃」

先日12月2日このブログで横綱日馬富が暴行事件がもとで横綱引退問題に発展したことに関連して「宴席の戒め・・」のタイトルで書いたので、これからの12月はクリスマス忘年会など酒席の多いシーズンでもあり、私のコレクションの酒器関連で大石内蔵助の「掟の盃」についてお話をしよう。
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写楽画:3代目
・沢村宗十郎の
大岸蔵人
(大星由良之助)

私の
酒器類収集品の中に、人形浄瑠璃・歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』で有名になった播磨国赤穂藩の筆頭家老・大石良雄(通称内蔵助)が自ら作って愛用したと言われている木盃(「遊春盃」=掟の盃」とも呼ばれている)がある。この盃には「酒徒の心得るべき五」が記されており、製作者は、赤穂義士を祀る大石神社である。
私が愛読していた『週間朝日百科・日本の歴史』に、赤穂大石神社・宝物殿に展示されている「遊春盃」(「掟の盃」)が写真入りで掲載されており、同じようなものが他にもあるらしいと注釈してあった。
そこで、私が持っている木杯と雑誌の物を比べてみると、雑誌のものには五戒を記した
制札を見上げてい る人物像が描かれているが、私のものには描かれていない。又、五戒の文言も多少異なる。この理由が判らず、大石神社に教えを乞うたが、大石神社名誉宮司から、ご返事があり、詳しくは、後日、ご丁寧に、私の質問への回答資料を揃えて家に郵送してくださった。判り易い資料を頂いたので、その資料を基に、この「遊春盃」(「掟の盃」)のことを書いてみよう。
去る昭和39年(1964年)、NHK大河ドラマ『赤穂浪士』を放映(※1参照)したことで、赤穂を訪れる観光客・大石神社への参拝者が激増したが、当時他の神社と同様の神札(おふだ)や守礼(おまもり)、おみくじ絵葉書の他には赤穂義士に因む特別の授与品が皆無であった大石神社は、何か大石神社独特の義士に因む授与品をと考え、その第一が10㎝足らずの木彫りの討ち入り姿の内蔵助像と主税像であり、その他に「遊春盃」(「掟の盃」)と呼ばれている木杯の模造品を製作したらしい。
私が持っている盃がその一つだそうである。
この「遊春盃」の由来は、
元禄16年2月4日、大石良雄以下17名がお預け先の熊本藩細川越中守(細川 綱利)の下屋敷で切腹を命じられた時、大石良雄の首を刎ね介錯に当たった同家の徒歩頭(かちがしら。徒士頭,徒頭とも書く)安場一平の子孫の安場元男爵(安場 保和参照)家に、その時の介錯刀と共に伝えられた木杯であって、安場氏の許しを得て模造品を製作し、神社関係者に呈上すると共に一部社頭で希望者に頒布したとのことである。
  その後、昭和42年(1909年)の暮れ、津軽大石家所蔵の内蔵助を始め大石家或いは義士の遺墨・遺品など百余点が当主大石りん氏から大石神社へ譲渡され、その遺品中に、同じ、「掟の盃」(「遊春盃」)が発見された(現在大石神社、義士資料館に展示のもの)。共に酒をたしなむ者の心得るべき五戒が記されているが、両者の大きな違いは、図柄に大石良雄の自画像があるかないかと、制札の五戒の文言も多少違い、その順序も違っていること。安場家の木杯は秘蔵というだけで安場家が所有した由来は不明、大石家の木杯は箱書に「大石良雄像木盃」とあり、「宝永ニ年(大石良雄切腹後三年目)江戸明國院」とあり、そこから、津軽大石家が譲りうけたかと思われ、津軽大石家所有の方が史料的に確実と思われるので、昭和48年以降は、津軽大石家所有の木盃を模造のこととしたが、現在は、特別な関係以外頒布はしていないそうである。だから、私が持っているものの方が希少性はあるとのことであった。私が持っている木杯につけていた「掟の盃(遊春盃)の由来書には以下の様に記されている。
 赤穂浪士の討ち入りなどで、元禄14年7月赤穂を退去した大石内蔵助は京都
山科に居を構え、吉良上杉などの間者(密かに行動する者。スパイ。 「間諜」、「間使」、「間人」などとも )をあざむき、油断させるため、夜な夜な伏見撞木(しゅもく)町、祇園島原などの遊離(遊郭)に足繁く通った。
特に、
撞木町の笹屋では浮橋太夫、夕霧太夫などを相手に「浮さま」として名を馳せ、「里げしき」「狐火」などの地唄にその粋人ぶりを発揮した。
又、笹屋の天井に筆を投げ「今日亦夕遊君ニ逢ヒテ空シク光陰を過ス。明日ハ如何。憐れムベシ恐ラクハ君急ニ袖ヲ払ヒテ帰ラム。浮世人ノ久シク逗留スルヲ許サズ。二夜ヲ過ギザルモノナリ」と詩に託したのもこの頃である。特に良雄が自ら文句を考えデザインした朱塗りに
蒔絵の盃が、世に謂う大石の「掟(おきて)の盃、別名「遊春盃」と呼ばれる酒盃である。まことに、古今東西を通じて、呑ん兵衛の心得るべき酒席の掟が定められている・・・として、後に示す五戒が記され、現代にあっても充分心得るべきことと思うのであえて写しを作って、世に送り、主徒の守盃と美酒(うまざけ)を汲んで頂ければ幸いである。
・・・

安場家由来のもの津軽大石家所有のもの
「掟の盃」・「遊春盃」
(模造品私所持のもの)
「掟の盃」・「遊春盃」
(大石神社義士資料館展示)
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五戒の文言五戒の文言
一、喧嘩口論硬く無用
一、盃下(した)に置くべからず
一、したむ(こぼす)べからず
一、おさへる(無理強い)こと無用
   尤(もっと)も相手に寄可(よるべし)
一、すけ(助ける)申間敷事
      (もうすまじきこと)
   但し女はくるしからず
一、喧嘩口論の事
一、下に置くべからず
一、おさえ申間敷事  
      但し相手によるべし
一、したむべからず
一、すけ申間敷事
   但し、女中にくるしからず 


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(A)
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(B)


上の五戒は、呑兵衛の掟として、酒席に在っては、喧嘩口論は以ての外、又、を下に置いたまま折角の上燗(程よい酒の燗。またその酒=燗酒。熱燗と温〔ぬる]燗の 中間程度)を冷たくさましてはならない。又、献酬を重ねて無理強いをしてはならないが、但し、これは相手によって例えばお酒が好きで強い人には遠慮しなくてよい。またぼとぼとと下へこぼしたり他の器へそっとすててしまうこともいけない。そしてひとの分迄飲むような意地汚い(いじきたない)ことも以ての外であるが、女の人で飲めなくて困っているのを助けて、飲んでやるのはよろしいと言うわけである。
私たち呑兵衛にとっては、酒を飲むうえでの常識であるが、この頃は酒の飲方もわからないまま、ただ、アルコールを吸収しているだけといった感じの人が多くなっている。
この五戒は、文言や若干の順序の違いはあるが、書いてあることは同じであり、大石内蔵助が口にしていた言葉などを、誰かが書留ておいたものではないかと思う。図案に関しては、右、津軽大石家所有の物の方が、内蔵助らしい人物も描かれており、絵も綺麗。由緒については、大石家のものは箱書があり、年月なども書かれており、最ももらしいが、私自身は、そもそも、この様な盃はどちらが、本物、偽物といったものではないと思っている。大石良雄がどれ程の粋人かは知らないが、大事な討ち入りを控えている時に、五戒を定めた制札を眺めている自分を盃に描かせてそれを使用するなどと、そこまでは、余裕もないだろうし、多分していないだろうと思う。
討ち入り後、庶民の人気者となった赤穂浪士に関することが、ああだ、こうだと、世間の噂になり、それこそ、何処かの粋人が内蔵助がこんなこと言っていたなどと言うことを聞きつけて描かせたか、描いたものだろう・・・と思う(左(A),(B)は、大石神社より戴いた「掟の盃」・「遊春盃」由来書である(画像はクリックで拡大)。
なお、大石神社名誉宮司から、送付戴いた分に少し書き加えておこう。
当文中の津軽大石家とは、赤穂浪士
四十七士の一人で、赤穂藩浅野氏家臣・大石信澄の次男として誕生した大石 信清(通称源蔵のちに瀬左衛門)は、切腹前に討ち入りの装束など遺品を伯父の大石無人に預けており、この装束は無人の子孫である津軽大石家により代々伝承され、現在は大石神社に納められている・・・と、Wikipediaにあるので、この大石無人の子孫であろう。
この大石無人は、信清が貧乏なので、討ち入りの装束を作ってやったり、また、その他、赤穂浪士たちへの資金援助もしていたらしい。そして、 吉良邸の動向をさぐったり、討ち入り自体にも参加しようとしたが、説得され断念するが、討ち入りの際には無人は子・良穀と共に邸外の見張りについていたともいわれているそうだ。
猶、『忠臣蔵』の討ち入りのときの装束として鋸(のこぎり)の歯のようなギザギザの文様の着物を着ているが、これは、「鋸歯文(きょしもん)」(※2参照)というもので、これは、歌舞伎の舞台から始まったもので、実際には、最低条件として、実用的な火事装束を身に着けていた(※3「忠臣蔵新聞」の第204号討ち入り装束は?参照)。
刃傷事件から四十七年後の寛延元年(1748年)八月、大坂竹本座(貞享1 (1684) 年
竹本義太夫 (筑後掾) が大坂道頓堀に創立)において人形浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』が初演された。
この忠臣蔵物の最高峰に位置するといわれる浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』七段目「祇園一力茶屋の段は、歌舞伎『
大矢数四十七本』(おおやかずしじゅうしちほん)』(延享4年[1747年]6月京・中村粂太郎座初演)の「茶屋場」をもとにしており、大星由良之助に当たる大岸宮内(おおぎしくない)役を演じたのは、初代沢村宗十郎(さわむらそうじゅうろう)であったそうだ。
遊興の事実と深慮は史実の内蔵助から、様々な遊興の趣向[ドラマの工夫]は歌舞伎の大岸宮内[初代沢村宗十郎]から、その虚実によって「七段目」の大星由良助が形作られたといったようだ」(※4
参照)。
この竹本座での成功の跡を受けて,同1748年12月、大坂角の芝居(かってあった
道頓堀「角座」は、江戸時代「角の芝居」と呼ばれていたことによる)の舞台に取り上げられたのをはじめ、翌1749年には江戸三座で競演。爾来、歌舞伎の「独参湯

」(どくじんとう) (起死回生の妙薬) と称され、大入りを呼ぶ人気狂言の一つに数えられ、演技や演出にもさまざまな工夫がこらされてきた(※5も参照)。

京焼徳利(一力)

京焼徳利H:11cm

「仮名手本忠臣蔵」では、大石内蔵助が遊興したのは、

祇園の「一力茶屋」になっているが、実際は伏見の墨染撞木町の萬屋(よろづや:オーナー笹屋藤左衛門)であった。「仮名手本忠臣蔵」の作者は、「万」の字を二文字に分けて「一力」としたようだという・・(※6)。 

一方、祇園情緒のある花見小路の角に祇園の中でも最も由緒のある「お茶屋」のひとつといわれている「一力亭」があり、大石内蔵助が豪遊したとか、近藤勇大久保利通西郷隆盛らも通ったといわれている茶屋である。
元々この店の屋号も「万屋」だったが、幕府への遠慮から、仮名手本忠臣蔵では、この店の「万」の字を二つに分けて「一力」という屋号に変えたといっているところもある(※7参照)。ここらも何が、どこまでが本当なのか・・・?私には、正確なことはよくわからないが、ここに掲載している京焼の小さな徳利(H:11cm)は、私の酒器コレクションの中でも私の好きな徳利の一つである。徳利には赤穂の討ち入りの時の大石の紋(右回り双ツ)と「千代梅と裳」の題名の歌が書かれており、どうも大石ゆかりの一力茶屋あたりで使われていたものではないかと思っていたのだが、これは、どうも、この一力亭で使用していたものらしい。
参考※7:「祇園一力亭」の中に、一力亭が客用に出しているマッチ箱の裏面に書かれている歌「もののふのおもかげ残る一力の宿」とここに掲載の京焼徳利に書かれている歌が同じだからである徳利裏面の画像、ここをクリックして見てください。
私は一力亭に行ったことがないが、おそらこの徳利はこのお茶屋さんで使用していたものに間違いないと思われる。
ま!、兎に角、私にとっては、こんな一つの盃で、江戸時代にまで、タイムスリップ

し、色々と想像の世界で遊べることが楽しく、それが、一番の酒の肴なのである。
実在の大石自身は酒も(みたしな)み、結構粋人だったのだろう、京都山科での遊蕩の様子などは参考※8:「大石内蔵助:気ままに江戸♪散歩・味・読書の記録」の大石内蔵助の遊蕩②(江戸検お題「本当の忠臣蔵」44、同45を参照されるとよい。その中で、大石が作ったとされる地唄「里げしき」」「狐火」は45の方に掲載されている。
冒頭に掲載の画は、初代ではないが、浮世絵師写楽の描いた3代目・沢村宗十郎の大岸蔵人(大星由良之助)である。この絵は、寛政6年(1794年)5月都座上演の『花菖蒲文禄曽我』(はなあやめぶんろくそが)に取材した作品だとか・・・(※9参照)。

参考:

※1:
大河ドラマ『赤穂浪士』 | なつかしの番組 大河ドラマ編 ... - NHKオンライン

※2:文様の種類と解説 / 装飾古墳

※3:忠臣蔵新聞

※4:文楽編・仮名手本忠臣蔵|文化デジタルライブラリー

※5:仮名手本忠臣蔵

※6:橦木町遊郭跡 (橦木町廓之碑) クチコミガイド【フォートラベル】

※7:祇園一力亭

※8:大石内蔵助:気ままに江戸♪散歩・味・読書の記録

※9:
三代目沢村宗十郎の大岸蔵人 - e国宝

※その他:

消防雑学事典 :火事装束の今昔

津軽に伝わる「忠臣蔵」 : 青森 : ホッとニュース - 47NEWS(キャッシュ)


赤穂浪士の討入りの時に大石内蔵助が頭に被っているものに書かれて .








戯曲『欲望という名の電車』が初演された。

欲望という名の電車
上掲画像、左:映画「欲望という名の電車」DVD.男性は、マーロン・ブランド。右:同映画出演者、左より、キム・ハンター、マーロン・ブランド、ヴィヴィアン・リー、カール・マルデン(Wikipediaより)。


1947(昭和22)年の今日(12月3日)、テネシー・ウィリアムズによる戯曲欲望という名の電車』(A Streetcar Named Desire) が、ニューヨークブロードウェイで初演された。演出は、エリア・カザンマーロン・ブランドジェシカ・タンディカール・マルデンらの自然でリアルな「メソッド演技」によって舞台はセンセーションを巻き起こし、ロングランを記録する大ヒットとなり、ピューリッツアー賞ニューヨーク演劇批評家賞を受賞して、アメリカ演劇界の戦後最大の収穫とまで評されている。
1951(昭和26)年には、エリア・カザン監督で同名映画化された(「
欲望という名の電車 〔映画〕」冒頭画像参照)。出演者は、主役のヴィヴィアン・リーがジェシカ・タンディに代わって出ただけで、他は初演の舞台の顔ぶれである。
この映画の日本初公開は、 1952(昭和27)年ではなかったかな・・・?。

「欲望」という名の電車に乗って、「墓場」という駅で乗り換えて、6つ目の角で降りたら「極楽」という通りがあるいわれたのだけれど・・・。
そんな主人公ブランチ・デュボア(ヴィヴィアン・リー)の台詞で、この物語は始まる。まるで、ブランチがこの物語で辿る人生そのものを示しているような台詞である。
 父親の死と共に身の置きどころを失った農場主の娘ブランチは、
希望を求めて、ニューオリンズで暮らす妹ステラ(キム・ハンター)のもとへ前ぶれもなくやってくる。「極楽」という通りにある、古びたアパート。そこで待っていたのは、ステラの夫スタンリー(マーロン・ブライド)の粗野で暴力的な振る舞いだった。
ベルリーヴという南部の町の 傾きかけた名家の大きなお屋敷で育ったというブランチは、妹の貧しく
猥雑な生活に驚くが、スタンレーにとってもブランチのお上品ぶった気取った態度と、この街には不似合いな高価な衣装は目障りでたまらない。二人 は出会った瞬間から反発しあい、緊張は高まっていく。
ブランチは、スタンレーの友人のミッチ(カール・・マルデン)の愛に最後の望みをかけるのだったが、そのミッチも彼女の真実を知り、露骨に肉体を求めてくる。そして、最後には、義弟の逞しい“男”に屈してしまう・・・。

『欲望という名の電車』の舞台はニューオーリンズフレンチクォーター界隈である。南部の旧家のお嬢様だったブランチが落ちぶれていく様を、何とも悲しく描いた名作である(※1参照)。


映画は 舞台版以上の成功を収め、アカデミー賞では作品賞を含む11部門でのノミネートを果たし、4部門(ヴィヴィアン・リーが主演女優賞、カール・マルデンが助演男優賞、キム・ハンターが助演女優賞リチャード・デイジョージ・ジェームズ・ホプキンス(英語版ここ参照)アカデミー美術賞 (白黒部門))を受賞している。また、ヴェネツィア国際映画祭の審査員特別賞も受賞している。
私の大好きな俳優で主演のマーロン・ブランドは本作で好演し、
主演男優賞ノミネートされるも、この年オスカーを手にしたのは「アフリカの女王」のハンフリー・ボガートであり惜しくも受賞を逃したが、ブランドは3年後の1954年、同じくエリア・カザン監督「波止場」でナイーブな優しさをみせるボクサー崩れの青年を演じ、主演男優でオスカーを受賞する。

『欲望という名の電車』・・・この何とも印象的なタイトルが忘れられないのであるが、当時、ニューオーリンズには、「欲望」と「墓場」という路面電車が本当に走っていたそうである。また、スタンリーとステラが住む「極楽」という地名(ストリート)も存在していたという(※2参照)。
ニューオーリンズ はアメリカ合衆国
フロリダ州南部の、州最大の都市である。長くフランス領ルイジアナの首府であり、独自の文化を伝えている。市内のフレンチ・クォーターと呼ばれる一角は、開拓時代にフランスの大富豪が所有していたことから付いた名称で、その後、色々な人種が集まった土地になったようで、人種間の壁に関しても寛容な土地柄で、今なおフランス植民地時代の雰囲気が残っているようだ。ニューオーリンズを路面電車巡りしたサイトがある。良い街だよ(※参照)。
私などは、ニューオーリンズと言えば、偉大なジャズマン、
ルイ・アームストロングの出た、ジャズの聖地としてぐらいの知識しかなかった。
そのニューオーリンズは2005年、
ハリケーンカトリーナ」によって壊滅的な被害を受けた。TVなどの報道を見ていても、被害にあった多くの人たちには黒人が多かったようである(※4参照)。
これらの人たちは、ハリケーンが襲って来る前に、避難命令が出ているにもかかわらず、避難するための車を持っていないため、避難することもできず、止むを得ず町に居残った貧困者たちだったという。ただ、フレンチ・クオーターは他の地域に比べれば被害は少なく、多くの建物は破壊されず、再開したという。
わが地元
神戸は、日本のジャズ発祥の地であり、毎年、10月には、国内外のジャズプレーヤーが、神戸・北野ライブハウスなどを中心に、一流の演奏を披露する「神戸ジャズストリート 」が開催されているが、神戸が阪神・淡路大震災にあったときには、『ジャズの灯を消さないで』と神戸に多くの支援が寄せられていたことから、当時、ライブハウスなどの会場で、ハリケーン「カトリーナ」で被災したジャズの本場・ニューオーリンズの復興を支援する募金箱が設置されていたのを思い出す。

ハリケーンといえば、今年・2007年の8月25日
テキサス州南東部に上陸した大型ハリケーン「ハービー」(Harvey。カテゴリー4)の豪雨による大洪水に続いて、9月10日、「イルマ」(Irma)がフロリダ州南部に上陸後、ジョージア州サウスカロライナ州にも影響を及ぼし、9月12日時点でのアメリカ国内でイルマの影響により停電した地域は約730万戸、死者40人となっているといわれていたが、今はどのような状況なのだろうか・・・(※5、※6、※7参照)。
トランプ 大統領も、北朝鮮核問題ばかりにかまっていられない状況なのだが、このことは今日のテーマーではないのでこれ以上は省略するが、そもそも地球温暖化などは仮説にすぎないとしてパリ協定からの離脱を発表していたトランプ大統領。本当にそれでいいですかね~。
とにかく、どこの国であろうと、このような災害で一番困るのは生活に困っている人たちなのだよ・・・。

参考:

この一枚の絵
別館:これは何の絵?
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