老いの愉しみ

老いのたわごと・ひとりごと。 私の住んでいる街神戸のことや趣味酒器類・絵葉書、貯金箱その他のことをいろいろと・・・  

暑中見舞いの日


暑中お見舞い申し上げます

6月15日は、「暑中見舞いの日」
1950(昭和25)年のこの日、
郵政省(現・JP日本郵便)が「暑中見舞用郵便葉書」を、初めて発売したことから、記念日として制定されていた。

以後、毎年6月から7月に発売されている。
1986(昭和61)年からは、くじ付きに、愛称も『かもめ~る』(正式名称「夏のおたより郵便葉書」)となり、最近は、パソコンで絵入り葉書作りをする人も増えてきたことに対応し、1999(平成11)年から、インクジェット紙のものも発売されるようになり、現在に至っている。

暑中見舞い」とは、旧暦で6月下旬から7月15日までの「土用」に由来する期間中を「暑中」といい、「暑中」とは、(実態はともかくとしての上では)1年で最も暑さが厳しいとされる時期のこと。
二十四節気小暑大暑の時期を指す場合や、土用を指す場合がある。(夏の土用は、小暑の終盤~大暑の時期にあたる)。
この時期(
二十四節気の小暑から立秋前日の約1か月)に、親戚や知人へ安否を尋ねる手紙を書いたり、家へ挨拶に伺う行事であるが、旧暦と新暦では約一ヶ月のずれがある。
暦の上では
土用の約18日間を暑中としているが、実際には土用が明ける立秋以降も厳しい暑さが続き、これを残暑(ざんしょ)という。残暑は年によっては9月中旬ごろまで続くこともあり、むしろ暑中より残暑の期間のほうが長い。
因みに新暦で、2018年の今年の場合は、7月20日が土用の入り、8月8日が土用明けとなるので、この間が暑中見舞やはお
中元のシーズンでもある。
まだ、入梅したばかりの時期に暑中見舞いの話は早すぎるが遅いよりは良いだろう。

「兎も片耳垂るる大暑かな」  
芥川龍之介(あくたがわ りゅうのすけ)
「念力のゆるめば死ぬる大暑かな」  
村上鬼城(むらかみ きじょう)
と俳句にもあるように、この期間は二十四節気中の「大暑」(六月中通常
旧暦6月内)ともほぼ重なる酷暑の時期にあたり、江戸時代には夏負けをふせぐ食べ物をみやげに持参した。
夏バテ防止には、「
土用の丑の日」にうなぎのかば焼きを食べる習慣があるが、その習慣が起こったのも江戸時代(※1参照)。本草学者で滑稽本作家の平賀源内(1726年~1779年)が、あまり、流行らない鰻屋を繁盛させてやるぺく、その店の入口に、「本日土用の丑の日」と大書したところ、大変に人の注意をひいて客が集まったという話が有名。
丑の日はうなぎ屋のかき入れどきで、その多忙さを示す川柳として「ウナギのかば焼きと黒ゴマに黒豆」と言うのがあるらしいが、植物性の黒い食べ物にはちゃんとした科学的な根拠があるそうだ。(※2参照)
又、土用の丑の日には「う」の字がつく食品を食べると暑気あたりしないという伝承があり、うなぎのほか、瓜、うどん、梅干し、牛肉などを食べたりもする。丑の日に水に入る風習もあって、「
うし湯」につかる地方もあるらしい。
京都の
下賀茂神社では御手洗祭(みたらしまつり)が行なわれ、境内の糺の池(※3及び三柱鳥居-Wikipedia 参照)に足をつけると脚気(かっけ)にならないといわれている。
日本では
正月から始まる6ヶ月を「上半期」、盆から始まる6ヶ月を「下半期」と一年を二期に分け、その節目には、「目上の人や世話になった人達へ贈り物を持参して挨拶周りをする」という習慣があった。そして、夏のの里帰りの際にはご先祖様へお供えものを持参するという風習もあり、この盆の礼として贈り物をする風習が親元や仲人、恩師などを訪問し、贈り物をする風習にまで広がったともいわれているが、明治以降の郵便制度の発達により、この風習が簡素化しはがきによる暑中見舞いのやり取りとして大正時代に習慣化したようだ。 あまり早すぎても受け取られた方も違和感を持つので先に述べた適当な時期に出すのが常識。土用以降に届く場合は「残暑見舞い」になる。ただ、贈り物を送る風習は、今でも、お中元(正月前の歳暮)などにみられるが・・・。

ところで、『
暑中お見舞い申し上げます』というと、私の頭の中には先ず、キャンディーズの歌がでてくる。

暑中お見舞い申し上げます
まぶたにくちづけ 受けてるみたいな
夏の日の太陽は まぶしくて
きらきら渚を 
飛べそうです
今年の夏は アアア 胸まで熱い
不思議な 不思議な夏です
暑中お見舞い申し上げます

1977(昭和52)年の6月21日にリリースされたシングル曲。郵政省の「暑中見舞いはがき」の
CMソングにも使われた。人気絶頂だったキャンディーズの代表的なこの曲(作詞:喜多條忠、作曲:佐瀬寿一 )を聴くと、あ~夏だな~と感じる。

キャンディーズ 暑中お見舞い申し上げます 歌詞&動画視聴 - 歌ネット

 人気最高潮に達していた永遠不滅のアイドル伊藤蘭藤村美樹田中好子の3人が、この年(1977年)7月17日、日比谷野外音楽堂でのコンサート中に「普通の女の子に戻りたい」と発言、突然の解散宣言をし、ファンの間に衝撃を走らせた。そして、ラストとなるシングル「微笑みがえし」のリリースを最後に、翌1978年「本当に私たちは幸せでした」の言葉を残して解散した。この当時、キャンディーズは、ピンク・レディーに並ぶ人気がでてきていた。そして、それまでのかわいらしいキャンディーズが「やさしい悪魔」という曲でミニルックで登場し、次の「暑中お見舞い申し上げます」ではセパレーツのミニへと、お色気面でもピンク・レディーへの対抗が見られるようになった。そのため、キャンディーズの解散の影にはこのようなことがあったからではないかとも噂されているそうだ。
「暑中見舞い」と言えば、キャンディーズの 「暑中お見舞い申し上げます」 より前の
吉田拓郎の 「暑中見舞い」 (1973年リリース)なども有名。

こんなに遠くの海に来ています
こんなに遠くの海に来ています
彼女は鼻の頭まで皮がむけて
おまけに化粧もしてないけど
とってもよく笑うんです
暑中お見舞い申し上げます
暑中お見舞い申し上げます

でも、私の大好きな曲は、同じく吉田拓郎の曲 「我が良き友よ」 である。
下駄を鳴らして 奴(ヤツ)が来る 腰に手ぬぐい ぶら下げて ・・・・
・・で始まる曲であるが、1975年、
かまやつひろしが歌って大ヒットした。
この曲6番まであるが、この曲の4番は、

家庭教師の ガラじゃない
金のためだと 言いながら
子供相手に 人の道
人生などを 説く男
ああ 夢よ 良き友よ
便りしたため 探してみたけど
暑中見舞いが 返ってきたのは
秋だった

・・・とある。”暑中見舞いが返ってきたのは秋だった”のだから、良き友に出した暑中見舞いのはがきが、転居先不明かなにかの都合で秋に戻ってきたというのだろうが、ちょっと、帰ってくるのが遅いね~。それとも、「暑中見舞い」と言っているが、「残暑見舞い」のハガキだったのかもしれない。
ま、そんな、時期的なズレのことぐらいで、とやかく言っておらずに、今一度、この懐かしい名曲、聴いてみよう。本当に良い曲だものね~。
 
吉田拓郎 我が良き友よ 歌詞&動画視聴 - 歌ネット


(画像は、「暑中お見舞い申し上げます」1977年人気絶頂だったキャンディーズの代表的なシングル)

参考:

 ※1:落語「鰻屋」の舞台を歩く/第111話「鰻屋」(素人鰻)

※2:黒い食品の力 [コラム集] - Dole Japan, Inc.


※3;元糺の池の秘密 | 「秦氏」の謎ブログ

※その他;土用と間日・丑の日計算

盃 洗

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①出石焼・盃洗

①出石焼・盃洗・見込み

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②まひこ(舞子)焼・盃洗

②まひこ(舞子)焼・盃洗・見込み

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③九谷焼・盃洗

③九谷焼・盃洗・見込み


今日は久しぶりに、数は3点しかないが、私の酒器のコレクションの中から杯洗の案内である。
杯洗が使われるようになったのは、以外と新しく、江戸j時代の天保期(1830年代)から明治・大正時代にかけての、町人文化が生み出した飲酒の風習(お酒をを回して飲むという)に使われていた器で、酒宴献杯(献盃)などで、人に酒をすすめる時には、水を張った盃洗の中で盃を洗う(すすぐ)のが作法であった(※1参照)。  
酒の席で使われていたものだけに、色々形や絵付けなど、デザイン的にも面白いものが多く見られる。その為、最近は盃洗に人気があり、これをオードブル皿に使うなど色々な場に転用されている。 ①②は私の地元兵庫県焼物出石焼とまひこ焼)で、高価なものではないが数は少なく珍しいものである。焼物(※2参照)のまひこ(舞子)焼については、参考※3:「兵庫のやきもの-ひじり屋」の舞子焼きの考察を参照。
③は、石川県
九谷焼であるが、「絵付けなくして九谷無し」と言われるほど、絵付けで人気を博す磁器である。
各画像の右はその見込(盃洗の中)である。

参考:

※1:
酒盃と盃洗 カワラケから磁器の盃へ

※2:日本の焼き物の一覧

※3:兵庫のやきもの-ひじり屋


サイクリングの日

フランス サイクリング
①1890年代につくられたグラジエーター社の自転車の宣伝ポスター(フランス)。水彩画家・ポスター画かとして活躍したルネ・ルペール作。フランスではこの頃、女性もサイクリングを楽しんでいたという。画像・文は、「アサヒクロニクル週刊20世紀1901年号」37pより。

私がいつも参考にしている「今日は何の日~毎日が記念日~」(※1)に、5月22日の記念日として「サイクリングの日」があった。

日本サイクリング協会(JAC=Japan Cycling Association)が2009(平成21)年4月に制定。1964(昭和39)年のこの日、同協会が文部大臣から設立認可を受けたそうだ。
梅雨の前の今の晴れた良い日は、
サイクリングにも適した良い時期なので、ちょっと「サイクリングの日」制定趣旨などを見てみようと、同協会HP=(JAC Official Site。※2)の"事業概要:沿革”を覗くと以下のように書いてあった。


”1870年代後半になって、イギリスに世界で最初のサイクリング同好者の組織が誕生し、世界的なサイクリング普及のきっかけとなった。
日本でも1954(昭和29)年ごろからサイクリングが野外での健康的な
スポーツとして認識され始め、全国各地に同好者のクラブが設立された。

1961(昭和36)年、「スポーツ振興法」(※3参照。現:スポーツ基本法)の制定によりサイクリング(Cycling)は国民の心身の健全化に有効なスポーツとして国が奨励することが明文化されたことを契機に、 サイクリングの振興を目的とした公益法人の設立を進め、1964年(昭和39)年5月22日に、文部大臣からサイクリングの普及推進を目的とする公益事業を行う財団法人として認可され、 「財団法人日本サイクリング協会」の設立に至った。 
その後、1975(昭和50)年6月、サイクリングは、自転車等関連機械工業の振興にも寄与するものとして、
経済産業省からも認可され、文部科学省 との共管の団体となっていたが、2013(平成25)年4月1日に内閣総理大臣の認定を受け、内閣府所轄の公益財団法人(一般財団法人のうち、公益法人認定法に基づいて、行政庁から公益性を認定された財団法人。)として活動している。・・と。
そして”目的”には、
”この法人は、生涯スポーツとしてのサイクリングの普及と振興、サイクリング環境の整備及びサイクリングに関する総合的な事業を行い、その健全なる発達に努めるとともに、サイクリングに関連する調査研究により理論及び技術の向上を図り、我が国における質の高い余暇活動、生涯学習の場としてのサイクリングの提唱と自転車を取り巻く社会環境の整備推進にあたる。もって円滑な交通社会の実現に寄与するとともに、国民の健康増進と生活環境の向上に資することを目的とする。”・・・・とある。

確かに、今日、地球規模で問題となっている
CO2等の大量排出による温暖化防止及び国民の健康増進のためのメタボリック症候群等の予防に関心が高まっている。 自転車はCO2等温暖化ガスや騒音を出さず、自然環境にもやさしい乗物であり、また、健康の維持、増進に効果があることから、年齢、性別を問わず広く利用されている。
1961(昭和36)年に制定された「スポーツ振興法」とは
東京オリンピック開催(開催日:1964年10月10日)を控え、その根拠法令として制定された日本におけるスポーツ振興の基本的な法令であるが、同法で定められた日本におけるスポーツ振興の基本的な計画である「スポーツ振興基本計画」は、財源などの問題からスポーツ振興法制定から40年も策定が先送りにされ、その間文部省(現:文部科学省)の保健体育審議会の答申(※5参照)を持って計画を代替してきたが、2001(平成13)年からスポーツ振興(正式名称はスポーツ振興投票。6:「 JAPAN SPORT COUNCIL」のスポーツ振興参照)が実施され、新たな財源が見込まれることから2000(平成12)年9月に策定された 。
スポーツ振興投票の実施等に関する法律(1998年5月10日法律第63号)を根拠に行なわれるようになったスポーツ振興(スポーツ振興投票)とは、体裁の良い呼び方ではあるが、スポーツに親しめる環境整備や、国際競技力向上のための環境整備など、新たなスポーツ振興政策を実施するための財源確保の手段として導入されたものであるが、Jリーグの指定された試合の結果あるいは各チームの得点数を予想して投票し、的中すると払戻金を受けることのできる一般的には“サッカーくじ”と呼ばれ、toto(トト、トトカルチョから)の愛称がついている公営ギャンブルである(スポーツ振興くじに関する法律)。従って、19歳未満の購入ならびに譲受は禁止されており、また、プロサッカーリーグに関わる選手、監督、役員も禁止となっている。
国にはスポーツ振興に出す財源が無いからと、このような公営ギャンブルからの収益金を当てにしないといけないというのはね~。
大義名分があれば良いというのであれば、日本ではサッカーよりずっと以前から人気のあったプロ野球の試合などにもtotoを導入すれば世間を騒がせていた
大相撲野球賭博などもなくなり、賭博の好きなお相撲さんにも喜ばれ、もっと財源が増えるし、スポーツ振興になるのじゃ~ないかとも思うのだが・・・。

緑の風も さわやかに
  握るハンドル 心も軽く
  サイクリング サイクリング
   ヤッホー ヤホー
  青い峠も 花咲く丘も
  ちょいとペダルで 一越えすれば
  旅のツバメも 付いて来る 付いて来る
    ヤッホー ヤッホ ヤッホ ヤホー

古賀 政男作曲「青春サイクリング」(作詞:田中 喜久子)。1957(昭和32) 年、小坂一也が歌った曲である。

青い山脈DVD
②「青い山脈 」
映画DVD

自転車というと、私などの年代のものは映画『青い山脈』②のラストシーンを思い出すが、歌の方ではこの曲を思い出す。

青い山脈 (1949) - YouTube

1954(昭和29)年、
コロムビアレコードから「ワゴン・マスター」のボーカルとしてデビューし、カントリーミュージック(当時はウエスタン・ミュージックとも言っていた)のアイドル的な存在として人気を博していた小坂は、エルヴィス・プレスリーと同い歳であり、1956(昭和31)年、エルヴィスが21歳の時、「ハートブレイク・ホテル」で、全米デビューした年に、いち早く、この曲をカバーし、当時としては異例のNHKの紅白でロックンロールを歌い、「元祖和製プレスリー」の異名もとっていた。この小坂のオリジナル曲として大ヒットしたのが、明るく軽やかなこの曲「青春サイクリング」であった(B面:藤田進、湯川きよ美の「愛のそよ風」)。

小坂一也 青春サイクリング 歌詞&動画視聴 - 歌ネット

この曲は、古賀が小坂からウエスタンの枠をはずして、新しいイメージを打ち出そうと作られた作品だと言われているが、「ヤッホー ヤッホ ヤッホ ヤホー」と、伸ばす音にポルタメントがかかるところや、言葉をメロディに1つ1つ置くように歌う独特な歌い方が印象的である。
サイクリング(Cycling)とは自転車に乗ること、自転車の利用全般をいう言葉であるが、英語の「Cycling」ではスポーツ自転車競技(bicycle race)をも意味している。
自転車の歴史的には、ヨーロッパでは、二輪車よりも、三輪以上の自転車がより早く製作されていたと考えられているが、フランスでミショー型(
画像)と言われる足踏みペダルによる前輪駆動の二輪車が登場したのは1861年のことだそうである。そして、1870年頃、英国のジェームズ・スターレーが、スピードを追求するために前輪を巨大化させたペニー・ファージング型自転車を発売し、これが好評を博した為、多くのメーカーが追随した。
そして、当時盛んに行われ人気のあったレースなどスポーツ用に特化したものが造られたため、通常用としては乗車が困難であり、安定性が悪く、気軽に乗れるようなものではなかったが、このタイプで長距離のクロスカントリーライド(廃道や獣道などを走破する遊び)まで行なわれたことから、スポーツ用としてはかなりの力を秘めていた仕様だったのだろう。

1870年代後半になって、イギリスに世界で最初のサイクリング同好者の組織が誕生し、世界的なサイクリング普及のきっかけとなったという。
このタイプの自転車は、日本では
だるま車などと呼ばれていたが、この時期に日本への輸入も始まっており、1891(明治24)年頃、日本でも国産のダルマ自転車が製造されていたらしいが、このころの自転車は高価な遊び道具として、庶民の間では貸自転車を利用することが流行し、所有できるのは長らく富裕層に限られていた。
日本において自転車をスポーツ競技の一つとして楽しむようになったのが果たして何時頃からかなどは正確には不明のようであるが、新聞紙上に自転車競走という文字がはじめて見られるのは、1881(明治14)年3月14日付けの
東京日々新聞だそうだが、内容からは、いったい何処で開催されているのか不明であり、1898(明治31)年3月5日発行の雑誌『運動界』の記事に、横浜居留地の外人により組織されたジャパン・バイシクル・クラブ(日本自転車倶楽部)と東京双輪倶楽部の人々との合同サイクリングが2月21日に横浜の本牧あたりで開催されたことが報じられており、恐らくこの頃、横浜居留地の外人とのこのような交流の中からレースが徐々に行われるようになり、大変な人気を集めたようだ(以下参考の※7:「日本自転車歴史研究会」の“自転車の歴史探訪”参照)。
これまでの前輪が大きく危険なペニー・ファージング型に対して、車体の中心付近にペダルとクランクを設け、後車輪とチェーンで連結することで動力を伝える現在の形の自転車の原型である「
ローバー安全型自転車(Rover Safety Bicycle)'」がジェームズ・スターレーの甥ジョン・ケンプ・スターレーによって「セーフティ型(安全型)」と名前をつけて販売されたのは、1885(明治18)年のことだそうで、この時期に日本への輸入も始まっている。国産化も早く進み、宮田製銃所(宮田工業の前身)が国産第1号を製作したのは1890年(明治23年)だそうである。
1896(明治29)年頃からアメリカを中心としてセーフティ型自転車が本格的に輸入されるようになってきたが、この後
第一次世界大戦により輸入が途絶えたことをきっかけに、国産化が急激に進み、米1俵(60キログラム)程度の小形荷物の運搬用途や日本人の体格を考慮した日本独特の実用車が現れた。また、高価ではあるが、庶民の手にも入るようになった。そして1935(昭和10)年には、日本でも本格的なスポーツ車が作られ始めたようだが、戦争によりこの流れはいったん途絶えた。
又、この頃の日本の道路は自動車の走行に適してはいないため、実用車として運搬用に自転車が多く使われ、
太平洋戦争(第二次世界大戦)後の混乱期を通じて、自転車は乗って楽しむというより物を運ぶ実用車として、又「リンタク」(自転車タクシー)やリヤカーの牽引車として、大きな役割を果し、実用車は日本の自転車の主流であり続けてきたが、それも需要が一巡すると生産過剰となり、戦後の1953(昭和28)年頃から国内需要の頭打ち現象が現れ、輸出の伸びも停滞してきたために、自転車業界は荷物運搬のための実用車中心から軽快車、スポーツ車への車種転換を模索し始めた。
そして、日本でも1954(昭和29)年に、当時の自転車業界の総合団体であった日本自転車産業協議会が中心となり、全国のサイクリングの推進をはかるための中心機関として、日本サイクリング協会(JAC)が結成され、ベテランのサイクリストたちが集まり、サイクリング指導の手引き、教材用の映画・スライドの作成、府県単位のサイクリング協会の結成促進、機関紙の発行などが行われた。
また、1955(昭和30)年頃から
変速機のついた本格的なサイクリング用のツアー車(長距離ツーリング〔touring〕のための自転車)が市販されるようになり、青少年の大変な人気を呼ぶとともに、自転車が野外での健康的なスポーツとしても認識され始めていた。だから、小坂一也が「青春サイクリング」を歌った頃には爆発的なサイクリングブームが巻き起こっていた。しかし、スポーツタイプの自転車の開発は緒についたばかりで、量産体制には入っていなかったため、価格も高価で、このブームを支えたのはレンタル自転車で、このサイクリングブームは、長続きはしなかったが、従来の黒色一色の自転車から赤・青・黄・白などカラフルなスポーツタイプの自転車は当時の青年たちに自転車に対する印象を大きく変える役割を果たした。
1961(昭和36)年のスポーツ振興法の制定により、自転車旅行・サイクリングは国民の健全なスポーツとして国が奨励するものとなり、1964(昭和39)年には日本サイクリング協会が財団法人として認可。1966(昭和41)年にはスポーツ車の需要急増に伴い、生産が大幅に増加した。
そして、第1回の
体育の日となったこの年の10月10日、元国鉄大阪鉄道局(JR西日本本社ビルのあるところ)が大阪駅〜相生駅間で初のサイクリング専用電車(サイクルトレイン)を運行。その後東京でも同様の列車が運行された。
翌1967(昭和42)年10月10日には、日本で初めての
サイクリング用道路、神奈川県青少年サイクリングコース(金目川サイクリングコース、※8 参照)が開通した。日本では1975(昭和50 )年頃から1980年代前半にかけて最も盛んであったとされている。
1951(昭和26)年、日本自転車産業協議会の事業計画が、自転車道路の必要性に言及するが自転車道の法制化機運が高まるのは本格的な
モータリゼーションを経た1960年代後半のことで、実際に法制化されるたは1970(昭和45 )年である。
1970(昭和45)年に「
自転車道の整備等に関する法律」が成立し、自治体と河川管理者などの協力によってサイクリングロードも建設されるようになり、大規模自転車道整備事業の目玉の一つとして太平洋岸自転車道のような長大な自転車道も構想された。この頃日本の自転車産業ではランドナースポルティーフキャンピング車といった自転車旅行(ツーリング)向きの自転車の生産が盛んで、またブリヂストン・ロードマンに代表される「サイクリング車」が好評を博した。

サイクリング
③10歳の孫と
サイクリング
自転車で日本一周に挑戦する少年を主人公とする漫画『サイクル野郎』が連載されたのもこの時期である。
お年玉付き年賀はがきの2等賞品に「折り畳み式自転車」がついた。2等が当たるのは10万枚に1枚の確立だったそうだが、その商品が当たったのは、当時の
桧垣徳太郎(当時66歳)郵政大臣であったという。左③画像は、「学生時代に乗ったきりとだから」といいつつ10歳の孫とサイクリングをしている桧垣太郎氏(1983年2月20。)画像は、アサヒクロニクル週刊20世紀より。

又、米国の
サブプライムローン問題後の日本の景気低迷からの、節約志向の高まりや投機資金の流入などの影響と見られる原油価格高騰で、ガソリンの小売価格が値上げされた2008(平成20)年以降、自転車の人気が急上昇したことから、通勤などにもマイカーからの乗り換えや、メタボ対策にと自転車や公共交通利用者が急増した。こうした動きは日本だけではなく先進各国で顕在化しており、ペダルの踏み込みに力がかからないなど機能性に優れたスポーツタイプの自転車を通勤に利用している人も多くなっている。
そして近年は
電動アシスト自転車(電動自転車ではない)も普及し便利になったので、私も大いに利用している。
しかし、日本の場合、自転車は
道路交通法上は、原則として車道を通行することとされているが、特に都市部において、自転車道等の自転車用の通行空間がほとんど整備されていないことから、車道を通行することが危険なところが多い。 一方、自転車が歩道を通行する場合には、歩行者との衝突等の危険性も非常に高まっており、自転車への乗車の取り締りは非常に厳しくなっている。利便性もある自転車だが、増えすぎて、町中で利用するには、安全運転に十分配慮せねばならなくなり、乗りにくくなってきた。
そして、省エネや健康上のためにサイクリングにも出かけたいが、残念ながら、なかなか、安全に乗れる自転車道は増えないね~。

 参考:




巖流・佐々木小次郎(剣術家) が 宮本武藏との巖流で決闘で敗死


吉川英治『宮本武蔵』挿絵小次郎a吉川英治『宮本武蔵』挿絵巌流島の決闘
吉川英治の小説「宮本武蔵」の挿画。
画者:石井鶴三。中央公論社単行本より。
左:巌流島で対峙する武蔵と小次郎。
右:巌流島で小次郎が宮本武蔵に打たれ倒れているところの

西暦1612年5月13日(旧暦:慶長17年4月13日)は、燕返しの名手・佐々木小次郎が 二刀流の宮本武藏との決闘で敗死 した日とされている。
旧歴の慶長17年の4月13日は記念日の「決闘の日」(ここ参照)でもあり、この日のことは前に、このブログ「決闘の日」で宮本武蔵を中心に書いた。また、「HKラジオで徳川夢声の『宮本武蔵』の朗読が始まった日」でも、宮本武蔵のことについては、簡単に触れたので、今日は、佐々木小次郎のことを書いてみよう。
2人が戦った場所は、山口県下関市にある無人島。当時は豊前小倉藩領の正式名称は船島であった。舟島で、武蔵と戦った佐々木小次郎が「厳流」を名乗ったことから後に巌流島と呼ばれるようになった島である。

「怯(おく)れたか。策か。いずれにしても卑怯とみたぞ。--約束の刻限は疾(と)く過ぎて、もう一刻の余も経つ。厳流は約を違えず、最前からこれにて待ちかねて居た」「・・・」「一条寺下り松の時(※1の三番勝負一乗寺下り松参照)といい、三十三間堂(※1の二番勝負吉岡兄弟参照)の折といい、常に、故意に約束の刻(とき)をたがえて、敵の虚を突くことは、抑ゝ(そもそも)、汝のよく用いる兵法の手癖だ。--然し、きょうは、その手にのる厳流ではない。末代もの嗤(わら)いのたねとならぬよう、潔(いさぎよ)く終わるものと心支度(こころじたく)して来い。--いざ来いっ、武蔵!」
いい放った言葉の下に、厳流は、(こじり)を背へ高く上げて、小脇に持っていた太刀物干竿をパッと抜き放つと一緒に、左の手に残った刀の鞘を、波間へ投げ捨てた。
・・・8一部略)・・・
「小次郎っ。負けたり!」「なにっ」「今日の試合はすでに勝負があった。汝の負けとみえたぞ」「だまれっ。なにを以って」「勝つ身であれば、なんで鞘を投げ捨てむ。--鞘は、汝の天命を投げ捨てた」「うぬ。たわごとを」「惜しや。小次郎、散るか。はや散るをいそぐかっ」「こ、来いっ」・・・
有名な巌流島決闘の前哨戦である。
武蔵は・・・・巌流の眼の中へ、櫂の先を突っ込むように、正眼に寄って来たのである。その無造作に巌流が、はっと詰足(つめあし)を止めた時、武蔵の姿を見失いかけた。櫂の木剣が、ぶんと上ったのである。六尺ぢかい武蔵の体が、四尺ぐらいに縮(ちぢま)って見えた。足が地を離れると、その姿は、宙のものだった。「-ーあっつ」厳流は、頭上の長剣で、大きく宙を切った。・・・然し、その瞬間に、厳流の頭蓋(ずがい)は、櫂の木剣の下に、小砂利のように砕けていた。・・・。  
足数にして十歩ほど先に小次郎はうつ伏せに(たお)れている。・・・--しかし、苦しげな顔では決して無い。その顔を見れば、小次郎は自己の力を挙げて、善戦したという満足がわかる。・・・武蔵は斬れ落ちている自分の渋染めの鉢巻に眼を落して、肌に粟(あわ)を生じた。「生涯のうちに、二度と、こういう敵と会えるかどうか」それを考えると、卒然と、小次郎に対する愛情と、尊敬を抱いた。同時に敵からうけた、恩おも思った。剣を把(と)っての強さーー単なる闘士としては、小次郎は、自分より高いところにあった勇者に違いなかった。その為に、自分が高い者を目標になし得た事は、恩である。だが、その高い者に対して、自分が勝ち得たものは何だったか。
技か。天佑か。否ーーとは直ぐいえるが、武蔵にもわからなかった・・・・左の手で小次郎の鼻息をそっと触れてみた。かすかな呼吸がまだあった。武蔵はふと眉を開いた。「手当に依っては」と彼の生命に、一縷(る)の光を認めたからである。と同時にかりそめの試合が、この惜しむべき敵を、この世から消し去らずに済んだかと、心もかろく覚えたからであった。
「・・・おさらば」小次郎へも。彼方の床机場の方へも。そこから手をついて、一礼すると武蔵の姿は、一滴の血もついていない櫂の木太刀を掲げたまま、さっと北磯の方へ走り、そこに待っていた小船にの中へ跳びのって・・・消えていった。

吉川英治の小説『宮本武蔵』(中央公論社出版、全六巻)最後の章(魚歌水心)の抜粋である。
物語の最後は以下の言葉で締めくくられている。

「波騒は世の常である。
波にまかせて、泳ぎ上手に、雑魚は歌い雑魚は踊る。
けれど、誰か知ろう、百尺下の水の心を、水のふかさを。」

「巌流島の決闘」は間違いなく武蔵物のハイライトである。しかし、「巌流島の決闘」のことは、試合の模様を記述した文献の間にいろいろ矛盾があり、どちらから試合を申し込んだのか、何故試合をしなければならなかったのかなど、真実はよく分かっておらず、ただ、解っているのは武蔵が勝ったという結果のみである。そして、小次郎の素性や年齢はもちろんのこと、通説になっている武蔵の遅刻についても異説がある。そして、試合に勝った武蔵が何故か、逃げるように船島を去っている。そして、その後30年近くも武蔵の消息は(よう)として知れない。諸国放浪の果て、肥後熊本城の藩主細川忠利の知遇を得てやっと安住の地を与えられた時は既に57歳の時であった。
吉川英治の『宮本武蔵』にも書かれているように、武蔵は、数々の実戦を経験してきた大ベテランであり、身の丈6尺(1,8メートル)もあり、長大な櫂の木刀を片手で振舞わすほどの豪傑で剣の実力もあったのだろうが、一匹狼的な人物である。
小説の中で小次郎も言っているように、京での吉岡一門との勝負などでも見られるような勝つためには当時としては多少卑怯だとされる手を使ってでも勝ち抜きさえすれば、自分の側に栄冠が輝くのだという一匹狼の強さもあった。しかし、一方の小次郎の側は、燕(つばめ)返しの剣法を編み出し、巌流と呼ばれる流派を創始しただけの一介の剣士という立場だけではなく、既に豊前小倉藩(当時は大名細川忠興)に仕え、細川家の剣術指南役を務めていたようだ。従って、この巌流島の試合の時には、そのような小倉における道場の大勢の弟子の期待もあり、その裏に立つ細川藩の重臣層の動きだとか負担になるものがあったのではないかと思われる。
そこには、小説の中の武蔵も感じているように力量的には武蔵以上であったとしても、小次郎と武蔵の間には戦う上においての大きなハンディキャップがあった。しかも、武蔵は小次郎の、「つばめ返し」に使われる刃長三尺三寸(約99.99センチメートル)の野太刀、通称物干し竿より長い130センチもある櫂の木刀を作り、これをふりまわして相手を倒している。
この試合を記した最も古い史料は、武蔵の養子伊織による承応3年(1654年)の『新免武蔵玄信二天居士碑』(『小倉碑文』)であり、『小倉碑文』の次に古い記録は、試合当時に細川家家臣の門司城代であった沼田延元の子孫が寛文12年(1672年)に編集し、近年再発見されたという『沼田家記』(熊本大学付属図書館蔵)があるようだ((※2、※3の資料編>小 倉 碑 文参照)。
多くの資料では吉川英治のこの小説のように巌流島で決闘し、小次郎は敗死したとされているが、『沼田家記』には、以下のようなことが書かれているという。
”宮本武蔵玄信が豊前に来て二刀兵法の師になった。この頃、すでに小次郎という者が岩流兵法の師をしていた。
門人の諍(いさか)いによって武蔵と小次郎が試合をする事になり、双方弟子を連れてこないと定めた。
試合の結果、小次郎が敗れた。
小次郎の弟子は約束を守り一人も来ていなかったが、武蔵の弟子は島に来ていて隠れていた。
その後、勝負に敗れ気絶した後蘇生した小次郎を武蔵の弟子達が皆で打ち殺した。
それを伝え聞いた小次郎の弟子達が島に渡り武蔵に復讐しようとした。武蔵は門司まで遁走、城代の沼田延元を頼った。 
沼田延元は武蔵を門司城に保護、その後鉄砲隊により警護し豊後に住む武蔵の親である無二の所まで無事に送り届けた。”・・・と(Wikipediaー宮本武蔵より)
先に書いた吉川英治の『宮本武蔵』の中でも、武蔵が”左の手で小次郎の鼻息をそっと触れてみたら、かすかな呼吸がまだあった。そして武蔵は「手当に依っては」と彼の生命に、一縷の光を認めた”と記載されているが、『沼田家記』には、試合後気絶していて、息を吹き返した小次郎を武蔵の弟子達が打ち殺したなどと書かれているのであるが、このことについては、折角小次郎を倒した武蔵の面子を潰すことにもなるので、俄には信じ難いが、此の件に関して、”小次郎を殺したいある勢力があったかもしれない”。そして、”その黒幕は決闘の主催者、細川藩主忠興ということになる。おそらくは、藩主とその周辺が極秘に進めた暗殺計画であったのだろう。その裏には、小次郎が佐々木一族であることと関連しているのではないか"とする説もある(※4:「福岡県添田町HP」の以下ノページ参照

佐々木小次郎豊前添田説 その3 | 添田町
このあたりのことは、以下参考に記載の※5:「関西歴史事件簿-産経WEST」なども読まれるとよい。
冒頭に貼付の画像にも見られる巌流島の決闘への立会人は誰であったか。上記でそれは、藩主忠興の密命を帯びて小倉から派遣された重臣であっただろうという。
佐々木 小次郎は宮本 武蔵と違って華麗で美形な剣士として描かれる事が多いが、この小次郎の出自そのものにも諸説あるよう(※6)で、小次郎は、越前国(現福井県)福井市出身という説(熊本藩の豊田景英が編纂した『二天記』)があり、『二天記』では小次郎は、「秘剣つばめ返し」は福井市にある一乗谷で身につけたとされている。中条流 富田勢源、或いは富田勢源門下の鐘捲流の鐘捲自斎の弟子とされている。勢源は小太刀(1尺5 寸、約45センチ)で、3尺(90センチ)余りの太刀を相手にするのだが、師の相手をしているうちに、いつしか長太刀の扱いが得意になり、高弟達をしのぐほどになっていたという。『二天記』には巌流島での決闘時の年齢は18 歳であったと記されているが、このような記述は『二天記』の元になった『武公伝』にはなく、また生前の勢源と出会うには、決闘時に最低でも50歳以上、直弟子であれば相当の老人と考えられ、鐘捲自斎の弟子であったとしてもそれほどの老齢ではないにせよ、宮本武蔵よりは年長であった可能性が高いという。
又、豊前国田川郡副田庄(現福岡県田川郡添田町)に生まれ、副田庄の有力豪族佐々木氏の一族とされる説。これは、北九州の郷土史家たちが上記の『沼田家記』などから推測したという説であり、最近では、どうも豊前国田川郡副田庄説が、真実に近いようだという。それがなぜかと言うと、佐々木一族は豊臣秀吉に土地を没収されたことに反発し、堅城岩石城に依って一揆に参加した前科もある。小次郎が藩内で人望を集めるにしたがって佐々木一族、そして藩内の反主流派の勢力が増してきた。小次郎に罪はなく人望も厚かったいだけれど、彼を除かねば藩政の安定は望めないから・(武蔵との決闘が仕組まれた・・・)のではないかともみられている。7年)、岩石城で武将一揆を起こした史実に着目。小次郎は人望が厚く、人望が厚く、人望が厚く。
このような陰謀説は別にして、武蔵、小次郎両者共、同じ剣の道を歩むものとして試合そのものは尋常に行われたものだろう。そして、もし、小次郎が勝っていたら・・・その後、小次郎にはどんな運命が待っていたのだろうか・・・?
何時の時代でも、歴史書は、全ての真実を語っているものは少ない。その裏をどう読むかは、読が宮本武蔵に打たれ倒れているところの画。挿画者:石井鶴三。中央公論社単行本より)

参考:

※1:宮本武蔵七番勝負

※2:Untitled(Adobe PDF)異説 巌流島

※3:宮本武蔵

※4:福岡県添田町HP


※5:関西歴史事件簿-産経WEST
仕組まれた巌流島(上)武蔵は70歳の小次郎と対戦したのか?…史料から見る「決闘・名場面」疑念の数々
●l仕組まれた巌流島(下)異説だらけ、誰が「小次郎」を殺したのか…示唆に富む「武蔵」の沈黙、陰謀渦巻く巌流島 

※6:剣豪佐々木小次郎の里

※その他;一乗谷朝倉氏遺跡(福井市HP)

リプトンの日

リプトン イエローラベル
日本記念日協会(ここ)の今日・5月10日の記念日に「リプトンの日」があった。記念日の由来には、“世界最大の紅茶ブランド「リプトン」は、1871年5月10日に第1号店をオープン。その生みの親であるリプトン(トーマス・ジョンストン・リプトン)卿の誕生日(1850年5月10日)でもあるこの日を上質な紅茶を楽しんでいただく日にと制定したのは、リプトンブランドを展開するユニリーバ・ジャパン株式会社で、ユニリーバは紅茶の生産から販売までを手がけ、品質の高い紅茶を手軽な価格で提供している紅茶の買付けで世界シェアナンバーワンの企業。 ”・・・であるとあった。
紅茶は、摘み取った茶の葉と芽を乾燥させ、もみ込んで完全発酵させた茶葉であるが、紅茶という名は、それにお湯をさすと赤褐色になるので紅茶と呼び、その一方で我々日本人が昔から用いている日本茶は、出来上がった茶が緑色だったので、緑茶と名づけられている。
日本人にとっての緑茶、中国人にとっての ウーロン茶も、イギリス人など西洋人によって作られた「紅茶(tea=ティー)」も共にその原種は同じツバキ科の常緑樹であるチャ(茶)の木であり、その原種は中国の雲南省からチベットミャンマーにかけての山岳地帯に自生していたとされている。
中国では有史以前から茶の葉を摘んで不老長寿の霊薬として珍重され、初期には薬として高貴な人々が飲用していた。それが、飲み物として一般化したのは6世紀以降のことで、ヨーロッパにお茶がもたらされたのは17世紀のことのようである。
この時代ヨーロッパでは「17世紀の危機」(参考※1も参照)と呼ばれる混乱が生じ各国で飢饉、戦争、内乱が相次いだ。アジアでは西アジアのオスマン帝国、インドのムガル帝国と大帝国が繁栄し、中国ではからへ王朝が交代し、17世紀後半には康熙帝の登場により最盛期を迎えていた。ヨーロッパからは北アメリカへの永久移民が入植した。またイギリスオランダなどが東インド会社を設立するなど、ヨーロッパ諸国はアジア・南米との間で交易を活発にした。この時期、17世紀の危機の混乱を免れたオランダは、アムステルダムを中心にヨーロッパ随一の海上貿易国として栄え,ポルトガルやスペインにかわって海上権を制していた。
ヨーロッパにはじめて、茶を持ち込んだのは東洋貿易を独占していたオランダによって、中国から1610年頃伝えられ、1600年代、ポルトガル、オランダの宮廷にお茶が広まった。やがてイギリスが英蘭戦争で勝利を収め、海の覇権を握ると、1657年に、トマス・ギャラウェイがロンドンの「ギャラウェー・コーヒーハウス」の店頭で茶の販売を始めた。これがイギリスで茶が販売された最初ともいわれている(以下参考の※2:「おいしい紅茶・種類・特徴・歴史」の紅茶の歴史参照)。しかし、以下参考の※3:「日本紅茶協会」の紅茶を知る>紅茶の歴史によると、それは、まだ、“万病に効く東洋の秘薬”としてのようだった。
1662年にイングランドチャールズ2世のもとに嫁いできたポルトガルの王女キャサリン(ポルトガル名カタリーナ)が、中国の茶と当時は貴重であった砂糖を大量に持参し、宮廷に喫茶の習慣をもたらした。貴重なお茶に貴重な砂糖を入れて毎日飲むという贅沢な習慣は、ポルトガルからきたキャサリンのイギリスに対する示威行為だったかも知れないが、この贅沢な習慣が次第にイギリスの貴族社会に広まったという。
この時のお茶は、中国のウーロン茶系のお茶(武夷茶=ぶいちゃ)であったようだが、それが、いつ紅茶となったかの経緯については定説はないようだが、ヨーロッパ人の人気を呼び、製造業者が買い手の嗜好に合わせてその発酵を進めているうちに、強く発酵した紅茶が誕生したといわれている。紅茶を英語で「black tea」と呼ぶのも、元来武夷茶の茶葉の色が黒で、紅茶の茶葉も黒っぽかったことによるからではないかという。
イギリスの東インド会社の船が本国に初めて中国の広東から茶の直輸入を開始したのは1689年のこと。そして、初めてお茶を商品として飲ませたのは、イギリスの貴族や文化人たちの社交場となっていたロンドン・ストランド街のコーヒーハウス「トムズ・コーヒーハウス」であり、店のオーナーは東インド会社に勤めていた経験のあるトーマス・トワイニング(トワイニングの創始)。ここで出すインドから輸入された紅茶が評判になったことから、彼は、その隣に、1717年イギリスで最初の紅茶専門店「ゴールデン・ライオン」(これがトワイニング社の前身)をオープンさせた(以下参考の※2の紅茶の歴史、※4参照)。やがて紅茶は各家庭にも入り込んで、食料品店でも売られるようになって市場が拡大していった。
1721年頃から19世紀初頭まで1世紀余、イギリスの東インド会社が茶の輸入権をほぼ独占(独占廃止は1813年)していたが、1773年12月16日、アメリカ・マサチューセッツ州ボストンで起ったボストン事件(ボストン茶会事件)は、アメリカ独立革命の象徴的事件ともなっている。
紅茶は伝統的に中国で栽培されていた低木の茶樹(中国種)の葉から作られていたが、1823年にインドのアッサム地方で高木の別種の茶樹(アッサム種)が発見され、以後インドやスリランカなどでは後者の栽培が盛んになった。ただし、ダージリン等中国種の栽培も各地で行われており、また両者の交配も進んでいるため、産地のみでいずれの種類かを特定することはできないそうだ。
リプトンブランドの始まりは、スコットランドに生れたトーマス・リプトンが15歳からの単身渡米の後再びふるさとに戻り、21歳で独立し、1871年にグラスゴーに開いた食料品店「リプトン・マーケット」に由来するが、リプトンが紅茶商売に興味を持ち、紅茶を取り扱うようになったのは、1880年代と言うから、凡そ紅茶販売の時期は、トーマス・トワイニングが、紅茶専門店「ゴールデン・ライオン」を開いた時より、160年も後のことになる。
この頃、1857年から1859年のインドで起きたイギリスの植民地支配(イギリス統治時代)に対する民族的反抗運動(インド大反乱) の後、イギリスはムガル皇帝を廃し(ムガル帝国の滅亡)、イギリス東インド会社を解散させ、イギリス国王(当時のヴィクトリア女王)がインド女帝(インド皇帝=女帝参照)を兼任するイギリス領インド帝国を成立させていたことから、イギリスにインド産の紅茶が本格的に出回るようになり、広く誰もが紅茶を飲めるようになっていた。
研究熱心で商才に長けていたトーマス・リプトンは、中間業者を省いて輸入業者から直接仕入れ、自社でブレンドして、味、香りの安定した紅茶を、よそより安く販売することに成功。また、量目と品質が保証された紅茶・パケットティー(Packet tea=包装紅茶)を生み出すなど、現代に通じるサービスで支持をえた。

東京新宿中村屋の創業者である相馬愛蔵の書である『私の小売商道』に、国際状態も甚だしく変化しているので、西洋における実業界、主として個人商店の経営法の研究を目的に、1928(昭和3)3月神戸を出帆し、約4ヶ月間欧州諸国を歴遊したときの感想が書かれており、“奪われた商権”の中で、当時のイギリスとインドの状況を以下のように書いている。
「何故に富を奪われたかと申しますと、一面において印度が政治上、英国の支配を受けなければならない様になったがためでありますが、私の見る所では、経済上英国人に負けたことが重大なる原因になって居ると思います。例えば、印度人が一生懸命になって椰子をつくる、その椰子の実は昔なら十銭したものを五銭くらいで英国人に買取られる。その相場が不当であっても、商権を持っていない印度人は如何ともする事が出来ず、仕方なく売ってしまう。
 これが英国人の手にはいると、椰子の実は精製されて、菓子の原料のココナッツとなり、あるいは上等の石鹸に製造されて、一個分が五十銭か六十銭になる。その他紅茶も作られて居りますが、これも一ポンド分の原料を僅か五十銭か六十銭かに英国人に買取られたものが、紅茶に製されて世界の市場に出ると、一ポンドが二円五十銭とか三円とかいうような値段で市場に売られて居る。私の店でもリプトンティーを販売して居りますが、仕入の際に、印度の原価は五十銭じゃないか、二円五十銭はあまり高すぎると云ったところで相手にされない。
茶を作って居る印度人は裸足で歩いたり、をすするよりほかないのに、原料を五十銭で買って造った茶を三円で売る英国人は、自動車をとばして居る。
 こういう事情を見ても商権を奪われるということくらい、浅ましい無惨なことはないと感じました。」
・・・・・・と。
”而して我が国を観れば”・・・として、
日本は印度ほどのことはないが、甚だ似たところがあるとして、当時の日本の生命とも云うべき生糸(から繰りとったままの、まだ練っていない糸)の状況のことなどを語っている(以下参考の※5:「青空文庫」相馬 愛蔵の『私の小売商道』を参照)。

それは別として、リプトンは、1890年には、インド半島の南東に位置するセイロン(現:スリランカ)に広大な茶園を買い取り、茶樹の栽培に乗りだし、茶葉の栽培から生産まで一貫して行う体制を作り上げ、「茶園から直接ティーポットに」をスローガンに、斬新な宣伝で世間の注目を集め、積極的な事業展開によって全国各地に支店網を拡大し、リプトンを大紅茶ブランドへと導いた。国内での成功に続き海外にも目を向け、当時紅茶については遅れていたアメリカや、カナダへの売り込みにも成功。1910年には現在でも定番となっている「イエローラベル (Yellow Label)」(当時は黄缶)を発売し世界的なベストセラーとなった。しかし、そんな、リプトンのアメリカ合衆国およびカナダにおけるビジネスはユニリーバに1938(昭和13)年に買収され、1972年(昭和47)頃までには、リプトンのすべてがユニリーバの所有となったが、リプトン紅茶そのものは、世界150カ国以上で飲まれている。
因みに、紅茶の日は、「11月1日」であるが、これは、1983(昭和58)年、日本紅茶協会により設定されている(※3のここ参照)。この日を紅茶の日としたのは、海難にあってロシアに漂着した日本人・伊勢国の船頭・大黒屋光太夫が、1791(寛政2)年のこの日、エカテリーナ2世に招かれ、日本人として初めて「紅茶」を飲んだといわれることにちなんでいるそうだ。このとき飲んだ紅茶は、もちろんアッサム種ではなく中国種のものであったろう。
かつては緑茶の国・日本でも明治政府が、外貨獲得のために紅茶の生産が奨励され、1876(明治9)年頃紅茶用茶樹の種子が導入され紅茶の生産がされていた。しかし、それはあくまで、輸出品として生産されていたものであった。日本でも積極的に紅茶生産されていたらしいが最後は外国との競争力に負けたようだ。その状況は※:6など参照。

日本が初めて紅茶を輸入したのは1887(明治20)年のことで、翌年には、日本初の喫茶店の一つとされる可否茶館が営業をはじめたが、この店のミルク・ティは米一升分の値段であったため一般庶民からは見向きもされなかったようだ。その後、函館、横浜、神戸、大阪などにも喫茶店が建ち、コーヒーとともに紅茶も飲まれていたが、これらの店の客は洋行帰りのエリートやごく一部のハイカラ好みの市民だけだったというがそれは、先に中村屋創業者相馬愛蔵の書を見ても明らかだろう。
初めてイギリスから日本への本格的な紅茶の輸入は、1906(明治39)年、東京の明治屋によって開始されたようだが、それはリプトンの紅茶(黄缶)だったようだ。その後1961(明治36)年に、ティー・バッグタイプの紅茶が急速に普及し、国内でのリプトンブランドが浸透するようになった。第二次世界大戦後、しばらくは輸入割当制がとられていたが、1971(昭和46)年、紅茶の輸入が自由化され、国内紅茶市場の40%のシェアを持つまでになっていたリプトンは、1975(昭和50)年、神戸にリプトンジャパン株式会社を設立した(※1993年、リプトンジャパン本社は神戸から東京渋谷に移転。日本リーバグループとなったようだ。
本格的に日本国内での販売をするためにリプトンジャパン本社が神戸につくられたのを見てもわかるように、明治開港(条約港)以来、港を通して海外の文化をいち早く吸収してきた神戸は、昔からパンと紅茶を好む人が多かった。そのことは、総務省 統計局・家計調査(二人以上の世帯)都道府県庁所在市別の消費量を見てもわかるように、今でも日本で一番紅茶を消費していたのが神戸市であり(以下参考の※7:2013~2017年平均 参照)、神戸では全国平均の3倍以上の紅茶を飲んでいる計算になるらしいが、私の家でも、朝食は、パンと紅茶と決まっていた。若い頃は香りの良いトワイニングのダージリンを飲んでいたのだが、結婚してからは、朝食時には、家人がリプトンのティー・バッグタイプのものを使用するようになった。近くのスーパーなどで安く売られていることがよくあるのとティーパックタイプなので朝の出勤前の忙しい時間帯に簡単に抽出できるからだろう。これはブレンドティーだが、何処の茶葉をブレンドしているのかは知らないが、クセもなく、朝食時に飲むのにはこれでも十分だろう。

ただ、最近、インド東部の紅茶の名産地、西ベンガル(West Bengal)州ダージリン(Darjeeling)で州政府と地元住民ゴルカ人(Gorka)の対立が深刻化し、特産品のダージリン茶葉が世界的な品不足に陥っており、茶葉の価格が急上昇しているとか・・・。
今回の対立のきっかけは、単なる州政府と地元住民ゴルカ人の労働争議上の対立といった単純なものではなく州政府が州の学校にベンガル語を必修科目として義務付けると発表したことで、ネパール語を母語とするゴルカ人が激怒して起こったもの(※8参照)、つまり、民族問題から発生しており、基本的には西ベンガル州からの分離・独立をした州の設立を求めるもののようである。

ダージリンでは19世紀から、「ゴルカ人の国」の創設を求める動きがあった。
1814~16年のネパール王国(グルカ朝)とイギリス東インド会社軍の戦争。「グルカ戦争」(Gorkha War)と言われるもので、ネパール戦争あるいは英・ネパール戦争(Anglo-Nepalese War)ともいう。17世紀後半、インド植民地支配を進めたイギリス東インド会社のベンガル管区と、その北側に接するネパールとの国境紛争であり、領土的野心が原因で起きたもの。「グルカ」とはゴルカの英語読みである。
善戦したが敗北したネパールは、結果的に、スガウリ講和条約により東の境界はメチ川(ティマイ難民キャンプのあるネパールメチ県東部に流れる川)に、マハカリ川(ガーグラー川)が西の国境となり、カトマンズに英国人の公使受け入れを強制されるなど、実質的にイギリスの保護国となったが、それは、征服されたというよりは「従属的な友好国であり、従属してからのネパール兵(グルカ兵と呼ばれる)は、イギリス東インド会社の傭兵とされるようになり現在に至っている。

グルカ戦争の翌1817年には、イギリス東インド会社はネパールの東に隣接するシッキムの領主と条約を結び、事実上の保護国とし、さらに紅茶プランテーションで有名になるダージリンを譲渡させたが、この地は、最強の山岳傭兵部隊として名高いゴルカ人の多く住む地域のようであり、この対立、簡単には収まりそうもない感じだね~。

この辺のことあまり私は詳しくないので、月刊情報誌『インド通信』の編集を務めているという参考※9:「関口真理のホームページ」の以下ノページなど詳しいようなので参考にされるとよいのでは・・・。

インドのネパール系住民

ネパール系インド人と社会運動


(冒頭画像は、リプトン イエローラベル 50 2.0g×50P)


参考:
※1:世界システム論ノート3

※2:おいしい紅茶・種類・特徴・歴史

 ※3:日本紅茶協会

※4:トワイニング紅茶・トワイニングストーリー

※5:青空文庫:作家別作品リスト:No.1147相馬愛蔵

※6:第31回 メイド・イン・ジャパンの紅茶はどこへ? - まぼろしチャンネル

※7:日本<紅茶>の家計消費支出 《1世帯当たり消費支出額の都道府県庁所在地都市ランキング》

※8:ダージリンの対立激化で紅茶不足深刻、収穫9割減 数年影響の恐れ 写真9 ...

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