老いの愉しみ

老いのたわごと・ひとりごと。 私の住んでいる街神戸のことや趣味酒器類・絵葉書、貯金箱その他のことをいろいろと・・・  

俳人池西言水(木枯しの言水)

池西言水墓碑と句碑
誠心院駒札

①池西言水墓碑(左)句碑(右)

②誠心院駒札


今日、このブログで何を書こうかといつも参考にしている「今日は何の日~毎日が記念日~」(※1)をみると、旧暦9月24日は、俳人・池西言水の1722(享保7)年の忌日・・・とあった。
池西言水(※2:コトバンクも参照)は、江戸時代に
松尾芭蕉と同時代に活躍した俳人の一人だそうであるが、私はこの人のことをよく知らないのだが、前に、京都観光をした時に、言水の句碑を見た(①参照)記憶があったので書くことにした。
 句碑のあった場所は、京都市
中京区新京極通りにある寅薬師と称した薬師如来を安置する北亀山西光寺(※3:「京都観光Navi」の西光寺<中京区>(寅(虎)薬師)参照)の北隣にある、華嶽山東北寺(かがくざんとうぼくじ)誠心院と号する通称和泉式部コトバンクも参照)の名で知られている真言宗泉涌寺派の寺である(※3:「京都観光Navi」の※3:誠心院駒札、※4:「誠心院: 和泉式部公式HP」参照)。ちなみに「駒札」とは、将棋の駒の形をした名所説明札のことであり、②は京都市作成の誠心院駒札で、同寺門前にある。
この駒札には由緒を以下のように記している。
「寺伝によれば、関白藤原道長が、女(むすめ)の上東門院藤原彰子〔しょうし〕)に仕えていた和泉式部のために、法成寺(ほうしょうじ)東北院内の一庵を与えたのが当寺の起こりとされる。当所、御所の東側(荒神口の辺り)にあったが、鴨川の氾濫(はんらん)などにより、一条小川(こかわ。上京区。場所(※3:「京都観光Navi」の小川通も参照)に移築再建され、さらに天正年間(1573~1591)、豊臣秀吉の命令でこの地に移された。本堂は小御堂(こみどう)と呼ばれ、堂内には、本尊阿弥陀如来像をはじめ、和泉式部、藤原道長のそれぞれの像を安置している。  境内には、和泉式部の墓と伝える宝篋印塔(ほうきょういんとう)及び和泉式部の歌碑が建てられている。また、傍らの梅の木は、式部が生前愛木した「軒端(のきば)の梅」にちなんで、後に植えられたものである(京都市)。・・・と。

室町幕府時代の内裏花の御所(足利将軍家邸宅の通称〔地図〕)は、現在の京都御所地図)がある京都御苑の北西、烏丸今出川交差点を挟んで斜め向かいの一角、現在の上京区(現在の同志社大学寒梅館〔※5〕周辺にあたり)にあった。敷地は東側を烏丸通、南側を今出川通、西側を室町通、北側を上立売通に囲まれた東西一南北二町を占めていたという。
最初は第3代
将軍足利義満によって造られたが「洛中洛外図」(上杉本)六曲一双屏風絵に描かれている邸宅は室町時代後期(戦国時代)の第12代将軍足利義晴のものだそうだ(参考※6の①公方様参照)。
小川通は、洛中洛外図の時代、京都最大の繁華街のひとつであった。現在は
暗渠化が進み、その姿をほとんど見ることはできないが、一条通から現在の今出川通までの間には百万遍(知恩寺の別称)・革堂(行願寺)・誓願寺・浄福寺((※3:「京都観光Navi」の浄福寺〔駒札〕参照)がをならべ、また川沿いにはさまざまな商店が軒を連ねていた。その様子は、あたかも現在の新京極や寺町京極(寺町通)に対比されるようにも思えると、※6:洛中洛外図をめぐるの⑩こかは(小川) にはある。

「洛中洛外図」は
京都の市街(洛中)と郊外(洛外)の景観や風俗を描いた屏風絵で、2点が国宝、5点が重要文化財に指定されている(2016年現在)そうだが、上杉本(紙本金地著色, 米沢市上杉博物館蔵、国宝)は、狩野永徳23歳ころのものと言われており、制作経緯は諸説あるようだが織田信長から上杉謙信もとへ贈られたものとして有名である。
図は、右隻に
祇園祭(第三扇)で賑わう町並みを中心に左側第6扇に御所=内裏(天皇の住居としての御殿〔名札が多く目立つように描かれている〕)や右側には清水寺(第1扇上の方)、東寺(第1扇下右隅)など下京が表され、左隻の第4扇前景(右から4番目の下部)には、公方邸(足利将軍邸)や細川邸(第3扇中段から下に細川管領邸〔庭園など〕)を大きく配し上京の景観が描かれている。もっと詳しくは参考※7、※8、を参照されるとよい。尚。※7では、右隻の図だけだが、図絵ではわかりにくい建物の名前などを、活字にした図が見れ便利だが字が小さいので目の悪い私にはちょっとわかりにくい。
現在の京都御所は、もと
里内裏(内裏が火災で焼失した場合などに設けられた臨時の内裏)の一つであった土御門東洞院殿の地である。
法成寺は、
浄土信仰に傾倒した藤原道長によって奈良東大寺を模して、平安京の東京極通(寺町通)に1020年に建立されたが、平安時代末の1171年に護摩堂(護摩をたき修法を行うための仏像を安置した堂)・不断経などを除いて東北院は全焼したが、同年中に再建。鎌倉時代の念仏会で各種職人たちが集まり歌合をした『東北院職人歌合絵巻』(※9参照)は重要文化財となっている。
法成寺内の東北院には和泉式部、藤原道長の像や、境内には、式部の墓と伝える宝篋印塔や歌碑が建ち、その傍らには式部が生前愛木した「軒端の梅」に因んで梅も植えられている。
拾遺集』以下の勅撰勅撰集にも多数の作が入集するなど優れた和歌を多数作り、また,敦道親王との恋を物語的に記した『和泉式部日記』(他作説もある)など、早くからさまざまな和歌説話の主人公とされ、「誓 願 寺」「東北」などの謡曲(※10:宝生流謡曲名寄せのページ内10-5  誓 願 寺内18-3 東北参照)の素材となるなど、和泉式部の逸話や墓所と伝わるものは全国各地に存在している(遺跡・逸話参照)が、いずれも伝承の域を出ないものも多く、柳田國男は、このような伝承が各地に存在する理由を「これは式部の伝説を語り物にして歩く京都誓願寺に所属する女性たちが、中世に諸国をくまなくめぐったからである」と述べているそうだ(Wikipedia)。
東北院の初代住職であったといわれる和泉式部と関連の深い室町時代の誓願寺は、先に紹介した『洛中洛外図』(上杉本)の屏風(左隻)中央付近(第5扇と4扇=左から2つ目~3つ目)に描かれている。ちょっと見にくいが本堂右側に「せいぐわんじ」と書いてある(※8参照)。
和泉式部のことを書くのが本旨ではないので式部のことはこれまでにしよう。

誠心院HPには何も記されていないのだが、同境内墓地の和泉式部塔の近くに池西言水の小さな石碑(墓碑)がひっそりとある。
冒頭の画像①向かって左がその墓碑であり、その右側にも副碑のようなものがあり、上部には「池永言水句碑」と書かれているが、その下に、書かれている刻字は損傷が激しく私には、読めないが、「此度
に地を占し○○を加へ永○に○保存所や」と刻まれているようで、どうやら句碑ではなく、此の地に言水の句碑を建て永世に保存所しようと言うようなことらしい。
墓碑の方もわかりにくいが、横書きで刻まれているのが言水の代表句、「木枯の果てはありけり海の音」のようだ(※11)。
この池西言水のことについては、前に見た龍谷大学学術機関リポジトリ」のコミュニティ> 10学位論文 >■博士(文学)>宇城,由文著:芭蕉と言水 ―近世前期俳諧の位相― などに詳しく書かれていたが、今はもう見れない(※12)ので、ネットでは
Wikipedia-池西言水コトバンク-池西言水などを見るより仕方がないだろう。
前に見た論文などを含めてその経歴等を簡単に書くと以下のようになる。
言水は、慶安3年(1650年)奈良にて出生。祖祖父千貫屋久兵衛は奈良
大年寄を勤め、祖父良以は和歌に通じ、実父柳以も誹詰(俳諧)を、たしなむなど比較的めぐまれた環境のもとで育ったようだ。
16歳に
法体(僧体)して俳諧に専念したと、言水の死後発行された追悼集(俳諧集『海音集』。作者:方設。※13)にある。
名は則好。通称八郎兵衛といい、兼志、紫藤軒、洛下童、鳳下堂とも号したようだ。
同『海音集』には、「木がらしを辞世にし自筆をうつして彫りて和泉式部軒端しの梅の下影に石の
かた代築く」とあるので、それが、先に書いた誠心院にある墓碑にあたるのではないか。
石碑の句の下に刻まれている銘は別号の「紫藤軒言水」が用いられており、又、墓碑に刻まれている命日の日付「享保七年九月廿四日」も一致する。
俳諧は、はじめ京都の
松江重頼の門人であったといわれるが、重頼の選集に名はみえないようだ。
言水の句の初見は寛文12年(1672年)刊『続大和順礼』(岡村正辰編。岡村正辰=
郡山に住んでいた俳人で、池田正式の門人といわれる)で、23歳の時であった。このとき42句入集しているそうだが、発想においても技巧においても貞門風の俳諧だという。
延宝4年(1676年)刊の『到来集』(胡兮編)に、江戸
小石川にて「小日向の雪やとけ来て小石川 」(南都 池西兼志)と、言水の句が見られるところから、このころ江戸へ出てきたようだ。
寛文13年(1673年)から延宝4年(1676年)までの間の言水の足取りは定かではないという。
江戸では、
談林派の俳人として活躍するが、言水の江戸での本格的な活躍(デビュー)は風虎サロン(※14)に始まる。
それは延宝5年(1677年)
内藤風虎の催した『六百番誹詰(俳諧)発句合』の入集であるそうだ。
入賞の句は当時流行の句作りを示しており、言葉の巧みな使用、機知に富んだ句作り、聴覚的なイメージの利用などには、既に言水の句作りの特性が発揮されつつあり、『続大和巡礼』の作品と比較すると著しい進展が見られるという。
松尾芭蕉、
椎本才麿と交友を重ね、江戸俳壇に確固たる地位を築く。当時の彼は時代の新風を追い求める先鋭的な俳人であったようだ。
しかし、天和2(1682)年の春、33歳で京都に移住したのち、北越、奥羽、九州などに行脚し、京都、
新町通り六角下るに落ち着き、定住後は京都俳壇を代表する俳人の一人として活躍。伊藤信徳と交友を重ねた。
能書家(書家の中でも特に書における高度な技術と教養を持った人のこと。書の名人)でもあり、また、絵画、茶道、書画骨董の目利きにも優れていたようだ。
江戸在住中に『江戸新道(しんみち)』(1678年)、『江戸蛇之鮓(じゃのすし)』(1679年。※15)、『江戸弁慶』(1680年)、『
東日記』(1681年)、『後様姿』(1682年)などを著した。京都へ帰ってきてからは地方への勢力を拡大しつつ、『京日記』(1687年)、『前後園』(1689年。※16)、『都曲(みやこぶり)』(1690年。※17 )などを刊行し京での地歩を固めていった。
言水の代表句「凩(こがらし)の果はありけり海の音」の句は、元禄3年(1690年)『都曲』への所収が初めてであり、この句が評判になる。又、元禄15年(1702年)刊『花見車』(
轍士〔てっし〕著)には、「木がらしの果はありけり、とたちあがりたる風俗に一たびは京も田舎もなづみたり」とあり、「木枯の言水」と評判されたという。
『海音集』で、「我木枯の発句は人生のあらまし二つの海の心も述べたり。此句辞世とすべし。」と方設 が言水の遺言を伝えているところから、言水自身にとっても生涯で最も自信のある句であったと考えられる。
」は風の略形と木とをあわせたもので日本製の漢字「和語」であり、木を吹き枯らす意から、「
木枯」とも書く。秋から初冬にかけて山から海へ吹く、強く冷たい風。冬の訪れを告げる風でもあるため、冬の季語となっている。
この句は「湖上眺望」の前書きがあり、ここでの「海」は
琵琶湖なので、「木枯」は比叡颪(=おろし)のことである。
冬になって野山の木々の葉を吹き散らす木枯しは、どこまでも絶え間なく吹き続けているようだが、やがて冬の荒れた海に出ると、激しい波の音の中に消えていく。この海こそが、木枯しの行き着く果てであった。そして冬は、一年の終末であり死を喚起させる季節でもある。
冬の荒々しい自然を、木枯しと海の音の照応でとらえた句である。いまはもう吹き枯らすものもなく、役割を終えた木枯らの風に、言水自身の最期の姿を思い浮かべていたのだろうか。この世のはかなさを詠んだもので、談林派の知的観念的作風とは一線を画する名作といわれている。
山口誓子の「海に出て木枯帰るところなし」や、大場寥和の「木を枯らす風の相手や海の音」なども、言水の句の意を踏まえて詠んだものだろうという。多くの俳人が木枯しを詠んでいる(※18)参照。
京・大坂・江戸の
点者を遊女に見立て、廓詞(くるわことば)で品評し評判をえた俳人評判記『花見車』は、言水を太夫の位にランクし、「目はしのきいた君也」と評しているが、この評の通り、時流には敏感で、元禄年間(1688~1704)に流行し始めた前句付笠付などの雑俳にも手を染めている。
ただその前段で、言水の京移住後の生活については、「
身上がりに大分借銭があり(略)お子がひたと出来てとまらんす。それゆえ神ほとけをふかふいのらんす頬もすいていかふ古う見えます。」とあり、よく解釈できない言葉もあるが、言水の京での生活は楽ではなかったようである。金になる雑俳に力を注いだのもこのような生活に窮してのことだったかもしれない。そのような俳諧への姿勢から大阪などでは、必ずしも言水への評判は良いものではなかったようだ。
「木枯し」の句が作られた元禄3年(1690年)頃、ほぼ同時期に芭蕉の
蕉風開眼の一句とされる「古池や蛙飛び込む水の音」(貞享3年=1686年)がある。
言水の「木枯し」の句は芭蕉の「古池」に匹敵する名句といえるかもしれない。しかし、文学史的な視点からみると、同時代に活躍した2人でありながら、後世への影響力、また、その評価には雲泥の差がある。
元禄期において芭蕉とあい並ぶ有名な俳人には池西言水と
椎本才丸がいた。この3人が永宝の末の数年間江戸俳諧を舞台に何らかの交渉を持ち、新風起立をめざして活躍した。3人の年齢は延宝6年(1768年)に、芭蕉35歳。言水29歳、才丸23歳であったという。
この永宝6年芭蕉が意欲的な活躍をするが、同じ年に言水も第一撰集『江戸新道』を出版している。才丸の第一撰集『坂東太郎』(※19)はその翌延宝7年の出版である。このように3人はほぼ時を同じくして活躍している。
この3人の関りは密接であり、特にとし若い言水、才丸らが薫風樹立の前段階にあって、芭蕉の先駆者ないし、同伴者としての役割を果たしたといわれている。ただ、言水は『東日記』を出版した翌年(天和2年)に突然江戸を去り京都に移っている。
延宝6年(1768年)から4年間、年ごとに新しい撰集を出版し、『東日記』の序で才丸が「これより先三度句帖を顕はし、三度
風躰をかへて三度古し」と言水自信の言葉を伝えている通り、あれほど意欲的な活躍を続けてきた言水が何故江戸を去らねばならなかったのかという疑問が残る。後に残った才丸も6年後の元禄2年に江戸を去って大阪に移っている。
結果的に見て、言水や才丸が江戸の俳壇という活躍の舞台を、芭蕉一派に譲った形になっている。
特に言水は延宝6年に『江戸新道』を出版して以来、延宝7年『江戸蛇之鮓』、延宝8年『江戸弁慶』延砲年『東日記』と年毎に撰集を出版し、延宝期の俳壇でもっとも注目すべき活躍をした人物の1人であったのだが・・・。
このことについては、以下参考※20:「ー( 言水 ・才丸・芭蕉とそれらの周辺ー 一 はじめに」で詳しく考察されているので、見られると良い。
考察は、言水の発行した撰集にあらわれる人物を検討することからはじめられている。
そこから見られるのは、
内藤露沾幽山一派と密接な交渉を持つことによって、江戸俳壇の中で、安定した立場を得、幽山の地盤を受け継ぎ、次第に調和一派との交渉を深め(同7年)、ついで才丸との緊密な協力体制を固め(同8年)、ついに新興勢力である芭蕉(桃青)一派に接近する(同9年)。
このように1年ごとにかなりはっきりとした特徴をみせながら、言水の撰集活動は進んでいくわけであるが、その反面、幽山を中心とする『江戸八百韻』(※21、※22)の連衆(
連句では、集った人たちをいう)が不振となり、そのことが言水の活躍をかなり制限したようにも見える。
江戸俳壇における言水の表面的な活躍が余りに急速かつ花々しかったことにより、言水はいきおい多くの俳人達との交渉を生じたが、彼にとって最も重要な基盤であるはずの幽山一派の勢力を伸ばすことに、はたしてどれだけの努力をしたか疑問がある。
そして、言水は幽山一派の連衆から次第に浮きあがった姿勢で、自己の撰集活動を勧めていったようである。或いは逆に考えれば、幽山一派というものが、言水にとって、(最初の踏み台としては適していたはずだが)次第に物足りなさを感じさせるようになったのかも知れない。
なにしろ、幽山一派は調和派などに比べれば、まだ弱小グループの観をまぬがれない存在だったから。
こうした不安定な立場にあった言水に、さらに大きな打撃を与えたのが内当家の内紛事件(
内藤露沾退身の事件)だろうという。
俳壇のパトロン内藤風虎・露沾父子が不和を生じ、加うるに露沾が逆臣松賀紫塵の陰謀事件に巻き込まれたために、ついに露沾の退身となった。このため風虎の文学サロンは活動を停止し、幽山一派とりわけ言水の受けた打撃は大きかったと想像されるという。
必ずしもこれだけが京都移住の原因だとはいえないまでも、内当家の事件が天和2年(1682年)2月であり、言水の京都移住が同年3月であってみれば、この2つの事件は全く無関係とは言い切れないだろう。
こうして江戸を去ってから、京都俳壇において言水の占める位置は、後年高いものではあったろうが、江戸での活躍に比べればやはりさびしさの影が付きまとていたようだ。
江戸俳壇という活躍の場を捨てた言水の俳人としての限界を、
杉浦正一郎の論文では以下のように書いているようだ。
「彼(言水)は珍しい程詩人的センス豊かに恵まれた人であったので、いち早く談林の只中から薫風的新風に移りゆくべき運命を感じとったのであったが、のち、京、南都に帰り住んで上方俳人となってからは、若き日の情熱も失せたものか、洗練された技巧をもって都会人らしいデリケートな感覚描写に腕の冴えを見せただけで終わってしまった。」・・・とという。
芭蕉一派の結束が固まるにつれて、元来よそものであった才丸も芭蕉一派から締め出されてしまったようである。元禄2年(1689年)芭蕉が『
奥の細道』の旅に出発したその年に、才丸も江戸を出発して、伊勢路向かう。その年の冬大阪に帰りついた才丸は以後およそ50年間この地に住み着いて生涯を終わっているという。

参考:
※1:
今日は何の日~毎日が記念日~

 ※2:コトバンク-池西言水とは

※3;京都観光Navi

※4:誠心院: 和泉式部

※5:施設概要|同志社大学 寒梅館

※6:洛中洛外図をめぐる (PDF) (京都市)

※7:上杉本洛中洛外図屏風 鴨川風景: 京都を歩くアルバム

※8:狩野永徳《上杉本洛中洛外図屏風》 金雲に輝く名画の謎を読む 「─「黒田日出男」

※9:東北院職人歌合絵巻 - e国宝

※10:宝生流謡曲名寄せのページ

※11:池西言水 - 京都クルーズ・ブログ


お墓参りの日

お盆

日本記念日協会(
ここ)に登録されている今日・9月23日の記念日に「お墓参りの日」があった。
由緒を見ると、全国の
石材店石材関連業者で組織される一般社団法人日本石材産業協会(※1)が制定したもので、お盆(おぼん)や春と秋の彼岸などにお参りをすることで、先祖代々に手を合わせる日本らしい文化を絶やすことなく未来へとつなげていきたいとの思いが込められているそうだ。日付は「祖先をうやまい、なくなった人々をしのぶ」ことが趣旨とされ、国民の祝日に定められている「秋分の日」としたようだ。


一般に「盆」、また、「お盆」と呼ばれているのは、仏教用語の「
盂蘭盆」の省略形で、太陰太陽暦である和暦天保暦など旧暦という)の7月15日を中心に日本で行なわれる、祖先の霊を祀る一連の行事であり、 日本古来の祖霊信仰と仏教が融合した行事である。
盂蘭盆は
サンスクリット”avalambana”の転訛した”ullambana”の音写(ウランバナ)とされ、倒懸(とうけん)とも言われ、それは、頭を下にして足を吊られた、「逆さ吊りの苦しみ」を意味していて、『盂蘭盆経』によると、釈迦十大弟子で神通力第一といわれる目連(摩訶目犍連)が餓鬼道に落ちた母の倒懸の苦しみを救おうとして、釈迦の教えに従って祭儀を設けて三宝に供養したことが起源であると説かれてきた。
しかし、最近ではこれを否定して,盂蘭盆の原語はイラン語系の死者の
霊魂を意味する“urvan”であり,霊魂の祭祀(神々や祖先などをまつること)と同時に収穫祭でもあったウルバンという祭祀が,イラン系ソグド人の中国進出とともに中国に伝えられ,畑作農業地帯の収穫祭として中元と結合したもので、仏教徒が自恣(じし)の日を中元に結びつけたことによって、今日に伝わる盂蘭盆会の原型が成立したとする説が出ているようだ(ここ参照)。
中元は、
道教に由来する年中行事で、三元の1つで、もともと旧暦の7月15日に行われていたが、現代の日本では新暦の7月15日または8月15日に行われている。
日本では、盂蘭盆会は
神道と習合し、お盆の行事となった(日本の仏教参照)。江戸時代には、盆供(先祖への供物)と共に、商い先や世話になった人に贈り物をするようになり、この習慣を特に中元と呼ぶようになった。
お盆は、伝統的には旧暦7月15日にあたる中元節の日に祝われたが、日本では明治6年(1873年)1月1日の
グレゴリオ暦(新暦)採用以降、以下のいずれかにお盆を行うことが多いようだ。
1.旧暦7月15日(旧盆) - 沖縄・奄美地方など
2.新暦7月15日(もしくは前後の土日) - 東京・横浜・静岡旧市街地、函館、金沢旧市街地など。
3.新暦8月15日(月遅れの盆。2.の地方では旧盆とも) - ほぼ全国的.
現在では1 や2 など一部の地域を除いて、3.の月遅れ開催が殆どのようである。私が住んでいる
神戸(関西)も「月遅れ」の盆で、盆期間は8月13~16日である。
現代では、一般的に「お盆とは、年に一度祖先の霊が私たちのもとに帰ってくる期間」とされ、13日には、
迎え火を焚いて祖先が迷わず家に来られるようにしてお迎えし、戻ってきた祖先の霊の供養をする。やがてお盆の期間が過ぎると16日には送り火を焚いてお送りをする。この風習がお盆の風習として定着している。私たちの宗派では、盆期間中、お寺(菩提寺)から先祖供養のための卒塔婆を貰い盆期間は家の仏壇に祀り、15日にはお寺へ持って行き、追善供養をしてもらったのち、お寺の玄関先で燃やしていた(今は玄関先で燃やせないのでお上人本山へ持って行きそこで一緒に燃しているようだ)。地域、宗派によっていろいろあるだろうがこのような盆期間の一般的な行事は全国的な風習を参照されるとよい。
日本の文化や歴史に残るお盆・先祖の供養や神事は、イギリス海兵隊の艦隊に随行して来日したJ.M.W. Silverが、1867年イギリスで発行した、『Sketches of Japanese manners and customs』(『日本の礼儀と習慣のスケッチ』)という本に幕末期のお盆として掲載されている。冒頭の画像がそれである。この画の拡大図は同志社大学 貴重書デジタルアーカイブで見れる。以下で45番目のページを参照。

同志社大学 貴重書デジタルアーカイブ Sketches of Japanese manners and customs

暑さ寒さも彼岸まで」とは良く聞く慣用句であるが、彼岸は昼と夜の長さが同じになる季節の区切りであり、平均気温に例えると、3月の春の彼岸は概ね11月下旬から12月初めの気温、9月の秋の彼岸は概ね5月末から6月上旬の気温とほぼ同じであり、それぞれ秋から冬への過渡期の晩秋、春から夏への過渡期の初夏の平均気温と等しくなる。つまり、厳しい冬の寒さも、厳しい夏の残暑も、春分の日や秋分の日を境に目処がついてくるということからこう呼ばれるようになったようだ。
お彼岸は
雑節の一つで、春分・秋分を中日とし、前後各3日を合わせた各7日間(1年で計14日間)であり、この期間に行う仏事を彼岸会と呼んでいる。最初の日を「彼岸の入り」、最後の日を「彼岸明け」(あるいは地方によっては「はしりくち」)と呼ぶらしい。なぜこう呼ぶのかは知らないが、「走り」という語には、 「時季先駆」といった意味もあり、そのような意味で使っているのではないかと思っているのだが・・・。

こちらの岸「此岸(しがん)」は、「
煩悩(迷い)」の世界であり、かなたの岸の「彼岸(ひがん)」は「悟りの境地」、「お彼岸」の行事の本来の意味は、「悟りの境地」=「極楽浄土」へ到達することを願って行われるものである。
俗に、中日に先祖に感謝し、残る6日は、
悟りの境地に達するのに必要な6つの徳目「六波羅蜜」を1日に1つずつ修める日とされている。
この彼岸という行事も、元々
浄土思想に由来し、西方浄土を希求する中国の念仏行事であったものが、日本仏教において、先祖崇拝の行事になった。
彼岸会の「彼岸」は、「日願(ひがん)」から来ているとも言える。日本に限らず古来から、
太陽や祖霊信仰は原始宗教の頃からつきもののようである。
農耕民族の日本人は、この春分一週間を古来よりとても大切な日とし、春は豊穣を祈り、秋は収穫を感謝。作物を育てる太陽に、自分たちを守る先祖に、自然界すべてに感謝してお供え物をしていた。このような経緯からこの彼岸会もお盆同様に日本における祖霊信仰(祖先崇拝)という土壌を考えることができる。
日本ではこの彼岸会について、『
日本後記』の中に次の如く述べているという。
「大同元年(八〇六)三月辛巳に、崇道天皇光仁天皇の子早良(さわら)親王のために諸国
国分寺の僧をして春秋二仲月別七日、金剛般若経を読ましむ」・・・と。
大同元年は5月18日に改元しているから延暦25年(806年)となる。
早良親王光仁天皇桓武天皇の弟である。延暦4年(七八五年)崇道天皇と追号されている。
延暦23年(804年)には、伝教大師(
最澄)、弘法大師(空海)がへ留学。翌24年(805年)5月には最澄が帰路の途中和田岬神戸市)に上陸し、最初の密教教化霊場である能福護国密寺を開創。7月に上洛、9月、桓武天皇の要請で高雄山神護寺にて日本最初の公式な灌頂が行われている。日本の仏教に新たな動きをもたらした最澄や空海の保護者として知られる桓武天皇は延暦25年〔806年)3月に亡くなっているが、上記早良親王の供養のために諸国国分寺金剛般若経を読ませたことは桓武天皇の遺言(『類聚三代格』延暦25年3月17日官符)であったそうだ(※2)。
お彼岸の行事はこれより前から行われたと思われるが、文献上ではこの『日本後記』の説を始めとしているようだ。この時の彼岸会の目的は、無実の罪によって亡くなった崇道天皇を
供養するというものであった。この遺言に基づいて、永く諸国の国分寺で春・秋の7日間、『金剛般若経』を転読することにし、この法会は後に年中行事となったという。
桓武天皇の皇女
朝原内親王は、弘仁8年(817年)4月6日に病に臥し、嵯峨天皇が遣わした6人の僧たちが病気平癒を祈ったが、4月25日、39歳で薨去した。その遺言は、春に父・桓武天皇のために大般若経を、秋に母の酒人内親王のために金剛般若経を唱えさせるために、自らの所領地を東大寺施入するという内容であったため、それに従い翌弘仁9年(818年)3月27日に母酒人内親王から東大寺へ、大般若経と金剛般若経等が奉納され、美濃国厚見庄越前国横江庄越後国土井庄墾田等が施入された(「酒人内親王家御施入状」〔正倉院文書〕)・・とWikipediaにもある。
つまり、この当時からお彼岸には死者を供養する習慣があったことは確かなことなのだろう。

俳句の
季語などでは、単に彼岸といえば「春の彼岸」を指し、「秋の彼岸」は特に「秋彼岸」とか、「後(のち)の彼岸」といっている。これは農作業の始まる季節の「春の彼岸」の方が、特に重要だったからだろう。「秋の彼岸」を過ぎると、季節は「短夜」(みじかよ。※3:「きごさい」歳時記のここ参照)から「夜長」(ここ参照)へと移っていく。

どんな人間にも必ず先祖はいる。しかもさかのぼれば無数の先祖がいて、その血がどんなに薄くなっても子孫の一人である自分に流れていることは否定できないだろう。
お墓は、大切だった亡き人やご先祖さまを供養するところである。祈りの象徴であると同時に、お参りする人にとっては精神的な拠りどころであり、連綿と受け継がれてきた命のつながりを身近に感じさせてくれるところでもある。つまり、お墓参りをして先祖供養をすることは、自分をこの世にあらしめてくれた(生かさせて頂いた)全ての人に感謝するということにもなるのであるが・・・。
かつてお墓は、集落の近くの山あいや、一族の屋敷のすぐ隣などにあったことから、人々にとってお墓参りは日常の生活の一部であった。それが時代とともに生活から切り離され、仕事が忙しいとか、お墓が遠いのでそうそう行けないとか、年に数回行くお墓参りに変わってきた。現在、お墓参りの時期として一般に行われるのは、お盆や春秋のお彼岸、故人の命日、正月、年忌法要などくらいであろう。

ところで、人が亡くなった時の
葬儀のあり方が最近はずいぶんと変わってきたようだ。ここ数年、参列者が少ない規模の小さなお葬式(家族葬)が増えている。
バブル景気の時代には一般的な葬儀でも参列者は優に100人を超えたといわれる。しかし、そのほとんどは遺族の仕事関係の人たちで個人とは直接面識もない人たちであった。そのため、そのころの葬式は、慣習やしきたりに従った社会的な儀式にならざるを得なかった。
遺族は仕事関係など義理で参列する人たちの世話に忙しく、個人とゆっくりお別れするゆとりがなかったといった経験を持つ人は少なくないだろう。
 最近はやりの家族葬などは、そんな従来の葬式のあり方への
アンチテーゼでもあるのだろう。
しかし、費用面では、決して、身内だけでの少人数の家族葬の方が費用が少ないとは限らないようだ。香典が入らないので、葬儀費用のほぼ全額が遺族の自己負担となるからだ。
それでも、義理や世間体を重視するのではなく、故人と親しい人だけで送りたいと、家族葬を選ぶ人がふえているようで、私なども同様の考え方であり、自分の葬儀は、身内だけのこじんまりとした家族葬をしてもらおうと、私と家人2回分の契約を葬儀会社としておいた。

また、お墓の事情も多様化しているようだ。
土。日の新聞チラシなど見ていると、その中に霊園の案内チラシも必ずと言うほど見受けられる。特にお彼岸近くの日には数枚折り込まれていることもあった。
これは霊園に関する需要があるのか、需要を創造しているのか不明であるが、都市を中心として霊園開発が相次いでいた。
 日本では
少子高齢化の中、総人口が減少するなかで、高齢化率はどんどん上昇。このブログ「敬老の日」でも書いたが、2016年の日本人の平均寿命は女性87.14歳、男性80.98歳で、いずれも過去最高を更新したことが、厚生労働省の調査で分かっっている(※4のここ参照)。
平成29年8月1日現在65歳以上人口は、3484万人で総人口 1億2483万1千人の27,2%を占めているのだ(
ここ参照)。
変な言い方だが、戦後の
団塊の世代の人達がこの世を去るまでは死亡数は増加の一図をたどるということ。言い換えれば、お墓の需要が増えるということなのだが・・・。
同時に、全体的には人口の減少傾向の中、都市への人口集中度は増加している。これは過疎地域等での
無縁仏の増加、寺院の檀信徒の減少による墓苑・寺院の衰退にもつながっている。一方墓地・墓石の形態にも変化が起こっている。
○寺院の地下や、屋上を利用する墓地○納骨堂(ロッカー式)形式墓地○壁墓地・プレート型墓地○両家、夫婦墓○永代供養墓、有期限の墓、それに○散骨など・・・。
人は生まれたからには必ず死を迎える。死んだ後「自分がどのように処置されるか」、墓地墓苑を訪れたときなど「自分の死後の空間は・・・拠り所は・・?」と考えるのであろうか。
お墓を持たない世帯は生前に自分のお墓を建てておく人も多くいた。生前のお墓の建立は
寿陵といって縁起がいいと旧来よりいわれていた。最近では単に縁起がよいということだけでなく「子供に負担をかけたくない」「子供はあてにならない」「終の安住地は自分らしく」等の理由でお墓を購入している人も増えていた。
しかし、「戦後、核家族化や少子化で死者祭祀の担い手である「家」が変容したことに加え、生まれた土地で一生を終えるライフスタイルが主流でなくなったこと、地域共同体が変質したことから、葬送儀礼や祭祀ための墓のかたちも変化していものの、日本人は、それぞれの形で、先祖の供養はしているようだ。
ただ、日本のお墓は、子々孫々での継承を前提としているところに特徴があったが、昨今の、少子化、非婚化、核家族化が進み
家制度も崩壊したなか、継承者のいない家庭が増えている。
たとえ、子孫がいても遠く離れて暮らしていれば、頻繁にお墓参りするのは不可能であり、実際に、墓や祭祀 の継承が困難になった無縁墓の増加が全国各地で問題となっており、事実、私の住んでいる神戸市市営の鵯越墓園(神戸市北区。※5また、
ここ参照)は、東洋一の規模を誇るといわれているが、私の墓の横に並んである墓も長らく墓参者がなく荒れ放題となっており、市が連絡先を求める札が置かれていた。
また、同墓園でも少子高齢化による後継者の不在などで、墓を撤去し、寺などに遺骨の管理を任せる
永代供養に切り替える動きが広がっているという。これからも人口が確実に減少していくことによる無縁仏がますます増加してゆくであろうことが一番に気にかかることである。事実、私の家も一人っ子で息子もまた、娘(私にとって孫)が一人しかいない。息子の代は良いとしてもその先が心配される。
今、「
終活」という言葉が流行し、人生の締めくくり方を元気なうちに考え、準備しておこうという気運が高まっている。
歳を取り体が弱り、介護が必要になったり、死を迎えたりすれば、どんなに事前準備をしていても、自分で実行することができない以上、自分の思いを理解してくれる人に代行してもらうしかない。
人生の終焉(しゅうえん)を考えることは、家族やまわりの人との関係を見直すきっかけにもなるという意味で、終活は、自分が自立できなくなったときに誰かに任せられる関係を築く「結縁」活動だともいえるようだ。
後期高齢者である私も、今は、そのようなことに考えを巡らせながら、その準備をしているところである。少なくとも、死ぬ間際になって、あれをしていなかった・・などといった悔いは残らないようにだけはしておきたい。
身辺を整理しながら今流行の「
エンディングノート」的なものは作成しており、遺産のことや葬儀の仕方などは無論、お寺やお墓関係に関することも私の考えや思いは一応記してはいるものの、ただ、宗教に関することは無理やりに押し付けるわけにはいかず難しい。後は息子に任せるしかない。
息子も親の姿を見て育っているので、盆正月だけでなく、家へ来たときなどは必ず仏壇の前に座り、手を合わすことはしている。嫁や孫も同様である。しかし、私達夫婦とは違いお寺とは疎遠である。どうなることやら・・・。

私のお墓の前で 泣かないでください
そこには私はいません 眠ってなんかいません
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています

秋川雅史の歌「千の風になって」。
この詩は「私は死んだのだけれど、いまは風になって元気に大空を吹きわたっている。だから安心してほしい、そんなに嘆かないでほしい、といった詩なのだが、私もなすべきことはなしそのよう心境で世を去りたいものだ。

千の風になって 秋川雅史 - YouTube

参考

 ※1:
日本石材産業協会

※2:黙翁日録: 延暦25年・大同元年(806)3月~5月 桓武天皇(70歳)没す

淡谷のり子

        コロンビア・わたしこのごろ憂鬱よ

淡谷のり子「私此頃憂鬱よ」


日本のシャンソン界の先駆者であり、「別れのブルース」「雨のブルース」などの代表曲から「ブルースの女王」と呼ばれた淡谷のり子の1999(平成11)年 の忌日である。 
 
淡谷のり子(本名:淡谷 のり子)は、1907(明治40)年8月12日、青森県青森市の豪商の長女として生まれるが、10代の頃には実家が破産し、1923(大正12)年に母と妹と共に上京。声楽家を目指し、東洋音楽学校(東洋音楽大学、現・東京音楽大学)に入学、クラシックの基礎を学ぶ。
しかし、生活は、食うや食わずの状態であり、家が貧しく、学校を1年間休学して画家の
ヌードモデルをして糊口(ここう=ほそぼそと生)をしのいだという。その後、復学し、在学中の新人演奏会では 「魔弾の謝射手」のアガーテのアリアを歌い「10年に1人のソプラノ」と絶賛されたという。世界恐慌が始まる1929(昭和4)年に、6年かかったが主席で卒業したという。卒業後、母校の期待もあり声楽家として歩み始めたが、経済事情から家計を支えるため同年ポリドールに入社、流行歌の世界に入った。
デビュー曲は同社から発売された1939(昭和5)年1月の新譜の「久慈浜音頭」である。
以下参考※1:
にいちゃんの「なつめろダイアリー」 : 戦前歌手・毛利幸尚によれば、
この歌(
松村又一作詩、湯山光三郎=水原英明作曲編曲)で、毛利幸尚とのデュエット曲であったらしい(※1参照)また、毛利と淡谷のデュエットは、同年5月『下田小唄(松村又一作詩、高田守久作曲編曲』、『豊橋音頭(林正雄作詩、湯山光三郎作曲編曲)』、同年9月『おはよう(小野幽波作詩、湯山光三郎作曲編曲、』など、同社から次々発売されているそうだ。

当時、
ビクターレコードが1928(昭和3)年に時雨音羽作詞・佐々紅華作曲の「君恋し」(二村定一歌唱)がヒットしたのに次いで、翌1929(昭和4)年西條八十作詞、中山晋平作曲「東京行進曲」 (菊池寛原作の同名小説映画の主題歌)を佐藤千夜子歌唱で25万枚も発売して以来声楽家の歌謡曲流行歌)への進出が目立つようになる。
そんな中、淡谷は、流行歌を歌ったことで母校の卒業生名簿から除籍(後年復籍)される悲哀を味わったようだが、1931(昭和 6)年、
コロムビアへ移籍。古賀メロディーの「私此頃憂鬱よ」(冒頭①参照)がヒットした。
コロンビアは、ビクターに対抗して、1931年に
高橋掬太郎作詞、古賀政男作曲、「酒は涙か溜息か」(藤山一郎歌唱)、古賀の合奏曲「ピクニック」に島田芳文が詞をつけた歌「丘を越えて」(藤山一郎)などのヒット曲を送り出した。

淡谷の「私此頃憂鬱よ」(演奏・伴奏:
明治大学マンドリンオーケストラ)は、藤山が唄った「酒は涙か溜息か」(A面)のB面として出されたものであった(※2:「78MUSIC」の邦楽レコード目録「コロンビア」のところを参照)。尚、この楽譜は、白眉出版社からからだされたという(朝日クロニクル週刊20世紀)。淡島の珍しい曲「私此頃憂鬱よ」は以下で聞ける。



藤山が唄って大ヒットした「酒は涙か溜息か」、淡谷の「私此頃憂鬱よ」はともに松竹映画『想い出多き女』の主題歌として使われているようだ。藤山の「酒は涙か溜息か」は新興キネマでも『酒は涙か溜息か』として映画製作されたという。序に、藤山の歌も下でどうぞ。

淡谷は、この曲以降1930年代の初めは初期の古賀メロディーをいくつか吹き込んでいるようだ。(※3:「近代日本流行歌史-菊池清麿」の昭和の名歌手たち―淡谷のり子3 参照。)
 淡谷 のり子が亡くなって、18年もたってから、こんなブログを書いたのも、 淡谷といえばブルースだと思っていた私も、彼女が古賀メロディーなど唄っていたのを知りちょっと書いてみたくなったのだ。
淡谷はコロムビアでは映画主題歌を中心に外国の
ポピュラーソングタンゴシャンソンジャズ)などを邦訳歌詞にして多くレコードを吹込んだ。これら、クラシックを基本にした繊細かつ豊饒な歌唱は昭和モダン哀愁妖艶に歌っているといわれているが、残念ながら、正直、私も、あまり、この時代の歌は知らない。
1935(昭和10)年の
コロムビア オーケストラをバックに唄った「ドンニャ・マリキータ」(「小さな喫茶店」の日本語訳詞で知られる瀬沼喜久雄作詞、アルダバン作曲 仁木他喜雄編曲、番号:28326) はシャンソンとしてヒットし、日本のシャンソン歌手の第1号となった。以下参照。


 
それにしても若いときの淡屋の声はクラシックの出だけあって素直できれいな声ですね。
そして、
日中戦争が勃発した1937(昭和12)年、「別れのブルース」が大ヒット。この時、30歳だった。
♪窓をあければ港が見える メリケン波止場の灯が見える
  夜風汐風 恋風乗せて 今日の出船は何処へ行く
  むせぶ心よ はかない恋よ 踊るブルースの切なさよ
「別れのブルース」作詞:
藤浦洸、作曲:服部良一
 

淡谷は、元来ソプラノ歌手であるが、「別れのブルース」は音域が低かった。そのため、淡谷は、ブルースの情感を出すために吹込み前の晩酒・タバコを呷り、ソプラノの音域をアルトに下げて歌い、昭和モダンの哀愁に満ちたメロディーで人々の心をとらえた。この曲は今日でも名曲として、大勢の人に愛され歌い継がれている。
その後も彼女は、数々の名曲を世に送り出し「ブルースの女王」として、「淡谷のり子」の名を轟かせた。先ずは、この曲を聴いてみてください。また歌の歌詞とその解説は参考※4を参照されるとよい。

別れのブルース (1974年)・・淡谷のり子 - Dailymotion動画

しかし、この曲について、彼女は後に、「あの歌、難しい曲だから余り好きじゃない。昔のレコードを聴くと下手で下手で、それに女王なんて呼ばれるのも嫌」。軍歌の響きの高まる時代の中でレコードは半年で15万枚の大ヒットとなるが、やがて、「好ましからざる歌」として発売禁止になった。「あのころは、軍歌が大流行。でも私は軍歌は歌わなかった。命は粗末にするものではないもの」といっていたという。(朝日クロニクル「週刊20世紀」より)
彼女は、「
もんぺなんかはいて歌っても誰も喜ばない」「化粧やドレスは贅沢ではなく歌手にとっての戦闘服」という信念の元、戦時中に部隊の慰問に、回ったとき、ハイヒールにアイシャドー、マニキュアをつけ、ブルース、タンゴ、ジャズ、シャンソンを、そして、リクエストがあれば平気で歌うことを禁止されている「別れのブルース」などを歌った。そのため、軍部への始末書は山になったという。本当に腹の座った人だったようだ。
実力派の彼女は、歯に絹着せぬ辛口の発言が多かったことでも知られている。例えば、1965(昭和40)年の
NHK紅白歌合戦では「今の若手は歌手ではなく歌屋にすぎない」、「歌手ではなくカス」の発言で賛否両論を巻き起こし話題となった。だが実力のある歌手や作品は高く評価し、晩年、五輪真弓の『恋人よ』をレパートリーに入れていた。
1989年(平成元年)6月に亡くなった
美空 ひばり以降も歌い続けていた昭和を代表する歌手も5年間の闘病生活の後、1999(平成11)年 の今日92歳で亡くなったのだが、私など、いつまでも昭和の時代を懐かしんでいたのだが、考えてみれば、もう、次の平成の時代も、終わろうとしているんだね~。

参考:

※1:
にいちゃんの「なつめろダイアリー」 : 戦前歌手・毛利幸尚

※2:78MUSIC
 
※3:
近代日本流行歌史-菊池清麿

※4:二木紘三のうた物語: 別れのブルース














ファッションショーの日

ファッションショー・チラシ


三越呉服店広告

今日(9月21日)は、「ファッションショーの日」
1927(昭和2)年9月21日、銀座の
三越呉服店で日本初のファッションショーが行われた。
ファッションショーとは、ファッションデザイナー及びファッションブランド(※1参照) が自らの服飾作品を公開、発表する場である。多くの場合、ファッションショーにはファッションデザイナーと契約を結んだファッションモデルが、そのデザイナーの作品を身に纏い、どのように着こなせば良いか、どのように発展させられるか、などデザイナーの理想を動くマネキンとして衣服で表現する。
三越呉服店本店(
日本橋)でのファッションショーは、1927(昭和2)年9月21日~23日まで開催された。左①がその広告(”6階ホールにて”とある)。モデルには初代水谷八重子ら3人の女優が勤めたが、これは、一般よりデザインを募ったファッションショーであった。又、ファッションショーの言葉からは、洋装だけが想像されるが、実際には、和服にショールや日傘などが多いが、こうしたショーを通して、デパートが一般的な庶民のものとなっていった(朝日クロニクル週刊20世紀、1927-28号より)。
尚、上記では、モデルには初代水谷八重子ら3人の女優と書いたが、。このショーは、一般から図案を募集した着物(
和服)のファッションショー「三越染織逸品会」で他の2名のモデルは、東日出子と、小林延子で、彼女らは、着物姿で日本舞踊を踊ったのだとか(※2、※3参照)。
ちなみに、東日出子(※4参照)は、俳優・映画監督
星ひかる の母親で初期の帝国劇場人気女優で、小林延子(※5参照)も西川流の日本舞踊家で帝劇に出演していたようだ。
ファッション


モガの定番スタイル

昭和初期は、不思議な時代であった。世界的な不況で、日本でも銀行の取り付け昭和金融恐慌参照)が続出、自殺者が相次ぐ一方で、不況などどこ吹く風の華やかな動きも、あちこちで見られた。後者の代表的なケースが、モボ・モガの流行であり、呉服店から脱却したデパートの商法である。「モボ」・「モガ」は「モダンボーイ」、「モダンガール」の略で、「モボ」はシャツにネクタイ、山高帽子ロイド眼鏡ラッパズボン、白、茶などのエナメルシューズ(皮革の上にウレタンの樹脂を吹き付けてある靴)というスタイルで町を闊歩した。 特に「モガ」の登場はそれまでの女性観を一変させた。彼女等の装いは、ワンピースやツーピースの洋服に帽子が定番で、ヘアスタイルはマーセル・ウエーブと呼ばれた耳隠し、そして、最大のポイントは膝上3~5センチにスカート(②参照)やワンピースで、スタイルは、アメリカ映画などから取り入れ銀座などの街を誇らしげに歩いた。そんな姿に世間は大きなショックを受けた。
当時、日本女性の洋装率は1%前後、洋服自体も奇抜だったが、日本女性が人前でひざ小僧をさらすのは初めてだったからである。
一方、1928(昭和3)年には、三越、
大丸白木屋がいっせいに呉服店からデパートに衣替え、それと相前後して、商戦も本格化した。その中心になったのは、三越で、1927(昭和2)年4月、大増築を行って、牛肉、豚肉、石炭など日用品を扱い始めた。
今までのように贅沢さを売り物にするだけでは、発展は望めないという思いの表れだったが、それに対抗して白木屋は
無料送迎バスを導入、まだ珍しかった車の魅力で集客を図った。
そんな中で、三越が、1927(昭和2)年9月に、日本で初めてのファッションショーを開いて、その言葉を定着させると、高島屋では、1928(昭和3)年3月の御
大礼記念博覧会(※7参照)に初めてマネキンを登場させ、圧倒的な人気を集めた。
更に同年三越が、フランス家具展を開催して欧風家具のブームを起こすと、松阪屋が国風(和風)家具の一代セールを実施して、日本回帰の流れを作るといった風だった。
当時まだ、主流だった、
着物の柄も、大正時代から昭和初期にかけて大柄で斬新な色使いのモダンなものが流行した。この当時、大阪市営バスの女性車掌の服装となった帽子、ネクタイ、ズボンにブーツというスタイルはモダンだと評判を呼んだそうだ。又、警視庁は1928(昭和3)年11月20日にダンスホール取締令を実施して、出入りのモボ・モガの風俗規制をしているが、モガたち出現の背景には、女性の職場進出などがあった。
モボ、モガなどの新風俗については、識者の反応も様々であった。世相を鋭く評論した評論家の
大宅壮一は1929(昭和4)年の「中央公論」誌上で、「モダン・ガールの存在理由は、因習的な婦人道徳や男女関係や生活様式を思ひ切って破壊したところにある」と評価したという。
清沢冽(きよさわ きよし)は、「新しい女」などと比較して、「今までの婦人運動などと違うところは、思想団体やいわゆる先覚者などの限られた、ものではない事である」と「モダンガール研究」(※6)の中で述べているという。モボやモガ・・・ダンスホールやカフェに出入するその服装が、流行をリードした。最先端の華やかさは、当時の銀座・丸の内心斎橋など、街のイメージをかえていった。それは、新しい考え方を象徴するスタイルでもあったのだ。
とにかく、当時のこれらの現象は、いわゆる”
大正ロマンチシズム”の一つの成果でもあったのだ。まだ、この時代には、第一次世界大戦前にはなかったゆとりがあり、それぞれの個性やものを見る目を養った時であったようだ。
ファッションショー

③「ニュースタイル」。戦後初めてのファッションショー。

因みに、大戦後初めてのファッションショーは、1948(昭和23)年4月26日、東京・共立講堂で行われた(上掲② 朝日クロニクル週刊20世紀1948年号より)。
日本は、敗戦後はアメリカなど
連合国からの援助に頼ることになった。
食料など様々な物資不足はもとより、衣服も不足し
闇市でも入手できない立場の大衆は、1948(昭和23)年からGHQの放出衣料による古洋服の着用を始める。
戦争からの開放感もあり、おしゃれへの関心も高まり、洋裁学校が各地に開校したが、肝心の服地は不足していた。戦後初めてのファッションショーでは和服の生地(反物)を利用した洋服(ニュースタイル)が登場した。が②が戦後初めてのファッションショーの様子である。。
東京・共立講堂とは、
共立女子大学の講堂で、一般に神田共立講堂(※8参照)と呼ばれていたところ。共立講堂は1938(昭和13)年にオープンし、当時としては日比谷公会堂と並ぶ大ホールで、戦前戦後を通じ音楽や演劇などに良く利用されていたそうだが、1956(昭和31)年に火災のため焼失、現在の建物は翌・1957(昭和32)年に再建されたものだそうである。

大正ロマンチシズム、大正モダニズムなどと言う言葉を聞くと、ただそれだけで、何とも言えない洒落た感じを受けるが、そこには現代文化の源流を感じるからだろう。西洋と日本が混じり合った新しい文化 が登場したのがこの時代。絵画の面でも
竹久夢二や、高畠華宵の絵は今見ても古さを感じない本当にシャレた絵だものね~。
そういえば、
榎本健一があのだみ声で歌っていたモダンな歌があったよな~。確か、「おーれーは村 中で一番~ モボだーと言われーた男~~」ってな感じだったが、歌の題は,「洒落男」。その後は、確か「山高~帽子~でー・・・」と続く。以下参照。

洒落男- 二村定一 - 歌詞&動画視聴 : 歌ネット動画プラス

榎本健一ことエノケンは、1929(昭和4)年に「カジノ・フォーリー」で一躍人気者となったコメディアン。当時の歌を歌っていたのだろうが、子どもの頃よくこの聞いた歌だが、モダンで明るく楽しい歌だ。懐かしい。
大正~昭和初期の大正モダニズム全盛時代に、
浅草を中心に大流行した「オペラ」は、娯楽の少なかった時代の大人気イベントとして、モボやモガだけでなく、大勢の老若男女までもが劇場に押しかけたという。
ビゼーの『カルメン』、ロッシーニの『セビリヤの理髪師』、ヴェルディの『椿姫』『リゴレット』、それにスッペの『ボッカチオ』(※9参照)などが日本語で上演され、押すな押すなの大盛況だったという。しかも、それらのオペラは、「正統的なオペラ」として上演されることもあったが、多くは、日本風にアレンジされたり、パロディ化されたりしたうえ、フランス風のショウである“レビュー”や、ドタバタ喜劇、今の宝塚歌劇につながる少女歌劇などと同列に扱われ、観衆の大喝采を博したという。本当に、皆がモダニズムに酔っていたのだよね。でも、今の時代の流行とかファッションからいうとその中にはロマンが感じられるからいいよ。
今の時代の女性のファッションなどは、ひざ小僧どころかこれ見よがしに「おへそまで」{おしり」まで出してるのもあった。最近はちょっとおとなしくなってきているように思うが・・・。
それに、芸能の世界では、
吉本に代表されるお笑いの世界でも、話術ではなくつまらないギャグの連発で、ギャーギャー騒いでいるだけ。しゃれっ気などどこにもにないね~。
歌の世界でも、歌謡曲の世界などは、一流の作詞家、作曲家、そしてそれぞれ個性ある歌手の合作で情緒あるいい歌が多かったが、今では、いいものもがないわけではないが、何かリズムに乗ってギャーギャーわめいている感じのもの(歌というよりダンスミュージックに入るのか?)や作詞作曲も自分で作り、自分が唄える範囲の音域で器用に曲をこなしているといった感じのものが多い。だからいくら聞いていても記憶に残らない。これは私が、時代についていけない老いぼれ・・のせいかもしれないが・・・。
モダニズムのモダンは本来、現代的、近代的という意味だが、当時はそんな男性や女性をモガ・モボと呼び、またちょっと不良っぽい若者のことをも言ったようだ。しかし、今時の「モダン」を見ていると、今では、多少レトロなかっての大正モダンの方が、逆に新鮮に感じられる。
現在、ファッションショーの中でも「
コレクション」と呼ばれ、定期的に開かれる大規模なショーは、オートクチュールに関してはフランスのパリ、イタリアのローマで開催されるオートクチュール(フランス語で「特注の仕立て服」の意)・コレクションがある。プレタポルテ(通常、一流のデザイナーがデザインを手掛け、仕立てた既製品)に関しては、ニューヨーク・ロンドン・ミラノ・パリ・東京で開催される「世界 五大コレクション」と呼ばれているものがある。
それに、神戸っ子としては、最後に、ファッション都市宣言をしている
神戸市の「神戸コレクション」が注目されていることを付け加えておこう(※10も参照)。
神戸港の開港とともに外国人居留地が開設され、その洋風文化に刺激を受けて、神戸洋服・神戸靴・神戸洋家具・洋菓子などの産業が生まれ、育った。そんな神戸ならではのファッションセンスを背景として、優秀なアパレル産業が誕生した。昔から ハイカラな街神戸にはファッションをテーマにした日本初の神戸ファッション美術館まである。神戸に来たら是非寄ってみてください。
(使用の画像は、いずれも私の蔵書アサヒクロニクル『週刊20世紀』より借用したものである。)

参考:

※1:
ファッションブランドとは何か - アパレルコンサルタント

※2:三十坪の秘密基地

※3: (株)三越『株式会社三越85年の記録』(1990.02) | 渋沢社66ページ

※4;東 日出子 - 文化デジタルライブラリー

※5:小林 延子|文化デジタルライブラリー

※6:国立国会図書館デジタルコレクション - モダンガール

※7:大礼記念国産振興東京博覧会 - 博覧会資料COLLECTION | 乃村工藝 ...

コーヒーの日・神戸のカフェ文化

ブラジレイロ

①ブラジレイロ・カイコウハク


ブラジルの国土面積(※1の一般事情参照)は851.2万㎢、日本の約22.6倍(日本の22.5倍)という広大な国で、サンバの陽気なリズムに 激しい踊りのカーニバル画像)や世界最強といわれるサッカーチームを持つ豊かで大らかな国である。2014FIFAワールドカップ 2016年リオデジャネイロオリンピックが開催されるなど世界中からも注目されているが今は、経済、財政的には大変な時期にある。

1895(明治28)年、日伯修好通商航海条約が締結されブラジルと日本との間に外交関係が樹立され、 1908(明治41)年最初の日本移民791名を乗せた「笠戸丸」(※2の  コラム> 笠戸丸)が神戸港からサントス港へ入港したのが両国 の友好の絆を深めるきっかけとなった。

神戸はブラジルへの海外移住者が 25万人も出発した記念すべき地であり、財団法人日伯協会(※3)の本拠地でもあり、兵庫県パラナ州と、神戸市リオ・デ・ジャネイロ市と姉妹都市提携をしており、数多くの企業もブラジ ルに進出している。 官・民上げて友好の絆は深い関係であることは、前にこのブログで書いたところである。以下参照

ブラジル:ブラジル独立記念日

ブラジル:海外移住の日

そんなブラジルはる世界 最大のコーヒー生産国であり、世界の生産量全体のおよそ3割強を占めており、コーヒー豆をほぼ輸入に頼っている日本の最大の輸入国がブラジルである(※4:コーヒー大辞典世界と日本のコーヒー豆事情参照)。
そんなコーヒーと神戸の関わりは深い。
1868年1月1日(慶応3年12月7日)開港(※5の
ここ参照)以来の洋風文化が伝来。パンやスイーツに代表されるハイカラな文化は神戸港から始まったとえるが、コーヒー文化もそのひとつであり、神戸港を経由した生豆(コーヒー豆)の輸入により、明治時代に焙煎業者が多く根付いた。
また、喫茶店の元祖となる
コーヒーハウスが日本で初めて開店するなど、コーヒーは洋風文化と結びついた神戸らしい地場産業のひとつである。ネスカフェ(ネスレ日本。※6)やUCC(※7)という有名企業も本社を 構えている。

1930(昭和5)年9月20日から10月末まで、神戸では観艦式記念「海港博覧会」が開催された(※8参照)。

e-開港博覧会
②マイコレクション絵葉書「開港博覧会」
神戸湊川新開地料理店「ハナヤ食堂」の広告葉書


この絵葉書②マイコレクション絵葉書「開港博覧会」神戸湊川新開地料理店「ハナヤ食堂」の広告葉書は、前にこのブログ神戸「みなとの祭」絵葉書で使用したことのあるものだが、同博覧会は、サブタイトルを見てもわかるように神戸沖で挙行された海軍の「特別大演習観艦式」に合わせて開催されたものである。同博覧会開催理由等は以下を参照。

神戸「みなとの祭」絵葉書

また、観艦式の様子は時間があれば以下を参照。


博覧会会場は、兵庫突堤埋立地(第1。(Yahoo!地図)、湊川公園(第2)、関西学院跡(第3、現:神戸市王子スタジアム付近)の3カ所に及ぶ大規模なものであった。この時の博覧会場の様子は、※9:「昭和ノスタルジーのエキスポに行こう!前編」に数枚の絵葉書等写真がけいさいされている。また、同博覧会の様子は、 ※10:「神戸大学 電子図書館」に当時の大阪朝日新聞 1930.9.28 (昭和5)の記事が掲載されており、詳しく判る。
その一角にブラジルコーヒーを主に提供する店「ブラジレイロ・カイコウハク」(冒頭①画像参照。同画像は、2017・9.7神戸新聞朝刊より)か開設された。これは
サンパウロ州コーヒー局の直営であったらしい。ちなみに、(1908年から始まった日本人のブラジル移民の人達がサンパウロ州のサントス港についた後、すぐにサンパウロ近郊のファゼンダと呼ばれるコーヒー大農園(estate)につれていかれ、コーヒー農園での仕事に従事させられたことは移民の歴史で語られている有名な話である。
「ブラジレイロ・カイコウハク」というこの臨時施設同博覧会関係文献には記録されていないそうだが、その場所は南米移民を紹介した拓殖館(参考※10にその名が見られる)のあった第三会場・関西学院跡、原田の森であったようだ(博覧会開催前の原田の森キャンパの状況は※11参照)。
カフェといえば神戸ではパウリスタが有名であるが、「ブラジレイロ・カイコウハク」を引き継ぐように翌1931(昭和6)年、神戸市中央区三宮3丁目に本格的なカフェ「ブラジレイロ神戸」が誕生した。以下がそれである(画像は①同様2017・9.7神戸新聞朝刊より借用)。

ブラジレイロ神戸

③三宮三丁目「ブラジレイロ神戸」

以下参考※12:「神戸・兵庫の郷土史Web研究館」の展示室広告マッチ・ラベル>昭和初期の広告マッチラベル「元町商店街及び周辺の店の特集(第4回)」の●お菓子等のところにブラジレイロの開店広告マッチのラベルが見られる。同ラベルには「開店9月16日、特別奉仕、ブラジルコーヒー、荒挽珈琲」とある。
日本でのコーヒーの広がりは、ブラジル移民政策(※2:「ブラジル移民の100年」の
殖民論と国の移民政策参照)を推進した実業家・水野龍が、ブラジル政府から功績を顕彰されて5年間のコーヒー豆の無償給付を受け、1913(大正2)年に日本にカフェーパウリスタを設立。同年から1917(大正6)年までの間に年7,500俵、1918(大正7)年から1922(大正11)年までの間に年2,500俵のコーヒーが無償で供給されたが、1923(大正12)年にブラジルの政変(ブラジルの歴史参照)によって無料供給は断絶し、同年の関東大震災によってカフェーパウリスタの経営は大打撃を受けた。
神戸のカフェーパウリスタは東京銀座、大阪梅田新道、京都河原町に次ぐ4番目の店舗で、「ニッポン・ブラジリアン・トレーディング・カンパニー」(日本ブラジル貿易会社)の出張所も兼ね、コーヒー以外の貿易の窓口にもなっていた。
1931(昭和6)年には、横浜に置かれていたブラジル総領事館が1月1日神戸に移された年であり、コーヒーを核として、神戸とブラジルの関係が一層強固になった。
ブラジレイロ神戸は、建築デザインの面でも名を残すものであり、創業150年を数え、今も三宮に店舗を構える永田良介商店(※13)の三代目永田義次がヨーロッパ旅行から帰国し、最初に手掛けた仕事だったという。
建物の骨格は出来上がっていたので、直接かかわったのは、外壁の看板類と一回と2階のイス・テーブル・サイドボードや壁紙などの室内装飾であったらしいが・・・。その設計思想は本人の書いた「ブラジレイロ・コウベの装飾設計」という一文に詳しく述べられているという。実は、三宮生田前には1922(大正11)時点で「カフェ・ブラジル」という店も存在していた。同年1月洋画展覧会が展覧会が開催されたことを伝えるチラシも存在しており、これもモダンな店だったらしいが。詳しい記録は存在していないが6代目まで続いた永田良介商店と近接していたそうだ。(2017・9.7神戸新聞朝刊)。

参考:

※1:
ブラジル連邦共和国 |外務省

※2:ブラジル移民の100年

※3:一般財団法人日伯協会


※4:コーヒー大辞典

※5:神戸150年記念事業

※6:ネスレ日本 会社概要>

※7:UCC

※8:神戸市文書館神戸歴史年表

※9:昭和ノスタルジーのエキスポに行こう!前編


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