老いの愉しみ

老いのたわごと・ひとりごと。 私の住んでいる街神戸のことや趣味酒器類・絵葉書、貯金箱その他のことをいろいろと・・・  

性病対策のためGHQが推奨し、協力した娼婦映画『夜の女たち』

  po-夜の女たち
1948年公開松竹映画『夜の女』溝口健二監督


戦時中の日本政府の言論統制に代わって、1949(昭和20)年、9月15日にGHQが発令したプレスコード(新聞・放送規定)は占領下の言論統制である。この規定により、同年11月には、戦時中に東宝映画により製作された『あの旗を撃て!』など236本の映画が非民主主義的との理由で上映禁止・焼却の指令を受けたという。
これらの中には、
軍国主義を鼓舞する映画は無論のこと、仇討切腹をはじめ日本思想象徴とみられた富士山の写真の入ったものも含まれていた。例外は松竹映画のオープニング(OP)タイトルの富士山だけという笑えない話まである。
半面では,、戦時中に禁止されていたキスシーンが解禁され、1946(昭和21)年5月23日公開の松竹映画『はたちの青春』(監督
佐々木康)では、大坂 志郎幾野道子がオキシドール(過酸化水素水)を染み込ませた小さなガーゼをはさんで初めてのキスシーンを撮った。それでも大きな話題を呼び、映画館は連日満員になったという。
キスシーンなどは
わいせつ、これが戦前の日本映画の常識だった。・・・・が、アメリカ人にしてみればこれは常識というより、理解を超えた考え方だったことから、解禁というより、むしろ奨励されてのもだったようだ。
その同じ松竹が、1948(昭和23)年5月26日公開の
溝口健二監督『夜の女たち』(※1のここ参照)では戦時中はタブーだった娼婦を主人公とする作品で田中絹代高杉早苗リアリスティックな演技が評判になった。・・・ことについては、このブログ「キスの日」でも触れた通りである。
第二次世界大戦後の混乱期の日本には、700万人にも及ぶ
在外日本人引き揚げもあり、庶民は合法的に配給された食糧だけでは生活財に事欠き生活が困難であり、焼け跡には闇市が立ち並んだ。このブログ「「食料メーデー」のあった日」でも書いたが「ギブ・ミー・チョコレート」が流行語になり、「パンパン」と呼ばれる主として在日米軍将兵を相手にした街頭の私娼街娼)が登場したのもこの時代でもある。
当時若い男性は戦争で亡くなり、
結婚適齢期の男女構成比は大よそ、4:5、女性の5人に一人は、未亡人か未婚のまま一生を送った計算になる(ここ参照)。戦後の混乱した時代に、生活を男性に頼るしかなかった女性が女一人で食べてゆくには街頭にでも立って米兵を相手に売春でもしなくてはならない・・・。そんな悲しい女性が多くいたということだ。
占領軍は米兵に対する
性病の感染防止などを理由に、パンパン狩りを度々行ったようだ。だから、そのような時代背景のもと、戦争で夫を亡くし敗戦後の生活苦から娼婦に堕していく女性をシビアに描いた映画『夜の女たち』はシナリオの段階からGHQの検閲を受けたが、売春・性病問題を国民に認識させるものとして推奨され,さまざまな協力を得たという。女優たちの娼婦姿を登場させたポスター(冒頭の画像:『朝日クロニクル週刊20世紀』、1948年号、広告と生きた世紀より)は、従来のスタイルを破るものであった。

GHQは民主主義の定着に寄与するような娯楽映画を奨励した。そのような中で、黒澤明の『わが青春に悔なし』(1946年。※2のここ参照)、吉村公三郎の『安城家の舞踏会』(1947年。※2のここ参照)、今井正の『青い山脈』などに出演した原節子は西洋的な新時代の幕開けを象徴するスターとして国民的な人気を博した。

また、占領期の一時期において大映スター・三益愛子主演(※3参照)の浪花節的お涙頂戴的なメロドラマ作品群「母もの映画」(母性愛を主題としたもの)なるものが隆盛を極めた。
・・・が、同時に、「
カストリ雑誌」と呼ばれるものが非常に多く出版されていた。
カリスト雑誌は1946年ごろから出版自由化(但し検閲あり)を機に数年間発行された大衆向け娯楽
雑誌の総称である。
大戦後、それまで統制されていた言論活動はせきを切ったように活発になり,当時は活字であればなんでも売れた。戦中の統制下で休刊を余儀なくされていた雑誌 『
新潮』『文芸』が1945年に、「りべらる」(太虚堂書店)1月創刊が約20万部を売り上げるとそれに刺激されて空前の出版ブームとなり、同年には『中央公論』が復刊され、『世界』『展望』なども創刊されている。このような状況の中で目だったのがカストリ雑誌である。

1946(昭和21)年10月創刊の『猟奇』(茜書房。以下参照)が先鞭をつけたカストリ雑誌は、1948年~1949年に最盛期を迎え創刊数は年間数百に及んだという。

La biblioteca de Babel 獵奇 創刊號 [猟奇 創刊号] ( カストリ雑誌 )

「カストリ雑誌」とは、仙花紙(屑紙を漉き返した質の悪い紙)で作られていたことから「紙のカスをとって作られた→カス・トリ」雑誌の意。娯楽に飢え生活苦にあえぐ大衆にむさぼり読まれたが、ほとんど2~3号で休廃刊(=3号雑誌)したことから、「3号(合)で酔いつぶれる」といわれたカストリ酒(粗悪なときにメチルアルコールを加えたような密造焼酎の俗称)にかけた名称であるとも言われ、『猟奇』が掲載した「王朝の好色と滑稽譚(たん)」 「K大佐婦人」のように猥褻として処分を受けたものも多いようだ。『猟奇』第二号に掲載された北川千代三の小説「性愛告発譚・H大佐夫人」は、戦後初の発禁処分となったという(※2参照)。                                                                                                                                                                          

これらカストリ雑誌は戦中抑圧されていたの解放が一気に噴出したものといえ、内容は安直で興味本位なものが多く、エロ(性・性風俗)・グロ(猟奇・犯罪)など内容はほとんどが性風俗を中心とし,刺激の強さを売物にしたものであり、 表紙には官能的な女性の絵。ページを開くと、ポルノ小説や性的興奮をあおる記事、赤裸々な性生活の告白や猟奇的な事件のルポなどが載っていた(※4参照)。


GHQによる検閲をかいくぐり、当時人気だったストリップショーとともに、人々の荒(すさ)んだ心を癒やしたのは間違いないだろう。この「カストリという言葉は、騒然とし、猥雑だった戦後の世相そのものを象徴していた。

戦後の活字文化の中で開花したカストリ雑誌の誌名をあげるだけで時代が透けて見えるようでもある。「美貌」「犯罪読物」「奇譚」「事実小説」「実話ロマンス」「犯罪雑誌」「近代読物」「大衆クラブ」「面白講談」「娯楽小説」「ロマン春秋」「赤と黒」・・・。
歴史は夜つくられる。世俗にどっぷりつかっていたからこそ見えるものもあったのだろう。夜の女や街娼も登場した。戦争で家も肉親も亡くし、やむなく街頭に立ち、からだで商売をしてきた
女性、いわゆるパンパンである。彼女たちの生活に迫った生々しいルポルタージュは読者の関心を呼んだ。
先に紹介した『猟奇』初刊の巻頭には、
「読者諸賢を啓蒙(けいもう)しようとか、教育しようとかいう大それた気持は、全然有りません。読者諸賢が、平和国家建設の為に心身共に、疲れきった午睡の一刻に、興味本位に読捨て下されば幸です」と書かれ、「王朝の好色と滑稽譚(たん)」「胴人形の話」「孤島の奇習」などの6編の随筆や小説が収められているが、今、改めて読み直すと、猟奇と言うよりも、歴史や民俗の学術論文を読むような感じもある。単なるエロ雑誌というだけではなく、社会的な問題を鋭く追究した硬派な側面もあったようである。(※5参照)。

占領期において、「母もの」と対照的な内容のジャンルとしてが発生したものが、「パンパン映画」と呼ばれた一連のフィルムであったようだ。占領期という時代の特徴的な存在であるパンパン(街娼)の姿を扇情的に描いた
田村泰次郎の小説『肉体の門』(1947年『群像』3月号に掲載。5月に単行本化)の大ヒットと、10月「劇団空気座」(小説『肉体の門』の上演を巡り、上演反対を主張する水の江瀧子劇団たんぽぽを脱退した作家陣と俳優たちにより昭和21年3 月に浅草花月劇場で旗揚げされた劇団)による帝都座で の公演(舞台版)の記録的ロングランをうけ、映画界でも 1948(昭和28) 年以降、映画版『肉体の門』(1948 年 8 月公開、吉本映画、マキノ正博+小崎政房。脚本小沢不二夫。※1のここ参照)がつくられ、『夜の女たち』(1948 年 5 月 26 日公開、大映、溝口健二。冒頭掲載の画像)や『白い野獣』(1950 年 6 月 3 日公開、東宝田中友幸プロ、成瀬巳喜男※1のここ参照)といったパンパンをヒロインに据えた映画が多数製作された。

母もの映画とパンパン映画は一見対照的な
ジャンルのようにみえるが、その起源は実は同じだそうである(※6を参照、以下※6を基に書く)。
母ものの嚆矢と位置づけられる『山猫令嬢』(1948 年 3 月 9 日公開、大映、森一生。※7参照。カット写真あり)はそもそも、「母もの」として企画されたわけではなく、「母もの」ないし「母シリーズ」という呼称は『山猫令嬢』のヒットを受けて量産された類似の映画が人気ジャンルとして確立された1949 (昭和24)年以降に定着し始めたものだそうである。
つまり、『山猫令嬢』は、遡及的に「母もの」第一号になったわけであるが、※6掲載の新聞広告(図1 『九州タイムズ』1948年3月28日)をみれば、『山猫令嬢』が母ものどころか、むしろ、正反対とも思える『肉体の門』などに先行するパンパン映画の路線をいくものとして宣伝されていたことがわかる。
図1の 『九州タイムズ』にみられる『山猫令嬢』の広告には、「現代の悲劇!憧れの母は闇の女!」という
惹句にある「闇の女」とはパンパンの別称である。
ちなみに、『山猫令嬢』の企画段階におけるタイトルは「マダム上海」であったが、そもそも『山猫令嬢』にしても「マダム上海」にしてもタイトルからは
母性愛の物語は想像し難く、むしろ、“山猫令嬢”は自由売春を建前とするパンパンを連想させもする(映画では、京都でヤトナクラブを始める)し(『肉体の門』のヒロインのひとり(月丘千秋演じるスリの小娘夏目マヤ)は山猫マヤという源氏名である)、“マダム上海”は水稼業(水商売)の玄人女性をイメージさせ『山猫令嬢』のヒットを受け、やはり三益愛子と三條美紀を母娘に据えて製作された『母』(1948 年 8 月 23 日公開、大映、小石栄一。※3のここ参照)もまた、公開前のタイトルが「濁流を泳ぐ女」であり三益愛子が艶っぽいチャイナドレスに身を包み、元娼婦で今は若いパンパンを統率するバーのマダムを演じている。即ち、大映の母ものシリーズ 2 作目の企画段階までは、「母もの」というコンセプトは殆ど意識されておらず、それよりも、パンパン映画により接近していたことが確認できる。
「母もの」シリーズ誕生のきっかけは思いがけない興行的成功だった。田村泰次郎の小説『肉体の門』が注目を浴び、その舞台も記録的なロングラン公演となり、パンパン(街娼)が大衆文化の新たなヒロインとなっていたなかで、むしろ、パンパン映画との同時代性のなかで生まれたと考えるべきだという(脚本も『夜の女たち』と同じ
依田義賢である)。
しかしながら、パンパン映画は母もの映画のように 1950 年代後半に至るまで量産されるようなジャンルにはなり得えなかった。パンパン映画における女優の身体の露出、売春といった扇情的な内容は、
GHQの部局の一つCIE (民間情報教育局)にとっても問題視されるもので、いずれの作品も街娼の更正を強調することで検閲をクリアしていたが、それもやがて不可能になっていく。そもそもパンパン映画との同時代性のなかでつくられた『山猫令嬢』はのちに母もの映画として回収されてゆく。 
『山猫令嬢』以降に製作された母もの映画が如何にしてジャンルとして確立されていくかは以下参考※6で”3 母もの映画の生成プロセス:「母」の脱性化”を見られるとよくわかるが、そこには、
『母』においては、街娼たちに「姐さん」と呼ばれ、チャイナドレスに派手な化粧をほどこす酒場のマダムである【図2参照】三益の装いは、『夜の女たち』で田中絹代がパーマをかけた頭髪、派手な化粧で煙草をくゆらせ下着の肩紐を露わに【図3参照】、『肉体の門』では、
轟夕起子がシャツをまくりあげて腕の刺青をみせ、開脚したスカートの奥をみせている【図4参照】に比べて控えめなものであるが、三益の姿にかぶせられるBGMは「こんな女に誰がした」という歌詞で有名な『星の流れに』(作詞:清水みのる、作曲:利根一郎、歌は菊池章子)で、実際の街娼をモデルに作詞された当時の大ヒット曲である。



この歌のヒットを予測して同年8月『こんな女に誰がした』(監督:山本薩夫東横映画)が映画化もされている。

当時、このように人気女優たちによる街娼姿は商品価値が高かったらしく、実際は大映が率先して三益の「母もの」を生み出したものではなく、CIEの要請によって、性的にセンセーショナルな部分が削ぎ落とされ、なおかつ、「母の愛にかんする諸側面をおおいに強化」することによって、母性愛の物語へと変貌したというのが真相であり、大映が企画段階から母もの映画としてのコンセプトを意識して製作した(母もの映画の「母」の脱性化)のは『母三人』(1949年4月24日公開、大映、小石栄一。※1のここ参照)以降の『流れる星は生きている』(1949年9月18日公開、大映、小石栄一。※1のここ参照)において完成すると考えられているようだ。

戦争は多くの未亡人をつくりだした。戦死した兵士の妻は、戦時下においては、「
英霊の妻」として崇められていたが、敗戦後の社会は彼女たちを悪しき戦争の残滓(ざんさい =残りかす)として切り捨てた。戦争によって男性の数は激減していて再婚は困難であったし当時では、大半の未亡人自身がいまだ消えぬ夫への思慕や子持ちであること、そして「世間に笑われる」などの理由から再婚を望まなかった。
貞女は両夫に見えず」という考え方は、戦後民主主義政策のもとで「婦人解放」(マッカーサー五大改革指令の中の一つ)が叫ばれてもなお美徳(⇔悪徳)として温存されており、再婚と同時に友人すべてを失った未亡人さえあったという。一方で、行き場のない性欲について本音をもらす未亡人、独身者として恋愛を謳歌する未亡人もいたのも事実であり。また、決して少なくはない数の未亡人が生活のために娼婦やにもなった。未亡人は占領期に大量に発行されるようになったカストリ雑誌において愛欲に狂うヒロインとして、とくに頻繁に登場しており、昭和初期に活躍した「無頼派」の代表的作家・坂口 安吾は「未亡人は恋愛し地獄へ墜ちよ」(※9:青空文庫作家別作品リスト坂口安吾の『堕落論〔続堕落論〕』参照)と扇動したが、戦争の残滓という悪しきイメージと同時に「性の解放」というイメージをも持つ未亡人に対して、世間は大いに視線を注いだ。
『肉体の門』の前年に発表された坂口安吾『
堕落論』(※9:青空文庫作家別作品リスト坂口安吾のここ参照)のテーゼよろしく、こういった状況を“開放”と見る人々も居た。人間、いや日本人はこうやって生きてきたし、これからもそうやって生きていくのだという本質論からの肯定でもあっただろう 。

「どこか心の隅で何かを待ってるんです。ずるいんです」。これは『東京物語』(1953年11月3日公開、松竹、監督:小津安二郎、主演は笠智衆と原節子。※1のここ参照)において、ヒロインの紀子(原節子)が義父(笠智衆)に再婚を勧められた際にいう台詞である。続く台詞で、「あんたはええ人じゃ、正直で」という義父に対して、紀子は「とんでもない」と言下に否定する。一瞬にして美しい顔を強(こわ)ばらせつつも、ふくよかな腕をさらしてエロスを発散する紀子の身体は、まさしく抑圧と解放のはざまで引き裂かれた未亡人の複雑さを端的に表象している。
このような複雑な位置に立たされた未亡人たちの姿は戦後
日本映画にしばしば登場し、スター女優たちがこぞって演じた。例えば、田中絹代は『不死鳥』(1947年12月11日公開、松竹、木下恵介。※1のここ参照)では戦死した夫の幻影を抱き続ける清楚な戦争未亡人を、『夜の女たち』(1948年、溝口健二)では愛人、娼婦へと零落(落ちぶれること)する戦争未亡人を演じた。山田五十鈴は『母なれば女なれば』(1952年、1月17日公開、キヌタプロ、監督:亀井文夫)では未亡人の恋愛・再婚に対する世間の抑圧に対して反旗を翻す戦争未亡人を、『母子像』(1956年、6月1日公開、東映、監督:佐伯清。※1のここ参照)では米兵との売春行為を子に見られた挙げ句にその子が自殺してしまう薄幸な戦争未亡人を演じた。母もの映画もまた未亡人も表象が変奏されたものといえるだろうという。

母もの映画の本質は、母もの映画の母にとっての男たちは、階級差から結婚を諦める対象か、いまだ復員しない不在の夫か、悪人ゆえに婚姻関係を解消しているというのが基本パターンで、この点は、パンパン映画と類似した構造であり、物語のクライマックスは困難を乗り越えた母子が抱き合うシーンで、この父が加わることはない『母子像』は、母もの映画においてまるでイコンのように繰り返される。

三益愛子主演の『母』は冒頭のタイトルバックとエンドのタイトルバックが聖母子像で、このイメージが抱き合う三益と三條美紀とに重ねられている。

女が婚前交渉や売春で妊娠してしまうということを堕落として描きつつも、女がひとりで子を産み育てることを決意することによって贖罪され、母子は聖母子へ昇華する。
1948 年(昭和23) 8 月公開映画『肉体の門』も戦後の自由奔放さを描くリメイク群(例えば、1988年版
五社英雄監督映画)ではかたせ梨乃西川峰子らの潔い脱ぎっぷり、裸での絡みシーンの多さが話題となった。※8参照)のに比し、本作は、数寄屋橋の近くにたたずむ教会と、そのカトリック的世界観がフィーチャーされた、あたかも1980年代にジャン=リュック・ゴダールが取り組んだ『ゴダールのマリア』(1984年)を髣髴とさせる先駆的女性映画となっている。

第二次世界大戦後の占領期は、日本が女性の解放へとおおきく揖を切った時期であった。法のもとでの男女平等が「日本国憲法」に規定され、女性参政権が実現し、教育の機会均等が明文化され、古い「家」制度が解体させられた。
欧米の女性が長い苦しい闘争の結果獲得しまたは獲得しつつあった諸権利を、日本の女性は短期間に手にいれることができた。戦後第一回の衆議院議員選挙(
22回衆議院議員総選挙)の結果、日本初の女性議員39名が誕生している。

このような女性の解放は、日本の軍国主義復活を阻止しようとする連合軍総司令部の政策の一環であり、その政策を実現するための施策のひとつとして、出版物等の検閲がおこなわれた。占領は主権の侵害であり、検閲は言論の自由の侵害である。しかし、占領という事態がなければ、日本における女性解放は大幅におくれたであろうし、第二次大戦後の飢えと混乱の時代には、「カストリ雑誌」と称された大衆娯楽雑誌が、出版の自由に乗じて 約千種類も出現し、大衆文化の新しい領域を開いたともいえる。

「人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる」(坂口安吾『堕落論』)

 戦後とはいっても、戦争が終わっただけのことで、世の中は血なまぐさく、焼け跡には硝煙が漂っていた。廃虚と飢餓とインフレで騒然としていた。だが、庶民はとにもかくにも生きるよりほかにすべがなかった。カストリ雑誌はそんな時代を映す鏡だった。

朝鮮特需によって好景気が引き起こされ始めた1950(昭和25)年、D・H・ロレンスの『チャタレイ夫人の恋人』が発禁になったのを機に、当局は「カストリ雑誌」を目の敵にし、取り締まりを強化した。

戦後の混乱が収まるにつれ、週刊朝日をはじめとする新聞社系の第1次週刊誌ブームが到来。1955(昭和30)年代には出版社系の週刊誌が続々と登場し、総合週刊誌が大衆の支持を得ると、カストリ雑誌はその使命を終えた。世は天下太平。高度成長の時代へと移っていった。

そして、お間の時代の女性は・・・・。

参考:
※1:
映画.com

※2:【ほくりく昭和モノがたり】 雑誌「猟奇」初刊号(昭和21年):記事一覧:北陸


有 馬 温 泉

 
天神温泉源
A:有馬中央部にある
天神温泉源。神戸市
「市民のグラフ神戸」より

ここでは、兵庫県神戸市北区の南東端、六甲山の北の山間部にある有馬温泉の案内です。
ここに貼付の絵葉書は、私の持っている①~⑭の14枚(参考に2枚リンク)を添付している。そのほか、A~Dは、いろいろな参考資料説明用に借用しているものである。左A以外の画像はクリックで拡大します。
ところで、蔵書『埋もれた神戸の歴史』(神戸市学会刊)”の、有馬温泉のことに・・は以下の様に記載がある。
但馬(たじま)、播磨(はりま)、須磨(すま)、有馬(ありま)などの「ま」は、土地を現す「ま」だが、それでは「ありま」の「あり」はなんであろうか。
万葉集 に以下の歌がある。

万葉集1140:しなが鳥 猪名野を来れば 有馬山 夕霧立ちぬ 宿りはなくて (巻7 作者未詳。歌意※1の
ここ参照)

この歌にみられるように、有馬山というのは、
猪名野から見た一帯の名であったようだ。これを前提に見ると、万葉集では、「山下」を「あらし」と呼んでいるところもる(※2参照)。「下」を「し」とよむのは「高倉下(たかくらじ)」の例もあって、「山」が「あら」と読まれていることになる。

万葉集62:在嶺よし 対馬の渡り 海中(わたなか)に 幣取り向けて 早帰り来ね (雑歌,作者:舎人娘子。歌意※2のここ参照)

この歌の「在嶺よし」は「対馬」の枕詞だが、これを「在嶺よし」というのは、一種の合理化で、これは言語学的には「山(あり)根よし」とすべきであろうというのは
中島利一郎(『日本地名学研究』)の意見である。中島氏がこういう意見を述べる背景には、
満州語: Ala  山岡。蒙古語:Aloa 山…がある。
このような意見を取れば、「有馬」は「山(あり)ま」すなわち、「山間の土地」であるということになる。・・・と。
有馬郡湯之元之図
B:※4:東京国立博物館所蔵
古地図より、有馬郡湯本町之図
左の画像Bは、以下参考の:※3:「東京国立博物館」の所蔵 古地図近畿>、「有馬郡湯本町之図」(出版:菊屋五郎兵衛。1685年=貞享2 年)である。拡大図参照。村のはずれを曲がりくねって流れているのは、 有馬川(※4参照)である。
有馬温泉は、神代の昔大神、
大己貴命(おおなむちのみこと)と、少彦名命(すくなひこのみこと)の二神が作られたという伝説があるほどに古い温泉と言われている。「日本書紀」によると、1300年程前に34代舒明(じょめい)天皇は2度有馬に来られ又36代孝徳天皇も大臣や重臣を連れて来ている。 その後、僧行基(ぎょうき)が、この地に来て、衰えていた温泉を復興し、鎌倉時代には、仁西(にんせい)上人が熊野から来て12の宿坊を建て平家落人の療養に当たった。この頃から、温泉(外湯)を中心に周りの宿が開けていったので、有馬には、「坊」の名のつく旅館が多いと言われているが、実際に坊の名のつく温泉宿が現れてくるのは遙か後の室町中期以降といわれている(北の坊(兵衛)、池の坊、茅の坊、横の坊、中の坊、中蔵坊、奥の坊、尼崎坊、角の坊、上大坊、下大坊、二階坊)。その後、幾たびか河川の氾濫で有馬温泉は荒廃したようである。安土桃山時代豊臣秀吉が、河川の工事や泉源の保護をした上、たびたび入湯に訪れ8坊を加え、有馬温泉の宿は一二坊から二十坊になり、さらには四十坊近くになったそうである。坊には、当初二人ずつの湯女も配置され、客に入湯の時刻を知らせたり、浴衣を肩にかけ、客について浴場へ案内して行き、衣類や履物を預かり、入浴が終わると浴衣を出す。又、酒席の席では歌を歌ったりしていたらしい。正月の入初式で、芸妓さんが帯を前に結んで湯女姿で「入初の歌」を歌うところなどに、僅かにその名残が見られる(※5のここ参照)。
浮世名異女図絵

有馬山温泉小鑑
C:参考※5の
文化デジタルライブラリー
浮世名異女図絵より、
「摂州有馬湯女」
D:参考※6の
国立国会図書館デジタルコレクションより、
『有馬山温泉小鑑』(部分図)
コマ番号10で拡大図が見れる。
上記の画像Cは、参考※6「文化デジタルライブラリー」浮世名異女図絵より借用の画像である。眉を落として高い髷を結い、笹紅をさして肩に浴衣をかけた有馬の湯女が描かれている。落款は五渡亭国貞(ごとていくにさだ)画とある(文政年間 1820-1825の作品?)がこれは、 初代歌川 国貞の絵である。また、Dは、※7:「国立国会図書館デジタルコレクション」より借用の『有馬山温泉小鑑』であり、コマ番号10で拡大全図が見られる。コマ番号10全図には、当時の有馬温泉の共同浴場の様子が描かれているが、長い棒を持った湯女が描かれている。当時の有馬温泉は、その知名度と人気にもかかわらず、共同浴場が狭い一の湯と二の湯に限られていたため、入浴には時間の制限と順番が厳しく守られていそうだ。『有馬私雨』(作者:平子政長・江戸前期、1672年。※8参照)では「大湯女二十人小湯女二十人湯口に立ちかはり、夜昼となく入浴の下知をなし次第をわかつ」「遅くあがる者あれば大湯女小湯女手毎に棒をもて湯口の戸をたたき、あがれあがれとののしれば」とあるそうだ(※9参照)。
前口上がながくなったが、以下画像の説明に入ろう。上記の画像もそうだが、以下の絵葉書はすべてクリックで拡大する。

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①摂津有馬温泉場全景
先にも「しなが鳥・・・」の万葉集巻七の歌で説明したように、有馬のまちは、六甲山地の北側にある湯槽谷山や灰形山、落葉山、射場山など(※4の ここ参照)に囲まれた六甲山の北の谷間に佇む温泉であった。
数多くの温泉源があるが、
有馬温泉の中央部では、天神温泉源と呼ばれる温泉源が、天満宮と言う神社の境内にあり、境内に入るとドッドッと言う音がして湯気が黙々と立ち上がっている光景を見ることができる。(画像は冒頭のA参照。温泉の説明は※10「有馬温泉ナビ」の天神泉源参照)左の絵葉書は、明治後期の町の風景であう。
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②湯泉(とうせん)神社
有馬の温泉は都に近かったこともあって、古い時代から歴史に登場しており、『延喜式神名帳の摂津国有馬郡には、有間神社、公智神社、とならんで「湯泉神社(ゆのじんじゃ)」と記載されている(摂津国の式内社一覧参照)。湯泉神社は愛宕山の中腹にあり、祭神は大己貴命(大黒主命)。有馬の町が足元に開け、湯の煙が漂っている。しかし、元、神戸市役所の有馬寮のあった脇のかなり高い階段を登ったところにあるため、余り、参詣する人は少ないようである。この寺は、昔は温泉寺の境内の今の厳島神社の地に祀られていて、その別当を権現坊といい、浄土宗で京都智積院の末寺であったが明治維新の神仏分離の際、権現坊は廃寺、湯泉神社は明治8年に郷社となり、社殿の荒廃と境内が狭いので、明治16年に、現在地へ移したもの。左②の絵葉書は大正末頃のものだろう。 
e-arima03
③薬師堂・・現在、温泉寺(清涼院)
と呼ばれている。

左③薬師堂(もう一枚②と同じセットもののカラーがあるがこちらがきれいに見えるのでこちらにした)は、愛宕山の麓にあり、「霊泉山」と号しているが、元は、常喜山温泉寺(※10のここも参照)。聖武天皇の頃僧行基(ぎょうき)がこの地に来て、温泉を開いた時自ら丈六薬師如来を堂を建てて安置し、又、熊野権現を勧請して、温泉寺と言ったと伝えられている。初めは真言宗だったらしいが、元禄12年(1696年)京都智積院の末寺となったとき、権現坊を熊野権現の別当職とし、温泉寺の仏事には、権現坊他六寺院で勤めることになり選任の住職はいなくなった。明治維新の神仏分離で、権現坊は廃せられ寺も無住の為廃寺となる。薬師堂だけが残ったので、その奥の院であった清涼院をここに移した為、温泉寺や薬師堂の名は消えたが、今の清涼院はその薬師堂である。有馬の旅館に寺院のように坊の字がつくのが多いのは、温泉寺の縁起によれば、建久二年(1191年)僧仁清(にんせい)上人が熊野権現の夢のお告げで、承徳(しょうとく)元年(1097年)に雷雨洪水によって埋没した温泉を有馬へ来て再興したとき、薬師の十二神将にかたどって、十二の坊舎を建てたのが始まりと言われる。温泉の開祖、行基菩薩、中興の仁清上人の両像は毎年正月2日の入初(いりぞめ)式に御輿に乗せて若者が町中を練り歩くと聞く。本堂の木造波夷羅(はいら)大将立像(重要文化財)などの寺宝が所蔵されている。絵葉書は明治後期のものだろう。
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④霊泉⑤摂津有馬炭酸湧出場
有馬には、炭酸泉(「二酸化炭素泉」に同じ)の湧出るところが多いが皆明治になって発見された。飲用や浴用に供しているのは、本温泉の南の方300mばかり杉ケ谷の西端の射場山の麓(今の炭酸泉源公園)にあるもので、有馬炭酸泉中の最初に発見されたものだそうだ(※10の炭酸泉源参照)。昔からここに水溜りがあって、春秋には池底から気泡が発生し「昆虫や鳥類がこの水をのめばたちどころに死すなり」と言い伝えており、地獄谷のものと同様、毒水としてだれも近づかなかったが、明治8年大阪の内務省がこの水を分析したところ有効な炭酸泉であることが判り、湧出口を石で囲み上屋を作り、休憩所も設けて飲用の便を図ったと言う。炭酸泉は当時大変珍しいもので、有馬を訪れた人は必ず訪れ賞味したと言う。今、中央の丸い石からこんこんと冷たい炭酸水が湧き出ているが、飲む時は左手の飲料場を使用することになっている。左の絵葉書の井戸の横(左奥)には、小さな茶店らしきものが写っているが、阪神淡路大震災で崩壊するまで、砂糖を溶かした炭酸泉を飲ませていた茶店だろう。有馬名物「炭酸せんべい」もこの炭酸泉を利用したもの。
④⑤ともに明治後期のものだろう。
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⑥鳥地獄

愛宕山の麓の低地は地獄谷と呼ばれている。この谷には約15mづつ間をおいて、三つ穴が地面にあり、鳥地獄、虫地獄、炭酸地獄などといわれていた。昔、ここに温泉が湧いていた頃、常に炭酸ガスが発生していたので、先にも書いたように虫が入り込んだり、穴に近づく小鳥さえ死ぬのでこんな名がでた。今は名だけの名所となっている。左の写真は大正の頃の写真と思うが、鳥地獄の石碑が見える。今は石の標識だけが残っている。



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⑦湯ノ町本温泉

昔の有馬温泉の宿は外湯が中心で、外湯の一の湯,二の湯を中心に発展するようになる。 本湯は一つしかなかったので、内部を一の湯と二の湯に分けて間を板で仕切りをしていただけのようである。一の湯,二の湯は湯泉神社に向かって左を一の湯、右を二の湯にしていたようで、一の湯は○○坊、二の湯は○○坊が入浴できるといったような決まりがあったそうだ。
明治に入って一の湯、二の湯は、普通温泉となり、宮殿風の建物で営業されることになる。浴槽は家族風呂と普通の浴槽から成り立ち、泉温は40度位で今よりかなり低かったようである。この有馬温泉が、内湯になるのは、昭和に入ってからのことであり、泊り客は、入湯の為に宿から本湯まで出かけていたのである。
 ⑦の絵葉書は私が持ている3枚の絵葉書のうちの1枚(2枚は
ここ参照。画像はこちらの方がきれい)には「湯ノ町本温泉」とあり、これがその「本湯」の写真であろう。以下参考※11:「絵葉書資料館」の西日本→兵庫・有馬には、⑦の絵葉書と同じ写真絵葉書があり、それらには、「摂津有馬本温泉」「有馬名勝 本温泉」  「有馬 元湯温泉場」と書かれている。⑦の絵葉書には2階があり正面入り口の上には看板2階喫茶・・・」とも記されているが、絵葉書資料館のこれらにも2階がある。それとは別に同じ「有馬本湯温泉場」で、2階のないものもあった。多分これの方が古いもので2階のあるものは後に建て増したのだろう。この本温泉の初代は明治16年に建てられ洋風だったらしいが、同24年に平屋建て本殿造りに改装されたようだ。その後、大正15年には3階建てに、昭和35年には鉄筋4階建てに改装されている。この絵葉書の本温泉は本殿作り2階建てのようであり、従って、時代的には大正の2回目の改装後のものと思われる。
この本温泉のある一番手前の道路標識には「おくの坊別館・・」の文字が、道路を隔てた右一番手前建物には「内湯旅館 角の坊」の看板が見られる。いづれも有馬温泉が開発された時の有馬十二坊の一である。

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⑧摂津有馬高等温泉場

左⑧には「摂津有馬高等温泉場」とあるが、有馬温泉には、普通温泉の他に高等温泉があった。高等温泉は普通温泉と違って家族風呂であったそうだ。この高等温泉の 泉源は普通温泉と共用で明治32年に六甲山鳴動(有馬鳴動ともいう。※12の郷土史の談話(41)参照)があり、40度の温泉が54度まで上がり、湧出量も倍に増えたため明治36年に建てられたそうだ。家族温泉の為に入浴料は普通温泉より少々高かったようである。大正15年、本温泉浴場を3階建てに改装し家族風呂を作り、高等温泉は廃止になったそうだ。この絵葉書の向かって左の橋の下に滝川が流れている。滝川は六甲山からの水を集め、町の西をぐるりと回るように北へ流れている川で、渓流の周囲は、四季の美しい景観を誇っていた。

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⑨街景(有馬名所)

右⑨の街景(有馬名所)の絵葉書には中央の白い建物が建っている位置は、現在の阪急バスのりば付近である。建物の看板には「宝塚有馬自動車株式会社」の名が見える。同自動車会社は昭和2年(1927年)3月28日に設立された現在の阪急バスの前身である。その白い建物の左手には、旅館「橋の家」の看板と建物が、又、白い建物の奥には木が茂っていて判りづらいが、「二階坊別館」(二階坊は12坊の一)の看板と建物が見える。 この絵葉書は昭和初期のものと思うが、観光客であろう女の人達の多くは未だ着物姿である。今は懐かしいボンネットバスが白い建物の前に見える。
ところで、今の有馬温泉に、二階坊の名前が見られないが、どうなったのだろう。たまたま「兵衛向陽閣」のホームページを見ていたら、同HPの「昔の兵衛」に「二階坊」が並んで載っていた。昔は兵衛に負けない大きな旅館であったようだ・・・(※5:「兵衛向陽閣HP」の
昔の兵衛参照)

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⑩有馬ラジューム新温泉全景

 大正4年4月、三田から有馬まで有馬軽便鉄道(有馬鉄道。国鉄有馬線)が開通し、所要時間1時間足らずで有馬に来ることができるようになった。有馬、有馬口、新道場、塩田、三田の5駅で、会社は、単線の線路と駅舎のみを所有し、運行は鉄道院が行った。しかし、この鉄道は戦時中の金属回収でレールを供出しそのまま廃線になったと言う(※13参照)。
⑩の絵葉書のラジューム新温泉は、この鉄道が開通したときに作られた町営の温泉である。
瑞宝寺奥に湧出た温泉を引き、駅の北、現在「楽山」のある辺りに建設した。インド・サラセン様式(ムガル朝イスラム建築ムガル建築。ここも参照)を取り入れたハイカラ洋風3階の建物で、当時としては珍しいドーム天井、大理石張りの風呂場で人気をあつめたが、昭和13年の水害(阪神大水害参照)で流出し、そのまま姿を消した。

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⑪摂津有馬瀧道鼓橋
付近の景

昔から、有馬の代表的な名所として鼓の滝とその近くの有明の桜がある(鼓ヶ滝公園参照)。左⑪の絵葉書は、鼓の滝へ向かう滝道鼓橋付近の写真で、中央奥に白っぽく見えるのが、鼓の滝であろう。
滝は六甲山を源とし、下流の滝川へと繋がる。滝山、灰型山、落葉山に囲まれ、滝山の中腹から上下二段になって落ち滝川になるのだが、一段目の岩の空洞内に落ちる水音が、周囲の山に響いてまるで
を打つ音に似ているので滝の名となった。付近には清流とともに山桜、楓などが多く四季を通じて景観美に富んでいたが、いくたびかの洪水と阪神大水害で岩盤が崩れた為、いまでは音も聞こえないし、周囲の雰囲気もかわってしまった。
有明の桜の枝振りの見事さは江戸時代から有名であったようだ。今、鼓が滝公園の中にある桜のことであろうか。世に言う「有馬六景」(有馬の人達の写生をもとに高僧が絵を描き、それに近衛氏以下の公家が和歌や詩を添え1770年(明和7年)に出来上がる。※14:「神戸有馬温泉元湯龍泉閣」の有馬六景参照)にも、鼓の滝と有明の桜が選ばれている。
 有明の桜は有馬の民謡「有馬の四季」(作詞:吉井勇、作曲:杵屋六佐衛門)にも歌われている。
・春霞たなびくあたりあたご山 有明桜ほのぼのとこの世からなる極楽寺 ・・・・・以下略(※14:「神戸有馬温泉元湯龍泉閣」の
有馬の民謡参照)。 

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⑫有馬名勝・瑞寶寺境内

⑫の瑞寶寺は、有馬温泉の東南のシダの尾山の麓にあり、江戸時代の寛文年間(1661年~1672年)に黄檗宗の寂岩道空の創建した禅寺であった。山門は伏見城の遺構を移したと伝えられるが、明治6年に廃寺となる。境内には、枝振りの見事な老松に交えて楓の木が多い。今は,市の公園となっているが、特に秋の紅葉の景観か素晴らしく、崖下の鼓の滝の響きとともに、心の澄む想いがして時の経つのを忘れさせてしまうことから、古来、「日暮の庭」とか「錦繍谷」と呼ばれてきた。毎年秋11月2、3日には秀吉を偲ぶ野点(有馬大茶会)も行われ、庭内には太閤秀吉遺愛という石の碁盤もある。

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⑬摂津有馬稲荷神社拝殿及本殿

⑬の有馬稲荷神社は、古い神社であり、同社由来所によると、舒明天皇・孝徳天皇(西暦630年~670年代)有馬温泉行幸のおり、有馬字杉が谷に有馬行宮(杉が谷行宮)が造営され、この有馬行宮の守護神として稲荷大神を勧請し、これが有馬いなりの源となる。 以来、有馬行宮の跡に鎮座し、慶応4年(西暦1868年)5月9日、有栖川の宮織仁親王殿下のご令旨を賜り、永世宮家のご祈願所となり、また、明治37年(西暦1904年)5月9日に、丹波・丹後・但馬の三丹州を見下ろす、海抜689mの射場山(功地山)の中腹(現在地)に在来の古松老杉清泉奇石の外、新たに四季の花木を植え、高潔優美の霊境となすことを目的として移転造営したとある(※15参照)。花では特にこぶしの花で有名である。又、本殿より一段高いところに展望台があり、そこからの眺めは実にすばらしい。有馬名所のひとつに数えられている。 

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⑭有馬温泉名勝・栄廣泉

⑭の絵葉書は明治末か大正の頃の絵葉書と思うが、標識にも「栄廣泉」と書かれており、床机の様な休息所もある。有馬温泉の多くある泉源の一つで、当時は名の知れた泉源の一つであったのだろうが、私が調べた本などには栄廣泉の名は見当たらず、詳しいことが判らない。ただ、有馬関係のホームページの中で、※16:「ご近所の有馬泉源について」のHPの「泉源一覧表」に栄廣泉の名が見られる。
そのホームページを見ると、「無色透明の湧出水と、炭酸がブクブク出ているのを確認することができます」とあり、かなり、自然の中に放置されたような荒れた状態の写真が掲載されていた。泉源の泉質の説明には、「自噴の二酸化炭素冷鉱泉」とあり、今は、使えなくなっているのであろう。

参考:

※1:
ニキタマの万葉集

※2:山下風」小考 (PDF)

※3:東京国立博物館情報アーカイブ」東京国立博物館所蔵 古地図

※4:六甲砂防 - 六甲の川物語 | 有馬川物語 - 国土交通省近畿地方整備局

※5:有馬温泉 兵衛・向陽核閣

※6:浮世名異女図絵:文化デジタルライブラリー

※7:国立国会図書館デジタルコレクション - 有馬山温泉小鑑

※8:有馬私雨

※9:浮世絵に描かれた有馬の湯女 -江戸時代の温泉ブランド戦略(Adobe PDF)

10:有馬温泉ナビ

11:絵葉書資料館

12:神戸・兵庫の郷土史Web研究館/郷土史探訪ツーリズム研究所

13:神戸新聞NEXT|三田|幻の国鉄有馬線 往時しのびたどってみた

14:神戸有馬温泉元湯龍泉閣

15:有馬稲荷神社|兵庫県神社庁

16: 「泉源一覧表」(「ご近所の有馬泉源について」



キスの日

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今日(5月23日)は、「キスの日」
1946(昭和21)年5月23日、日本で初めて
キスシーンが登場する映画、佐々木康監督の『はたちの青春』が封切られたことによるらしい。

戦時中の日本政府の
言論統制に代わって、1949(昭和20)年、9月15日にGHQが発令したプレスコード(新聞・放送規定)は占領下言論統制である。この規定により、同年11月には、戦時中に東宝映画により製作された『あの旗を撃て!』(以下参照)など236本の映画が非民主主義的との理由で上映禁止・焼却の指令を受けたという(『朝日クロニクル週刊20世紀』1948年号) 。

あの旗を撃て - YouTube

これらの中には、軍国主義を鼓舞する映画は無論のこと、仇討切腹をはじめ日本思想象徴とみられた富士山の写真の入ったものも含まれていた。例外は松竹映画のオープニング(OP⇔ED〔エンディング〕)タイトルの富士山だけという笑えない話まである。
そして、GHQは下部組織である教育文化政策を担当するCIE(
民間情報教育局)を設置し、さらにCCD(民間検閲支隊。※1参照)を置いて、日本の映画などは二重の検閲を受けることとなった。
その占領政策により、CIEの
デヴィッド・コンデから発布された製作禁止リストにおいて、国家主義愛国主義自殺仇討ち、残忍な暴力映画などが禁止項目となり(これが俗にチャンバラ禁止令と呼ばれている)、日本刀を振り回す剣劇(時代劇)は軍国主義的であり、敵討ちなど復讐の賛美がアメリカ合衆国に対する敵対心を喚起する要素があるものとして一時製作が制限された。そして、企画と脚本段階で英語に翻訳し、CIEで許可されたもののみ製作が許された。
お蔭で、私のようなチャンバラ大好き人間がこのようなチャンバラものの
時代劇を見られるのは、1951年(昭和26年)9月の講和条約(日本国との平和条約)成立で自由に時代劇が作れる時代が来るまで待たねばならなかった。

戦後、最初(2か月後)に公開された映画は佐々木康による松竹映画『
そよかぜ』(※2:「映画.com」のここ参照)で、当時23歳の松竹少女歌劇団員であった主演並木路子による主題歌リンゴの唄』が大ヒットした。

そして、戦時中に禁止されていたキスシーンが解禁されている。
キスシーンなどは
わいせつ、これが戦前の日本映画の常識だった。・・・・が、アメリカ人にしてみればこれは常識というより、理解を超えた考え方だった。
そして、終戦の翌1946(昭和21)年に、キスシーンを入れるよう勧告。
この結果、松竹では『はたちの青春』 (佐々木康監督。※2の
ここ参照)、大映で、『或る夜の接吻』(演出:千葉秦樹、脚色:吉田二三夫。原作は大映が筋書と脚本を募集した際の当選作品「新生」の映画化。※2のここ参照)がつくられ、どちらも1946(昭和21)年5月23日に公開された。
当時1990年代の
ヘア解禁の時のように、『接吻映画』として話題になり、唇にオブラートを貼って撮影したらしいなどと、ゴシップ誌のネタにもなった。・・・が、実際には、『はたちの青春』で、大坂 志郎幾野道子が小さなガーゼをはさんで演じただけで、もう1本のキスシーンを撮った『或る夜の接吻』にいたっては、若原雅夫奈良光枝が抱き合ってそれと暗示させるだけにとどまっており、どちらも話題ばかりが先行した、きわもの的な作品だったようだが、4年後の1950年3月21日に公開された今井正監督の『また逢う日まで』のガラス越しのキスシーンは、プラトニックな恋を象徴的に描き上げ、映画史に残る名シーンとして記録されている(第24回キネマ旬報ベスト・テン第1位。)。以下がそのシーンである。
また逢う日
『また逢う日まで』1950年今井正監督東宝映画の一シーン。
主演岡田英治と久我美子の窓越しのキスシーン。
空襲で避難した地下鉄構内で出合った学生・田島三郎(岡田英治)と若い女性画家・蛍子(久我美子)とのストイックな恋の物語である。
出征を前に蛍子の家を訪れた田島が彼女の体を求めることもなく家を去るときに、二人がガラス越しにそっとキスをする。
主演の岡田英次が映画化を勧めた
ロマン・ロランの反戦小説『ピエールとリュース』(※3参照)を水木洋子八住利雄が日本人の感性で翻案・脚色し、東宝争議終結後、フリーになった今井監督の自主製作再開第2回目の作品である。戦争によって引き裂かれた恋人の姿を描き、戦争の残酷さを訴えている。

戦後の占領下、GHQは軍国主義化復活には厳しい監視の目を光らせながら、一方では民主主義をの定着に寄与するような娯楽映画を奨励した。そのような中で、
黒澤明の『わが青春に悔なし』(1946年。※2のここ参照)、吉村公三郎の『安城家の舞踏会』(1947年。※2のここ参照)、今井正の『青い山脈』などに出演した原節子は西洋的な新時代の幕開けを象徴するスターとして国民的な人気を博したが、日本映画最初のキスシーンが撮られた佐々木康の『はたちの青春』などもその一環で製作されたものであった。
主演の大坂史郎と幾野道子がほんのわずか唇をあわせただけのものだったが、それでも大きな話題を呼び、映画館は連日満員になったという。
終戦後絶望に
打ち拉(ひしゃ)がれて苦しい生活難の中にあって、人々は、戦時下に制限されてきた娯楽や文化に潤いを求めていた。闇市では古本が売れ、NHKラジオでは「素人のど自慢」がはじまった。そんなひとびとに文化の薫りを伝えたのはやはり映画であった。とりわけ解禁されたアメリカやヨーロッパの映画は、日本映画にない「自由の匂い」を漂わせ人気を集めていた。
しかし、終戦後1952(昭和27)年4月29日の対日講和条約の発効まで、戦前、内務省の検閲を受けていた日本映画は、戦後はGHQの検閲を受けることとなり、いわゆる「民主主義」的な、あるいは「反軍国主義」的な作品の製作が要請され、「
戦後デモクラシー(民主主義)」が流行語にもなっていたこの時代に、戦前は禁止されていたキス・シーンを、スクリーンに描きだすことは、GHQの女性解放という理念をかかげた占領政策の一環(民主主義礼讃作品)でもあったのだが、当時、ほんのわずか唇をあわせただけの一場面があるだけの『はたちの青春』が日本映画初の接吻シ-ンと宣伝され、大ヒットとなったのだが、今の若い人たちには、ほんの70年程前に、このようなキスぐらいで大騒ぎしていた時代があったとは、とても信じられないだろうね~。
この「キス」「キッス」という言葉は、英語の”Kiss”がそのまま外来語として定着したものなので、明治時代から生じた言葉である。
明治以降、kiss”の翻訳語としては、概ね「口づけ」「接吻」といった言葉が文学上も使われてきたが、それでは、明治以前の江戸時代には”Kiss”のことをどのように言ってきたのだろう。
結論から言うと、江戸時代でも、それ以前、平安末期(『
今昔物語集』巻19第2話 ”参河守大江定基出家語 第二”にもみられる。※4のここ参照)ように「口を吸う」が最もよく使われた表現のようで、「口を吸ふ 時に困ると 天狗言ひ」などという川柳もあるそうだ(国文学者・「山口仲美の言葉&古典文学の探検」※5の論文 -『内から見た日本語』参照)が、何か、この言葉のイメージでは、そう簡単に、人前で出来るものではないだろう。性行為としてのキスは、昔からあった。宮川一笑による春画Wikipedia-接吻ここ参照)などにもよく見られる。
最近は、「口づけ」「接吻」又、「キス」「キッス」などよりも「チュー」などと言う軽い言葉が、よく使われているようだ。このような表現になると、もう、言葉のイメージも可愛いく、なんとなく、どこででも誰とでも簡単に出来そうな雰囲気になってしまう。現に、私の孫なども、小さい頃、遊びに来ると、「ジージー、チューしてあげる」などと言って、額に、「チュー」をしてくれた。もう、小さな子供にまで「チュー」が日常化しているのだ。

初のキスシーンを撮った同じ松竹が、1948(昭和23)年5月公開の
溝口健二監督の『夜の女たち』は、戦争で夫を亡くし敗戦後の生活苦から娼婦に堕していく女性をシビアに描いた作品である。この映画では、戦時中はタブーだった娼婦を演じる田中絹代高杉早苗のリアリスティックな演技が評判になった(以下左画像参照。クリックで拡大、『朝日クロニクル週刊20世紀』より)。
po-夜の女たち
松竹映画『夜の女たち』
この映画、シナリオの段階からGHQの検閲を受けたが、売春性病問題を国民に認識させるものとして推奨され、さまざまな協力を受けたという。女優たちの娼婦姿を登場させたポスターは従来のスタイルを破るものであった。
戦前戦後にかけて活躍した女優・田中絹代が、翌・1949(昭24)年に、芸能人として戦後初めて渡米し、芸術親善使節として全米の日系人を慰問したり、戦没者の慰霊などをした。そして、
ハリウッドでは、ベティ・デイビスジョン・クロフォードら当時の大スターを表敬訪問し、1950(昭25)年1月に帰国。
出発時は豪華な古代ものを使った
小袖姿 だったが、帰国時には茶と白のアフタヌーンドレスと毛皮のハーフコート、緑のサングラスといった派手な服装で、機内から現れた彼女の第一声は「ハロー」。そして、銀座のパレードで出迎えの市民らには学んだばかりのハリウッド調の投げキッスを連発。世論の激しい反発を受け、その後しばらく深刻なスランプに陥っていたという。
又、1950(昭25)年に、田中絹代に次いで、コンサートとハリウッドなどでの勉強の為に、訪米した女優
山口淑子(元参院議員)は、東京での歓送会で映画評論家から、「本場の美しい接吻(せっぷん)の場面を学んできなさい」とアドバイスされ、ハリウッドでの記者会見で訪米の目的を聞かれて、本人は大まじめに「キスの勉強に来ました」と、答えたらしいが、ジョーク好きなアメリカ人はこれを、軽妙な受け答えととり、翌日の新聞に、「キスを習いにきた日本の女優」と、好意的に紹介されたというエピソードなどもある。
今のように、小学校で
性教育をしなければならないほど、性が開放的になった時代では、こんな、キスの話など、ちっとも面白くないでしょうね。
戦後の娼婦たちは、好きで売春などしていたわけではない。そんなことしなければ食べてゆけない時代であった。経済的に豊かになった今の時代。若い子が遊興費欲しさなど、小遣い稼ぎや金儲けのために
キャバクラとかで闇の商売?をしているとも聞くが・・・。

(冒頭画像は、マイコレクションより、カラクリものの電池式貯金箱。コインを入れると、2人の子供が、別々に回転し、向き合ったときにキスをする。 )

参考:

※1:
検閲研究ウェブサイト - 早稲田大学

※2: 映画.com

※3: 【教養人のための『未読の名作』一読ガイド】ピエールとリュース [著]オールコット[訳]渡辺淳

※4:攷証今昔物語集(本文) [やたがらきゃbすナビ]

※5:山口仲美の言葉&古典文学の探検


疑わしきは罰せず

「白鳥事件」犯行声明

上掲の画像は「白鳥事件」犯行声明ともみられるアジビラ
画像はクリックで拡大


刑事裁判は、犯罪を起こした疑いのある人が本当に犯罪を行ったのか(有罪か無罪か)。もし行ったとしたのならどの程度の刑罰を与えるのか(懲役や罰金など)などを決める裁判のことである。
「疑わしきは罰せず」(ラテン語:in dubio pro reo)は、ラテン語の直訳から「疑わしきは被告人の利益に」ともいう。
刑事訴訟(
刑事訴訟法参照)において、被告人が有罪だということに「合理的な疑い」(※1)が残らないほどまでに、検察官証明しなければ、裁判所は被告人を有罪にしてはならないという原則を示す法諺(ほうげん)なのである。
その
萌芽)は、すでにローマ法にみいだすことができるが、刑事訴訟においてこの原則が確立するのは、近代になって人権の尊重が強調されるようになってからであるらしい。被告人は「無罪の推定」(推定無罪参照)を受けるという原則と同じ意味をもつ。
つまり、「疑わしきは罰せず」の言葉は事実認定の過程を裁判官の側から表現したものであり、これを、当事者側から表現した言葉が「推定無罪」であり、ふたつの言葉は表裏一体をなしている。
フランス革命の際に発せられた人権宣言(人間と市民の権利の宣言)は、「すべての者は、犯罪者と宣告されるまでは、無罪と推定されるものである・・・」(9条。ここ参照)と規定し、世界人権宣言(1948年)も、「犯罪の訴追を受けた者は、・・・・法律に従って有罪の立証があるまでは、無罪と推定される権利を有する。」(第十一条の1。※2参照)として、この原則を明言している。
したがって、すべての者は、犯罪者と宣告されるまでは、無罪と推定されるものであるから、その逮捕が不可欠と判定されても、その身柄を確実にするため必要でないようなすべての強制処置は、法律により非常にきびしくに抑圧されなければならない(日本大百科全書(ニッポニカ)の解説)。
このように、刑事訴訟法では、訴える側に立証責任(
証明責任)が有り、その証拠がなければ、裁判官は判決を下す事が出来ない。
その証明の程度としては、「合理的な疑いを差し挟まない程度まで」検察官が証明することが要求される。つまり、その証拠証明が、「合理的である」と裁判官が認められない場合、「疑わしきは罰せず」となるのである。
日本の場合、この「疑わしきは罰せず」は、戦後の「
白鳥事件」(ここも参照)の頃から、目立って来たのではないだろうか。この概念自体は以前から有っただろうが、「合理的である」証拠が重要とされたのは、近代になってから、1975(昭和50)年5月の「白鳥事件」の再審請求で、最高裁が「白鳥決定」で、「疑わしきは被告人の利益に」という原則を再審にも適用するとの判断を示して以降、冤罪の差し戻しが増えたのではないかと言われている。
しかし、皆さんはこの「白鳥事件」についてどのくらいのことをご存じですか?
「白鳥事件」とは、1952(昭和27)年1月21日に
札幌市警本部警備課長白鳥一雄警部が射殺された事件である。・・・が、その詳細は、正直、私もよくわからない。
このような近代の歴史的なことについては、私はいつも参考にしている蔵書・朝日新聞出版の分冊百科『朝日クロニクル週刊20世紀』(
ここ参照)や毎日新聞社版の『戦後50年史』などを手掛かりにし、これをもとに、ネットなどで調べながら書いているのだが、「白鳥事件」が発生した年度1952(昭和27)年の重大ニュー(国内)として、どんなものがあるかはわかるが、Wikipediaにも、「1月21日-白鳥事件」と記入はあるのだが、朝日や毎日の両百科事典には白鳥事件以外の大きな出来事は詳しく書かれているが当事件のことには詳しいことは何も書かれていない。
ただ、『朝日クロニクル週刊20世紀』の1952年号の中で「白鳥事件」のことについて、先日(5月19日)私もこのブログ「食料メーデーがあった日」の中では簡単に触れただけだが、朝日の同誌のこの5月1日メーデーを取り上げた“
血のメーデー、日本革命の夢はるか”と題して書かれている、2Pから5Pまでの記事の中に、「白鳥事件」としての記事としては、冒頭の画像を掲載し、その添え書きとして、以下のように簡単に書かれているだけである。
白鳥事件
1月21日に札幌市警本部警備課長白鳥一雄(かずお)警部(36)が射殺されたる。白鳥警部が、労働運動や共産党対策にあたっていたことから、警察は共産党関係者の犯行と判断いた。一方、事件の3日後、犯行声明とも思える日共札幌委員会名義のアジビラ(冒頭の写真。画像クリックで拡大)が札幌市内でばらまかれた。共産党員が逮捕され、75年最高裁で有罪が確定したが、はっきりした証拠はなく、後味の悪い結末となった。97年、当時の容疑者の1人が中国で生存していることが分かった。
・・・と。
そして、このページの記事の下の欄外に、白鳥事件の影響として、
「最高裁判決では、
最審請求について、新証拠などによって確定判決事実認定に合理的な疑いが生じた場合、「疑わしきは被告人の利益に」という刑事裁判の鉄則が適用される、との判断を示した。これが、死刑が確定していた免田財田川松山事件の再審につながった。」・・・・と。(この三事件に島田事件を足して四大死刑冤罪事件ともいう)。
そして、ほかにも詳しく書いたところがないかを他の年度でも調べたが、年表のところに、以下の3件が記載されていただけである。
1952(昭和27)年号、1月21日:札幌市で白鳥一雄警部が射殺される(白鳥事件)。55年8月、容疑者として共産党員村上国治ほか2人を起訴。
1963(昭和38)年号に、10月17日:最高裁が白鳥事件上告審で2審判決(村上国治に懲役20年)を支持して、
上告棄却。
1975(昭和50)年号に、5月21日:最高裁が白鳥事件で村上国治の最新請求を棄却。

・・・・と。

この白鳥事件は、敗戦後5年、サンフランシスコ講和条約(
日本国との平和条約)の発効目前(調印=1949年)の、朝鮮戦争勃発(1950年)により日本が再軍備へと向かう混沌とした時代に起きた事件であった。
この事件は、冤罪か否かなど謎も多いのだが、先にも書いたように、朝日新聞社編の『朝日クロニクル週刊20世紀』でも“地のメーデー、日本革命の夢はるか”と題した記事の中に、そっと、冒頭のアジビラの写真を掲載し、それの添え書のようにして、前述した程度のことがサラっと記載されているだけでその全容はわからないが、これが、
権力に弱いマスコミのやり方なのだろう。しかし、他の書物やインターネットには、白鳥事件やそれに関連する事件について書かれたものは少なくない。
ただ、このような事件の場合、往々にして権力側に立つ者、また、その反権力者側の者など、それぞれの視点、
イデオロギーのもとに書かれている場合が多く、白鳥事件の真相を私たちが判断するのは容易ではないが、以下参考の※3:「オワリナキアクム(事件録)」は、多くの資料を参考によくまとめた事件禄であり、わかりやすく書かれているので、時々私も参考にさせてもらっているページであり、まずは、Wikipedia-「白鳥事件」とともに、ここ(白鳥事件参照)を読まれると事件の全体像がよくわかるのではないか。
また、他では、元
共産党の幹部で,同党のことに通じている社会運動研究家宮地健一夫婦が共同で作っている「宮地幸子と健一のホームページ」(※4参照)の“健一のMEN U”の中には、この事件に関連することが、資料も豊富に詳しく書かれており、参考にはなる。健一MENUの7、逆説の戦後日本共産党史の以下を参照。
1、朝鮮戦争と武装闘争路線, 
2、白鳥事件
3、メーデー事件
これを見ると、当時、武装闘争路線へと傾倒していく日本共産党の北海道内組織の動向と射殺事件の関係などもよくわかる。
『亡命者 白鳥警部射殺事件の闇』(筑摩書房。
ここ参照)の著者 後藤篤志は,1948(昭和23)年に北海道紋別市生まれで,北海道大学の教育学部に学んでいる、まさに70年安保闘争の世代で、サッカーに熱中し,ベ平連のデモに参加する「ノンポリ」であった彼は、「白鳥運動」などを通して,「白鳥事件は冤罪だ」と思っていたが,「北大で白鳥事件のことになるとOBや先輩達の口が重くなるのを不思議に思っていた」という。そして、教育学部教授の布施鉄治のように,「権力への鋭い告発をしてきた反骨の学者」でさえ,「白鳥運動」に取り組もうとする人に,「冤罪と思っている人は北大にはいない。白鳥事件を三鷹事件松川事件と同列に論じる訳にはいかない」と釘を刺していたという。その声を聴いた彼が,その後、社会派ジャーナリズムとして、70年代から追いかけてきた白鳥事件の真相をまとめたのが同著だそうである。
確定判決によれば,白鳥事件は,日本共産党
中核自衛隊の組織的犯罪とされている。
当時、共産党は
細胞とよばれる基礎組織を日本全国の学校や党員の職場などで結成していたようだが、四全協・五全協軍事方針が実行に移されるようになるのは1952(昭和27)年に入ってからで、この白鳥事件、青梅事件(東京・青梅線の貨車暴走事件)、小河内村山村工作隊事件(東京小河内村の山村工作隊一斉検挙)と大小無数の武装衝突事件が起こっていた(※4の日本共産党の戦後秘史(1))。そのため、同年7月には日本共産党の武装闘争を取り締まるため破壊活動防止法が制定・施行されたくらいである。
北海道では、その前年(1951年)に炭坑から掘り出された石炭を輸送する列車を赤信号で停め、石炭を市民に奪わせる計画が暴露された(「赤ランプ事件」 3度とも失敗に終わる)があり、これに関わったとされるのが、白鳥警部射殺事件後に逮捕された村上らの面々だったようだ。
白鳥事件での共産党の武装闘争は無軌道で混乱したものだったが、これは、一方で当局の捜査も、実行犯が行方不明のまま、唯一の物証である弾丸の
捏造(ねつぞう)疑惑を裁判官に指摘されるというものだった。
射殺された白鳥一雄は戦前・戦中は
特高警察であり、ハルピン学院に派遣(留学)されていたこともあるとされており、終戦時も特高警察の外事係として情報収集にあたっていたようだが、戦後は札幌市警の警備課長として左翼運動を監視し、当時GHQ相手の売春婦の取り締まりや半ば非合法に活動していた共産党の取り締まりの実務を行っていたらしい。
当時、日本はまだ
占領下にあったので白鳥は、占領当局(GHQ)との公然、非公然の情報取引も行っていたらしく、さらには、私的に情報収集の民間人(ヤクザ右翼)の協力を得ていたとの伝聞もあったようだ。
そんな白鳥警部殺害には、彼の具体的な行動に対する憎悪だけではなく,「特高」の匂いに対しての面もあったのかもしれない。戦前に
治安維持法によって、共産主義者の名をもって逮捕されたものの数は定かではないが、数十万名にものぼり、送検後拷問などにより死んだ者の数は1600人以上いるという(※4の戦前の治安維持法等弾圧諸法令と被害の実態について参照)が,「特高」の匂いは,この組織の戦前から引き継いだ本能を強烈に刺激したのだろう。
また、当時、中・ソの共産党幹部は、日本の共産主義者の活動により、米軍占領地域で政情不安となり、あわよくば、
赤色革命が起きればよいと考えていたようだ。
そんな中、日本共産党の
中核自衛隊は、米軍に直接攻撃を加えることはせず、日本共産党の取り締まりを図る白鳥警部を狙った。・・白鳥殺害の動機にはそのようなことがあったのかもしれない。
しかしいずれにしろ、人を殺害するといった大それた行動を数名の中核自隊員だけで勝手にやれるはずはなく、当然、上部からの命令でやったものであるようだ(元委員長の
宮本顕治が深くかかわっていたといわれている。※4の白鳥事件と宮本顕治の関与度・党内外犯罪参照)。
逮捕された、村上國治には、刑事訴訟法上は無罪判決が下されるべきであったかもしれないが,判決後現われた多くの事実と証言によって,白鳥殺害への組織と村上個人の関与は裏付けられている。したがって村上有罪の各判決の結論は,仮に「誤判」(裁判官が誤って下す判決)と呼ぶことはできたとしても,「冤罪」と呼ぶべきではないようだ。
白鳥事件では,裁判官が
適正手続外で認識する諸情勢は、村上國治の関与を強く指し示しており、札幌委員会および中核自衛隊関係者の証言によって,組織の関与も明白であるが、訴追側の行動にいくつかの逸脱があって,その最大のものは証拠弾丸の捏造だが,それにもかかわらず幌見峠で火器を使った軍事訓練が行われたという事実は完全に証明されているようだ。
しかし、組織は,「実行者」だけでなく,「目撃証人」をも当時日本と
国交が無い中国に逃亡させるなど、意図的組織的な証拠湮滅によって実体的真実に迫る道を阻害しているという状況が存在していたことから考えると、白鳥事件をめぐる裁判結果は、村上有罪という官憲側の勝利と「白鳥決定」という弁護側(共産党側)勝利の相打ちに終わったともいえるようだ。

「疑わしきは罰せず」(ラテン語:in dubio pro reo。ラテン語直訳:「疑わしきは被告人の利益に」)は刑事裁判における原則である。
1975 (昭和50)年5月 20 日、最高裁がこの「刑事裁判の鉄則を再審にも適用すべき」などとする画期的な「白鳥決定」が出てから 今年で、42年目になる。「白鳥決定」以前は、再審は「
開かずの門」と言われて、幾多の事件で無実を叫び続ける悲痛な叫びも、裁判所の厚い壁の前に押しつぶされる時代が長く続いてきたが、「白鳥決定」以降その流れが変わった。
刑事裁判の大原則「疑わしきは罰せず」は、刑事裁判での冤罪は被告人の
人権に回復不可能な侵害をもたらすため、刑事裁判は慎重に行うべきであり、「間違いなくこの人物が犯人だ」という確証がない限り、有罪判決を言い渡すべきではないという意味であるが、現実に、法廷で、どれだけ徹底されているのかは疑問があるようだ。
日本では、
前科のある被告、とくに暴力団関係者に対しては、「疑わしい」だけで有罪判決が言い渡されている現実があるという。
例えば、薬物事件の裁判で被告人が「飲んだ酒の中に薬物が入っていたのに気が付かなかった」と主張し、別の人物が酒の中に薬物を入れたと証言したとしても、被告人に同種前科があれば自発的に飲んだと認定され、有罪判決が言い渡されているという(※5参照)。
この例は、近年の日本の犯罪史(
日本の刑事事件の一覧 参照)上、帝銀事件( 1948年)や和歌山毒物カレー事件( 1998年)とともに三大毒殺事件の一つとも言われている三重県名張市葛尾(くずお)地区の公民館で起きた毒物混入事件「名張毒ぶどう酒事件」(1961年)のことであろう。この事件は再審請求取り消しをめぐって「疑わしきは罰せず」の原則が注目を集めた。
日本弁護士連合会が、基本的人権を著しく侵害するもののひとつが冤罪事件であることに鑑み、冤罪事件である可能性のある事件を人権侵犯事件(人権が侵害された疑いのある事件)として特に支援している最初の事件である(日本弁護士連合会が支援する再審事件参照)。

地方局(
東海テレビ)が作った異色のドキュメンタリー『ヤクザと憲法』(2015年3月放送)、それに続く 『ふたりの死刑囚』(2015年10月放送)が、再編映画化もされ、ミニシアターで上映されて話題になった。
前者には、“
暴力団対策法から20年”の サブタイトルがあるように、憲法14条が定める「法の下の平等」に、ヤクザは含まれるのかという問題を指している。ヤクザ、一般市民には怖い存在だが、そんなヤクザにも妻や子など家族がいる。そんな家族を養っていかなければいけない。しかし、暴対法のおかげで生活が苦しくても足を洗えないという現実がある。
『ふたりの死刑囚』は、1966年に静岡で発生した強盗殺人放火事件「
袴田事件」の袴田巌死刑囚(2014年に約48年ぶりに釈放)と、「名張毒ぶどう酒事件」の奥西勝(獄死)の今を追ったもの。
特に地元局の使命として、「名張毒ぶどう酒事件」は代々の記者たちが長期取材を敢行し、その過程で確証を得た奥西勝死刑囚の冤罪を訴え、映画『
約束 名張毒ぶどう酒事件 死刑囚の生涯』(2013年公開)も発表している。
冤罪を晴らすべく支援した人たちの努力は報われず、容疑者として逮捕・起訴された奥西は、裁判では一貫して無罪を主張したが、1972年死刑判決確定後、死亡するまでの43年にわたり確定死刑囚のまま収監され続け、再審請求を出し続けていたが刑が執行されることなく、2015年に89歳で獄死している。以下は弁護士をしている人のブログだが中に映画の動画など張られているので興味のある方は見られるとよい。

映画『ヤクザと憲法』(東海テレビ)を観たいと思いませんか?

奥西氏の死の後に残るのは、司法に対する絶望的なまでの不信感である。その後、2009(平成21)年5月21日には裁判員制度が施行されるなど、大きな刑事司法改革が行われ、 一部の事件には取り調べの全過程の録音・録画を義務づけるなど、制度の改革が行われてはいる。しかし、過去の裁判の誤りを認めることについては、裁判所の姿勢はほとんど変わらず、実に消極的だとの指摘がある。いくら有罪判決の根拠が崩れても、DNA鑑定や真犯人の出現などによって、別の犯人像が証明されでもしない限り、なかなか再審の扉「(開かずの門」)は依然として開かないようだ。
裁判員制度導入により、国民も
裁判員として刑事裁判に関与し冤罪事件に無関心ではいられない時代となった。少しは勉強しておかないといけないが、難しい問題だね~。 

このような冤罪事件とは逆に、日本ではこの「疑わしきは罰せず」の原則に反して
密室で起きた性犯罪強姦強制わいせつ痴漢など)やセクシャルハラスメントに関係する裁判では、被害者の証言が全面的に採用され「疑わしきは罰する」と言うが如き判決が相次いでいるとの指摘もある。
一昨日の5月18日夜、埼玉県のJR京浜東北線・川口駅でホームから線路に飛び降りた男が逮捕される事件があったが逮捕された男は「痴漢の犯人と間違われて、頭が真っ白になって逃げるしかないと思った」…と供述しているようだが・・・。以下がそのニュース。

「線路飛び降り「痴漢と間違われ逃げるしか」

また、交通事故等の過失犯にも、「疑わしきは罰せず」の原則が適用されにくい印象があるという。被害者が死亡して、目撃者がいないうえに物証(「物的証拠」)が乏しく、被害者の一方的な過失によって事故が生じた可能性がある場合でも、被告人の過失行為が事故の直接的な原因になったと認定され、有罪判決が言い渡されることが少なくないそうだ。
これは被害者や遺族の処罰感情に、裁判官が配慮しているためのようで、疑わしいが絶対的な証拠のない被告人を原則通りに無罪放免していたのでは、社会が納得せず、
司法制度への支持が揺らぐことも避けられず、このような現実を前に、原則が棚上げされているのが実態なのだという。
そして、奇妙なのは、刑事裁判でより厳格に適用されるべき「疑わしきは罰せず」の原則が、むしろ民事裁判(
民事訴訟参照)において、立証のハードルを高くする形で反映されるケースが目立っているという。
ある会社で経理部長がお金を使い込んだとしても、会社が返還を求めて経理部長を訴えても、民事裁判で返還が命じられるのは、経理部長が遊興費に当てたことが領収証で証明されている場合など、完全な「クロ」の部分に限られている。消去法からすると使い込んだ人間が経理部長以外に考えられない場合でも、原告である会社が実際の使い込みを領収書等で証明しなければ、経理部長に返還を命じる判決が言い渡されることは、ほとんどない。被告である経理部長は、正当な用途にお金を充てたことを立証する必要さえなく、端的に言えば「わからない」「知らない」と法廷で述べるだけで充分。それは、不正行為を証明する責任が原告側にあるためだそうである。
「疑わしきは罰せず」という原則が、むしろ民事裁判に反映されていることについては、
社会正義の観点から疑問であることが少なくないが、薬害C型肝炎の被害者が高い立証のハードルの前に敗訴した例もあり、被害者の救済という観点からすると民事裁判に「疑わしきは罰せず」の原則を反映する形で立証のハードルを高くすることは、本末転倒という意見もある(※5参照)が、その通りだろう。

政治資金規正法は、政治家や政治団体が取り扱う政治資金について規定した法律であり、「規正」(※6の政治資金の規正参照)が正しく、「規制」ではない。
辞書には「規正=(不都合な点を)正しい方へ直すこと」「規制=予測される好ましくない事態に備えて、何かに制限を設けること」(新明解国語辞典)となっている。それなら「規制法」でいいじゃないかと思うのだが・・・。
この法律は、政府から
補助金をもらった企業が、一年以内に政治家に献金をするのは違法だ、・・・・というものだが、それは言い換えれば、政治家が企業から献金を受けたとしても、寄付を受けた企業・団体が、国から補助金を交付されていたのを、政治家が「知りませんでした」と言えば、違法にはならないということ。だから、政治家さんに何を質問しても都合の悪いことは「知らない」・・・と答えておけば違法にならない・・・。
また、政治資金の支出については、ほぼ規制していないため、この法律は全くの
ザル法との批判が多い。

今の第20代
東京都知事小池百合子は歴代最多となる21人が立候補した、2016年7月31日の東知事選に得意のマスコミを利用した派手なパフォーマンスを武器に人気を得て、勝利し、都知事就任後早々に、都政改革をうたい政治団体都民ファーストの会などを立ち上げ、2017年7月都議選勝利をもくろんでいるようだが、肝心の都知事として速やかに実行しなければならない築地市場豊洲への移転問題2020年夏季東京オリンピック開催準備問題は一体どうなるのやらわからない状況。
そのようなこと神戸市民の私などが心配することでもないので別にして、東京都知事といえば、小池知事の前の2人の知事を思い出す。2人の知事とも、その任期は1年2ヶ月、2年5ヶ月ほどと短命であった。
医療法人
徳洲会グループからの資金提供問題(5000万円の闇献の有無、ここ及び。徳洲会事件参照)で、2013年12月辞任に追い込まれたのが、18代東京都知事猪瀬直樹であり、その辞任を受けて、実施された2014年東京都知事選挙で当選を果たし、第19代知事に就任したのが舛添要一である。
しかし、舛添知事の三つの政治団体(※6の
政治団体とは参照)の「政治資金収支報告書」(2012~2014年、※6の資料集・政治資金関連参照)を精査した『週刊文春』に暴露された一連の公私混同の政治資金乱用についての記者会見での弁明については、その内容たるや全く常識では考えられないひどいものばかり、家族旅行でいった正月の温泉リゾートでの多額の支出は「会議費用」で計上されていたりしているが、舛添知事に事実関係を尋ねても、「すべて法的に適切に処理しています」との回答。
政治資金規正法は
収賄があるかなど不当な収入に対する規制は厳しいが、その使途(金の使い方)は収支報告書に虚偽の記載がない限り法的には触れないことになっている。追及する方は、常識から考えて、いくらおかしいと思っても、それが、虚偽の記載だとする証拠を見つけない限り、恥も外聞もない人間がのらりくらりと、いい加減な回答をしていても、罪にはならないようになっている。全くのザル法である政治資金規正法を盾にとっての釈明である。
自らの公私混同問題などで世間の批判を受け、結局舛添知事も2016(平成28)年6月21日辞任した。
 「政治資金規正法」は、法律そのものに欠陥があるのだから改正が必要なのだが、改正をするにしても「正しい方へ直す」のではなく、政治家自身にとって都合のいい抜け道作りに腐心するだけのことだろう。政治不信を払拭するには、献金・寄付の厳しい規制法が必要なのだが、そもそも何のために税金を使って
政党交付金を設けたのかわからないよね~。

それはそうとして、
衆院
法務委員会は昨:5月19日、犯罪計画段階で処罰する「共謀罪」の趣旨を盛り込んだ「テロ等準備罪」を新設する「組織犯罪処罰法改正案」を与党日本維新の会の賛成多数で可決した。与党側が採決を決める緊急動議を提出し、採決を強行。23日に衆院を通過させ、24日の参院審議入りを図る。廃案を求める民進共産両党は抵抗し、委員会は騒然となった。週明けの衆院本会議に向け攻防が激しさを増しそうだ。


今回衆院法務委員会で採決された「組織犯罪処罰法改正案」の内容及び、組織的な犯罪の共謀罪に関する
・なぜ,今,組織的な犯罪の共謀罪を新設するのか
・どのような行為が,組織的な犯罪の共謀罪に当たるのか
・共謀罪が設けられると,通信や室内会話の盗聴,スパイによる情報取得などの捜査権限が拡大され,国民生活が広く監視される社会になってしまうのではないか
といった、国民にとって、気になることに関するQ&Aなどはまず、以下参考の※7:「法務省:組織的な犯罪の共謀罪に関するQ&A」を参照されるとよい。

今は、世界中で

テロが吹き荒れており、ISIL、ISIS(イスラム国)といったイスラム過激派組織が「自分の国でテロを起こせ」と叫ぶ時代になっており、実際に、諸外国でテロが多発しており、やがて、日本国内でもテロが起きる可能性がゼロではなくなってきており。2020年の東京オリンピックを控えて、多くの観光客に紛れてテロリストが国内に入ってくる可能性も心配されている。また、米国と北朝鮮の対立関係が緊張を増している中、既に、その同盟国日本に北朝鮮や中国などの工作員などが潜入し、スパイ活動をしている可能性もあるし、また、オウム真理教のようなカルト集団が発生するかもしれない。
したがって、これらの防止のための施策が必要なことはよく分かる。

共謀罪
「共謀罪」疑問、一般人は?
神戸新聞5月20日朝刊より

共同謀議とは、英語で、Conspiracy(コンスピラシー)と呼ばれ、英米法上の特殊な犯罪行為であり、2人以上の者が、不法な共同目的の遂行のため、合意すること。"合意だけで犯罪"とされる。

「共謀罪」は、犯罪の実行行為に加わらなくても、その犯罪について、「相談」「議論」「聞いているだけ」でも、罪に問うことが出来るという法律であることから、共産党などの野党やマスコミなどが激しく反対するのは、戦前の「治安維持法」が思い起こされ、「思想」「信条」「表現」「集会」「結社」などの法律で認められている"基本的人権"が、損なわれ、更に、警察や検察などの権力の拡大解釈によって、ねじ曲げられる可能性を恐れているからであろう。
確かに、その面が心配されないわけではなく、難しい問題であるが、先に述べたような意味で日本の平和を守るためには、きっちりと、人権が守られることを前提に、治安の維持も必要ではあろう。私も、もっと、勉強しなくてはいけないな~。
与党は、「組織犯罪処罰法改正案」の後に、性犯罪を厳罰化する刑法改正案の今国会成立をも目指しているようだが・・・。

参考:
※1:
法廷用語の日常語化に関するPT最終報告書・第2 4)評議(Adobe PDF)

※2:世界人権宣言(仮訳文)-外務省

※3:オワリナキアクム(事件録)

※4:宮地幸子と健一のホームページ

※5:第28回 疑わしきは罰せず?罰する?|北海道経済 連載記事|しらかば法律事務所

※6:総務省・政治資金

※7:法務省:組織的な犯罪の共謀罪に関するQ&A

※その他:刑事裁判の全て|知っておくべき基礎知識|厳選 刑事事件弁護士ナビ






食料メーデー」のあった日

  食糧メーデー

①5月17日 食料メーデー 皇居坂下門

   
1946(昭和21)年 の今日(5月19日)は、皇居前広場 で25万人による「食糧メーデー」があった日である。冒頭①画像はその様子。
現在の豊かな
飽食の時代に、戦後飢餓時代の食糧事情を知っている人の数も少なくなってきているだろう。
1945(昭和20)年の暮れ、
渋沢敬三蔵相が、「21年には1千万人の国民が餓死するかもしれない」と語った。(朝日クロニクル・週刊20世紀(1946年参照)。
政治家としては、随分無責任な発言のようだが、その頃
大阪では、1ヶ月に60~70人の餓死者があり、東京の場合は、上野駅周辺だけでそのくらいの死者が出ていたというから、蔵相の発言もそれほど意外な感じでは受け取られなかったようだ。
餓死者の中には、
栄養失調の上、着ているものと言えば夏の半袖シャツという状態が重なって、寒さに耐え切れずに死んだ人も含まれていたが、彼らも食べ物にさえありついていたら、死なずにすんでいたかもしれないという意味では餓死者である。
1945(昭和20)年、戦争が終わった日本の経済は、混乱そのものだった。戦争で何もなくし、生産活動(財・サービスを生み出す活動)をしようにもその材料もない。一方、戦争のために
国債が多く発行され、貨幣流通量(通貨供給量)が経済取引が必要とする以上の量になったために、インフレが起こり、国民生活は苦しくなった。
外地からは
引揚者が続々日本列島に戻ってくる。日本経済はありとあらゆる面で、物不足が激しかった。しかし、食料生産が間に合わない。そのため統制経済が導入されたため、コメは当然配給制であったが魚の配給もあったし、マッチさえ配給であった。
このような状況下で、当時の人々にとって生きるための何よりの頼りは
闇市だった。闇市には何でもあり、金さえあれば手に入れることはできた。ただし、シチューはアメリカ軍の残飯を集めたもので、常にすえた臭いを発し、中からタバコの空き箱や切った爪が出てくるということもザラ。これが1杯10円である(残飯シチュー参照。その他の物価→※1:「戦後昭和史」の戦後昭和史 - 消費者物価指数の推移参照)。
それなのに、政府は生産活動を行うための資金を集めるため、庶民の
預金金利はインフレ率(ここ参照)よりも低く抑えられ、更に、1946(昭和21)年2月に新円切替を行った。これは金融緊急措置令(※2も参照)および日本銀行券預入令(※3のここも参照)を公布し、5円以上の日本銀行券を預金、あるいは貯金、金銭信託として強制的に金融機関に預入させ、「既存の預金とともに封鎖のうえ、生活費や事業費などに限って新銀行券による払出しを認める」という非常措置を実施した。
それは、「今の
紙幣は使えなくなります。銀行へ預金しなさい。引き出すときには新しい紙幣を渡します。ただし、生活費の引き出しは世帯主月額300円、のちに100円、世帯員ひとり月額100円以内が限度で、それ以上は引き出すことはできません」、つまり「一月を1人100円で生活しなさい」ということだった。
インフレの中で、金利を抑えられ、お金がある人でもその使用額を規制され、人々は、
箪笥(タンス)の中の衣類などを食べ物に物々交換をするといった「たけのこ生活」を余儀なくされたのである。
それでも、そのような 「たけのこ生活」を出来る人は幸せな人であった。
今、「カムカムエブリボディ」の歌を記憶している人も少なくなっただろう。
1946(昭和21)年から放送された
東京中央放送局(現:NHK)のラジオ英会話の平川唯一が有名になったのは、童謡「証城寺の狸囃子」の曲に載ったあの英語の替え歌(“Come, Come, Everybody”)のせいだった。このラジオ番組はその主題歌から「カムカム英語」とも呼ばれた。

カムカムエヴリボディ [平川唯一、坂田真理子] - YouTube

しかし、今になって思うと、、「カムカムエブリボディ」は「カムカムエブリシング」の間違いだったのではないかとさえ思われる。あの時まだ子供だった私達が「来い来い来い」と思い浮かべていたのはヒトではなくモノではなかったか?
通りがかりのアメリカ軍(
進駐軍)がくれるチョコレートやキャンディーというものだった。
わが国が戦争で負けた相手(戦勝国)の進駐軍の兵隊さんに通りすがり、小さな子供がどこで覚えたか「ギブミーチョコレート」などと声をかけると恵んでくれたものだ。

♪右のポッケにゃ 夢がある
左のポッケにゃ チューイン・ガム♪

1950(昭和25)年9月に公開され当時13歳だった
ひばりが主演し、唄った映画『東京キッド』の同名の主題歌(作詞:藤浦光、作曲万城目正)である。明るく楽しいリズムの楽曲と映画が共に大ヒットし、戦後混乱期の日本人に夢と希望を与えてくれた。
  

美空ひばり 東京キッド 当時13歳


「左のポッケにゃ チューイン・ガム」。2番では「チョコレート」という歌詞が出てくる。いくら夢があっても、食べるものがなくては生きてゆけない。左のポッケにあるチューインガムや.チョコレートは当時簡単に手に入るものではなかった。おそらくは進駐軍にもらったものだろう。戦後、食料の少なかった当時は食べるということは、まさに死活問題であった。
ひばりがポッケに手をつっこみ明るく唄うその姿に、当時の人々は困難の中を生きていく命の力を感じた。
親のいない子供達などは、
ガード下靴磨きをしたり、どうしようもない場合は、かっぱらいで飢えを防ぐしかなかった子も多かった。又、戦争で働き手の男を亡くした女性には、もっぱら進駐軍などを相手にした「パンパン」と称されるものが多く出現した。私の家の隣の家に間借りしている女性に、その手の人がいたのを覚えている。

少し順序が後先逆になったがもとに戻る。
そのような戦後の物不足の1945(昭和20)年10月、大阪で「米よこせ風呂敷デモ」が行われた。これは、遅配・欠配の続く主食(
米穀)の配給に業を煮やした比嘉正子などが中心になって大阪・鴻の池の主婦たち15人が風呂敷を持って布施(現東大阪市)の米穀配給公団支所(食糧管理制度参照)に対して抗議した事件である(※4:「都島友の会 創設者 比嘉正子」戦後の比嘉正子参照)。
1935(昭和10)年を最後に中断されていた
メーデーが1946(昭和21)年5月1日、11年ぶりに復活、東京では皇居前広場に50万人が集まった(以下②第17回メーデー参照)。
第17回メーデー
5月1日 食糧メーデー

②5月1日・第17回メーデー
東京皇居前広場前

③5月19日、米飯獲得人民大会
(食糧メーデー)有楽町日劇前

大会では民主人民政府の樹立、戦犯追放、食料の人民管理など23項目を決議したという。そして、この時、メーデーの実行委員会は飯米獲得に要求を絞った労働者集会を計画、これがきっかけとなって、同年5月19日、食料メーデー(正式には「飯米獲得人民大会」が行われた。人民広場(皇居前広場・坂下門前)には25万人が集まった(冒頭の①参照)。この集会には教師に引率された小学生も多く参加し、給食復活などを訴えた(上記③参照)。
そして、食糧難打開を訴えたデモ行進中の一人である
日本共産党員・松島松太郎が掲げたプラカードの一つの表には、「 国体ゴジされたぞ 朕はタラフク食ってるぞ ナンジ人民飢えて死ね ギョメイギョジ」と、その裏には「働いても働いても何故私達は飢えねばならぬか天皇ヒロヒトよ答えてくれ 日本共産党田中精機細胞」と書かれていた。

食糧メーデーの時の松島

このプラカードに対して当時まだ有効であった刑法不敬罪が適用され起訴された。しかし、不敬罪は新憲法で廃止されることになっていたので激しい論争を呼んだ。この事件は「.プラカード事件」 また、「食糧メーデー不敬事件」とも言われる。
このプラカードで批判された天皇は、5月24日、終戦時以来再びNHKのラジオのマイクの前に立ち「相扶(たすけ)食糧難克服を」「家族国家のうるわしい伝統に生き、・・・難局克服を期待する」と国民に訴えかける言葉を述べられた。(敗戦時以来2度目の玉音放送。※5参照)。
その後、松島は不敬罪で起訴されたものの、一審は不敬罪を認めず天皇個人に対する
名誉毀損のみが認められ、控訴審(第一審判決に対する控訴を審理する第二審の審理。第二審)・上告審(上告事件を審理する裁判所の審級。第三審)は日本国との平和条約(サンフランシスコ条約)発効による大赦で免訴となった。

豊かさに馴れ、ほんの少しのことにも不満を感じ、お金のためには魂まで売る人も多くなった現代である。戦後はものも食べられずに餓死した人が多くいたこと。又、そのような厳しい状況の中を必至に耐え、頑張ってきた人たちがいたからこそ、今の豊かな日本があることを思い出してほしい。
そして、そんな厳しい中を必至に頑張ってきた人たち。今は年老いた人たちが、若い人たちからも見放され、一人で孤独に生き、誰にも看取られずに寂しく亡くなっている(
孤独死)人がどれだけいることか・・・。

アベノミクスによる、日銀とタッグを組んでの財政出動」(※6のここも参照)「金融緩和」(※6のここも参照)「成長戦略」(ここも参照)という「3本の矢」によるデフレ経済脱却を目標にしたインフレ政策(ターゲットの設定(2%以上3%)は今どうなっているか?
財政出動や金融緩和は一時的なカンフル剤にはなったようだが、目標とした経済成長は達成したとはいえず、国内消費は思い通りに伸びてはいない(3月調査の
日銀短観では企業業績はやや回復というが。※7参照)。借金増による財政規律の崩壊が心配されている。
2017年期(2017年4月時点の推計)の日本の累積
財政赤字(※8のここ参照)はGDP(※8のここ参照)の2倍にもなる。日本の財政収支基礎的財政収支)が、マイナスになっており、経常的に借金し、さらにその利子も借金で支払うという、サラ金地獄状態になている。こうなると、時間が経過するほど、借金額が増加し、収拾不可能になる。
その主たる原因が、
少子・高齢化にある。つまり、高齢者の増加による社会保険料等の負担の増加と、生産年齢人口(労働人口)の減少による国力の低下にあることは今では周知の通りである。
いくら国が借金をしても、戦後苦労して、何とかしないとと、身を削って蓄えてきた老人などの財産(預貯金学等)があるので大丈夫・・・とでも思っているのだろうか?
今の国の借金は国民一人当たりに直すと約679万円。もっと具体的に言えば、生まれたばかりの赤ちゃんから明日死にそうな年寄りまでいれて・・・。一人っ子を持つ若い三人家族なら約2千万ほどは、将来にわたって国に借金を払わなければいけない・・・ということだ(※9参照)。
くどいが、これを財務省発表資料(※10参照)。で見ると、以下のようになる。
平成 28 年度の
一般会計予算は、96 兆 7,218 億円で、このうち歳出に占める、社会保障関係費は 31 兆 9,738 億円であり、これは、一般会計予算の約 33.1%を占めている。ちなみに、社会保障関係費に国債の元利払いに充てられる費用(国債費=23兆6124)と地方交付税交付金(15兆2811)を加えると、歳出全体の7割超を占めている。
一方、歳入のうち税収は約58兆円であり、一般会計予算における歳入のうち、税収でまかなわれているのは約6割弱であり、4割弱は将来世代の負担となる借金(公債金〔公債を発行して調達したお金〕収入)に依存している・・・というわけである。
社会保障関係費は当期の税収の55%と半分以上になる。また別の見方をすれば、当期の新規公債発行額は34兆4320億なので国の借金の92,9が社会保険に由来しているともいえるのだ。
これは当初からいわれていたように、
消費税を10くらいにアップしなければ、補えないだろうが、国内消費が低迷している中、消費税を増税しながら、2~3%の経済成長率を維持しようというのは並大抵のことではゆかないだろう。2011年の野田佳彦政権の決定を受けて第2次安倍内閣にて消費税率を5%から8%に増税したとき、結局消費は落ち込み、税収も大きく落ち込んでしまった。
一体どうするつもりだろう。お題目だけでなく、
公共投資ここも参照)で物価を釣り上げるばかりではなく、日本の産業を支えている多くの中小企業が活性化するような具体的な経済成長政策を示してもらわないと困るね~。
今、安倍政権がやっている政策は、
円安誘導( ドルは日本円に対してだけドル安で、他の国の 通貨に対してはドル高)で輸出で儲かる産業を支援しているだけで中小企業は青息吐息。アメリカトランプ新大統領がそれをいつまでも許すわけはないだろう。もっとも何時まで大統領でいられるかは知らないが。
日本では、
市場や外国からの圧力が働かず、財政の悪化が国民にも実感されず、財政規律を堅持するための実効性ある仕組みもないまま、わが国の債務残高の深刻な状況は、悪化を続けてきたといえる。
 高度成長期であれば増税が行われても社会サービスによる見返りが期待できるが、今のような財政赤字下の低成長期ではそれも難しい。結局増税分が、赤字財政の穴埋めに使われるだけ。今では、そんなことわかってはいても、10%どころかそれ以上の増税をしなければならないほどの状況になってきた。
安倍のミクスは、もう剥げており、安倍政権に解決能力がないのなら本当はそれにかわる人、また政権が出てこなくては困るのだが・・・。
当時、破竹の勢いで民主党を急伸させた リーダー小沢一郎は自民党にとっては眼の上のこぶであったが、幸い、当時発生した西松建設事件を機に、マスコミ報道や、それに踊らされる国民の声、能力はないが首相になりたい思いの人などを利用して、小沢つぶしができたお
蔭で、今では、ろくな野党もなくなり、人材もいなくなってしまった。
敗戦後、血を流すこともなく、それまでの敵国であった米国に自由や平和を歌い上げた憲法を与えて貰った日本人には、政治の世界が、きれいごとだけで解決できるものではないこともわからない。政治献金を貰っている人などは自民党にはわんさかいるよ。
世界のマスコミが国民に何をどうのような考えで報道しているかは知らないが、今の世の中国民の意見で行われた結果を見ていると何か変なことになっている。
イギリスのEU離脱アメリカの大統領選韓国の大統領選など。大局的冷静な判断ができていない民衆の多数決。その結果を見ていると民主主義の崩壊を感じる(※11参照)。
結局、日本ではそれまでに蓄積された地盤のある自民党の実質的一党独裁政権が出来上り、安倍首相のやりたい放題である・・。

少子高齢化の今の時代、負担となっている社会保険料の付けは将来の世代=若者に付けを回してはいけない(当然のことであるが・・・)。

無理やりにでも円安誘導でインフレ政策を行い、物価をどんどん吊り上げ、苦労して蓄えてきた預・貯金等は
マイナス金利政策で、目減りをさせ、預金していると損するから、お年寄りは株を買ったり何でもよいから物を買って、経済成長に寄与しなさい。
財政赤字の付けを若い者に回されては困る。今まで、数の多いお年寄りのをあてにしてやってきた政策は、これからは現代の若者達、いや、もっと若い18歳以上の子供もに選挙権を与え、若者票を増やして、老人には冷たいが若者向きの政策に変えてゆこうじゃないか・・・。
そもそも、年寄りがいつまでも長生きしているから、年金や保険料がパンクするのだ。一番簡単な解決法・・・年寄りが減ることだ。
そんな年寄り・・・ってどんな人なんだ。
ひょっとして、戦後の焼け野原の何もない苦しい時代に、自分たちは食べる物も食べず、ろくな学問を身に着けることもなく、わが子にだけは同じ目に合わせたくないと必死に頑張ってきた今の若者の両親や祖父母たちではないのだろうか?
インフレ政策の下で、
年金受給額は年々減らされ、医療費や介護費は値上げ。
かって、介護の必要な老人たちは当時は若かった今の老人たちが支えてきたたのだが、戦後、
核家族化し、今では、環境的にも両親の面倒を見るのが難しくなったが、戦後教育では、子供が親の面倒を見る・・・そんな義務はないと・・・と教えられているようだ。それが今の時代の民主主義・自由主義というものか・・・。
苦労して育ててくれた親の面倒を見るのは当たり前(といった
仏教儒教思想)は、古臭い。かっては当たり前とされた「親孝行」などということを教育課程(※12参照)に入れようとすると問題にもなりそうな時代になった。
仕方がないので今では多くのお年寄りは、老後は子供を頼りにせず、
養護老人ホームへでも入ろうと考えている人が多くなっているが、そうはいっても国の方針では自宅での介護が基本だとかで、容易には入れない(特養など特に
息子や娘が介護してくれない以上、結局は、年老いた体力もなくなっている老夫婦が
老老介護をするしかない。
もう、平均寿命が延びたからと言って、それを素直には、喜んでいられなくなったのだ。長生きする・・・と考えただけでその時の自分の姿を思い起こすとぞっとする世の中になった。
昔は長老と尊敬され、大切にされた老人は、今では、年金や医療費の負担になっている無用の長物・・・。ただ、世の中では、そんな年寄り目当てにお金を儲けたい職業や人があふれているが・・・。
今では、老人に対する
思いやりの心などは、借金まみれの国にも、実の子供にすらなくなってしまった。そして、忖度

などという言葉すら、悪い意味でしか使われないまるでどこかの不思議な国の言葉のように面白おかしく語られる時代になっっているのだから・・・。それでも、なぜか、日本ブームで、大勢の外国人がどっと日本に押し寄せてくれるのだから。結構なことだ。しかし、日本の文化財や食べ物は良いが、戦後からの日本人の変化にまではあまり目を向けてほしくはないね。はずかしいから ・・・。

e-kurosawa07
酔いどれ天使
ポスター画

 以下参考の「黒澤・小津が描いた戦後のこころ」(※13)を読まれると両監督が戦後、どのような気持ちで、『長屋紳士録』(小津安二郎監督)や『酔いどれ天使』(黒澤明(1910-1998。左画像は絵葉書拡大できる。)を作ったかがよくわかる。又、以下参考の※14:「IPA「教育用画像素材集サイト」に、昭和21年の 【米よこせデモ】 の歴史記録映像 がある。映像(動画)では、街中のデモ、首相官邸前のデモ、国会前のデモの様子が見れる。今の豊かな時代があるのは、この時代、餓死寸前を気力で生き抜き、頑張ってきた人達がつくってきたことぐらいは知っておいて欲しい。以下へアクセスし、p-289.mpg 画像をダウンロードして見てください。


昭和21年中期頃 米よこせデモ

 そして、最近以下のようなものもネットで見たので付け加えておく。

破綻アベノミクスのツケ回し 病院からの老人狩りが始まる

(添付の①②③の画像及びその説明文一部等は、朝日クロニクル・週刊20世紀(1946年参照)より借用)。
参考:

※1:
戦後昭和史

※2:昭和毎日:金融緊急措置令施行 - 毎日jp(毎日新聞)

※3:日本銀行券預入令等を廃止する法律

※4:都島友の会 創設者 比嘉正子

※5:昭和21年5月にラジオ放送された昭和天皇のお言葉ー宮内庁

※6:ネコでもわかる経済問題

※7:短観:日本銀行 Bank of Japan

※8:世界経済のネタ帳ー日本

※9:リアルタイム財政赤字カウンター 15

※10:平成28年度一般会計予算(平成28年3月29日成立)の概要 : 財務省

※11:欧米民主主義の崩壊

※12:六 戦後の教育改革:文部科学省

※13:
黒澤・小津が描いた戦後のこころ

※14:IPA「教育用画像素材集サイト」

※その他1:公文書に見る日本の歩みー国立国会図書館

※その他2:戦後の日本経済の歴史







 



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