老いの愉しみ

老いのたわごと・ひとりごと。 私の住んでいる街神戸のことや趣味酒器類・絵葉書、貯金箱その他のことをいろいろと・・・  

植物学の日


book-花の本


今日(4月24日)「植物学の日」
1862年((文久2年)の今日・4月24日は、植物
分類学者の牧野富太郎(※1の牧野富太郎参照)が生まれた日である。

私は、現役を退き、その後、家人と一緒に、家の裏山(
神戸は海と山の街、南の海に対して北側の六甲山系の山をこう呼ぶ)へ登るようになり、それ以来、少しは、野の花や山の花などに興味を持つようになり、上掲の文庫本などを買って、携帯し写真を撮った時に調べたりするようになったものの、それ以前は、草花などには、全然興味がなかった。そのようなことから、牧野富太郎についても、植物分類学者としての名前だけは知っていたものの、その生い立ちや、業績などについてもほとんど知らなかったので、この機会に、ネットなどでちょっと調べたことを書いてみることにした。
博物学者としては、世界的に有名な
南方熊楠と同時代を生きた彼は、土佐国佐川村(現、高知県高岡郡佐川町)の、近隣から「佐川の岸屋」と呼ばれた商家(雑貨業)と酒造業を営む裕福な家に生まれたという(幼名:成太郎)。4歳(数え年)で父を、その2年後に母を、6歳で祖父を亡くした頃、「富太郎」に改名。その後は祖母に大切に育てられたという。
10歳より土居謙護(けんご)の教える
寺子屋へ通い習字を学び、11歳になると郷校である名教館(※2参照)に入り儒学者伊藤徳裕(号:蘭林)に漢学を学び。当時同級生のほとんどは士族の子弟であり、その中に後の「港湾工学の父」広井勇らがいた。漢学だけではなく、福沢諭吉の『世界国尽』、川本幸民の『気海観瀾広義』などを通じ西洋流の地理・天文・物理を学んだという。
その後明治7年に
小学校が出来て入学し、博物図(※3参照)を学んだが、2年位通ったらあきて小学校は卒業していないという(※4:「青空文庫牧野富太」の牧野富太郎自叙伝01 第一部幼年期参照)。

物心ついた頃から
植物に惹かれ、野山で草花を見つけては植物の名を調べるような少年だったようで、単に花を眺めるだけにとどめず、微に入り細に入り観察し、図に写し、ノートに取った。
小学校を中退し、家の資産を食いつぶして植物の採集と分類に没頭、財産を使い果たしたあとも、貧困に苦しみながら研究を続けたたため、独学・苦学の研究者としても知られているようだ。
植物分類学者として世に認められた後の晩年も植物に対する探求心は衰えることはなく、1957年(昭和32)1月18日、95歳でこの世を去るまでの生涯を植物研究に費やして、新種・変種約2500種を発見し命名。没後、
文化勲章を授与され、日本の「植物学の父」と呼ばれている(年賦、業績等は※1:高知県立牧野植物園参照)。
1887(明20)年、牧野富太郎が日本人として初めて学名をつけた記念すべき植物として「
ヤマトグサ」(大和=日本草)と命名されたものがある。これが面白い形をした草花で、上から見ると普通の草のようだが、下に付いている花はまるで変装用の鼻眼鏡に白い髭をたらしたような面白い顔に見える。皆さんはご存知でしたか?実物写真アップしたものは※5で見るとよくわかる。
高知県の県立牧野植物園、園内に牧野富太郎記念館(※1参照)があり、牧野が日本全国への植物採集旅行を繰り返して収集した膨大な標本や、牧野が私財を投じて収集した植物関連の書籍や貴重な資料が管理・展示されているそうだが、妻の壽衛(スエ)はその費用の工面に苦労は絶なかった。
そんな妻の支えがあって、1927年4月(昭和2年)牧野は65歳で
東京帝国大学(現東大)から理学博士を受けている。論文の題は 「日本植物考察(英文)」。
同年
マキシモヴィッチ生誕百年祭に出席のため札幌に赴く。 帰途、仙台で見つけた新種のを発見。翌年、亡くなった妻・壽衛(スエ)の名をとってスエコザサと命名している。
このとき、富太郎は67歳、病没した妻壽衛享年55歳であった。2年前の1926年(大正15年)65歳の時ににやっとの思いで東京府北豊島郡大泉村(現在の練馬区
東大泉)に居を構えたばかりであった。

牧野は『若き日の思い出』(※4:「青空文庫」参照)では、

私ほど一生苦しまずに愉快に研究を続けて来た人間は世間にかなり少ないようだ。それゆえ私は少年の時と今日老年になった時と、その学問のぐあいは少しも違っていなく、ただ一直線に学問の道を脇目もふらず通ってきたのである。
 こんな数十年にわたる努力が遂に私の植物知識の集積になったわけだ。今年九十三年に達した私はこれから先、体のきく間、手足の丈夫な間、また頭のボケヌ間は、いままで通り勉強を続けて、この学問に貢献したいと不断に決心している。
 もうこの年になったとて決して学問を放棄してはいない。

・・・と結ばれており、ふと「旅に病んで夢は枯野を駆け巡る」(「笈日記」※6参照)と詠んだ芭蕉の「いつ死んでも旅の道中」という本望の境地を連想させる。このあと2年後の95歳に亡くなるまで、実に85年間、植物採集の人生だった。

しかし、並はずれて研究熱心な夫のその金銭感覚の欠如さはひどいもの。妻寿衛は13人の子供を抱え、長い困窮を極めた生活の中にあって、生涯牧野の研究に自らの欲望を抑えつつ、支え続けてくれたのであった。東京谷中霊園内の天王寺墓地にある牧野富太郎の墓碑の脇に並んで建つ壽衛の碑にはそんな妻に捧げる以下の句が刻まれているそうだ。


「家守りし妻の恵みや我が学び 世の中のあらむ限りやすえ子笹」

心残りの牧野は妻壽衛の死後、中々その死を受け止めることが出来なかった。「壽衛、お前は亡くなったが、この世がある限り、お前に代って、このスエコザサは繁茂するから、ゆっくり休んでくれよ」と、嘆いたのであろう。生活苦を乗り越え献身的に支え続けてくれた妻に対して、これまで植物学の研究を継続できた喜びと感謝の気持ち、そして、「これからは、それがもう出来なくなるのだなー」と嘆く気持ちが離れて仕舞うからであったようだ(※7:「牧野富太郎研究所」の”植物の精が好んだ自慢の歌”参照)。

牧野は、植物画の名手でもあり、その植物知識の集大成である『牧野日本植物図鑑』(昭和15年;1940年。※8参照)は時代を超えて読みつがれているという。植物図鑑は特徴を捉えた手書きの画が付いている。私も、冒頭に掲げた携帯用の花の本を持ってはいるが、写真である。細かい点など図で解説している方がわかりやすい。
富太郎の祖父・小左衛門、祖母・浪子は、和歌を好んで詠んだようであり、
土佐藩山内家の筆頭家老職を代々務めた深尾家が牧野郷里佐川の領主(維新後は男爵)をしていて、その深尾家の歌会にも出入りしていたらしく、歌の素養もあったようだ。
牧野の歌は、牧野が60歳を超え、学問的にも人間的にも安定した熟年期から最晩年に掛けての物が多かった。牧野は、日記や自らの著書、そして、各地での
揮毫、旅先から友人に宛てた書簡の中に、情歌を時折忍ばせる事があった。
そして、揮毫する時にはよく、「岸屋の富」と署名したと云う。また、牧野は酒もタバコもやらないが、親しい者らには常に冗談を飛ばし、宴席では牧野屋富子と名乗り自作の
都々逸「草を褥に木の根を枕 花と恋して 五十年」等を唄わせて喜び、また、それを好んだと云う。
ただ、その中で植物歌が少ないのは、草木や花を目の前にしても、牧野の心には
情緒が存在しなかったのではないか。どうも牧野富太郎は学問的に植物を愛した方が強いように疑問を感ずる。その証拠に牧野自身、「私は植物の種類を専攻していますが、未だ嘗(かつ)て俳句と連絡させて之れを味うた事は一向にない」(『植物集説 下』)と述べている。
木村陽二郎は、牧野にとって植物は全て植物学者の研究の為に存在すると思われていた。更に伊藤洋(植物学者)は、牧野がランの群落を見つけると50株も60株も掘り採った。時にはの絶滅さえ危惧されたと云う。その点において小野幹雄は、牧野標本には重複標本が多い。牧野は遺伝学生態学を考慮せず、植物学を分類学でしか見ない面があったと云う(※7:「牧野富太郎研究所」の植物の精が好んだ自慢の歌参照)。

牧野の『
植物知識』には以下のように書かれている (※4:「青空文庫」より引用)。

花は、率直にいえば生殖器である。有名な蘭学者の宇田川榕庵(うだがわようあん)先生は、彼の著『植学啓源(けいげん)』(※9)に、「花は動物の陰処(いんしょ)の如し、生産蕃息(はんそく)の資(とり)て始まる所なり」と書いておられる。すなわち花は誠に美麗で、且(か)つ趣味に富んだ生殖器であって、動物の醜い生殖器とは雲泥の差があり、とても比べものにはならない。そして見たところなんの醜悪なところは一点もこれなく、まったく美点に充ち満ちている。まず花弁の色がわが眼をひきつける、花香(かこう)がわが鼻を撲(う)つ。なお子細に注意すると、花の形でも(がく)でも、注意に値せぬものはほとんどない。
(中間略)
自分の種
を絶やさぬことに全力を注ぐ
草でも木でも最も勇敢に自分の子孫を継ぎ、自分の種属を絶やさぬことに全力を注いでいる。だからいつまでも植物が地上に生活し、けっして絶滅することがない。これは動物も同じことであり、人間も同じことであって、なんら違ったことはない。この点、上等下等の生物みな同権である。そして人間の子を生むは前記のとおり草木と同様、わが種属を後代へ伝えて断やさせぬためであって、別に特別な意味はない。子を生まなければ種属はついに絶えてしまうにきまっている。つまりわれらは、続かす種属の中継ぎ役をしてこの世に生きているわけだ。
(中間略)

私はかつて左のとおり書いたことがあった。 「私は草木にを持つことによって人間愛を養うことができる、と確信して疑わぬのである。もしも私が日蓮ほどの偉物(えらぶつ)であったなら、きっと私は、草木を本尊とする宗教を樹立してみせることができると思っている。


・・と。

確かに学問的な植物に対する愛し方のすごさはよくわかる。人間と植物を一緒にするのはどうかとは思うが、植物であろうが人間であろうが、生殖活動なくして種族を残すことができないことは確かだろう。
少子高齢化の進んでいる日本の総人口は、平成27(2015)年10月1日現在、1億2,711万人となっている。
そんな我が国の総人口は、長期の人口減少過程に入っており、2026年に人口1億2,000万人を下回った後も減少を続け、2048年には1億人を割って9,913万人となり、2060年には、8674万人になっていると推計されている(※10参照)。
そして、
◎2.5人に1人が65歳以上、4人に1人が75歳以上
◎年少人口、出生数とも現在の半分以下に、
生産年齢人口は4,418万人に
◎現役世代1.3人で1人の高齢者を支える社会の到来
◎将来の
平均寿命は男性84.19年、女性90.93年
となっていると予測されているのだそうだ。今結婚もしない若い人が増えているらしいが、もしこのような年齢まで生きても、年金はどのくらい出るかわからない。老後資金は確りとためておかないと、一人さびしく孤独死…なんてことになりかねないよ。
いつか、「女性は子供を産む機械」などといった大臣(
柳澤 伯夫)が、顰蹙を買い、コテンパンにたたかれていたが、確かに不用意な発言ではあるが、男性に子供を産むという能力は備わっていない。
植物などは、本能として子孫を残そうとするのであろうが、植物に例えれば、「
人間は考える葦(ヨシ)」といった哲学者(パスカル)もいるが、結局、考えて考えて・・・・、人間は滅びてゆくものなのかも知れないね~。今の北朝鮮とアメリカ大統領トランプの意地の張り合いなど見ているとなおさら、そんなことを感じるが・・・。


参考:

※1:
高知県立牧野植物園

※2:名教館 | 高知県の観光情報ガイド「よさこいネット」

※3:博物図(「掛図」) - 国立公文書館 デジタルアーカイブ

※4:青空文庫作家別作品リスト:牧野 富太郎

※5:ヤマトグサ - 野山に自然に咲く花のページ

※6:芭蕉db「旅に病んで夢は枯野を駆け巡る」

※7: 牧野富太郎研究所


※8:牧野日本植物図鑑・増補版)インターネット版

※9:植学啓原 巻之1-3,図 / 宇田川榕庵 著

※10:1 高齢化の現状と将来像|平成28年版高齢社会白書(全体版) - 内閣府

※その他: 『植物はそこまで知っている』 植物は考えない人間である




さとうきびの日


さとうきび

今日4月23日(第4日曜日)は、「さとうきびの日 」。
記念日は、沖縄県糖業振興協会により1977(昭和52)年に創設されたようで、以来毎年4月の第4日曜日に設定され、この日、沖縄各地の優秀なさとうきびの審査があり、沖縄県さとうきび競作会の表彰式等が行われているようだ(※1参照)。
ざわわ ざわわ ざわわ
  広いさとうきび畑は
  ざわわ ざわわ ざわわ
  風が通りぬけるだけ
  今日も見渡すかぎりに
  みどりの波がうねる
  夏の陽ざしのなかで
作詞・作曲:寺島尚彦さとうきび畑』。
サトウキビ」というと、この歌を思い出すが、沖縄戦の悲劇を歌ったこの曲が制作されたのは1967(昭和47)年、森山良子がレコーディングしたのは、1969(昭和49)年のこと。
その年は、沖縄返還に関する日米共同声明が発表され、その2年後に、調印、その翌1972(昭和47)年に返還が実施されるなど、この沖縄返還問題への関心の高まりから、うたごえ運動や、歌声喫茶衰退後、回顧的に作成される曲集などには、この曲が採録されるようになり、多くの歌手に歌われてきた。
その間の1970(昭和45)年には、日本で最初の博覧会大阪万博が開幕されるが、当時、世はベトナム戦争の真っ最中であり、その中で開催された当博のフォークソングフェスティバルの統一テーマ曲は、ジローズの反戦歌「戦争を知らない子供たち」であった。この歌も時代を映したいい歌だったな~。

戦争を知らない子供たち ジローズ ライヴ

「さとうきび畑」の歌は、当初公開されたときは、全体が半分くらいにカットされていたようで、1975(昭和50)年に、NHK「みんなの歌」でちあきなおみが歌ったのも、省略バージョンだった。
多くの人に歌い継がれたこの曲は森山良子のフルバージョンの歌でとみに有名になった。彼女は、この曲の歌唱で2002(平成14)年の第44回日本レコード大賞では最優秀歌唱賞を受賞している。
私も大好きな名曲だが、今日は、この歌のことを書くのが本旨ではないので、これ以上歌のことは省略しよう。沖縄出身の盲目のテノール歌手新垣勉の歌も素晴らしい。YouTubeで聴いてみるとよい。
さて、ジローズの歌「戦争を知らない子」とは違って、かって日本を代表する重工業都市神戸市で戦前に産まれ、戦時中は米軍の大空襲に何度も遭い、家を焼かれて市内を転々としたあと、とうとう神戸には住んでいられなくなり、神戸から、父方の親戚のある高砂市へ、そこも空襲で居れなくなり、最後は母方の親戚のある徳島県の徳島市疎開し、そこで、小学校に入学、足にはゲートルを巻いて学校に行き、勉学もそこそこに、校庭で、芋作りをさされるなど、子供時代に厭と言うほど「戦争の恐さを知らされている」私達の年代の者にとっては「サトウキビ」といえば思いだされるのが、おやつがわりに、「サトウキビ」の太い茎(くき)を折り、歯で皮をむいて、しがしがとかじっては口の中に残った茎を吐き出していたことだ。
日本語で「うまい」は漢字では、旨い、甘い、美味いなどと書くように、もともとは果実など熟れて甘味な味になるところから来て、古くは甘味が美味(うまい)とされていたようだが、甘いものは人間にとって最高の食べ物であった。
しかし、それは、今のような簡単に手に入る砂糖等による甘さではなく、食品として人間に欠くことのできない甘さは、ごはん(米など穀類)をよくかんで感じる甘さであり、お芋の甘さ、とりたてのエンドウ豆やトウモロコシ、玉ネギやカボチャの甘さ。それに、よく熟れた柿の甘さ。人として生まれた赤ちゃんが最初に感じるのは母乳の甘さ。これらは、たくさん食べて身体のエネルギー源となるだけでなく、他の栄養も多く含んでいる最も重要な食品である。
子供は、大人よりも本能的に甘いものを欲しがる。しかし、近年、健康上やダイエット等の理由で、炭水化物と同様に「分(=甘い物)」が大敵のように考えられているが、人体で最も早く成熟するのが細胞であり、その脳細胞の栄養源たる糖分(ブドウ糖)を欲しがるのは自然の欲求であると聞いている。
現代のように、砂糖を多く使っての糖分の取りすぎが問題だろうが、戦中、戦後の甘いものが自由に手に入らなかった時代の子供にとって、サトウキビを そのままおやつ代わりにかじって食べるのは、不足がちな糖分補給面で良かったのではないかな~。
終戦後、神戸の実家へ帰っても、夜店や、神社のお祭りなどで売っているのを買って食べた記憶がある。しかし、硬い皮を歯でむいたりしていたが、軟らかい物ばかり食べている現代の子供には出来ないかも・・。もっとも、生産地では今でも、茎の隨をそのまま噛んで食べたり、機械で汁を搾って飲んだりしているらしいが、日本では、鹿児島や沖縄以外のところでは,今では生のサトウキビなど余り目にすることもないのではないだろうが・・・。
人間が生きてゆく上で大切な塩(塩分)は海水や岩塩から作るが、砂糖(糖)は植物から作られる。その代表的なものが、「サトウキビ」(砂糖黍。別名甘蔗〔カンショ。本来はカンシャと読むのが正しいらしい〕)とテンサイ(甜菜)であるが、ほかにカエデ(サトウカエデ)やヤシ(サトウヤシ=オウギヤシ)などからも取れるようだ。
イネ科サトウキビ属「サトウキビ」の学名は、“Saccharum officinarum”。サトウキビ属の“Saccharum” は、ギリシャ語の “sakcharon(砂糖)”が語源で、“officinarumは薬だそうだ。学名が示すように、およそ1万年前の大昔から、甘味作物・薬として人間社会に登場したようだ(※2)。
茎は竹のように木化し節がある。節の間の茎の中心は竹のように空洞ではなく、髄になっており、糖分を含んでいる。
冒頭に掲載の写真が、収穫後、処理過程前のサトウキビである(Wikipedia砂糖より)。
砂糖の生産は、まずサトウキビを利用して始まった。太い茎(くき)をしぼって出た、甘い汁を煮詰め、純度を高めて砂糖の結晶を取り出す。
サトウキビ栽培種の起源はニューギニア島とその近くの島々と言われており、世界各地の熱帯亜熱帯地域で広く栽培されている。
因みに、テンサイの原産地は地中海沿岸でサトウキビとは反対に、寒さに強く、現在の栽培地は温帯から亜寒帯を中心として栽培されており、寒冷地作物とよばれており、日本では、北海道を中心に栽培されているようだ。
サトウキビは、原産地である南太平洋の島々から東南アジアを経て、インドに伝わり、紀元前2000年ごろにインドで砂糖が使われているらしく、サトウキビから砂糖を作ったのは、インドが最古であるらしい。インドの主としてガンジス川流域で作られていた砂糖やサトウキビは、アラビア人によってペルシャ(現在のイランを表す古名)・エジプト・中国などへと伝えられた。
砂糖を日本に伝えたのは、奈良時代(754年)に、鑑真が来日した時とされている。正倉院に保存されている「種々薬帳」(大仏に献上した薬の目。※3参照。)に、サトウキビから作った砂糖という意味の「蔗糖」(スクロース)という言葉が記されており、当時、砂糖は甘味料としてではなく、大変貴重な薬として用いられていたことが分かるという。
その後、大陸との貿易が盛んになるに従って、砂糖の輸入量も次第に増加したが、インドや、中国などからかっての琉球王国(現:沖縄)に、サトウキビが伝わり、このサトウキビから砂糖を作る「製糖法」を、儀間真常(ぎましんじょう)という人が、中国の福州福建省の省都)に人を送り、技術を学ばせて広め、1623(元和9)年に初めて作られたという。以来、黒砂糖は琉球の重要な輸出品として、戦前まで扱われていたが、今でも重要な基幹作物であることに変りはない。沖縄などでは市街地は別として、住宅地のちょっとした空き地などでも作られているようだが、植え付け後は収穫まであまり手間がかからない手軽さもあるからであろう。
ただ、サトウキビからの製糖について、1説には、慶長年間に、薩摩国大島郡(奄美大島)の直川智(すなお かわち)が黒砂糖の製造に成功したことで、国産の砂糖が誕生したとする説があるが、儀間真常の導入より早いため、疑問視されている。
いずれにしても、日本では、今、主に沖縄県奄美群島を中心にサトウキビが栽培されている。
貴重で高価なため、天皇や貴族だけのものであった砂糖も、室町時代になると、輸入量も増え、上流階級ではお歳暮に贈られたりするようになるが、長い間、民衆のものになることはなかったが、やがて庶民にも広がり、いつの間にか大量に輸入されるようになり、徳川幕府による鎖国時代、長崎の出島には、砂糖倉があったと言うが、むしろ、倉の半分くらいが輸入物の砂糖倉だったともいう。この頃には、庶民の砂糖消費が嵩じて藩や幕府の財政悪化を招くほどにもなったことから、八代将軍徳川吉宗によるサトウキビ栽培・砂糖生産の本格的な奨励が始まり、それが和糖製造技術発展の始まりであるという(※4参照 )。
この吉宗による、サトウキビ栽培の奨励に高松藩が特産物創生と財源確保を目的として呼応すると、その後徳島藩でもサトウキビが育てられるようになり、高松藩とほぼ同時期の1800年代前半に精糖方法を確立させて、和三盆ができあがった。それまで、サトウキビから作られていたものは、黒砂糖が一般的であったが、和三盆は、黒砂糖をまろやかにしたような風味を持った淡い黄色をしたもので、高級砂糖を意味する。
和三盆糖は沖縄などで作られる幹の太い物でなく竹糖(たけとう)または竹蔗(ちくしゃ)と呼ばれる茎が細いサトウキビから作られる。香川県で生産されている和三盆を讃岐和三盆糖、徳島県で生産されている和三盆を阿波和三盆と呼ぶ。和三盆は貴重な特産品として諸国へ売りに出され、全国の和菓子や郷土菓子の発展にも欠かせないものとなっているが、これらの地域は、世界におけるサトウキビの商業栽培の最北限にあたるのだそうだ。
ただ、この砂糖の製造・販売の藩財政への貢献は高かったが、薩摩藩による琉球王国統治の動機ともなったほか、倒幕のための財政基盤強化も砂糖販売によるところが大きいと言われている(薩摩藩の藩政改革とサトウキビのことについての詳しいことは、参考※5:「徹底検証:「新しい歴史教科書」の光と影」の“33・雄藩の改革”の (c)国産物の藩専売制を強化し利益を藩が独占する体制をとる−薩摩藩の場合、(d)植民地としての奄美諸島と琉球からの巨大な利益を基盤とした−薩摩藩の場合を読むとよく判る。)。
農林水産省所管の農畜産業振興機構(alic)が作成の統計資料【海外情報】砂糖(※6)の2016年10月~2017年9月(国によりにより収穫年月は異なる)の、(3) 主要国の収穫面積を見ると以下のようになっている。()内は2009年度。
収穫面積=単位千ヘクタール(ha)。
1位、ブラジル(4月から翌3月)、9,585(7410 )
2位、インド(10月から翌9月)、 4,739(4415)

 ?、日本(10月から翌9月)     23(23)
また、(5) 主要国のさとうきびとてん菜の生産量 よりサトウキビ生産量を見ると、以下のようになっている。単位=トン(t)
1位、ブラジル、(4月から翌3月)、 681,952(604,514)
2位、インド(10月から翌9月)、   331,926(285,029)
?、日本(10月から翌9月)、      1,220(1,514)
収穫面積、生産量とも日本に比べ、1位、2位のブラジル、インドが圧倒的に多いが、細かいデータはないのでよくわからないが、以下参考の※7にある2014年度の国際比較によると、日本の生産量は世界で55位となっているがそんなものなのだろう。
とうきびの生産量の都道府県ランキング平成26年(※8参照)を見ると以下のようになっており 、
全国生産量1,159,000(t)に対し
1位、沖縄  688,800(t)59,4%
2位、鹿児島 470,500(t)40,9%
この2県で全国生産量のほとんどを占めている。

サトウキビは、茎の隨を生食したり、砂糖に加工その他食料加工品に利用されるほか、1970年代のオイルショック後の原油価格高騰により燃料用バイオエタノールとしての利用に着目され1980年代から生産が拡大した。
バイオエタノールとは、サトウキビ、とうもろこし、廃木材などのバイオマス資源を発酵させ、蒸留して作られる植物性のエタノール(エチルアルコール)であるが、太陽電池風力発電などとともに、化石燃料を代替えするエネルギーである。ガソリンに混合することが出来、主に自動車の燃料として使われる。
世界の生産量は、バイオエタノール原料であるサトウキビの生産大国であるブラジルと、同じくとうもろこしの生産大国であるアメリカの占める割合が多く、2007(平成19)年では、この2国で世界の生産量のおよそ80%を占めている(※9参照)。バイオ燃料に取り組む事情は国によって異なるが、バイオエタノール燃料生産量の多い国には日本のように環境への配慮に重点を置くよりも農業復興の観点からバイオ燃料が導入されてきた国が多いようだ。
日本の場合、環境省が2005(平成17)年に発表した京都議定書目標達成計画では、バイオエタノールの普及促進政策を行なうことを目標とした(ここ参照)。又、バイオマス・ニッポン総合戦略促進会議(農林水産省)では、2010(平成22)年までにバイオエタノールの生産を5万kl1にするという目標を掲げていたが生産量は達成はできていない。
というよりも、バイオマスエタノールは、再生可能な自然エネルギーであること、および、その燃焼によって大気中の二酸化炭素(CO2)量を増やさない点から、エネルギー源としての将来性が期待されている。
2008(平成20)年、原油価格が 1バレル 100 ドルを突破するという歴史的高騰で幕を明けた(※10の原油価格の推移参照)。同時に、原油価格と共に急騰したのが穀物価格であった(※10のここ参照)。要因として、サブプライムローンを契機とする株式投資から現物投資への投機マネー流出、発展途上国の需要拡大などが指摘されているが、バイオマスエタノールのエネルギー源としての将来性への期待される半面、生産過程全体を通してみた場合のCO2削減効果、エネルギー生産手段としての効率性、先にも触れたように、穀物は人間の食料、動物の餌として使用されるものであり、そのような食料との競合、といった問題点も指摘されている。
 かって、政権交代したばかりの民主党の鳩山由紀元首相は、2009 (平成21)年9月国連気候変動首脳会合で「温室効果ガスの排出量を 2020 年までに 1990 年比で 25%削減する」という中期目標を掲げ(ここ参照)。「これは、我々が選挙時のマニフェストに掲げた政権公約であり、あらゆる政策を総動員して実現をめざしていく決意・・・」と述べたことで、多くの注目を浴びた(※11又、「鳩山イニシアチブ」参照)。
しかし、この意欲的な目標の下で、実際に温室効果ガスを削減させ、環境負荷(環境に与えるマイナス影響)を減らすためには、どのような政策を行うべきであろうか。またそれは実現可能なものであろうか・・・と突然の発表に経済界等では疑問を持っていたのだが・・・。

そして翌・2010(平成22)年3月、鳩山由紀夫首相は今国会に提出予定の「地球温暖化対策基本法案」に原子力発電を推進する方針を明記する意向を示し、都内での記者団の質問に答え「原子力廃棄物や安全性の問題があるが、さらに 安全性の確保で高い目標を果たすことを前提に、地球環境を守りCO2を減らすためには 欠くことのできないエネルギーだと理解している。基本法の中でも位置付けたい」と述べていた(2010/03/06 共同ニュース)。
同案は、3月12日政府(環境省)より「地球温暖化対策基本法案の閣議決定について」発表されたが、衆議院(第174回国会)を通過後、参議院で廃案となり以後継続審議されていたようだ。
2011(平成23)年3月の東日本大震災により、福島第一原子力発電所事故発生により、原子力発電所の安全性の問題や電力不足が深刻化する(東日本大震災による電力危機参照)。
日本は、京都議定書によってCo2(二酸化炭素)を主とする温室効果ガスの排出削減義務を負っているが、そこへ原発事故が起こり、各地にある原子力発電所の停止によって、今だ、原発に代る自然エネルギー等が開発されていない以上、当面は代替電源を火力発電に求めざるをえない、その上、米国などは批准しないことから、2012(平成24)年1月 京都議定書の温室効果ガス25%削減を撤回し現実的なな目標を提示する方針を表明(※13参照)。同年12月28日、再び政権与党となった自民党も民主党政権が掲げた「2020年の温室効果ガス排出量を1990年比25%削減する」とした国際公約について、見直す方針とし、翌・2013(平成25)年同目標について、ゼロベースでの見直し、2015年フランス・パリで開催された、第21回気候変動枠組条約締約国会議(COP21)パリ協定(COP21)で、日本は2030年度の削減目標「2013年比で26%減」を表明(日本の約束草案を7月提出)しているようだ(※14を参照)。地球温暖化対策計画決定までの経緯と動向等、※14を見ればよくわかる。
今回のCOP21では、先進国、途上国に関係なく国別目標を設定した。しかし、この目標は実現できるのだろうか?
以下参考の※※16にも書かれているように、アメリカのトランプ大統領は、「地球温暖化問題は、中国人によって、中国人のために作られたもので、米国の製造業の競争力を削ぐ」などと、発言し、パリ協定からの脱退を公言している。
同協定の規定には、協定発効後3年間は脱退を宣言できないことになっているが、パリ協定では、批准国の政府は、目標達成に向け国内対策を実施する義務を負うが、実際に目標を達成できなくても、罰則規定はないそうだ。その意味で、削減目標自体に法的拘束力を持たない。
トランプが、オバマ政権が掲げて国連に提出した温室効果ガス削減目標である「2025年に、2005年比26〜28%削減」の達成に対し、本気で取り組まない、事実上の不実施(inaction)という事態は十分に考えられる。
パリ協定は、自主目標を掲げて、国連がそれを監査する「プレッジ・アンド・レビュー」方式(参考の〔注])で、目標水準の難易度に国により幅があるうえ、未達成時のペナルティがないことから、その実効性に関して疑問を持つ専門家も多いようだ。5年ごとに目標を積み増す「目標引き上げメカニズム」など、実効性を持たせる工夫があるものの、その効果は不透明だという。
京都議定書のときも数値目標の計画も楽観的すぎて、日本だけが真面目にやって損をする結果になったのだが・・・。

参考:

〕プレッジ&レビュー方式とは、各セクターごとにそれぞれの国の事情に応じて排出原単位、

エネルギー効率の向上と言った目標を掲げ(プレッジ=誓約)、国はそうした取り組みを支援、認証するという在り方(レビュー=履行確認)。

※1:沖縄県糖業振興協会

 ※2:お砂糖豆知識[2007年3月]|農畜産業振興機構

 ※3:漢方史料館(91)正倉院の『種々薬帳』

 ※4:独立行政法人農畜産業振興機構> 砂糖 > お砂糖豆知識

※5: 徹底検証:「新しい歴史教科書」の光と影

※6:統計資料【海外情報】砂糖|農畜産業振興機構

※7:世界のサトウキビ 生産量 国別ランキング・推移 - Global Note

※8、さとうきびの生産量の都道府県ランキング(平成26年) | 地域の入れ物

※9:世界各国のバイオエタノール生産量の推移(Adobe PDF) 

※10:世界経済ネタ帳:コモデティー

※11: 国連気候変動首脳会合における鳩山総理大臣演説

※13:CO2、25%削減撤回へ 政府、現実的な目標提示 - MSN産経ニュース

※14: なるほど話:そうだったのか!地球温暖化とその対策」(9)~地球温暖化対策計画について~

※16:トランプ大統領でどうなる「パリ協定」、離脱できず国内対策「不実施」か

※17:環境省HP>報道発表資料 >「地球温暖化対策計画」の閣議決定について



『サザエさん』が新聞で連載開始された日

サザエさん一家の暮らしぶり

1946年の今日(4月22日)福岡の新聞「夕刊フクニチ」で長谷川町子4コマ漫画サザエさん』が連載開始 された(当時の新聞紙面等、参考※1参照)。
『サザエさん』は、長谷川町子の漫画、およびそれを原作とするテレビアニメの題名であり、その主人公である子持ちの若妻「
フグ田サザエ」の呼び名である。
長谷川 町子は1920((大正9)年1月30日生まれ。 佐賀県
多久市出身の日本初の女性プロ漫画家である。旧制山脇高等女学校(現・山脇学園短期大学)卒業。山脇高女在学中から田河水泡に師事。
『サザエさん』の原作漫画は新聞連載の4コマ漫画である。
町子は、
疎開先の福岡で西日本新聞社の絵画部に所属していた時に終戦を迎えた。その翌年の1946(昭和21)年に、同社から新しく『夕刊フクニチ』が発行された。そして、連載漫画を頼まれ、本人は「地方紙の気軽さからあっさり引き受けた」そうで、家の裏の海岸(百道海岸:現シーサイドももち付近)を結核療養中の妹と散歩しているときに、その作品の家族構成や名前を思いついたことから、登場人物がみんな海産物の名前になったという(サザエさんの登場人物)。
当初、作者自身は、アルバイトのつもりでやっていたようだ。そして、同・1946(昭和21)年4月22日より「夕刊フクニチ」(夕刊)で連載をはじめたのが始まりであり、漫画の舞台は九州・
博多でサザエは独身だったが、その後、町子が上京するために同年8月22日に連載はひとまず打ち切られた。
この連載を打ち切るときにサザエがマスオと結婚している。そして、町子さん一家が東京の
桜新町へ引っ越したあとは、再び翌年の1947(昭和22)年1月3日より「夕刊フクニチ」で連載を再開。このときから、サザエさんの舞台も東京へ移り、サザエの伴侶・フグ田マスオが磯野一家に同居するようになる。
掲載紙は間もなく「
新夕刊」でも連載されるようになるが、「夕刊フクニチ」及び「新夕刊」の連載が1949(昭和24)年4月、共に終了。同年12月1日より、『夕刊朝日新聞』(朝日本紙とは別扱の新興紙)・『朝日新聞』の夕刊への連載(※2参照)を経て、「サザエさん」は徐々に人気を広げ、最終的には、1951(昭和26)年には、「ブロンディ」(アメリカの漫画)の後を承けて、4月16日より『朝日新聞』の朝刊に登場する。
このときからがサザエさん一家が本格的に”国民のアイドル”に成長したと言っていいだろう。作者の一身上の都合や病気でたびたび休載になることもあったが、1974(昭和49)年2月21日の連載をもって3年間の休載に入りそのまま打ち切られているため、この日が事実上の最終回となった。
長谷川町子は、1992(平成 4)年5月27日に74歳で亡くなったが、世間が知ったのは1ヵ月後のことであった。故人の意思で
納骨が終わるまで公表しない約束だった。同年、7月13日国民栄誉賞が授与された(漫画家で国民栄誉賞が授与されたのは現在のところ、長谷川町子1人である)。
そのサザエさんの”すべてを”集めた美術館(「
長谷川町子美術館」)が、東京・世田谷区の静かな住宅地にある。私は行ったことがないが、漫画の磯野家が住んでいる町の風情とよく似ているという。
同美術館「町子コーナー」には1951(昭和26)年4月から1974(昭和49)年2月まで23年間にわたって朝日新聞に掲載された「サザエさん」などの懐かしい原画をはじめ「
いじわるばあさん;」などの作品のほか、町子が姉の毬子と30年かけて集めた絵画、執筆の傍ら創作したという趣味の陶人形なども紹介されている。
町子は、新聞への連載が終わってからは1992(平成 4)年に74歳で亡くなるまでもっぱら美術館に展示するグッズに使うサザエさん一家を描いていたそうだ。

お魚くわえたどら猫 追っかけて
はだしでかけてく 陽気なサザエさん
みんなが笑ってる お日さまも笑ってる
ルルルルルル 今日もいい天気
「サザエさん」
林春生作詞・筒美京平作曲MIDI は以下で・・・。

「サザエさん」(林春生作詞・筒美京平作曲)

漫画『サザエさん』を原作とするテレビアニメ「サザエさん」のオープニングテーマである。
同オープニングテーマの最後は、
明るい笑顔に幸せが ついてくる
楽しい仲間と 陽気なサザエさん
みんなが笑ってる 夕焼けも笑ってる
ルルルルルル あしたもいい天気
・・・である。
サザエさんの漫画は、「日常の当たり前のことのなかにユーモアがある」、「
家庭の本当の温かさがある」、「サザエさんのあわてん坊で庶民的なところがよい」、「カツオの勉強嫌いがよくわかる。あれぐらいサボれたらいいな~」・・と読む人の年代によって受け取り方は違っても、多くのファンが、サザエさん一家のなかに夫々が自分の分身を見て取れたのが人気の秘密だろう。それになんと言っても明るい。最近は、TVドラマなどにしてもサザエさんのような ちゃぶ台を囲んで楽しく家族で会話するようなものがなくなってしまった。
サザエさんの漫画は途中で数度休載はあったものの連載が6477回、25908コマに及んだ長期間にわたる漫画である。
ストーリー漫画ではなく、一完した舞台、人物が登場する比較的独立したエピソードからなるものであった。だから、サザエさんの漫画は時代背景を象徴する内容が多いのもひとつの大きな特徴で、サザエさんを読めば、戦後から1974(昭和49)年までの庶民の生活がわかる。
サザエさんの新聞連載漫画が1974(昭和49)年に終了する前頃から
核家族化が急速に広がり、は和風の家から洋風の家へ、そして、個室化が広がり、人の考え方にも個人主義がはびこり、夫々が自分中心(利己主義)の勝手な生活を始めるようになり、家族での団欒(一家団欒)といったものが家庭から消えて久しい(「家族の断絶」を生み出す※3:「チャンディーの精神世界」エッセイ1>個人主義> 私の精神論 >個人主義と利己主義や、※など参照)。
今もテレビアニメ「サザエさん」は放映されているが、サザエさんのような一家団欒の生活は、私たちの時代とは違い、今の時代人にとっては夢物語のようなものになっているのではないだろうか・・・。
ところで、今、「
学校法人森友学園」への国有地売却(格安払い下げ)の問題などなどで「忖度」という言葉がマスコミでもてはやされている。しかし、もともと、この言葉は、「他人の心(心の中や考えなど)を推し量(おしはか)ること。」という意味で使われていたことであり、推し量ることはあっても、それによって何か配慮をするといったことで使われていたわけではなく、悪い意味での言葉ではなかった。
家族関係でも、昔は、休みもろくろくとれず、夜多くまで家族のために働いているお父さん、そんあおとうさんや子供たちのために、自分のことは放っておいて、朝から晩まで家(
奥向き)のことをしていたお母さん。子供は、そんなお父さんやお母さんの姿を見て育った。特別口に出して言わなくても、それぞれが、他の人のことを考えて(忖度して)行動をしていたのである。
難しい字ではあるが、家族関係が密な時代には普通のこととして、誰でもがそれぞれのことを思いやって行動していたのである。
それが、今のような個人主義(自己中心的)の時代になると、変な使われ方をして、マスコミでわだいになっている。こんな言葉が話題になること自体が、今の世相を反映しているといえるかもしれないな~(以下参考の※5など参照)。

(冒頭の画像は、サザエさん一家の暮らしぶり、ミニチュアセット展示【美術館】。朝日クロニクル「週刊20世紀」1951年号より)

参考:

※1:
昭和毎日:「サザエさん」が夕刊フクニチに登場 - 毎日jp(毎日新聞)

※2:朝日新聞社インフォメーション | 社会とともに(134年の歩み)

※3:チャンディーの精神世界

※4:「個室化」することの問題点は?:小泉産業株式会社

※5: 「忖度」 : 日本語、どうでしょう? - ジャパンナレッジ

※その他1:新明解サザエさん語事典

※その他2;夕刊フクニチ | 新聞マンガ研究所

ペギー葉山 南國土佐を後にして

ti-ペギー葉山-2
PEGGY HAYAMA 40th Anniversary
9/29 新神戸オリエンタルホテル劇場
 
3月30日付の自身のブログ(※1)で、”!おー!タカラズカ!何て幸せな一日!”と題し「昨日は越路(
越路 吹雪)さんの37回忌を記念したイベントが東京の日生劇場で開かれ、私も沢山のタカラズカ(宝塚歌劇団)のOGの皆様とステージで越路さんの思い出の歌と共に本当にゴージャスなイベントに参加いたしました・・・・」と、元気な様子だったペギー葉山(本名:森 繁子)が、4月12日に、肺炎のため東京都の病院で死去(83歳)したとの報道を知って、また、昭和を代表する大好きな歌手の一人がいなくなったことを非常に残念に思った。そこで、すぐこのブログを書こうと思ったのだが、いろいろ野暮用に追われ、調べごとをしながら書くと今日になってしまった。

幼少時から歌が好きで、声楽を習い、
音大進学を目指していたようだが、次第にFEN放送(現・AFN)から流れるアメリカのポピュラー音楽へ関心を深めていき、青山学院女子高等部(現:青山学院高等部)2年の時に映画『我が道を往く』を観た際、劇中で主演のビング・クロスビーが歌う「アイルランドの子守唄」に感動、クラシックからポピュラー・ジャズへの転向を決意したという。

アイルランドの子守歌Irish lullaby 歌詞・日本語訳と試聴

在学中に、友人の紹介から進駐軍のキャンプで歌い始め、ティーブ・釜萢の口利きで、当時の一流ビッグバンドである渡辺弘とスターダスターズの専属歌手に。
卒業後の翌1952年(昭和27年)11月に
キングレコードから「ドミノ/火の接吻」を発売し歌手としてレコードデビュー。2年後の1954年(昭和29年)には紅白歌合戦(「第5回NHK紅白歌合戦)に初出場を果たしている(歌は「月光のチャペル」)。渡辺弘とスター・ダスターズの専属解除後の1955年(昭和30年)2月には初渡米。各地で歌い、盛況を博したという。
1958年(昭和33年)ミュージカル『あなたの為に歌うジョニー』で
芸術祭個人奨励賞受賞。翌1959年(昭和34年)、NHK高知放送局テレビ放送開始(1958年11月)の記念に歌った「南国土佐を後にして」が空前の大ヒット(ミリオンセラー)となり、ジャズ/ポピュラー界だけではなく歌謡界においても、その地位を不動のものにする。

1960年(昭和35年)、ロサンゼルスの日米修好百年祭(ここ参照)に日本人代表として招かれ、この際に、ミュージカル「サウンド・オブ・ミュージック」を劇中歌「ドレミの歌」に日本語詞を付けて歌い、今も歌い継がれているほかに、また1964年(昭和39年)の「学生時」などのヒット曲がある。
また、タレントしても活躍し「
ひらけ!ポンキッキ」フジテレビ)のしつけコーナーや「ウルトラマンタロウ」のウルトラの母の人間体“緑のおばさん”などでお茶の間に親しまれた。
2004年(平成16年)
旭日小綬章受章。女性初となる日本歌手協会7代目会長も務めた。
1965年(昭和40年)、俳優の
根上淳(本名は森 不二雄、2005年没)と結婚。おしどり夫婦として知られていた。
デビューからのレコーディング曲数は約2,000曲 、レコード発売枚数は、約200枚(うちLP盤は約60枚) に登るという。ヒット曲も多いが、誰にも知られているもっとも有名なのは、なんといっても、「南国土佐を後にして」・・・ではないか。
冒頭掲載画像は、たしか、1992年(平成4年)の「ペギー葉山デビュー40周年」を記念して「新神戸オリエンタルホテル劇場」(
新神戸オリエンタルシティ内)行われたライブ時のチラシであるが、「南国土佐を後にして」以外に「学生時代」「つめ」「ドミノ」「トウヤング」「ドレミの歌」「メモリー」「ラ・ノビア」などが唄われている。もともと、ジャズ・ポピュラー出身の彼女。彼女のジャズなどいいですよ。興味ある人はちょっと下で聞いてみるとよい。

 
Listen Samples - Neowing

さて、ペギー葉山の代表曲「南国土佐を後にして」(作詞・作曲:武政英策)。
この歌には元歌があり、原曲は、
盧溝橋事件華北から華中華南へと戦線が拡大し日中戦争が泥沼化するなかで、占領地の警備や治安維持を目的として1939(昭和14年)に新設された歩兵三個連隊編制師団の一つ第40師団中の陸軍朝倉(第236連隊)で唄われていた歌(ここ参照。作詞・作曲:不詳。)のリメイクだそうである。
この部隊は別名・鯨部隊ともよばれ、1939年(昭和14年)に
高知県出身の若者達を主力に編成された部隊であり、歌は、当部隊で、望郷の歌として歌われていた「南国節」とか「よさこいと兵隊」などと呼ばれていたもので、後半部に古くから伝わる高知県民謡「よさこい節」を歌いこんだものであった。以下は、原曲とされる歌詞(※2参照)との比較である。

武政英策作詞「南國土佐を後にして」原曲鯨部隊原曲歌詞「よさこいと兵隊」

1 南国土佐を 後にして
  都へ来てから 幾歳(いくとせ)
  思い出します 故郷の友が
  門出に歌った よさこい節を
   土佐の高知の ハリマヤ橋で
   坊(ぼん)さんかんざし 買うをみた


2 月の浜辺で 焚火を囲み
  しばしの娯楽の 一時を
  わたしも自慢の 声張り上げて
  歌うよ土佐の よさこい節を
   みませ見せましょ 浦戸をあけて
   月の名所は 桂浜


3 国の父さん 室戸の沖で
  鯨釣ったと 言う便り
  わたしも負けずに 励んだ後で
  歌うよ土佐の よさこい節を
   言うたちいかんちゃ おらんくの池 
   にゃ
   潮(しお)吹く魚が 泳ぎよる
   よさこい よさこい

1 南国土佐を 後にして 
  戦地へ来てから 幾歳ぞ
  思い出します 故郷の友が 
  門出に歌った よさこい節を
   土佐の高知の 播磨屋橋で 
   坊さんかんざし 買うを見た

2 月の露営で 焚き火を囲み 
  しばしの娯楽の ひと時を
  自分もじまんの 声張り上げて 
  歌うよ土佐の よさこい節を
   みませ見せましょ 浦戸をあけて 
   月の名所は 桂浜

3 故郷の父さん 室戸の沖で 
  鯨釣ったと いうたより
  自分も負けずに いくさの後で 
  歌うよ土佐の よさこい節を
   言うたちいかんちや おらんくの池
   にゃ 
   潮吹く魚が 泳ぎよる
   よさこい よさこい


原曲は、戦後復員兵らによって高知県にもたらされ、古里ソングとして定着していた。
NHK京都放送局和洋管弦楽団の初代指揮者もしていた武政英策は、大阪大空襲で自宅を焼かれ、当時の妻の縁で南国市疎開し、戦後も大阪には帰らず、高知で楽団の指揮をするなど音楽活動を続けていた。
そして、酒席でこの原曲を聞いて、心惹かれた武政は、人によって歌っている歌詞や曲に少しづつ違いのあるものを採譜、整理、改編し、原曲の歌詞にあった「戦地(
中支)」「露営」といった、戦時下を連想させる言葉を、集団就職の若者をイメージさせる言葉に置き換えて、「南国土佐を後にして」と題し、レコード会社に持ち込み、1953年(昭和28年)9月に開局したラジオ高知(現: 高知放送)の番組で丘京子が歌い、反響を呼んだことにより当曲は日本マーキュリーからシングル発売され、1955年(昭和30年)に鈴木三重子が吹き込みテイチクレコードからも、日本調歌謡としてリリースされたが、このときはさしたるヒットにも話題にもならなかったようだ。
そして、1958年(昭和33年)11月に
NHK高知放送局テレビ開始の記念番組として「歌の広場」にペギー葉山が登場し歌って大ヒットしたわけだが、彼女は元々ジャズ歌手として活動していたので、民謡の入った和風曲のこの歌を歌うにのには非常な抵抗があったようだが、「NHK高知放送」の開局という特別な依頼を受けてしぶしぶ歌ったところ、大反響となりジャズ歌手の肩書きは、すっかりと薄れ「南国土佐を後にして」で永遠に名前を残すことになったともいえる。
発表当時、武政自身は、褒められるどころか「戦地じゃあこんな軟弱な歌い方をしなかった」の批判もあったそうだ。男のバンカラ調から、似て非なる女性的なきれいなメロディーになったのだから、そう思う人も地元では当時は大勢いたのだろう。

この歌のヒットには、
テレビ普及の歴史が密接に絡んでいる。
日本でテレビの本放送が始まったのは1953年(昭和28年)2月1日のこと。この年の受像機台数は3600台ほどにすぎなかったが、ようやく100万台に達したのが5年後の1958年(昭和33年)5月のことであり、そのわずか1年後の1959年(昭和34年)4月には
今上天皇(当時皇太子明仁親王)と正田美智子(当時)の婚約結婚で起きた、ミッチー・ブームにより、一挙に200万台に倍増した時代であったから・・・(※3参照)。
当時、
NHKが地方放送局を新たに開局する場合、そのお祝い番組として「私の秘密」と「歌の広場」の二つが、一つの番組としてセットになっていたそうだ。そして、NHK高知放送局開局としての番組「歌の広場」のゲスト歌手にペギー葉山が選ばれ、この番組のディレクターで、熊本放送局時代に、九州地方で埋もれていた歌「五木の子守唄」などを発掘したという妻木良夫が、高知での開局記念番組の下見として出かけて「南国土佐を後にして」を発見し、ペギー葉山に開局記念番組でこの曲を歌って欲しいと頼みこんだのだそうだ。
その結果ペギーが渋ったのは先に書いた通りだが、結果としては、高知で大ヒットし、あまりの反響の大きさから、翌・1959年(昭和34)年5月、ペギーの歌がレコード化された(その間の事情等は、以下参考の※4:「つぶやき館」:
ペギー葉山さんを偲ぶ、「南国土佐を後にして」と第二の故郷、高知参照)。
さらにこの歌のヒットによって、 
日活映画が小林旭を主演にした同名の映画(※5参照)を製作し、歌同様に大ヒットし、彼もまた一躍トップスターに踊り出て、以降、映画「渡り鳥」シリーズなどに主演。石原裕次郎らとともに日活の黄金時代を築くことになる。以下は、同映画のさわり「南国土佐を後にして/ペギー葉山/小林旭・浅丘ルリ子/ダイス勝負篇」である。



ぺギー葉山が、妻木から参考に見せられたのは、丘京子のレコードではなく鈴木三重子のレコードだったという。

YouTube- 動画「南国土佐を後にして」

丘京子のレコードは上記サイトで聞けるが、鈴木三重子のレコードはCD化はされているそうだがYouTubeでは聞けない。
『南国土佐を後にして』の歌詞を比べると鈴木→丘→ペギーと徐々に変異しており、丘とペギー版の歌詞は共通点が多いが、鈴木,丘版では『男性が故郷の土佐を懐かしんで』という設定だが、ペギー版では『女性が故郷の土佐を懐かしむ』という大きな違いあり、この女性の立場に立った歌詞というのもヒットの要因であろうと※4:「つぶやき館」:鈴木三重子の「南国土佐を後にして」(テイチク、昭和30年の限りない魅力では、語っている。
そして、それぞれ特徴はあるが、「新しい息吹を吹き込まれたペギー葉山歌唱でない鈴木三重子の歌唱は、まさにしっとりとした日本調であり、(丘京子はそれとも異なる)一種、
芸者調と言えなくもないほどの和風な味わいである。繰り返し聴いてみると、私は鈴木三重子の歌唱による『南国土佐を後にして』こそ、もう一つの真髄ではないのか」・・・とも言っている。

鈴木三重子の歌が聞けず残念だが、先に紹介した以下のサイト

YouTube- 動画「南国土佐を後にして」

では、上から2番目に大塚三春の「南国土佐節」がある。
昭和戦前期から戦後にかけて流行歌を歌う
うぐいす芸者歌手とよばれる芸者兼歌手が活躍していたが、レコードジャケットや歌を聞いてもわかるが、大塚三春も鈴木三重子と同様の芸者歌手であったのだろう。独特の歌い方で魅力がある。鈴木三重子の歌とは歌詞も若干違うが、鈴木も同じような歌い方をしていたのではないか。

さて、最後に、第40師団所属歩兵第236連隊は、編成直後から終戦まで、華中・華南のほとんどの戦役に参加。「
江南殲滅作戦」は、1943年(昭和18年)4月から6月にかけて主に湖北省西部で戦われた日本軍と中国軍の戦闘(「江南殲滅作戦」湖北作戦とも。中国側呼称は鄂西会戦)であるが、中国側主張では、ここで南京事件に次ぐ虐殺事件が起きたという。そして、第40師団所属歩兵第236連隊の実行部隊には、独立混成第17旅団、戸田支隊、小柴支隊、針谷支隊が挙げられているようだ(※6参照)。
その中の小柴支隊とは、1987年(昭和62年)、自らが設計を指導・監督した
カミオカンデによって史上初めて自然に発生したニュートリノの観測に成功したことにより、2002年(平成14年)に、ノーベル物理学賞を受賞したことで知られる小柴昌俊博士の実父・小柴俊男大佐を支隊長とした歩兵隊であったそうだ。
江南殲滅作戦での出来事も、南京事件(
南京事件論争)同様、虐殺の存否について日本側と中国側で論争があるが・・・。その真実については、よくわからないが、小柴氏もえらいところに名前が出てきて迷惑なことだろうね~。

参考:

※1:ペギー葉山 Web Site
※2:土佐高知の雑記帳:鯨部隊(歩兵236連隊)

※3:南国土佐を後にして: 二木紘三のうた物語
※4:つぶやき館:全て
※5:南國土佐を後にして(南国土佐を後にして) | 映画 | 日活
※6:廠窖虐殺事件 - 誰かの妄想・はてな版 - はてなダイアリー


『笈の小文』の旅に出た松尾芭蕉が、神戸・須磨・明石へ入った

芭蕉蝸牛-句碑

須磨浦公園内にある芭蕉句碑。
「蝸牛 角ふりわけよ 須磨明石」

笈の小文』は松尾芭蕉俳諧紀行(旅行記)である。
芭蕉独自の
蕉風俳諧は、1684(貞享元)年の旅と、旅先の名古屋で成った連句集『冬の日』(※1の芭蕉七部集)によって、確立したとされている。その旅の記は冒頭に、「野ざらしを心に風のしむ身かな」の句を揚げるところから『野ざらし紀行』(※1の芭蕉文集)と呼ばれる。翌年4月末に芭蕉は江戸に帰ったが、蕉風開眼の句として知られる「古池や蛙とびこむ水の音」(※1のここも参照)が芭蕉庵(※2の芭蕉翁絵詞伝-深川芭蕉庵参照)で作られたのは、その翌・1686(貞享3)年のことである。
さらに芭蕉は、1687(貞享4)年8月の『
鹿島詣』(※1の芭蕉文集)の旅をした後、10月より翌年8月にかけて、10ヶ月に及ぶ『笈の小文』『更級紀行』(※1の芭蕉文集)の旅などによって心境を深め、蕉風俳諧は次第に完成の域に近づいた。
『笈の小文』冒頭の、「旅人とわが名呼ばれん初しぐれ」の一句によっても『野ざらし紀行』の場合と、旅に向かう態度が大きく異なっていることがわかる。
ただ、この『笈の小文』は、1687(貞享4)年の10月、郷里
伊賀(※ 3参照)への4度目の帰郷に際して創作された作品を集めて一巻としたものであり、『奥の細道』のように芭蕉自身が書いた旅行記ではなく、後に、芭蕉自身が書いた真蹟短冊や書簡などをもとに、芭蕉の死後、大津の門人川井乙州(かわいおとくに。姓は河合とも、河合智月の弟。※1の芭蕉関係人名集川合又七も参照)によって編集されたものだそうであるが、内容的に必ずしもまとまった作品とはいいがたい点があるようだ。
この旅そのものは、1687(貞享4)年10月25日に江戸
深川を出発し、翌・1988(貞亨5)年8月末に江戸に戻るまでの長期のものであったが、芭蕉は、旅の途次に、わざわざ空米売買(帳合取引参照)の罪で名古屋を追放となり、三河国保美(ほび)(愛知県田原市保美)に隠棲(いんせい=俗世間を逃れて静かに住むこと)していた坪井杜国 (※1の関係人名集杜国も参照)を訪れこの先の旅で合流しようと密約を交わして分かれたのか、その後、芭蕉は故郷伊賀上野で正月を過ごし、2月に、伊勢神宮参拝旅行に出かけ、次は吉野への旅立ちであるが、芭蕉は大胆にもこの伊勢で、刑に服し伊良湖で謹慎しているはずの杜国と合流し、2人旅で吉野の花見をし、高野山和歌浦そして、奈良唐招提寺などを見物して、大坂(大阪)へ出ると、4月19日には、尼崎より舟で神戸に着き、4月20日、須磨明石へ赴き、翌4月21日には神戸の布引の滝を見物後、山崎街道西国街道のうちの六宿駅)へ入り箕面の滝などを見物した後、京に入って分かれるまで、100日ほどの間一緒に旅を楽しんでいる。
ちなみに、杜国は、芭蕉が特に目を掛けた門人の一人であり、彼を幼名のまま「万菊丸」と呼び続け、真偽のほどは不明だが、「寒けれど二人寝る夜ぞたのもしき」の句(前年11月伊良湖の杜国を訪う為越人と
豊橋の旅籠に泊まった折の感)からも感じ取られるように、彼を“心も身体も”愛していたようである。
杜国はこの旅の翌々年34歳の若さで死去。芭蕉の『
嵯峨日記』(※1の芭蕉文集)4月28日には、亡き杜国への思いが綴られている。芭蕉と杜国の関係が師弟以上のもの(同性愛)であったとする俗説はここに由来するようだ(※4も参照)。
それはさておき、芭蕉の『笈の小文』の話に戻そう。芭蕉の『笈の小文』の旅は、4月19日に船で
尼崎から神戸(=兵庫津)に着き1泊している。
現在の
神戸港が出来たのは明治維新以降のことであり、古くは日本書紀に出てくる神功皇后伝説(※5)の時代に始まり、奈良時代から大輪田泊と呼ばれ、浜がのように伸び、沢山の松林があり、有名な景勝地であった輪田(和田)岬(輪田御岬)の東側にいだかれた天然の良港をなしていた。
平安時代に
平清盛による大修築により中国宋との貿易福原遷都で大いに栄えたが、源平合戦(治承・寿永の乱)により焼却するが、栄華を極めた平家滅亡後、鎌倉時代に東大寺俊乗坊重源の修築により、国内第一の港として「兵庫津」と呼ばれるようになり、京・大坂の外港・経由地として栄えた。又、江戸時代には、西宮宿(現在の西宮市)と大蔵谷宿(同明石市)とをつなぐ旧山陽道(西国街道)の宿場として兵庫津が存在した。

『摂津名所図会』尼崎より須磨浦まで
上図は、『摂津名所図会』に描かれた“尼崎より須磨浦まで遊覧の風景”であり、同図会には瀬戸内海の沖から本州を眺めた風景が描かれている。(以下参考の※6:の山陽道の中の“兵庫津”にて拡大図が見られる。)
瀬戸内を行き交う白帆の船と共に右頁に尼崎、頁中央には和田岬と兵庫津、その向こう左頁には須磨、
鉄拐山(以下参考の※7)、鉢伏山一ノ谷が、そして左遠くには、播磨国が見える。
須磨の浦とは大阪湾と播磨灘を分ける
明石海峡の東口にあたる海岸線一帯を指し、風光明媚で、須磨は明石と共に白砂青松の景勝地として名高い。
古来より『
枕草子』(須磨の関、※8参照)『万葉集』(海女の塩焼き、※9)『古今和歌集』などで多くの歌に詠まれている。
平安末期の歌僧
西行法師山家集に以下の歌がある。

「播磨潟なだのみ沖に漕ぎ出でてあたり思はぬ月をながめむ」(311)
播磨潟なだのみ沖」とは、播磨灘の沖を言っており、山などによって視界を遮られることもない播磨灘の沖に舟で漕ぎ出て、沖合の海で、人目など周囲を気にすることもなく心ゆくまで月を眺めよう・・・と言った眺望を込めた歌のようで、それは西行の囚われのない自由な境地への憧れでもあったようだ(※10の西行参照)。
また、先にも触れたが、芭蕉は1687(貞享4)10月からの、『笈の小文』の旅に出る前の8月に『鹿島詣』の旅をしているが、『
鹿島詣』の冒頭には、「らくの貞室、須磨のうらの月見にゆきて、「松陰や月は三五や中納言」といひけむ、狂夫のむかしもなつかしきまゝに、このあき、かしまの山の月見んとおもひたつ事あり。」・・・とある。
つまり、京都の貞室(
安原貞室。貞門の俳人)が、須磨の浦の月を見に行って「松かげや月は三五夜中納言」と吟じたそうで、その風雅に心を奪われてしまった昔の人が懐かしく思われたので、この秋、鹿島神宮参詣と筑波山の月見をしようと思い立ち旅に出たと言うのである(※1の芭蕉文集鹿島詣)。・・・しかし、結局、雨にたたれて筑波山の名月を見ることは叶わなかったようだ・・・。
この貞室が詠んだという「松かげや月は三五夜中納言」の句の、
三五夜は三×五=十五で、仲秋の十五夜のことであり、中納言とは在原行平のこと。『古今和歌集』にある「わくらわに問ふ人あらば須磨の浦に藻塩たれつつ侘ぶとこたえよ(962)」の歌が念頭にあるという。
行平は、
文徳天皇の頃、摂津須磨籠居させられたことがある。藻塩(もしほ=海藻からとった塩)たれつつとは、藻塩を作るための潮水を垂らしながら。涙に暮れる意の「しほたれ」と掛詞になっているという(※10の在原行平参照)。
これらを総合すると、「松陰や月は三五夜中納言」の句意は「須磨の裏の白砂に、美しく松のかげを落とす月はと見上げれば、時あたかも十五夜の月であるよ。その昔、須磨に籠居させられた中納言行平もこの月を眺めながら涙に濡れて侘びしく暮らしていたのだろうなあ・・と言うことになるのだろう・・・?ただ、貞室の句として『鹿島詣』本文に掲げられたものの真の句は「松にすめ月も三五夜中納言」(『
玉海集』)のことで、引用は芭蕉の記憶違いによるものだそうだ。
行平の「わくらわに問ふ・・・」の歌は、『
源氏物語』に、「おはすべき所は、行平の中納言の、「藻塩垂れつつ侘びける家居近きわたりなりけり。」という形で引かれている(※11の第十二帖「須磨」第二章第一段「須磨の住居」)。
『源氏物語』のおこりなどについてのいくつかの古注のなかでは、最高の水準にあるとされている
四辻善成の『河海抄』には、村上天皇の皇女選子内親王から新しい物語を所望され石山寺(滋賀県大津市)にこもって構想を練っていた紫式部は、8月15日夜、琵琶湖の湖面に映った月を見て『源氏物語』の構想を思いつき、須磨の巻の「「こよいは十五夜なりけり」と思し出でて」と書き綴ったのがきっかけだとしているそうだ(※12)。・・・ただ否定説もあるようだが・・。
朧月夜との仲が発覚し、追いつめられた光源氏は後見する東宮に累が及ばないよう、自ら須磨へ退去した。
須磨で行平が侘び住まいした付近に住み、都の人々と便りを交わしたり絵を描いたりしつつ、憂愁の日々を送る源氏を癒してくれたのが、須磨の月であった。
物語のなかでは、「「今宵は十五夜なりけり」と思し出でて、殿上の御遊恋ひしく・・」とあり、月を眺めながら都を回想している(※11;「源氏物語の世界」の『源氏物語』「須磨」第三章第二段 )。『源氏物語』「須磨」は、行平が須磨に流されたあとの
松風・村雨との恋物語なども当然、題材としたと思われる。源氏には、明石の君が登場する。
須磨は
六甲山系西端の鉢伏山・鉄枴山が海近くまで迫り、また平地の端にもあたる。山の西に流れる現在の垂水区塩屋との境を流れる小川を「境川」と呼ぶが、この「境川」が古くは畿内摂津山陽道に属していた播磨の境界であったためそう呼ばれている。このことは後に又触れるが、兵庫県の境界についての歴史は、ややこしいので、とりあえず気になる方は以下参考の※13など参照されるとよい。
須磨の地名は一般的には、摂津の隅っこの「スミ」が転訛し、それに当て字したものと言われている。「スミ」は「棲む」「(夜を)明かす」に通じ、更には月の「澄む」「明し」にも通じるため、須磨・明石が月の名所となったようだ。
光源氏の須磨での住居跡と伝えられる寺・現光寺(須磨区須磨寺町。※14:須磨観光協会
現光寺参照 )境内には、芭蕉の「三段切れ」の名句といわれるものの句碑がある。以下の句がそれだ。
「見渡せば眺むれば見れば須磨の秋」
この句は、松尾芭蕉が、「芭蕉」という俳号を使う前の「松尾桃青」時代の1678(延宝6)年、「須磨・明石」を題とする句会で詠んだものとされている(※2:「芭蕉庵ドットコム」の「山崎藤吉著芭蕉全傳」の
第一編第三章 俳諧師 二 談林風の芭蕉 〔2〕)p.7参照)。
「月はあれど留守のやうなり須磨の夏」
「月見ても物たらはずや須磨の夏」
この二句は芭蕉が『笈の小文』の旅で須磨を訪れ最初に詠んだ句であり、このとき、芭蕉らは現光寺境内の風月庵に宿を取ったといわれている。この寺は、もとは「源光寺」「源氏寺」とも呼ばれていたそうだが・・・、付近には「藩架(ませがき)」とか「ヤグラ」という字名が残っていて、古代の須磨の関跡だったとも言われている(※14:「須磨観光協会」の
ここ参照)。
芭蕉は行平や源氏らが見たであろう須磨の名月を見たかったのだろう。しかし、はるばる訪ねてきたものの当然ながら、そこには庵の主人はいなかったし、又、謡曲『松風』(※15参照)の松風・村雨の幽霊にも出会えることはなかったようで、その物足りない思いを夏の月の物足りなさにかけて詠んだものらしい。
幾ら古来より有名な須磨の名月であっても、やはり月は秋の月に勝るものはないと、時期外れの須磨訪問をしきりと悔やんでいるようだ。尚、芭蕉の宿泊した日が4月20日だったことから、地元須磨では、この日を 「芭蕉の日」 と呼び、この日を記念して、芭蕉の足跡をたどる「芭蕉ウオーク」などが行なわれている。
芭蕉は須磨見物をした時、須磨では前二句の他に五句読んでいる。
「海士(あま)の顔先(まづ)見らるゝやけしの花」
「須磨のあまの矢先(やさき)に鳴(なく)か郭公(ほととぎす)」
「ほとゝぎす消行方(きえゆくかた)や嶋一ツ」
上記の三句についてはあまり面白くないのでこの際割愛するが、嶋一ツとは淡路島のことだ。句のことについては、※1の『笈の小文』のなかで詳しく解説しているので参照されるとよい。
以下の句はその後、
須磨寺(上野山福祥寺)で詠んだもの。
「須磨寺やふかぬ笛きく木下やみ」
須磨寺は、
平敦盛の「青葉の笛」と称する笛(『平家物語』では『小枝』(さえだ)という横笛。(謡曲では『若葉の笛』という。)を寺宝としている名刹であり、現光寺より、近いところにある。
句意は、“この寺の生い茂った木々の下では、誰も吹いていないのに、この笛の音が聞こえてくるような気がする闇である”といったところ。
一の谷の合戦の前に、平氏は源氏が攻めてくることも知らず、管弦の宴を楽しんでいたが、そのとき16歳の敦盛の吹く小枝の笛の音色には、源氏の軍勢もしばし心を打たれた。
熊谷次郎直実が敵の大将を倒したと思うと、見れば自分の息子ほどの年であったが、それでも泣く泣く首をはねると、腰の錦の袋に笛を見つけて先の笛の主だと知り、悲しみ無常観にひしがれ出家したという。
謡曲『敦盛』(※15参照)では出家した直実が一の谷を訪れ、敦盛の霊と出会い、かつての敵味方を忘れ、今はともに仏法の道を行くものとしてお互いを許しあう。芭蕉が彼への哀惜の思いを句にしたもの。
源平合戦ゆかりの寺として知られる須磨寺境内には、敦盛が身につけていた「青葉の笛」のほか、敦盛首洗い池、敦盛首塚、義経腰掛の松、敦盛と直実の戦いの様子を再現した「源平の庭」また、その「源平の庭」には、『源氏物語』須磨の帖に、光源氏が
紫の上を想って植えたという「若木の桜」跡がある(※11の「第十二帖「須磨」第四章第一段「須磨で新年を迎える」)。
この「若木の桜」は、謡曲にも登場し、『須磨源氏』(※15参照)では、日向の国、宮崎の社官
藤原興範が、伊勢を参詣する途中、須磨の浦に着き、そこで若木の桜を眺めている翁にその謂れを問うと、ここは昔、光源氏の邸で、その頃よりあった桜木だと答え、源氏の生涯を懐かしげに話す場面がある。
又、謡曲『忠度』(※15参照では型を変え、光源氏ではなく
平忠度に置き換わり、もと歌人の藤原俊成に仕え今は出家の身である旅僧が、須磨の浦で薪を運ぶ老人(忠度の亡霊)に会い、忠度の墓標である桜の若木のもとで回向を頼まれる。その夜、花の木陰に仮寝した旅僧の夢に武将の姿で現れた亡霊は、自分の歌が『千載和歌集』に入れられたが朝敵ゆえに「読み人知らず」とされたことを嘆き、定家に作者を付けるよう伝言を頼む・・といった話となっている。
作者が忠度であることは周知の事実であったが、朝敵の身となったため、撰者の俊成が配慮して名を隠し、“故郷の花”と云ふ題にて、詠まれた歌のなかから一首だけ、讀人しらずとして入れたのであるが、その間の事情は、『平家物語』巻七「忠度都落」にも述べられている(※16※17参照)。詠まれた歌のことは※10:「千人万首」の
平忠度を参照されるとよい。
謡曲『忠度』の中で、忠度の亡霊が「そもそもこの須磨の浦と申すは、淋しき故にその名を得る。・・・・」と言っているように、奈良・平安時代までの須磨は、田畑が少なく浜辺に漁師の家が点在するだけの寂しい場所であるとともに、そこに伝わる話も悲しいものが多い。
芭蕉は、須磨見物後、“明石夜泊”と題して以下の句を詠んでいる。
「蛸壺やはかなき夢を夏の月」
蛸壺に入っている蛸は、明朝には引き上げられる運命とは知らず、夏の月夜にはかない夢を描いているという句意だが、明日をも知れぬ人生の哀れを客観視した句であると言って良いだろう。ただ、なかなか難しく、句だけを読んでもなかなか理解しづらいだろうから※1の『笈の小文』の解説(
ここ)を参照されるとよい。
明石市人丸町にある
人丸神社柿本人麻呂を祀る)の山門前にこの芭蕉句碑がある。
芭蕉が、『笈の小文』を終えた後の4月25日に、伊賀上野の門人猿雖(惣七)に宛てた書簡(
ここ参照)があり、この書簡自体が旅行記になっていて、『笈の小文』を補完するものとなっているようだが、そこでは、4月19日に兵庫に夜泊り、20日に和田岬の源平合戦の旧跡や行平の松風・村雨の旧跡を見て、鉄拐山に登りそこから見た景色と一の谷の合戦など歴史上の哀しい出来事などを思い浮かべ「生死事大無常迅速(しょうじじだいむじょうじんそく。=人の生と死こそまさに無常そのものであるの意。)として、「この海見たらんこそ物にはかへられじと、あかしより須磨に帰りて泊る」と書かれており、この書簡の内容からすると、『笈の小文』では、“明石夜泊”と題しているものの、実際の宿泊は明石より須磨に帰っての“須磨夜泊”であったとするのが正しいようだ。
それに、この句は『笈の小文』の句の中でも完成度が高く、この地で即興的に詠まれたというよりは、後から十分に推敲された句ではないかとも言われているし、折角、明石へ行ったというのに、この句以外明石の句が無いと言うのも少々気になるところではある。
『笈の小文』はこの「蛸壺や・・」の句を最後に、この後、「須磨懐古」の文章を載せて終っているが、その懐古文の中に、「
淡路嶋手にとるやうに見えて、すま・あかしの海右左にわかる。」とあるが、どこからの眺めかは記されていないが、先の猿雖(惣七)に宛てた書簡には、はっきりと「てつかひが峰にのぼれば、すま・あかし左右に分れ、あはぢ嶋。丹波山、かの海士(あま)が古里(ふるさと)田井の畑(太井畑)村など、めの下に見おろし」と書かれている。


『攝津名所圖會』須磨の浦
上図は、『攝津名所圖會』矢田部郡下より須磨の浦を描いたもの。一の谷は源平の戦いで有名である(以下参考の※6:の山陽道の中の”21 須磨の浦”のここクリックで拡大図が見られるが、※18:『攝津名所圖會』. [正,続篇] / 秋里籬嶌 著述 ; 竹原春朝斎 図画を見れば、さらに大きく拡大してみることができる。右部分2枚続き画像は巻10-15にて、左部分2枚続き画像は10-16を見られるとよい。
上掲画像の(
左部分をの拡大図10-16)を見ると、その右頁には、右〔東側〕から鉢伏山の手前ニノ谷、三ノ谷が、左方向(西方面)に並び、この三ノ谷から浜側の古山陽道を西側に熊谷直実に討たれた平敦盛を供養する大きな五輪塔(敦盛石塔)が見える。三ノ谷は現在の須磨浦公園西端に当たる(※14「須磨観光協会」の敦盛塚参照)。
その西側左頁の中央付近、浜辺に向かって、川とはいえないほど小さな川「さかい川」(堺〔境〕川)が描かれている。現在山陽電鉄の鉄橋の下を流れている。
この境川が、古くから摂津と播磨の国境とされていたところであり、このあたり、「 赤石(明石)の櫛渕 」 と呼ばれ鉢伏山の断崖が海に突き出し、多くの谷と尾根が櫛の目のように交互に連なった交通の難所であった。
左の頁の上には以下の句が添えられている。
「蝸牛(でんでむし)つのふりわけ(角振り分け)よ須磨あかし(明石)」
この句は、「
芭蕉七部集」の1つ「猿蓑(巻之二)に「蛸壺や・・・」の句と共に収録されており、『笈の小文』の終点須磨・明石にて見た光景をよんだもの。
この句には、“この境、「這ひわたるほど」といへるも、ここの事にや ”との前詞がついており「、蝸牛(でんでむし)」は平仮名で「
かたつぶり」として詠まれている。
前詞の「這ひわたるほど」は、『源氏物語』「須磨の巻」では「あかしの浦ははひわたるほどなれば云々」、すなわち須磨と明石の間は這って渡れる程に近い距離だという記述があることによったものだそうで、句意は「カタツムリの二本の角、須磨と明石が「這いわたる」ほどの距離であれば、お前の角で片方は須磨、もう一方は明石を指し示してみよ」、というのである.(※1の
ここ参照)。名句として有名だが、まだこの句は『笈の小文』の草稿段階では、完成していなかったのだろう。
前詞にある、この境、「這ひわたるほど」の距離という「境」が、当時摂津の西の端である西須磨村と播磨の明石郡(塩屋村=現:垂水区塩屋)との境界である小さな「堺川」のことを言っているとすれば、当然この歌はこの堺川付近で詠まれたもので、芭蕉が明石へ行ったというのもこの地を訪れたことを言っているのではないか・・・。
『摂津名所図繪』によると、「堺川は三ノ谷より西五町にあり。堺川の西は播州塩屋村へ八町なり。」とあるようだ。因みに、三ノ谷は、山陽電鉄
須磨浦公園駅から「鉢伏山山上」駅へのロープウェイの索道のちょうど真下の谷である。その山上駅からカーレーターを乗り継いで山頂付近には回転展望閣があり、そこら一帯が須磨浦山上遊園となっている。
六甲山系の西南端にあるこの鉢伏山は標高は246mと高くは無いが、鉢を伏せた様な形状をして海から一気にそそり立っており、須磨浦公園駅から歩くと、急な登りで約30分はかかる。その鉢伏山から北方徒歩で約10分程のところに
旗振山(標高252m)、そこから徒歩約10分のところに鉄拐山(標高234m)がある。源平の合戦では一の谷に陣を構えた平氏軍を攻略するために、その背後の鉄拐山の東南の急斜面を馬で駆け降りて奇襲したという。旗振山からの途中に一の谷の坂落とし(鵯越の逆落とし。※19参照)で降りたとされる地点があり、道標が整備されている。
芭蕉は、どうしても、その鉄拐山に登りたくて、鵯越の逆落としの時に
義経を導いたという十六歳の熊王(鷲尾三郎義久)より四つも年下の少年を道案内に雇ったが、少年が途中で疲れたとか言ってごねたりしたようで「麓の茶店にて物くらはすべき」となだめながら、苦労してなんとか案内をしてもらい、這い登ったことが、※1:「芭蕉DB」の『笈の小文』の「須磨懐古」の中に書かれている(参考※20の須磨も参照)。
平家物語に出てくる熊王とは猟師の子で、この功労により義経より自らの一字を与えられ「義久」と名乗り、以降、忠実な義経の郎党として付き従い、最後は
衣川館にて主君と命運をともにしたという鷲尾三郎義久だといわれている(※21参照)。

須磨浦山上遊園からの景観は非常によいところである。今は便利に登れるので、神戸へ来られたら、そんな歴史を思い浮かべながら是非一度は登ってみてください。

 

参考:
※1:
芭蕉DB

※2:芭蕉庵ドットコム

※ 3:芭蕉と伊賀

※4:芭蕉の恋 - 空白の風土記

※5:神戸市兵庫区ホームページ

※6:兵庫歴史ステーション:兵庫歴史の道

※7:鉄拐山

※8:源氏物語の「須磨」を歩く 関守稲荷神社 須磨の関跡の碑

※9:たのしい万葉集:兵庫

※10:千人万首

※11:源氏物語の世界

※12:滋賀県石山観光協会 紫式部ゆかりの花の寺 石山寺

※13:播磨と摂津の国境

※14:須磨観光協会
 
※15:
謡曲集目次
 
※16:
平家物語 総目次

※17:小さな資料室 :忠 度 の 都 落『平家物語』巻第七より   

※18:『攝津名所圖會』. [正,続篇] / 秋里籬嶌 著述 ; 竹原春朝斎 図画

※19:神戸市文書館 源平特集:目次
 
※20:笈の小文 須磨・明石 - 俳諧サイト

※21:
平家物語画帖(後期)@根津美術館
 

 

 



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