老いの愉しみ

好きな我楽多のことや、老いのたわごとを・・・・。  

黒澤映画『羅生門』が封切られた日

e-羅生門
大映で撮影し1950(昭和25)年の8月26日公開されたモノクロ映画『羅生門』は黒澤明監督の代表的作品である。
冒頭画像は、コレクションの「黒澤明の世界・記念絵葉書(ポスター画)30枚組」から「羅生門」(画像クリックで、拡大)。沖縄郵政管理事務所発行のものである。
同絵葉書30枚は以前に当ブログでアップしているので30枚すべてはそこで見てください。以下です。

黒澤監督全30作品の絵入り葉書

映画「羅生門」の原作は、芥川龍之介の短編小説『藪の中』だが、この作品は、『今昔物語集』巻二十九第二十三話「具妻行丹波国男 於大江山被縛語(妻を具して丹波国に行く男、大江山において縛られること)」の説話が題材となっている。ここでは、若い盗人に弓も馬も何もかも奪われたあげく、藪の中で木に縛られ妻が手込めにされる様子をただ見ていただけの情けない男の話で、語り部は妻の気丈さと若い盗人の男気を褒め称えて、話を締め括っている。
この情けない男を殺し、殺人事件に仕立てたのが小説『藪の中』である。本作は、藪の中で起こった殺人事件を七人の証言者が証言、告白するという形式でなりたっている。(※1:「青空文庫」の
藪の中参照)
映画『羅生門』では、平安時代のとある薮の中。盗賊、多襄丸(
三船敏郎)が昼寝をしていると、侍夫婦が通りかかった。侍の妻(京マチ子)に目を付けた多襄丸は、夫である侍(森雅之)をだまして縛り上げ、夫の目の前で妻を強姦する。しばらく後、現場には夫の死体が残され、妻と盗賊の姿はなかった・・・。
物語の進展は、雨が激しく降りしきる荒廃した羅生門の下で雨宿りをしている杣売(
志村喬)と旅法師(千秋実)がボーっとうつむいている。「わかんねえ・・・さっぱり、わかんねえ・・・」と杣売。そこに雨宿りのため駆け込んできたもう一人の下人(上田吉二郎)が近づいてきて、「さっぱりわかんねぇ」とばかり言っている売から話を聞く。旅法師「今日のような恐ろしい話は初めてだ・・・」 杣売と旅法師は「こんな不思議な話は聞いた事が無い」と下人に話し始めた。杣売の話は都に程近い山中で一人の侍の遺骸を見つけ、3日後にそのことで検非違使庁から呼び出しを受けたことに始まる…。
そして、この殺人事件をめぐり、目撃者の杣売と旅法師、捕らえられた盗賊と侍の妻、それに
巫女により呼び出された、死んだ侍の霊の奇妙な証言が始まる。ところが事件の顛末は、証言者によってくい違い、結局どれが真実なのか誰が犯人だったのかは全て有耶無耶〔うやむや〕=物事がはっきりしない)のままになっている。・・・のは、原作「藪の中」と同じだ。
映画はほぼ原作にどうり忠実に描いているが、原作の「藪の中」では存在の薄かった
木樵(映画では〔そま〕売り)の証言が、重要な役割を担っている。黒澤好みの志村喬が重要な役割を果たすが、大映製作ということもあり、黒澤作品には珍しく女性(京マチ子)が重要な役割を果たす。(※2:goo映画参照)
死体の発見者杣売は、自分だけが真実を知っていると言い、盗賊は女を犯すと、女は悪魔の形相になり、夫と決闘させ、その間に女は逃げたと証言するが、女は、「あの人を殺して」と叫ぶ。さすがの盗賊(三船敏郎)もたじろぐ台詞、その何とかして生き抜こうとする京マチ子演ずる女の背徳のにおいのする姿態と凄まじい演技は今でも印象的に残っている。また、そんな女の姿には、戦争によって働き手を失った女たちが戦後を必死に生きる姿とダブル思いもしたものである。
芥川の映画と同名の
短編小説『羅生門』も、『今昔物語集』の巻二十九第十八「羅城門登上層見死人盗人語」を題材にしており、羅城門の楼閣で、死人から髪を抜く老婆から、さらに強奪を重ねる下人の話は、生きるための悪という人間のエゴイズムを克明に描き出した作品としてさらに著名となった。
この「
羅城(らじょう)門」とは、かって平安京(現在の京都市中心部)の中央を南北に貫いた朱雀大路の南端に構えられた大門である。平安京の規模は東西千五百八丈(約4・5キロメートル)、南北千七百五十三丈(約5.2キロメートル)であり、その周囲は幅十二丈の南極大路、十丈の北極・東極・西極大路の四本の道によって囲まれていた。南極大路がほかより二丈広いのは都の正面に当たること、また、羅城(高さ約2メートルほどの築垣。都城の城壁のこと)が築かれていたからである。京の表玄関にあたる正面七間、重層の巨大な楼門である羅城門を通り抜けると前方に幅二十八丈(約八十四メートル)の朱雀大路が、遥か北の朱雀門まで通じていた。(以下参考※3:「官制大観・平安京」の平安京条坊図参照)
平安京造営から時代が下ると、816(弘仁7)年大風で倒壊。再建されたが、980(天元3)年暴風雨で再度倒壊してからは再建されず、右京の衰えと共にこの門も荒廃していき、国内の荒廃につれて平安京南部の治安は悪化の一途をたどり、
洛南の羅城門周辺は夜ともなれば誰も近付かぬ荒れた一画となっていた。
映画『羅生門』はこの小説『羅生門』からも舞台背景、着物をはぎ取るエピソード、(映画では赤ん坊から)を借りており、テーマ的には小説『羅生門』への
アンサーソングともなっている。(※1:青空文庫:「羅生門」)
なお、ここで紹介した『今昔物語集』の巻二十九第二十三話「具妻行丹波国男 於大江山被縛語」及び巻二十九第十八「羅城門登上層見死人盗人語」の説話は、原文及び直訳文は参考※4を現代語訳は参考※5で読むことができる。短い文章なので、興味のある方は後で読まれるとよい。
映画『羅生門』は公開の翌年・1951((昭和26)年9月10日、
ヴェネツィア国際映画祭でグランプリ(金獅子賞)を受賞し、西洋に黒澤明の名や日本映画の芸術性の高さを初めて世界に知らしめた。また、三船敏郎も京マチ子もこの作品で世界的に知られるようになった。
しかし、この受賞には、以下のような話がある。
黒澤は、自分の作品がヴェネツィア国際映画祭に出品されていたことを事前に知らされていなかったため大変驚いたという。また、製作した
大映側も同じで、永田雅一社長ら首脳陣もグランプリ受賞の意味もまるで解さず、困惑顔だったという。それは、公開が前年の8月26日の事で1年も時が経っていたし、公開当時余りにも難解な内容に、映画が完成時には永田自身「この映画はわけがわからん」と批判し、事実封切り後の評判も芳しいものではなかったので製作関係者を左遷させたいわくつきの作品であったそうだ。
だから、グランプリ発表の2週間ほど前に映画際主催者から受賞の可能性を伝える電報が大映に届いていたというが、大映は無視し、おかげで、このグランプリ授賞式には日本の関係者の姿はなく、急遽、現地の日本人に似たベトナム人の手に金獅子賞が手渡されたという。その後、賞の価値を知り、ヴェネチアに出品されてグランプリをとった後の永田は豹変し、どこへ行っても『羅生門』を褒め上げ、黒澤を呆れさせたという。後年、黒澤が自らの半生を回想した自伝「
蝦蟇(がま)の油」の中で、まるで「羅生門」の映画そのものだと書いているそうだ。(朝日クロニクル「週刊20世紀」)
黒澤は、現在の東京都品川区出身で、1928(昭和3)年、
京華中学校卒業後、画家を志し、日本プロレタリア美術家同盟(※6参照)に参加し、洋画家の岡本唐貴に絵を教わったという。1936(昭和11)年、画業に見切りをつけて26歳でP.C.L.映画製作所(現在の東宝)に入社。主として山本嘉次郎の助監督を務める。1943(昭和18)年、『姿三四郎』で監督デビュー。
彼は画家出身らしく、映画の一つ一つの場面のイ メージを眼に見える様にかため、ふくらませ、 しっかり掴んで、それから映画の撮影に臨むのだといわれており、映画の場面を自ら描いた
絵コンテなどが多く残されている。
 ただこのうち「影武者」他計6作品の絵コンテ原画20点が中国で競売にかけられているといたというがそうだと残念だな~(※7参照)。
映画の『羅生門』。時代は世情も人心も荒廃しきった平安朝末期。半分朽ち、今にも壊れそうな羅生門が時代を象徴している。映画の冒頭シーンに登場するその羅生門が組み立てられていく様子が数枚の写真で記録され残っているそうだ。セットもすばらしいが、黒澤監督もこの羅生門づくりにこだわって、「延暦十七年」という年号を刻ませた瓦を4千枚焼いて、羅生門の屋根に使用したというエピソードがあるらしい。
黒澤が日本映画史を代表する映画監督であることは疑問の余地がない。しかし、黒澤作品は『
姿三四郎』から『まあだだよ』まで全部で30作品( 監督作品 参照)があるが、後年に作成された、『影武者』『』『』『八月の狂詩曲』など「耄碌(もうろく)を絵に描いたような失敗作」、『影武者』『乱』など人間を描けなくなった観念だけの作品になっていると指摘する人もいるというが、確かに黒澤の作品は1965(昭和40)年の作品『赤ひげ』以降の作品には余り見るべきものはないように思われる。
 



 参考:

※1:青空文庫:作家別作品リスト:芥川 竜之介

※2:羅生門 -goo映画

※3:官制大観・平安京

※4:今昔物語ー京都大学附属図書館所蔵 国宝

※5:攷証今昔物語集(本文) [やたがらすナビ]

※6:日本プロレタリア美術家同盟

※7:黒澤明監督の絵コンテ20作品が初めて競売へ―中国 - Record China

※その他:黒澤明の世界


湯沢三千男メモ

昨日(2018 年8月14日)神戸新聞(夕刊)には、以下のような記事があった。

湯沢メモ
発見された湯沢メモ(神戸新聞8月14日夕刊より。

太平洋戦争の開戦前夜、昭和天皇への報告を終えた東条英機首相の発言や様子を記したメモが14日までに見つかった。開戦の手順を報告する東条に、昭和天皇が「うむうむ」と応じ、動揺を見せなかったことから、東条は「全く安心している。このような状態であるから、すでに勝ったと言うことができる」と述べたという内容。東条の発言を書き留めた湯沢三千男・内務次官=1963年に死去=のメモを遺族が保管していた。
開戦前日の1941(昭和16)年12月7日、昭和天皇が東条から報告を受けたと「
昭和天皇実録」(※1、※2参照)に記載されるが、その様子が明らかになるのは初めて。
昭和天皇との関係を探る手掛かりとなる。
メモは、東京
神田神保町の古書店主・幡野武夫さんが、2010年ごろ、湯沢の娘婿で内務官僚の大野連冶・元青森県知事(管選)=1991年に87歳で死去=の遺品を整理中に発見、解読を進めていたものだそうで、開戦前夜の午前11時20分に書き上げたとする文章が3枚の便箋に綴られ、戦時下の政治史を研究する古川隆久日本大教授は、湯沢の筆跡に間違いない」としている。
当時
内務省は地方行政だけでなく、警察業務も管轄。1941年10月の政権(東條内閣)発足当時、東上が内務相も兼務しており、かって、内務次官を務めた湯沢が再就任していた。
メモによると東条は12月7日夜、首相官邸に呼びだした湯沢に「戦争開始と国民の処置を決定した」と通告。「陛下の命令を受け、一紙乱れることのない軍紀の下、行動できるのは感激に堪えない」と発言した。
昭和天皇については「いったん決めた後は悠々として動揺もしない」「(報告には)うむうむとおっしゃられ、いつもと変わらなかった」「対英米交渉(
日米交渉。※3、※4参照)に未練があれば暗い影が生じるであろうが、そんなことはなかった」としているそうだ。
湯沢三千男内務次官が開戦前夜の東条英機とのやり取りを記したメモが二つ折りにして挟まれていた当時学生だった湯沢親族名義の大学ノートには、1944年の7月の東条内閣退陣を論じる湯沢の手記が綴られており、東条に対し、「人の言うことを聞かず、自ら断行するのが総理の職務遂行上必要だと信じているようだ」との辛辣な表現も見られ、開戦後に東条が退陣に追い込まれたことについても、「政治家としての思想なき結果と突き放しているようだ。
古川隆久日本大教授も、東条が開戦直前のこの時期、当メモに書かれているように、「既に勝った」というのは本心だったと思う。天皇の賛意を得て、国内をまとめるという大仕事を自分はやりきった。後は軍人たちの仕事だーーという気持ちだったのだろうが、それは
事務次官の発想であり、一国の指導者としては資質に疑問符を付けざるを得ない。それまで、開戦を不安視する言動が見られた昭和天皇は開戦を決定した12月1日の御前会議以降は、気持ちの揺れを見せておらず、今回の資料もそれを裏付けている」と言っている。
湯沢のメモが挟まれていた大学ノートの末尾には、開戦時の
参謀総長で45年9月に自決した杉山元の遺書(御詫言上書参照)が写されていることから、湯沢が戦争末期から終戦直後にかけ所感を書きつけていたものらしい。・・・と。

今日・2018年の8月15日は、平成最後となる
終戦の日である。
終戦から73年を迎えた今日、東京の
日本武道館では、平成最後となる「全国戦没者追悼式」が行われた(ここ参照)。今年が最後の参列となる天皇陛(今上天皇)は、「戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ、ここに過去を顧み、深い反省とともに、今後、戦争の惨禍が再び繰り返されぬことを切に願い」「心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります」・・・と4年連続で「深い反省」との表現を用いて、戦争が繰り返されないことを願ったお言葉を述べられた。
もう、二度と過去の愚を繰り返してはならないが、なにか、日本は、危険な方向に向かっているような気もするのだが・・・。

参考:

※1:
昭和天皇実録、宮内庁が公表 激動の時代歩んだ苦悩や葛藤浮き彫りに

変形銚子

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①平戸焼:銚子「お坊さん?」②平戸焼:銚子「犬」
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③三河内焼:銚子「飛龍」
とぐい呑洸祥作
④沖縄・金鉄砂釉
「龍頭一口カラカラ」浦島作
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⑤京焼:銚子「お坊さん?」


⑥沖縄・壷屋焼「海老魚紋カラカラ」
とぐい呑、いずれも、金城次郎作
徳利、銚子共、箱書きあり
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⑦沖縄・「三彩・龍頭カラカラ」

①の平戸焼(三川内焼ともいう)の銚子は、取っ手部分の寝そべっている唐子は、今の時代の箸置きを利用して作ったもので、お銚子へお酒を入れるときの注ぎ口の蓋の積もりで作ったものだろう。
それにしても。好きな人が居るもんだね~。

①②⑤⑦あたりが少し古いもので、明治期あたりのものと思うが、この中では②の平戸焼:銚子「犬」が、一番古いもののようだ。
①~③は平戸焼の銚子で、平戸焼にはこれらのお銚子に限らず、面白い形の細工物が多いが、恐らく土が軟らかくこのような細工ものに向いているのであろう。①②の銚子などは遊郭などで使われていたと聞いているが、その様な気がする。特に②など小便小僧じゃないが変なところから酒が出るようになっており、遊び道具そのものである。
③平戸:銚子「飛龍」とぐい呑洸祥(こうしょう)作は現代のもので正月の床飾り用の置物としても使えるように考えて作られている。ぐい呑には洸祥作と名がある。この2点は、私が長崎佐世保の会社に仕事で関与していたので、私が酒好きと知っている社長から、仕事を離れるとき選別に貰ったものである。地元ではそれなりのものであろう。
④⑥⑦は、沖縄の焼物である。④沖縄・金鉄砂釉「龍頭一口カラカラ」浦島作は戦後間なし位に作られたものであろうか。⑥沖縄・壷屋焼「海老魚紋カラカラ」とぐい呑、徳利、銚子は、共に、箱書きもある、現代の作家物で、「人間国宝」の故金城次郎氏のカラカラとぐい呑である。この魚紋の絵が有名である。魚の表情も色々あるが、やはり、このカラカラのように笑っている絵に人気がある。沖縄は先の大戦(沖縄戦)でどこも焦土と化した為、⑦「三彩・龍頭カラカラ」の様な戦前の古いものは数が少ない。⑤は京都の焼物であるが図案は ①と同じお坊さんのようである。良く見かける図柄であり、知る人は知る有名な図柄なのであろう。それにしても、同じようなものを作っても、京都の焼物はやはり、洗練されていますよね~。














松浦清山『甲子夜話』より 大坂安部之合戦之図

大坂安部之合戦之図

松浦清山(随筆集『甲子夜話』挿入大坂安部之合戦之図画像
画像
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1841年(天保12年)6月29日(旧暦)は松浦清(清山)の忌日である。(西暦:グレゴリオ暦:1841年8月15日。ユリウス暦1841年8月3日)
松浦清(まつら きよし)・・・・って、誰?
私も詳しいことをよくは知らなかったが、松浦 清は、江戸時代中・後期の大名。
肥前国平戸藩の第9代藩。平戸藩世嗣だった松浦政信(第8代藩主・松浦誠信の三男)の長男として生まれたが、大名松浦清としてよりも、江戸時代を代表する随筆集『甲子夜話』(かっしやわ) の著者松浦静山として名が知られているのではないか。
静山は清の隠居後の号であり、『甲子夜話』は松浦静山が隠居したのち、文政4年(1821年)執筆を始め没するまでの20年間、毎日書き記したもので、正篇100巻、続篇100巻、第三篇78計278巻にも及ぶ大規模なものであり、内容は
田沼意次時代から松平定信が主導した寛政の改革時代頃にかけて、執筆期に起きているシーボルト事件大塩平八郎の乱などについての記述を始め、社会風俗、他藩や旗本に関する逸話、人物評、海外事情、果ては魑魅魍魎に関することまでの広い範囲に及んでおり、文学作品としてのみならず江戸時代後期、田沼時代から化政文化期にかけての政治・経済・文化・風俗などを知る上で貴重な史料となっている。
なぜ『甲子夜話』(かっしやわ)と名づけられたか?については、本書1巻の序に「吾老公の誉て筆し給える紀聞の草子を甲子夜話となんいふ。そは去年の冬霜月の甲子の夜よりして記し給えるゆへに、そのまゝ書題とはなし給ひき」・・・とあり、1821(文政4)年11月17日『
甲(きのえ)子(ね)の日』に書き出したことに因んでタイトルにしたと「甲子夜話 松浦静山 : 平凡社」 電子書籍eBookJapan の紹介では書いてあった(ここ参照)。「甲子(きのえね)」は音読みでは「かっし」。
ただ上記によれば、静山 は、
貴賎上下の多種多様な人々からの聞いた話を出来るだけ忠実に伝えることに留めているが、時には感動を加えるけれども、虚偽と思うものさえも、手心を加えずできるだけ聞いたまま書き留めているそうである。
私は、このような膨大な資料を読んだこともないが、あの有名な三人の武将(
織田信長豊臣秀吉徳川家康)のホトトギス(時鳥)に関する故事、つまり、
・なかぬなら殺してしまへ時鳥     織田信長(織田右府)    
・鳴かずともなかして見せふ杜鵑   豊臣秀吉(豊太閤)
・なかぬなら鳴まで待よ郭公      徳川家康(大權現様)    
は、鳴かないホトトギス(時鳥)を三人の天下人がどうするか・・・その性格を言い表した句であるが、勿論、本人達が実際に詠んだ句ではなく清山の『甲子夜話』に書かれていたものが、今に伝えられいるものだということは、聞いて知っている。そのことは、以下※1、※2に詳しく書かれている。
『甲子夜話』の句には一般に聞きなれている言葉と微妙な語句の違いがあるが、それは、時代を経て変化してきたものだろうが、他の武将のものも、あるのは知らなかった。
ところで、『甲子夜話』に、”郭公を贈り参せし人あり。されども鳴かざりければ、”・・とあるのを見て???と思った人もあるかも知れないが、ここに書かれている「郭公」は、ホトトギスのことであり「
カッコウ」のことではない(ここ参照)。また「ホトトギス」には一般的に、「時鳥」の字があてられるがこの字のほか、「杜鵑」(とけん。ホトトギスの漢名)の字もあてられている。
「ホトトギス」は、日本では古来より様々な文書に登場し、上記のほか、子規、不如帰、霍公、霍公鳥、杜宇、蜀魂、田鵑など、漢字表記や異名が多い。
江戸時代になると、
松尾芭蕉の句に以下のようなものが見られる。
「烏賊売の声まぎらはし杜宇」
「待たぬのに菜売りに来たか時鳥 」 
これは、以下参考に記載の※3・「芭蕉db・ 芭蕉発句全集」より引用したものであるが、”上の句は、江戸の夏の風物詩ともいえる
天秤棒に担いだイカを売り歩く振り売りの呼び声が耳について、ホトトギスの声がすっかりかき消されてしまう様を詠んだもの”で、下の句は、”ホトトギスの初音は今かいまかと待っている。そこにやってきたのは菜売りの呼び声、なんとまあ無風流なこと”といった意味。それにしても江戸の町ではいろんなものが売られていたんだね~。以下※4:「江戸時代Campus・」の”江戸の町では家にいたまま棒手振りからなんでも買い物ができた?”を参照。
ここで注釈されているように、芭蕉の句では、常に「郭公」と書いてあっても「ホトトギス」と読む。これは、平安時代以降、ホトトギスに「郭公」の字を当てることが常習的に行われているためだそうである。
松浦清山とその随筆集『甲子夜話』のことを書くのにずいぶんと脱線してしまった。
以下参考の※5:「浮世絵文献資料館」によると、松浦静山著『甲子夜話』巻之1p262(文政五年〔1822〕記)には
かわらばん(瓦版)について記載しており、以下のように記されているようだ。
〝先年浪華(現大阪地域における旧名)にて
蒹葭堂を訪しとき、版刻の一小紙を見る。主人曰、これは大阪御陣のとき御陣場の辺を売あるき、従軍の卒買求しものよと云ふ。今山王神社の祭礼に市陌を売あるく、番付と云ふものゝ類なり。僅歳月二百年余にて、時風の違ふこと此版本を以ても想べし。これは平野などを専ら売歩(ウリアルキ)しと云ふ。もと大小二幅ありと聞く。今印出のものは小幅の方なり。大なるは久世三四郎(久世 広当)の家に伝(ツタフ)と云ふ。先年其人に問れど、答も無て過ぬ。この図は予曾て蒹葭の所蔵を摸し置たりしを失(ウシナヒ)たり。今年或人より其小幅を獲たり。絵様始に異ならず。但二所に黒版のものあり。原本には一は大御所様とあり。一は将軍様と書きたり。神祖と台とを申すゆゑ、摸刻にはこれを避たるなるべし。〈「大坂安部之合戦之図」摸造図あり〉〟
この「大坂安部之合戦之図」は現存する最古の瓦版とされている”・・・・とある(
ここ参照)。

そして、※6:「雑学の世界」の”
かわら版と新聞錦絵・江戸読本”には、以下のように記してある。
”元和元年(一六一五)
江戸時代かわら版の
嚆矢(こうし)と位置付けられてきた大坂夏の陣に関するかわら版の後摺り。従来二つの系統が確認されている。この「大坂安部之合戦之図」は、上段に大坂城内、中断に東西両軍の合戦、下段に将軍(秀忠)、宰相(徳川義直)、御所(家康)、常陸(徳川頼宣)らの東軍の陣容を刻す。”・・・・と。
●大坂安部之合戦之図/ 元和元年(1615) 江戸時代かわら版の
嚆矢(こうし)と位置付けられてきた大坂夏の陣に関するかわら版の後摺り。従来二つの系統が確認されている。この「大坂安部之合戦之図」は、上段に大阪城内、中段に東西両軍の合戦、下段に将軍(秀忠)、宰相(徳川義直)、御所(家康)、常陸(徳川頼宣)らの東軍の陣容を刻す。
●大坂卯年図/元和元年(1615) 江戸時代かわら版の嚆矢(こうし)と位置付けられてきた大坂夏の陣に関するかわら版の後摺り。二系統のうちのひとつ、「大坂卯年図」。奥書によって、「元和古写本の表紙の
」から見出したものを文化11年に後摺りしたとしていることが注目される。「元和古写本」とは、「大坂物語」のことである。 
・・・と。そしてその詳細な説明がなされている。詳しいことは■大坂夏の陣のかわら版は実在したか?■かわら版の情報社会 の項などを参照。
私が冒頭に掲載しているものは、以下の早稲田大学古典籍総合データベースの「 大坂安部之合戦之図 」を借用しているが、そこには4種のもの〔汚れてはいるがカラーもあり)が掲載ている。以下では、画像は、超大型に拡大できるので御覧あれ。戦場の様子が詳しくわかる。また、ここに出てくる「大坂卯年図」、「大坂物語」も大坂安部之合戦之図
にあるので、以下にリンクしておく。

大坂安部之合戦之図 - 古典籍総合データベース - 早稲田大学図書館


大坂卯年図-古典籍総合データベース-早稲田大学図書館

大坂物語-古典籍総合データベース-早稲田大学図書館

この大坂夏の陣の様子を絵にしたものは、木版独特の荒削りの摺物が率直で明快な表現となっており、合戦の悲惨さをよく伝えている。
白黒の木版画が素朴なだけに、真実味をまし、女子供の阿鼻叫喚が、男達の蛮声怒号、転がる首から断末魔の絶叫が、聞こえてくる。覧じろじろ、と売りあるき、情報を統制されても、民間に流布し、統制の枠を越えて、伝えられて行くのを止めることは出来なかったのだろう。今でいえば、
号外のようなものではなかったか。
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣と、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣を併せて「大坂の陣
」と呼ばれるが、冬の陣に続いて、再び大坂城を中心に始まった大坂夏の陣は、まさに、徳川家が豊臣家を滅ぼすために仕掛けた戦といってもいいだろう。
と内堀を埋められては大坂城での
籠城戦で勝つ見込みは乏しく、豊臣方は城から出ての野戦に臨まざるを得なかった。
激しい戦いが1か月以上続き、大坂方の
真田幸村の率いる軍が家康の本陣に迫る場面もあったものの、兵力の差は如何ともし難かった。大坂城三の丸が内通者により放火され、徳川軍は城内に突入。大坂城は燃え上がる炎に包まれ、秀頼も、その母の淀君も城内で自害したと伝えられている。
大坂城
天守閣には、、大坂夏の陣の様子を描いた紙本金地著色・六曲一双の屏風絵『大坂夏の陣図屏風』(重要文化財)が保管されている。そこには徳川方の雑兵達が、大坂城下の民衆に襲い掛かり略奪を働くところや、女性を手篭めにする様子などが詳細に描かれている。制作時期は、生々しい描写から陣後まもなくだと推測されている。 Wikipediaで屏風の説明とともに、超大型画像で見られる。以下参照。

大坂夏の陣図屏風 - Wikipedia


そうそう、先にも書いた「シーボルト事件」は
オランダ商館付医官 P.シーボルトが文政 11 (1828) 年帰国に際し,当時,国禁であった日本地図 (幕府天文方高橋景保伊能忠敬のつくった日本および蝦夷の地図を写して贈った) などの国外持出しをはかり、シーボルト以下、多くの幕吏や鳴滝塾門下生が処罰された事件であるが、以下参考※7:松浦静山の部屋">の松浦静山の部屋」の甲子夜話 続篇 7巻-23 シーボルトと松浦静山で触れている.。ここでは、甲子夜話についていろいろ面白い解説をしているので興味のある人は一度覗かれてみては・・・。

参考:

※1
小さな資料室資料206 鳴かぬなら……(「ほととぎす」の句)

※2:
鳴かぬなら鳴くまで待とうほととぎす - レファレンス協同データベース

※3:
芭蕉db・ 芭蕉発句全集

※4:
江戸時代Campus

※5:
浮世絵文献資料館

※6:
雑学の世界

※7:
松浦静山の部屋

※その他1:
京の大仏

※その他2:
摺物にみる方広寺大仏殿開帳について - JAIRO - 国立情報学研究所

暑中見舞いの日


暑中お見舞い申し上げます

6月15日は、「暑中見舞いの日」
1950(昭和25)年のこの日、
郵政省(現・JP日本郵便)が「暑中見舞用郵便葉書」を、初めて発売したことから、記念日として制定されていた。

以後、毎年6月から7月に発売されている。
1986(昭和61)年からは、くじ付きに、愛称も『かもめ~る』(正式名称「夏のおたより郵便葉書」)となり、最近は、パソコンで絵入り葉書作りをする人も増えてきたことに対応し、1999(平成11)年から、インクジェット紙のものも発売されるようになり、現在に至っている。

暑中見舞い」とは、旧暦で6月下旬から7月15日までの「土用」に由来する期間中を「暑中」といい、「暑中」とは、(実態はともかくとしての上では)1年で最も暑さが厳しいとされる時期のこと。
二十四節気小暑大暑の時期を指す場合や、土用を指す場合がある。(夏の土用は、小暑の終盤~大暑の時期にあたる)。
この時期(
二十四節気の小暑から立秋前日の約1か月)に、親戚や知人へ安否を尋ねる手紙を書いたり、家へ挨拶に伺う行事であるが、旧暦と新暦では約一ヶ月のずれがある。
暦の上では
土用の約18日間を暑中としているが、実際には土用が明ける立秋以降も厳しい暑さが続き、これを残暑(ざんしょ)という。残暑は年によっては9月中旬ごろまで続くこともあり、むしろ暑中より残暑の期間のほうが長い。
因みに新暦で、2018年の今年の場合は、7月20日が土用の入り、8月8日が土用明けとなるので、この間が暑中見舞やはお
中元のシーズンでもある。
まだ、入梅したばかりの時期に暑中見舞いの話は早すぎるが遅いよりは良いだろう。

「兎も片耳垂るる大暑かな」  
芥川龍之介(あくたがわ りゅうのすけ)
「念力のゆるめば死ぬる大暑かな」  
村上鬼城(むらかみ きじょう)
と俳句にもあるように、この期間は二十四節気中の「大暑」(六月中通常
旧暦6月内)ともほぼ重なる酷暑の時期にあたり、江戸時代には夏負けをふせぐ食べ物をみやげに持参した。
夏バテ防止には、「
土用の丑の日」にうなぎのかば焼きを食べる習慣があるが、その習慣が起こったのも江戸時代(※1参照)。本草学者で滑稽本作家の平賀源内(1726年~1779年)が、あまり、流行らない鰻屋を繁盛させてやるぺく、その店の入口に、「本日土用の丑の日」と大書したところ、大変に人の注意をひいて客が集まったという話が有名。
丑の日はうなぎ屋のかき入れどきで、その多忙さを示す川柳として「ウナギのかば焼きと黒ゴマに黒豆」と言うのがあるらしいが、植物性の黒い食べ物にはちゃんとした科学的な根拠があるそうだ。(※2参照)
又、土用の丑の日には「う」の字がつく食品を食べると暑気あたりしないという伝承があり、うなぎのほか、瓜、うどん、梅干し、牛肉などを食べたりもする。丑の日に水に入る風習もあって、「
うし湯」につかる地方もあるらしい。
京都の
下賀茂神社では御手洗祭(みたらしまつり)が行なわれ、境内の糺の池(※3及び三柱鳥居-Wikipedia 参照)に足をつけると脚気(かっけ)にならないといわれている。
日本では
正月から始まる6ヶ月を「上半期」、盆から始まる6ヶ月を「下半期」と一年を二期に分け、その節目には、「目上の人や世話になった人達へ贈り物を持参して挨拶周りをする」という習慣があった。そして、夏のの里帰りの際にはご先祖様へお供えものを持参するという風習もあり、この盆の礼として贈り物をする風習が親元や仲人、恩師などを訪問し、贈り物をする風習にまで広がったともいわれているが、明治以降の郵便制度の発達により、この風習が簡素化しはがきによる暑中見舞いのやり取りとして大正時代に習慣化したようだ。 あまり早すぎても受け取られた方も違和感を持つので先に述べた適当な時期に出すのが常識。土用以降に届く場合は「残暑見舞い」になる。ただ、贈り物を送る風習は、今でも、お中元(正月前の歳暮)などにみられるが・・・。

ところで、『
暑中お見舞い申し上げます』というと、私の頭の中には先ず、キャンディーズの歌がでてくる。

暑中お見舞い申し上げます
まぶたにくちづけ 受けてるみたいな
夏の日の太陽は まぶしくて
きらきら渚を 
飛べそうです
今年の夏は アアア 胸まで熱い
不思議な 不思議な夏です
暑中お見舞い申し上げます

1977(昭和52)年の6月21日にリリースされたシングル曲。郵政省の「暑中見舞いはがき」の
CMソングにも使われた。人気絶頂だったキャンディーズの代表的なこの曲(作詞:喜多條忠、作曲:佐瀬寿一 )を聴くと、あ~夏だな~と感じる。

キャンディーズ 暑中お見舞い申し上げます 歌詞&動画視聴 - 歌ネット

 人気最高潮に達していた永遠不滅のアイドル伊藤蘭藤村美樹田中好子の3人が、この年(1977年)7月17日、日比谷野外音楽堂でのコンサート中に「普通の女の子に戻りたい」と発言、突然の解散宣言をし、ファンの間に衝撃を走らせた。そして、ラストとなるシングル「微笑みがえし」のリリースを最後に、翌1978年「本当に私たちは幸せでした」の言葉を残して解散した。この当時、キャンディーズは、ピンク・レディーに並ぶ人気がでてきていた。そして、それまでのかわいらしいキャンディーズが「やさしい悪魔」という曲でミニルックで登場し、次の「暑中お見舞い申し上げます」ではセパレーツのミニへと、お色気面でもピンク・レディーへの対抗が見られるようになった。そのため、キャンディーズの解散の影にはこのようなことがあったからではないかとも噂されているそうだ。
「暑中見舞い」と言えば、キャンディーズの 「暑中お見舞い申し上げます」 より前の
吉田拓郎の 「暑中見舞い」 (1973年リリース)なども有名。

こんなに遠くの海に来ています
こんなに遠くの海に来ています
彼女は鼻の頭まで皮がむけて
おまけに化粧もしてないけど
とってもよく笑うんです
暑中お見舞い申し上げます
暑中お見舞い申し上げます

でも、私の大好きな曲は、同じく吉田拓郎の曲 「我が良き友よ」 である。
下駄を鳴らして 奴(ヤツ)が来る 腰に手ぬぐい ぶら下げて ・・・・
・・で始まる曲であるが、1975年、
かまやつひろしが歌って大ヒットした。
この曲6番まであるが、この曲の4番は、

家庭教師の ガラじゃない
金のためだと 言いながら
子供相手に 人の道
人生などを 説く男
ああ 夢よ 良き友よ
便りしたため 探してみたけど
暑中見舞いが 返ってきたのは
秋だった

・・・とある。”暑中見舞いが返ってきたのは秋だった”のだから、良き友に出した暑中見舞いのはがきが、転居先不明かなにかの都合で秋に戻ってきたというのだろうが、ちょっと、帰ってくるのが遅いね~。それとも、「暑中見舞い」と言っているが、「残暑見舞い」のハガキだったのかもしれない。
ま、そんな、時期的なズレのことぐらいで、とやかく言っておらずに、今一度、この懐かしい名曲、聴いてみよう。本当に良い曲だものね~。
 
吉田拓郎 我が良き友よ 歌詞&動画視聴 - 歌ネット


(画像は、「暑中お見舞い申し上げます」1977年人気絶頂だったキャンディーズの代表的なシングル)

参考:

 ※1:落語「鰻屋」の舞台を歩く/第111話「鰻屋」(素人鰻)

※2:黒い食品の力 [コラム集] - Dole Japan, Inc.


※3;元糺の池の秘密 | 「秦氏」の謎ブログ

※その他;土用と間日・丑の日計算