老いの愉しみ

好きな我楽多のことや、老いのたわごとを・・・・。  

漫画家・横山隆一

貯金箱・ふくちゃん
今日・11月8日は 「フクちゃん」で有名な 漫画家横山隆一(92歳)の2001(平成13)年の忌日。1909(明治42)年5月17日に高知県高知市に生まれる。同じ漫画家・横山泰三は横山隆一の弟。
1932(昭和7)年、故・
近藤日出造らと、若手漫画家らによる新漫画派集団(後の漫画集団)設立に参画。1936(昭和11)年、「フクちゃん」を朝日新聞に発表。5534回の記録をつくる。
主な著書として「漫画集」「ふくちゃん全集」「100馬鹿」「勇気」などがある。「百馬鹿」は、横山隆一の晩年の代表作(1968年~1970年に『週刊
漫画サンデー』に連載)で、一コマ漫画史上の最高傑作との呼び声が高い名作で、1979年に第8回日本漫画家協会賞漫画大賞を受賞している(以下参照。18頁だけ.無料立ち読みができる)。紫綬褒章、勲四等瑞宝章なども受賞している。

百馬鹿- 無料まんが・試し読みが豊富!

高知といえば、同氏の他に岩本久則やなせたかしはらたいら黒鉄ヒロシなどそうそうたる漫画家を排出している「漫画王国」でもある。画家として初めて文化功労者となった横山隆一。高知市は、1996(平成8)年、当時、鎌倉市在住の同氏に市として初めての「名誉市民」の称号を贈っている。この「フクちゃん」は、1936(昭和11)年から朝日新聞東京版で連載が始まった「江戸ッ子健ちゃん」の脇役として登場したが、主人公の健ちゃんよりもフクちゃんに人気が集まって、フクちゃんを主役とした「養子のフクちゃん」が始まった。その後、1941(昭和16)年「アルケフクチャン」翌1942(昭和17)年「ジャバのフクチャン」1945年頃「戦後のフクちゃん」など戦後もこれを引き継ぐ形で、1956(昭和31)年から毎日新聞で「フクちゃん」 を書き、1971(昭和46)年まで5534回の連載記録を残して終了した(※1:「横山隆一記念まんが館」フクちゃん年表参照)。
国民的キャラクターだったフクちゃんは、かつて早大の応援マスコットにもなり、その絵柄が入った傘が早慶戦で使われていた(※1:「横山隆一記念まんが館」
フクちゃん裏話参照)。
Wikipediaによれば、この フクちゃんの名は漫画家・
横井福次郎の「福」から来ているそうだ。フクちゃんは元々、学生帽を被っていなかった。前作『江戸っ子健ちゃん』の初期、大学受験のために健ちゃん宅に居候していた「チカスケ」という登場人物が、合格するために自分を追い込むつもりで先に学生帽を買ったが受験に失敗し、進学を断念して帰郷することになったため、フクちゃんがそれを譲り受けて以来、トレードマークになったものだそうである。
「フクちゃん」という漫画は、当時の庶民の生活を描いたもので、戦後大人気となり、今もテレビでアニメ化されている
長谷川町子の「サザエさん」のような感じのもので、子どもから大人まで、幅広く読まれていた。
私が、まだ子供の頃は、新聞ではなく、
貸本屋さんで漫画本を借りて読んでいたな~。戦後、まだ、貧乏で本が買えないので、本の好きな子は皆、貸本屋で借りて読んでいたものだ。
当時、よく読んだ漫画には「正ちゃんの冒険」(※2)「
のらくろ」「冒険ダン吉」などがあったな~。
漫画の発展に尽くした生涯を紹介する「横山隆一記念まんが館」(※1)が、出身地の高知市に設立されている。
冒頭画像、コレクションの著イン箱の一つ「
太陽神戸銀行(現:三井住友銀行の前身)」の「フクちゃん」の貯金箱。
 
第二次世界大戦中、松竹動画研究所によりアニメーション映画『フクチャンの奇襲』(1942年)、『フクチャンの増産部隊』(1943年)、『フクチャンの潜水艦』(1944年)の3作品が制作される。原作者の横山自身も脚本や演出に関わった・・というが、戦時中は、どこの国でも士気向上、思想統制のための「プロパガンダ(政治宣伝)」映画がつくられたが、日本でも、否応なく、多くの芸術家が協力させられている。戦争は嫌だね~。

フクチャンの潜水艦 - YouTube



参考:

※1:
横山隆一記念まんが館 - 高知市文化プラザかるぽーと

※2:古本夜話368 樺島勝一画、織田小星作『正チヤンの冒険』 - 出版・読書 ...


現在の暦「グレゴリオ暦」を編纂したグレゴリウス13世 (ローマ教皇)

グレゴリウス13世

①「グレゴリオ暦」を制定したローマ教皇グレゴリウス13世。


時は金なり・・・」とは、よく言われるが、私達は、日頃、人と人の約束事を始め、企業間の契約から国家間の条約まで、それれらを成立させ、また、その効力を発揮するために必要不可欠なものとしてを自由に使いこなしているものの、暦の来歴に意識することはない。
暦(こよみ、れき)とは、時間の流れを年・月・週・日といった単位に当てはめて数えるように体系付けたもの、また、その構成の方法論(
暦法)や、それを記載した暦書・暦表(日本のいわゆる「カレンダー」)を指す。
暦の歴史を見ると、実に様々な暦があり、いくつかは現代まで生き残っているが、その多くはその痕跡を残して消えていったが、そうした中、現在使用している暦(
太陽暦)の先祖(古代太陽暦)とも言われる重要なものが、古代エジプトエジプト暦(シリウス星暦(〔※1「こよみのページ」のエジプト暦・・・シリウス星暦シリウス星暦 [その2]〕参照)とも言われるものであった。エジプトでは遅くとも紀元前3000年頃には恒星 シリウス(Sirius)の動きから1年が365日であることを知っていたといわれる。
現行暦は1582年、ローマ教皇
グレゴリウス13世が、当時のヨーロッパの代表的な天文学者たちを集めて編纂させたグレゴリオ暦である(1582年10月15日から行用されている暦法)。
この暦はエジプトを征服した
ユリウス・カエサルアレキサンドリアの暦学者ソシゲネスに命じて紀元前46年に、エジプト暦を改良し古代ローマに導入して以来使われていたユリウス暦を改良して制定したものである。この暦は、単に新暦(ラテン語: Ornatus)と呼ばれる場合もあるが、現在使われている西暦はグレゴリオ暦のことでである。
日本では、1872(明治5)年11月9日に
太政官布告を頒行(はんこう。ここ参照)、1898(明治31)年に勅令によってグレゴリウス暦を施行した(※2:「日本の暦- 国立国会図書館」の暦の歴史→江戸から明治の改暦→明治の改暦参照)。
従来からの
太陰太陽暦を廃して翌年から太陽暦を採用するとした明治5年の年も押し詰まった11月の布告はあまり突然なことに社会的な混乱を来したことだろう。
特に、暦の販売権をもつ弘暦者(江戸時代からの暦師。明治5年には
頒暦商社が結成された)は、例年10月1日に翌年の暦の販売を始めることとしており、この年もすでに翌年の暦が発売されていた。急な改暦により従来の暦は返本され、また急遽新しい暦を作ることになり、弘暦者は甚大な損害を蒙ることになった。
一方、太陽暦改暦を唱えていた
福沢諭吉は、改暦決定を聞くと直ちに『改暦弁』(※3)を著して改暦の正当性を論じた。太陽暦施行と同時に刊行されたこの書は大いに売れその純益は1,500円にまで及んだという(※4:「慶應義塾大学出版会|慶應義塾・福澤諭吉」の第21回 慶應義塾出版局の活動(その3)参照)。1977(昭和52)年時点米価をもとにした明治6年の米俵1俵(60kg)の米価は、1円20銭(米価の変遷参照)だといから、これを現在の価値基準(昭和55年=17,294円)に置き換えると、2、100万円以上となる。福沢としては何の苦労もせずに、わずか6時間程で書き上げて随分と儲けたことになる.
この中で福沢は政府による一方的な改暦に不満を募らせるひとびとに対し、『改暦弁』の中で政府と同様、
暦注(れきちゅう)について、次のように徹底的に批判している。
「日本国中の人々、この改暦を怪しむ人は、まちがいなく無学文盲の馬鹿者である。これを怪しまない者は、まちがいなく日頃から学問の心がけのある知者である。よってこのたびの一件は、日本国中の知者と馬鹿者とを区別する吟味の問題といってもよろしい。」・・・と。
もっとも、福沢が馬鹿者呼ばわりするのは、
旧暦時代の暦(カレンダー)に記載されていた「暦注」という、おもに陰陽五行にもとづいた日々の吉凶判断の類を信じていた人たちをさすようだが、福沢は、『学問ノスゝメ』(※4のここ→學問のすゝめ初編参照)のなかでも、「人は生まれながらにして貴賎貧富の別なし」と身分差別を批判し、「職業に貴賎なし」としているものの、「難しき仕事をする人を身分重き人と名づけ」というのが彼の本心で、「無学なるものは貧人となり下人となるなり」とあるように、日用の役にたつ学問(「実学」)の強調もあるのだろうが、それをしていない無学で、貧乏な人達への偏見が見て取れて、私は、福沢が賢い人である事は認めるがあまり好きになれる人物とはいえない。
さて、明治新政府が、明治5年の年も押し詰まった11月に何故、唐突に「グレゴリオ暦」を導入しようとしたのかと言えば、欧米諸国との国交を開いた日本にとって、暦の違いは読み替えを必要とし、不便であったこともあるが、もっと重要な理由として、政府が直面していた財政難があった。
1873(明治6)年は、太陰太陽暦でゆくと
閏年で、6月が2回あり、1年13ヶ月となり、2年前の明治4年9月2日(グレゴリオ暦1871年10月14日)に役人の給与を年俸性から月給制に改正していたので、政府は13回月給を支払わなければならなかった。これを、1年12ヶ月の太陽暦に移行すれば給与1ヵ月分の支出を削減できたからである(※2参照)。そのため、改暦により、明治5年12月2日(旧暦)の翌日を明治6年1月1日(新暦)とした。全く、政府にとっては都合の良いことかしらないが、役人にとっては迷惑なせこい(細かくてケチなことや、ずるいことを意味する)考えによるものだった。

先に述べたように、今日・4月10日は、現行の太陽暦として世界各国で用いられている「グレゴリオ暦」を制定したローマ教皇グレゴリウス13世(Gregorius XIII,)、本名はウーゴ・ブオンコンパーニ(Ugo Buoncompagni。)の1585年の忌日である。
ローマ教皇グレゴリウス13世の第226代ローマ教皇としての在位期間は1572年-1585年であり、日本との接点としては、戦国時代の日本に巡察師として到来していた“
イエズス会アレッサンドロ・ヴァリニャーノの発案によって、1582(天正10)年、九州のキリシタン大名大友宗麟大村純忠有馬晴信の名代として、天正遣欧少年使節(4名の少年)がローマへ派遣されたが、その4人の少年使節が1585(天正13)年3月に ローマに入り、バチカンで、グレゴリウス13世に謁見したという(※6参照)。
ローマ教皇グレゴリウス13世のことについて、私は、グレゴリオ暦を作った人であることと、このことぐらいしか知らないので、グレゴリウス13世についての詳しいことを知りたい人は、Wikipedia への記載
ここを参考にされるとよい(冒頭①は同Wikipediaより借用)。

兎に角、今日は、グレゴリウス13世の忌日だというので、暦が出来るまでを考えてみたい。
人間は、なぜ、どのようにして自然を測るようになったのだろうか。
時間空間を測り、それによって日常生活を調整しているのは、なにもわれわれ人間だけではない。よく知られているのは生物の体内時計(概日リズム。英語: Circadian rhythmサーカディアン・リズム。ラテン語合成 Circa〔およそ〕di〔1 日〕)である。生物の体内は24時間に近い周期に従って短期的な活動を繰り返す仕組みになっている。
生物が生活をしている地球上では、24時間の周期で昼夜が交代し、明るさや温度が変化する。太陽の出没によって生ずるこの周期は、自然環境そのものの時間の節目であり、区切りである。
太陽はゆうまでもなく、地球上のあらゆる生物のエネルギー源であり、その出没は生物の一日の生活に基本的な枠組みを与える。かりに体内時計の周期(約25時間。但し、個人差24+-5時間ありとのこと。※7参照)と太陽出没の周期とがはじめから一致しているとしたら、そこには、時間を測るなどという問題は生じない。同じ時間のリズムで動いてゆくだけのことである。
ところが、両者の周期は異なる。因みに、それが故に現代人の
概日リズム睡眠障害などは概日リズム機能の低下と結びつけて考えられてもいるという(※7 参照)。
生物はいつも遅れるか進む時計を持っている。生物が太陽エネルギーをもっとも効果的に利用しようとするならば、
体内時計は、一日の周期(※8:「国立天文台暦計算室」暦Wiki→要素→1日とは?/1日の長さ 参照)に合わせて動くように自己調整(同調)しなければならない。つまり、周期の差を測り、時間のずれをなくす。生物はこの自己調整能力のお蔭で、環境にある程度の変化が生じても適応してゆけるのである。
それでは、体内時計はどのようにして周期の差、すなわち時間を測るのだろうか。体内時計が同調するのは第一に明るさ、そして、第二は温度に対してだといわれている。
例えば、毎年移動を繰り返す渡り鳥は、体内時計に照合して太陽の位置を見定め、一方向に飛んでゆくことが知られているという。
つまり、
太陽コンパスを使って、角度を測っているのだそうである。そのメカニズムは、太陽の位置する方向を基準線にして、今度は空間が明暗の縞模様を描き出す。放射状に明暗で描き分けられた時間の文字盤板をイメージすれば良いのだそうだ。
縞模様は太陽の動きにつれて時計回りに回転する。それを体内時計が同調し、特定の時間には特定の明るさをもつ縞のすじの指示する方向をこの生物に選択させるのだそうである。
しかし、人類は言語を獲得して後、生物として単に体内時計に依存する生態から脱出し、生物の自然の現象の描く図形ないし図柄を指標として行う非数量的なアナログ型の測定に加えて、自然に関する知識をつかって時間を測るやり方を発明した。
古代のギリシャの詩人
ヘシオドス(紀元前8世紀)は叙事詩『仕事と日々』のなかに、この型の時間測定の見事な記録を残しているという。
「プレアデス(英語: Pleiades。
トレミーの48星座の1つプレアデス星団)が夕方東の空に上りはじめたら収穫し、太陽と一緒に沈み始めたら種を蒔け。シリウス(Sirius)が昼間しばらく、夜が長い間光る頃は、森に斧を入れる格好の季節だ。オリオン(Orion=オリオン座おうし座の東にある冬の星座。中央に三つ星が並んでいるのが目印。)の三つの星が現れ始めたら、いそいで、麦打場で脱穀するがよい。鶴が雲の上で一声鋭く鳴くのを聞いたら、それが種播(ま)きの合図だ。葡萄の樹の剪定は燕が飛来する前にすませ、蝸牛が樹に這い上がるようになったら葡萄畑の除草をおえなければならぬ。・・・・と。

プレアデス星団

②プレアデス星団(Wikipediaより)

上掲の画像はプレアデス星団である(画像はWikipediaより)。
一方には、自然の時間秩序の指標となる天文や気象や動植物などの季節的な現象があり、他方には、社会集団の中に成立している農作業の時間秩序がある。自然現象の描き出す図柄をたよりに、農作業の時間秩序を調整し、2つの時間秩序を一致させる。そうすれば、労働は最大の効果を収めるだろう。
四季の循環と言う大きな時間秩序に変りはないが、気候は年によって変動する。そのために生ずる時間秩序のずれも、この「同調」によって対処できる。このような時間測定は、原理的には、体内時計と全く同じだ。知性による体内時計の拡張ともいえる。
ヘシオドスが生きていたのは農耕社会であり、そこには整った暦もあった。それでも、なお、農民にとって、非数量的なアナログ型の測定に、自然に関する知識をつかって時間を測るやり方を加えた知識-アナログ型の測定は欠かせないものだったようだ.。
自然現象に関するその知識は定着農業に先立つ、狩猟・漁労・植物採集の自然経済時代以来、少しづつ蓄積されてきたものにちがいない。
現存する無文字社会の種族などは知識-アナログ型の測定を行なっており、かれらは 体内時計に従って
夜明けとともに起き、日暮れ とともに床につく。日の出直前や日没直後に東の空、西の空に輝く星は、そんな生活を送る彼らの目を引かずにはおかない。
プレアデス星団やオリオン星座・、
蠍(さそり)座のようなよく目立つ図柄の星の集まり、あるいは、アルタイル鷲座のα星〔アルファ星=一つの星座の中で、最も明るい星。首星〕)・ベガ(ヴェガ。こと座のα星)・カノープスりゅうこつ座のα星)・シリウス大犬座のα星)のようなひときわ明るい星は、かれらにとって、あるいは、鳥や海亀の産卵期を教え、あるいは、野生の芋や木の実の収穫期を知らせ、あるいは、獣や魚の群、雨季や季節風や移動すべき時期の到来を告げる・・・合図であったようd。
台湾本島の南西沖の孤島
蘭嶼(らんしょ)に住むヤミ族(タオ族。アミ族とも)は、くり抜いた木を組み立て、彫刻を施したゴンドラ型の船で海に出て漁をする。飛魚がやってくる3月から5月までが最大の活動期で、月の満ち欠け(※8:「国立天文台暦計算室」暦Wiki月の位相/満ち欠け参照)を数え、新月(に同じ)の夜に祭りを行い飛魚漁を始める。その方法は期せずして、太陰暦に閏月を挿入する太陰太陽暦のやり方を先取りしていると言う(週刊朝日百科「日本の歴史」47古代―3「暦と年号)。
タオ族のことは、以下参考の※9:“1940年頃の蘭嶼”(台湾タオ族)、また、※10 :「台湾原住民デジタル博物館」の“アミ族”に詳しく書かれているが、参考※9から、暦のところ(140P)を抜粋すると以下のようになる。
1月=カオワン、2月=カッシャマン、3月=カボアン、4月=ピョコカオル、5月=パパタオ(小さい船で飛魚を取りにゆくの意)、6月=ピラピラ(網で魚を取るの意)、7月=ビヌスノマタウ、8月=ビヤムアン、9月=ポアハウ、10月=ゲタナタア、11月=アルマヌ、12月=カヌマン、13月=カピトアン
ヤミ族には時計と言うものがなく、夜が明けるとともに、起き出て朝食をすまして仕事にかかり、午後3時頃昼食をする。昼食後はあまり仕事をせずぶらぶらしているようだが、日が没する頃に夕食を済ませて間もなく寝るのが一日の行事となっている。
仕事と言うのは、漁労と農作業が主なものであるが、男子の仕事と女子の仕事がはっきりと分かれている。
1年を13ヶ月に分けていて、その月によって年中行事が定まっている。例えば2月をカポアンといって、飛魚を獲り始める月、7月をビヌスノマタウといって魚とりは一切止めて家の改築や船の建造をする月、この2月と7月は陽暦に当てはめての月名だそうである。
12月をカピトアンといって、神様を祭り、又、
(あわ)蒔(ま)きをする月というように、その月の行事がそのまま月の名称になっているという(〔注〕※9の書き誤りか、ここでは12月をカピトアンとあるが、補注では、12月=カヌマン、13月=カピトアンとなっているので、12月のことか13月のことか正確なことはよく判らない)。
時間測定を計量化し、天文観測(
天文学)に基づく暦を作成するまでには、なお越えなければならない巨大な壁があった。それは、第一は、文字を知り、計算が出来、天体の運行や星座の配置について系統的な知識を持つ専門家の存在であり、第二は、そのような専門家を必要とし、また養ってゆけるような、社会的分業階級的文化の進んだ社会の出現である。
いわゆる未開社会の人々は、空間や物を測る特定の言葉や手立てを殆ど持ち合わせていない。大抵のことは目分量で間に合う。異動する距離なら、半日の道程というように時間で表せる。
このような場合、そんなに厳密さは必要ないのだから、物の量を比較するのは簡単。例えば、長さの場合、参考※9に、よれば、ヤミ族は他の種族と同様に一定のスケールを有しないが両手を拡げた長さ即ち一
を単位として用いている。これをasarupaと言いその2分の1を半尋asarimaと言っている。更にひじを曲げて手を軽く握り肘関節から中指の第2間接までの長さをsiko、指を伸ばして小指から人差し指まで4本の指の幅をapatakamai、薬指から人差指まで3本の指の幅をatorakamai、中指と人差指と2本の指の幅をnuakamai、人差指1本の幅をasakamaiと読んでいるという。
そのほか、容量は掌籠ですくってみる。重さは持ち運べるかどうかを目安にする。量の比較は必ずしも軽量化ではない。
度(さし)・量(ます)・衡(はかり)というものは流通・交易などの価値の交換において、非常に重要な意味を持っており、そのような、比較のために共通の基準を必要とする社会において、初めて度・量・衡制が実現する。そのような社会とは、同時に暦を必要とする社会でもあり、高度に組織された社会、統一された国家にほかならなかった。
紀元前4000年紀の後半に
メソポタミヤシュメール人が始めて都市国家を形成した。同時にかれらは、文字を発明し、数世紀後にそれは古代エジプトに伝わった。そして、メソポタミヤとエジプトの都市間において最初の体系的な暦と度量衡が産まれたのである。
古代ギリシアの歴史家・ヘロドトスは、「エジプトはナイル河の賜物」という言葉を彼の著した最初の歴史書『歴史』に記しているそうだが、ナイル川は毎年氾濫を起こし、肥えた土を下流に広げたことがエジプトの繁栄のもとだといわれている。そんなナイル河の氾濫を正確に予測する必要から天文観測が行われ、太陽暦が作られた。太陽とシリウス星が同時に昇る頃ナイル河は氾濫したという。

人類にとって、昼間は活動して夜は休む、というのが自然に備わったサイクルであり、それが、
1日という単位である。また夜の暗闇の中での月の満ち欠け(月相=朔望。※8:「国立天文台暦計算室」暦Wiki月の満ち欠け(朔望)参照)の周期性も当然に読み取った。1カ月という単位はこれに由来すると言われている。そして、四季の変化を無視して生活をすることが出来ないことから、自然界の流れに順応した、生活のための食料確保や住居作りに取り組んできた。こうして1年ごとのサイクルを身体で覚え、やがて農業や牧畜の進歩とともに、正確な日にちを数えるようになる。こうして、何日で満月が来るか、何日で季節が一回りするのかを知るという「自然の暦」がカレンダーの出発点である。
しかし、
地球の自転1回を1日とすると、月の公転周期(1 朔望月)は平均29.53059日と端数が付き、地球の公転周期(1太陽年。※8:「国立天文台暦計算室」暦Wiki> 季節→季節のめぐりの周期参照)も365.2422日と、これまた整数でないため、近代暦法の成立めざして、各文明、それぞれの民族が取り組んできた。
1日・1朔望月・地球1公転(1太陽年)。この三つの周期のどれを使い、どれをどう組み合わせるかで、
太陰暦太陰太陽暦太陽暦の暦法に区別される。
しかし、冒頭に述べた現在使用している暦(太陽暦)の先祖とも言われる古代エジプトのエジプト暦(シリウス星暦)も、一月を30日、一年を12ヶ月とすることを基本としていることを見ると、月の満ち欠けという目立つ現象が12回繰り返されると1年がすぎたと、気づくことから暦が始まったといえるだろうから、独立に生まれたと思われる世界各地の暦のほとんどが、
天体と結びつけて作られた「太陰暦」が最初の暦であったといえるようだ。
ただ、度量衡を定める・改正するという行為もそうだが、それと同様に、暦法を改める事も権力の象徴であり、古代より近世に至るまで、権力者たちによって様々な改訂が行われてきたが、そこには、月の日数を何日にするか、又、月のネーミングさえ、権力者の名前を誕生月につけるとか。時の聖職者や権力者の都合で改訂されてきたようだ。
例えば、ユリウス暦の前のヌマ暦(太陰暦、1年355日。
ローマ暦、8:「国立天文台暦計算室」暦Wiki> 季節→ヌマ暦 (共和政暦)参照)を、エジプトの太陽暦を参考にしてつくられたユリウス暦には、為政者ユリウス・カエサル(ジュリウス・シーザー)の誕生月とされる7月をそれまでの「Quintilis」から彼の名「Iulius(Julius)=July」に改名しており、その後、カエサルのあとを継いで初代ローマ皇帝となったアウグストゥスは、カエサルの真似をして、同じくカエサルの7月に続く自分の誕生月8月「Sextilis」を自分の名「Augustus=August」に改名しただけでなく、その時「Sextili」は小の月だったのを、「Augustus」を大の月とし、カエサルの7月と同日数とすることで、アウグストゥスがカエサルと同格の偉大さであるというアピールをこよみに刻んだようだ。今の2月、つまり、古くは「Februarius」が年末の月だったから、閏日はこの月についていたが、「Augustus」が大の月になったため、さらに「Februarius」から1日減らすことで辻褄を合わせた。そのため、平年は28日という短さになってしまった。
又、ローマ教皇グレゴリウス13世による、ユリウス暦からグレゴリオ暦への変更もそうだ。
彼ら
聖職者たちの最大の関心事は、キリスト教の最重要行事である復活祭(イースター)催行上の問題を解決することが最大の目的であった。
ユリウス暦もグレゴリオ暦と同じく太陽暦なのだが、1年を365.25日として計算していることから、精度に問題を抱えていた。
その差は、0.01日にも満たないものではあったが、長年放置しておくと、積もり積もって大きな誤差に成長し、グレゴリウス13世がローマ教皇の座につく16世紀になると、暦上の
春分の日が実際の春分より10日ほど前倒しになるほどに、ズレは大きくなっていた。
復活祭はキリスト教の
典礼暦における最も重要な祝い日で、十字架にかけられて死んだイエス・キリストが3日目に復活したという伝承にもとづいた宗教行事であり、その催行日は「春分後の満月のあとの最初の日曜」と定められている。このため、暦上の春分が実際の天文学的な春分とズレてしまうと、復活祭の日程もズレてしまうので、それを、閏年の入れ方を調整することで解決したが、この改暦で、太陽暦として1年の長さだけはとにかく正確に測れようになったが、改暦以前からそのまま継承されていた矛盾や理論破綻については考慮に入れられておらず、規則性や客観的根拠を内包しない非合理的な暦となってしまったまま現代に引き継がれていることになる。
そのような現代にも残る暦の論理的矛盾などは、以下参考の※11 :「旧暦は地球を救う」の“06 グレゴリオのバグ”に詳しく書かれているので、そこを読まれると良い。
先にも述べたように、実際には自然も人間も循環をもち、同時に自身もまた循環の中にいる。
旧暦が循環という実在する法則にのっとった自然暦であるのに対し、キリスト教徒の作った人工暦であるグレゴリオ暦の直線的な時間概念は人間も含む自然界の生命活動の本来のあり方とは決定的に矛盾してしているものであることは承知しておかなければいけないだろう。
グレゴリオ暦の1年=365.2425日によって生じる実際の1年との差は約0.0003日であり、1日分の誤差が生じるまでには3000年以上要するなど、単純さと正確さを兼ね備えた暦ではある。ただ、暦と太陽または月の運行とのズレを補正するためにグレゴリオ暦は、閏年を挿入しているがその方法は、1年を 356.2425 日とし、端数を 97/400 で近似したため、誤差の補正がややこしい。
以下参考の※12:「グレゴリオ暦とバイナリ暦」によると、今日の測定技術で、太陽年 365.24219 の端数をあらためて分数近似したものを求めると、128 で割り切れず 4 で割り切れる年をうるう年にすれば、これだけで数十万年の間はややこしいい他の補正をせずとも誤差が1日以内に収まることになるという。
128 年で割り切れる上、2進数で下位ビットが全部 '0' の改暦するに最も都合の良い年が、2048 年だそうで、この文字通り千載一遇の機会に、宗教的見地からでなく 科学・技術的見地から 是非とも暦法が変更されないものかと提案しているが、私もそれが本当なら、そうすべきと思うが、どうなるのだろう。
現行の
協定世界時 (UTC。※) において、世界時UT1との差を調整するために閏秒が追加もしくは削除されてているが、現行の協定世界時 (UTC) が始まった1972年(この時のことは※13参照)当時は、世界時 (UT1) との差を±0.7秒以内に保つように調整することとされていたが、1975年1月1日から基準が緩和され、調整を実施しうる日も増やされているようだが、ややこし、問題だ(この”うるう秒をめぐる議論”については、参考※8:「国立天文台暦計算室」暦Wiki > 時刻うるう秒がなくなる? を参照)。

最後に、長くなったついでの余談だが、当ブログ中間あたりで、詩人ヘシオドスは「 仕事と日々」という詩の中で、プレアデス星団を「農業の季節を知らせる星」といってることを紹介したが、
谷村新司の名曲に「(すばる)」がありますね。
プレアデス星団(Pleiades )は、牡牛座散開星団である。
大神
ゼウスが牛の姿に化けた牡牛座の肩の辺りにあり、ギリシア神話に登場する「プレイアデス」では7人姉妹の妖精の星とされているが、欧米では「The Seven Sisters 」とも言われているように、普通は6つの星しか見えないようだ。
ギリシャ神話では七人の娘の一人
エレクトラが自分の息子ダルダノスが建設したトロイの町がトロイ戦争の結果、焼け落ちたのを七日七晩泣き明かし、涙で姿がかすんで見えなくなったと言う。
プレアデス星団は、日本でも六連星(むつらぼし)」とも呼ばれているが、日本では古来より、「昴(すばる)」の名前で親しまれ、今から千年も前に
清少納言の『枕草子』の一節には、
「星は  昂星(すばる)。牽牛(
アルタイル彦星(ひこぼし)。明星(金星の別称、明けの明星)。長庚ゆうずつ、宵の明星=金星)。流星よばいぼしとも)をだになからましかば、まして(=まいて)。・・・」 とある(※14の第229段参照)ように、彦星や宵の明星もいいけど、星は「昴」が最高」と書いている。尚、流星以下の解釈等は参考※15を、「明けの明星」と「宵の明星」も金星の別称であるが、このことは参考※16を参照されるとよい)。
谷村新司の歌 「昴」の中で、「さらばー昴(すばる)よー」 と別れの言葉を歌っているが、“「なぜ、昴に別れを告げているのか」という 疑問が自分で詩を書き歌っている谷村自身にも解けなかったが、 作詞から20年以上たってから「物を中心に据え た価値観に別れを告げるという意味だった」と納得したそうである”・・と、Wikipediaの中には書いてあった。
プレアデス星団は、地球から約400
光年のところにあり、120個ほどの恒星が集まっている。周囲には星が誕生したときの星間ガスがただよい、明るくうつしだされている。また青白く輝いていることから表面温度のきわめて高い白色巨星で、質量は太陽の十数倍と考えられているという。
プレアデスは代表的な散開集団で、その名のとおり、不規則に飛び散るようすを示しているが、激しい燃焼のために寿命は短く、あと1,000万年ほどで
超新星爆発を起こして消滅するのではないかともいわれているそうだ。
谷村新司の歌 「昴」を聴いていると、私には、そのような、プレアデス星団の運命的なものが感じられるのだが・・・。

 参考:

※1:
こよみのページ

※2:日本の暦- 国立国会図書館

※3:国立国会図書館デジタルコレクション -改暦弁

※4:慶應義塾大学出版会|慶應義塾・福澤諭吉■目次■

※5:改暦弁 - 静岡県立中央図書館[PDF]

※6:天正遣欧使節- 世界史の窓

※7:元MRが語る・医療と生物の信じられない実態2

※8:国立天文台暦計算室

※9: 1940年頃の蘭嶼”(台湾タオ族)[PDF]

※10 :台湾原住民デジタル博物館

※11 :旧暦は地球を救う

※12:グレゴリオ暦とバイナリ暦

※13:日本標準時グループうるう秒の対応〔2012年7月実施版〕

※14:原文『枕草子』全巻

※15:星はすばる」 枕草子 Rokujizouの『宇宙に想いを馳せて』






黒澤映画『羅生門』が封切られた日

e-羅生門
大映で撮影し1950(昭和25)年の8月26日公開されたモノクロ映画『羅生門』は黒澤明監督の代表的作品である。
冒頭画像は、コレクションの「黒澤明の世界・記念絵葉書(ポスター画)30枚組」から「羅生門」(画像クリックで、拡大)。沖縄郵政管理事務所発行のものである。
同絵葉書30枚は以前に当ブログでアップしているので30枚すべてはそこで見てください。以下です。

黒澤監督全30作品の絵入り葉書

映画「羅生門」の原作は、芥川龍之介の短編小説『藪の中』だが、この作品は、『今昔物語集』巻二十九第二十三話「具妻行丹波国男 於大江山被縛語(妻を具して丹波国に行く男、大江山において縛られること)」の説話が題材となっている。ここでは、若い盗人に弓も馬も何もかも奪われたあげく、藪の中で木に縛られ妻が手込めにされる様子をただ見ていただけの情けない男の話で、語り部は妻の気丈さと若い盗人の男気を褒め称えて、話を締め括っている。
この情けない男を殺し、殺人事件に仕立てたのが小説『藪の中』である。本作は、藪の中で起こった殺人事件を七人の証言者が証言、告白するという形式でなりたっている。(※1:「青空文庫」の
藪の中参照)
映画『羅生門』では、平安時代のとある薮の中。盗賊、多襄丸(
三船敏郎)が昼寝をしていると、侍夫婦が通りかかった。侍の妻(京マチ子)に目を付けた多襄丸は、夫である侍(森雅之)をだまして縛り上げ、夫の目の前で妻を強姦する。しばらく後、現場には夫の死体が残され、妻と盗賊の姿はなかった・・・。
物語の進展は、雨が激しく降りしきる荒廃した羅生門の下で雨宿りをしている杣売(
志村喬)と旅法師(千秋実)がボーっとうつむいている。「わかんねえ・・・さっぱり、わかんねえ・・・」と杣売。そこに雨宿りのため駆け込んできたもう一人の下人(上田吉二郎)が近づいてきて、「さっぱりわかんねぇ」とばかり言っている売から話を聞く。旅法師「今日のような恐ろしい話は初めてだ・・・」 杣売と旅法師は「こんな不思議な話は聞いた事が無い」と下人に話し始めた。杣売の話は都に程近い山中で一人の侍の遺骸を見つけ、3日後にそのことで検非違使庁から呼び出しを受けたことに始まる…。
そして、この殺人事件をめぐり、目撃者の杣売と旅法師、捕らえられた盗賊と侍の妻、それに
巫女により呼び出された、死んだ侍の霊の奇妙な証言が始まる。ところが事件の顛末は、証言者によってくい違い、結局どれが真実なのか誰が犯人だったのかは全て有耶無耶〔うやむや〕=物事がはっきりしない)のままになっている。・・・のは、原作「藪の中」と同じだ。
映画はほぼ原作にどうり忠実に描いているが、原作の「藪の中」では存在の薄かった
木樵(映画では〔そま〕売り)の証言が、重要な役割を担っている。黒澤好みの志村喬が重要な役割を果たすが、大映製作ということもあり、黒澤作品には珍しく女性(京マチ子)が重要な役割を果たす。(※2:goo映画参照)
死体の発見者杣売は、自分だけが真実を知っていると言い、盗賊は女を犯すと、女は悪魔の形相になり、夫と決闘させ、その間に女は逃げたと証言するが、女は、「あの人を殺して」と叫ぶ。さすがの盗賊(三船敏郎)もたじろぐ台詞、その何とかして生き抜こうとする京マチ子演ずる女の背徳のにおいのする姿態と凄まじい演技は今でも印象的に残っている。また、そんな女の姿には、戦争によって働き手を失った女たちが戦後を必死に生きる姿とダブル思いもしたものである。
芥川の映画と同名の
短編小説『羅生門』も、『今昔物語集』の巻二十九第十八「羅城門登上層見死人盗人語」を題材にしており、羅城門の楼閣で、死人から髪を抜く老婆から、さらに強奪を重ねる下人の話は、生きるための悪という人間のエゴイズムを克明に描き出した作品としてさらに著名となった。
この「
羅城(らじょう)門」とは、かって平安京(現在の京都市中心部)の中央を南北に貫いた朱雀大路の南端に構えられた大門である。平安京の規模は東西千五百八丈(約4・5キロメートル)、南北千七百五十三丈(約5.2キロメートル)であり、その周囲は幅十二丈の南極大路、十丈の北極・東極・西極大路の四本の道によって囲まれていた。南極大路がほかより二丈広いのは都の正面に当たること、また、羅城(高さ約2メートルほどの築垣。都城の城壁のこと)が築かれていたからである。京の表玄関にあたる正面七間、重層の巨大な楼門である羅城門を通り抜けると前方に幅二十八丈(約八十四メートル)の朱雀大路が、遥か北の朱雀門まで通じていた。(以下参考※3:「官制大観・平安京」の平安京条坊図参照)
平安京造営から時代が下ると、816(弘仁7)年大風で倒壊。再建されたが、980(天元3)年暴風雨で再度倒壊してからは再建されず、右京の衰えと共にこの門も荒廃していき、国内の荒廃につれて平安京南部の治安は悪化の一途をたどり、
洛南の羅城門周辺は夜ともなれば誰も近付かぬ荒れた一画となっていた。
映画『羅生門』はこの小説『羅生門』からも舞台背景、着物をはぎ取るエピソード、(映画では赤ん坊から)を借りており、テーマ的には小説『羅生門』への
アンサーソングともなっている。(※1:青空文庫:「羅生門」)
なお、ここで紹介した『今昔物語集』の巻二十九第二十三話「具妻行丹波国男 於大江山被縛語」及び巻二十九第十八「羅城門登上層見死人盗人語」の説話は、原文及び直訳文は参考※4を現代語訳は参考※5で読むことができる。短い文章なので、興味のある方は後で読まれるとよい。
映画『羅生門』は公開の翌年・1951((昭和26)年9月10日、
ヴェネツィア国際映画祭でグランプリ(金獅子賞)を受賞し、西洋に黒澤明の名や日本映画の芸術性の高さを初めて世界に知らしめた。また、三船敏郎も京マチ子もこの作品で世界的に知られるようになった。
しかし、この受賞には、以下のような話がある。
黒澤は、自分の作品がヴェネツィア国際映画祭に出品されていたことを事前に知らされていなかったため大変驚いたという。また、製作した
大映側も同じで、永田雅一社長ら首脳陣もグランプリ受賞の意味もまるで解さず、困惑顔だったという。それは、公開が前年の8月26日の事で1年も時が経っていたし、公開当時余りにも難解な内容に、映画が完成時には永田自身「この映画はわけがわからん」と批判し、事実封切り後の評判も芳しいものではなかったので製作関係者を左遷させたいわくつきの作品であったそうだ。
だから、グランプリ発表の2週間ほど前に映画際主催者から受賞の可能性を伝える電報が大映に届いていたというが、大映は無視し、おかげで、このグランプリ授賞式には日本の関係者の姿はなく、急遽、現地の日本人に似たベトナム人の手に金獅子賞が手渡されたという。その後、賞の価値を知り、ヴェネチアに出品されてグランプリをとった後の永田は豹変し、どこへ行っても『羅生門』を褒め上げ、黒澤を呆れさせたという。後年、黒澤が自らの半生を回想した自伝「
蝦蟇(がま)の油」の中で、まるで「羅生門」の映画そのものだと書いているそうだ。(朝日クロニクル「週刊20世紀」)
黒澤は、現在の東京都品川区出身で、1928(昭和3)年、
京華中学校卒業後、画家を志し、日本プロレタリア美術家同盟(※6参照)に参加し、洋画家の岡本唐貴に絵を教わったという。1936(昭和11)年、画業に見切りをつけて26歳でP.C.L.映画製作所(現在の東宝)に入社。主として山本嘉次郎の助監督を務める。1943(昭和18)年、『姿三四郎』で監督デビュー。
彼は画家出身らしく、映画の一つ一つの場面のイ メージを眼に見える様にかため、ふくらませ、 しっかり掴んで、それから映画の撮影に臨むのだといわれており、映画の場面を自ら描いた
絵コンテなどが多く残されている。
 ただこのうち「影武者」他計6作品の絵コンテ原画20点が中国で競売にかけられているといたというがそうだと残念だな~(※7参照)。
映画の『羅生門』。時代は世情も人心も荒廃しきった平安朝末期。半分朽ち、今にも壊れそうな羅生門が時代を象徴している。映画の冒頭シーンに登場するその羅生門が組み立てられていく様子が数枚の写真で記録され残っているそうだ。セットもすばらしいが、黒澤監督もこの羅生門づくりにこだわって、「延暦十七年」という年号を刻ませた瓦を4千枚焼いて、羅生門の屋根に使用したというエピソードがあるらしい。
黒澤が日本映画史を代表する映画監督であることは疑問の余地がない。しかし、黒澤作品は『
姿三四郎』から『まあだだよ』まで全部で30作品( 監督作品 参照)があるが、後年に作成された、『影武者』『』『』『八月の狂詩曲』など「耄碌(もうろく)を絵に描いたような失敗作」、『影武者』『乱』など人間を描けなくなった観念だけの作品になっていると指摘する人もいるというが、確かに黒澤の作品は1965(昭和40)年の作品『赤ひげ』以降の作品には余り見るべきものはないように思われる。
 



 参考:

※1:青空文庫:作家別作品リスト:芥川 竜之介

※2:羅生門 -goo映画

※3:官制大観・平安京

※4:今昔物語ー京都大学附属図書館所蔵 国宝

※5:攷証今昔物語集(本文) [やたがらすナビ]

※6:日本プロレタリア美術家同盟

※7:黒澤明監督の絵コンテ20作品が初めて競売へ―中国 - Record China

※その他:黒澤明の世界


湯沢三千男メモ

昨日(2018 年8月14日)神戸新聞(夕刊)には、以下のような記事があった。

湯沢メモ
発見された湯沢メモ(神戸新聞8月14日夕刊より。

太平洋戦争の開戦前夜、昭和天皇への報告を終えた東条英機首相の発言や様子を記したメモが14日までに見つかった。開戦の手順を報告する東条に、昭和天皇が「うむうむ」と応じ、動揺を見せなかったことから、東条は「全く安心している。このような状態であるから、すでに勝ったと言うことができる」と述べたという内容。東条の発言を書き留めた湯沢三千男・内務次官=1963年に死去=のメモを遺族が保管していた。
開戦前日の1941(昭和16)年12月7日、昭和天皇が東条から報告を受けたと「
昭和天皇実録」(※1、※2参照)に記載されるが、その様子が明らかになるのは初めて。
昭和天皇との関係を探る手掛かりとなる。
メモは、東京
神田神保町の古書店主・幡野武夫さんが、2010年ごろ、湯沢の娘婿で内務官僚の大野連冶・元青森県知事(管選)=1991年に87歳で死去=の遺品を整理中に発見、解読を進めていたものだそうで、開戦前夜の午前11時20分に書き上げたとする文章が3枚の便箋に綴られ、戦時下の政治史を研究する古川隆久日本大教授は、湯沢の筆跡に間違いない」としている。
当時
内務省は地方行政だけでなく、警察業務も管轄。1941年10月の政権(東條内閣)発足当時、東上が内務相も兼務しており、かって、内務次官を務めた湯沢が再就任していた。
メモによると東条は12月7日夜、首相官邸に呼びだした湯沢に「戦争開始と国民の処置を決定した」と通告。「陛下の命令を受け、一紙乱れることのない軍紀の下、行動できるのは感激に堪えない」と発言した。
昭和天皇については「いったん決めた後は悠々として動揺もしない」「(報告には)うむうむとおっしゃられ、いつもと変わらなかった」「対英米交渉(
日米交渉。※3、※4参照)に未練があれば暗い影が生じるであろうが、そんなことはなかった」としているそうだ。
湯沢三千男内務次官が開戦前夜の東条英機とのやり取りを記したメモが二つ折りにして挟まれていた当時学生だった湯沢親族名義の大学ノートには、1944年の7月の東条内閣退陣を論じる湯沢の手記が綴られており、東条に対し、「人の言うことを聞かず、自ら断行するのが総理の職務遂行上必要だと信じているようだ」との辛辣な表現も見られ、開戦後に東条が退陣に追い込まれたことについても、「政治家としての思想なき結果と突き放しているようだ。
古川隆久日本大教授も、東条が開戦直前のこの時期、当メモに書かれているように、「既に勝った」というのは本心だったと思う。天皇の賛意を得て、国内をまとめるという大仕事を自分はやりきった。後は軍人たちの仕事だーーという気持ちだったのだろうが、それは
事務次官の発想であり、一国の指導者としては資質に疑問符を付けざるを得ない。それまで、開戦を不安視する言動が見られた昭和天皇は開戦を決定した12月1日の御前会議以降は、気持ちの揺れを見せておらず、今回の資料もそれを裏付けている」と言っている。
湯沢のメモが挟まれていた大学ノートの末尾には、開戦時の
参謀総長で45年9月に自決した杉山元の遺書(御詫言上書参照)が写されていることから、湯沢が戦争末期から終戦直後にかけ所感を書きつけていたものらしい。・・・と。

今日・2018年の8月15日は、平成最後となる
終戦の日である。
終戦から73年を迎えた今日、東京の
日本武道館では、平成最後となる「全国戦没者追悼式」が行われた(ここ参照)。今年が最後の参列となる天皇陛(今上天皇)は、「戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ、ここに過去を顧み、深い反省とともに、今後、戦争の惨禍が再び繰り返されぬことを切に願い」「心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります」・・・と4年連続で「深い反省」との表現を用いて、戦争が繰り返されないことを願ったお言葉を述べられた。
もう、二度と過去の愚を繰り返してはならないが、なにか、日本は、危険な方向に向かっているような気もするのだが・・・。

参考:

※1:
昭和天皇実録、宮内庁が公表 激動の時代歩んだ苦悩や葛藤浮き彫りに

変形銚子

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①平戸焼:銚子「お坊さん?」②平戸焼:銚子「犬」
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③三河内焼:銚子「飛龍」
とぐい呑洸祥作
④沖縄・金鉄砂釉
「龍頭一口カラカラ」浦島作
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⑤京焼:銚子「お坊さん?」


⑥沖縄・壷屋焼「海老魚紋カラカラ」
とぐい呑、いずれも、金城次郎作
徳利、銚子共、箱書きあり
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⑦沖縄・「三彩・龍頭カラカラ」

①の平戸焼(三川内焼ともいう)の銚子は、取っ手部分の寝そべっている唐子は、今の時代の箸置きを利用して作ったもので、お銚子へお酒を入れるときの注ぎ口の蓋の積もりで作ったものだろう。
それにしても。好きな人が居るもんだね~。

①②⑤⑦あたりが少し古いもので、明治期あたりのものと思うが、この中では②の平戸焼:銚子「犬」が、一番古いもののようだ。
①~③は平戸焼の銚子で、平戸焼にはこれらのお銚子に限らず、面白い形の細工物が多いが、恐らく土が軟らかくこのような細工ものに向いているのであろう。①②の銚子などは遊郭などで使われていたと聞いているが、その様な気がする。特に②など小便小僧じゃないが変なところから酒が出るようになっており、遊び道具そのものである。
③平戸:銚子「飛龍」とぐい呑洸祥(こうしょう)作は現代のもので正月の床飾り用の置物としても使えるように考えて作られている。ぐい呑には洸祥作と名がある。この2点は、私が長崎佐世保の会社に仕事で関与していたので、私が酒好きと知っている社長から、仕事を離れるとき選別に貰ったものである。地元ではそれなりのものであろう。
④⑥⑦は、沖縄の焼物である。④沖縄・金鉄砂釉「龍頭一口カラカラ」浦島作は戦後間なし位に作られたものであろうか。⑥沖縄・壷屋焼「海老魚紋カラカラ」とぐい呑、徳利、銚子は、共に、箱書きもある、現代の作家物で、「人間国宝」の故金城次郎氏のカラカラとぐい呑である。この魚紋の絵が有名である。魚の表情も色々あるが、やはり、このカラカラのように笑っている絵に人気がある。沖縄は先の大戦(沖縄戦)でどこも焦土と化した為、⑦「三彩・龍頭カラカラ」の様な戦前の古いものは数が少ない。⑤は京都の焼物であるが図案は ①と同じお坊さんのようである。良く見かける図柄であり、知る人は知る有名な図柄なのであろう。それにしても、同じようなものを作っても、京都の焼物はやはり、洗練されていますよね~。