以下貼付の画像はクリックで拡大します。

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◎日英新同盟記念絵葉書
三越呉服店謹製(明治38年)
①日英同盟記念エキジビジョン
逓信省発行[1910年)
日本が第一次世界大戦に参戦した背景には、日本とイギリスが結んだ日英同盟(※1:「世界史の窓」の日英同盟も参照)の存在があった。
イギリスは19世紀末迄、世界一の
海軍力を武器にパックス・ブリタニカ(イギリスの力に守られた世界平和維持)を実現してきたが、20世紀に入るとロシアドイツ等の海軍力がイギリスを脅かすようになった。香港植民地を持つイギリスは、日本が日清戦争において清国を破ると、その日本の海軍力に目を向け、一方、日本も明治以来、大国ロシアの脅威が続いていた為、イギリスとの同盟は共通の利害で一致していた。
1901年(明治34年)、ドイツ代理大使から日独英三国同盟の提案が行われ、これをきっかけにして日英間の交渉が始まった。当時日本駐英公使であった
林董は、本国の指示で、1902年(明治35年)1月30日、イギリス外相第5代ランズダウン侯爵ヘンリー・ペティ=フィッツモーリスと、ロンドンで第一次日英同盟が調印され、即時発行した(詳細は※2「公文書にみる 日本のあゆみ」の明治35年(1902)1月  第1次日英同盟協約が締結される参照)。この功績で林董は、2月に子爵に昇叙されたという。
この同盟は3年後の1905年(明治38年。詳細は※2「公文書にみる 日本のあゆみ」の
明治38年(1905)8月  第2次日英同盟協約が締結される)と 6年後の1911年(明治44年)に改定され、1923年(大正12年)8月17日に失効するまで約20年間、有効であった。歴史的に見て、極東における日本の地位の向上と強化に役立ったと評価されてきたが、1914年(大正3年)のサラエボ事件発生に端を発した、第一次世界大戦に参加していくことにも繋がった。

以下参考の※3:「平成12年版 通信白書」の
近現代情報通信年表によると、 1885年(明治18年)に、逓信省を創設 (内閣制度も発足)後、 最初の記念切手発行は 1894年(明治27年)のこと(3月に、行われた明治天皇皇后の結婚25周年の祝典を記念して発行されたもので、 最初の記念葉書発行は、 日英同盟成立の1902年(明治35 年)だという。                          
1902年(明治35 年)の日英同盟成立時の記念切手を探したが私の手元には資料がないので、ネットで探したら以下参考の※4 :「(株)タカハシスタンプ商会HP」の以下のページにあった。

日独戦争と俘虜郵便の時代第Ⅰ部 3ー2) 日英同盟

今は本当に便利な時代になった。あるところにはあるものだ。同ページ(図9)の絵葉書には、大きな体の英国紳士が振袖姿の少女と握手するという、当時の日英の力関係が巧く表現されている。
冒頭に掲載の◎印の「日英新同盟記念絵葉書」には、
三越呉服店謹製とある。日露戦後の1905年(明治38年)に改訂された新同盟を祝ったものらしいが、画像は私のコレクションではなく、蔵書の『週刊朝日百科日本の歴史』104(近代Ⅰー5日清・日露戦争10-131p掲載文よりのより借用のものである。日本で発行のこの絵葉書では、日・英の少女が等しく同じ大きさで描かれている。

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日英同盟は、日本が欧州列強と結んだ最初の軍事同盟(日英間の)。イギリスはアジア全域で、ロシアと対峙し、日本は明治以降ロシアに脅かされていた。そうした中での同盟であったが、そうした世界史的な視野でこの同盟を見ていた人はごく少なかったようだ。                                                       日本人はこの同盟を素直に歓迎し、各地で同盟締結を祝う行事が行われ、街には日英国旗が翻ったという。
左:上の写真は、大阪・
中之島に作られた日英同盟締結歓迎アーチである。
その下は、1903年(明治36年)10月30日付の
中央新聞に掲載された日英同盟を風刺する画である。
右のイギリスが少年姿の日本をけしかけて、左のロシアが火で焼いている食べ物を取りに行かせている。
大国を現す2人は、いかにもにくにくしげで、少年にはとても手ごわそうな相手である。日本人は当時自らの姿をこのようにイメージしていたようだ。写真、画及びこの文は、Aの絵葉書画像同様に、私の蔵書『週刊朝日百科日本の歴史』104より借用したものだが、なかなか面白い画ではある。


冒頭①の絵葉書は、1910年(明治43年)
ロンドンでの日英同盟記念エキジビジョン日英博覧会)の時のものである。この同盟も、第一次世界大戦終了後の1922年(大正11年)ワシントン会議にて破棄されることになる。

日本も巻き込まれた第1次世界大戦は、結果的には、当時の全ての帝国主義列強が二手に分かれて争ったものであった。この争いも、1918年(大正7年)11月11日、ドイツが連合国休戦協定調印により終結した(ドイツと連合国の休戦協定参照)。このことで、戦勝国では記念式典が相次いで行われ、日本でも、横浜の休戦条約祝賀会(11月26日)では、海上の軍艦はイルミネーションで飾られ、市中では赤穂義士に扮した一行がカイゼル(ドイツ皇帝)の首を掲げ凱旋したという。その後、1919年(大正8年)1月18日より、フランス・パリにて「五大大国」(主要連合国=アメリカ・イギリス・フランス・イタリヤ、日本)中心の講和会議が開催(~6月28日)され、同年6月28日、ベルサイユ宮殿にて講和条約調印。翌7月1日、逓信省は、ヴェルサイユ条約調印を記念して、平和記念切手・絵葉書を発行した。それが以下のものである。
平和記念絵葉書(1918年6月28日、逓信省発行、2枚組み)

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②平和記念絵葉書(逓信省発行)③平和記念絵葉書(逓信省発行)

②は「少年少女の図」である。これは、刷り職人が越前和紙バレンを使って手刷りしたものである。
③は「収穫の図」である。これは、西洋風に木の
年輪面に彫った木口木版であり、当時では非常に目面しい技法で作られたものである。
 

平和記念絵葉書(1918年6月28日、逓信省発行、2枚組み)

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④平和記念絵葉書
「平和記念・大正八年七月一日」
⑤平和記念絵葉書
 「講和調印式場ベルサイユ宮殿」
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⑥平和記念絵葉書
「海上の覇王?トシテ全世界ニ・・」

④~⑥も平和記念絵葉書であるが、②③の2枚とは異なり、逓信省発行のものではない。
④はベルサイユ宮殿での調印式参加国国旗。
⑤は、講和条約の調印式場「ベルサイユ宮殿」とその上の人物は、右から
仏国首相クレマンソー”米国大統領”ウイルソン”日本大使”西園寺侯”英国首相”ロイド・ジョージ”である。
⑥は字の上に記念切手が貼ってあって読めないが「海上の
覇王?トシテ全世界ニ・・」(横須賀海軍鎮守府検閲済)とある。

第一次世界大戦終了後の1919年(大正8年)1月18日よりパリ で開催された「
パリ講和会議」は、日本にとっては、始めて大国の中の一国として参加した国際会議であった。会議は、同年6月28日ベルサイユ宮殿における調印式により幕を閉じる。しかし、この講和会議での重要事項の殆どは、ビッグスリーと呼ばれるアメリカのウイルソン、イギリスのロイド・ジョージ、フランスのクレマンソーの独裁的なやり方によって決められ、他の諸国からの不満が絶えなかった(※1:「世界史の窓」のパリ講和会議参照)。日本も自国に利害のある問題しか発言せず、ベルサイユ条約によって、赤道以北の南洋諸島を委任統治領として獲得したが、アメリカの排日移民法に対抗する人種平等案は実現しなかった。
山東半島でのドイツ権益(膠州湾租借地)を日本に譲渡することは講和会議中に認められたが、このことが、中国民衆の怒りを買い、五・四運動が起きた。そして、ベルサイユ条約での規定に反対した中国代表は条約に調印しなかった。又、アメリカでも上院がベルサイユ条約に批准することを拒否した為、結局、東アジア・太平洋問題は何らの決着が見られないまま、ワシントン会議に持ち越されることになったのである(※1:「世界史の窓」の山東省/山東問題参照)。
 日本は、日英同盟があるからこそ、第一次世界大戦に参戦したのであるが、イギリスは、ドイツの敗北によって、日本との同盟維持の必要性が薄らいでいた。一方の日本は、
日露戦争終結後、同国との関係を好転させ、日露協商日露協約及び※1:「世界史の窓」の日露協約も参照)等を結んでいたものの、そのロシアは革命により日本の同盟国とはいえなくなっていた。又、アメリカは、日本のこれ以上の膨張を阻止したいと考えていた。このように、第一次世界大戦終了後、日本の国際環境が著しく変わってきていた中で、ベルサイユ条約による国際秩序維持体制に欠けていた部分を解決する目的で、九カ国(アメリカ・イギリス・日本・フランス・イタリアの五カ国と中国・オランダ・ベルギー・ポルトガル)が集り、アメリカのワシントンにおいて国際会議が開催された(ワシントン会議)。しかし、このワシントン会議は、完全にアメリカのペースで行われ、ここで成立した条約は、アメリカが狙いとするものが大部分を占めた。この会議では、このアメリカ主導による列強の共同戦線に対して、日本は完全に孤立し、日英同盟は廃棄され、山東における日本の権益も否定されることとなってしまった(※1:「世界史の窓」のワシントン会議参照)。その後、日本はこの、ワシントン体制打破を唱え、ベルサイユ体制打破を唱えるドイツ・イタリアと共同歩調をとるに至ったのである(※5 参照)。日・独・伊三国同盟の始まりである。
日清戦争終結~第一次世界大戦終了迄の主要な歴史的出来事は※6 の年表を見られるとよい。
参考:
※1:世界史の窓

※2:公文書にみる 日本のあゆみー国立公文書館

※3:平成12年版 通信白書

※4;(株)タカハシスタンプ商会HP

※5:ヴェルサイユ体制の問題点

※6 :年表:日清戦争終結~第一次世界大戦終了迄の主要な歴史的出来事を時系列であげると以下のようになる。
1894年08月01日
 日清戦争  勃発(清国に宣戦布告)。
1895年04月14日
  日清戦争終結(下関条約調印)。
1901年12月23日
  日本、日露協商交渉打切り。
1902年01月30日
  日英同盟条約調印。
1904年02月10日
  日露戦争勃発。
1914年06月28日
  サラエボ事件(オーストリア皇太子夫妻暗殺)。
1914年07月05日
  ドイツ、オーストラリアの対セルビア強攻策支持を約束。
1914年07月28日
  第一次世界大戦勃発(オーストリア、セルビアに宣戦布告)
1914年08月03日
  ドイツ・ベルギーへの浸入開始(対仏戦線布告)
 1914年08月04日
  イギリス、ドイツに宣戦布告。
1914年08月23日
  日本、対独参戦・宣戦布告(第一次世界大戦参加)
1917年03月15日
   ロシア、二月革命(皇帝ニコライ2世退位、ロマノフ朝滅亡)
1917年11月07日
  十月革命 (ソビエト政権成立)
1917年04月06日  
  アメリカ、対独参戦。
1918年03月
  ドイツ軍が西武戦線で大攻勢。
1918年06月07日
  連合国、日本政府に、シベリア出兵を求める第2回共同定義。
1918年08月02日
  日本政府、シベリア出兵宣言。
1918年08月04日
  日・米両国がシベリアでの共同行動を宣言。
1918年08月
  この頃、ドイツ軍西部戦線での敗北が始まる。
1918年11月09日
   ドイツ革命
1918年11月11日
  ドイツが連合国と休戦協定調印(大一次世界大戦終結)。
1919年01月01日
  ドイツ共産党創立。5日、ドイツ労働党(後のナチス)結成。
1919年01月18日
  パリ講和会議開催(~6月28日)
1919年04月28日
  パリ講和会議総会で国際連盟規約を採択。
1019年04月30日
  パリ講和会議が日本の膠州湾・山東省のドイツ全利権引渡し要求を承認。
1919年05月04日
  中国で五・四運動起こる(山東問題で学生中心の反日運動が始まる。)
1919年06月28日
  ベルサイユ宮殿にて講和条約調印(中国は調印拒否)