cyo-kottou10

①コレクションの貯金箱

e-nennga02
e-nennga01

②コレクションの絵葉書

③コレクションの絵葉書


まぐろ奉納
奉納されたマグロに
さい銭を張りつける参拝者
8日午前西宮神社。
神戸新聞朝刊より

毎年、商売繁盛を願う「十日えびす」が今日9日~始まる前に、えべっさんの総本社、西宮神社西宮市市社家町(※1、※2参照)で8日に恒例の「招福大まぐろ奉納式」が行われた。マグロに硬貨が張りつく様子から「お金が身につく」とされ、参拝者はさい銭を張りつけて金運上昇を願う(左写真参照)。神戸市東部水産物卸売協同組合(※3)などが大漁を願い、1970年から毎年奉納。刺身にすると約1200人分になる全長2,3m、重さ230㎏の鹿児島産本マグロである。十日恵比寿最終日のの11日まで飾られる。
同神社では、1月10日の早朝6時には、壮麗な朱塗りの「赤門」
から勢いよく飛び出してきた男たちが、本殿までの200メートルを脱兎の如く駆け抜けていく「福男」選びの映像がTVで放映されるので見られた方は多いだろう。恒例の「開門神事福男選び」である(※2西宮神社HPのここ参照)。

十日えびすの、前日の9日は「宵えびす」、10日は「本えびす」、11日は「残り福」と呼ばれ、この本えびすの早朝に行われる「福男選び」が、今では、当神社の最大の祭事となっている。
この福男選びのルーツは古く、
鎌倉時代に迄さかのぼるというが、もともとは、「十日えびす」の朝、えびす神の信者たちが「参拝一番乗り」をしようと、自宅から神社まで走って参った・・・というのが起源だといい、現在の「門前に集まり、開門を待つ」という形になったのは、江戸時代に入ってからとのことだそうだ。今でこそ「神事」だが、元々は、庶民の えびす神信仰の中から自然発生したものなのだが、今では、マスコミ報道等により、全国区のイベントになり、参加者も増え続け、参加者が多すぎ、そのため事故まで起こることがある。
この西宮神社は、通称「えべっさん」の名で親しまれている商売繁盛の神で、毎年、十日えびす(1/9~11日)には、100万人を越す人出で賑わっている。全国3000社のえびす神社の総本社である。大阪の
今宮戎神社がTV放映などされ有名であるが、実は本家はこちらである。今宮戎は、昔は、今西宮戎神社、つまり(今=新しい)西宮戎神社と呼んでいたものが、短縮され今宮戎になったもので、後に作られたものとの事。西宮よりも商都大阪にあるため、商売繁盛で賑ったのだろう。
 西宮神社の祭神は、第1殿・西宮大神(
蛭子命)を主神に、第2殿が天照大神・第3殿が大国主大神須佐之男大神を祀る。もとは、廣田神社摂社だったが、今は独立している。西宮神社はすでに平安時代に当社地に鎮座されていたことは、境内より出土の蓮華文古瓦により明証され、また平安時代の百科事典である『伊呂波字類抄』にも記されており、同時代末期にはすでに皇族、貴族が拝観に訪れていたとされている。
 中世以来えびす神を福徳の神とする信仰が広まり、大漁満足・海上安全・商売繁昌に霊験ありと全国に知られていったが、その効を一層深めていったのは、神社の
社人として境内の北隣に住居していた「傀儡師」(人形使い)がえびす神の人形操りを行って津々浦々に巡回していったことも大きな要因となっており、人形操りの祖神として百太夫神が境内に祠られている。新春の初詣(1月1日~3日)のあと、5日午前11時から「百太夫神社祭」というお祭りがある(※2のここ参照)。この傀儡師の人形操りが淡路人形浄瑠璃文楽)や大阪文楽の源流と言われている。
江戸時代に入り、
徳川家綱の寄進により本殿(三連春日造76平方メートル)が再建されたが、これを契機として全国各地に頒布していた恵比須神の神像画札の版権を徳川幕府から得、現在も全国に配布されているという。
 本殿は昭和20年戦災で焼失。昭和36年総桧造で元の姿に復元されたが、さきの
阪神・淡路大震災で大きな被害を受けた。しかし、本殿及び拝殿はもとより、赤門・南門・北門・大練塀他一切が4年の歳月をかけて復興されている。
西宮神社では、日本第一の大神事として、みこし渡御(『西宮まつり』と呼ばれている。※2の
ここ及び西宮まつりの歩み参照)を400年ぶりに復活。 この神幸は、えびす様の御神像を兵庫県神戸市兵庫区にある和田岬の沖で得たという御鎮座伝説に由来するもの。
その壮麗な御神幸は、往路は幾艘もの船を旗や幕で飾り、海上所狭しと連ね海上渡御を行い、和田岬の
御旅所では時節の花を飾り、舞などを奉納した後、帰路は馬を連ね陸路をその日のうちに帰っていた。これを産宮参り(うぶみやまいり)と呼んでいる。
このみこし渡御のことは、
平家福原に都を遷(うつ)した時代(治承4年=1180年)に中山忠親が記した日記『山槐記』や国宝『一遍上人絵伝』(1289年 )などからも伺うことができる(※4参照)というが、織田信長の介入によって船渡御が廃絶してしまい祭典のみが例祭として斎行されてきた。昭和29年からは例祭の後、神輿行列が巡行する渡御祭が再興されたが、平成7年の阪神・淡路大震災以降中断。平成12年、震災復興記念として約400年ぶりに海上渡御を実現し、西宮まつりと名付けられている。
ここの御祭神・西宮大神(蛭子命)は、先にも述べたが全国のヒルコ系えびす神社の総本社である。(
事代主系えびす神社の総本社は出雲美保神社)。
 「えびす」は恵比寿・恵比須・愛比須・夷・戎・海老主などと書くが、蛭子と書いてもえびすと読むが、「蛭子」は「ヒルコ」という読み方が本来のもの。このヒルコとは日本の
国産み(くにうみ)の神様である、伊弉諾(イザナギ)・伊弉冉(イザナミ)二神の最初の第一子で、生まれて3年たっても足がたたなかったための船に乗せて流される。
流された蛭子神が流れ着いたという伝説は日本各地に残っている。『
源平盛衰記』(剣巻)では、摂津国に流れ着いて海を領する神となって夷三郎殿として西宮に現れた(西宮大明神)、と記している(※5参照)。日本沿岸の地域では、漂着物をえびす神として信仰するところが多い。ヒルコとえびす(恵比寿・戎)を同一視する説は室町時代からおこった新しい説であり、それ以前に遡るような古伝承ではないが、古今集注解や芸能などを通じ広く浸透しており、蛭子と書いて「えびす」と読むこともある。
現在、ヒルコ(蛭子神、蛭子命)を祭神とする神社は多く、西宮神社の他
和田神社(神戸市)などで祀られている。
蛭子命を祭神とする和田神社由緒には「蛭子大神が淡路を出て本土に上陸された最初の地が和田岬でそこにあった森を『蛭子の森』と云い神代の昔に蛭子大神が祀られた西摂最古の聖地です。
古く西宮神社が《産土参り》と呼びこの地に渡御をされていたのはこの由緒によるものです。」とあるそのことは、寛政年間に書かれた『
攝津名所圖會』(巻之八 八部郡 上)にも書かれている(※6のここ参照)。

我が地元
神戸では、兵庫区柳原町にある「柳原蛭子神社」も福の神「柳原のえべっさん」の愛称で知られている(この神社も『攝津名所圖會」 八部郡 下に記載あり、6のここ参照)。その最大の祭典は隣町西宮市の「西宮神社」と同じく、本日から始まる「十日えびす」だ。九日は宵えびす。十日が本えびす。十一日は残り福。その3日間で約30万人もの参拝者が訪れ参道から境内にかけては人の波が押し寄せる。地元では「十日えびすが済まないと商売に身が入らない」と一年の吉を願う人々が次々に訪れる。
JR兵庫駅から蛭子神社に向かう道を隔てて向かい側にある福海寺は、釈迦如来を本尊に、足利尊氏が、建武年間(1334~35年)に、在庵円有に開かせた禅宗南禅寺派の寺院で現在は大黒柱を祀っている。ここでは十日恵比寿の期間に合わせ「大黒祭」が催されている。つまり、本日から3日間に両社寺を巡れば要領よく一度に「えべっさん」と「大黒さん」の2倍の御利益が得られることになる。
本日の宵えびすの目玉行事神楽殿で「地元有志「戎舞奉賛会」で催される恒例の奉納神事「福神楽戎舞」だ(蛭子神社HPの
ここ参照)。これは酒を飲み、上機嫌になったえべっさんが福を運び、船に乗り込んで人々に福を授ける「めでたしめでたし」という逸話で、淡路人形浄瑠璃の使い手がユーモラスに演じて蛭子神社の名物になっている。宵えびすで福を授かり、冷え込む景気や、先行きの不安を吹き飛ばしたいものである。

えびすは、日本古来の唯一の七福神とされているが、
広辞苑』にも、「夷・戎」(エミシの転)、都から遠く離れた開けぬ土地の民との意があり、海を渡ってきた外来神のことではないか・・・とも言われている。
 傀儡子は、
海人族の流れを汲み、各地の港や街道をめぐり、人形、歌舞などの芸を演じた、芸能者集団であるが、西宮神社にも、はやくから海人族、傀儡子が属し、芸能集団をなしていたそうである。このことについては、昭和61年NHK大河ドラマ「武蔵坊弁慶」の原作(冨田常雄、講談社)にも、西宮神社と海神とのかかわりが書かれていたことを記憶している。
 古来、
農耕民族日本の歴史は、本土の農民社会を中心に描かれており、海で生活するものは海人(時には海賊)、山で生活するものは山人(時には山賊)と呼び蔑視していた。しかし、日本の商業の始まりは、山で猟をするものや海で漁や海外との貿易をするものが、都へ出てきてで商いをしたのが始まりと言われている。特に海人は諸外国との貿易もしており、商いは活発であった。それが証拠に、江戸時代以降財をなした三井住友も海人の出である。えびすさんが、漁業の神、商売の神として、賑わってきた由縁だと考えている。
 冒頭画像①は、私のコレクションより、土もののえびすと大黒の貯金箱である。よく知られている図画であり、昔の貯金箱には、この図画が多かった。
②③はコレクションの年賀用の絵葉書で、かってよくあった雑誌の付録かもしれない。現在では
七福神の一員として日本古来の唯一といわれている(その他はインドや中国由来)の福の神である「えびす(恵比寿)と大黒」。
恵比寿も大黒も絵葉書に見られるように福の神らしく、小太り(今は痩せが流行っているがかっては 小太りが豊かさのシンボル)で、
狩衣を着たにこにこした福耳(耳たぶが大きく肉の厚い耳。福相とされる)のおじさんといった感じで描かれる。
一般にえびす=恵比寿は
烏帽子(えぼし)を被り釣り竿を担いだ神像によっても伺えるように、元来は漁民の間で、古くより「寄り神」として海浜に祀られ、漁師が大漁を祈っていたが、海産物の売買により市の神、商売繁栄の神として、広く商家にまで信仰されるようになった。またこのように、七福神の大黒天と対で祀られることが多い。大黒天はヒンドゥー教シヴァ神の化身であるが、日本古来の大国主命の習合。大黒柱と現されるように食物・財福を司る神となった。大黒天の被っている低い頭巾は大黒頭巾焙烙頭巾の異称)と言われるもの。
②は
門付(かどづけ) 芸 の一つ「万歳」か?正月に家々を訪れ祝言を述べて米や銭を請う。平安時代末から室町時代には千秋万歳 、物吉(ものよし),松囃子などといった祝言職が現れ,年の初めに禁中や諸寺,諸家に伺候して祝福の芸を演じ,また村々をめぐり歩いた。
江戸時代になると祝言職の種類がさらに増え,万歳,
節季候(せきぞろ),うばら,つるそめ,えびす舞,大黒舞太神楽春駒鳥追などと多種多様になり,年末から年始にかけて諸国をめぐり歩き,訪問先で祝福芸を演じて生活の糧を得たようだ。三河萬歳の源流と言える。 ③は、商売繁盛の図柄である。

book-喜多川歌麿 風流風俗画1本当は私の大好きな喜多川歌麿浮世絵に恵比寿の図柄があった(左の本。内容は参考※7参照)のだが、画像をここへ貼付するのは遠慮した。さすがに歌麿の浮世絵綺麗だ。以下参考※8の以下を見られるとよい。
71.
恵比寿大黒と母と子
72. 恵比寿大黒の七草
73. 恵比寿大黒の万歳
74. 恵比寿大黒の初餅
75. 恵比寿大黒の料理
歌麿がこんな絵を描いていると知らなかった。



参考:

※1:
西宮神社 西宮えびす神社

※2:西宮神社(西宮えびす神社)HP


※3:神戸市東部水産物卸売協同組合 - 神戸市東部中央卸売市場

※4
河内厚郎の文化回廊:22日・西宮で海上渡御 /兵庫 - 毎日新聞

※5:童子神の変容-水蛭子から夷三郎殿へ中村一基、岩手大学教育学部研究年報第51巻第1号(1991年10月)

※6:攝津名所圖會

※7喜多川歌麿 風流風俗画Ⅰ: 152作品掲載 Kindle版

※8パブリックドメイン美術館 浮世絵 歌麿 風流、風俗画Ⅰ