pa-七つの顔の銀次

①大映映画『七つの顔の銀次』パンフ


上掲①の画像は、1947年(昭和22年)、大映映画株式会社、制作担当専務取締役に就任した川口松太郎の小説を犬塚稔が脚色し、三隅研次が監督した大映映画『七つの顔の銀次』のパンフ表紙である。
画像は主演
長谷川一夫(銀次役)と、銀次がひそかに心を寄せている宮内省の官吏の娘住江京子役の香川京子である。
長谷川演じる主人公は、
スリ全盛時代の明治末期を代表するスリの大親分、仕立屋銀次こと富田銀 次(1866年5月1日〈慶応2年3月17日〉- 没年不明)。
この映画では
文明開化の明治を舞台に、紳士に書生に遊び人と、七つの顔を持つ男の活躍を描いたハードボイルドなものとなっている。男気があり、頭もよくて、度胸もある、シャーロック・ホームズの如く鹿撃帽を被り とんびコートを身に付けた長谷川がハイカで格好良かった(映画のことは。Movie Walker参照されるとよい)。
歌舞伎
女形出身の時代劇の大スターであった長谷川にとっては、山田五十鈴との「鶴八鶴次郎」(1938年 東宝。Movie Walker参照)や、季香蘭との「白蘭の歌」(1939年東宝映画(現在の東宝)と満洲映画協会の合作)「 支那の夜」(1940年)など数少ない現代劇の一つである。
この映画が公開されたのは、1955年(昭和30年)2月12日のことであった。
スリ(掏摸、掏児)というのは、他人の懐などから金品などを気づかれないようにかすめとる行為、また、それを行う者を言うが、刑法上は
窃盗罪の一種である。
あの
盗賊として有名な石川五右衛門について、安土桃山時代から江戸時代初期の20年ほど日本に貿易商として滞在していたとうアビラ・ヒロンの記した『日本王国記』には、かつて都(京都)を荒らしまわる集団がいたが、15人の頭目が捕らえられ京都の三条河原(三条大橋参照)で生きたまま油で煮られたとの記述があり、ここにイエズス会宣教師として日本に滞在していたペドロ・モレホンが注釈を入れており、この盗賊処刑の記述に、「この事件は1594年のことである。油で煮られたのは「Ixicava goyemon」とその家族9人ないしは10人であった」と記してあり、釜茹での刑に処されたのが石川五右衛門であるとしている。
又、
戦国から江戸時代初期の公家山科言継の日記『』の文禄3年8月24日の条に、「正午天晴、盗人スリ十人また一人者釜にて煮らる」とあり、この1人煮られたのは五右衛門であるが、ここでは、盗人とスリとを区別している。当時のスリ、無頼の徒は道行くひとにすりよって悪事をなし、携帯品をかすめ取るので、スリと呼ばれていたが、貞享、元禄頃、「巾着切り」の名前になって巧妙化したようだ。
このスリ・巾着切りのことを、『摂陽奇観』』(※1参照。浜松歌国編)巻四十六には、「或日チボ四人、
道頓堀島之内辺を騒がし」とあるように京阪神地方では「チボ」ともよぶ。
明治以前、スリは町人の町全盛時の
大坂に多く、技量の点でも上方がスリの本場であったようだが、明治維新となり、東京に人口が集中し、スリの恐れた武士の帯刀が禁じられ、富豪も増えたことから、スリも上方から東京に所がえするものが多くなり、明治20年頃、京阪のスリが非常に多く東京に集まっていたようだ。当時、東京には仕立屋銀次などスリの三大勢力があったようで、警視庁もこれらすり集団に相当苦慮していた模様である。
私の蔵書『朝日クロニクル週刊20世紀』1908-9南郷(050)には『「すりの親分「仕立屋銀次」捕まる』と題して以下のような記事が掲載されている。

奇怪窮まる現象」東京市民は憤慨していた。白昼公然とスリが跋扈しているにもかかわらず、東京市内で彼らの親分が捕まったことがない。
それもそのはず、警察の中には、一味と結託する者、利用する者があり、万逸親分が検挙されても子分が所轄管内に入り込み、窃盗、強盗、強姦、放火、スリと、不法の限りを尽くして陰に恐喝する。脅しを恐れて方面するのが常なのだ。
中でも仕立屋銀次こと富田銀蔵(44)といえば、「日本一にて次いで、湯島吉あり、深川に穴倉の三あり、山の手に伊藤あれど、近来縄張りの範囲
紊乱し、銀次は以前箱師(社内専門のスリ)を専門とせるが、近頃は各地各方面に手を広げ、家に充満に近き財産を蓄えて、本所区に数十戸の地所家作を有し、さながら大富豪の生活をなし居れり」(東京日日新聞)。
元は
屋だったが、根岸に住むスリ親分清水の娘と結婚し、19年前親分となった。東京市内だけで、子分は250余人、京阪神から、上京したスリも必ず銀次の元に寄って渡りをつける。財産をなした上は、北豊島郡日暮里村の村会議員となり、名誉職を利用して上流社会に入り込んで一大悪事を、と銀次は深謀遠慮めぐらしていた。
1909年(明治42年)6月21日、午後7時ごろ、
赤坂に住む柏田盛之・前新潟県知事が、帯に挟んだ伊藤博文公からの記念の金時計を電車内ですりとられ、赤坂署に届け出た。本堂四朗(※2の人と思われる)所長は、「どんな事情が警察の一部とスリ仲間との間にあるか知らないが、断じて姑息な手段に出ず、この好機を利用して一大検挙を行う」と、大英断を下した。
銀次は
日暮里村の大邸宅にの広瀬お国(38)を囲い、ここを本営と定めて寝起きし、日夜男女の子分50余人が出入りしている。23日午前10時、2人の刑事が巡査6人を従え、裏表から踏み込んだ。
さすがの銀次もあわてふためき、子分らを戸棚、床下に隠し、下男下女を出して応対させたが、ついに覚悟を決めて縄についた。
隠した子分ら8人も呼んで悪びれもせず引き立てられたが、その時の格好は丸顔五分刈り、鼻下に八字ひげをたくわえ、フラノ(
フランネの一種で、やや厚地の毛織物)の単衣セル単羽織、鼠縮緬兵児に紺足袋(たび)をはき、黒の山高帽、左の薬指に白金の指輪、甲斐絹細巻の洋傘と、一見立派な紳士であった。
赤坂署では、所長自身が銀次らを取り調べ、一方で子分やその他親分株も次々と検挙した。銀次は例のごとく、「今度だけは許されたい」と
哀訴嘆願したが、署長は、はねつけ、「警察界の大痛快事!」と、市民は拍手喝采した。
捜査が進むにつれ、一大
秘密結社のような大掛かりな組織が浮かび上がった。金融機関として質屋を開かせ、故売人と連絡して関西と盗品の交換をする。盗品変造には貴金属商、紺屋仕立屋などがあたり、文書の往復や盗品の送受に通信機関を設け、電話を架設し、遊興には待合を開いて芸妓出張所を営業し、社会的には赤十字社功労者となるなど、警察の目を巧みに逃れたのだった。
検事局に護送された銀次は、「判検事(ここ参照)から看守長、看守にいたるまで顔を知らないものはなく、懐入の策を施してきたのだから、恐れるところはない。赤坂署の手を離れた以上は、自分の体は自分のもの」と豪語した。しかし、1910年(明治43年)5月、銀次は懲役10年、罰金200円、7人の子分も懲役8年以下の実刑とされた。
・・・・と。
仕立屋銀次

②仕立屋銀次

左②の画像が仕立屋銀次である。
私の大好きな時代劇などでは美人の女スリが登場し、つかまってもお目玉程度で解放されたり、逆に、スリの特技を生かして善玉主役の手助けをして大活躍してみたり・・と、スリなどと言うと、ちょっとお金持ちから掠め取る程度の愛嬌のある犯罪などと考えるが、明治のころには、こんな凄いスリの親分がいたのだよね~。そして、凄くおおがかりな組織を作り、表面上は善人ぶっていたわけだ。
太平洋戦争で負けた戦後の日本では、焼け野原となった街で両親を失った子供たちの、食べてゆくためのスリならぬかっぱらいなどが横行していたが、当時街には、見ただけで、その筋の人とわかる人達もごろごろしていた。しかし、最近は、そのような一目で見て悪とわかるような人は見かけなくなった。日本を代表するような組関係などは、皆、表面的には色々な企業を経営しているようであり、日本の代表的な自動車産業・トヨ並みいやそれ以上の収益を上げているとも聞く。だから、そんな組織の下っ端が、つまらぬことに手を出して、警察の手入れが入ると困るので、そのようなことに手を出した下っ端などは組織の中で処理されてしまうのだとも聞いている。要するに、表と裏を使い分け表面上を見ただけは悪い奴がいなくなった。今や、官僚も政治家も、名のある大企業なども似たり寄ったりじゃ~ないのかな~。裏を覗くと・・・。いや、今の世の中見ていると、かえって、官僚や政治家などの方が逆に自浄能力がないのかもしれない・・・などと考えたりさえするのだが・・・。昨年都知事をやめた舛添のやっていたことなどは「せこい」だけだったのかもね~。

参考:
※1:
レファレンス共同データーベース『摂陽奇観』

※2:
最後の剣豪・本堂平四郎の波乱万丈な人生

※3: 「いまならいくら?(明治、大正、昭和の消費者物価)」