風神雷神図屏風

①俵屋宗達筆・屏風画「風神・雷神図」

上掲①の画像は、江戸時代初期の画家俵屋宗達筆の描いた屏風画「風神・雷神図」である。
風神・雷神図とは、風袋から風を吹き出し、下界に風雨をもたらす風神と、太鼓を叩いて雷鳴と稲妻をおこす雷神の活動の姿を描写する絵画であるが、俵屋宗達筆のこの屏風画が有名で、琳派の絵師をはじめ、多くの画家によって作られた模作や模写が多数ある。
風神雷神を一対として扱う像容は古くから
仏教美術において見られ、すでに、中央アジアから北インドにかけて、1世紀から3世紀頃まで栄えていたというたイラン系カニシカ王統治下の王朝クシャーナ朝では疾駆する風神を描いたコインが作られているそうだ(風神の図像の変遷参照)。また、敦煌石窟(中国の敦煌郊外、鳴沙山の山腹にある石窟寺院莫高窟)の壁画では風袋を携えた、風神と太鼓を輪形に並べて捧持する雷神が描かれている。
以下の敦煌莫高窟第249窟の窟頂西、正面上部に描かれている
阿修羅の左右に向かい合っている風神雷神参照。なにか、顔は動物のものである。

敦煌と莫高窟

なお、風神の図像の変遷の中央には、キジル石窟の風神( タリム盆地)は、中国でも一番西に位置する地域、現在の新疆ウイグル自治区にある多くの千仏洞の一つキジル千仏洞で見られるもの。同地域は、イスラム教を信仰するウイグル族など多くの民族が暮らしており、仏教徒がほとんどいない地域である。建築方法や壁画はその多くがインドペルシア風、であり見方によっては西洋風(ル・コック。※1参照)でもあるが、早期の仏教美術が残っている。
歴史的には、キジル石窟が造られたのが3世紀の中頃から8世紀の間とされており、その時代にこの地を支配していたのは古代仏教王国の
亀茲(きゅうし)国であった。亀茲国は早い時期から仏教を信奉しており、4世紀中頃の『出三蔵記集』には「時に亀茲の僧衆一万余人」、「寺が甚だ多く、修飾至麗たり。王宮は立仏の形像を彫鏤し、寺と異なるはなし」などと記録されているそうだ。
亀茲国にいつごろ仏教が伝わったのかは明らかでないが、中国側の史料によれば、すでに3世紀末から4世紀初めにかけて相当数の亀茲出身の僧侶が中国で仏典翻訳に従事していたという。中でも有名なのが4世紀前半から5世紀前半に活躍した亀茲出身の
鳩摩羅什(クマーラジーヴァ)である。

風神・雷神図は、日本ではどちらも
力士様に描かれ、京都三十三間堂の木造風神・雷神像は鎌倉時代の作で国宝である。以下参照。

三十三間堂 
木造風神像   同木造雷神像

冒頭に掲載の「風神雷神図は、2曲1双、紙本金地着色で、京都府京都市東山区にある臨済宗の建仁寺派大本山建仁寺所蔵のもので、現在は、京都国立博物館に寄託されており、建仁寺には精密なレプリカが展示されている。
落款、印章はないが、宗達の真筆であることは確実視されているようで、国宝に指定されている(国宝絵画の一覧)。
製作年については17世紀前半の寛永年間、宗達最晩年の作とする説が有力だが、
法橋印が無いことや、おおらかな線質が三十三間堂の東向いにある養源院の白象、唐獅子、麒麟を描いた杉戸絵(重要文化財。以下参照)と共通することから元和末期(1624年)頃の作とする説もあるようだ。

第九回 重要文化財 養源院の襖絵「松岩図」・杉戸絵「白象図ほか」 講師=林 進

宗達の最高傑作と言われ、彼の作品と言えばまずこの絵が第一に挙げられる代表作である。また、宗達の名を知らずとも風神・雷神と言えばまずこの絵がイメージされる事も多い。現在では極めて有名な絵であるが、江戸時代にはあまり知られておらず、作品についての記録や言及した文献は残されていないようだ。
京都の豪商で
歌人でもあった糸屋の打它公軌(うだ きんのり、? - 正保4年[1647年])が、寛永14年(1637年)からの臨済宗建仁寺派寺院妙光寺(糸屋菩提寺)再興の記念に妙光寺に寄贈するため製作を依頼したとされる。後に妙光寺住職から建仁寺住職に転任した高僧が、転任の際に建仁寺に一諸に持って行ったという。
この絵は、画面の両端ぎりぎりに配された風神・雷神が特徴であり、これが画面全体の緊張感をもたらしているが、その扇形の構図は扇絵(
に描いた絵)を元にしていると言われる。小説家三島由紀夫はこれを評して、「奇抜な構図」と呼んだという。
風袋を両手にもつ風神、天鼓をめぐらした雷神の姿は、
北野天神縁起絵巻(弘本系)巻六第三段「清涼殿落雷の場」の図様からの転用であるが、三十三間堂の風神・雷神像からの影響もしばしば指摘されるとWikipediaにはある。
それで、『北野天神縁起絵巻』(弘本系)巻六第三段「清涼殿落雷の場」の図はネットで検索しても見当たらなかったが、『北野天神縁起絵巻』承久本巻5の雷神が
清涼殿藤原時平を襲う様子を描いた画はあった(清涼殿落雷事件及び※2参照)以下②の画がそれである。
清涼殿落雷事件

②『北野天神縁起絵巻』(承久本巻)に描かれた清涼殿落雷事件

画像はクリックで拡大。向かって左端に雷神と藤原時平(ここ)が描かれている。
しかし、宗達は元来赤で描かれる雷神の色を、風神との色味のバランスを取るため白に、青い体の風神を同じ理由で緑に変える等の工夫を凝らし、独創的に仕上げている。金箔銀泥顔料の質感が生かされ、宗達の優れた色彩感覚を伺わせるほか、両神の姿を強烈に印象付けている。特に重要なのは、たらし込みで描かれたの表現である。
絵の中であまり目立つ存在ではないが、二神の激しい躍動感を助長し、平坦な金地に豊かな奥行きを生む役割を果たしている。宗達は墨に銀泥を混ぜて使用する事で、同一の画面に墨と金という異質な素材を用いる違和感をなくし、柔らかく軽やかな雲の質感を描き表しているという。
代表的な模写された作品には、
尾形光琳の屏風画「風神雷神図」(東京国立博物館蔵。説明はここ参照)
酒井抱一の屏風画「風神雷神図屏風」二曲一双(出光美術館蔵説明はここ参照)
・抱一の弟子鈴木其一が描いた「風神雷神図襖」(絹本着色、全8面、東京富士美術館蔵。ここ参照)などが挙げられる。以下で、俵屋宗達のと尾形光琳、酒井抱一の絵を比較して見られるとよい。

■ 俵屋宗達 Tawaraya Sotatsu

ところで、京都五山の第3位に列せられ、俵屋宗達の「風神雷神図」や、海北友松の襖絵などの文化財を豊富に伝える建仁寺。山号を東山(とうざん)と号し、本尊は釈迦如来
この寺の開基(創立者)は鎌倉時代前期鎌倉幕府第2代将軍源頼家であり、開山は栄西である。
建保3年7月5日(1215年8月1日)は建仁寺を創建した、榮西襌師の忌日である。は、明菴(「菴」は俗字「庵」を用いることがある)、が栄西(えいさい)である。 
寺伝では栄西は、比叡山で修行し、その後二度入宋(南宋)を果たし、帰国後、二代将軍・源頼家の庇護のもとで、京都東山の地に建仁寺を開き、日本にを伝えたが、同時に、中国から種を持ち帰って、日本で栽培することを奨励し、喫茶の法を普及した「茶祖」として知られている。
中国から持ち帰った茶種を京都・栂尾(とがのお)高山寺明恵上人(みょうえしょうにん)に分け与え、明恵上人は、高山寺の庭にその茶種を蒔き、育った茶樹から採取した茶種を茶の生育に適した宇治の地に蒔いた・・・これが宇治茶の始まりという。(高山寺に栄西から贈られた茶を植えた日本最古の茶園が残るという。※3参照..)。
しかし、 この建仁寺のことでは、お茶の「茶祖」の話よりは、俵屋宗達「風神雷神図屏風」の話のことで知られている。
大胆な構図、そして、ユーモラスな風神雷神の表情・・・一度見たら忘れられない作品であり、この作品が「国宝」となっているのもうなずける。
俵屋宗達の描いた風神・雷神図は三十三間堂にある風神・雷神像をモデルとしたとも言われているようではあるが、三十三間堂の風神の顔は人間離れしたにも妖怪にも見える顔だが、宗達の絵では明らかに鬼として描かれている。
先にも書いたように、 風神雷神は6世紀に中国の敦煌)で描かれ、自然崇拝の神として崇められた。日本では、雷神は古代神でもある(雷と神話参照)。
私たちのような、素人にはよくわからないものの、この絵の表情はいい。何時まで見ていても飽かない。
煌莫高窟第249窟に見られる風神雷神の顔は,動物のようにも見えるが、風神雷神図(像)がどのような変遷を経て、今見られるようなものに変わってきたかは以下参考※4、※5を見られると、わかりやすく書いている。

 参考:

※1:西から東へ伝わった仏教文化:キジル石窟と鳩摩羅什

※2:北野天神縁起絵巻』承久本ー文化デジタルライブラリー

※3:日本最古の茶園 - 世界遺産 栂尾山 高山寺 公式ホームページ

※4:ガンダーラのギリシア式仏教美術 - 唐草図鑑

※5: 三十三間堂1~4ノ1 風神雷神の像